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令和5年6月30日 | 陶芸 |
陶芸との出会い、陶芸との縁を作ってくれたのが父でした。 父が定年退職するというので、趣味の一つくらいと父が申し込んだ陶芸教室。定年延長で私が代役となりました。 それから陶芸に親しみ、七十五歳の現在、私の毎日の生活、気持ちの張をを支えてくれているのも陶芸です。 私は人との出会いに恵まれてきました。陶芸仲間はとても人柄の良い人達です。 一人の市民として私はこれ以上の幸せを望みません。陶芸とともに生きてゆける毎日に感謝です。 私の父は、すばらしい能力や学歴があるあるわけでなく、立派なことを言うわけでもない。しかし、立派に人だった。 父のことを思うと、平凡に生きた人生の魅力ということを考えさせられます。 父が書き遺したものは (読むことのできない字で書いた日記を除く) 何一つありませんでした。 一流の彫刻家の眼には、素材の大きな石の中に、はじめからバレリーナや、若者の姿が見えるといいます。 彫刻家がそれを形にしたとき初めて、私たちはその作家のビジョンを眼にすることができます。 父の没年の年齢まであと二十年。私はこの残りの歳月で自分を書き残したいと思います。 |
令和5年6月25日 | 本山可久子 鈴木真砂女の娘 |
九十歳を過ぎたころから、母は急に衰えをみせはじめた。日曜ごとに晴海に呼ばれて箪笥の整理をするのだが、片しても、片しても、すぐごちゃごちゃにしてしまう。 平成九年、九十一歳のとき、心臓の具合が悪いと言うので、広尾病院へ母を連れて行った。 検査の結果いろいろの病名は出たけれど、「大丈夫、百まで生きられますよ」と先生が励ましてくださった。 ところが母は、「あと十年しか生きられない」と怒っていた。 気だけは強いが日ごとに小さくなっていく母。食事をしている最中に、居眠りをしている姿を見て愕然としたことがある。 老人保健施設に入所した母、お金のことで責められるのが一番つらかった。 職員の人は「痴呆になる前兆として、誰でも必ず暴力が出る。男の場合は力の暴力、女ならば言葉による暴力。近しい人にほど、それが出るのだ」と慰めてくれる。 それからはいつ行っても「火事だよ、早く逃げなくちゃ」とおびえる日が多くなった。 同じ痴呆でも子供に返る人もあるのに、真砂女のそれは暗く苦しい。 あんなに好き放題、人生をうそぶいて生きてきた人なのに、最後になってこんな思いにとらわれているのが哀れでならない。 葬儀には母のいちばん華やいでいたころの写真を遺影にして色とりどりの花で飾った。 お集まりいただいた方々には、「さようなら」ではなく、「いってらっしゃい」と華やかに見送っていただいた。 母は身をもって「老い」とはどういうものか、「死」とはどういうものなのか私に教えてくれた。 かのことは 夢まぼろしか 秋の蝶 泣くまじと 泣くまじと抜く 草の花 鈴木真砂女 |
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令和5年6月4日 | 窯焚き五日目 |