令和3年12月31日 | 大晦日 |
いつの間にまためぐって来たのやらと思う年の瀬に、もう年を数えるのは辞めようという気分になっている。 若い気も 喪中はがきで 老いを知る |
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10月に個展をしました。 グループ展を十数年続けました、がそれから久しく個展をしないまま歳を重ねました。 このあたりが時期であろうと個展をしました。 付き合いは、縁のものと思う。 付き合い得たこと、これは何でもないように見えても、実は人生の意義を深めている大事なえにし というものだと思います。 縁が無ければ、願っても近付きを得ることかなわずに終わる。 今回の個展は、縁ある良い人たちに囲まれて開催できました。 皆さんに感謝です。 |
令和3年12月26日 | 日 |
人間が小さいせいか私は借金が出来ないタチである。 どんなに苦しくても誰かから借りたりしないで、自分の力だけで分相応に暮らしたいと思っている 去る者は日日に疎し |
令和3年12月19日 | 夫婦茶碗 宇佐美和子 |
喜びも悲しみもまた独りなり 小さき声で逝きし夫呼ぶ 夫が急逝して二年三ヵ月が過ぎました。健康というより、頑丈という言葉がぴったりする人でした。 平成七年一月三十一日、とても寒い朝のことです。散歩から帰り、いつもと変わりない様に見えた夫に、突然襲ったのがくも膜下出血、意識の戻らないまま三日後の早朝、夫は息をひきとりました。六十六歳でした。 失ってはじめて、心の底からの寂しさを思い知らされたのです。 妻の私に、看病らしい看病も、世話もさせなかった夫の供養に短歌をまとめ、タイトルを 『いい人生をありがとう』 としました。 陶器市めおと茶碗に用なしと 雑踏の中孤独が過る 息子が気晴らしになるだろうと、益子の陶器市に連れて行ってくれました。 陶器市で並んでいる夫婦茶碗を、見ないようにしている自分に気づきました。この寂しさ、息子には内緒のままです。 孫の保育園への送り迎えの道すがら、つい覗いてしまうお宅があります。二人とも八十歳前後でしょうか。 ご夫婦が支えあって生活しているお宅です。羨ましいですね。 私もこの方達のように、夫婦揃って年齢を重ねることと、疑うことなく思っていました。 お二人共、もう押し車なしでは生活がご無理なのでしょう。奥さんが、曲がった腰をのばしながら、洗濯物を乾しています。 「どうぞ、どうぞ、頑張って、私のできなかった夫婦揃っての老年期を、いつまでも見せて下さい」 羨望で心が疼きます。でも、その奥で、拍手と声援を送っています。 |
令和3年12月12日 | 荒川豊三 |
棺を蓋いて事定まると言う。 北大路魯山人は、詰まるところどう評価されるべきだろうか。 私は思う、食器の作陶が、彼の業の中で特筆されると。篆刻、書もいいが、食器が一番いい。 茶陶は見るべきものがない。彼の芸術観は、茶碗に向いていなかったせいかもしれぬ。 食器は、近世抜群である。料理への関心の強さが、そうさせたのであろう。 着想がよくて、幅が広い。鉢、皿何でもこなす。備前も織部も自分のものにしてしまって、その上を行く。 当代第一人者たるにとどまらず、古い時代を通しても、あれほどに食器の巧いのは、一寸、いない。 乾山、木米もいるが、幅ということでは、どうであろう。仁清以後の偉才と言っても、過ぎることはあるまい。 ということは、美が判ったという事なのだ。 |
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令和3年12月5日 | 牧水記念文学館 |
青柳に 蝙蝠あそぶ絵模様の 藍深きかも この盃に 昭和3年夏 歌集『黒松』より 長崎の弟子から贈られた白地に藍で柳とこうもりを配した絵模様の盃。 晩年、牧水はこの盃を大変気に入っていました。 牧水に愛されたこの「藍色の蝙蝠の盃」は、牧水の遺骸とともに火葬の火の中をくぐって来ました。 再び世に出た盃は、その藍色が以前よりもいっそう深くなったと言われています。 なお、徳利は関西の蔵元が景品として出したもので、とりたてて高級な品ではありませんが、牧水が使用していたものです |
令和3年11月28日 | 富本憲吉 |
「花の香、そは焼かれたる壺にさす光なり」 「赤き鶏、白き鶏を笑えり」 「陶器をおやりですか、お楽しみですな」 という人あり、如何に答えるべきかを知らず。 料理の味をみる時、よき腕の料理人は、計器など使わずに自分の舌を用いる。理屈ではない。直感がそこにある。 私が陶器を作る場合、直感の動くままに或いはふくらませ、或いはすぼめて形を造る。 この作業には理屈はなく、大方自然に近く生まれてきた直感そのものの力と考える。 |
令和3年11月21日 | 富本憲吉 |
百姓として大和のこの寒村に生まれた私と、リーチが知り合いになるという事さえ一寸不思議に思える位なのに、非常に近い友情を持って来たことを思うと私は直ぐ古人の「同じて和せず、和して同ぜず」という句を思い出した。 他人を悪く言えば自分が偉く見えると思う人や、作品の批評に対してその作家自身が又批評の返答をすることの流行する今の世は実に |