令和四年秋
二十七回穴窯を焚くに続く



令和4年6月26日 青柳瑞穂君   井伏鱒二
僕が徴用されてマレー半島へ行くときには、青柳君が小さな仏像を持ってきてくれた。
高さ一寸ほどの金銅の菩薩像で、鎌倉時代の武将が出陣の際に兜の頂辺に納めていたお守りである。
「鎌倉時代には、こんなものをたくさん鋳造していたらしい。
江戸時代にも、この模造品を作る人がいたそうだ」と青柳君が言った。
この模造品に時代をつけて見せるには、それを鶏に飲ませて胃袋の砂で揉ませるのだという。
僕は無事にマレーから帰って来た。

令和4年6月19日 山川あかり 東京都 24歳 父の日
青年時代から貿易商になる夢を追い続け、
運に恵まれずとも今なお努力している父は今年59歳。
定収入や肩書には全く無縁。
喧嘩した時、一人娘の私が「情けない」と罵ってしまったら、
「わかっている」と一言答えた。
ごめんね、お父さん。
他人の物差しなんかどうでもいいのに。
私にとって一人しかいない父の、一つしかない生き方。
私が応援する。
今まで言えなかったメッセージ、少し大人になって今年は言いたい。
お父さん頑張って!

令和4年6月15日 作品
私は作品の説明をしない。すれば私の押し付けになる。
というのも、展覧会に行って、傍であれこれ説明されるのが私は嫌いだ。
すきに見せてくれと言いたくなる。
説明はしないけれど、観た人はいろいろな思いを言ってくれる。
  遠い日の 土の記憶か 緋の器

令和4年6月14日 窯出し
窯を開けると緋色が鮮やかに焼き上がっている。
ゼーゲルは7番倒れ、8番は半分倒れている。
紅志野、サヤの備前火襷、全部良い焼きである。
灰はカサツキもなく、よく溶けている。

令和4年6月12日 私の魯山人観   梶川芳友
魯山人の器を初めて知ったのは、二十代の初め、人に連れられていった料亭で、ごはんを盛った飯茶碗を手にした時だった。
北大路魯山人という名前をその時初めて知った。若く貧しい頃のことである。
私は、茶碗一つで、食事そのものがこんなにも変わるものかと驚いた。
貧しい若者にとって、食事に使う器に心を配る、まして凝るなどということは、考えもつかぬ贅沢だろう。
私は、魯山人の器を初めて手にしたときのその生理的とすらいえる心地よい感触に戸惑いを感じた。
自分が日々使っている食器の貧しさを知って、思わず赤面したのを覚えている。

令和4年6月5日 窯焚き五日目
今はものを創造する力、美を生む土壌は衰退している。
芸術や工芸は古典の模倣の領域しか残されていないのだろうか。
「アルス・ロンガ・ヴィタ・ブレイヴィス」
「 芸術は長く、人生は短い 」 ヒポクラテス
PM6:00 夕食後、何時に窯を止めれるのかと岩田さんと妻と最終の薪くべです。
奧の温度が1200度以下では7番が倒れないので、1250度まで上げる。
PM10:00にぐい飲みを引き出すと灰が解けている。
奥のゼーゲルを見ると7番が倒れ、8番が半倒している。
午後11時窯を閉め水を撒いて春の窯焚きは終わりました。
翌朝九時窯温度770度。その後2日間9時間寝るが体重3キロ減、妻は1キロ減でした。

令和4年6月4日 窯焚き四日目
窯は白く熱をうけ、煙突が黒煙を吐き、音をたてている頃の私は、
埃だらけで、泥にまみれた仕事着に、土に汚れた靴を履いて薪を投げている。
半年の労働をこの仕上げの三時間にかけて走り回り汗を流す。
火が持つ力を感じる時である。
朝四時夜明け。気温五度。小鳥が鳴いている。寝不足でくたくたです。
AM6:00 1250℃まで上げました。
平林さんに、朝AM6:00からPM1:00まで応援に来ていただいた。
今日は湊、野中、伊藤、増澤(規)さんにAM10:00〜PM3:00まで応援していただきました。
岩田さんに、PM4:00からPM11:00まで応援に来ていただいた。
PM5:00に1300℃まで上げました。ゼーゲルを見ると7番が倒れていないので三人で夕食にする。

令和4年6月3日 窯焚き三日目
人生の流れは、何気ない他人の言葉がきっかけになって、その方向を百八十度変えてしまうことがある。
赤ん坊の時から、老いて死ぬまで、他者との出会いに何かを期待し続ける。
AM6:00 窯温度230℃、朝の気温10℃、晴れ。昼は20度。
今日は小松、武井、林、宮島、宮坂(美)、中沢、山田、加藤さんにAM10:00〜PM3:00まで薪運びの応援していただきました。
グリーンプラザホテルさんからシホンケーキを買う。応援の人達がとてもおいしいと言う。
PM5:00に900℃まで上げました
午後3:00から翌朝AM6:00まで妻と二人です。妻が夜11時まで焚いてくれましたので4時間ほど休みました。
真夜中は本を読みながら焚く。薪の燃える音で燃え具合の判断をしています。
炎を引いたり引かなかったり目まぐるしく変わるので、とても忙しい。そしてとても寒い。

令和4年6月2日 窯焚きニ日目
いたずらに技巧のみを追い続けるを良しとするより、平凡でもほっとする手作りの味を大切に、またそれを評価するゆたかな心と目を大切にしたい。
ロストルで一日炙り焚きしました。
快晴で朝の気温8度、昼間は20度、朝の窯温度180℃。春ゼミがうるさい。
湊さんがAM10:00〜PM2:00応援してくれた。
夕方、明日からの応援の人達の食事の材料を買い出しする。
AM7:00〜PM5:00。600℃まで上げました。

令和4年6月1日 窯焚き一日目
「縁」というのは、私の好きな言葉の一つ。
辞書に、「家の外側に添えた板敷」 つまり、縁側とあるのも懐かしいが、つづいて、
「人と人、または人と物事を結びつける不思議な力」
とあるのが嬉しい。
今、新型コロナが少し落ち着いたようなので、全員参加で四日間窯を焚いてみます。
今回は私の目指す緋色にこだわって焼きます。

御神酒(秋田の純米大吟醸)・お米・お塩をお供えして、火の神様に、二礼二拍手一礼で始める。
昨日は夕焼けしました。今日は快晴で暑い。不如帰、カッコーが鳴く。
ロストルで一日湿気を抜くため火を焚く。
朝の気温6度、昼間は20度。窯温度7.5度。焼肉、焼き芋うまい。
AM大葉さんご夫妻が来られた。PM武村さんご夫妻が来られた。
温度管理のパソコンを岩田さんからお借りする。
AM7:00〜PM6:00。450℃まで上げました。

令和4年5月29日 第69 回日府展
第 69 回日府展が始まりました。
  東京展は、5月19日〜27日まで東京都美術館。
  名古屋展は、6月8日〜12日まで愛知県美術館です。
    増沢道夫 (参事) 緋色壺   入選
    増沢ふみ子 (会員) 茜雲    日府努力賞
    湊 美由紀 (一般) 初夏の雨   東京新聞賞
昨年は活動を停止した下諏訪美術会。
今年はコロナ対策を徹底して活動します。
下諏訪美術会 会員小品展が5月29日〜6月3日おこなわれます。

令和4年5月22日 得よ
やきものを知るには何から始めればよいかと人に聞かれる。
それは何からでもよいが、大切なことがある。
それは 「得よ」 という事である。求めるという事。よく 「買ってみないと本当のことはわからない」 という。
自分の持っているお金を手放して、その物を手に入れてみるということが必要である。
必要というより焼物がわかるのに近道である。
所謂、痛い思いをして身銭を切って買ってみると、それが良かったにしろ悪いものであったにしろ、焼物がわかるという上には非常の影響がある。
そんなものではないと笑う人がいるかもしれないが、
他人の物を見て歩くだけの人と、自分のものにしようという愛着心をもつ人は、どれほど器物を理解する上に知見を早めるか知れない。
  『求めよ、されば与えられん』???   イエスキリスト
窯の前の棚に、パレット三枚分の薪を用意しました。

令和4年5月15日 井伏鱒二・・・  窯詰め
昭和十五六年ころ古備前が値上がりし当時、東京の商人が土塀の上の破片をよく買いに来た。
なかには、ある家の土壁をそっくり買って、塀土に塗り込んである匣鉢まで持っていく商人もいた。
田圃の石垣も匣鉢で築いていたので、夜にまぎれて堀取って東京の商人に売るものもいる。

水瓶の破片が、今にも塀の上からずれ落ちそうになって、その塀の内側の木犀がどっさり花をつけていた。
その家から少し離れたところの古めかしい商家には、通りの方に向けて棚が立ててあった。
これは備前焼を並べる商品棚で、上の段になるほどよく焼けた商品を並べる風習である。
だから色の黒い人のことを 「伊部の上の棚」 と云うのだそうだ。
灰かぶり(古信楽)の窯詰です。レンガを詰めました。

令和4年5月9日 窯詰め
春の窯焚きは全員参加で窯焚きを行う予定です。
前の段窯詰。
上 10×10
  1
0×10

  12×12
  15×12

15×12 サヤ
緋色土、古信楽、並越の窯詰です。

令和4年5月8日 有村雅子 鹿児島市 母の日
最近、小学二年生になる息子と本気の言い合いになることが多い。
「お母さんが朝起こしてくれなかった」
「お母さんは妹とばかり仲良くして、僕とは遊んでくれない」 など・・・
私は 「そんなことで文句言われる筋合いはない」 と本気で叱る。息子も本気で文句を言ってくる。そんな日常の中で・・・
「はい」 と小さなメモを渡された。
『おかあさんへ
すごい、やさしいと思っています。口ではひどいことばをつかうけど、心の中ではありがとうと思っています』
息子に "やられたー" と思いつつ、涙・・・。
こちらこそ、ありがとう。
 中の段窯詰です。
8×8 (30×45)1枚
  10×10 志野
  10×10 志野

  10×10 黄土
  10×10
黄土
12×15 サヤ
(チップ)
黄土、志野・赤土の窯詰です。

令和4年5月7日 目の見えない男たちと象・・・窯詰め
あるとき、三人の盲目の男たちが動物園に行って象にふれた。触れて、どんなものかを知りたいと思ったのだ。
最初の男は両手で鼻を撫で、”へえ、象というのは長くて細いものなんだ”といった。
二番目の男は脚に触れて、”いや、象はまっすぐで太いものだ”という。
三番目の男は上の方を手探りして耳に触れ、こういった。
”二人とも間違ってる。象というのは薄くて、ひらひらしていて、傍に立つと涼しい風を送ってくれるものだよ”
さて、私は物事の全体像が本当に分かっているのだろうか。
 奥の段窯詰です。
10×10 (30×45)
1枚
  8×8 皿

  8×8 皿
  15×15
サヤ
10×10

備前土、南蛮土の窯詰です。

令和4年5月5日 志村ふくみ (人間国宝 染色家)
師と仰いでいた陶芸家の富本憲吉先生が、
「あなたは織物以外に何が好きか、織物はほうっておいても毎日やる。それ以外に好きなことはないか」と。
「工芸は手でする仕事、おのずと技術は上達する。そして行き詰まりがくる。仕事の内容を豊かにするのは技術ではない。それは後からついてくる。何か勉強をしなさい」。と、私はすぐ 「文学が好きです」と答えた。
「そうだ、本を読みなさい、古典を読みなさい。それが仕事の潤滑油だ」と。
師の言葉はその時私にとって、遺言のような気がした。
志村ふくみは第一随筆集「一色一生」で大佛次郎賞、第二随筆集「語りかける花」で日本エッセイスト・クラブ賞受賞

令和4年5月4日 志村ふくみ (人間国宝 染色家)
ふくみは伝統工芸展に着物を出品しようとした。ところが織っていてもどこか空々しく、作為のない美しさが出せない。
黒田辰秋に、「昔の人の無意識、無作為の美しさが私にはもうない。すでに意識があるから汚くなってしまう。だから織れません」と言うと
黒田は「そんなはずはない。昔の人は民謡を聞いていた。今あなたはブラームスやベートーベンを聞いている。
その人間が織れば、昔の人と違うのは歴然だ。じャあ意識的にやればいいじゃないか」
自意識に目覚めた近代人が、昔の人のようには無理だ。
むしろ自分の自意識、心の風景を織り込んだ作品を作ることが、現代の織だとふくみは悟った。
次の日から、織り始めたふくみは何を考える間もなく、次つぎと新しい縞やぼかしが生まれてきて、気が付けば着物が織りあがっていた。
秋の空に霞がたなびくような着物、「秋霞」。生まれて初めての作品らしい着物だった。
着物を見た母は、「あんたはもうこれ以上の着物は織れないよ」と謎めいた言葉を発した。
ふくみは後年になってその意味が分かった。
すべてを投げ出して「もうこれしかない」という絶体絶命の気持ちで織ったからこそ出来た着物だった。
染織家・志村ふくみの誕生の瞬間であった。
晩年、ふくみは「秋霞」以上のものは織れていないと述懐している。
志村ふくみは紬織りで人間国宝。「秋霞」は京都国立近代美術館蔵

令和4年5月3日 志村ふくみ (人間国宝 染色家)
柳宗悦の「心喝」(こころうた)を若い時にも読んだれど、その時は柳先生の気持ちをわかっていなかった。
「心喝」は命がそう長くないことをわかって、最後の時に人間は、この世の中をどう見るか書いていらっしゃる。例えば
「花 見事に咲きぬ 誇りもせで やがて うつろいぬ つぶやきもせで」って。
花が見事であるということがわかるのは自分も死が近いからなのね。
昔、病床の先生の所へお見舞いに伺ったことがあるんだけど、片手が不自由だったのか、床の中に伏せながら片手だけで合掌してくださった。「さようなら」ってされたの。
そんな晩年の先生にお話を聞いたことを「心喝」を読んで思い出した。
ああ、あの時先生はこういうことを思っていらっしたんだなあっと。

令和4年5月1日 中西裕子
その時私は大学病院の放射線科にあるコバルトの待合室で、本を読みながら順番を待っていました。
昭和六十二年の秋に、私は左胸の乳がん、そして皮膚がん、また右の乳がんとなって、その度にコバルトの部屋へ二十数回のサイクルを三度続けて通う羽目になったのです。私にとっては、ここに座っているだけで苦痛の日々でした。
本の頁をめくっていて、隣席の二人の女性の話が聞こえてきました。
「奧さんね、私ね、とっても素晴らしいことが分かったんです」 その話によると、
その女性は何ヶ月か前に癌の手術をされ、ドクターから 「後三ヵ月の余命です」と告げられたそうです。
後、三ヵ月の命なら今したいことをし、思い残すことの無いように過ごそうと夫婦で考え、今まで節約してためた貯金を思い切って下ろし、ばっと使ってみようと思ったというのです。
高級ブティックで高価な服を買い、一流ホテルのディナーに夫婦で出かけたりしました。
夢のような素敵な夜を過ごし、「なんてすばらしいこと」と感激したのでした。そんなことを二度、三度と続けたのだそうです。
続けていると最初の時のように浮き浮きとせず、なんだか空しくなって 「なんでこんなことしているのかしら」 と考え淋しくなったのです。
「でも私はわかったんです。あれから三ヵ月以上たっているのに、私はこうして生きている。これ以上の贅沢はありません。今この命ある幸せを噛みしめ、一日一日を大切に過ごしたいと思っています」と 彼女は話を結びました。
私はこの女性の話を聞きながら「そうです、そうです」とうなずいていました。
ふとその人を見ると、実に幸せそうに、笑顔がとても美しく輝いて見えました。
そして、「私も今この過酷な運命を受け入れ、この与えられた命を大切に毎日精一杯生きていかなければ」と思ったのです。
この時から私はもうコバルトの部屋に行くのが苦痛ではなくなりました。
石膏の型を作りました。
灰かぶりの大物作品が40Kg出来ました。春の穴窯作品完成です。

令和4年4月24日 作品
良寛は、きらいなのは 「書家の書と料理人の料理」と、言っている。
でも、芸術というのは、本来そういう気骨や気概の中から生まれなければならぬもの。
どれほどうまくても、他人の真似をしたものほどくだらないものはない。
村から赤松材を頂きました。

令和4年4月17日 作品
繁栄はいつまでも続くものではなく、天変地異という言葉があるように、すべては急に変わる。
昨日と今日は似ている。何も変わっていないように思える。
でも何かが不意に変わる。
人間 一寸先は闇。
古信楽の作品が40Kg出来ました。穴窯を開けて湿気を抜きます。

令和4年4月10日 作品
小学生時代に先生から 「君はやろうと思えばできるんだけど、全然そういう敵愾心が無くて」と、
言われていましたが、思い返せば私はいつも傍観者でした。
並こしの作品が40Kg出来ました。

令和4年4月3日 般若心経
今、陶板に般若心経を書いている。般若心経の中心は「色即是空」。
経典は262文字で構成されているが、「空」は前半に七回出てくる。
一方「無」は中心部に出てきてニ十一回も繰り返される。
「空、空、空、空・・」と七回唱え、「無、無、無、無・・・」とニ十一回唱える。
私達の感覚では「空」はつかみがたいが、「無」はすーっと入ってくる。
お遍路さんが白装束に菅笠、背中に 「同行二人」 と書いて杖を突き鈴を鳴らして歩く、これがまさに「色即是空」です。
根本的に、死は「無」である。「無」に対しては、いかなる準備もなすすべがない。
緋色土の作品が40Kg出来ました。

令和4年3月27日 しおり
"しおり"には枝折と栞の二通りの表し方がある。
枝折は山道などで目印のために木の枝を折って道しるべとすること。
樵や狩人が山奥深く分け入るにあたって、帰り道の目印にしたことが始まりと考えられる。
ある理学博士は、この木はシウリザクラであるといっている。
学名のSsioriはシウリではなく、シオリであり、今でもシオリザクラと呼ぶ地方がある。
この木は、別名、ミヤマザクラと呼ばれるだけあって深山に多く見られるが、何よりも紫色を帯びた褐色が大層目立つ樹皮であり、そのことを枝折の木である決め手とされている。
さて、一方の栞は書物の読みかけたところなどへ、はさみ込んで印とするものをいう。紙や布、皮、ひも、落ち葉などいろいろである。
近年では旅のしおりとか、入学のしおりなどと、手引き的な意味合いにも栞が使われている。
黄土・南蛮土の作品が40Kg出来ました。
粉引きの作品です。

令和4年3月20日
また春が来た。
私のように年をとると、その新生の喜びは若いときのようには感じられなくなった

  いさぎよく 窓あけて より春めきぬ
備前土の作品が40Kg出来ました。
志野の作品を釉掛けしました。

令和4年3月13日 作品
私が一番困るのは、「時は金なり」 の時代遅れの考え。
早く早くと作品を作ってしまいます。
赤土、粉引きの作品が40Kg出来ました。

令和4年3月6日
晩節とは、めぐり合わせなのではないだろうか。
誰しも、志を持ち、それをよすがに長い年月頑張り通してきたわけであるが、 「いったい自分の人生とは何だったのか」 と、
改めて過ぎ来し方を恨みを込めて振り返る人は少なくない。
晩年は、現世欲から早く自分を解放し、未練を圧殺して余生に身を委ねることではないだろうか。
物事はすべて心がけ次第、昔を今になすよしもがな。
物欲だけでなく、意欲もまた老いて盛ん過ぎるのは禍の元と知るべきであろう。
志野土の作品が40Kg出来ました。

令和4年2月27日 歪み
不の字と正の字をくっつけて 「ゆがむ」 という字になる。
やきものは正しい形を造っても乾かすうちに歪みがくる。素焼きで又狂いがくる。薬をかけて焼きあげると又多少の歪みが出る。
大きさはロクロで挽いた時より約二割方小さくなってくる。
窯の中でも歪んだり、いびつになったり、凹んだり、はじけたりする。これを自然のゆがみといいたい。
昔の人は、この自然のゆがみが一種の景色をつくり風情を添えることに興をもって、さまざまな銘を付けたり、因縁をつけたりしたものである。ところが、時代が悪くなり、趣味好尚が堕落するにつれて、器物のどこかに歪んだ景色がないと承知しなくなってしまった。

令和4年2月13日 富本憲吉
身を市政の泥に委して われ陶器す
古語に 心 風塵の外にありと
老残 生くる日少なきを知る
われは泥にまみれ 風にふかれて 只陶器す

令和4年2月6日 志村ふくみ (人間国宝 染色家)
「わびさびの域より更に老いの春」
という句がふとおもい浮かんだが、先頃織り上げた着物がまさにわびさびのかけらもない、明るくてどこからか祭囃子が聞こえてきそうなのに我ながら驚いて、こんな年になってもうすこし渋いものが織れそうなものなのにどうしたことだろうと思っていると、
「作品のピークは四十代、五十代よ」と友人の鋭い言葉が返ってきた。
「じゃ、それからはどうなるの」とたずねると、「まあ平凡になるわね、穏やかになる人と、幼子にかえる人もあるんじゃないかしら。
その他は枯れちゃうの」と、なかなか辛辣である。
こんなに長くひとつの仕事をしていると、自分の作品がいいんだか、わるいんだか、今自分はどこを歩いているのか、わからなくなる。
というよりあまり気にしなくなる。
令和4年1月23日 技術と芸術    加藤卓男
陶芸を含めて工芸とはいわば技術のイメージ化である。よき技術なくしてはよい工芸制作の出発点に立つことはできない。
工芸にとっては技術の錬磨が何より大切であり、繰り返し反復することが技術を高める。
しかし、ここで大切なことがある。技術が特別に優れているからといって必ず美しい作品ができるとは限らないのである。
縄文式土器と弥生式土器との比較がいい例である。弥生式土器が始まるころには、技術的にはるかに進歩し形も整ってきたにもかかわらず、縄文のあのたくましい空間的なダイナミズムは影を潜め、静的で平板になってしまった。
練達の技術は発想・構想した美的イメージを具現するのになくてはならない力ではあるが、それだけで美しい作品を生むことはできないのだ。なぜなら醜いものを極めて手際よく作るということが決して稀ではないから。

令和4年1月16日 技術と芸術    加藤卓男
先年、私は景徳鎮を訪れてびっくりした。
美術館の最期の部屋に現代の陶磁器が並んでいたが、見るに堪えない作品のオンパレードだった。
例えば、器面に梅の一枝を描くにしても、微に入り細をうがってまるで写実画のように掛かれているが、絵が巧妙すぎて絵画としてみるべきか、陶器の絵付けとしてみるべきかが判然とせず、どっちつかずになっているように思った。
本来は紙に描くべき絵を、焼き物の器肌に描いたことがそんなにえらいことだろうか。
それは「芸当」というべきものではないか。
中国の陶磁の歴史を通覧してみると、十二、三世紀の宋代の芸術的香気に満ちた作風をピークに、しだいに技術偏重の傾向だけが強調され、清朝末期から現代にかけてはかっての高雅な風格は見る影もないというのが実情である。
世界各地の古窯址を発掘しながらいつも不思議に思うことがある。
遠い昔にどうして、このような現代人の目から見ても素晴らしい造形の作品が生まれたのであろうか、と。  続く

令和4年1月9日 短歌
「平凡に生きよ」と母がいいしこと 朱の人参刻めば恋る    生方たつえ   明治三十八年 三重県生
自叙伝を書く日あらんと思いしが 書き遺しなきこと今はなし   
高安国世   大正二年 京都府生

さらさらと川は流れて石のみが じっと止っておりにけるかも    山崎方代   大正三年 山梨県生
 この歌を読んで、ああ、人生というのは、旅だなァ、と感じたら、この歌はその人のためにあると思う。
山崎方代は七十歳で逝去したが、最後の歌集「迦葉」の巻尾の一首
 詩と死・白い辛夷の花が咲きかけている

令和4年1月5日 赤い簪(かんざし) 2      佐藤英一
数か月後、私はT教授の命令で海辺の無医村にいた。
午前中の患者を診察し終わり診察室でほっとしていると、土地の人とも思えない、盛装した中年の婦人が入ってきた。
どこかで会ったような記憶があった。
「突然で失礼ですが、S先生でいらっしゃいますね。初めてお目にかかります。私はKの母親でございます。
娘は数か月前突然奄美に帰ってきました。白血病でした。T教授の添書もあり島の病院で治療をしていただきました。
私は大学病院で治療を続けたらと申したのですが 『私は看護婦だからこの病気の予後を知っているのよ。いずれこの白い肌も内出血で斑となり、治療の副作用でこの黒い髪もすっぽり抜けていくのよ』 と申して言うことを聞きませんでした。
『お母さん、あんな強そうな象でも死ぬ時は群れを離れて死ぬそうよ。だからK市を離れてきたの、せめて私のはかないプライドなのかな』 と息を引き取りました。
遺品を整理していますと、S先生あての包みが出てきました」
包みを開くと、あの時Kさんの髪を飾った赤い珊瑚の簪が光っていた。
空耳だろうか。波の音に乗って奄美の民謡が頭の中を通り過ぎていった。
令和4年1月4日 赤い簪(かんざし) 1      佐藤英一
黒地に赤い模様の入ったかすりの着物を着てすっとKさんは立っていた。高く結い上げた黒髪にビー玉ほどの赤い珊瑚の簪が真一文字に挿されていた。緑の芝生を敷きつめたラグビー場の中である。すらりとした長身に色白の顔が月に照らされて浮かんだ。
突然Kさんは奄美大島の民謡を口ずさみ、軽やかにしかも優雅に踊りだした。
「S先生、ご存じ。これ私の故郷の踊りよ。そら、先生も一緒に踊りましょう」
彼女は附属病院一の美人の看護婦である。今日、回診の帰り、後ろからKさんが話しかけてきた。
「突然で驚かれるでしょうが、今夜どこかでお食事をご一緒しません?」
食事のあとホテルの最上階のバーの窓際で話が弾んだ。眼下に緑のラグビー場が見渡せた。
「先生、あのきれいなグラウンドに連れてって」小さな唇がささやいた。とても満ち足りたデートだった。
それ以来Kさんは病棟に姿を見せなかった。たまりかねて同僚の看護婦に尋ねた。
「あら、S先生、ご存じなかったの、彼女は五月一杯で辞めてお国の方に帰ったわ」
何度もKさんの故郷に手紙を出した。いつまで待っても返事はなかった。 続く

令和4年1月3日 石川啄木
  年明けてゆるめる心
  うっとりと
  来し方をすべて忘れしごとし   石川啄木

若い頃、少々の無理をしても一晩ぐっすり寝れば、次の日、体力は回復したものですが、最近は何もない平らな道を歩いていても、足がつんのめったりする。ただただ足が上がらない。これが老いというものか、と不安になります。
昔から道楽と言えば飲む、打つ、買う、なんて言っていましたが、年を重ねるにつれて、薬を飲む、点滴を打つ、紙おむつを買う、となり寂しいかぎりです。

令和4年1月2日 緋色窯・陶器の宴
陶器の宴といっても、ワカメの三杯酢、アジの塩焼きに清酒一本という、ごくささやかな宴であります。
貧しいあるじはそれでも少しでも華やかな雰囲気をと、自作の花瓶に椿の花を投げ入れたり、笑止なことであります。
けれどもそのような、あるじの生真面目な意をくんで、これからも緋色窯と末永くお付き合いくださりますよう・・・・。
   屠蘇祝 新宮殿の壺つくる
    いのりのほかに なすすべもなし
備前の陶を焼く 藤原啓

令和4年1月1日 元旦
   手のつかぬ月日ゆたかや初暦    吉屋信子
おろしたてのカレンダーを前にして、誰もが抱く期待。
小さなことでもいい、ひとつでも心に叶う事がある日が欲しい。
さて、年の初めにふさわしいこんな句もある。
   初暦知らぬ月日は美しく    吉屋信子

去年はコロナウィルスで自粛生活を強いられました。
五日間の窯焚き、徹夜はとても大変です。今後窯焚きが出来るのかは微妙です。
今年は、マダラぼけの頭を叩きながら、仲間の力と知恵を借りて年二回の窯焚きに挑戦します。

春の窯焚きに向けて準備をしていきます。