新型コロナにより春の窯焚きを断念します
第23回を再び 秋の窯焚きへ続く


令和2年6月30日 老い
何事も「ファイト」であくせく暮らとし、無理があったのはあきらかだ。
エンジンはいつも動いていて、ニュートラルギアがなかった。
しかし、自分では無理をしているとは思わなかった。
体力には自信があったのだ。
  「老いは漸く身に迫ってくる」
自分では半分がた世の中から身を引いて、他人に気を使うこともない、しているのは自分の好きな事だけ。
ただ、どこか余裕がなくなっていた。自分ではそれと知らず、寸暇を惜しむ生活スタイルになっていた。
さして苦とも思わなかったが、もはやその時期は終わった。
明らかに体が拒んでいる。我が身が少しずつ分かってきた。
老いがまさしく体内に居座っている。
私もみんな等しく過ぎたはずの七十数年という時間の、それぞれの内実を探していたのかもしれない。
「ゴーン・ウイズ・ザ・ウインド」
オツカレサマ。

令和2年6月21日 時間
単調な生活は驚くべき速さで過ぎ去っていった。
そして、いつの間にか頭に白いものがめっきり増えた。
人間の時間というものは、時計と全く別個に存在することを知った。
しかし、この単調な生活こそ、自ら臨んだものだ。
清岡卓行も「おだやかに繰り返される生活の支えなしに、幸福というものはあり得ない」といっている。

令和2年6月14日 一語の価値       出久根達郎(古本屋)
杉田玄白の『蘭学事始』を初めて出版したのは福沢諭吉であるが、諭吉はこの書でもっとも感激した場面は、玄白らがオランダ語の解剖書を、字引きなしの手探りで翻訳する部分だと述べている。
ひねもす文字とにらめっこして、一、二寸の文章も読めない。
「誠に艪舵なき舟の大海に乗り出せしが如く」で「ただあきれにあきれて居た」ことだった。
四年がかりで、こうして『蘭学事始』が完成した。我が国における蘭学、ひいては西洋医学の始まりである。
盲腸、十二指腸、神経、軟骨などの単語は、玄白らの訳語である。
 ところで『蘭学事始』の原稿は、幕末、諭吉の友人の神田孝平が、湯島聖堂の露店をひやかしていて見つけたものだった。
孝平の蘭学の師は玄白の孫だったので、彼はこの奇遇に驚いたという。
孝平と諭吉のおかげで、こんにち私たちは玄白ら先人の苦労をしのぶことが出来るわけである。
孝平がほりだした露店というのは古本屋らしいが名は伝わらない。
この書の一語ひとことがどれほどの価値をもっていたか、彼は果たして知っていたかどうか。

令和2年5月6日 枯木     高橋 治
枯木の如きという形容がある。いうまでもないが、枯れ果て、死に絶えてしまったことだけを意味するわけでではない。
凝然と立つ、解脱、悟道に達したとの側面が強調されることも少なくない。
しかし、立ち枯れはよろしくない。
材としては駄目で、せいぜい薪にしかならないことは周知の事実だが、実は薪にしても余り有り難くないそうだ。
加藤唐九郎さんがお元気な頃にうかがったところでは、松喰い虫の被害にあった松は、窯に焚いてもものの役にたたないという。
つまり、温度が上がらない。千度を超す火は、やはり木の命が燃え尽きる時にしか出ないと唐九郎さんは話された。
あの御老体がギリギリと歯ぎしりの音を立てながらのことだから、実に迫力にみちていたものである。

令和2年5月5日 ゴッホへの旅   澤地久枝
レンタカーでオッテルローに行く。
ゴッホがどんなに苦労し精進し続けたか、同じ題材を繰り返し繰り返し描く苦役のあとが伝わってくる。
画集などでは見たことのない人物描写。働く人々。
伝道者として献身の限りを尽くし、しかし伝道委員会から追放されるようなゴッホの生き方が、白と黒の、あるいは水彩による淡い色調の作品にも脈打っている。
この、根気の限りを要求される仕事を、一フランを得る見通しもないまま描き続けた百年前の人物を思った時、わたしはすこし泣いた。

令和2年5月4日 ゴッホへの旅  澤地久枝
ゴッホは画家として約十年生き、勤勉という表現では包みきれない多くの作品を残した。
その生前、売れたのはただの一枚の絵であることはよく知られている。
その価値を認めなかった人々により、作品は空気銃の標的にされ、あるいはカンバスとして使われるべく絵具を削り取られて売りに出され、多くが失われた。
妹のエリザベス・ヴァン・ゴッホの 『ヴァン・ゴッホの思い出』 の口絵に、多色刷りの「向日葵」がある。
この絵はこの前の戦争の際、米軍の爆撃により日本で焼失されている。

令和2年5月3日 わかがき
病気とは言え無為にして作陶しない日々を送っていることはなんとも居心地が悪かった。
私は我が貧乏性を嘲笑したかったが、笑おうとすればベソかき笑いになりそうだった。
我々の世代の「若死」がいかに多いか、いかに生き急いでいるか、私もその有力候補の一人である。
人の一生ほどではないにしても、一回の窯焚きには一回の窯焚きの物語があり、運命めいたものもあることを私は今しみじみと感じている。定年後の穴窯造りから窯焚きを改めて読み返してみると、怖いもの知らずであった自分自身がまざまざと見えてくる。
今の私にはとてもあのような窯焚きはできない。
画家の若い時の作品を"わかがき"といい、たとえ稚拙さはあっても、ういういしく伸びやかな筆致がその特徴である。
私の定年後の穴窯作品は"わかがき"だが、良く分からないまま、手探りで、張り詰めて猛禽のような自分がそこに居る。

令和2年4月6日 穴窯
穴窯を開きました。

令和2年3月28日
毎日の苦らし (あくせくと生きている私の毎日は「暮らし」というより「苦らし」のほうがふさわしかろう) に沈み込んでいる自分。
山小屋のカーテンを思いっきり引き開けると、春の光がいっせいに溢れた。
たちまち気持ちが明るくなった。
私にはまだ、エネルギーがいっぱいあるのが感じられる。
もしかしたらやきものは、人それぞれの生き様の、一つの手段だったかもしれない。

令和2年3月18-22日 一番窯
18日〜22日に岩田さんの一番窯で窯焚きです。
私は19日〜21日、10時〜16時に応援に行きました。

令和2年3月8日 陶芸講習会
下諏訪美術会の陶芸講習会で講師を務めました。
今年は私が体調不良で窯を焚かない予定なので、生徒さんにも参加していただき、岩田さんの一番窯(穴窯)で焼くことになりました。
定員が12名の教室に、25名が参加しました。本当に満員です。
スカーレット人気と、穴窯で焚くというはじめての試みのおかげでしょう。

令和2年3月1日 モノのあり方      中島誠之助
もしも骨董の世界が、本物だけの公明正大の世界であったならば、面白くもおかしくもない。困ったことに骨董屋は、本当のことを得てして言わないものである。それは本物を見せられたときよりも、偽物を見せられた時の反応に、よけい表れるように思われる。
私が二十代だった修業時代のことである。先代の父とふたりして、郊外に住んでいる陶磁学者を尋ねたことがあった。
この人は、江戸時代中期の京焼の陶工である尾形乾山に私淑して、乾山の一大研究家であり、かつ大収集家でもあった。
押し入れから学者先生が、次々と自慢の乾山の蒐集品を取り出して、父の前に広げてみせる。
父は次々と並べられる乾山の作品に、いたく感銘して、「綺麗ですなあ」とか「珍しいですなあ」と語りかけ、先生の美意識の高さをたたえているのである。
先生の家を辞しての帰り道。父に「すごい乾山ですね」と語りかけたところ、父は怖い目つきでキッと私を睨みつけ、「ぜんぶモノは悪い」とひとこと言って、あとは口をきかずに足早に歩いて駅に向かったのだった。
苦虫をかみつぶしたような父の横顔から、モノのあり方をズキンと心に叩き込まれた、忘れることのできない若い日の修業であった。

令和2年2月16日 私の人名辞典
「思考は常に短絡し、向こう見ずで浅慮」

令和2年2月9日 陶芸講習会
三月の下諏訪美術会・陶芸講習会で講師を務めることになりました。
今年は私が体調不良で窯を焚かない予定なので、生徒さんにも参加していただき、岩田さんの一番窯(穴窯)で焼くことになりました。

令和2年2月2日 加藤唐九郎
陶芸家は有名になることが一つの害じゃね。世の中も悪い。マスコミも大げさに取り上げる。
政府その他の団体が、資格、勲章を与えるんじゃが、こういうものはみんなダメや。
特に日本人は権力に弱いからねー。

令和2年1月19日 介護の後ろから「がん」が来た    篠田節子
同書は、母が入院を経て介護老人保健施設に入所した後の、昨年三月に携帯電話が鳴るシーンから始まる。
乳がんの症状が出たため、検査を受けたクリニックからの連絡だ。入院、手術と怒涛の日々の幕開け。二十年前、母に認知症の症状が現れ、体は元気だが「怒りや不安の感情が年々強くなり、騒いだり、わめいたりで目が離せない」
このエッセーで言う、「自分を二の次にしないで」

令和2年1月12日 何かに熱中できることは幸せ    福本伸行
最近、「何かに熱中して時間が経つのを忘れる」なんて経験をしたことがあるだろうか?
年を重ねるに連れて、多くの人は熱中できるもの、つまり”大好き”を少しづつ減らしていく。
そして、気が付けば仕事とその合間の息抜きだけの人生だ。泣けてきますね。
何か他のものを犠牲にしてまで熱中できる”大好き”を探すことは、実は相当難しい。
それが見つからないから、多くの人は不本意な生き方を強いられている。
自分の”大好き”を見つけ、それを見失わないようにすることは”幸せ”に直結しているのだ。
何かやりたいことがあったら、とりあえずやってみよう。それが、自分でも知らなかった、あなたの”大好き”になるかもしれない。
生徒さんたちは春の窯に入れる作品を作りだしました。

令和2年1月3日 三友
松竹梅はめでたいものの象徴ですが、中国では(歳寒の三友)と呼ぶ。三つとも、寒に耐えるのでよく絵に描かれる。
     生きることようやく楽し 老いの春    富安風生

令和2年1月2日
      初春や思う事なき懐手     尾崎紅葉
明らかに、思う事がないのではなく、思う事が嫌なのだという心境が伝わってくる。
私も年をとり、今とても親近感を覚える一句です。

一年の計は好奇心にあり?

令和2年1月1日 おだやかな心    八木重吉
ものを欲しいとおもわなければ
こんなにもおだやかなこころになれるのか
うつろのように考えておったのに
このきもちをすこし味わってみると
ここから歩きだしてこそたしかだと思われる
なんとなく心のそこからはりあいのあるきもちである
穴窯の火は祭りである。「縄文の火」である。
人は火と語り、うらみ、つらみ、喜びを炎に乗り移す。
お寺でご祈祷の時に護摩を焚き、火をぼんぼん燃やすのは、火天にお願い事を託して、運ばせているということだ。
そしてまさに、穴窯の仲間は共同体そのものである。
緋色窯の正月 東大寺二月堂のお水取り杉 木曽ヒノキの看板 玄関の信楽タヌキ


令和元年12月31日 次の窯焚きを目指す
春の窯焚きに向けて準備をしていきます。
去年の窯焚きでは七十二歳という年齢を感じました。
今はまだまだ頑張れるじゃないかという年齢ですが、二晩徹夜はとても大変です。
来年は、仲間の知恵を借りて年二回の窯焚きに挑戦します。
そして、陶芸は「焼き物」である。人の手の届かない『炎』が相手である。
毎日使うやきものには、造形だけでなく、焼く炎の勢いが感じられる作品でなくては面白くない。
土や炎へのこだわりは絶対必要・・・・・です。