第23回 薪窯焚きへ続く

令和元年12月31日 大晦日
砂時計のように時間が零れ、一年が静かに暮れてゆく。
足跡は消えない、だから、この世は足跡だらけ。
私の足跡はどこに ?
今年も窯焚きでは多くの人と出会った。
今年も大勢の人達とやきものを楽しんだ。
これから来春の窯焚き準備です。

令和元年12月29日 1年
山小屋の雪は、思いのほか薄かった。空では、冬日が精いっぱいの日差しを投げかけ、ちぎれ雲が、もてあそばれるように浮遊しているだけだったが、小さな、小さな雪片が舞い降りた。
ダラダラと何もしないで昼行燈のように暮らしてしまった一年。
毎朝の目覚めが爽やかで、ベッドに持ち込んだ本を少しめくると、自然に瞼が重くなり、そのまま深い眠りに誘われるような毎日なら言うことはない。
私はぶらぶらしているようで、時間なし、丈夫なようで、体力なし、見かけ通りにはいきません。
・・・でも、やりたいことは、何とかできます。
もっと充実した時を過ごしたい。そう思いつつ一日が過ぎる。
"現在"(いま)を生きないと、たぶんそんな風にはなれない。
季節は巡って、もうすぐ新年。
長い人生、こういう年もある。

令和元年12月22日
どうして私だけが、と自分のことしか何も見えず、考えられませんでした。
この時の自分をとても恥じています。妻の方が私より何十倍もつらかったことでしょう。
そして心にしみているのは、妻が見せてくれた私へのいたわりです。
その心の大きさが私に教えてくれた、人はつらい時も、悲しい時でも、自分よりもっと不幸な人がいることを・・・・・。

「私は優しさを忘れていない ? 」そう声に出して呟いてみた。

令和元年12月15日 加藤唐九郎
やきものの世界には、新式の生産機械を取り入れて行こうとする一派と、反対に「うちは何代目だ」と家柄の古いことだけを尊重する一派がいる。一代や二代古かろうと、何も大したことはないのに、それを有難がる人間がいまでもある。
戦争中、美術統制会が結成され、僕が陶芸部門の理事長になった時、役員会で、萩の坂倉新兵衛が、
「うちは十三代続いておりますが、あなたのところは何代ですか」と誰を掴まえても自慢げに言っていた。
すると宇治の旭焼の松林義一がおもむろに、
「うちは百五十五代か六代までは分かっております。神武天皇様は時折うちへお供を連れてお遊びにいらっしゃいました」
とこれまた大真面目で言ったから、さすがの坂倉新兵衛もあとの言葉が続かなかった。
戦後、旭焼の工房を訪ねたとき、近代的な機械がずらっと揃っていて感心したが、以前、神武天皇と縁故のある話を思い出して面白かった。たしかに大変景色のいいところで、ここなら神武天皇がお遊びにいらっしゃるのにふさわしいという気はした。
12月12日山小屋を閉めました

令和元年11月17日 窯変        満松美代子
成長したい、変わりたいと願う時、私には決まって想い出す光景がある。
それは、炎によって窯変する土の器の美しさである。私の生家は、やきものの窯元だった。
窯に火が入る日が私は大好きだ。窯の温度が上がり、火勢がゴーッと唸り声を上げ、やがて煙突や色見穴から炎が噴き出るようになると、窯焚きさんが、色見穴の蓋を取り、私はのぞかせてもらう。
中には、光のように白色をおびた火のうねりがあり、まるで炎の乱舞だ。目をこらすと、つぼや器の黒い影が見える。
たたきつける炎に炙られて、悲鳴をあげているかのようにゆらゆらと揺れて見える。
そうした戦いは、いくつもの昼と夜をくり返す。
窯が冷えるまで数日を要する。次々と窯出しされる作品は、新しい生命に輝いている。
その瞬間の感動は、今も私を深くとらえてはなさない。
炎の嵐の中で、凛として自らの生命を造り続けていた土の器と、自分の生きる姿を重ね合わせてみる時、土と炎のせめぎ合いは、私を深い思いに誘う。

令和元年10月13日 北大路魯山    宇野千代
私の言う「花」というのは、いつでも桜の花のことである。
私は小説も書いているが、着物のデザインもしているので、この桜の花が、デザインをするのに、至極良い材料になるからである。
桜を使ったデザイン、といえば、私には生涯忘れられないことがある。
あれは今から30・40年も前のことであるが、北大路魯山人という天才的な陶芸家の邸に、招待されたことがあった。
小林秀雄さんなども仲間の一人であったが、まだ、そう開けていなかった鎌倉の山の中の家で、鎌倉時代の建築だとかいう、壮大な、茅葺屋根の邸の形にも驚いたが、一度び家の中へ足を踏み入れると、その茅葺屋根の内側の頂にまで届きそうに見える、巨大な桜の木が、満開の花をつけたまま、すぐ眼の前に一本、あっという高さで植えてあるではないか。
いや、家の中なのだから、植えてあるのではない。それは、どこからか、根元からぶった切ったものを、鎌倉時代のこの邸の中に運び入れて、どういう仕掛けをしたものか、巨大な桜が家の中に生えているような形に見えるではないか。
それが、私たち仲間のものを招待した、最大の、大盤振舞なのだということが分って、その陶芸家の狂気じみた、奇矯なデザインの才能に、吃驚仰天したものであった。

令和元年9月15日 荒川豊蔵    芝木好子
小さい紫の野菊のような花を、なぜ都忘れというのだろう。
花は小さい壺か、備前焼の筒型に挿してもいいし、竹籠にもよく写って花の姿が初々しい。
都会で見るこの花は紫色が映えているが、色のちがう都忘れを見たことがある。
四年ほど前、陶芸家の荒川豊蔵氏を岐阜の大萱へ訪ねた時である。山里から狭い山路を登ってゆくと、途中から小川が流れている。
この山はすべて陶芸家のもので、片方の崖上に茅ぶきの田舎家があり、一方の台地には工房と窯場があった。
山は深い木立におおわれているが、茅ぶきの家のまわりは草も木も手入れが行き届いている。
この家の縁先あたり一面に春告花のように都忘れが咲き出ていたのであった。花の色は薄紫で、珍しい。
「こんなにやさしい都忘れを見るのは初めてです」と私はつい口にした。
花はあやめも、牡丹もみな陶芸家が手入れをするということだった。
自然のままに見える都忘れも、やはり愛情を籠めなければ美しくはならないのだろう。
轆轤を廻して志野の茶碗を作るしっかりした手の陶芸家が、小さい花を慈しむのを知った。

令和元年8月4日 薪割
私の体調が悪く、秋の窯を中止します。
令和2年春5月の窯焚きを目指します。
いただいた赤松を、岩田さんにお手伝いいただき薪割しました。

令和元年6月16日
伊藤伝さんから頂いた赤松。
少し早いですが秋の柴も用意して積みました。
ローマの真実の口を写しました。嘘をつくと指が食われます。

令和元年6月3日 窯出し2
窯の内部を掃除して、コンパネで蓋をする。
作品に灰でくっついた道具土を取り、金剛砂でバリ取り。

令和元年6月2日 窯出し1
ベランダにブルーシート、鉄べら、タガネ、木槌など窯出しの準備する。
ゼーゲルは前上9番10番融ける。奥下 7番・8番完倒。
やきものは実用的でいいなあという言葉を頂き、作陶の至福満喫です。
長岡さんが窯出しの手伝いに来てくれた。

令和元年5月26日 窯焚き 五日目
日曜日       応援 AM5:00〜PM2:00 平林靖久
            1300℃-1300℃
            AM6:00 色見にいれたゼーゲルを見ると、7・8番(1250℃)が倒れているので、熱量は十分。
            ぐい飲みを引き出すと、十分に融けている。
            赤松をバレット2枚焚き、お昼に窯を閉める。焚口・ロストルを閉じて耐火モルタルを塗る。

           今回の窯は、みんなに助けていただきましたが、私たちは一緒に楽しいときを過ごしているという感じです。
           煙突を閉め、火がつかないよう周囲に水を撒いて終了。

           窯出しは一週間後の6月2日を予定。

令和元年5月25日 窯焚き 四日目
土曜日          AM8:00〜PM5:00  1250℃-1300℃  朝の気温10℃ 昼間は暑い。
              AM7:00〜PM2:00  応援 五味訓子夫妻。煙道のドラフトを2枚あける。 
              AM9:00〜PM3:00  応援 井上寿子、原ひとみ夫妻、長岡美由紀
              
タヌキが窯付近に現れ見ていてもしばらく逃げない。

              夜に備えて薪を窯の周りに大量に用意する。
              温度目標を手前1280度±30度。奥を1180度±30度とする。
              

              PM3:00PM10:30   応援  伊藤とし子・伝夫妻。
              PM8:00〜5月26日AM7:00 1300℃-1300℃   応援 岩田信一 
               PM11:00〜5月26日AM7:00 1300℃-1300℃  応援 小池邦明
              煙突から炎。夜ブルーシートで囲む。 赤松を3バレット焚き。

令和元年5月24日 窯焚き 三日目
金曜日         朝の気温9度 快晴 昼間は暑い。
             焙り焚き AM7:00〜AM9:00  200℃-350℃  ロストルで焚く。
             朝の火前は200℃、3年乾燥した赤松で窯焚きは順調。
             中焚き  AM9:00〜PM4:00 350℃-600℃  焚口開け、ロストルは全開。
             応援   武井梢・中沢智寿・宮坂美奈恵・小松真弓・林啓子
             赤松の割木を一輪車で運び棚に詰め、窯の周りにも薪を積む。
             煙道のドラフトを開け、捨て間のドラフトを全部あける。
             PM2:00〜PM8:00  応援    宮下茂
             攻め焚きPM5:00〜5月25日 AM7:00    600℃-1250℃  応援  森元康仁
              攻め焚きPM9:00〜5月25日 AM7:00              応援  岩田信一
             夜ブルーシートで囲う。日が暮れてから黒煙が出る。赤松を2バレット焚き。朝4時には明るくなる

令和元年5月23日 窯焚き二日目
木曜日        焙り焚き AM7:00〜PM4:00   火前600℃  
            2日目は快晴 朝10℃  朝6時起き、火前は160℃。
            応援 薪運び 塚田さん。
            焚口を閉めロストル内で長い枝を2バレット焚く。
             昼食は七輪で鍋焼きうどん。焼き芋がとても上手にできる。
            大量に用意した柴と枝で二日間焚き、昇温は快調。
            三日間の応援者用の食料を買い、九時就寝。

令和元年5月22日 窯焚き一日目
窯焚きに必要なものは、気力と体力。
注連縄が張られ、神酒が供えられ、「かしこみ、かしこみ」?と神に祈り、窯に火を入れます。

水曜日  神事  (御神酒・塩・洗米)  火入れ  今回のお酒は秋田県の「秋田美人」。
            焙り焚き AM7:00〜PM5:00   火前400℃ 見学者 竹村さん、塚田さん。
            気温 朝 8度 晴れ 。焚口を閉めロストルの前で柴を2バレット焚く。
            昼食は七輪で鍋焼きうどん。焼き芋が絶品に仕上がる。
            煙道のドラフトを開け、捨て間のドラフトを全部あける。
            夕食はピザ窯で10秒で焼けるピザと七輪で焼くお餅と焼き肉。
            夕方窯を閉め、九時就寝。

令和元年5月20日 今回の窯焚き方針
緋色窯の穴窯焚きも22回目である。
今回は私の体調が悪く、仲間の岩田さんに二晩徹夜していただきます。
生徒さんはじめ応援の皆さんは早朝、昼間、夕方から夜中、そして深夜に窯を焚いてくれます。
今回の窯焚きに関しては、
1.窯内の温度を上げるには十分に乾いた薪がいるが赤松は2年の乾燥済み。
2.穴窯は前と奥では温度差が大きいのでじっくりと温度を上げる。
3.温度の上がりやすい窯だから、火前を最高1300度として長時間焚く。
4.熾きができない窯だが堅木を使用して少量貯める。

令和元年5月7日 窯詰め5
炙り焚き用の柴を用意しました。

令和元年5月6日 窯詰め4
灰被りの窯詰めが完了しました。
煉瓦で入り口を塞ぎながら、上下二か所の焚口を作り、モルタルで隙間を埋める。

令和元年5月5日 窯詰め3
連休後半5日間は晴天。
?1日で前の段の窯詰め完成です。
棚板9。10×10 10×10 10×10 10×15 0×10。

令和元年5月3日 窯詰め2
中の段の窯詰めです。
棚板12+1枚。10×10 6×6 6×6 10×10 6×6 15(45×30)。
中の段の窯詰め、二日間で終了です。

令和元年5月1日 窯詰め1
今日から窯詰めが始まりますが私の体調が悪く、仲間の岩田さんが10連休ということで、毎日来て窯詰をほとんどしてくれました。
棚板を並べ水平と隙間の寸法を測ります。
ゼーゲルは奥の段の下(7・8番)と、前の段上(9番、10番)の合計2ヶ所。
さま穴に備前の徳利をおいてみます。
奥の段の窯詰め開始しました。棚板10枚。15×12 10×10 6×6 6×10
奥の段の窯詰め、二日間で完了です。

平成31年4月29日 窯焚き準備
窯詰に使う材料をそろえました。いつもの、わら、貝、もみ殻、炭、灰、道具土、サヤです。

平成31年4月28日 作品完成で
3月から作品作りを始めて、300Kgの作品が出来ました、やっと完成です。
今年の窯焚きは体調が悪く、休もうかと考えていました。しかし、大勢の人たちの励ましと応援で実施することになりました。
ですから、窯を焚く人は細かく割り振った時間割で集まります。

今回の作品は妻が80パーセント作りました。私があまり作らないので、妻は何とかしようと一生懸命ろくろを廻していました。
生徒さんと、窯焚き応援の人たちの作品も集まりました

平成31年4月27日 棚板
棚板にアルミナを塗り、ツクをサイズ別に並べました。
道具土で作品の下に置くセンベイを作りました。

平成31年4月21日 穴窯を開ける
4月16日、4か月ぶりに穴窯のブルーシートをはずしました。
4月18日、半年ぶりに穴窯を開け中を掃除しました。

平成31年4月14日 作品を作る
備前と赤土の作品ができました。

平成31年4月7日 穴窯
八ヶ岳は雪解けです。
備前土の作品が少しできました。


平成31年3月24日 粘土と釉薬
3月23日は、穴窯を深夜に焚いてくれる岩田さんと瀬戸市に行き、ヤマダ窯業さんから粘土を買いました。
五斗蒔土200Kg,伊賀土20Kg,磁器土20Kg,4号赤土20Kg,貫入土40Kg,
小物などは村上金物店で買い、その後釉薬の原材料店に行きいろいろと教えていただきました。
お昼は美味しい和膳の「やじろべぇ」で頂く。
     彼岸前寒さも一夜二夜かな   斎部路道
師匠の遺した工房を壊すことになりました。
陶芸教室に生徒は沢山いましたが、私はたった一人の弟子でした。
十数年経ってもう何もないと思われましたが、まだ粘土、釉薬、原材料などを発見し頂きました。
重機が入るので邪魔な椿、お茶等の樹木と草花を沢山いただきました。

平成31年3月17日 僕のホスピス1200日  山崎章郎
ある時、中年の男性ががんによる苦痛症状の緩和を求めて我々のホスピスへ入ってこられた。
前の病院では長くて一年と言われたが、自分としては最悪の事態を想定してこれからの時間を過ごしたいからだと言った。
僕は最悪1カ月もありうると言うと、「分かりました、その前提でこれからを考えます」といってくれた。色々話していると、ベッドの足元の壁面に白馬岳の自然を描写した油絵があった。尋ねると、「いやお恥ずかしいんですが、私が描いた絵なんですよ」と教えてくれた。
彼の部屋を辞した後に、僕の頭に閃いたことは、ここホスピスで彼の個展を開くことはできないかということだった。
その後十数点の彼の絵がホスピスに運び込まれ廊下の壁面に飾られた。作品の下に彼自身の短い説明がつけられていた。
その説明文を読むと、彼には絵の才能だけでなく詩人としての才能もあったことが分かった。
個展の準備が出来たとき彼は自力では動くことが出来なかった。
彼は車椅子を家族に押してもらい、彼の絵を背景にして、ご家族とスタッフで記念写真を撮った。
その午後、彼は疲れたので眠りたいといい、その日の夜から意識が低下した彼は三日後、ご家族の見守るなか旅立っていった。
さて読者諸氏はご自分をふり返ってどうであろうか。
ホスピスで出会った患者さんの多くが自分がこのような病気になるとは思わなかったと言っている。
そしてひたすら仕事に明け暮れてきた方であれば、個人的な趣味を持つゆとりもないままに発病してしまうことになるのだ。
もし何らの趣味もお持ちでなければ、仕事以外の人生の友であるような何らかの趣味をお持ちになることをお勧めしたい。
できれば、あなた一人だけでもできるような趣味を。それは死の床でもきっとあなたを慰め支えてくれるだろう。
三月になって雪が積もりました。

平成31年3月10日 なんじゃコレ    中村嘉葎雄
藤沢に住んでいた頃は、庭に窯を置きまして、よく作って、よく焼きました。
ある日に窯出ししたら、どうにも憎たらしい壺が出てきて、思わず地面に投げつけました。
そうしたら割れないで坂をごろごろ転がっていったんです。途端にいとおしくなっちゃって慌てて追いかけてって、ひしと抱きしめました。それ以来、僕は器を割ったことがない。どんなに形が悪くてもね。ちゃんと家で使います。 好きで続けていることなので、うまいとかまずいなんてことはどうでもいいこと。僕は陶芸家ではなく、役者ですから。
ふだんのまま、あるがまま。僕の器は、これからもずっと、”なんじゃコレ”でいいと思っています。
粘土を土錬機で練ります。黒土40kg、赤土40kg、古信楽細目60kgを1Kgに小分けする。

平成31年3月3日 なんじゃコレ    中村嘉葎雄
ことしの春に日本橋高島屋で焼きものの個展を開きました。たくさんの方に来ていただいて、随分と久しぶりの人にも会えました。
始めたのは三十年ほど前になります。瀬戸の陶芸家鈴木清々先生を紹介していただいて押しかけて勝手に弟子入りしました。
先生は、素人だからすぐ飽きると高を括っていたようですけど、なかなか帰りませんでした、僕は。
結局三カ月も居座っちゃった。仕事もいくつか断りました。以後も瀬戸に通って、先生の窯場でろくろをひきました。
二年たって、先生がやれやれとおっしゃるもので、名古屋の丸栄百貨店で個展を開きました。初めて二年じゃ早い、ひどいですよねぇ。
でも、先生は、ほめられてもけなされても勉強だから、恥をかくのもいいとすすめてくれました。
ある時美術部長が飛んできて、たいへんだ、加藤唐九郎先生がお見えになったって。
いいじゃないか、お見えになったって。見て頂こうじゃないの。
加藤唐九郎先生、器を手にとって、ひっくり返してみたりして、「なんじゃコレ」 面白かったなあ。その通りだと思いました。  続く。

平成31年2月24日 始動
2月20日は春本番の暖かさで、冬眠から目覚め陶芸活動始動です。
まず、去年から積んであった備前土150kgを土錬機で練ります。

平成31年2月17日 加藤唐九郎翁と 2  森重久弥
加藤唐九郎翁。この陶匠の魅力は思慮の深さに比べて子供のような稚気満々とした心と澄んだ瞳であった。
「実は、私も先生の永仁の壺を手に入れまして」
「そりゃ、イミテーションだヨ、あれはネ、3つしかないはずだが、あとはヤボな奴が真似したもんよ。
あれはネ、二年間ほど田園の肥溜めに漬けとけば、あの色が出るんだヨ」  「ハア、そういうもんですか」
「いや、世の中の偽政者てえのはツマラン奴が多いね。まだまだ勉強することがいっぱいだ。あと20年はお呼びが来ても死なれんのウ」
その人が、いまはいない。しかし、その輝く作品は永遠のものだ。権力や条例やで、芸術は創造され、発動するものではない。
この陶匠の情熱は、到底私どもの及ぶ所でない。これからは、ただひざまずいてその命の光を、ガラス越に拝見するしかない。
「成功して満足するのではない、満足したことを成功というのだ」
ということわざが耳に聞こえるようだ。

平成31年2月10日 加藤唐九郎翁と 1   森重久弥
黄瀬戸の展覧会は見事なものであった。
出品点数も多く、グルグル回りながら、こっちの目もグルグル回った。
「たとえば一つ、いかほどでしょうか?」
「売らないのヨ」
「どうしても」
「売れば税金でみな持って行かれるだけヨ」。
加藤唐九郎翁、享年八十七、眼も耳も頭も毫も衰えぬ頑強な心身の持ち主であった。
私をつかまえて、「どうだい、アッチは?」
「ハア、どうやら、ソッチの方も・・・・・」
「そんなことじゃ駄目だよ、あれが芸術の源だヨ。この焼き物だって、一種のセックスみたいなところがあるのよネ」
私がお目にかかった最後は八十四・五歳であったろうか。すべて衰えを見せぬシャキッとした老人であった。 続く

平成31年1月20日 色  降旗千賀子
縄文、弥生、古墳時代と、考古遺物に赤い色はとてもよく使われている。
恐らく人間が最初に「色」を絵具として意識したのは、最も身近に広がる土であったはずだ。
そのなかでも酸化鉄分を含んだ落ち着いた色味の赤土は、画期的な絵具であったのだろう。
熱を加えるともっと赤みが増す。「岱赭」「弁柄」と呼ばれ、またこの赤土で繊維を染めていたことも風土記に残る。
スペインなどの紀元前洞窟絵画にみられる雄大な動物の赤系の色も同じ。
「土は茶色」と思い込んでいる眼を、是非改めて土に注いでいただきたい。意外な色の種類に驚くはず。
ちなみに古代からの赤には「辰砂」という血のように赤く、硫化水銀が主成分の鉱物から採取した鮮やかな「朱」がある。

平成31年1月3日
私が子供の頃は、公衆電話の色は赤でした。遠くからでも見えるためには、目立つ色が最適だったのです。やがてピンク電話が増え、緑になり、現在ではほとんどの公衆電話が灰色です。理由は、公衆電話が目立たなければならない時代が終わったからです。
かっては必要不可欠だったから最も目立つ赤である必要があった。しかし現在では、ほとんどの人が携帯電話を持っているため、公衆電話は当然、街角からつぎつぎ消えていく。
やきものも同じことが言えますね。どうしても売らなければならない陶芸家の作品は真っ赤とか、黒と白で掛け分けたり、どぎつい、人目を引く色や形になっています。でも、そんな買ってほしいといっている作品はすぐに飽きられてしまいます。
人を引きつけようとするものは派手な色を好み、振りかえられなくて済むようになれば、だんだん地味な色に変わっていくのは、人間ばかりではないようだ。

平成31年1月2日 次の窯焚きを目指す
春の窯焚きに向けて準備をしていきます。
去年はものすごく忙しく、それに、三年越しの母(96歳)の介護が大変でした。
忙しいことが充実した人生ではありません。これからは少し余裕のある生活をしていきたいと考えています。
私は六十歳というまだまだ体力のあるうちに薪窯を始められたことは本当に良かったと思います。
去年の窯焚きでは71歳という年齢を感じました。
古希を過ぎて体力が落ちただけではありません。先が見えてきたためでしょうか、涙もろくなりました。これは本当に嫌ですね。
今はまだまだ頑張れるじぁないかという年齢ですが、二晩徹夜はとても大変です。
今年は、仲間の力と知恵を借りて年二回の窯焚きに挑戦します。
そして、陶芸は「焼きもの」である。人の手の届かない『炎』が相手である。
毎日使う焼きものには、造形だけでなく、焼く炎の勢いが感じられる作品でなくては面白くない。
土や炎へのこだわりは絶対に必要・・・・です。

平成31年1月1日 笑って暮らす
笑いは心の余裕から生まれると、言われます。
「泣いて暮らすも五十年、笑って暮らすも五十年」とは芝居の「イカケ松」の台詞だそうですが、現代は平均寿命が延びたから「泣いて暮らすも八十年、笑って暮らすも八十年」となりますが、泣いて暮らすのはイヤですね。笑って八十年も百年も暮らしたいものです。