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| 令和8年1月18日 | 笑い |
| 「オギャー オギャー」と泣きながら此の世に生まれてきたんだから、せめて生きているうちは笑って過ごしたい。 私の好きな川柳 「一寸の草にも五分の春の色」 |
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| 粘土を買う。備前土は待ちきれなくて先月120Kg、黄土40Kg、赤土40Kg、美濃土60Kg、伊賀土70Kg、緋色土80Kg。 生徒さんは10月から備前土(40Kg)を作り始めています。私は備前土の残りから始めます。 |
| 令和8年1月11日 | 小山岑一 小山富士夫子息 |
| 藤原啓先生が「今、皇居新宮殿に擂座壺を納めてきたよ」と鎌倉のわが家に立ち寄って下さったのは、1969年の春まだ浅い日だったと思う。その壺の形を決めるまでの思いを伺って、備前の土を愛し、いとおしんでいるのがよく分かった。 備前の焼き方は時代によって違うように思う。古い鎌倉から明治までは荒々しい焚き方が目立っていたが、啓先生はおとなしく、やわらかく、滋味のある焼き方のようだ。 ある窯出しの時、大ぶりの壺の調子の良いものが出て来た。先生はその壺の肩と胴を手の平でポンポンとたたき、もう一つ、見るからに酒の美味しそうな酒盃が出てくると、まだ温かい肌をなで回し、帯のダラリと垂れた着物の袂に入れ、お祭り騒ぎの窯出しの場から、一番気の置けない二人を連れてその場から消えた。 息子の雄さんに聞くと「いつもそうだよ。行先は分かっているよ。二日は帰ってこないね」と言われた。 |
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| わが家にある藤原啓作の割り山椒の器。また使ってみようか。 | |
| 令和8年1月4日 | 小山岑一 小山富士夫子息 |
| もう四十年近く前、荒川豊蔵先生の所へお邪魔した時のことである。ちょうど窯詰の最中で、茶碗のテストピースが十四、五個並べてあり、その一つ一つの中にメモが入っていた。地元のやきもの屋と一緒だったが、先生が「一緒の人は」と聞かれたので「やきもの屋です」と言うと、メモ用紙を全部ひっくり返され、何事なかったようにいろいろな話をして下さった。七十歳を過ぎた先生でもテスト、テストの明け暮れの様子を見て私自身、因果な道を選んでしまったとつくづく思った。 荒川先生の穴窯は、小さな山の傾斜地の七合目ほどのところにある。ある時伺ったら、ちょうど窯に火が入っていた。既に中が見える位に窯の温度は上がっていた。焚口の一列がエンゴロ(窯内で作品を覆う容器)の火ぶすまになっていた。「先生、エンゴロの中は?」と聞くと「空だよ」。一番火の利く一番良い場所のエンゴロに作品が入っていないのだ。 「若い者は火を見ると追っかけてしまうからね」とぽつんと言われた。 |
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| 令和8年1月3日 | 田中明弘 鳴沢村58歳 |
| 東京の美術大学で同期だった娘の友人Sさんから小包が届いた。何だろうねと、と右手の不自由な娘を手伝って包みをほどくと、現れたのは急須だった。ずんぐりした形に思わず笑みがこぼれる。娘が太めの握りを左手で持ってみる。すると、注ぎ口が手前になった。初めてみる左手用の急須であった。 Sさんは卒業後ある窯元に弟子入りし、絵付けを陶芸に生かそうとしていた。 娘は親の思惑に反して演劇の道を歩み始めた。が、深夜に電話が鳴った、東京にいる兄からで「交通事故、救急車で」。 一年余りのリハビリで、車椅子での移動ができるようになり、娘は三年ぶりに家に戻った。 「好きなことを自由にやらせてくれた親に感謝している。だから後悔していない」と言う娘に私は答える言葉が無く、将来の不安が募る一方だった。そんな時に届いたSさんの贈りものは、ふたたび娘の明るい笑顔を取り戻してくれた。 この世でただ一つのユニークな急須は、「障害も個性のうちさ」という強気な娘の飾り棚に、もっともらしく納まっている。 |
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| 令和8年1月2日 | 覗きカラクリ時代鏡 阿久悠 |
| 時代はガラガラと音を立て 覗き小窓を過ぎて行く さあさ さあさ たまにはご覧よ 覗きカラクリ時代鏡 世の中に 立派な人がいなくなる 正直な人もいなくなる 清潔な人もいなくなる 美意識が笑い物になる 忍耐は軽蔑される 親切は舐められる 社会は 何でもありの何でもなしになる 人間が大人にならなくなる 子供のまま年齢を重ねる 五十になっても駄々をこねる 六十になっても他人のせいにする |
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| 今年とて つまるところは 同じこと | |
| 令和8年1月1日 | 元旦 |
| 1月1日と1が並んでいると、何だかスタートラインに立たされたようだ。自分をリセットして新しく一から出直そう、などと勇ましい掛け声が聞こえてきそうだが、私はもう若くないからリセットがきかない。 新しい年が来ると言われても、そのために気分はべつに新しくならない、新しくしたくもない。 正月というのをもう七十八回もやってきたことになる。おせち、おとそ、お年玉、一応のことは経験しているが、そのときどきに改まって何かを考えたり、決心したりした記憶はない。一年の計は元旦にありという格言は知っているが従ったことがない。いつも行き当たりばったりに一年を始めている。一年に限らない、人生そのものが無計画だ。 しかし、計画を立てる迄は行かないが、今ではさすがに来し方行く末を考えるようになった。 年を重ねたせいで力が抜けたお陰でもあるのでしょう。 初空へ今年を生きる伸びをして |
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| 令和八年 午年 |
| 令和7年12月31日 | 歳暮 |
| 令和七年ももはや逝こうとしている。新しい年を迎えようとする歳暮には、自ずと来し方行く末をしみじみと想うものである。それにつけてもここ二十年の歳月の過ぎゆく速さには驚くほかない。誠に光陰矢の如しの感を深くするのは団塊世代の感懐であろう。年月は止むことなく去来し、時世は流れてとどまらないことから、一年を設け、年の初めの正月、元旦をしつらえて、それを人生の機とするのも、人間の知恵である。正月の正という字は、「一以テ止ル」ことで、人が大地にしっかと足を踏みつけて立つことを表している。 時は過ぎ行く。 |
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| 令和7年12月28日 | 高知 |
| 高知県は酒飲みには寛容な県だ。 ある村に神社があった。1945年、第二次世界大戦が終わって数か月後のこと、誰かが、「あんなに拝んだのに、日本は負けた。ここん神さんはたいした力はないっちゅうことじゃろう」と言いだした。まわりも「そうだそうだ」と同調し、神社にあった御神木を切って売って、その金で一週間ほど村人全員が飲んだ、という出来過ぎた話がある。 |
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| 生徒さんから頂いた薪にする丸太を庭に積んだままにしておくと、朝は真っ白な霜に覆われている。その丸太も一月になると雪に覆われる。 今年は晩秋の声を聞いても穏やかな日が続き、紅葉も長く美しい状態を保ったが、さすがにそれも終わり、風が吹くたびに枯葉が舞って林は冬姿に変わった。 これから三ヶ月家にいて一日中陶芸のことを考える。考えるだけならカネももかからず、長い冬を過ごすための暇つぶしになる。 |
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| 令和7年12月21日 | 年の瀬 |
| 人間いつかは死ぬが、このご時世100年は生きねばならぬ。 ラジオ体操しながらお爺さんはやる気に満ち溢れている。 年を取ることも、まんざら捨てたものではない。 曇り日のまま 年の瀬の腕を組む |
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| 備前の作品を30Kg作りました。 | |||
| 令和7年12月14日 | 句会ライブ 夏井いつき3 |
| ポンピンの鳴らぬ人生春を待つ この日会場で一位になったのが、この句。作者は八十五歳の男性だ。 「ピンポン♪のような、正解と言えるようなことは何も無い人生でした。ピンポンは、鳴らないかもしれませんが、ポンピンぐらいの小さな良いことが、これからあるかもしれんなあと。俳句を始めてまだ二年ですが、春を待つように、何かいいことが起こるかもしれないと暮らしていこうと思います。会場の皆さん、ありがとうございました。」と頭を下げる作者を、六百人のあたたかい拍手が包みこむ。たった十七音を介して、誰かの人生、誰かの思いと触れ合う、分かり合う。一人じゃないよと励まし合う。 鳴り止まない六百人の拍手は、そのまま私のエネルギーとなる。これぞピンポン♪ な人生であるよと、感謝の思いが尽きない。 |
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| 12月11日山小屋を閉めました。3月末まで月二回ほど行きます。 | |
| 令和7年12月7日 | 句会ライブ 夏井いつき2 |
| ソーダ水すべては夫のせいにする 俳句では「夫」と書いて「つま」とも読む。子育て世代だと思われる女性が、戸惑いながらという感じで手を挙げてくれる。 「これって、身につまされます。子どもがケンカするのも、大声上げて泣くのも、洗濯物が溜まるのも、乾かないのも、何もかも、夫がなんにもしてくれないからこんなふうになってなってる!って、しょっちゅうヒステリー起こしてしまうような・・」 彼女の近くに座っていた先輩のオバサマ方が、急に頷きだし、共感の拍手がパラパラ起こる。「そんな私にも、ソーダ水みたいな明るい明日は来るんでしょうか」という彼女へ、応援の拍手が次第に高くなってくる。 作者は明るいオバサン。 「今日は夫の運転で来たんですがチケット忘れてることに気づいて。それもこれも夫のせいにしながら、無事会場にたどり着きました。これからも、人生のあれやこれやを夫のせいにしつつ、夫はハイハイとそれを受け止めつつ、夫婦仲良く暮らしていくと思います」と、ケラケラ笑う。「結局、惚気(のろけ)てんのか」と突っ込むと、顔を見合わせながら、妻は豪快に、夫は恥ずかしげに笑う。ええ夫婦やなと思う。 |
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| 春の窯に入らなかった志野と伊賀の作品。32回窯焚きで焼きます | |
| 令和7年11月30日 | 句会ライブ 夏井いつき |
| 税金高すぎる五月は長すぎる 句が映し出されただけで、会場に笑いが起きる。前から二列目に座っていたお婆ちゃんが、遠慮深げに手を挙げる。ゆっくりとマイクを握り、訥々と語り始める。「ほんとうねえ、税金が高過ぎて、店に行きましても、あれもこれも何もかも10%高くなっておるのです・・」と口ごもると、会場から賛同の拍手。 |
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| 令和7年11月23日 | 寺院 |
| 静寂でひっそりとしている寺は、それはそれでいい。宗教とはそういう厳粛なものだ、という考え方もあるだろう。 でも、市井の喧噪を感じさせる寺もまたいい。門前には全国からお寺を目指して集まってくる人々のざわめき、そうした賑わい、私は、むしろこういう寺こそが、仏教の本道をゆくものではないかという気がしている。 宗教は聖なるものを求めつつも、宗教の母というのは俗なるものだという気がする。そこから足が離れてしまえば、寺は観光施設になってしまうか、あるいは仏像が展示されている宗教博物館になってしまうだろう。 |
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| 令和7年11月16日 | 旅 |
| 知らない横丁を曲がってみる、それが旅です。 | |
| 令和7年11月9日 | 風呂 |
| 湯上がりには、とりわけまざまざと、人体が薄いヒフにつつまれた袋であること、またそこに血の循環のあることがよくわかる。命の洗濯をすると、自分が一つの生きものであるのが実感としてつたわってくる。 | |
| 令和7年11月6日 | 紅葉 |
| 紅葉というのは毎日少しづつ、ポッポツという感じで色づいていくんです。ポッポツのピークは3日。紅葉もホレポレとするのは、ほんの3日のことです。 七十八歳になりました。上手に年老いた、ほどのよい穏やかな老人を目指します。 「新茶の香 かぎてしみじみ 老いの幸」 |
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| 令和7年11月2日 | 分 |
| 父が亡くなった時の年齢に近づくにつれて、ようやく父親の像が鮮明になってくるというのは、どうしたことだろう。 父が生きていた頃は、その現実の表面ばかり見ていて、反発することが多く、ある一定の距離をおいて父を見てしまうようなところが私にはあった。しかし、私自身が父の晩年の年齢になるにしたがい、その頃の父の行動や話したことの内容が、ようやくにして理解できるようになった。 名家の出でもなく、金持ちの家でもなく、ごく普通の家の家族なんだから、分に応じて、むしろつつましいくらいで暮らさなければ、"おてんと様が守ってくれないよ" "人間、分に応じて生きろ" 大体こんなことを父は言いたかったのだと思う。 冷酒と親の意見は後で効くというように、今になってしみじみありがたく思われる。 |
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| 令和7年10月26日 | 福岡県・末安ミドリ 55 |
| 幼い頃、私は「宵待草」は元気が出る歌だと思っていた。母はよく歌っていた。それも大きな声で、 「まってっど くっらせっど こおぬひとオ〜」と、まるで勇壮なマーチふうに。 母は結婚して十年目に突然、夫を失った。駐留米軍兵士による飲酒運転事故である。戦後の混乱期に、先妻の子を合わせて五人の子供をひとりで育ててきた。子ども心にもいつ眠るのかと思うほど、四六時中働いていた。くじけそうな自分自身を励ます応援歌だったにちがいない。 先日"佐藤しのぶ独唱会"で久しぶりにこの歌を聞いた。もう十七回忌も済んだ母の顔が浮かび涙がこぼれた。こんな美しい抒情的な恋の歌なのだ。しかし母のあの元気いっぱいの「宵待草」も、私には懐かしい響きの名曲である。 宵待草 作詞 竹下夢二 作曲 多忠亮 待てど 暮らせど 来ぬ人を 宵待草の やるせなさ 今宵は 月も 出ぬそうな |
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| 令和7年10月19日 | 月 |
| 今夜の月は実に美しいと思い、名月という言葉を実感として捉えることができた。 その秋の月が煌々と山小屋を照らしたときの澄み切った夜空の蒼は、悲愴としかいいようのない美しさであった。 星空もまた鮮烈であった。殊に月夜は、部屋一杯に青い光が差し込み、私はその静けさに身を浸している。 |
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| 令和7年10月12日 | 辛酸なめこ |
| 先日、ウィメンズフェスティバル、というイベントに行ったら美人女医がモテ術などについて語っていました。 男性はヒラヒラするスカートやキラキラ光るジュエリーは、男性の狩猟本能を刺激しますなど、モテテク以前に、付き合っている彼氏や夫がいる人にとっても、時々はやっておいたほうがよいことだと思います。倦怠期や相手の浮気を防ぐためにも・・・。 先日、そんな願いを叶えてくれそうな魔法の液体を入手しました。魔法の液体、と書くとうさんくさくて回春薬を連想させてしまいそうですが・・。 男性機能に効く成分が、ガラナやマカ、すっぽん、サソリ、ニンニク、ウミヘビ、八目鰻といった黒魔術的ブレンドであるのとは対照的に、女性の魅力を高める成分は花のエッセンスという、白魔術的な成分です。フラワーエッセンスの主な成分は、ダマスクローズウオーターや各種ユリ、ほか11種類のフラワーエッセンス。他にも、豊かさを引き寄せるエッセンス、愛情を深めるエッセンスなど、全部欲しい、引き寄せたいと10種類くらい飲みまくりました。するとその日は頭痛と吐き気に襲われて・・・欲張ったのが良くなかったようです。 |
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| 令和7年10月5日 | 落葉松 北原白秋 |
| 一 からまつの林をすぎて、からまつをしみじみと見き。からまつはさびしかりけり。たびゆくはさびしかりけり。 二 からまつの林を出でて、からまつの林に入りぬ。からまつの林に入りて、また細く道はつづけり。 三 からまつの林の奧も、わが通る道はありけり。霧雨のかかる道なり。山風のかよふ道なり。 白秋が三度目に結婚し、終生の妻となる菊子夫人は、この詩を見せられたとき、 「さびさびとした詩ですね。自然の心とあなたの心とが、響きあっているのですわ」と感想を述べた。 |
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| 令和7年9月28日 | 秋桜(コスモス) |
| ~うす紅の秋桜が秋の日の 何気ない陽溜りに揺れている このごろ涙もろくなった母が 庭先でひとつ咳をする 山口百恵のこの歌が流行るまで、「秋桜」という漢字の読みはあくまでも「あきざくら」であった。いまは、何の躊躇もなく「秋桜」と書いて「コスモス」と読ませる句を作る俳人も多い。とにもかくにも「秋桜」がコスモスの異称であることを国民に知らしめたのは、この歌の功績だった。 コスモスを離れし蝶に谿深し 水原秋櫻子 さだまさしが書いた詞には、当初「小春日和」という題名がつけられていた。唄い手のイメージに合わせて『秋桜』(コスモス)というタイトルに変更したのはCBS・ソニーレコードのプロデューサー酒井政利である。 「秋桜」のレコードが発売された三年後、山口百恵は金色のマイクロフォンを舞台のフロアにそっと置き、聴衆の前から姿を消した。 |
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| 令和7年9月21日 | 雨 |
| 雨の行方をふと考える。下水に流れ、川に流れ、海へ流れ、蒸気となり、霧となり、霞となり、また雨となり、くまなく落ちてきて草木を洗い、地下に沁みとおり、そして生命の根を養っている。 | |
| 令和7年9月14日 | 立川談四楼 |
| 「あいつより 上手いはずだが なぜ売れぬ」 森光子が若い頃作った川柳で、文化勲章を受けて披露しました。やはりそういうご苦労が…。 「ムダ飯を食ってなかったな」 森光子が芸術座を満員にした時、師匠の菊田一夫はそう言ってねぎらったという。 厳しくも、ちゃんと見ている人はいるんですね。 |
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| 令和7年9月10日 | 尖り石縄文考古館 |
| 茅野市の尖り石縄文考古館で国宝「土偶」(縄文のビーナス5000年前)と「土偶」(仮面の女神4000年前)を作りました。 指導員の北沢さんに教えてもらいながら、妻と二人で三時間かけて完成です。 縄文のビーナスは粘土に金色に輝く雲母が混ざっていて、ハート形のお尻が特徴的です。妊娠した女性の姿を表現しており安産祈願や子孫繁栄を願うマツリに使われたと考えられています。縄文時代の土偶で最初に国宝に指定されました。 仮面の女神は逆三角形の仮面をつけ、神に代わってマツリをする女性を表現したと考えられています。中が空洞のつくりで、表面はよく磨かれています。右足が壊れて出土し、縄文人が意図的に壊したものと考えられています。墓と考えられる穴から出土した数少ない土偶の一つです。 尖り石縄文考古館は国宝土偶をはじめ、テーマ別に3つの展示室があります。土器・土偶が沢山あり見ごたえ充分です。 |
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| 令和7年9月7日 | 俳句の種 夏井いつき 2 |
| どう頑張っても凡人の句しかできない。そんな悩みを語る俳句愛好者は多い。そんな人たちはたぶん、俳句は、自分の脳内にてゼロから何かを生み出すものだと思っているからではないか。私の体験的真実として語らせていただくならば、自分の脳から生まれるものは、概ね自分以下でしかない。 俳句は、自分の外にある全てのものとの交信だ。金木犀の香りも、秋の水の光も、私たちの脳内にあるのではなく、私たちの外にあるもの。それらから句材をもらい、十七音に切り取っていくのが俳句だ。 自分の周りにどれだけの素材があるか、どれだけの季語たちが語りかけてくれているか。それに気づきさえすれば、俳句は十倍カンタンに作れるし、十倍楽しくなるのだ。房総たまちゃんが、俳句のそんな小さな秘密に気づいてくれたのかもしれないと思うと、私の方が嬉しい。心からありがとうと言いたい。これからも一緒に俳句を楽しんでいこうね、と伝えたい。 |
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| 令和7年8月31日 | 俳句の種 夏井いつき |
| 2021年の道後俳句塾は、初めてのネット配信となった。私が特選に頂いた中にこんな一句があった。 向日葵の種山づみの保育室 当たり前のことだが、俳句における選は作者の名前を伏すことが鉄則。この日はリモート、後日送られてくる作品集で作者名を確認するしかない。私は作者名を知らぬままの数日を過ごしていた。ところが、ブログ「いつき組日誌」にお便りが届いた。 暴走・・いや、房総たまちゃんという俳号の、まだ会ったことのない組員からだ。 「組長、人生で五億円の宝くじが当たったよりも、もっとびっくりしたことがありました」 とは、いったい何かというと、「向日葵の種」の作者は自分というのだ。これには私の方が吃驚した。だって、これまでの投句からすれば、たまちゃんの俳句の腕は「身の丈で熱心に頑張っている凡人」て印象だったのだもの。あ、マジごめん、たまちゃん(笑)。 組長がかねがね「読み手に丁寧にバトンを渡す、そしてそれを受け取った読み手がその句の真意を読む」とおっゃっていましたが、今回は身をもって体験させていただきました。 子どもたちと種を蒔いて、水をやり育ててきて、そして満開の花が咲き、ここまででも大喜びでしたが、咲き終わって、その花を乾かし、半分に切って軍手で種を取ったら、面白いようにとれて、子どもが「先生種山づみだー」と言った言葉を使わせてもらいました。組長に、現場から出た句で頭で出た句でないと言っていただき、涙があふれました。続く |
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| 令和7年8月24日 | 長谷賢一 (愛知県三十歳) |
| 小学校は坂道の頂にあった。一年生のとき、どうしても学校に行くのがいやで、坂道の前まで行くのだが、そこで帰ってきてしまう。ついに学校に母が呼び出され、ぼくを必ず連れて行かなければならなくなった。 その日だけは母は怒りもせず、僕の手を引いて「この道はいつか来た道・・」と歌いはじめた。僕はそれから坂道の前に立つと、母の歌う「この道・・・」を思い出し、登校するようになった。学校も坂道ももう怖くなくなったのである。 卒業の日、坂道を下る途中、母に担任から教えてもらった言葉をいった。 「これまで育ててくれてありがとう」 僕も母も振り返って、空にとどくような坂道をしばらくの間、見上げていた。 この道 作詞 北原白秋 作曲 山田耕筰 この道は いつか来た道 ああ そうだよ あかしやの花が 咲いてる |
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| 令和7年8月17日 | 山田太一 脚本家2 |
| 中村登美枝さんの「生きて帰れよ」は、ある病院の患者さんたちの手記を集めた小冊子だった。 中村さんも敗戦を二十歳で、北朝鮮の慶興という町で迎えた。すぐソ連軍がやって来た。中村さんは脱出したが、兵隊だった初恋の人は逃げられず、シベリアに連行された。別れ際に恋人は「生きて帰れよ」といった。 地獄のような引き揚げ体験をして日本に戻った中村さんは初恋の人の帰りを待った。しかし、三年四年がたち、六年待ってもなく七年目にいまの夫君と結婚し、子どもも生まれた。十一年たって、やっと恋人が復員してきた。今更どうにもならない。別の人生を歩くしかなかった。男性も所帯を持った。 歳月がたち、共に老境に入って、お互い夫妻で一度会いましょうということになった。彼は八十三歳、中村さんは七十六歳。今更何の拘りもない。両夫妻は大人の振舞でなごやかに昔話をし、おだやかに終わることとなった。 ところが、立ち去りかける中村さんを突然彼が呼び止め叫んだというのだ。 「アイ・ラブ・ユー」と。 僕はこれで書ける、これで書けます、と南風さんに電話をしたのを忘れられない。 |
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