穴窯焚く 29 に続く


令和5年6月30日 陶芸
陶芸との出会い、陶芸との縁を作ってくれたのが父でした。
父が定年退職するというので、趣味の一つくらいと父が申し込んだ陶芸教室。定年延長で私が代役となりました。
それから陶芸に親しみ、七十五歳の現在、私の毎日の生活、気持ちの張をを支えてくれているのも陶芸です。
私は人との出会いに恵まれてきました。陶芸仲間はとても人柄の良い人達です。
一人の市民として私はこれ以上の幸せを望みません。陶芸とともに生きてゆける毎日に感謝です。

私の父は、すばらしい能力や学歴があるあるわけでなく、立派なことを言うわけでもない。しかし、立派に人だった。
父のことを思うと、平凡に生きた人生の魅力ということを考えさせられます。
父が書き遺したものは (読むことのできない字で書いた日記を除く) 何一つありませんでした。
一流の彫刻家の眼には、素材の大きな石の中に、はじめからバレリーナや、若者の姿が見えるといいます。
彫刻家がそれを形にしたとき初めて、私たちはその作家のビジョンを眼にすることができます。

父の没年の年齢まであと二十年。私はこの残りの歳月で自分を書き残したいと思います。

令和5年6月25日 本山可久子 鈴木真砂女の娘
九十歳を過ぎたころから、母は急に衰えをみせはじめた。日曜ごとに晴海に呼ばれて箪笥の整理をするのだが、片しても、片しても、すぐごちゃごちゃにしてしまう。
平成九年、九十一歳のとき、心臓の具合が悪いと言うので、広尾病院へ母を連れて行った。
検査の結果いろいろの病名は出たけれど、「大丈夫、百まで生きられますよ」と先生が励ましてくださった。
ところが母は、「あと十年しか生きられない」と怒っていた。
気だけは強いが日ごとに小さくなっていく母。食事をしている最中に、居眠りをしている姿を見て愕然としたことがある。
老人保健施設に入所した母、お金のことで責められるのが一番つらかった。
職員の人は「痴呆になる前兆として、誰でも必ず暴力が出る。男の場合は力の暴力、女ならば言葉による暴力。近しい人にほど、それが出るのだ」と慰めてくれる。
それからはいつ行っても「火事だよ、早く逃げなくちゃ」とおびえる日が多くなった。
同じ痴呆でも子供に返る人もあるのに、真砂女のそれは暗く苦しい。
あんなに好き放題、人生をうそぶいて生きてきた人なのに、最後になってこんな思いにとらわれているのが哀れでならない。
葬儀には母のいちばん華やいでいたころの写真を遺影にして色とりどりの花で飾った。
お集まりいただいた方々には、「さようなら」ではなく、「いってらっしゃい」と華やかに見送っていただいた。
母は身をもって「老い」とはどういうものか、「死」とはどういうものなのか私に教えてくれた。
   かのことは 夢まぼろしか 秋の蝶

   泣くまじと 泣くまじと抜く 草の花   鈴木真砂女


令和5年6月18日 作品
使うために作った作品は使いましょう。
食器など使うための陶器は、使うことによってはじめて作品が完成します。
たとえば、湯飲み茶わんならお茶を注いでみる。飯茶碗なら、ご飯を炊いて盛り付けてみる。
さらに、作品が仕上がったら、人に見せる。
また、人目にふれる、人に差し上げることを想定して作ると、自ずと緊張感が出るので、作品のレベルはアップします。
頭をたれてすぎし来し方、身の行く末に思いを致し、あれこれわが身の所業をかえりみているうちに、愕然として一瞬、我に返る。
「ああ、おまえはなにをして来たのだと…・吹きくる風が私に云う」

私は発見した。
「忘れたことは思い出せない」

令和5年6月12日 窯出し
クイズや試験の答えは一つですが、焼き物の場合は答えはたくさんあります。
絶対にこれがいいということを証明するものは何もないのが芸術の世界です。
極端にいうと、基準というものがありません。
  努むれば 駄作の山にも 花の咲く

令和5年6月4日 窯焚き五日目
今回の窯は台風2号の影響で三日目は豪雨、四日目は朝小雨で午後晴れ。
最終日は朝雲が出ていたが、気がついてみるとすっかり晴れていて、ところどころに青空が垣間見られる。
「天気は元気だ」 と、いつも口癖のように云う独り言を言って大きな伸びをした。
  あじさいに かくれし妻の 声を追い


6月4日
日曜日  
      気温 朝 気温9℃、AM6:00〜妻と二人最終の薪くべです。灰を融かすため1300度まで上げる。
      PM3:00、奥のゼーゲルを見ると7番8番が倒れている。
      PM4:00窯を閉め水を撒いて春の窯焚きは終わりました。
      
金曜日の台風2号による豪雨で少し予定を変えましたがまずまずの窯焚きでした。

      窯を閉め、8時就寝。12時間寝る。翌日は10時間眠る、体重2Kg減でした。

令和5年6月3日 窯焚き四日目
やきもの       向田邦子
やきものの値段など知らないほうがいい。他人様に誇れる名品を持たない人間の言い草かも知れないが作者知らず、値段知らず、ただ自分が好きかどうか、それが身のまわりにあることで、毎日がたのしいかどうか、本当はそれでいいのだなあと思えてくる。

6月3日
土曜日    番犬に連れられおかえり薪の窯
        平林さんに、朝AM5:00からPM1:00まで応援に来ていただいた。ありがたい。
       寝不足でくたくたです。朝雨が止む。
       AM6:00 1200℃まで上げました。気温9℃、焼き芋うまい。
       今日は湊、野中、宮坂(由)、伊藤さん、増澤(み)さんがAM10:00〜PM4:00まで応援。
       鶯・不如帰・郭公など小鳥が鳴いている。PM4:00に1300℃まで上げました。
       その後、1250度で朝まで焚く。
       PM8:00〜翌朝AM5:00まで、岩田さんにお応援いいただいたお陰で眠る。

サラサドウダンツツジ 7番倒れる

令和5年6月2日 窯焚き三日目
やきもの       向田邦子
再生産のない放送台本を書く人間の軽い財布に見合って、やきものは万一、粗相をしても、
「ああ、勿体ないことをした」と、その日一日、気持ちの中で供養をすれば済むものがいい。
やきものは惜しみなく毎日使って、酔った客が傷をつけても、その人を恨んだりすることなく、
「 形あるものは必ず滅す」と、多少頬っぺたのあたりが引きつるにしても、笑っていられるものがいい。



6月2日
金曜日
             AM6:00 窯温度200℃、気温9℃、台風2号により一日中 大雨。
            武井、林、宮坂(美)、中沢、山田、萩原、宮島さんがAM10:00〜PM2:00まで応援。大雨で急遽帰る。
            PM2:00〜PM11:00まで妻と二人で焚く。PM5:00に900℃、PM11:00 1100℃まで上げる。
            
PM11時〜翌朝4時まで岩田さんが応援してくれた。
少し眠れる。
豪雨 アズキナシ シャクナゲ 八重山吹

令和5年6月1日 窯焚きニ日目
純粋に物を見ることはむずかしい。無私無欲な状態になることが、物を見る上で一種の技術と言える。
人はある時ある瞬間「ハッとわかるもの」があり、そして長年の迷いから醒めて、はっきり物が見えた、掴めるときがある。


6月1日
木曜日     ロストルで一日炙り焚きしました。
        快晴で朝の気温8度
晴れ焚口を閉めロストルの前で柴を2バレット焚く昼間は暑い。
        焼肉うまい。 見学者 AM 森元さん、PM 池田さん夫妻来る。
        朝の窯温度180℃。山小屋の高い木が「アズキナシ」と判明。

        明日の台風に備えて窯場に薪を運び込む。焼き芋が絶品に仕上がる。
        AM6:00〜PM4:00。600℃まで上げ、
煙道のドラフトを開ける。
        夕方窯を閉め、明日からの応援者のための食料品を買いに行く。
九時就寝。

令和5年5月31日 窯焚き一日目
未熟な詩人は偽物を作り、熟練した詩人は盗作する。
だめな詩人は原作を損ない、良い詩人は原作をさらに良いものにするか、少なくとも全く違うものにする。
T.S..エリオット

窯焚きに必要なものは、気力と体力。一笑(生)懸命、楽しく焚きます。
注連縄が張られ、神酒が供えられ、「かしこみ、かしこみ」
と神に祈り、窯に火を入れます。


5月31日
水曜日  神事   御神酒(秋田の純米大吟醸)・お米・お塩をお供えして、火の神様に二礼二拍手一礼で始める。
          AM7:00〜PM5:00。450℃まで上げました。大葉さん、池田さん見学。

         朝の気温10度、曇りから快晴。窯場は暑い。焼き芋うまい。
         ロストルで一日湿気を抜くため火を焚きました。日が射すと蝉時雨。
         煙道のドラフトを開け、捨て間のドラフトを全部あける。

         温度管理のパソコンを岩田さんからお借りする。
         夕食は七輪で焼くお餅と焼き肉。夕方窯を閉め、九時就寝。

令和5年5月28日 窯焚き
緋色窯の穴窯焚きも28回目である。
生徒さんはじめ応援の皆さんは早朝、昼間、方から夜中、そして深夜に窯を焚いてくれます。
今回の窯焚きに関しては、

1 穴窯は前と奥では温度差が大きいのでじっくりと温度を上げる。
2. 温度の上がりやすい窯だから、火前を最高1300度として長時間焚く。

金があっても才能のない男より、金がなくても才のある男のほうが絶対にいい   一条さゆり

令和5年5月21日 粘土
粘土を成形して火で焼きあげて硬くしたもの、それが陶器です。
粘土に必要なものは可塑性、自由に形にする性質のことで、押せばへこむし、伸ばせば伸びる、しかも元に戻らずその形を保てる力です。
次に大切なのが耐火性です。高温で焼きあげたものが陶器になりますので、変形したり融けて崩れたりしてしまう土では使い物になりません。一般的な本焼きの温度は1250度ぐらいですが、この温度で焼ける耐火度が必要です。
「焼き締まる」 とは、陶器が十分に硬く焼けたということです。こうなれば、水が漏れることはありません。
それから、陶土として、さらに土味にもこだわりたいものです。
土味とは、キメ細かさだったり、焼き上げた時の色合い、肌触り、質感、釉薬との相性などによって決まってくる仕上がったときの風合いのことを言います。陶芸にのめり込む人の中には、この土味の世界を探求するという人が少なくありません。
   轆轤より 切り放されし 壺の冷え   鈴木真砂女

令和5年5月19日 第70回記念日府展
第70回記念日府展は 東京展 5月19日〜27日 東京都美術館。
名古屋展は 6月23日〜27日 愛知県美術館ギャラリーでおこなわれます。

記念展というと、昔の会員の作品を並べるのが多い、が
第70回記念日府展はギャラリートーク 「こころのゆらぎ〜美の気づき」、オープニングコンサート 「芸術は脳の舞台だ」
記念シンポジウム 「芸術は脳を育む」 など未来を見据えた美術展になっています。

泉屋博古館東京
(せんおくはくこかん) (東京六本木) で安宅コレクション名品選101 を観ました。
大阪の東洋陶磁器美術館で何回か見ましたが、久しぶりに、婦女俑、木葉天目茶碗等、を鑑賞できて感激です。

増沢道夫    参事で審査員   審査員出品
増沢ふみ子    委員       東京新聞賞
湊美由紀     会員       日府努力賞
岩田信一     一般       奨励賞

令和5年5月14日 笑っている母 東京都大室賢子
「友人達とクラス会の下見旅行に行くので留守にするけど、心配しないでね」 と母からの電話。
相変わらず仲良しねと笑いつつ、楽しい仲間がいて良かったと安堵する。
母七十六歳、未亡人歴五十三年、一人暮し歴二十八年。
父の戦死も知らず、生後間もない私を背負い、三十八度線を越えたという昔話は、祖母から聞いて知った。
以来ずっと二人暮らしだったが、結婚で私も家を出てしまった。
苦労も寂しさもずっと一人で耐えてきたはずなのに、昔のことは忘れちゃったと、何事もなかったように穏やかに笑う。
多くの友人に囲まれ、人一倍健康に気を遣い、趣味や旅行等で毎日しっかり前向きに暮らしている。
そんな母を誇りに思い、心の支えにしている娘の私からエールを送ります。
灰被りの窯詰めが完了しました。
煉瓦で入り口を塞ぎながら、上下二か所の焚口を作り、モルタルで隙間を埋める。
炙り焚き用の柴を用意しました。

令和5年5月10日 東京都 伊藤直子
母の名を 下着にしたため 迷う夏 (なれぬ俳句など作ってしまいました)
一週間の入院後、急に痴呆が進んでしまった八十七歳の母、三女である私の家族のところへきてもうすぐ五年。
たばこを吸い、じっとしていられなくなった母。二人の姉と迷いの末、老人ホームへの入所を決めました。
探し歩いて決めた、川沿いのホームから見える風景は、母が結婚したての頃にいた風景に似ている。
そんな気がするのは、私たちの気休めでしょうか。
暑い夏は終わるけれど、迷いの気持ちは終わりがないのかもしれません。
1日で前の段の窯詰め完成です。
棚板10+1枚。10×10 10×10 10×10 12×12 0×10(45×30)

令和5年5月8日 窯詰
定年後私は全くの自由人。陶芸だけに打ち込んで古窯を訪ねたり、仲間と美術館を巡ったり、自分のしたいことだけしている。
陶芸とともに生きてゆける毎日に感謝です。


連休七日間は晴天。中の段の窯詰めです。
棚板12+1枚。10×10 12×12 10×10 10×10 10×10 10×10(45×30)。
中の段の窯詰め、二日間で終了です。

令和5年5月7日 窯詰
屋根の下に眠っている有史前の動物のような傾斜した長い窯、地面に置かれた板の上の作品。道具と貝・炭のバケツ。
棚板を並べ水平と隙間の寸法を測ります。
ゼーゲルは奥の段の下(7・8番)。
奥の段の窯詰め開始しました。棚板10+2枚。10×10 12×12 13×13(サヤ) 8×8 10×10 (30cm×45cm)
奥の段の窯詰め、二日間で完了です

令和5年5月6日 第七十回日府展の審査
第七十回日府展の審査に行きました。
東京都立美術館にはコロナ過で行けませんでしたので四年ぶりです。
帰りの電車は倒木により一時間遅れました。

能楽師の初代梅若実は晩年、こんな歌で芸に賭ける心意気を示した。
めいどよりまぬかるるとも断るぞ
いま少し芸をみがきての後

令和5年5月5日 池田満寿夫
芸術家といわれる人達も最初からプロではないんですね。
好きで作っていたものを人に見せて、褒められて、賞をもらったりしてプロとなるのです。
趣味として自己表現の道をもつ。その為には技術の修得が必要です。
陶芸家になろうという人はたくさんいますが、いつの間にか脱落して他の職業についてしまう。
これはなぜか、自分の考えている通りのものが出来ないからです。
僕は陶器を始めて、花器のようなものを作っています。僕のは芸術作品なんです。だから水を入れると漏る場合もあるんです。
そして、縁がぎざぎざしていたりして使いにくいんです。そうすると、文句を言う人がいます。
そのとき僕は、「花を生けるだけなら市販品をお買いなさい。僕のは芸術作品だから漏ってもいいんです」と言います。
使えなくても値段は高いんです。だからなかなか売れません。好きなものを作っているわけですから、売れなくてもいい世界です。
つまり自分だけのためにする世界です。これを「趣味の世界」といいます。

令和5年5月4日 池田満寿夫
岩手県の藤沢町で野焼き祭りをやっていました。中学校の庭に浅い穴を掘り、土手を築き薪を積み上げ火をつける。
八時間薪をくべて焼き、火を止めてトタンをかぶせて一夜あけると縄文式土器が焼きあがってきました。これには大変感激しました。
この感動が忘れ難くて、二年後僕だけで焼きました。大きな作品を十四個、熱海から運びました。
その時も町の方々が協力してくださいました。翌朝見に行ったら全部壊れていました。
これには、土が完全に乾いていなかったとか、作り方に問題があるとか、焼成の火力が高過ぎたとか考えられますが、大変なショックを受けました。
僕もぐっと涙をのみ込んで、陶芸会館に運んだんですが、その時、壊れた形がとても美しく見えたんです。
すべてのもの、あらゆる芸術はいつかは壊れます。ギリシャのパンテオン神殿も柱しか残っていません。
そのことをふと考えて破壊されていく美しさというものを感じたのです。
その破壊された形に魅了されて、それで展覧会をしました。これは大変評判が良かったんです。
その時に一つ面白いなと思ったのは、陶芸家がやってきまして、
「やあ、羨ましいですねえ。我々も壊れた作品が美しいと思うときがある。しかし、池田さんのようにぬけぬけと発表することはできない」
と言うんです。あなたはなんでも好き勝手なことができる、こんな羨ましいことはない。とも言われました。
人間はいろんな表現欲を持っていて、こうできたらいいなと思う。
しかし、今まで誰もやっていないことはちょっと心配で、中々実行できないものです。

令和5年5月3日 池田満寿夫
ろくろを挽いているのを初めて見た時は、ほんとうにビックリしました。
手をすうっと動かすだけで、とっくりでも皿でもあっという間に出来てくる。あれは技術の最たるものですね。
これはすごいな、ちょっとやってみようかな思って、その場で始めたんです。
やはりうまくいかないんですね。何回やっても歪んでくるんです。直そうとするとぐにゃぐにゃになる。
ろくろを挽く人は日本に何万人といる。あれは三ヵ月ぐらいやると上手くなり、三年もろくろをやればほとんどの人は上手くなります。
その時、これから三年間丸いきれいなお皿を作るためにろくろを挽いても意味がないなと思ったんです。
僕がいまさら形のいい徳利を造っても仕方がない。そして、手元を見たら、歪みかかったお皿が美しく思えたんです。
ハッとしました。それで、よし、この歪んだのでいこうと決めたわけです。一週間で百二十個作りました。
それで日本橋高島屋で最初の陶芸展をやったんです。その歪んだものが非常に評判が良かったんです。
会場で中年の婦人が、「池田さん、こんなに歪んでいていいんでしょうか」と言うんで、
「良いと思えばいいんです。歪んだ方が面白いんですから」と言ったら、
「私も陶芸をやっているけれど、丸く正確に作るのが難しい。これからは歪んだものを作ります」と言って喜んで帰りました。
ところで、歪みには美しい歪みも惨めな歪みもある。
どこでそれをやめるかというということが難しいのです。

令和5年5月1日 作品完成
3月から作品作りを始めて、300Kgの作品が出来ました、やっと完成です。
生徒さんと、窯焚き応援の人たちの作品も集まりました。

穴窯を開きました。
棚板にアルミナを塗り、ツクをサイズ別に並べました。道具土で作品の下に置くセンベイを作りました。
窯詰に使う材料をそろえました。いつもの、わら、貝、もみ殻、炭、灰、道具土、サヤです
今回は、窯を焚く人は細かく割り振った時間割で集まります。

老年になったら、本物のいい日本酒を冷やさず、熱くせず常温でゆっくり愉しむ。上品に。
タダ酒を飲み続けている人間の顔は間違いなく下品になっていますね。

令和5年4月30日 澤地久枝
色絵磁器への執着は硲伊之助さんを加賀吸坂に移住させるところまで行った。
そこで数多くのすぐれた作品を生んでいる。
吸坂を訪ねたのは1972年の初夏、小さな山の山腹、人里離れたといいたい風景のなかに、移築された合掌造りカヤ葺きの古い民家があり、窯場を入れると三棟が静寂の中にうずくまっているみたいに見える。
硲さんはいつもと変わらず、しかし 「よくきましたね」 と歓迎してくれた。
海部さんはここの土地で得られる海と畠の素材を使い、大胡馳走を作ってくれた。
食事のあと、部屋の畳の上いっぱいに硲さんがひろげたのは、収集品の陶片である。
わたしは頂いた 「百阯q出土」 と裏に紙片をはられたほぼ三角形の陶片を額装した。
その陶片は、今日までわたしの 「オタカラ」 の一つとなっている。
吸い坂再訪を約束して果たさぬうち、わずか五年後に硲さんは亡くなった。
古九谷は、吸坂に近い地で作られ始めた。
九谷というと緑、青、黄など五彩による色を塗りつめた作品、仁清の名や、「吉田屋手」 を思う。
だが、古九谷はしっかりした絵柄の素朴なつよさと、選びぬかれた配色の妙に大きな特色がある。
しかし、三十年ほどの制作期間の後、絶えてしまっている。
硲さんの夢はこの古九谷の技術の継承と、作品の散逸を防ぐことにあった。
硲さん亡きあと、紘一さんと公子さんがその遺志をついでいる。
二人は経済的にけっしてむくわれない仕事を、かっての農夫のような素朴ないでたちでいそいそとやっている。
カネがすべての破壊がまかり通った国で、加賀吸坂窯が守ってきた貴重な世界を目にしたら、硲さんはうれしいだろうな、と思った。
伊賀土の作品ができました。

令和5年4月23日 澤地久枝
硲伊之助 (はざまいのすけ) さんは昭和五十二年夏、加賀市吸坂町で亡くなっている。八十一歳だった。
硲さんはアンリ・マチスの高弟。井伏鱒二などの作品の挿絵などを手がけ、その交友関係には、いまでは遠い伝説の人となった画家たちが多くいる。硲さんは心が広く、「人間好き」 であったと思う。
氏は十九歳で第一回二科賞受賞。ヨーロッパで画業をつみ、日本の風土に合った絵画芸術として、古九谷作品に向かう。
はじめてお目にかかったころ、わたしはまだ若く、病気その他の理由で生き急いでいた。硲さんはそれを見抜かれたのだろう。
硲さんと会った日は、「人生楽しいことばかりじゃないが、そう悪いものでもない」 という気分になれた。
なぜなのか、説明は出来そうもない。
経験を多くつんだ人生の先輩の包容力といえばいいのかも知れない。いや、生きる知恵の伝達があったと思う。
絵画に対する開眼のきっかけを与えられたが、それは萎えかけていたわたしの生きる意志にそそがれる 「水」 でもあった。
弟子の海部さんは師の言葉として、「努力できることが才能だ」 と書き留めている。
才能豊かな人にしてなお、この言葉なのだ。
人生の前途が見えなくなっていたわたしに、これ以上向いた考え方はなかった。
続く。
粘土を追加しました。伊賀土100Kg。
ひいろ土・古信楽の作品ができました。

平成31年4月16日 金子みすゞ
   お日さん、雨さん
ほこりのついた しば草を
雨さんあらって くれました。

あらってぬれた
しば草を

お日さん ほしてくれました。

こうしてわたしが ねころんで
空をみるのに よいように。
備前土の作品ができました。

平成31年4月9日 黛まどか
   豆の花 妻は野良着の ほか知らず   立花彦吉
ご夫婦で農業をなさってきたのでしょう。農家の女性は家事に子育てに農作業にと本当に忙しいものです。
おしゃれをすることもなく、家のため家族のため身を粉にして働き続けてくれている妻。
その妻への感謝の気持ちを ”豆の花” に託しました。
楚々と愛らしく咲く豆の花のように気取らない純朴な奧さまの姿が見えてきます。
日本の男性は 「愛している」 と言うのは苦手なようですが、この句には言葉を超えた妻への愛を感じます。
   春思あり 触れて素焼の 鉢の肌
粘土を追加しました。備前土110Kg、五斗蒔土 100Kg。
志野の作品を釉掛けしました。

令和5年4月2日 福本伸行
スペインの諺に 「戦争でも恋愛でも、勝つものがいつも正しい」 というものがある。
どのような過程があろうとも、突き詰めれば最終的に利益を得て 「自分が正しかった」 と声高に主張できるのは敗者でなく勝者なのである。
もちろん、これは極論であり人生の目的は"勝利すること" だけではないだろう。
しかし、勝利して何かを得る人がいれば、敗北して何かを失う人がいる。
獲るか獲られるかの世界では、負けて奪われるのが嫌なら、勝しかないのである。
八ヶ岳は雪解けです。
志野の作品ができました。

令和5年3月26日 梅原龍三郎
画家は夭折するか、もしくは長寿であるかどちらかになるようだ。夭折する画家は肺結核や栄養失調で逝くケースが見られ、長生きする人は九十歳を越えても、かくしゃくとして現役だった例が多い。
龍三郎は自らの勉強のために、ドガやピカソの作品や、琳派の絵や浮世絵を数多く収集していたが、亡くなる前に各地の美術館に寄贈。物事に恬淡とした性格の人のようである。
六十年にわたって交流した武者小路実篤は「梅原龍三郎と同時代に生きた事は僕の喜びの一つだ。お互いの性質、生活態度には実に違う所が多いが、話せばわかる範囲には深いものがあり、胸のすく思いのする事がよくある」と賛辞を贈っている。
1986年狭心症から肺炎を引き起こして亡くなった。享年98。
その直後、毎日新聞に遺言が掲載され、そこには
「葬式無用、弔問供物固辞すること。生者は死者の為に煩わさるべからず 梅原龍三郎」と書かれていた。
志野の作品ができました。
志野 志野 志野 志野

令和5年3月19日 白洲正子
北大路魯山人、彼は決してある種の作家達のように、工芸の本質を無視して、独走に走ることはなく、たとえば桃山時代の志野や織部、あるいは瀬戸でも忠実に模しており、その点彼の性格とは反対に非常に謙虚な態度でした。
が、模したにも関わらず、そこには一目で「魯山人の作」とわかるものがありました。
偽物がつくれる陶工は沢山いますし、今出来のものが、本物の中にまぎれこんでいる場合はしばしばありますが、魯山人の作品に関するかぎり、そんな間違いは起こらない。
あくまでも、それらは魯山人の志野であり、魯山人の織部である。
職人と、芸術家の違いでありましょう。
魯山人はいつもこういっていました。
「目あき千人、めくら千人というが、実際には目あき千人の中に、ほんとうの目あきは一人しかいない。
が、その一人は恐ろしい」
様々な 思いのみ込む 春の山

令和5年3月12日 矢野誠一
藤山寛美はまれにみる繊細な神経と、旺盛なサービス精神の持ち主で、こんな役者はもう出ないだろう。
十五年ほど前に、新橋演舞場の楽屋で初対面の挨拶をした。
無休の連続公演記録を更新中の、とにかく滅茶苦茶に忙しいさなかだったが、人の顔を見た途端、
「さあさ、どうぞどうぞお楽に、お楽に、私もこうしますよってに・・・・」
と、早口で座布団をすすめ、率先して、あぐらをかいてみせた。
ほんのちょっとのあいだ談笑して、ふと気がついてみたら、いつの間にか自分は座布団をはずして、畳の上にきちんと正座していた。
粘土を手に取り作り始める。時間をかけてもロクな結果は出ない、下手な考え休むに似たり。
私は「多作多捨」。沢山作り沢山捨てると本当の自分の心が見えてくる。
陶芸は「やるか・やらないか」しかありません。
粉引き 粉引き 粉引き

令和5年3月5日 小堀遠州
小堀遠州は利休の高弟古田織部に茶を習った。茶以外にも建築・造園・書道の世界に多彩な才能を発揮した稀有な大名であった。
利休の「わび数寄」に対し、武家風の好みに合った 「大名数寄」 「きれいさび」 の風を打ち立て、遠州流茶道の祖となった。
享年六十九歳。辞世は
昨日といい今日と暮らしてなすこともなき身の夢の醒むる曙
(昨日はああ今日はこうと言いながら、この世を無為のまま暮らしてきたが、その我が身も今は長い浮世の夢から脱してあの世へ旅立つ曙であることよ)
この世を夢に見立てるのは戦国武将が好んだ考えであるが、「古今集」の古歌を踏まえるのは、遠州の教養のなすわざと言っていい。
切羽つまったものがなく、一事を成し遂げたという悠然とした思いが感じられる。

令和5年2月26日 尾形乾山
本阿弥光悦と仁清から釉法を、父宋謙から書を、兄光琳から画法を学び、その三者を融合した雅味溢れる乾山風を創り出す。
六十八歳で江戸に出て楽を焼くが、晩年は放蕩に明け暮れ享保3年6月2日、江戸深川六軒掘りの裏長屋でひとりぼっちのまま死んだ。
享年八十一歳。長屋の者はこれが有名な乾山だと誰も知らなかったという。
辞世は
憂きことも嬉しき折も過ぎぬればただ明け暮れの夢ばかりなる
(今まで辛いことも嬉しいことも数々経験してきたが、過ぎてしまえば毎日が夢、その日その日の明け暮れの夢ばかりであった)

令和5年2月19日 黛まどか
   生きることは 一筋がよし 寒椿   五所平之助
五所平之助は初代の「伊豆の踊子」を撮った映画監督であり、また「春燈」を代表する俳人でもありました。
どんな職業であれ、どんな人生であれ、一旦自分がこれと決めたら、その道を一心不乱に突き進む尊さを詠っています。
昔の人は「石の上にも三年」と言いましたが、何事も続けることで未来は拓けてきます。
迷ってはいけない、何事も途中で投げ出してはいけないと、寒中に咲く
椿が語りかけてくるようです。

令和5年2月12日 山小屋
二月四日は立春
天の青さがぽたぽたと落ちてくるような春の夜明け、早起きの小鳥の声が聞こえる。
私は歩く。
ゆっくりと。
山で暮らす人間には、天気が一日の生活を大きく支配している。
自然を相手に暮らすことは、晴れるか曇るかで、心が微妙に変わる。
雨の激しい日、山小屋は寂しく取り残されている
急に暖かくなりました。私は冬眠していましたが、頭をあげ首を伸ばして粘土を用意しました。
備前土100K・緋色土90K・鉄赤土60K・五斗蒔60K・古信楽60K・赤津40K・黒土40K・黄土40K・他、 これで春と秋の分です。

令和5年2月5日 梅原龍三郎
人間てものは変わらないものですねえ。
色んなことをやっているみたいでも、曲がったりくねったりしながら同じ一つの〈模様〉しか描けない。
この頃つくづくそう思うんですよ。
余寒厳し 窯出しの壺 締まる音

令和5年1月29日 高倉健
「愛するということは、
その人と自分の人生をいとおしく想い、
大切にしていくことだと思います」
『幸福の黄色いハンカチ』の北海道ロケ中に、ぼくが、
山田洋二監督に、愛するということはどういうことでしょうかと、その質問に対する答えでした。

令和5年1月22日 矢野誠一
一昨年の八月、三越劇場で劇団若獅子公演に客演した 『蛍火』 が、私の診た淡島千景の最後の舞台になった。
寺田屋お登勢に扮していたが、全く年齢を感じさせない凛としたお登勢がそこにいた。
カーテンコールで座長の笠原章の 「淡島先生」 の呼びかけに、「先生だなんて、そんな」 と照れてみせる表情に、本当の恥じらいを見た。
大先輩を先生と呼ぶのは、芝居の世界のしきたりみたいなものだが、そんなことにかかわらず、ごく自然に先生と呼べる数少ない一人だった。日本の女の象徴を演じ続けた淡島千景の死によって、失われたものは計り知れない。

令和5年1月15日 一茶

   生残り生残りたる寒さかな 一茶
文化八年の作。ふりかえってみると、友人の何人かはすでに他界した、自分も来年は50歳だ。
生き残ったといってもいまの貧窮生活ではどうしようもない。何とも寒々しいことだ。


令和5年1月8日 読書
皇后美知子様の読書について。
婚約直前に記者のインタビューに答えられて。
「児童文学というのは、人生のいろいろなものごとを、子供たちに肯定的な目で見させるように扱っています。
そうした人生態度というますか、人間の見方に、私は共鳴を覚えます」『皇后美知子様』より
学生時代から日本の古典がお好きで、現在でも『万葉集』や『源氏物語』をひもとくらしい。
花が大好きなので、木下杢太郎の『百花譜』は愛読書とおっしゃる。
昭和六十二年の記者会見で、「長いものが読めなくなり、詩や随筆のような短いものを、また歴史や自然科学書も、分かりやすく書いてあるものを読むようになった」と答えられた。
   来し方も 行く手も 夢の霞かな

令和5年1月5日 高倉健
映画一本撮るのに、どんなに短くても三ヵ月はかかりますが、今まで一番長かったのは「八甲田山」という映画。
これは二年半。
僕らが演じた弘前連隊の小隊は総勢二十八名。十日間の行軍予定が、過酷な嵐で十二日間。
たった二日間延びたという設定なんですが、実際の撮影は雪山の中で百八十五日だった。
あの悲惨な遭難事件が起こったコースを、実際に辿りました。
そのラストシーン。
一名も落伍することがなかった自分の隊に、僕が、八甲田の連山を振り返りながら、
「軍歌『雪の進軍』始め」と号令を下すんです。
~雪の進軍、氷をふんで、どれが河やら道さえ知れず・・・」
実際、青森ロケの最後に取ったこのシーンで、あー、自分はこの一言を言うために二年半、この映画に携わったんだなと、八甲田連山を振り返りながら、胸を突き上げるものがありました。

令和5年1月4日 中原中也

思へば遠く来たもんだ 十二の冬のあの夕べ
港の空に鳴り響いた 汽笛の湯気はいまいづこ
それから何年経ったことか 汽笛の湯気を茫然と
眼で追い悲しくなっていた あの頃の俺はいまいずこ

やはり人生の主役は時間ですね。

私は散歩が日課です。
深々とした緑に包まれて、川のせせらぎに耳を澄ましていると、心が落ち着いてくるのがわかります。
雨の日も風の日も、山小屋や
諏訪湖の湖畔を歩くと、季節が肌で感じられる。
雨が降って嫌だなと思わず、雨という自然の恵みを楽しめるような生き方。
心の豊かさというんでしょうか、そんな生き方が出来ればと思います。


令和5年1月3日 澤地久枝
暗い空から冷たい雨の降り続ける日だった。
久留米絣 (くるめがすり) の重要無形文化財(人間国宝) 松枝玉 (まつえだたまき) 氏に合うため、福岡に来ていた。
玉記氏の作品にすっかり魅せられ、どうしても工房を訪ねたいと思った日から七年たっていた。
玉記さんは大きな美しい手をしていた。よく働いてきた表情のある手だった。その手を見るための小さな旅だったかもしれない。
東京のデパートでの個展会場で、それまで見たことのない美しい着物、それが久留米 「寿莚」 (じゅえん) だった。
一つ一つ、作品に名前をつけ、そこに文学性を感じさせる人だが
「寿莚」 の名は格も高く、改まった一枚と言える。それを言うと、
「あれは、鶴亀と松竹梅と、いちばんおめでたいものだけを選んで、一枚の柄にしました」 と静かな肯定が返ってきた。
手仕事をする人は、声高に自慢話などしない。むしろうしろへさがろうとする。玉記氏もそうだった。
私は 「寿莚」 を 『愛のコリーダ』 の控訴審の一日、被告側証人として東京高裁に出廷するとき着初めた。
しかし、そのあとの正月、晴れ着姿の人達の中で、木綿のふだん着を着てきたという眼で見られている。
どんなに丹精込めたすぐれた作品であっても、木綿素材の絣の前途にあるのは、決して正当な評価ではない。
それを玉記さんには言わなかった。
久留米絣は四反を単位にして織られる。
後継者の孫の哲哉氏の話では、織られた 「寿莚」 は十二枚ではないかと言う。
一枚は美術館の収蔵品になった。
ものを作る人のひそやかな喜びと孤独を、松枝玉記氏を訪ねたことで知ったと思う。
玉記氏の作品には、八十代になってからも詩情が感じられる。
「いくつまで仕事をされましたか」 とわたし。
「死ぬまで現役でした」 と哲哉氏

最後は、病室の壁にむかって絣の図案を描く動作を続けながら、亡くなったという。
   この歳で命いとしく朝迎え

令和5年1月2日 黛まどか
   引く波に 寄せくる波に 初明かり   鈴木真砂女
引いていく波にも、寄せてくる波にも、なべて等しく元旦の日が射しています。
人生にも波が引くときと寄せてくる時があります。
しかしいずれの時もやはり日は射し、初明かりに抱かれているのです。
鈴木真砂女は、波乱万丈の人生をいつも明るく逞しく生き抜きました。
そんな真砂女だからこそ、引く波にも寄せる波にも明かりを見出したのでしょう。
引く波があるから寄せる波もまたあるのです。

令和5年1月1日 正月
コロナウィルス過で三年間自粛生活を強いられました。
今年こそ普通に生活したいものですね。
歳をとり五日間の窯焚き徹夜はとても大変になりました。
後期高齢者ですから飄々と、窯焚きを楽しめば良いと思いますが。
私は今、驚くほどに夢や・野望というか情熱が薄れてしまったが、こんな句がある。
  まだ尻を 目で追う老いや 荷風の忌。
老いた頭を叩きながら、仲間の力を借りて年二回の窯焚きに挑戦します。(一回かも)
上手くなろうと思わなければ、陶芸って結構楽しいものです。

諏訪湖は静かに水をたたえ、八ヶ岳は毅然と天に聳え立っていた。
だいそれたことを考えず、
春の窯焚きに向けて準備をしていきます。

   備前から 唐津に注ぐ とろろ汁