第26回 2022年(令和四年) 春の窯焚きへ続く
令和3年12月31日 大晦日
いつの間にまためぐって来たのやらと思う年の瀬に、もう年を数えるのは辞めようという気分になっている。
    若い気も 喪中はがきで 老いを知る
10月に個展をしました。
グループ展を十数年続けました、がそれから久しく個展をしないまま歳を重ねました。
このあたりが時期であろうと個展を
しました。
付き合いは、縁のものと思う。
付き合い得たこと、これは何でもないように見えても、実は人生の意義を深めている大事なえにし
というものだと思います。
縁が無ければ、願っても近付きを得ることかなわずに終わる。
今回の個展は、縁ある良い人たちに囲まれて開催できました。
皆さんに感謝です。

令和3年12月26日
人間が小さいせいか私は借金が出来ないタチである。
どんなに苦しくても誰かから借りたりしないで、自分の力だけで分相応に暮らしたいと思っている
去る者は日日に疎し

令和3年12月19日 夫婦茶碗     宇佐美和子
      喜びも悲しみもまた独りなり
      小さき声で逝きし夫呼ぶ
夫が急逝して二年三ヵ月が過ぎました。健康というより、頑丈という言葉がぴったりする人でした。
平成七年一月三十一日、とても寒い朝のことです。散歩から帰り、いつもと変わりない様に見えた夫に、突然襲ったのがくも膜下出血、意識の戻らないまま三日後の早朝、夫は息をひきとりました。六十六歳でした。
失ってはじめて、心の底からの寂しさを思い知らされたのです。
妻の私に、看病らしい看病も、世話もさせなかった夫の供養に短歌をまとめ、タイトルを 『いい人生をありがとう』 としました。
      陶器市めおと茶碗に用なしと
      雑踏の中孤独が過る
息子が気晴らしになるだろうと、益子の陶器市に連れて行ってくれました。
陶器市で並んでいる夫婦茶碗を、見ないようにしている自分に気づきました。この寂しさ、息子には内緒のままです。
孫の保育園への送り迎えの道すがら、つい覗いてしまうお宅があります。二人とも八十歳前後でしょうか。

ご夫婦が支えあって生活しているお宅です。羨ましいですね。
私もこの方達のように、夫婦揃って年齢を重ねることと、疑うことなく思っていました。
お二人共、もう押し車なしでは生活がご無理なのでしょう。奥さんが、曲がった腰をのばしながら、洗濯物を乾しています。
「どうぞ、どうぞ、頑張って、私のできなかった夫婦揃っての老年期を、いつまでも見せて下さい」
羨望で心が疼きます。でも、その奥で、拍手と声援を送っています。

令和3年12月12日 荒川豊三
棺を蓋いて事定まると言う。
北大路魯山人は、詰まるところどう評価されるべきだろうか。
私は思う、食器の作陶が、彼の業の中で特筆されると。篆刻、書もいいが、食器が一番いい。
茶陶は見るべきものがない。彼の芸術観は、茶碗に向いていなかったせいかもしれぬ。
食器は、近世抜群である。料理への関心の強さが、そうさせたのであろう。
着想がよくて、幅が広い。鉢、皿何でもこなす。備前も織部も自分のものにしてしまって、その上を行く。
当代第一人者たるにとどまらず、古い時代を通しても、あれほどに食器の巧いのは、一寸、いない。
乾山、木米もいるが、幅ということでは、どうであろう。仁清以後の偉才と言っても、過ぎることはあるまい。
ということは、美が判ったという事なのだ。
12月10日、山小屋を閉めました。来春四月に開けます。(八日に10センチの雪です)

令和3年12月5日 牧水記念文学館
   青柳に 蝙蝠あそぶ絵模様の 藍深きかも この盃に
             昭和3年夏 歌集『黒松』より
長崎の弟子から贈られた白地に藍で柳とこうもりを配した絵模様の盃。
晩年、牧水はこの盃を大変気に入っていました。
牧水に愛されたこの「藍色の蝙蝠の盃」は、牧水の遺骸とともに火葬の火の中をくぐって来ました。
再び世に出た盃は、その藍色が以前よりもいっそう深くなったと言われています。
なお、徳利は関西の蔵元が景品として出したもので、とりたてて高級な品ではありませんが、牧水が使用していたものです

令和3年11月28日 富本憲吉
「花の香、そは焼かれたる壺にさす光なり」
「赤き鶏、白き鶏を笑えり」
「陶器をおやりですか、お楽しみですな」 という人あり、如何に答えるべきかを知らず。
料理の味をみる時、よき腕の料理人は、計器など使わずに自分の舌を用いる。理屈ではない。直感がそこにある。
私が陶器を作る場合、直感の動くままに或いはふくらませ、或いはすぼめて形を造る。
この作業には理屈はなく、大方自然に近く生まれてきた直感そのものの力と考える。

令和3年11月21日 富本憲吉
百姓として大和のこの寒村に生まれた私と、リーチが知り合いになるという事さえ一寸不思議に思える位なのに、非常に近い友情を持って来たことを思うと私は直ぐ古人の「同じて和せず、和して同ぜず」という句を思い出した。
他人を悪く言えば自分が偉く見えると思う人や、作品の批評に対してその作家自身が又批評の返答をすることの流行する今の世は実に同じて和せずの頂上でなかろうか。
君子でもない私達も只仕事のことに於いてのみだけでも和して同ぜずといいたい。

令和3年11月14日 富本憲吉
決定的な強さで近頃の私の心に湧き上がることは、芸は磨けば光ることは確かであるが、然し、その本来持って生まれた各個人の中心は琢き苦しむために変化せねばならぬという事である。
芭蕉、蕪村の臨終は、その大きさ、強さ、柔らかさが、各独自のものであることでも知れる。
いかに、もがき躍進を志したところで、太いものは太いように、細いものは細いように、或いは造り出し得る人と、模倣から模倣に生きなければならぬ人とは生まれたその時から決まっていると思える。
八ヶ岳自然文化園のプラネタリウムを見学しました。
秋の星座と宇宙への第一歩を上映しています。

令和3年11月6日 誕生日
七十歳までは、人から「若いね」と言われていましたが、病気をするたびに実年齢に近づき、そして追い越してしまいました。
普段元気で若く見えていても、体調を崩してしまうとたちまち歴年齢に戻ってしまうものである。
今でも心というか、頭の中では四十代か五十代ぐらいの気持ちでいるのだが、体は頭についていきません。
七十歳を過ぎてから体調を崩すことが頻繁になり、「ああ、やっぱり歳なのかなあ」とつい弱気な気持ちなります。
人生には限りがあり、その時がいやおうなく近づいていることを知ってるからだろう。
人間の一生なんてこの程度のものかという思いが去来して寂しくもなります。
残された人生を真の人間としていきたい。
私は七十四歳になり、人生の折り返し点はとうに過ぎてしまった。
我ながら信じられないが事実である。
七十五歳以上を後期高齢者としているので、来年は他人事としていた後期高齢者になる。

時がたつにつれて人は老い、やがては湖面に落ちた石のように消えていく。
たとえ、しぶきの大きさを誇らしく思っても、湖面は静まって、なにもかももとのままに戻る。
まるで、その人など最初から存在しなかったように。

令和3年10月31日 薪割
友達の山で38本の赤松を伐採しました。その一部をいただきましたので薪割です。
八ヶ岳美術館(原村民族資料館)を見学しました。
久しぶりに清水多嘉志の彫刻と「生命と構築性の絵画」を見ました。
縄文時代の土器は作為が無くとても美しい。

令和3年10月24日 富本憲吉
私は仕事の休息をとるために、一昨年信州の或る高原に遊んだ。秋草が美しく咲き乱れる高原に立って、この国の古代の美術家たちが彼らの周囲の美しさを如何に如実に写し得たかを知った。女郎花の黄、桔梗の紫紺、萩の繊細な紅い花、藤袴、撫子等が、穂を揃えたばかりの薄を背景にして、恰も象レイのように咲き乱れるその高原に冷ややかな秋の風が吹き過ぎている。
師匠の奥さんから個展のお祝いをいただきました。
昔話をして家へ帰り、お祝いを開いて見てびっくり、すぐに電話をすると今回が最後だと思うからと。
大正十三年生まれの奥さん、足が少し悪いけど、長生きしてほしいと願っています。

令和3年10月17日 坪内ミキ子
「介護」の二文字は私とは無縁なものだと思っていた。
それなのに、母が転んだことに端を発し、六年間も介護に明け暮れる生活を送ることになってしまった。
一寸先は闇、人生何が起こるか判らないものではあるけれど、心構えがなかっただけにその「闇」は私にはとてつもなく暗く感じられた。
でも、歳をとる、体が動かなくなる、人の手を借りるというのは、誰にでも訪れるごく自然なことである。
いやでも死と向き合う日々、そこには葛藤があり、心の叫びがある。
介護する側のやりきれない思い、される側のつらさを形にしてこの本を書き上げた。
私が書き留めていた日記を六年分繙いてみると、この時期の私は、母と過ごした六十余年のどの時よりも密接に、親密に、母とそして時には父と対話していたように感じる。
   感謝せん ころばぬ先の 我が杖は 娘の肩の 重きにかかる
母は手帳にそう記していた。
個展雑感
生徒さんは私の背広姿を見て、誰だか分らなかったようです。いつもはジーパンです。
客が多くてお昼を食べている暇がない。嬉しい。
外のテラスと芝生席でコーヒーを飲んで頂く。さわやかな秋の風。
帽子とマスク姿では親友がわからなかった。帽子を脱ぎ分からないかいと名前名乗ってくれてやっとわかった。
親友が一人来ない。芳名帳に名前がある。電話をするとちゃんと説明してくれたという。誰だかわからず菓子をもらった。すまない。
皆、年をとり病気をしている。病気の報告会
盃、ぐい?み、徳利は時代遅れ。現代生活にはもう必要のない食器。

令和3年10月10日 個展三日目
グリーンプラザホテルで個展を行いました。
私は13年前、定年で仕事から解放されたことで、眺めのいい自由な地平に立って、嫌なことはしない、好きなことだけする、
「人は人、我は我」という心境です。

泣いても笑っても、一度っきりの人生。
終わり良ければ総て良し。
今回は清水の舞台から飛び降りてみました。
10日応援    受付  武井、小松
          接待  中澤、宮坂(美) 、花岡、宮島
          会計  平林、藤村、林、野中
   芳名帳 32名

慰労会のみ     湊、伊藤、宮坂(由)
慰労会と宿泊   武井 小松 、中澤、 宮坂(美)、 林、 藤村、 増沢(道)、 増沢(ふ) 、野中、花岡、宮島
午後5時から慰労会。6時30分から二階へ会場を変えて大宴会。私は10時30に寝ましたが、女子会は盛り上がり、12時過ぎだったもよう。
コロナで無為に毎日を過ごしていた私は、一転充実した日々となり、グリーンプラザホテルの菊池さん母娘には本当に感謝です。
個展は秋晴れで紅葉には少し早かったですが、過ごしやすい陽気でした。
料理が美味しくて、お酒が進み、皆さん日頃のストレスが発散できたのではないでしょうか。
食事中には懐かしい曲を演奏していただきました。

令和3年10月9日 個展二日目
新聞を見て来ていただいた先輩に、五十年ぶりにお会いしました。感無量です。
声掛けしていただきましたが、 むかしの光、いまいずこ---「荒城の月」が、ふと、頭をよぎる。

仕事とは「仕える事」と書き、心に欲があってはいけない。
私は無になってろくろを廻す。
9日 応援    受付  湊、増澤、
         接待  宮坂(由)、伊藤、
         会計  宮下、平林
   芳名帳 77名         大勢の方に来ていただいたが、ろくに話が出来ずに申し訳ない。

令和3年10月8日 個展一日目
グリーンプラザホテルで令和三年十月八日(金)〜十日(日)個展を行いました。
つたない余生を振り返る機会を与えられたことは誠にありがたかった。
病をえて三年、感染症コロナで自粛二年、山小屋で自適の生活をしていても充実感がない中で、個展のお誘いは本当に嬉しいことです。
私のコロナワクチン接種は七月に終わり、応援の生徒さんも二度の接種完了しました。
コロナの緊急事態は日本の全てで解除され、諏訪は五段階の一の平常時です。
(なんて良いタイミングでしょう、これも日頃のおこないか)
コロナが治まったこの時期に 、爽やかな秋風に誘われて、素晴らしい会場に多くの人に個展に来ていただきました。
8日 応援    受付  武井、小松
         接待  中澤、宮坂(美)、花岡
         会計  平林、 藤村、 岩田
   芳名帳 58名         写真を撮る時だけマスクを外しています。

令和3年9月29日 窯出し
日本に「美術館」や「博物館」は、1256ある。
「博物館」はさらに「総合博物館」「科学博物館」「歴史博物館」「美術博物館」「野外博物館」「動物園」「植物園」「水族館」などに分かれるが、「美術博物館」は441ある。動物園や水族館が博物館に含まれるとは普通考えにくいが、ルーヴル美術館や大英博物館がもともと世界の珍しい宝物を集める場所だったことを考えると納得がいく。
火もらい、粉引き、紅志野、黄瀬戸、サヤの備前火襷、全部良い焼きである。

令和3年9月28日 窯出し
英語のミュージアムは「美術館」も「博物館」も指す。
大英博物館は古代エジプトのミイラやロゼッタストーンなど「博物館」的なものと、日本の浮世絵などの「美術館」的な要素もある。
ルーヴル美術館は古代ギリシャのミロのビーナスもあるが、ダ・ヴィンチのモナ・リザやフェルメールといった画家たちの「美術」も多い。
つまり、日本語の「美術館」や「博物館」の区別にまったく意味がないことに気が付く。
つまり、人間の文化芸術の歴史を見せるもの全て収めるのが、ミュージアムなのである。
ところが日本の国、公立の施設では、「博物館」は古いものを収蔵するところ、「美術館」は展示会場という概念が根付いている。
窯を開けると緋色が鮮やかに焼き上がっている。
灰はカサツキもなく、よく溶けている。
信濃毎日新聞の福島さん取材に訪れていただいた。

令和3年9月26日
子供のころの家に柿の木があったが、自分の家にあると思うと食べたくなかった。
その柿の木が半分枯れていたので、子供の私は枯れ枝を選定した。
翌年柿は鈴なりになった思い出がある。
今、柿を買いながらその味に感心している。
まさに昔はものを思わざりけりである。
自分の家にあるというだけで、有難いと思わずに見過ごしていたのである。

令和3年9月20日 山百合     吉田誠一(51歳)
まだ深々と夏空の続く九月に、父は命を落とした。
大きかった父の骨は骨壺に収まりきらず、木の棒で押しつぶされた。
例えようのない悲しみが襲ってきたのはこのときだった。親戚たちの見守る中、あふれだす涙に戸惑った。
ほんの数時間前までは顔を見ることが出来た。数日前は話すこともできた。今はもう、カラカラに焼かれたこの欠片だけなのだ。
小さな骨壺を抱いて、私は火葬場を出た。暑い日だった。
その時、唐突に、そこはかとなく懐かしい香りが匂ってきた。山百合だ。
その花の香りに触れた瞬間、忘れかけていた父と出かけた夏山の記憶が鮮明に蘇ってきた-----。
父の骨は、故郷の墓に埋められた。
何年か前、私はその墓の傍らに山百合のむかごを植えてみた。
むかごはうまく根付き、夏が来るたびに花を咲かせるようになった。
遠く離れた父の墓には、そう頻繁に行くことが出来ない。
だから、久しぶりに墓前に立つと、なんだか懐かしい人に会ったようで、ふっと泣き笑いのような顔になる。
ひなびた斜面の片隅で、ひょろっと伸びた茎の先に、派手すぎるくらいの白い花を揺らしながら、鮮やかに陽を映し、遥かな夏を匂わせ-----この夏も山百合は咲いているだろう。

令和3年9月18日 窯焚き四日目夜
焼き物の「焼く」という手順の難しさと面白さを人は「窯の中のドラマ」と呼ぶ。
PM6:00 夕食後、何時に窯を止めれるのかと、妻と二人最終の薪くべです。
PM8:00にぐい飲みを引き出すと灰が解けている。
奥のゼーゲルを見ると7番が倒れ、8番が半倒している。
午後9時窯を閉め水を撒いて秋の窯焚きは終わりました。

令和3年9月18日 窯焚き四日目
寝不足でくたくたです。朝小鳥が鳴いている。
一片でいいから子供の頃のようにぐっすりと眠りたいものです。
年寄りがそんな眠りに入ったら、それは気絶か卒倒しているのだから救急車を呼ばれてしまう。
年寄りの眠りはウツラウツラで良いのかもしれない。
台風14号は長野県をそれました。小雨降る。
AM6:00 1250℃まで上げました。
平林さんに、朝AM7:00からPM4:00まで応援に来ていただいた。
今日は湊さん、野中さん、宮坂(由)さん、伊藤さん、増澤さんにAM10:00〜PM2:00まで応援していただきました。
PM5:00に1300℃まで上げました。ゼーゲルを見ると7番が倒れていないので、妻と二人夕食にする。

令和3年9月17日 窯焚き三日目
やきものは人なり。人格的にダメな人は世間には認められない。
AM6:00  窯温度200℃、気温14℃、曇り。
今日は小松さん、武井さん、林さん、宮坂(美)さん、中沢さんにAM10:00〜PM3:00まで応援していただきました。
PM5:00に 800℃まで上げました
夜7時から翌朝AM6:00まで岩田さんに応援いただきました。
夜はベッドに横になり3時間寝させていただきました。予定通り寒くない。

令和3年9月16日 窯焚きニ日目
ものの評価は所詮おのれが好きか嫌いかだけのもの。
そのものの本来の良し悪しなんか解りゃしない。
いたずらに技巧のみを追い続けるを良しとするより、平凡でもほっとする手作りの味を大切に、またそれを評価するゆたかな心と目を大切にしたい。
ロストルで一日炙り焚きしました。
快晴で朝の気温12度、昼間は24度で暑い。焼肉、焼き芋うまい。
窯温度150℃。
AM7:00〜PM5:00。500℃まで上げました。

令和3年9月15日 窯焚き一日目
今、世間は新型コロナの自粛中ですから、少数精鋭で四日間じっくりと窯を焚いてみます。
今回は私の目指す緋色にこだわって焼きます。

御神酒(秋田の純米大吟醸)・お米・お塩・をお供えして、火の神様に、二礼二拍手一礼で始める。
前夜の雨は朝止みました。
ロストルで一日湿気を抜くため火を焚きました。台風14号が来るというので煙突に棚板載せる。
朝の気温10度、曇りから快晴。昼間は28度で暑い。焼肉、焼き芋うまい。
大葉、武村、塚田さんご夫妻が来られた。
温度管理のパソコンを岩田さんからお借りする。
AM7:00〜PM5:00。450℃まで上げました。

令和3年9月12日 個展のご案内
  秋萩のうつろいて風人を吹く
 
 皆さま、その後いよいよご清適のこととお喜び申し上げます。
 さて、このたび身のほど知らずと知りながら、陶芸の個展を下記の通り開くこととなりました。
三十余年の陶歴がありながら、いまだ未熟で恥ずかしいかぎりですが、私は薪窯で焼き締めると現れる
緋色という素朴な焼き物に惹かれ陶芸を続けてまいりました。
           記
  場所  グリーンプラザホテル 原村中央高原
  日時  令和三年十月八日(金)〜十日(日)
 お忙しいとは存じますが、環境のよい会場ですので、ぜひお立ちより下さり、ご高批をたまわりますれば幸いです。
 まずは、個展のご案内まで。
個展のお声掛けいただいたグリーンプラザホテルの菊池さん。
 (お父さんは私の陶友の阿部さん。趣味は陶芸ですと言えるよう二人で切磋琢磨した、思い出は尽きない。
 私は私自身の父親と同年配の阿部さんには、安心感と親近感をかってに感じて自由にものを言わせていただいた。
 頂点を極めた立派な方なのに、親子ほど年下の私などに心安く気取りなく優しく接してくださった。)

そして、はげましてくれた生徒さん、子供、そして躊躇している私を後押ししてくれた妻。
皆の励ましがどれほど大きな力となったか、決して忘れない。
さあ、ショー(個展)の準備が始まるぞ・・・・・。

令和3年9月9日 薪割
五月にグリーンプラザホテルさんの裏山で間伐したものを頂きました材の薪割です。
薪割をしていて考えます。
今日の薪割をしている若さを、寝たきりになってから、どんなに涙ぐましく懐かしむ事だろうと。

令和3年9月5日 前の段、灰かぶりの窯詰とレンガ・柴
秋の窯焚きの頃は、新型コロナのワクチン接種が終わっていると思いますので、全員参加で窯焚きを行う予定です。
上 15×15

  10×10
  10×10

12×12

令和3年8月29日 中の段窯詰め
人は土に生まれて土に帰るのに、陶片は土に帰ることはできず、折々の時代の情念の名残を漂わせて痛ましい。
上 12×12(50×30)
  12×12

  12×12
  12×12

10×10

粉引きと赤土の窯詰です

令和3年8月22日 作品完成?
もの作りには、「間」と「呼吸」が大切。
走り続けていても、時には立ち止まることも大事だと思う。

六月の窯焚きに続き、三か月での窯焚き。
作品作りが間に合わないので今回は焼き直しをたくさん入れます。

令和3年8月16日 掃苔
掃苔という言葉は、「墓石の苔を掃く」というところから、本来、墓参りを意味しています。
お墓はそこに眠っている人が、存在したことの証明書のようなものであると同時に、亡くなった人物の生き様を思い起こさせてくれるよすがともなります。
葛飾北斎は天才の名をほしいままにしたが、死の間際になってなお、「あと五年あれば、本物の絵描きになれたであろう」と語ったという。
墓石正面には、「画狂老人卍墓」と彫られ、墓石の右側面には 「ひと魂で、ゆく気散じや 夏の原」の辞世の句が刻まれている。
彼ほど日本的な画風で、海外の画家たちに影響を与えた絵描きはいない。
ちなみに、印象派の画家たちが浮世絵を知ったのは、輸出用の陶磁器の包装紙に描かれていたからであり、北斎の傑作といわれる「北斎漫画」も、最初は包装紙の図案として扱われていた。

令和3年8月15日 利休    細川護熙
千利休と細川家との関係は遠祖細川幽斎以来のもので、縁浅からぬものがある。
幽斎を継いだ三斎は利休七哲の一人として利休流茶道の高弟である。
死を前にして利休が京から堺に下ったとき、淀川堤にその舟を見送ったふたりの武士の姿があった。
三斎と古田織部である。利休はこの時の驚きと感動を、感謝の伝言を添えて細川家の家老に書き送った。
「淀まで、三斎様、古織様、御送り候て、舟本にて見付け申し、驚き存じ候。忝しの由、頼み存じ候」と。
天正十九年の春浅い日に、しばし三人が名残を惜しんだ淀の川岸は、時の流れと河道の変化で今はどことも定かではない。
私は送る人、送られる人の視線が交差したそのときの情景を偲びつつ、桂川と宇治川と木津川が合して淀川となる辺りの岸辺を歩いてみた。折からの冷たい雨に叩かれながら、川面の水はひたすら利休が下って行った西を指して急いでいた。

令和3年8月14日 信楽焼の筆架け     沼口滿津男
   我が死の近づき居るを知るなれど命のことは何も知らざる
この短歌は、私の師である鹿児島寿蔵先生の死に際の歌である。
昭和十六年十月三十日の夜半に、紙塑人形作成中、左半身麻痺を訴えられ、日本医大に緊急入院された。
その後、肺炎を併発し、誰にも会うことを拒み、この世を去って行かれた。
「死生命あり」と孔子はいう。
神のみが知る死に対して考える力もない先生の命がつき果てようとしているとき、「命のことは何も知らざる」という先生の死生観には、死への恐怖感もなく一種の悟りの心があったような気がする。
死に際に病床で作られた信楽焼の筆架けを先生のご家族からいただいた。
手作りの筆架けは箱書きに(五十六年十一月、寿蔵作・信楽楽斎窯・成恵画)とある。
人間は生まれるのにも死ぬのにも時がある。
先生は自らの死を目の前にして、他の人々にも土をこねる喜びを与えようとしたのかもしれない。
小さな筆架けではあるが、芸術家(紙塑人形作家)としての意識が最後まで残っていのであろう。

令和3年8月9日 奧の段窯詰め
やればやるほど下手になると思うのは本物である。習えば習っただけは上達する。
しかし、陶芸を習う時は優れた陶器を見て、自分の観察力を養う。
鑑賞力が優れてくると自分の造った陶器の醜さがわかる。
これは自分の鑑賞力に技がついてこないから、自分の焼き物が下手に見えてくる。
そこで破綻をきたしてやめてしまう。が、それを切り抜けなければモノにならん。
自分の造ったものがもっとも醜いときが、自分の鑑賞感が或る程度に達している時だ。もう少しでものになる。
いくらやっても上手にならない。でも私は陶芸がますます下手になることを少しも悲しまない。
それは、自分の造るものがまずくなればなるほど、鑑賞力が先に行っている。
自分を反省する力。自分の心に問い直すという事。
醜いところを修正していくという心が強くなればなるほど醜く見える。確かに醜くなるがそれは恐れるに足りん。
良い仕事をしていると確信してよい。そのことがおぼろげに解りかけたとき私は喜びで泣けた。(加藤唐九郎)
 奥の段窯詰です。
15×15

  10×10
  12×12
サヤ
10×10

備前土、粉引きと赤土の窯詰です。

令和3年8月8日 白洲正子
何処へ出したって、立派だという事は、客観的な価値があるという事だ。中国の陶器は、ほとんどそうである。
ダイヤモンドみたいに、誰が見ても美しく、それ自身に付随した価値があるから、骨董屋さんは皆同じ値段をつける。
が、日本の多くの焼き物はそうはいかない。
例えば利休が持っていたというだけで、不当な値段がつけられるし、誰それが褒めたというだけで高くなる。
見識がないと言ってしまえばそれまでだが、また別の面からみれば、それほど人間を信用しているという事にもなる。
信用して、先ず間違いはない。
ひと眼で分からなくとも、持って、使って、一緒に暮らしている間に、寡黙な人間が口を開くように、次第に様々なことを語り始めるからだ。
別な言葉でいえば、人に創造の余地を残してあるのが日本の陶器といえよう。

令和3年8月1日 白洲正子
西洋の芸術は技術が第一です。
ことに舞踏は人間を機械化して見せますが、日本の踊りは、技術に閑するかぎりはるかに自然で単純でもあります。
芸道という言葉がしめすとおり、本当の修業は日常生活の中にあり、舞台はそのあらわれにすぎない、だから西洋の舞台芸術にとって若さが最大の条件なのに、日本のものはどちらかといえば老人にーーーー人間として円熟したとき、はじめてその美しさが完全に表現されるのです。
その為にはじっとこらえて待つより他はない。
技術は若いときに出来上がって、あとはただ待つのです。急いではいけない、すべては時間に任せて黙って生きていく。
井上八千代さんから、私はそういう印象を受けました。
萩土の作品を10K、志野の作品を60Kほど作りました。

令和3年7月25日
夏の土用の丑の日と鰻を結びつけたのは平賀源内。
土用というのは四季にあり、鰻が最もおいしいのは生殖のため川から海へ下る秋である。
夏は売れ行き不振ゆえ、源内が「本日土用の丑の日」の看板を出させたという。
この人、色白くやや肥えており、若きうちより白髪ありしため「シラガ源内」とからかわれる。
いかなる原因か突如、狂を発して人を殺傷、捕らえられて牢死した。五十二歳。
親友の杉田玄白が私財を投じて墓碑をたてた。碑銘にいう。
「嗟(ああ)非常の人、非常のことを好む、行い是非常、何ぞ非常の死なる」
備前土の作品を20K、粉引きの作品を40Kほど作りました。

令和3年7月18日 小鳥
「明日はよくなる」という言葉が励みになり、それに支えられている人も多いだろう。
しかし僕は「今、生きている」ことを意識して、「今」を大事にしたいと思っている。
今、普段の生活で小鳥の声を聞くのはとても贅沢なことだろう。
庭に小鳥が来ている。

令和3年7月11日 世に残るものを    加藤唐九郎
昭和三十八年三月、東京の伊勢丹で「現代日本陶芸巨匠十人展」が開かれた。
そのメンバーは、荒川豊蔵、板谷波山、石黒宗麿、金重陶陽、河村蜻山、加藤唐九郎、加藤土師萌、楠部弥弌、富本憲吉、浜田庄司の十人であった。
僕は最近になって痛感するが、作家は晩年の作品がよくなくてはいけない。
河村蜻山は晩年の作品がよくない。彼は、若くして京都の陶芸界の第一人者といわれた人で、晩年恩賜賞をもらったが、今その存在は弱い。石黒宗麿は晩年に人間国宝になったがみじめな最期であった。
それに比べて
板谷波山、金重陶陽、、富本憲吉、などは年をとって死んだが、晩年の作品が少しも落ちていない。
晩年になって作品が落ちるのはまずいと思う。
それで、ぼくは晩年になるほど作品がよくなった富岡鉄斎さんを思うと、鉄斎さんは偉いと思う。
それから平櫛田中さんは実に立派である。作品も立派で、もう九十七歳であるが、ああいうふうでなくてはいかんとおもう。
ぼくも、このへんで初めて見るべきものを作らなければいかんと思っている。
七十一歳から後、はじめて唐九郎の作品は見るべきものができた。それ以前のものはダメだと、そうでなくてはいかん。
春の作品を洗い乾燥させます

令和3年7月4日 秋篠寺  榊莫山
秋篠寺にほれ、伎芸天に恋しつくしたのは、なんたって川田順である。
歌人の川田順は、匂いの高いミュウズに陶酔しつくし、大正七年に歌集『伎芸天』をだした。
昭和三十一年にはとうとうこの秋篠寺に、文学碑を建てた。

  諸々の み佛の中の 伎芸天
  何のえにしぞ  われを見たまう  順
と、慕いぶりもしきりであった。
その碑は小さい。とても小さい。そしてさりげなく、本堂の西の雑木の木かげで、いかにもうっとりと立っている。
文学碑というのは、こういう風情でなくてはならん。
仏さんのように台座の上ですわっていたり、高いところから見下ろしていたり、威張っているのをわたしは好まない。

令和3年7月1日 秋の窯焚き
工房や美術館で工芸品を見るときに、じっくり時間をかけて鑑賞する人と、ごく短時間にさっと眺めて帰ってくる人がいる。
私は後者、つまり急ぎ足のほうである。
壺なら壺、茶碗なら茶碗をじっくり拝見すると、どうしても均等に目がいってしまうので、かえって印象が希薄になってしまう。それと、なまじ時間があると思うので、気持ちが緩んでしまう。
一期一会、というほど大げさなものではないが、この一瞬しか見られないのだぞ、と我と我が身にカセをはめると、目のないなりに緊張するせいか、余韻が残り残像が鮮明のような気がする。
     
秋の窯焚きに向けて出発します。