令和8年5月24日 夏井いつき 句会ライブ
さよならはどちらが先に秋の風
結婚十年目の女性の「夫と付き合っていた頃、デートの帰りにまだ一緒にいたくてどっちが先に『さよなら』言うかなって」との体験に、会場は共感の拍手。
すると女子中学生から「付き合っている相手がロクな男じゃなくて、サッサと別れるべきだと思っている女の子二人」説が出てくる。どっちが先に、ロクでもない男と別れられるか、との読みに、会場は爆笑の渦となる。
二列目にお座りの七十代の女性。ゆっくり語り出す。「これは、私と夫のことですわね。どっちが先に、この世とおさらばするか。おかげさまで、夫が先に逝きまして、私はこうして楽しんでおりますのよ」。会場は大爆笑と大拍手。
俳句とは、その字面を押さえていれば、どのように読み解いてもよいのだ。作者なりの事実や現実はあるが、それが正解ではない。自由に解釈することで、作品はますます豊かになっていくそれが俳句を鑑賞するという行為なのだ。

令和8年5月19日 第73回 日府展
第73回日府展は5月19日〜27日に東京都美術館で行われます。
授賞式に行きました。今年は新たに6人の生徒さんが、素晴らしい作品を出してくれた。
授賞式は他部門の方との会話が楽しみです。全国各地の先生方と芸術、技術情報など交換します。

増沢道夫 (常任理事・審査員)
緋色壺 三鈴賞 (初代理事長 児玉三鈴先生の記念賞)
増沢ふみ子 (委員)
五月雨 入選
湊 美由紀 (会員)
胡蝶 入選
早出 英喜 (会員) 諏訪湖 新人賞
高柳あかね (準会員)
閉域からの翅(はね) 努力賞
小口ちとせ (一般)
花の輪 新人賞
萩原 正代 (一般)
友への思い 奨励賞
宮坂由紀子 (一般) 水面の溜 奨励賞
山田 尚子 (一般)
碧(みどり)〜千歳緑 奨励賞


芸術は人に見てもらってはじめて完成するものではないでしょうか。ですから、出来た作品はどんどん発表したほうがよいと思います。自分の作品を他の人がどのように見るか、を知ることは、実技を磨くうえで大事なことです。

令和8年5月17日
炙り焚き用の柴を用意しました。

令和8年5月10日 灰被り
河井須也子 (河井寛次郎の長女)
忘られること願うかのように
ひっそりと仕事に生きて来し人
灰被りの窯詰が完了しました。
煉瓦で入り口を塞ぎながら、上下二か所の焚口を作り、モルタルで隙間を埋める。

令和8年5月7日 窯詰完了
下諏訪町の諏訪湖岸に下諏訪博物館がある。その前庭に高さ140センチの自然石に、松本たかしの句碑が刻んである。
  雪嶺に三日月の匕首(あいくち)とべりけり たかし
たかしは明治三九年東京神田の生まれ、能楽の名家の出であるが、病弱のため家業を継がず、高浜虚子に師事して句作を始める。
句は昭和十九年天龍渓谷を歩き、伊那谷をのぼって諏訪に泊った時のもの。
2日で前の段の窯詰め、棚板11枚完成です。
緋色土・伊賀土 11×11 6×6 10×10 10×15 10×0

令和8年5月6日 朝間義隆 映画監督 続
その日の午後遅く、井原君の処分で開かれた職員会議の帰りに、二、三人の先生が上気した表情で部室に入って来ました。
「今日の会議はすごかったなあ」「そうそう、あの時の鵜飼さんー」会議はあっさり終わるはずでした。
教頭が事件の内容を説明し、校則に従った処分を読み上げ、校長が確かめて退学が決まるはずだった。ところが、鵜飼先生が突然発言を求めて立ち上がった。「お言葉を返すようですが、私は校長先生のご処分には反対でございます」一番びっくりしたのは校長で、顔を真っ赤にして怒り出したそうです。しかし、先生は少しもひるまず井原君を熱心に弁護しました。厳罰派の先生たちも心動かされ、反対多数で退学処分は否決されました。
それから私たちには、鵜飼先生が全く別の人格に映るようになりました。廊下で出会うと黙礼する生徒が現れました。授業中は嘘のように静まりました。ワンマン校長にたじろがず、自分を小バカにしている生徒の運命に奇跡をもたらした先生。そして、あの「お言葉を返すようですが」にお互いの胸を熱くしたのを覚えています。それにしても鵜飼先生のどこにそんなエネルギーが潜んでいたのでしょうか。「ひかえめだけど、強い人」鵜飼先生にこそふさわしい言葉です。
だけど私は、先生のことを思い出す度に、今までどれだけたくさんの素晴らしい人格を見かけだけに頼って見過ごしてきてしまっただろうと、とても寒々とした気持ちになってしまうのです。

第73回日府展の審査に行きました。今回、教室から私も含め9人(新人6名)が挑戦しました。
美術・工芸の展覧会は今、変化の時代です。ある文化を保持していた人間が健在なうちに、文化の方が影も形もなくなってしまうということは、これはどういったら良いことなのだろう。進歩と変革の速度を喜ぶべきなのか、それともうつろい方の余りの激しさを憂うべきなのか。AIが絵をかき、3Dプリンターで立体作品を作る。若い人達はネットで展示。また、漫画やイラスト等をどう考えるか。滅んだ文化は再生しないものだ。なぜなら他のものがとって代るからである。
審査風景。上位三つの賞は外部審査です。

令和8年5月5日 朝間義隆 映画監督
鵜飼先生は、私の田舎の高校の、さっぱり人気のない歴史の先生でした。鼻のつまった声とバカ丁寧な言葉で「後三年の役」のことなどを語るのです。先生が決して怒らないので、私たちは授業中勝手気ままに振る舞っていました。「ウガイのハナヅマリ」ーこれが私たちの命名した呼び名でした。
秋のある日曜日、とんでもない事件が起こりました。同じクラスの井原君が、女子高生と山で煙草を吸っているのを見つかり、補導されてしまったのです。私の高校はミッション系の校則の厳しい学校でしたから、女子高生との交際と喫煙という二重の違反を犯した井原君は退学になるだろうと噂で持ち切りでした。
「先生、井原君の事件についてこれからみんなで討論したいのですが」鵜飼先生に、クラス代表が申し入れました。先生は諦めたようにチョークを箱にしまいました。私たちは教壇を占領して井原君の人柄を讃え、男女交際を禁止するのはホーケン主義だと学校を弾劾した。鵜飼先生は終了ベルと共に教壇に戻り、「みなさんの友人への思いやりに、わたくし感動いたしました」と深々と礼をして廊下へ出て行きました。続く
中の段の窯詰めです。12×12 10×10 備前土 10×10黄土 10×10 粉引き 15×15 志野
棚板12枚。三日間で終了です。

令和8年5月4日 本因坊 渡辺文雄
本因坊のCさんと対談したのは本因坊戦の最中で、まことに具合の悪い日だった。かねてからかなり個性的な人物と仄聞していたので私は緊張していた。しかし、対談はまことに和気あいあいたるものだったが、辞去の挨拶をした時であった。
「どうぞ次の対局、頑張って下さい」瞬間、Cさんの表情が一変した。
「頑張れ?どう頑張れというんですか!現在私は充分に頑張っています。私のすべての力を動員して頑張っています。これ以上、どう頑張れというのです! はっきりと、具体的におっしゃってください!」
その場の空気は、一転してまっ白になった。
その空気の中で、私は思いしったのである。なんという空虚な、なんという空々しい、なんの心も籠らぬ言葉を不用意に口にしてしまったのか。Cさんは全身全霊をかけて、おそらくはその限界を超えたところまでの努力をしていたに違いあるまい。
その人に対して、まことに浅はかな世の慣例にのみ従った軽薄な一言。確かにこれほど心ない非礼な行為はあるまい。
だが、なぜに人はああまで簡単に「頑張って下さい」の一言を口にするのか。頑張るということは、本当はどういうことなのか。
それに気づかずに私は何を見ていたのだろう。満足を得られず悔いを抱えて、眠ろうと閉じた目の中に、桜は優しく揺れていた。

令和8年5月3日 伊賀焼 渡辺文雄
一枚の写真は、破れ袋と名付けられた国宝の伊賀焼である。これは偶然ですが、こちらは必然が作りましたと指さされた先にあるのは破れ袋を模した陶壺。本物に負けていない確たる佇まいである。
作者は伊賀常山窯の陶工で、釉薬つくりの恒岡精渥場の恒岡光興さん。精渥場は木の灰と藁灰と長石をベースにし、それにさまざまな鉱石などを混ぜて焼物の釉薬を作っているところ。精渥という言葉は渥抜(あくぬき)木灰からきている。
伊賀焼は千二百年前天平時代といわれ、五点の国宝がある。
「古伊賀は釉薬を使わないが、非常にカラフルです。緑色のガラスのように輝くビードロ、黄色い地肌は黄地とか生地といいます。黒いところはコゲ、このコゲのおかげで重い存在感を生み出しています。そしてこの型の微妙なユガミとカタブキ。これは二週間の窯焚き、温度は1350℃、他の窯より150℃は高い高温です。この偶然が創り上げた傑作を、今度は人間が必然で作り上げたい、それがプロというものでしょう。しかし、こうなってみて、やっぱり先人たちの言っていることが少しづつわかるようになりました」
窯詰を始めました。
奥の段 10×10 10×10 12×12 10×10
備前土の奥の段の窯詰め、棚板10枚。二日間で完了です。

令和8年4月29日 作品が集まりました
生徒さんと、窯焚き応援の人たちの作品も集まりました。
窯詰に使う材料をそろえました。いつもの、わら、貝、もみ殻、炭、灰、道具土、サヤです。
棚板にアルミナを塗り、貝を種類別に並べました。
道具土で作品の下に置くセンベイを作りました。
棚板を並べ水平と隙間の寸法を測ります。
ゼーゲルは奥の段の下(7・8番)と、前の段上(9番、10番)の合計2ヶ所。

令和8年4月26日 島崎藤村
島崎藤村の詩に親しむようになったのはいつのころからだっただろう。十代の前半だったことは確かだ。私はその美しい言葉とリズムにたちまち魅せられた。
中学生になった私は、父の黒く重い自転車に乗り、友人と二人、小諸に藤村の「千曲川旅情の歌」の碑を訪ねた。
母が握ってくれたおむすび四つを持ち、早朝出発。片道六十キロはある砂利道だった、和田峠を越えて和田村から大屋に着いたのはまだ昼前、順調だった。そこで歴史好きな友が真田幸村を訪ねたいと上田市に十キロほど寄り道することになった。
上田市でお昼、小諸懐古園についたのは三時ころか、帰り道は上り坂が続く山道、暗くなった峠道は街灯がない。
自転車のライトは車輪の回転で明るくなるもので、漆黒の闇の中、自転車を押す。時々通るトラックのライトで道が見えるが、ほとんど手探りで峠の頂上に、家に着いたのは夜十時頃だったと思う。六十五年も昔の話だが「この命なにをあくせく」と、あらためてそんな想いにひたった。

昨日またかくてありけり 今日もまたかくてありなむ
この命なにをあくせく 明日をのみ思いわずらふ
いくたびか栄枯の夢の 消え残る谷に下りて
河波のいざよう見れば 砂まじり水巻かえる
嗚呼古城なにをか語り 岸の波なにをか答ふ
過し世を静かに思え 百年もきのうのごとし
私の体調が悪いため今回で穴窯焚きを終わりにする予定でしたが、生徒さんたちの要望と協力で来春もう一回焚くことにしました。出来るかな? 薪が今回で無くなりますので、赤松をダンプトラック一杯買いました。
薪割は生徒さんたちが春の窯焚き過ぎにします。

令和8年4月19日 川柳 田辺聖子
夢の中ふるさと人は老いもせず 前田雀郎
夢に見るふるさとの人々は、昔のままで老いていない。若くたくましい父。やさしく抱きとってくれる母のあったかいふところ。夢の中では、みな、昔のままのたたずまい。
伊賀土の作品が出来ました。4月15日 穴窯を開きました。

令和8年4月12日 古備前
古備前窯の研究家として知られた桂又三郎は、昭和六十一年十月七日に岡山県備前市で八十五歳の生涯を閉じた。
「桂又三郎・七回忌、追悼」という小誌に古備前焼の話がある。
「窯の壁の薄いものは早く冷め、厚いものはおそく冷めるから、不経済な窯ほどよいものが焼けるということになる。古備前の土味が古来よいといわれている理由もまたその辺にあるわけである」と結んでいる。
桂又三郎の六十年間の研究はまさに、この文にある古備前の味に通うものだ。

はじめて備前を訪ねたのは、もう三十数年前になりました。
個人の窯で作品作りをさせていただき、その窯の作品が素晴らしく、私は夢中で沢山買いました。その作品についていたのが桂又三郎の賛辞の栞でした。家で調べた桂又三郎は備前焼中興の祖とでもいう方でした。
今はもう本当に懐かしい思い出です。
志野の釉掛けをしました。

令和8年4月5日 山田佳子 東京都 63歳
二月十一日、お母さんが一時帰宅。うれしい。
夫婦で手帳に日記を付けだしたのは、いつからでしたっけ?
足の手術の前に、病院から一時帰宅したとき、いつものように日記をつけているあなたの姿。何気なくのぞいたら「うれしい」の文字。その飾りのないストレートな言葉が胸にズキンと響きました。
あなたが定年し、やっとふたりでゆっくり過せると思った矢先の再手術。家事などしたことのないあなたが、入院中の洗濯物を洗ってくれたり、自炊したり、本当に迷惑を掛けてごめんなさい。それなのに、私が帰っただけで「うれしい」なんて・・。
私も二月十一日の日記に書きました。二月十一日、お父さんのいる自宅に帰れて、うれしい。ーー
ひいろ土の作品が出来ました。

令和8年3月29日 幸田露伴
幸田露伴は、漱石、鴎外と共に明治の三文豪と称された。全集四十四巻もの著作があるけれど、少々「とっつきにくく」漱石鴎外ほどは読まれない。昭和十二年、横山大観らと共に第一回文化勲章を受賞した。「国家から優遇されて立派な詩を作った詩人なし」と挨拶した。「とっつきにくい」文豪だが、さばけた笑話もたくさん作っている。
その一つ。合資会社を起こし酒を醸造しようではないか。どうだい早い話が君が米を出し、僕は水を出す。ムム、して利益の配分は?。さればさ、資本と利益はすべて正比例であるべく理屈だから、水のような物は僕が、固形物の類は君の所得としよう。
思い出しました。以下は実話だそうです。
日ロ経済協力についての話し合いの席で、ロシア側の主張
「今回の○○河に架かる鉄橋建設プロジェクトでも対等互恵の原則を貫いていきましょう。日本側にはあの河に架かる鉄橋を提供してほしいのです。ロシア側は川を提供いたします」
ロシアは日本のこと牝牛といっています。絞れば絞るほど乳が出ると。
中国は、日本は脅せば泣く、褒めれば調子に乗って金を出す、と言っています。
粉引きの釉掛けをしました。

令和8年3月22日 まじない
雷が鳴ったらーーーくわばらくわばら
しくじった時ーーー夢になれ夢になれ
縁起でもないことが起こった時ーーーツルカメツルカメ
地震が起こったらーーー世直し世直し
備前の作品が出来ました。

令和8年3月15日 刑事の心得
「迷ったら前へ出ろ、困ったら笑え」
意外や、刑事の心得なんだそうです。根気のいる仕事、ごくろうさまです。
黄土の作品が出来ました。

轆轤より切り放されし壺の冷え
黄色土の作品が完成です。

令和8年3月8日 菅英三子 東京芸大音楽学部教授
もうすぐ卒業式ですが、学生にどんなことを伝えたいですか。
まずは、時間を大切にしてほしいです。学生はこの学べる環境や、若い「今」が、ずっと続くと思っているように感じます。いつでもできるから、「今」やらなくてもいい、と考えてしまう。でも、恵まれた環境にある「今」は続かないし、「今」しか出来ないことがあるんです。もう一つ伝えたいこととして、「見極める」勇気を持ってほしいということがあります。生きていく上で、毎日の歩みの中で、違う方向を向くという決断をしなくてはならない時が来るかもしれません。その時には、自分の内面とよく対話して、「顔を上げて」違う方向を向く決断をしてほしいんです。諦めるとは違います。
それぞれの人生を大事にしてほしい。急がない、慌てない、諦めない、すぐに結果を求めたり、他の人と自分を比較しないで、一人ひとり、自分の時間を大切にしながら、しっかり生きていってほしいです。
粉引きの作品が出来ました。

令和8年3月1日 前田宏智 東京芸大工芸科教授
先人の作品を見ると、単に伝統を継承してきただけではない。常にクリエイティブに新しいものに挑戦し、模索して、時代とともに移り変わってきたことがわかります。
例えば手で何かを作るのが上手な人のことを「職人さん」と表現することがあります。一級技能士だとかいろんな名称がありますけど、それはやっぱり人間が習ったりしてある程度のレベルに達したということですよね。だけど僕らはそのレベルでものを作っちゃいけないわけです。そこから先の、新しいものを作る。手が動いたり知識があるっていうのは当然身に付けておくスキルだけれど、そこから先が問題なので、作るだけであれば、習えば誰でも作れるので。
「いやいや、誰でも作れるとは思いませんけど」(笑)
向き不向きはありますね。
志野の作品が出来ました

令和8年2月22日 熊倉純子 東京芸大大学院教授
アートマネージメントっていうのはアーティストと社会をつなぐものなんです。一般社会の中には、つなげる人がいないと、案外出会えない人達がいる。芸術って聞いただけで、「私なんて」って尻込みしてしまう。「敷居が高い」とか「芸術には縁遠くて」って。みんな自信がなくて、畏れ多いと思ってしまう。
アーティストの方も、いいものをやっていれば誰かに必ず伝わる思っている。それは間違ってはいないけれど、難しい。でも、そういうものの面白がり方がわかると、専門知識や特別な教養がない人でも、作品に対して感想を持ったり、非常に正確な批評をしたりするようになります。そういう瞬間を目の当たりにして、つくづく、「芸術は万人のものである」って感じます。

令和8年2月15日 寺山修司 昭和五十八年病没 享年四十九
死ぬならば 真夏の波止場あおむけに
わが血 怒涛となりてゆく空に
寺山修司を「鉛筆のドラキュラ」と呼んだ人がいたが、確かに彼は今なお、ドラキュラのように、言葉という爪でわれわれの心臓を掴んで放さない。「どんな鳥も想像より高く飛ぶことはできない」という自分の言葉どおり、朴訥な青森弁の詩人は語り口とは反対に、豊かで過激な想像力を羽にして高く飛び続けた。詩人の谷川俊太郎との対談で「六十歳までは生きたい」と語っているが、この一年後、「私は肝硬変で死ぬだろう。それははっきりしている。だからといって、墓は建てて欲しくはない。私の墓は、私の言葉であれば充分」と言い残し、四十九歳で持病ネフローゼのため早世した。だから、彼の魂は彼の言葉の中に眠っている。

令和8年2月8日
木に残る心や手折る梅の花 几
心やと詠む辺りが人事の句の名手、几梹阯の技だろう。しかし、梅で圧倒的な名句が多いのは矢張り蕪村である。
二もとの梅に遅速を愛す哉 蕪村
花をいとおしむ句に違いないが、長子がおくてで、次子がはしっこくと、深読み出来るところも面白い。
しら梅に明くる夜ばかりとなりにけり 辞世の句

令和8年2月1日 柳宗悦
「見テ 知リソ 知リテ ナ見ソ」 柳宗悦 『心偈』(こころうた)
まず見てから知るべきである、知ったのちに見ようとしないほうがいい。
私達は<知る>ということを大事に考える。しかし、ものごとを判断したり、味わったりするときには、予備知識や固定概念がかえって邪魔になることがある。だから、まず見ること、触れること、体験すること、そこから得る直観を大事にすることが大切である。

令和8年1月25日 松田権六
昔から、作品の出来ばえで呼称が違っている。
優れたものを優品と唱え、その上を絶品といい、またその上を名品という。さらに超名作を特に神品といって神格化の呼称が附されたものも稀にはある。普通の出来ばえである時は佳品または良品と唱え、時には名物だの大名物だのといい、あるいは上品、下品の評すらある。贋作、偽作、迷作なども呼称の一種であろう。
修業の種類を三種類に大別すると、
第一は、人からお教わるもので、修業としては一番苦労が少なく、早くて、平易だが、この修業だけで止まると師匠以上になるのは難しい。
第二は、物から教わるもので、主として自分の肉眼や五感を働かせて修業するものである。この方法は、視野を広め伝統を把握し、自らの自覚を促すなど高度な修業への近道となる。
第三は、自分で研究工夫し、自力で道を開拓し、ついに大悟徹底の領域まで進達する修業である。
古美術の優品を調査する際に心掛けるべきことは、欠点を指摘するよりも優れた点を見い出すように習慣づけることである。
いい歳をしてとの悔いの懐手

令和8年1月18日 笑い
「オギャー オギャー」と泣きながら此の世に生まれてきたんだから、せめて生きているうちは笑って過ごしたい。
私の好きな川柳 「一寸の草にも五分の春の色」
粘土を買う。備前土は待ちきれなくて先月120Kg、黄土40Kg、赤土40Kg、美濃土60Kg、伊賀土70Kg、緋色土80Kg。
生徒さんは10月から備前土(40Kg)を作り始めています。私は備前土の残りから始めます。

令和8年1月11日 小山岑一 小山富士夫子息
藤原啓先生が「今、皇居新宮殿に擂座壺を納めてきたよ」と鎌倉のわが家に立ち寄って下さったのは、1969年の春まだ浅い日だったと思う。その壺の形を決めるまでの思いを伺って、備前の土を愛し、いとおしんでいるのがよく分かった。
備前の焼き方は時代によって違うように思う。古い鎌倉から明治までは荒々しい焚き方が目立っていたが、啓先生はおとなしく、やわらかく、滋味のある焼き方のようだ。
ある窯出しの時、大ぶりの壺の調子の良いものが出て来た。先生はその壺の肩と胴を手の平でポンポンとたたき、もう一つ、見るからに酒の美味しそうな酒盃が出てくると、まだ温かい肌をなで回し、帯のダラリと垂れた着物の袂に入れ、お祭り騒ぎの窯出しの場から、一番気の置けない二人を連れてその場から消えた。
息子の雄さんに聞くと「いつもそうだよ。行先は分かっているよ。二日は帰ってこないね」と言われた。
わが家にある藤原啓作の割り山椒の器。また使ってみようか。

令和8年1月4日 小山岑一 小山富士夫子息
もう四十年近く前、荒川豊蔵先生の所へお邪魔した時のことである。ちょうど窯詰の最中で、茶碗のテストピースが十四、五個並べてあり、その一つ一つの中にメモが入っていた。地元のやきもの屋と一緒だったが、先生が「一緒の人は」と聞かれたので「やきもの屋です」と言うと、メモ用紙を全部ひっくり返され、何事なかったようにいろいろな話をして下さった。七十歳を過ぎた先生でもテスト、テストの明け暮れの様子を見て私自身、因果な道を選んでしまったとつくづく思った。
荒川先生の穴窯は、小さな山の傾斜地の七合目ほどのところにある。ある時伺ったら、ちょうど窯に火が入っていた。既に中が見える位に窯の温度は上がっていた。焚口の一列がエンゴロ(窯内で作品を覆う容器)の火ぶすまになっていた。「先生、エンゴロの中は?」と聞くと「空だよ」。一番火の利く一番良い場所のエンゴロに作品が入っていないのだ。
「若い者は火を見ると追っかけてしまうからね」とぽつんと言われた。

令和8年1月3日 田中明弘 鳴沢村58歳
東京の美術大学で同期だった娘の友人Sさんから小包が届いた。何だろうねと、と右手の不自由な娘を手伝って包みをほどくと、現れたのは急須だった。ずんぐりした形に思わず笑みがこぼれる。娘が太めの握りを左手で持ってみる。すると、注ぎ口が手前になった。初めてみる左手用の急須であった。
Sさんは卒業後ある窯元に弟子入りし、絵付けを陶芸に生かそうとしていた。
娘は親の思惑に反して演劇の道を歩み始めた。が、深夜に電話が鳴った、東京にいる兄からで「交通事故、救急車で」。
一年余りのリハビリで、車椅子での移動ができるようになり、娘は三年ぶりに家に戻った。
「好きなことを自由にやらせてくれた親に感謝している。だから後悔していない」と言う娘に私は答える言葉が無く、将来の不安が募る一方だった。そんな時に届いたSさんの贈りものは、ふたたび娘の明るい笑顔を取り戻してくれた。
この世でただ一つのユニークな急須は、「障害も個性のうちさ」という強気な娘の飾り棚に、もっともらしく納まっている。

令和8年1月2日 覗きカラクリ時代鏡 阿久悠
時代はガラガラと音を立て 覗き小窓を過ぎて行く
さあさ さあさ たまにはご覧よ 覗きカラクリ時代鏡
世の中に 立派な人がいなくなる 正直な人もいなくなる 清潔な人もいなくなる
美意識が笑い物になる 忍耐は軽蔑される 親切は舐められる
社会は 何でもありの何でもなしになる 人間が大人にならなくなる
子供のまま年齢を重ねる 五十になっても駄々をこねる 六十になっても他人のせいにする
今年とて つまるところは 同じこと

令和8年1月1日 元旦
1月1日と1が並んでいると、何だかスタートラインに立たされたようだ。自分をリセットして新しく一から出直そう、などと勇ましい掛け声が聞こえてきそうだが、私はもう若くないからリセットがきかない。
新しい年が来ると言われても、そのために気分はべつに新しくならない、新しくしたくもない。
正月というのをもう七十八回もやってきたことになる。おせち、おとそ、お年玉、一応のことは経験しているが、そのときどきに改まって何かを考えたり、決心したりした記憶はない。一年の計は元旦にありという格言は知っているが従ったことがない。いつも行き当たりばったりに一年を始めている。一年に限らない、人生そのものが無計画だ。
しかし、計画を立てる迄は行かないが、今ではさすがに来し方行く末を考えるようになった。
年を重ねたせいで力が抜けたお陰でもあるのでしょう。
初空へ今年を生きる伸びをして

令和八年 午年

令和7年12月31日 歳暮
令和七年ももはや逝こうとしている。新しい年を迎えようとする歳暮には、自ずと来し方行く末をしみじみと想うものである。それにつけてもここ二十年の歳月の過ぎゆく速さには驚くほかない。誠に光陰矢の如しの感を深くするのは団塊世代の感懐であろう。年月は止むことなく去来し、時世は流れてとどまらないことから、一年を設け、年の初めの正月、元旦をしつらえて、それを人生の機とするのも、人間の知恵である。正月の正という字は、「一以テ止ル」ことで、人が大地にしっかと足を踏みつけて立つことを表している。
時は過ぎ行く。

令和7年12月28日 高知
高知県は酒飲みには寛容な県だ。
ある村に神社があった。1945年、第二次世界大戦が終わって数か月後のこと、誰かが、「あんなに拝んだのに、日本は負けた。ここん神さんはたいした力はないっちゅうことじゃろう」と言いだした。まわりも「そうだそうだ」と同調し、神社にあった御神木を切って売って、その金で一週間ほど村人全員が飲んだ、という出来過ぎた話がある。
生徒さんから頂いた薪にする丸太を庭に積んだままにしておくと、朝は真っ白な霜に覆われている。その丸太も一月になると雪に覆われる。
今年は晩秋の声を聞いても穏やかな日が続き、紅葉も長く美しい状態を保ったが、さすがにそれも終わり、風が吹くたびに枯葉が舞って林は冬姿に変わった。
これから三ヶ月家にいて一日中陶芸のことを考える。考えるだけならカネももかからず、長い冬を過ごすための暇つぶしになる。

令和7年12月21日 年の瀬
人間いつかは死ぬが、このご時世100年は生きねばならぬ。
ラジオ体操しながらお爺さんはやる気に満ち溢れている。
年を取ることも、まんざら捨てたものではない。
曇り日のまま 年の瀬の腕を組む
備前の作品を30Kg作りました。

令和7年12月14日 句会ライブ 夏井いつき3
ポンピンの鳴らぬ人生春を待つ
この日会場で一位になったのが、この句。作者は八十五歳の男性だ。
「ピンポン♪のような、正解と言えるようなことは何も無い人生でした。ピンポンは、鳴らないかもしれませんが、ポンピンぐらいの小さな良いことが、これからあるかもしれんなあと。俳句を始めてまだ二年ですが、春を待つように、何かいいことが起こるかもしれないと暮らしていこうと思います。会場の皆さん、ありがとうございました。」と頭を下げる作者を、六百人のあたたかい拍手が包みこむ。たった十七音を介して、誰かの人生、誰かの思いと触れ合う、分かり合う。一人じゃないよと励まし合う。
鳴り止まない六百人の拍手は、そのまま私のエネルギーとなる。これぞピンポン♪ な人生であるよと、感謝の思いが尽きない。
12月11日山小屋を閉めました。3月末まで月二回ほど行きます。

令和7年12月7日 句会ライブ 夏井いつき2
ソーダ水すべては夫のせいにする
俳句では「夫」と書いて「つま」とも読む。子育て世代だと思われる女性が、戸惑いながらという感じで手を挙げてくれる。
「これって、身につまされます。子どもがケンカするのも、大声上げて泣くのも、洗濯物が溜まるのも、乾かないのも、何もかも、夫がなんにもしてくれないからこんなふうになってなってる!って、しょっちゅうヒステリー起こしてしまうような・・」
彼女の近くに座っていた先輩のオバサマ方が、急に頷きだし、共感の拍手がパラパラ起こる。「そんな私にも、ソーダ水みたいな明るい明日は来るんでしょうか」という彼女へ、応援の拍手が次第に高くなってくる。
作者は明るいオバサン。
「今日は夫の運転で来たんですがチケット忘れてることに気づいて。それもこれも夫のせいにしながら、無事会場にたどり着きました。これからも、人生のあれやこれやを夫のせいにしつつ、夫はハイハイとそれを受け止めつつ、夫婦仲良く暮らしていくと思います」と、ケラケラ笑う。「結局、惚気(のろけ)てんのか」と突っ込むと、顔を見合わせながら、妻は豪快に、夫は恥ずかしげに笑う。ええ夫婦やなと思う。
春の窯に入らなかった志野と伊賀の作品。32回窯焚きで焼きます

令和7年11月30日 句会ライブ 夏井いつき
税金高すぎる五月は長すぎる
句が映し出されただけで、会場に笑いが起きる。前から二列目に座っていたお婆ちゃんが、遠慮深げに手を挙げる。ゆっくりとマイクを握り、訥々と語り始める。「ほんとうねえ、税金が高過ぎて、店に行きましても、あれもこれも何もかも10%高くなっておるのです・・」と口ごもると、会場から賛同の拍手。

令和7年11月23日 寺院
静寂でひっそりとしている寺は、それはそれでいい。宗教とはそういう厳粛なものだ、という考え方もあるだろう。
でも、市井の喧噪を感じさせる寺もまたいい。門前には全国からお寺を目指して集まってくる人々のざわめき、そうした賑わい、私は、むしろこういう寺こそが、仏教の本道をゆくものではないかという気がしている。
宗教は聖なるものを求めつつも、宗教の母というのは俗なるものだという気がする。そこから足が離れてしまえば、寺は観光施設になってしまうか、あるいは仏像が展示されている宗教博物館になってしまうだろう。

令和7年11月16日
知らない横丁を曲がってみる、それが旅です。

令和7年11月9日 風呂
湯上がりには、とりわけまざまざと、人体が薄いヒフにつつまれた袋であること、またそこに血の循環のあることがよくわかる。命の洗濯をすると、自分が一つの生きものであるのが実感としてつたわってくる。

令和7年11月6日 紅葉
紅葉というのは毎日少しづつ、ポッポツという感じで色づいていくんです。ポッポツのピークは3日。紅葉もホレポレとするのは、ほんの3日のことです。
七十八歳になりました。上手に年老いた、ほどのよい穏やかな老人を目指します。
「新茶の香 かぎてしみじみ 老いの幸」

令和7年11月2日
父が亡くなった時の年齢に近づくにつれて、ようやく父親の像が鮮明になってくるというのは、どうしたことだろう。
父が生きていた頃は、その現実の表面ばかり見ていて、反発することが多く、ある一定の距離をおいて父を見てしまうようなところが私にはあった。しかし、私自身が父の晩年の年齢になるにしたがい、その頃の父の行動や話したことの内容が、ようやくにして理解できるようになった。
名家の出でもなく、金持ちの家でもなく、ごく普通の家の家族なんだから、分に応じて、むしろつつましいくらいで暮らさなければ、"おてんと様が守ってくれないよ" "人間、分に応じて生きろ" 大体こんなことを父は言いたかったのだと思う。
冷酒と親の意見は後で効くというように、今になってしみじみありがたく思われる。

令和7年10月26日 福岡県・末安ミドリ 55
幼い頃、私は「宵待草」は元気が出る歌だと思っていた。母はよく歌っていた。それも大きな声で、
「まってっど くっらせっど こおぬひとオ〜」と、まるで勇壮なマーチふうに。
母は結婚して十年目に突然、夫を失った。駐留米軍兵士による飲酒運転事故である。戦後の混乱期に、先妻の子を合わせて五人の子供をひとりで育ててきた。子ども心にもいつ眠るのかと思うほど、四六時中働いていた。くじけそうな自分自身を励ます応援歌だったにちがいない。
先日"佐藤しのぶ独唱会"で久しぶりにこの歌を聞いた。もう十七回忌も済んだ母の顔が浮かび涙がこぼれた。こんな美しい抒情的な恋の歌なのだ。しかし母のあの元気いっぱいの「宵待草」も、私には懐かしい響きの名曲である。
宵待草 作詞 竹下夢二 作曲 多忠亮

待てど 暮らせど 来ぬ人を
宵待草の やるせなさ
今宵は 月も 出ぬそうな

令和7年10月19日
今夜の月は実に美しいと思い、名月という言葉を実感として捉えることができた。
その秋の月が煌々と山小屋を照らしたときの澄み切った夜空の蒼は、悲愴としかいいようのない美しさであった。
星空もまた鮮烈であった。殊に月夜は、部屋一杯に青い光が差し込み、私はその静けさに身を浸している。

令和7年10月12日 辛酸なめこ
先日、ウィメンズフェスティバル、というイベントに行ったら美人女医がモテ術などについて語っていました。
男性はヒラヒラするスカートやキラキラ光るジュエリーは、男性の狩猟本能を刺激しますなど、モテテク以前に、付き合っている彼氏や夫がいる人にとっても、時々はやっておいたほうがよいことだと思います。倦怠期や相手の浮気を防ぐためにも・・・。
先日、そんな願いを叶えてくれそうな魔法の液体を入手しました。魔法の液体、と書くとうさんくさくて回春薬を連想させてしまいそうですが・・。
男性機能に効く成分が、ガラナやマカ、すっぽん、サソリ、ニンニク、ウミヘビ、八目鰻といった黒魔術的ブレンドであるのとは対照的に、女性の魅力を高める成分は花のエッセンスという、白魔術的な成分です。フラワーエッセンスの主な成分は、ダマスクローズウオーターや各種ユリ、ほか11種類のフラワーエッセンス。他にも、豊かさを引き寄せるエッセンス、愛情を深めるエッセンスなど、全部欲しい、引き寄せたいと10種類くらい飲みまくりました。するとその日は頭痛と吐き気に襲われて・・・欲張ったのが良くなかったようです。

令和7年10月5日 落葉松 北原白秋
一 からまつの林をすぎて、からまつをしみじみと見き。からまつはさびしかりけり。たびゆくはさびしかりけり。
二 からまつの林を出でて、からまつの林に入りぬ。からまつの林に入りて、また細く道はつづけり。
三 からまつの林の奧も、わが通る道はありけり。霧雨のかかる道なり。山風のかよふ道なり。

白秋が三度目に結婚し、終生の妻となる菊子夫人は、この詩を見せられたとき、
「さびさびとした詩ですね。自然の心とあなたの心とが、響きあっているのですわ」と感想を述べた。

令和7年9月28日 秋桜(コスモス)
~うす紅の秋桜が秋の日の
何気ない陽溜りに揺れている
このごろ涙もろくなった母が
庭先でひとつ咳をする
山口百恵のこの歌が流行るまで、「秋桜」という漢字の読みはあくまでも「あきざくら」であった。いまは、何の躊躇もなく「秋桜」と書いて「コスモス」と読ませる句を作る俳人も多い。とにもかくにも「秋桜」がコスモスの異称であることを国民に知らしめたのは、この歌の功績だった。
コスモスを離れし蝶に谿深し 水原秋櫻子
さだまさしが書いた詞には、当初「小春日和」という題名がつけられていた。唄い手のイメージに合わせて『秋桜』(コスモス)というタイトルに変更したのはCBS・ソニーレコードのプロデューサー酒井政利である。
「秋桜」のレコードが発売された三年後、山口百恵は金色のマイクロフォンを舞台のフロアにそっと置き、聴衆の前から姿を消した。

令和7年9月21日
雨の行方をふと考える。下水に流れ、川に流れ、海へ流れ、蒸気となり、霧となり、霞となり、また雨となり、くまなく落ちてきて草木を洗い、地下に沁みとおり、そして生命の根を養っている。

令和7年9月14日 立川談四楼
「あいつより 上手いはずだが なぜ売れぬ」
森光子が若い頃作った川柳で、文化勲章を受けて披露しました。やはりそういうご苦労が…。

「ムダ飯を食ってなかったな」
森光子が芸術座を満員にした時、師匠の菊田一夫はそう言ってねぎらったという。
厳しくも、ちゃんと見ている人はいるんですね。

令和7年9月10日 尖り石縄文考古館
茅野市の尖り石縄文考古館で国宝「土偶」(縄文のビーナス5000年前)と「土偶」(仮面の女神4000年前)を作りました。
指導員の北沢さんに教えてもらいながら、妻と二人で三時間かけて完成です。
縄文のビーナスは粘土に金色に輝く雲母が混ざっていて、ハート形のお尻が特徴的です。妊娠した女性の姿を表現しており安産祈願や子孫繁栄を願うマツリに使われたと考えられています。縄文時代の土偶で最初に国宝に指定されました。
仮面の女神は逆三角形の仮面をつけ、神に代わってマツリをする女性を表現したと考えられています。中が空洞のつくりで、表面はよく磨かれています。右足が壊れて出土し、縄文人が意図的に壊したものと考えられています。墓と考えられる穴から出土した数少ない土偶の一つです。
尖り石縄文考古館は国宝土偶をはじめ、テーマ別に3つの展示室があります。土器・土偶が沢山あり見ごたえ充分です。

令和7年9月7日 俳句の種 夏井いつき 2
どう頑張っても凡人の句しかできない。そんな悩みを語る俳句愛好者は多い。そんな人たちはたぶん、俳句は、自分の脳内にてゼロから何かを生み出すものだと思っているからではないか。私の体験的真実として語らせていただくならば、自分の脳から生まれるものは、概ね自分以下でしかない。
俳句は、自分の外にある全てのものとの交信だ。金木犀の香りも、秋の水の光も、私たちの脳内にあるのではなく、私たちの外にあるもの。それらから句材をもらい、十七音に切り取っていくのが俳句だ。
自分の周りにどれだけの素材があるか、どれだけの季語たちが語りかけてくれているか。それに気づきさえすれば、俳句は十倍カンタンに作れるし、十倍楽しくなるのだ。房総たまちゃんが、俳句のそんな小さな秘密に気づいてくれたのかもしれないと思うと、私の方が嬉しい。心からありがとうと言いたい。これからも一緒に俳句を楽しんでいこうね、と伝えたい。

令和7年8月31日 俳句の種 夏井いつき
2021年の道後俳句塾は、初めてのネット配信となった。私が特選に頂いた中にこんな一句があった。
向日葵の種山づみの保育室
当たり前のことだが、俳句における選は作者の名前を伏すことが鉄則。この日はリモート、後日送られてくる作品集で作者名を確認するしかない。私は作者名を知らぬままの数日を過ごしていた。ところが、ブログ「いつき組日誌」にお便りが届いた。
暴走・・いや、房総たまちゃんという俳号の、まだ会ったことのない組員からだ。
「組長、人生で五億円の宝くじが当たったよりも、もっとびっくりしたことがありました」 とは、いったい何かというと、「向日葵の種」の作者は自分というのだ。これには私の方が吃驚した。だって、これまでの投句からすれば、たまちゃんの俳句の腕は「身の丈で熱心に頑張っている凡人」て印象だったのだもの。あ、マジごめん、たまちゃん(笑)。

組長がかねがね「読み手に丁寧にバトンを渡す、そしてそれを受け取った読み手がその句の真意を読む」とおっゃっていましたが、今回は身をもって体験させていただきました。
子どもたちと種を蒔いて、水をやり育ててきて、そして満開の花が咲き、ここまででも大喜びでしたが、咲き終わって、その花を乾かし、半分に切って軍手で種を取ったら、面白いようにとれて、子どもが「先生種山づみだー」と言った言葉を使わせてもらいました。組長に、現場から出た句で頭で出た句でないと言っていただき、涙があふれました。続く

令和7年8月24日 長谷賢一 (愛知県三十歳)
小学校は坂道の頂にあった。一年生のとき、どうしても学校に行くのがいやで、坂道の前まで行くのだが、そこで帰ってきてしまう。ついに学校に母が呼び出され、ぼくを必ず連れて行かなければならなくなった。
その日だけは母は怒りもせず、僕の手を引いて「この道はいつか来た道・・」と歌いはじめた。僕はそれから坂道の前に立つと、母の歌う「この道・・・」を思い出し、登校するようになった。学校も坂道ももう怖くなくなったのである。
卒業の日、坂道を下る途中、母に担任から教えてもらった言葉をいった。
「これまで育ててくれてありがとう」
僕も母も振り返って、空にとどくような坂道をしばらくの間、見上げていた。

この道 作詞 北原白秋 作曲 山田耕筰
この道は いつか来た道
ああ そうだよ
あかしやの花が 咲いてる

令和7年8月17日 山田太一 脚本家2
中村登美枝さんの「生きて帰れよ」は、ある病院の患者さんたちの手記を集めた小冊子だった。
中村さんも敗戦を二十歳で、北朝鮮の慶興という町で迎えた。すぐソ連軍がやって来た。中村さんは脱出したが、兵隊だった初恋の人は逃げられず、シベリアに連行された。別れ際に恋人は「生きて帰れよ」といった。
地獄のような引き揚げ体験をして日本に戻った中村さんは初恋の人の帰りを待った。しかし、三年四年がたち、六年待ってもなく七年目にいまの夫君と結婚し、子どもも生まれた。十一年たって、やっと恋人が復員してきた。今更どうにもならない。別の人生を歩くしかなかった。男性も所帯を持った。
歳月がたち、共に老境に入って、お互い夫妻で一度会いましょうということになった。彼は八十三歳、中村さんは七十六歳。今更何の拘りもない。両夫妻は大人の振舞でなごやかに昔話をし、おだやかに終わることとなった。
ところが、立ち去りかける中村さんを突然彼が呼び止め叫んだというのだ。
「アイ・ラブ・ユー」と。

僕はこれで書ける、これで書けます、と南風さんに電話をしたのを忘れられない。
世の中の 疲れ果てたる 残暑かな

令和7年8月16日 山田太一 脚本家1
劇団民藝の南風洋子さんから十二年ほど前、長文のお手紙を頂き、ご自身の体験を舞台にしたいが、脚本を書かないかとお話があった。それは昭和二十年の出来事についてであった。南風さんは十代の女学生で満州の新京という町にいらした。ところが八月に敗戦になり、ソ連軍が侵攻してくる。暴力もある。略奪もある。以後一年三ヵ月に及ぶ逃避行と抑留生活の後、やっと日本に帰ることが出来たのだった。
書くに値する経験である。胸を打たれた。しかし、大変なスケールの話で場所は次々移るし、列車あり銃撃あり沢山の登場人物ありで、これを無理して舞台で再現しても、本や証言ドキュメンタリーにかなわないのではないかと感じた。
僕は「考えます」といった。「待ちます」と南風さんはおっしゃった。
二年余りがたってしまった。目前の仕事をしながら、いつもどこかで現代への具体的な反映がないものかと捜していた。そして中村登美枝さんの「生きて帰れよ」に出会ったのだった。お許しをいただき、中村さんと南風さんの体験を折りまぜて「二人の長い影」という脚本を書いた。
続く。

令和7年8月15日 妻から夫へ 成瀬富貴子 68歳
私たちは定年まで共稼ぎで、二人の子供の世話は私の母に頼みました。そのときのことです。あなたのやさしさに惚れ直したのはー。
ある秋の夜、帰宅すると転んで腰を打った母は、歩けなくなっていました。便器を買うにも閉店ばかり、あなたは古い木の椅子の真ん中に大きな穴を開け、便器をつくってくれましたね。母はみんなの肩を借りてやっと便器に座りました。でも痛いのかうまく坐れず、畳を汚してしまいました。新しい畳だったから思わず、「あーあ、汚れちゃったじゃないの」と言ってしまいました。あなたは見たこともない怖い顔をして、「お前は鬼か!お婆さんは痛いから、うまく動けんのや。お婆さんよ、畳の一枚や二枚腐ってもいいから、一番楽な恰好でしてよ」。そう言って母を抱きかかえましたね。
その晩は、自分の至らなさとあなたの優しさに震えて泣きました。ありがとう、あなた。

令和7年8月14日 夏井いつき
緑陰のひかりの窓に祈りけり
『おウチで俳句』は、病気や怪我や介護で思うように外出できない人にも俳句を楽しんでもらいたくて書いた本だ。リビング、台所、寝室、風呂、玄関、トイレで俳句のタネを探すコツを解説している。見つけたタネを材料に、指を折りつつ俳句をヒネる。それがきっと、穏やかな心で過せる時間となるはずだと信じての一冊だ。誰だっていつかは自分の足で歩けなくなる日がくる。いつか生きる時間が閉じられるその瞬間まで、人生の杖として俳句を傍らに置いて欲しい。それが私の切なる思いだ。
一枚のハガキが届いた。
「妻が五十五歳で永眠いたしました。足かけ十八年間、癌と闘いました。穏やかに最期を迎えたことが救いとなりました。臨終の枕元に『おウチで俳句』がありました。支えになっていただいてありがとうございました」
私の方こそお礼を伝えたい。俳句が誰かの人生のお役に立てているという事実に感謝を捧げたい。

令和7年8月10日 井上ひさし
カントが時間について病的といってよいほど正確だったことは、ケーニヒスベルクの町の人たちが彼の散歩する姿を時報がわりに時計の針を合わせたとか、ある夜、就寝時間には三分早すぎるといってその時刻のくるまでベッドの端に腰を下ろしてじっと待っていたとかの逸話によっても、よく知られているところだが、このカントとまったく正反対なのがフロイトである。
三十歳になるちょっと前、コカインの生理作用実験に没頭してしまい、研究が一段落してふと気が付くといつの間にか時間は二年経過していた。彼は二年間婚約者を放りっぱなしにしていたことに気が付いたのである。
この二人の偉大な学者の「時間」に対する処し方は、彼等ほど極端ではないにしろ、私たちのそれと同じである。
私たちは限られた時間軸に沿ってしか生存を許されないという、恐ろしくも厳しい真理に思い当たるが、結局のところ、時間について人間は何一つまともなことはいえないだろう。時間についてまともなことを言えるほど利口に人間は創られていないからである。
時は人間を超えて流れ続けて行く。私たちは言うまでもなく、カントやフロイトのような大天才もまた同じように、カチカチと時を刻む音をただ茫として聞いているよりほかに方途はないのだ

令和7年8月3日 個性
一定の技術を満たして上手になると、次は個性を求められます。みんないろんな個性を持っているけれど、自分らしさって自分ではけっこうわからない。
陶芸は盗芸。人様の作品を真似てその技術を盗み、それを自分のものとして昇華し、自分らしいものへと変化させる

「最近、松の美しさがわかるようになってきた」ふともらした77歳

令和7年8月1日 国際先端表現部門
(社)日府展に国際先端表現部門が昨年から新設されました。正直、よく分かりません。
AIを使って光や音・映像などをつくるのかと思いましたが、
東京芸術大学の先端芸術表現科教授の本を読みました。
芸術と社会の新しいチャンネルを作る。生きることは自分を表現することなんだ。
「人が人たる所以(ゆえん)」って何だろう。それは芸術にあるじゃないか。そもそもなぜいろんな芸術が生まれたか、人間が自然界の不思議なものや不気味なものを見ながら、いろんな歌や踊りや表現を作り出したと言われている。人間の気持ちの衝動的な部分から想像力、創造力が喚起され、芸術が発生するのです。と日比野克彦教授。
ますます分かりません。
来春の第三十二回穴窯焚きに向かって準備していきます。