令和7年8月24日 長谷賢一 (愛知県三十歳)
小学校は坂道の頂にあった。一年生のとき、どうしても学校に行くのがいやで、坂道の前まで行くのだが、そこで帰ってきてしまう。ついに学校に母が呼び出され、ぼくを必ず連れて行かなければならなくなった。
その日だけは母は怒りもせず、僕の手を引いて「この道はいつか来た道・・」と歌いはじめた。僕はそれから坂道の前に立つと、母の歌う「この道・・・」を思い出し、登校するようになった。学校も坂道ももう怖くなくなったのである。
卒業の日、坂道を下る途中、母に担任から教えてもらった言葉をいった。
「これまで育ててくれてありがとう」
僕も母も振り返って、空にとどくような坂道をしばらくの間、見上げていた。

この道 作詞 北原白秋 作曲 山田耕筰
この道は いつか来た道
ああ そうだよ
あかしやの花が 咲いてる

令和7年8月17日 山田太一 脚本家2
中村登美枝さんの「生きて帰れよ」は、ある病院の患者さんたちの手記を集めた小冊子だった。
中村さんも敗戦を二十歳で、北朝鮮の慶興という町で迎えた。すぐソ連軍がやって来た。中村さんは脱出したが、兵隊だった初恋の人は逃げられず、シベリアに連行された。別れ際に恋人は「生きて帰れよ」といった。
地獄のような引き揚げ体験をして日本に戻った中村さんは初恋の人の帰りを待った。しかし、三年四年がたち、六年待ってもなく七年目にいまの夫君と結婚し、子どもも生まれた。十一年たって、やっと恋人が復員してきた。今更どうにもならない。別の人生を歩くしかなかった。男性も所帯を持った。
歳月がたち、共に老境に入って、お互い夫妻で一度会いましょうということになった。彼は八十三歳、中村さんは七十六歳。今更何の拘りもない。両夫妻は大人の振舞でなごやかに昔話をし、おだやかに終わることとなった。
ところが、立ち去りかける中村さんを突然彼が呼び止め叫んだというのだ。
「アイ・ラブ・ユー」と。

僕はこれで書ける、これで書けます、と南風さんに電話をしたのを忘れられない。
世の中の 疲れ果てたる 残暑かな

令和7年8月16日 山田太一 脚本家1
劇団民藝の南風洋子さんから十二年ほど前、長文のお手紙を頂き、ご自身の体験を舞台にしたいが、脚本を書かないかとお話があった。それは昭和二十年の出来事についてであった。南風さんは十代の女学生で満州の新京という町にいらした。ところが八月に敗戦になり、ソ連軍が侵攻してくる。暴力もある。略奪もある。以後一年三ヵ月に及ぶ逃避行と抑留生活の後、やっと日本に帰ることが出来たのだった。
書くに値する経験である。胸を打たれた。しかし、大変なスケールの話で場所は次々移るし、列車あり銃撃あり沢山の登場人物ありで、これを無理して舞台で再現しても、本や証言ドキュメンタリーにかなわないのではないかと感じた。
僕は「考えます」といった。「待ちます」と南風さんはおっしゃった。
二年余りがたってしまった。目前の仕事をしながら、いつもどこかで現代への具体的な反映がないものかと捜していた。そして中村登美枝さんの「生きて帰れよ」に出会ったのだった。お許しをいただき、中村さんと南風さんの体験を折りまぜて「二人の長い影」という脚本を書いた。
続く。

令和7年8月15日 妻から夫へ 成瀬富貴子 68歳
私たちは定年まで共稼ぎで、二人の子供の世話は私の母に頼みました。そのときのことです。あなたのやさしさに惚れ直したのはー。
ある秋の夜、帰宅すると転んで腰を打った母は、歩けなくなっていました。便器を買うにも閉店ばかり、あなたは古い木の椅子の真ん中に大きな穴を開け、便器をつくってくれましたね。母はみんなの肩を借りてやっと便器に座りました。でも痛いのかうまく坐れず、畳を汚してしまいました。新しい畳だったから思わず、「あーあ、汚れちゃったじゃないの」と言ってしまいました。あなたは見たこともない怖い顔をして、「お前は鬼か!お婆さんは痛いから、うまく動けんのや。お婆さんよ、畳の一枚や二枚腐ってもいいから、一番楽な恰好でしてよ」。そう言って母を抱きかかえましたね。
その晩は、自分の至らなさとあなたの優しさに震えて泣きました。ありがとう、あなた。

令和7年8月14日 夏井いつき
緑陰のひかりの窓に祈りけり
『おウチで俳句』は、病気や怪我や介護で思うように外出できない人にも俳句を楽しんでもらいたくて書いた本だ。リビング、台所、寝室、風呂、玄関、トイレで俳句のタネを探すコツを解説している。見つけたタネを材料に、指を折りつつ俳句をヒネる。それがきっと、穏やかな心で過せる時間となるはずだと信じての一冊だ。誰だっていつかは自分の足で歩けなくなる日がくる。いつか生きる時間が閉じられるその瞬間まで、人生の杖として俳句を傍らに置いて欲しい。それが私の切なる思いだ。
一枚のハガキが届いた。
「妻が五十五歳で永眠いたしました。足かけ十八年間、癌と闘いました。穏やかに最期を迎えたことが救いとなりました。臨終の枕元に『おウチで俳句』がありました。支えになっていただいてありがとうございました」
私の方こそお礼を伝えたい。俳句が誰かの人生のお役に立てているという事実に感謝を捧げたい。

令和7年8月10日 井上ひさし
カントが時間について病的といってよいほど正確だったことは、ケーニヒスベルクの町の人たちが彼の散歩する姿を時報がわりに時計の針を合わせたとか、ある夜、就寝時間には三分早すぎるといってその時刻のくるまでベッドの端に腰を下ろしてじっと待っていたとかの逸話によっても、よく知られているところだが、このカントとまったく正反対なのがフロイトである。
三十歳になるちょっと前、コカインの生理作用実験に没頭してしまい、研究が一段落してふと気が付くといつの間にか時間は二年経過していた。彼は二年間婚約者を放りっぱなしにしていたことに気が付いたのである。
この二人の偉大な学者の「時間」に対する処し方は、彼等ほど極端ではないにしろ、私たちのそれと同じである。
私たちは限られた時間軸に沿ってしか生存を許されないという、恐ろしくも厳しい真理に思い当たるが、結局のところ、時間について人間は何一つまともなことはいえないだろう。時間についてまともなことを言えるほど利口に人間は創られていないからである。
時は人間を超えて流れ続けて行く。私たちは言うまでもなく、カントやフロイトのような大天才もまた同じように、カチカチと時を刻む音をただ茫として聞いているよりほかに方途はないのだ

令和7年8月3日 個性
一定の技術を満たして上手になると、次は個性を求められます。みんないろんな個性を持っているけれど、自分らしさって自分ではけっこうわからない。
陶芸は盗芸。人様の作品を真似てその技術を盗み、それを自分のものとして昇華し、自分らしいものへと変化させる

「最近、松の美しさがわかるようになってきた」ふともらした77歳

令和7年8月1日 国際先端表現部門
(社)日府展に国際先端表現部門が昨年から新設されました。正直、よく分かりません。
AIを使って光や音・映像などをつくるのかと思いましたが、
東京芸術大学の先端芸術表現科教授の本を読みました。
芸術と社会の新しいチャンネルを作る。生きることは自分を表現することなんだ。
「人が人たる所以(ゆえん)」って何だろう。それは芸術にあるじゃないか。そもそもなぜいろんな芸術が生まれたか、人間が自然界の不思議なものや不気味なものを見ながら、いろんな歌や踊りや表現を作り出したと言われている。人間の気持ちの衝動的な部分から想像力、創造力が喚起され、芸術が発生するのです。と日比野克彦教授。
ますます分かりません。
来春の第三十二回穴窯焚きに向かって準備していきます。