穴窯焚く 28 に続く

令和4年12月31日 晦日
山小屋の外に出てみると、霙まじりの雨が降っていた。
道の上に落ちる雨を見ていると、人が流す哀しい涙のように思えてきた。
今年も多くの隠された涙を見てきたし、また来年も涙と出会うだろう。
ひとが死ぬということは、いやでも自分のむかしを思い出させることでもあるのに、最近やたら気付かされている。
年を取ることによって背負わされてきた様々な過去を美しく捨てることによって、素敵に生きる老人の姿を見せたいものです。
今年は今日で終わり。
あなたにグッド・ラック (幸運を)

令和4年12月30日 黛まどか
  書かざりし日の あざやかに日記果つ
一年分の日記帳が終わりました。たくさん書くことがあった日、愚痴ばかりを書いた日…振り返るとさまざまな日がありました。
そんな中に何も書かれていない真っ白なページの一日が・・・。
サボったわけでも、書けないことがあったわけでもない。
あえて書かなかったあの日のことは今も自分の胸の中に大切にしまってあるのです。
白紙に記憶のディテールを一つ一つたどりながら、行く年を惜しんでいる作者です。

令和4年12月25日 年の瀬
歳と共に「わかったこと」は増えて行くが、皮肉にも「わからないこと」はそれ以上に増えて行く。
僕はすでに七十五歳、年金も受給している、まぎれもないヨタヨタの老人。
死神の恐怖におびえながら、前に進むより仕方がない。
まあいいか、明日があるさの繰り返し。
友の顔 思い出しては書く賀状

令和4年12月18日 黛まどか
  冬至湯の身に覚えなき痣ひとつ
毎年十二月二十二日頃は冬至です。一年のうち昼がもっとの短い日ですが、同時に春の到来を予感させる日でもあります。
この日は昔からかぼちゃを食べたり、柚子を浮かべた風呂に入ったりして疫鬼を払ってきました。
柚子湯に浸かっていたいたときに見つけた痣。いつどこでぶつけたのか全く覚えのない痣でした。
きっと何か懸命にやっていたのでしょう。自らの傷をいとおしみながら、一年を振り返る冬至湯です。

令和4年12月11日 高倉健
「網走番外地」を撮られた石井輝男監督。 その第一作は北海道で撮影しました。
ある朝、監督がいつまで経っても部屋から出てこない。
それで僕が部屋まで迎えに行ったら、疲れて起きられなかったでしょうね、監督は、まだ寝ていらした。
ふと見ると、監督の布団に雪が積もっていたんです。
窓ガラスが割れて雪が吹き込んで・・・。
その姿を見た時に、もの凄く感動したのを覚えています。
当時の僕はまだまだ新人の俳優で、監督なんて雲の上の存在です。
その監督がこんな貧しい部屋で、こんな寝方をしている。
雪が降り積もった布団で寝る監督の部屋を覗かなければ、
今の自分はないかもしれません。

令和4年12月4日 セピア色の映画館   田辺聖子

「監督と脚本(あるいは原作)と、俳優とがうまく人生の刻を同じくしてめぐりあい、情熱をともにわかちあうとき、
ー映画は窯変を起こして期待以上のすばらしい効果をもたらす。それはもう、神の領分としか、いいようのない次元である」
 ( 窯変という難しい字が書いてありますが、窯でやきものを焼いた時に、思いもかけない色が出ることです。)


令和4年11月27日 バーナード・リーチ
ある若い陶工が、優秀な古い伝統に忠実であれという私の忠告は束縛だ、と言って抗議した。そこで私は、
「謙譲におなりなさい。無謀な試みは消化不良という結果を示しているだけです。あなたが理解でき、感得できるときにだけ、新しいことを始めなさい。どんな国でも、ほんの少人数の人達だけが、この種の自然な創造能力を持っているものです」と。
西洋の暮らしの経験のない、あるいは乏しい人達によって作られた洋風の新しいデザインは、ほとんどが死産になってしまう。
もし私が、西洋で、ほんとに日本人に使えるデザインをしなければならないとしたら、その不似合いな結果を思って、ぞっとする。

令和4年11月20日 糸脈
「糸脈」という言葉があります。
江戸時代、患者が貴人の場合、医者といえどもその肌を見たり、ましてや直接肌に触れて診察することは許されず、脈をとるときは貴人の手足に巻き付けた糸を隣室で手にして、その振動で脈を診た、というものです。
冗談のような話ですが、どうも実際に行われていたようです。
ふざけた殿様が、こっそり飼い猫の足に糸を結びつけて侍医に脈をとらせたら、後から「薬」と称して鰹節が届けられたという笑い話があります。
しかし、果たして糸脈は可能でしょうか ? 通常の脈波は非常に弱いので、先ずは不可能です。

令和4年11月13日 写真
「え、これ、ほんとうにじいじ」 と孫が疑わしそうに言った。
誰にだって若い日はあり、花時はある。
ただし、人間は生老病死の四苦は逃れられない。生まれたら必ず死ぬように、若さは必ず衰え老いるのである。
二十歳の私と七十五歳の私が同じに見えたら、それこそ不気味である。
困るのは、人間の容れ物が、歳月と共に確実に老いを刻んでいくのに、中身の心というものが、一向に若い時と変わらないことである。
心というより、感受性とか感情といった方が正しいかもしれない。
老いれば感情も枯渇するのが当然だと教え込まれてきたが、絶対それは違う。
川田順氏と俊子夫人との恋は、「老いらくの恋」 との造語と関心の的になったが、あの当時、川田氏はまだ六十代の終わりで夫人は四十二でなかっただろうか。今なら何の珍しいこともない年齢である。

福田恒存家にある日、大岡昇平氏が電話したらお手伝いが出て、
「先生は只今風呂に入っていらっしゃいます」
といい、それでは奥さんは?と訊いたら、
「奥様も只今御入浴中です」という答えが返ってきたという。

秋灯り 机の上の 幾山河

令和4年11月6日 誕生日
なぞなそ好きなスフィンクスは、答えられない人を食べてしまう。
『声は一つで、朝は四本足、昼は二本足、夕は三本足とはなにか』
答えは人間。
赤ん坊のころは手を使って四つん這いで歩く。大人になると二本の足で立つ。歳をとると杖を使わなくてはならなくなる。
オイディプス王がなぞなぞを解いたところ、スフィンクスは断崖から身を投げて死んだという。
私もそろそろ三本になる。

Take it easy ! ( まあ、気軽にいきましょう !)

令和4年10月30日 ストレス
恵まれた境遇にある人は、年よりも若々しく、はつらつと見えるが、不幸な苦しい境遇にある人は、年よりもずっと老けこんでしまう。
この差を生み出す根本の原因は結局のところストレスなのだ。
ストレスは一定限度を越えたり、長時間持続して襲ってきたりすると、人間の体は、それに応戦しきれなくなる。
それが積み重なると、体内で生合成されるさまざまなホルモンのバランスが壊れてしまう。
ホルモンのバランスがこわれると、自律神経が失調して、血圧が異常に高くなったり、内臓の病気を誘発することになる。
中年男性に多い突然死とか、消化器系等の慢性疾患、あるいは癌細胞の発生と増殖など、いろいろとおそろしい障害をまねく。
体調がわるくなるから、ブクブク太ったり、逆に青白く痩せこけて、身体を老化させてしまう。
とすれば、我々が健康で長生きし、かつ、若々しくあるためには、ホルモンバランスを保つことが大切であり、ストレスをいかに退治していけばよいかということになる。
私は身をもって体験している。

令和4年10月23日 矢野誠一
1997年6月21日、65歳で帰らぬ人となった勝新太郎のことを、マスコミは 「最後の役者バカ」 と悼んだが、この偉大なるスターの死はそのまま輝ける日本映画の終焉をしめしているような気がする。
三途の川の渡り賃にと、五百万円が棺におさめられたという話は、勝新伝説の最期をかざるにまことにふさわしいものだ。
例のコカイン・パンツ事件の頃、銀座セゾン劇場で主演した 『不知火検校』 を上演している。
そのパンフレットに落款入りの色紙がカット代わりに使われていて、横にした三味線の絵の下に、
〜三味線のばちがあたって 夜もすがら
  あらぬ嫌疑を おれはしらぬい
とある。「嫌疑」 は 「けんぎょう」 と読ませたいらしいのだが、おもわず吹き出した。
「よく言うよ」とか「相変わらず能天気」といった式の、しごく世間並みの感性を吹き飛ばしてしまう時代離れのしたセンスが、勝新太郎という役者の身上だった。
石原裕次郎が世を去ったとき、「生きながら死んでしまっているやつが多い世の中で、死んでも生きつづけているのは立派」 と読んだ弔詞は、自分に語りかけていたのかもしれない。

令和4年10月16日 井口昭久     名古屋大学医学部付属病院長
鬱状態の症状に易刺激性というのがある。わかりやすく言えば傷つきやすいのだ。
他人には平気できついことを言うが、人からまともなことを言われると落ち込む。
各々別のところで起こっている事象が関係妄想により一連の被害妄想につながる。
自尊心の喪失、罪業感、自責感、無力感、そして対話の減少、対人接触の減少と続き、自殺念慮となるのが典型的な鬱の症状である。
酒を飲んでも治らぬのがこの病気の厄介なところである。
ところが私の場合、夕方酒を飲むと自尊心が復活し、罪業感、無力感が消えた。会話の増加、対人接触が増加した。
秘書に聞いた。「朝からずっと落ち込んでいたが、夕方ビールを飲むと気持ちよくなるけど、是なんて言う病気?」
秘書はじっと考えて答えた。
「アル中ではないですか」

令和4年10月9日 秋は夕暮れ
秋も深まってきた。
深まるのは、「秋は」でも、「秋が」でもない。「秋も」である。
山に暮らしていると四季の変化には敏感になる。
今年の秋は残暑のせいか、初秋、仲秋を飛び越えて、いきなり晩秋がやってきた。寒い。
そして、日脚が随分と短くなって驚くばかりである。
枕草子の昔から「秋は夕暮れ」といわれる。黄昏のはかなさにウェットな気分が絡むのだろう。
    「見渡せば 花も紅葉もなかりけり 浦のとまやの秋の夕暮れ」  定家
薪割しました。

令和4年10月2日 瀬戸内寂聴
大江巳之助さんの鳴門の仕事場をはじめて訪れた日のことを忘れられない。もう二十七、八年ほど昔のことだ。
徳島で生まれ徳島で育った私にとって、木遇(でこ)人形は、故郷の風や雨や陽の光と同じように懐かしいものであった。
私は木遇の動きから、この世にせつない愛や悲しみや、苦しみなどがあることを知った。
そして悲しみも苦しみも、愛と共に甘美なものだと教え込まれたような気がする。
木遇から私は、人には運命があることも教えられた。それが私の文学のルーツではなかったか。
鳴門の仕事場は往還に面した家で、土間に入ってすぐに仕事場があり、そこで巳之助はひとりこつこつ仕事をしていた。
私は、日本一の人形師がこういうささやかな仕事場で質素な暮らしをしていることに驚かされると同時に、何ともいえない深い感動を味わった。

令和4年9月28日
人はいくつになっても夢を語れるものだろうか。いや、いくつまでなら、夢を語っても笑われることがないのだろうか。
今回の作品をまずまずとみるか、夢の途中とみるか?

山の夕暮れは早い。
空がほんのり紫に色めいて、どこかで山鳥が鳴いている。

令和4年9月27日 窯出し
窯出しされた作品を見て一言。
才無く、財無く、夢のみ多く老い果てにけりってとこか。
責任者出てこーい!

令和4年9月18日 窯焚き五日目
  五夜焚く 窯の火落ちて 螻蛄(けら)の鳴く
ーーーおけら。直翅目ケラ科の昆虫。体長約3センチ。地中に穴を掘ってすみ、昆虫などを捕食する。
夜飛んで灯火に集まる。雄は春秋に土中でジーと鳴き、俗に「ミミズが鳴く」といわれる。
AM6:00〜妻と二人最終の薪くべです。灰を融かすため1300度まで上げる。
朝食後、ぐい飲みを引き出すと灰が解けている。
奥のゼーゲルを見ると7番8番が倒れている。
AM8:00窯を閉め水を撒いて秋の窯焚きは終わりました。
夜の寒さを優先してきて、昼間の暑さを考えなかった。反省。
10時間寝る。

令和4年9月17日 窯焚き四日目
いい作品は、作者の夢に何か見えないものの力が加わって出現するようだ。それこそが本当の芸術なのだ。
そんなことをあれこれ思い、土とたわむれて、日々をすごせるこの有り難さ。
 
窯吼える 千度の熱や 星流る
平林さんに、朝AM6:00からPM1:00まで応援に来ていただいた。ありがたい。
寝不足でくたくたです。朝小鳥が鳴いている。アキノキリンソウも咲いている。
AM6:00 1250℃まで上げました。
グリーンプラザホテルさんに昼の食事をお願いする。
今日は湊、野中、宮坂(由)、増澤さんにAM10:00〜PM3:00まで応援していただきました。
伊藤さんにPM1:00〜4:00まで応援していただきました。とても助かる。
PM5:00に1300℃まで上げました。その後、1250度で朝まで焚く。
PM7:00〜翌朝AM4:00まで、岩田さんにお応援いいただいたお陰で眠る。

令和4年9月16日 窯焚き三日目
    岩田一平
一万年にわたる縄文時代に日本でいちばん人口が集中していたのは関東である。
縄文時代は狩猟・採集生活である。イノシシやシカ、川魚は日本中にいた。しかし、
縄文時代の東日本はブナやナラなどの落葉広葉樹林が広がり、秋から春は森に深く入り込め、動物狩やキノコ採りもできる。
これに対し西日本はシイやカシ、クスノキなど照葉樹林に覆われていた。
樹木は高く生い茂り、冬も葉が落ちないため、地面はいつもじめじめして暗く、奥まで入り込めない。
だから、東日本の土地利用が面だったのに、西日本は線でしか土地が利用できなかったのである。
縄文中期になると気候が冷涼・湿潤化に向かい、三〜四千年前縄文後期には寒冷化でドンクリなどの木の実が不作、雪が多くなり、川から流れた土砂が海岸を埋め、貝も取れなくなってしまう。
東日本の縄文人が寒さでバタバタ倒れていた頃、人口の空白地帯だった西日本に、畑作や稲作の先端技術を持った弥生人が入植し、やがて弥生文化が全国に伝播した。
AM6:00  窯温度218℃、気温9℃、晴れのち曇り。午後晴れて暑い。
今日は小松、武井、林、宮坂(美)、中沢、山田、萩原さんにAM10:00〜PM3:00まで応援していただきました。
グリーンプラザホテルさんに昼と夜の食事をお願いする。シホンケーキも買う。とてもおいしい。
PM5:00に 800℃まで上げる。山鳥を久しぶりに見た。
午後3:00から9:00まで伊藤さんご夫妻に応援していただいた。
夜10時〜翌朝4時まで、岩田さんにお手伝いいただいたお陰で眠る。

令和4年9月15日 窯焚きニ日目
    「寅さん」   寺沢秀明
「君、上野の美術館に行ったことがあるかい」
「たまにですが」
「そう、たまにね。じゃ、たまには秋の一日、芸術に浸るなんてのはどうだい」との誘いで秋の午後、上野へと足を運んだ。
美術館では書展と絵画展がそれぞれ二会場で公開されていた。そのうち絵画展の一つが有料で、他は無料であった。
有料展を見終わったあと、無料展に入ったが、その途中小声でささやいてきた。
「あまり変わらないな」
確かに素人目ではあるが、無料と有料の差はないように見えた。
「有料展の方が権威ある展示会ってことですかね」
「わからん、でも、芸術が権威をもって動き出したら駄目だね。芸術には本来、権威なんていらないと思うよ。映画だって芝居だって同じこと。良い悪いを決めるのは全部観客、見る人なんだ」
  窯焚きの 煙真っ直ぐ 秋の空
ロストルで一日炙り焚きしました。
快晴で朝の気温10度、昼間は24度で暑い。焼肉うまい。
朝の窯温度180℃。平塚の山口さんに、遠いところをAM11:00〜12:00来ていただいた。
池田さん来る。木槿が咲きました。
AM6:00〜PM4:00。500℃まで上げました。
明日からの応援者のための食料品を買いに行く。

令和4年9月14日 窯焚き一日目
私は、山小屋のこの初めて来た時の初々しい感動を思い出した。
妻と阿部さんとあとニ・三人。見渡す限りの深い森、その一角を歩いた。

いつの間にか、外はすっかり暮れてしまった。
人の営みは、時の流れ。
遠くの町で花火が上がっている。
音の幽かな遠花火が、赤く、青く咲いては弾けた。
今、新型コロナは七波が少しづつ治まってきましたので、ワクチン接種済の全員参加で五日間窯を焚いてみます。
今回は私の目指す緋色にこだわって焼きます。

御神酒(秋田の純米大吟醸)・お米・お塩をお供えして、火の神様に二礼二拍手一礼で始める。
ロストルで一日湿気を抜くため火を焚きました。
朝の気温10度、曇りから快晴。窯場は28度で暑い。焼き芋うまい。
大葉、武村さんご夫妻が来られた。
温度管理のパソコンを岩田さんからお借りする。
AM7:00〜PM5:00。450℃まで上げました。

令和4年9月4日 渥美清晩節 その愛と死  篠原靖治
「オレかい?オレはね、ひとり静かに、誰もいない山道をとぼとぼとあるいていくんだよ。そうすると、枯葉がね、チャバチャバと手品師の花びらのように落ちてくるんだよ。
それでオレはね、ひとり静かにあるいていって、バッタリ倒れるんだ。そうするとね、枯葉がどんどん落ちてきて、オレはやがて枯葉によってつつまれて、かくれんぼしているみたいに見えなくなってしまう。そうやってオレは、どこの誰だかわからないように死んでいくんだよ

令和4年8月28日
薪を窯の周りに積みました。

令和4年8月21日 灰かぶり
灰かぶりは焼き直しが多い。レンガを詰めました。

令和4年8月16日 窯詰め
妻は家庭菜園で野菜を作っている。今年も大豊作。
 ばあちゃんの 野菜はうまい 孫も好き
秋の窯焚きは全員参加で窯焚きを行う予定です。
前の段窯詰
上 10×10 (45×30)

 12×12
  1
0×10

  11×11

12×12
緋色土、古信楽土の窯詰です

令和4年8月15日 青柳瑞穂君   井伏鱒二
青柳君は自分が何か掘り出しをすると、そのつど得心がいくまでその一点について研究する。
備前焼の種壺を堀だした時などは、憑きものがした人のようになっていた。
先の奥さんの話では、風呂に入るのにその壺を赤ん坊のように胸に抱いて入る。
お湯につかりながら、歯ブラシでごしごしこすっている。
夜は部屋の電気を消して蝋燭の明かりで見る。
ある時は殆んど夜明かしで壺を見て、朝から夕方まで眠ったこともある。奥さんがそう言っていた。
話半分としても、古備前の壺に心底から参っている様子が偲ばれる。
「ほんとうに浅間しくなります」と奥さんが言った。

令和4年8月14日 庄野潤三君   井伏鱒二
庄野君が奥さんと銀座で古備前名品展を見たとき、擂鉢の土の味に何とも言えぬ魅力があったという。
奥さんが「うちでも、こんな擂鉢が欲しい」と言った。
「うちじゃあ、こんな名品は買えないよ」と笑ったが、古備前の二石入りか三石入りの水甕を買いたいという。
私の故郷では、農家に簡易水道が出来て水甕が不要になったので、出物があり送らせた。
その後、庄野君を訪ねると水甕はピアノのわきに置いてあった。
昔伊部で拾った擂鉢の破片を、奥さんに提供したら、数日たって、奧さんら鄭重な手紙が来た。
先日は珍しい半地上窯の擂鉢の破片を頂戴して有り難いという前文で、
「しかし、庄野は私にあの破片をよこしません。あれを机に置いて原稿を書き、夕食にあれを洗ってレタスを盛ったのを置いてお酒を飲みます」と言ってあった。
それからまた幾日かたって、「あの破片を庄野が漸く私によこしました」と奥さんから手紙が来た。
「洗面器の水にあの破片を入れますと、割れ口につぶつぶの気泡が出来ます。その可愛らしい気泡が水を清浄にしてくれるような気がします」と書いてあった。
庄野君は、身辺にあるものは些細なものまで生かして行く生き方をしている人だ。
大昔の焼き物の破片まで生かしている。生かしているとは、詩にしているという意味である。
たまたま展覧会で古備前を見ても、さっとその魅力を感得する。
詩魂の問題ではないかと思う。
古信楽40K作品にしました。秋の窯作品完成です。

令和4年8月7日 私の魯山人観   梶川芳友
魯山人その人は、世評として決して評判のいい人ではなかった。
魯山人が一番大事にしていたのは鑑賞眼の高さを養うという事である。
物の良さを知るためなら大金を費やし、桁外れの感性であらゆることを犠牲にした。
私は、魯山人という人を、きわめて純粋に物に対した人だと思っている。
そうして、そういう思いを、自分と同じように、他人にも求めて結局理解されず、自らも傷ついたのではないだろうか。
純粋になればなるほど、一分とてゆるがせには出来ないのだ。
世間は、倣岸不遜を通したがため、魯山人の晩年は寂しいものだったという。
死の二か月前、鴨川の床で背に座布団をあて一人ぼんやりと東山を眺める魯山人最後の写真がある。
私の好きな写真である。
見るからに孤独な老人の姿であると人は評す。
しかし、私には物のわからぬ者たちとの戦いに終止符を打ち、自分が信ずる世界に、ある満足をもって一人入っていった人の清々しさが感じられるのである。
火色土40K作品にしました。

令和4年7月31日 これからも一緒  千葉県 大島千世子 47歳
ある夜、一度話し合っておきたかった年を重ねた二人の暮らしのことを切り出した。
「その時が来たら考えればいいさ」てんで問題意識のない夫。
心も健康のことも経済面も、準備できることはしておきたいのに。
翌朝、夫の嫌いだというオードトワレを派手にシュッシュッとつけた。
玄関で夫が「あなた好みの女にならない君と、今もこれからも一緒。頼りないけど僕がいるよ」 と・・・。
心の中に突然、「今日を生きよう」というフレーズが閃いた。
それはファンファーレというより口笛のように優しく聞こえました。
 中の段窯詰です。
上 10×10 志野
  10×10 黄瀬戸

  12×10 粉引き
  10×10
粉引き
12×12
備前土
粉引き、黄瀬戸、志野の窯詰です。

令和4年7月24日 作陶
師匠が旅立って二十年。
師匠は、人生で成すべきことはすでに成し終えていたから、枯淡の境地にあるように私には思えた。
  夢少し 残して発ちし 冬の旅
志野土40K作品にしました。

令和4年7月18日 窯詰め
轆轤を廻していると、案の定、雨が降り出した。雨足はかなり激しく、それに風が加わって、窓はがたがたと音を立てていた。
飲み残したままになっていた湯呑を片手に、ぼうっと窓の外を見ていた。
疲れが一度に体中に広がっていくように感じられた。
ほんの一瞬の間私はうとうとと眠ってしまったらしい。
雨と風はますます強くなって窓を揺さぶり続けている。
奥の段の窯詰です。10枚 ゼーゲル 7番、8番。
上 10t×10、10×10、15×15、10×10
備前土の窯詰です。

令和4年7月17日 笑い
つらつら考えるに、怒るのには理由がある。悲しむのには、ストーリーがある。
ところが笑いには理由もなければストーリーもない事が多い。
むしろその方がおかしい。
信楽土赤40K 粉引きの作品にしました。

令和4年7月10日 田丸公美子
有名人ではあるが、あまり賞に縁がなかったエレット・ソットサスが、岐阜県主催の第一回織部賞を受賞したのが1997年。
この賞は古田織部の独創的・自由闊達な精神を顕彰するもので、今織部が生きていたら
誰の作品を選んだかという視点で選ばれる。
彼は第一回受賞にふさわしい人選である。その時の彼の受賞スピーチ、
「生まれてこの方、私はいつも自問自答してきた。この地球上で、俺は一体何をしているのか。八十まで生きて少し疲れた無冠のシンプルなエレットがいる。そして今日ここで華やかな賞をもらったイブニング姿のエレットがいる。私はちょっと得意になり、とてもうれしい。でもこの二人のエレットは、これからどう折り合いをつけていけば良いのだろうか。こみいった問題を抱えてしまったけれど、私の残った人生に複雑さを与えてくれた織部賞に心から感謝します」
彼には、たくさんの仕事と恋人に囲まれて、もっと複雑に、もっとわがままに生きてほしいと思う。
南蛮土、黄土40K、作品にしました。

令和4年7月3日 田丸公美子
エレット・ソットサスはセクシーな建築家。
彼はオリベッティの工業製品をデザインしているにもかかわらず、自分はアーティストだと断言する。
「デザイナーとアーティストの最大の違いは注文主がいるかどうかだ。デザイナーは注文がないと何一つ作れない。アーティストは客のあるなしにかかわらず、作品を作り続ける。この前作ったソファー、客がここの黄色は嫌いだから茶色に変えろというんだ。一体画家が描いた絵の中の色を変えろなどとという客がいるだろうか。僕は芸術家だから、作品に注文を付けられることに我慢がならない」
おそらく金のために仕事をしたことなど、一度もないのではないだろうか。
彼は好きなことだけを楽しんでやってきた幸せなアーティストであろう。
秋の窯焚き用の粘土を用意しました。
備前土40K、五斗蒔40K、南蛮土、黄土40K、赤津土40K、信楽土赤40K、古信楽40K、火色土30K。
備前土40K作品にしました。