第25回 2021年 秋の窯焚きへ続く

令和3年6月27日 秋の窯焚き
他人のことに興味はないが、人は思ったほど他人のことを気にしていませんね。
毎日面白く暮らしたいものですが、でも、今私は毎日生きていくだけでやっとという気持ちです。(コロナ鬱でしょうか)
「人生はバランス」 悩みは次の希望へのステップアップ。
悪いことが起きた時に、クヨクヨせずにプラスマイナスゼロの発想を持つことは大事です。
秋の窯焚きに向けて準備開始。

令和3年6月23日 窯出し
人間生産的になるとゴミを出しますが、私は燃えないゴミをたくさん作っています。

令和3年6月22日 窯出し
窯を開けると緋色が鮮やかに焼き上がっている。
灰はカサツキもなく、よく溶けている。
今までは灰が溶け過ぎて作品がはがれなかった。
緋色を出すにはこの焼き方がベストである。

令和3年6月20日 無形の財産   志賀伸子
毎年のことだが、私は四季の巡りの中で春が一番好きだ、が春は18年前に父が逝った季節でもある。
父の死因は「癌」であったが、それ以上に人生の大半を苦しめ続けた病があった。
神経の一部が冒され、年とともに手足の自由が利かなくなる難病である。
私が教師として初めて卒業生を出した時、その感動を語る私の傍らで、「あの頃の体力にもどれたらなぁ・・・」と、ぽつんと言ったのを思い出す。その時の父の心をよぎったものは何だったのか、と心の奥を思いやることもなかった自分がなさけなく、春を迎えるたびに悔やまれるのである。
次第に歩行が困難になっていく父、中学生のころから私はそうした父を避けるようになった。
父は病身もてつだって、次第に気難しく怒りぽくなっていたが、父はどんなにか孤独で寂しかったことだろう。
そのころの父の心中に思いを馳せるだけで、私の春は哀しみに包まれる。
しかも、そんな思いになったのは父が逝ってからなのだから薄情なものである。
なかでも、父との対話が少なかったことは悔やんでも悔やみきれないもののひとつである。
私は今年、還暦を迎える。だんだん父の逝った年齢に近づくに従い、父の人生をかみしめるようになった。
そうして思うのは、子や孫に残せる生き方を私はしてきただろうかという事である。
人の生き方こそ、どんなものより一番の財産だと思うこの頃なのである。
陶芸の師匠、山田先生が亡くなって十六年、師匠の奥様(96歳)から日府展での長野県知事賞の受賞祝いをしていただきました。
師匠に教えていただいたのは遥か昔のことなのに、弟子の私を、奥様がお元気で祝っていただけるのは本当にありがたいことです。

令和3年6月13日 窯焚き四日目夜
PM6:00 夕食後、何時に窯を止めれるのかと、妻と二人最終の薪くべです。
PM7:00にぐい飲みを引き出すと灰が解けている。
奥のゼーゲルを見ると8番が倒れている。
午後8時窯を閉め水を撒いて終わりました。

令和3年6月12日 窯焚き四日目
AM6:00 1250℃まで上げました。
平林さんに、朝AM7:00から昼まで応援に来ていただいた。
鶯が鳴き、野兎が窯の周りを歩いている。
何の木か不明の樹はウラジロノキと判明した。
お昼はお世話になっているグリーンプラザホテルさんからテイクアウトしていただきました。すごく美味しい。
午後1時から5時まで武村さん夫妻に応援いただいた。
PM5:00に1300℃まで上げました。ゼーゲルを見ると7番が倒れていないので、妻と二人夕食にする。

令和3年6月11日 窯焚き三日目
AM6:00  窯温度180℃、気温16℃、快晴で暑い  PM5:00に 1000℃まで上げました。
捨て間を閉め、煙道を開ける。キビタキ来る。 
今日は花岡さん、林さん、宮坂(美)さん、中沢さん、宮島さんにAM10:00〜PM3:00まで応援していただきました。
妻も焚きますので、お昼と夕飯は、お世話になっているグリーンプラザホテルさんからテイクアウトしていただきました。
とてもおいしくて、今回体重減はわずかでした。
夜7時から翌朝AM6:00まで岩田さんに応援いただきました。
夜はベッドに横になり四時間寝させていただきました。予定通り寒くない。

令和3年6月10日 窯焚き二日目
今年の梅雨は早まる予想が外れて遅れています。今回の窯焚きは雨の心配はなさそうです。
ロストルで一日火を焚きました。朝の気温18℃、昼は20度、郭公が鳴きレンゲツツジが咲く。
平塚の山口さんが遠いところを応援しに来ていただいた。
捨て間を開ける。AM7:00〜PM5:00。600℃まで上げました。

令和3年6月9日 窯焚き一日目
今年もすでに六ヶ月が過ぎました。後半も十月になれば寒くなり寂しくなります。
今、世間は新型コロナの自粛中ですから、少数精鋭で四日間じっくりと窯を焚いてみます。
秋の窯焚きの頃は、新型コロナのワクチン接種が多分終わっていると思いますので、全員参加で窯焚きを行う予定です。
今回は私の目指す緋色にこだわって焼きます。

ロストルで一日湿気を抜くため火を焚きました。捨て間を開ける。
快晴で朝の気温10度、昼間は暑い。春ゼミが喧しい。焼き芋うまい。
温度管理のパソコン故障して、岩田さんからお借りする。
AM7:00〜PM5:00。450℃まで上げました。

令和3年6月6日 やきもの
どうしたはずみであったか、私はやきものに憑かれて夢中になった、そしていつの間にか年老いた。
老いてふと顧みると やきもの歴四十年も過ぎていた。
そんな経験の中でいったい私は何を得たのか、何もない。しかし一つ、気付いたことがある。
やきもの好きな私は、やきものにはなんといやな物、嫌いなものが多いことかと知ったのである。
ほんのたまに、心をやるに足る好きなもの、素晴らしいものと見とれるものに出くわすことがある。
好ましい物に出くわした歓喜と感激。安物だからといって軽視はしない。

令和3年5月30日 第68回日府展
第68回日府展は審査・図録作成・展示の準備はされました。
が、国の緊急事態宣言期間が延長され、東京都立美術館は休館となりました。
第68回日府展(東京)はオンライン展示となります。
名古屋展は予定通りに行われます。
私は
長野県知事賞を受賞しました。
昨年は活動を停止した下諏訪美術会。
今年はコロナ対策を徹底して活動します。
下諏訪美術会小品展です。

令和3年5月23日 窯 レンガで閉める
  徳光彩子
最近は抹茶の味に惹かれている。
NHKの日曜美術館で萩の板倉親兵衛が出演された。
我が家にある抹茶茶碗の作者は先々代の萩の板倉親兵衛に違いない、と思った。それでも私は、なつかしさに胸が熱くなった。
昭和の初め日支事変が始まったころ、父が山口へ出張して抹茶茶碗を土産に買い求めた。母がお茶をやっていたからだろう。
私はまだ小学生でくわしいことは覚えていないが、お茶をいただいている父の姿は今も鮮明に覚えている。
茶碗の話をしていた父母の姿は、おぼろげに残っている。
「ぼかしの濃淡のある肌の色が、とてもいいねえ」
「ところどころにはじけた模様があるんが、何とも風流でおもしろいよ」
そんな言葉を繰り返していたようだ。
茶をたしなむことによって、茶碗にたいする愛着も深まっていったのだろう。
そんな日々の中で、あまり仲の良い夫婦ではなかった父母の気持ちも和んでいったようだ。
静かな住宅地はガソリンカーの音が響くだけの、のどかな時間が流れていた。
わが家にとっても、平和でいちばんいい時代だった、という気がする。

令和3年5月16日 窯詰め 前の段 灰かぶり
最近考えます。やはりプロが作ったものは違う。
上手な素人とプロとは同等でなく、やはりその間には説明し難い何らかの差があるというのが私の結論です。

0×10
  15×15
  10×10

  12×12
10×10

令和3年5月9日 中の段窯詰め
人間は、自分で自分を分析すると欠点ばかりに目がいきます。
他人の芝生は青い、だから長所をほめてあげられるのは他人なんです。
誰でも、どんな人でも、長所はあります。

上 10×10
  12×12

  10×10
  10×10

12×12

粉引きと赤土の窯詰です。

令和3年5月5日 平家物語     細川護熙
 祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
 沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。
 おごれる人も久しからず、唯春の夜の夢の如し。
 たけき者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵に同じ。
日本の古典のなかで、『平家物語』の冒頭のこの文章ほど人々に親しまれてきたものはないのではないか。
富貴を極め権力を振るう平清盛、それを諫める子の重盛、ふたりが亡くなった後に訪れる源平の抗争のなかで、彩も華やかな鎧兜に身を固めて相戦う勇壮なつわものども、栄華の頂点から一転して西国に落ちてゆく平家の公達たちと女房たち、そして全編にちりばめられた愛と信仰の悲しくも美しいエピソードの数々---源義経の活躍や、屋島の戦いの那須与一、青葉の笛の貴公子敦盛の死や、壇ノ浦での平家滅亡に涙したものだ。
『平家物語』は一方で、京の都を中心に畿内、東北から関東・東海・甲信越・中国・四国、九州、はては南海に及ぶ幅広い地誌的物語でもある。『平家物語』を読み進むにしたがって、人は古の歴史の跡を紙上でとぶらうのだが、今の日本ではそれらの多くの古跡も登場人物が行き来した道も、時間の中にあるいは埋没し、あるいは無残なほど変化してしまった。

令和3年5月4日 やきもの
土、水、火。
「やきもの」は、このきわめて単純で素朴な三つの要素から成り立っている
山から採取された土は、水で練られ、形づくられ、乾燥され、窯詰され、火で焼き締められる。
窯の中では火が渦を巻き、灰を散らし、灰をかぶり、灰は融け、釉となって土の肌を伝い流れる。
ときには火勢に負けて器形が変わることもある。
それらはすべて偶然であり、人為のおよぶところではない。

令和3年5月3日 土門拳   藤森武
ぼくが土門美学がよく出ていると思うのは、風景写真です。
ものには形があるから何を撮っているかわかるんですが、風景は、そばにいたぼくたち助手には見えない。
なんでこんなつまんないところを撮るのかと思っていると、出来上がってきた写真は素晴らしい。
「すごい先生だな」と思いました。その場にいてもこんなふうに造型的には見えないんですよ。

勅使河原宏さんがご自身の窯開きに招待してくれた時、せっかくだから風景も撮ろうという事になり、越前甕墓をめざし、田圃のあぜ道を、カメラを持つ人、先生を背負う人と一列縦隊にならんでいきました。その時の情景が浮かびます。
四泊して、若狭の三方五湖や越前海岸をまわりました。
先生が「福井はいいなあ、これから通おうか」といっていたのに、一か月後の1979年9月11日に脳血栓で倒れて、結局これが最後の撮影になりました。

令和3年5月2日 土門拳   藤森武
土門先生は人に揮毫を頼まれると、よく 「やさしく強く」 と書いていましたが、これは人間に対しての言葉であり、ものに対しては 「うつくしく強く」 というのが先生の考え方だと思います。
繊細な美しさは駄目で、武骨で美しいものに惹かれるんです。
例えば縄文時代の古代造形は好きなんですが、てろんとした弥生土器には興味がなかったようで、興味は縄文から一気に埴輪に飛んでます。とにかく好きなものしか撮らない、自分自身の確固たる美学の裏付けがありました。
作品が完成しました。生徒さん、応援の人の作品も集まりました。

令和3年4月25日 窯詰め 奥の段
奥の段   備前土
  上 10×10
   15×15 (サヤ)
   12×12
  下 10×10

奥の段の窯詰が終わりました。毎日五月の暑さです。

令和3年4月18日 歪む
不の字と正の字をくっつけて「ゆがむ」という字になる。
やきものは正しい形を造っても乾かすうちに歪みがくる。素焼きで又狂いがくる。薬をかけて焼きあげると又多少の歪みが出る。大きさに於いてロクロで挽いた時より約二割方小さくなってくる。
若し共に焼く他の器のため押されたり、火の強弱変化のために窯の中で歪んだり、いびつになったり、凹んだり、はじけたりする。これを自然のゆがみといいたい。
昔の人は、この自然のゆがみが一種の景色をつくり風情を添えることに興をもって、さまざまな銘をつけたり、因縁を付けたりしたものである。ところが、時代が悪くなり、趣味好尚が堕落するにつれて、是等の自然のゆがみを曲解して、器物のどこかに歪んだ景色がないと承知しなくなってしまった。
備前土作品の窯詰少ししました。

令和3年4月11日
「芸人のいちばんいけないのは、死んじゃうとその芸も持って行っちゃうことです」(落語家の古今亭志ん馬)
工芸家も同じですね。後に続く人は、また最初から技を身につけていくしかない。
昔、日経にこんな広告がありました、「諸君、学校を出たら勉強だ」
穴窯を開き掃除しました。

令和3年4月4日 物忘れ
人間は平等かもしれないが、人間の運命は不平等である。何度も大病をする人もいれば、死ぬ瞬間まで健康な人もいる。
人間が死ぬということは、植物が枯れていくのと一緒です。
食べられなくなり、水分が取れないと人間は乾いていく。
無理に点滴を入れるとむくんで、悲惨な状態になる。
死ぬ寸前はボケた方が楽に逝けるのかも。
粉引きの作品を二十キロほど作りました。

令和3年3月28日     小林秀雄
この茶碗は味がいいとか、味が悪いとか言う。
焼き物好きには、この言葉が、はっきりと或る具体的な感覚を指している以上、実に解りきった易しい言葉だが、さてその具体的な感覚とはどういう性質のものかとなれば、言葉に窮するであろう。
しかし、これが、どうやら、焼き物を使ってみているうちに育ってくるある感覚である事は、間違いないように思われる。
焼き物好きは、いつの間にか、触覚に基づいて視力を働かすようになっている。
焼き物の「味」という、言葉を、私達が思いついた所以も、その辺りの事情から来ているのではあるまいか。
私達は焼き物を味わう。
焼き物が要求している私たちの触覚とは、私達の触感から分化したものに過ぎない。
焼き物に対しては、見るという事は、二の次になっていると言えようし、焼き物の現す線や色彩は、味わいのうちに溶け込んでいるとも言えよう。焼き物の絵付けの面白さなどは、やがて飽きるものである。
志野土の作品を二十キロほど作りました。

令和3年3月21日 土       加藤唐九郎
ひと口にいって、山にある土で亀裂の大きい土は、耐火力が弱くて、使ってみると水の吸収量が多く、乾くと収縮率が大きい。
こうした土は、やきものにはよくありません。
土をナイフで切ってみて、切れ口が光るような土は粘力が強く、まるで光らないのは、粘力が乏しい。
手に取って、指の頭でこねてみて、ざらつく土は珪酸分が多くてよくありません。
つきたての餅のように、やわらかくて粘りのある土が、、アルミナ分が多くてよい土の場合が多いのです。
私はまた、土を一旦かわかしてから、白い茶碗に水と土を入れます。水に早くとける土は耐火力が強く、とけにくいのはその反対です。
青くまたは黒っぽく色が変わる土ほど耐火力が弱く、変化の少ないほど良土です。
逆に火にあぶってみて、色が褪せていくのは耐火力が乏しいのです。
やきものの名器を作るような土というものは、ポケット層になっていて窯屋言葉で「タマ層」といいます。
三月になり毎日四月の陽気です。桜の便りも聞こえてきました。備前土の作品を40キロ、赤土の作品20キロ作りました。

令和3年3月14日 作品
備前土の作品を二十キロほど作りました。
私の技もだいぶ醗酵してきたように思います。
年はとりましたが、いい味になってきました。「73年ものの俺だぜ!」
人は好奇心をもって、世の中を探検すると、今まで気づかなかった発見ができます。
  青年に 負けぬ七十路の 好奇心
薪に使う赤松をいただきました。

令和3年3月7日 穴窯
三月一日は四月の陽気、備前土の作品を十キロほど作りました。
今、窯焚きのことばかり考えている。
病膏肓
(やまいこうこう) に入る (1、治療出来ないほど重症。 2、どうしょうもないぐらい何かに夢中) とはこのことか。

令和3年2月28 粘土
春と秋の窯、生徒さんの分も含めて、一年分の備前土180キロ準備しました。
ワラも叩いて柔らかくしました。今回は火襷に挑戦です。
春の信楽赤土と信楽土もこれから準備します。

令和3年2月21日 人生
若いころはお金がないなりに日々の生活はとても充実したものだった。
最近の上級国民という言葉、厭ですね。
まっとうに暮らしている私のような下流社会の国民の心をいたぶります。
でも、今は自分の価値観で、自由にマイペースに生きていく時代。
お金はなくても人生は楽しめる。
もう余分なモノはいらない邪魔なだけ。
セ ラ ヴィ それが人生さ。

令和3年2月14日 白洲正子
飛騨一之宮は「水無神社」という式内社で、宮川のほとりに鎮座している。境内からは大木の杉木立を通して、位山が見渡される。
位山と呼ばれる所以は、かってここに櫟の原生林があり、朝廷で用いる笏を作っていたからで、飛騨では今でも櫟に「一位」の字を当てて尊んでいる。
飛騨の山にはまだ櫟の木が残っていて「一位笠」というものを作っていて、日常の生活に用いている。
特にお祭りの場合は、欠くことのできぬハレの衣装になっているという。
三笠山、笠置、笠嶽などの名をみてもわかるように、もともと笠は神様の依代であったが、笠そのものも神山の形を表しているように思う。

令和3年2月7日 白洲正子
森繁弘さんが、私のために、荒砥と、、中砥と、仕上げ砥を持ってきてくださった。
初めて手に取ってみるそれらの砥石は、宝石のように美しかった。
青味をおびた微妙な色の中砥は、その色のために「青砥」とも呼ばれる。
また暖かい乳白色の仕上げ砥は、愛宕の周辺でも、鳴滝だけで採れると聞くが、そのこまやかな触感は、端渓の硯にまさるとも劣らない。砥石とは、こんなに素晴らしいものなのか、職人が大切にするのは当然のことなのだと、私は眼の開ける思いがした。
砥石が一人前に育つのは、何万年、何億年かかるのか、私は知らないけれども、年代の若い山では駄目だという。
まことに造化の不思議ほど微妙なものはなく、愛宕山が神山として崇められたのも、故なきことではないと思う。

令和3年1月31日 白洲正子
砥石といえば、大工は火事の時、何をおいても砥石だけは持って逃げるという話を聞いたことがある。
なぜ道具より、砥石が大切なのだろうか。その時以来、私は興味を持ち、浅草辺りの砥石屋にも行ってみた。
ある時、一人の老人が、飄然とその店にやって来て、ショウウィンドウに飾ってあった砥石の値段を聞いた。
それは京都の愛宕山でとれる最高級の仕上げ砥で、当時でも二百万円もしたが、老人は当然のような顔つきで買っていった。
後にその老人は、平櫛田中氏であることがわかったという。
砥石には、我々が台所で使う安物から、そんなに高価なものまであることを知ったが、なぜ、職人が道具より砥石を大切にするのか、長い間私には理解することが出来なかった。
黒田乾吉さんは一言で、その疑問を解いて下さった。
「道具は人間が造ることができるけれども、砥石は天然のものだから、造るわけには行かないからだ」

令和3年1月24日 信楽焼
春の淡雪のような灰かぶりの白さ。
朝焼けを思わせる肌の明るさ。その肌からヒョッコリ顔をのぞかせている「石はぜ」の頓狂さ。
カンカンに焼き締まった肌の爽快さ。その肌から白い長石がプツプツ吹き出している「蟹の目」の可愛らしさ。
豪快なビードロ釉の流れ。その流れが途中で止まってできた「蜻蛉の目」のゆたかなまるさ。
窯の中で隣り合う壺に火まわりをさえぎられてできた「抜け」の飄逸さ。
天地創造をしのばせる灰なだれの地響き。灰なだれがなだれきれずに焦げ付いた「こげ」の幽玄さ。
少しもべとついたところのない素地の山土そのものの淡泊さ。
信楽の壺に見られるそれらの魅力のすべては、天工になるものである。
天工になるものであるからこそ、見れども飽かぬのである。     

令和3年1月17日 足利義政
相次ぐ天災、飢饉をかえりみず豪奢な趣味生活にあけくれて、ついに応仁の大乱をひき起こした足利八代将軍義正は、大乱が起こってもこれに傍観者の立場をとり、晩年にはいわゆる室町芸術の粋をつくした東山山荘の建築に没頭した。
実に、この無責任な将軍は、しかし、建築、庭園はもとより、能、茶、花道、絵画、連歌など、およそ時代の名を冠するあらゆる日本文化の中で最高峰ともいうべき、いぶし銀のごとく幽玄な室町文化の完成者でもあったのである。そのころの彼の歌。
    「何ごとも夢まぼろしと思ひ知る身にはうれいもよろこびもなし」

令和3年1月10日 出久根達郎
九条武子は浄土真宗、西本願寺の第二十一世法主、大谷光尊の次女として生まれた。
幼にして父の教えにて歌を詠む。
短冊に記された最初の歌は、明治二十九年、祖母の古希のお祝いで詠んだ八歳の作である。
「おばあさん 春ごとにさく梅の花 もてあそびつつ 年取りにけり」 武子は花の中で最も梅を愛した。
奇しくも染筆の最後の歌が、父の二十五年忌法要で詠んだ、やはり梅である。
「花の数 やや老いたれど庭の梅 めでましし春を忘れずや咲く」

令和3年1月4日 行蔵はわれにあり       出久根達郎
幕末、幕臣の勝海舟は西郷隆盛と会見し、江戸城を無血で開け渡した。
福沢諭吉は無血開城によって人の命や財産を救った功業は認める。
ただし、維新が成り、敵の作った政府の貴顕となり、得々として名利の地位に在るのは、どういう了見であるか、自分はこれを独り怪しむ、と難じた。
勝の返事は、こうであった。
「行蔵は我に存す、毀誉は他人の主張、我に与からず我に関せずと存じ候」
「行蔵」は、世に出て事を行うこと、隠れて世に出ないこと、の意である。出処進退の意に用いられる。
悪口も称賛も、第三者の見方、自分には関係ない。
木偶人形でもない限り、人は「行蔵は我にあり」だが、しかし、自信をもってこうと言い切れるご仁は、そう多くはあるまい。

令和3年1月3日 快気祝い
  いつ越えし男ざかりか返り花
さかりはつまり、したいさかりを指す、シタクなくなったら人生はおしまい。
老人は春風駘蕩、流れに任せて生きていくが、実に切ない話です。
今年は令和三年、病気になってから丸二年、二年前より二歳年をとり、今ミイラの如く干からびた体になっている。

昔から一事に打ち込んでいる人の多くは痩せている。
高僧、学者、芸術家、棋士などなど。
真偽はともかくとして、イメージはその方がよい。
一事に没頭すれば食欲なんて下司な欲望にかまけている暇はありません。

初詣は菩提寺で弘法大師さまにおすがりし「南無大師遍照金剛」と唱和させていただきました。
人は自ら傷を癒し姿勢をととのえて生きてゆく以外に道はない。
まあ、身体はこれ以上回復しないだろうから、妻に感謝しつつ、二人でささやかな快気祝いをしました。

令和3年1月2日 須知良正          
その朝は、心の休養を取るために伊豆へ来た二日目の朝であった。
私はどこへ行こうというあてもなく、一人で宿を出たのだが、夜が明けきらない薄明かりの道は、どうやら海に向かっているらしい。
スケジュールと目的のある行動から自分を解き放つこと、それが今回の旅であった。海に近いところで立ち止まった。
まもなく日の出だろうか。ゆっくりと息を吐く。空気は冷たいのだが、冷たいという言葉より、すがすがしいという言葉の方がふさわしい。
疲れが小さな塊に分けられ、一つづつ、大気のオブラートにくるまれていくようだ。
もう何年、あわただしく日々を過ごしてきただろう。深呼吸を忘れたかのような生活を送ってきたのだ。
いま太陽が上り始める。
松の枝を見る。横に伸びた枝の一つ一つが、太陽の朱の着物を薄く剥がしていく。
      枝ごとに色明かりゆく初日の出
翌々日、私はふたたび元の暮らしの中に戻っていった。      

令和3年1月1日 元旦
去年はコロナウィルスで自粛生活を強いられました。
私はほぼ山に住み人との接触は最小限でした。
金銭面を除き心に少し余裕のある生活です。

窯焚きを一年休みました。
昨年秋に試しに焚いてみましたが、妻の協力があったにしろ、73歳という年齢を感じました。
五日間の窯焚き、徹夜はとても大変です。今後窯焚きが出来るのかは微妙です。
でも、人生は守りに入ったらおしまい。身体が悪いからと言って、クヨクヨするな!
今年は、マダラぼけの頭を叩きながら、仲間の力と知恵を借りて年二回の窯焚きに挑戦します。

新春は見るものすべて、陽の光にさえ希望をつなぎます。
   正月や三日過ぎれば人古し        蘭更

春の窯焚きに向けて準備をしていきます。