穴窯を焚く 30回に続く

令和5年12月31日 除夜
年々歳々 花相い似たり、歳歳年年 人同じからず」 と唐詩に歌われるように、自然は再生をくりかえすが、人は成長し、また老いていく。私たちが忙しさに追われ漫然と費やしている日常のなかでの時間は、恐ろしいほど早く過ぎ去ってゆきます。
一期一会という言葉がありますが、生きることは一期一会の積み重ねでしかないと私は思います。
一日の中で、小さな花に出会ったことも、人と出会ったことも、すべての出会いには、同じ数だけの別れが伴われています。
この小さな出会いと別れを重ねて、人生は過ぎ去ってゆくのです。
たまたまこの時代に生まれ、この場所にいたから出会えたたくさんの命を、「あっ」 という一期一会の感動を、消えてゆくままにせず、このページにとどめたい・・・。このページは自分が生きたという記憶、そこに他者の命が存在したという記録を残すということにほかなりません。

陶芸にハマってしまった私。ハマって抜けられなくなった私。陶芸の本当の面白さは"つくる" ことです。
故山田師匠ご指導の陶芸を杖に、もう少し穴窯を焚き続けたいと思っております。 (来年から年一回、春だけにします)
来年もよろしくお願いいたします。


 金で買えぬ 幸いもあり 除夜詣で   鈴木真砂女

令和5年12月30日 小林一茶
  ああままよ 生きても亀の 百分の一
鶴は千年、亀は万年というが、人間どんなに生きても亀の百分の一がせいぜい。
家からゆっくりと歩いて諏訪大社の秋宮に詣でる。境内は神さびた空気に満ちている。
鳥居をくぐると根入りの杉と呼ばれる樹齢八百年の御神木。
拝殿で心して拍手を打つ。とはいえ、八月から一月は祭神は春宮に居る。
中山道を歩いて春宮に詣でる。お賽銭をあげ一年の無事を感謝する。
お詣りをすると今までのいろいろなことが自然と頭から抜け、気分が変わってきます。
今頃の言葉でいえば、リセットということでしょうか。
半日コースなので食事をして家に帰る。

令和5年12月24日 生きる
今でもそうですが、私は若い頃から、偉い人といわれている人や金持ちを偉いと思いませんでした。
何か胡散臭い、偉くなるにはなんか悪いことしてるんじゃないか、他人を悪者にして、蹴落とし、泣かせて偉くなったんじゃないか。
そんなことを考えてしまうんです。だから権威主義には対抗していました。
人目を気にしないで、、自分の流儀を守ってきました。
それが出来たのは群れにならず一匹狼でしたから、こわい者はいなかったわけです。

「らしくぶらず」 黒門町こと先代桂文楽。

令和5年12月17日 横山葩生
瀬戸陶芸史には陶祖藤四郎、磁祖民吉、現代唐九郎ということは言えますね。
今どきの陶芸家と称する人々、たとえば人間国宝だとか芸術院会員などがいますが、これらの連中は裏工作をしてなっています。唐九郎にはそれがないからね、彼は権威と闘って自分を表現しますから。
芸術家として不滅の名を残した人々は自分の境地を開拓している。芸術は純粋であるべきです。
現代人はバックを利用しなければ自分の名が売れないと思っているが、そんなものはたいしたものではないですよ。

令和5年12月10日 浜田庄司
昭和四十八年の夏、リーチが大皿へ流釉で一杯に描くところを見たいというので、益子に誘った。
地面に置いた直径二尺ほどの大皿に白の不透明釉をかけ、次いで小振りのひしゃくに黒釉を七分ほど入れ、皿の外一尺ばかりの所から流し始め、地面との区別なしに六、七本の全く自由な縦線を引いてみせた。リーチは、これは英国には通用できない驚くべきものだと言った。
別に見ていた客が、「今の早さは十五秒だった」 と、これほどの大鉢に十五秒の絵付けでは不服のようだった。
今の絵付けは十五秒かもしれないが、それは十五秒プラス六十年と思ってくださいと、思わず口から出た。
リーチは、上手く言ったと手をたたいて喜んでくれた。
穴窯は冬支度です

令和5年12月3日 伝統
土というのは人間の生活に、ある意味では根源的なかかわりがあるんです。
子供が土いじりをして遊ぶ、泥んこになっていたずらをする。そのことをみてもすぐわかる事なんです。
陶磁器は誰もが無邪気に楽しいと思えるもの、自分もつくってみたい、つくれそうだという親しみがあってもいい。
だけど博物館のガラスケースにうやうやしく置いてあるものなどはむしろ目をそむけたくなる。
伝統というものがあるならばそれは前のものを繰り返すのが伝統であり、あるいは前にあったものをベースにしてそれに現代的なバリエーションをなしたものが伝統であるというけれど、それは本当の意味で伝統じゃない、それは伝統趣味である。
それでは本当の伝統とは何なのか、それは今までになかったものを発見することが伝統であると思います。

令和5年11月26日 薪割
20日朝-6度です。積雪は5センチですからもうこのまま根雪です。
ご近所の伐採木を頂きましたので、久しぶりに薪割です。
40pに切って山小屋まで運ぶのに一日。薪割に一日半かかりました。

令和5年11月19日 六古窯
信楽焼 滋賀県甲賀市
琵琶湖の南方。焼締陶の焼成によって生じる多様な景色が特徴。13世紀より常滑の影響を受けた大甕や壺を生産。
19世紀より土瓶や火鉢、昭和20年代からタイルや建築用材など多様な製品を生産している。
丹波焼 兵庫県篠山市
京都・大阪に近接する山間に焼き物の里・丹波篠山。常滑と同じ窯の構造、製作方で、焼成時に掛かった灰による自然釉は見事な装飾である。中世には甕や壺、江戸時代には登窯、灰や鉄などの釉薬、ろくろ成形に転換。江戸後期には、白土を化粧や装飾に用いた白丹波という器が生まれている。
越前焼 福井県越前町
六古窯で唯一日本海に面している。元は織田焼きなどと呼ばれていたが、1947年小山富士夫が越前焼きの名称を用いたことが由来。常滑焼の系譜にあたり、焼き締めなどの素朴な作風を持つ。土は鉄分多く、耐火度高く、よく焼き締まる赤色。代表的な生産品として越前赤瓦があり、その耐寒性から日本海沿岸に広く流通した。

六古窯のやきものは、誰かにほめられよう、自分の名前を売ろう、高く売ろうなどという余分なものは少しもなくて、とにかくつくる、あとは固く焼こう、しっかりしたものを作ろう、これだけなんです。

古窯の旅は時間の旅ですね。

令和5年11月12日 六古窯
備前焼 岡山県備前市
六世紀頃より邑久古窯跡でつくられていた須恵器の生産が終わる平安時代後期、伊部地区で生産開始されたのが肥前焼き。
焼き締めによる素朴な味わいや簡素な風合いが茶人に好まれた。
釉薬を使わないことによって器表に表れるさまざまな「窯変」と相まって、多くの愛好家を生んでいる。
常滑焼 愛知県常滑市
六古窯最大の生産地。海路を利用して東北から九州にいたる日本各地に運ばれていた。瀬戸と同じく猿投窯の系譜にあたるが、常滑焼は釉薬を用いない焼き締めで大型の壺や甕を生産している。これらはろくろを使わず、作り手がまわり乍ら成形する「よりこ造り」による。明治時代は木型による土管つくり、また、江戸時代後期よりつくられた朱泥急須は、現在も代表的な生産物の一つ。衛生陶器もつくられている。
瀬戸焼 愛知県瀬戸市
陶磁器一般を「瀬戸物」と指すことからうかがえる日本の陶都・瀬戸。平安・室町時代は六古窯唯一の施釉陶器である「古瀬戸」を生産。江戸時代後期には磁器生産も始まり、多種多様なやきものが生産されている。

令和5年11月6日 誕生日
高貴降霊者 (後期高齢者)、76才になりました。
私は人格の向上とか、見識の老熟とかいう精神的なトシのとりかたはきわめてゆるやかですが、肉体の老いは人並み以上に進んでいるようです。自分では若い時の気持ちのままですが、ゆっくり過ぎる刻を、一瞬一瞬、呼びとめたいような思いになることもある。それに気付くと老いたのかと思ったりする。

追いつかぬ
もの追い続け
窯を焚く


人生を重ねると、こんな思いにかられる。
追い続けるものとは何か、・・・・・。
まだまだやりたいことはあるのだが。

令和5年10月29日 散歩
私はトボトボ歩く。
急ぐ人がいたら、道を空けてやる。
「お先にどうぞ」

令和5年10月22日 人生
貴重な人生がどんなものかはわかっている。
短いんだ

令和5年10月15日 作品
陶芸家は評論家になる必要はありません。
見る人を驚かすものではなく、用の美を素朴に実直に作陶を持続していく中で、作品の側から自分自身の人生が見えてくるという事実も体験できるのではないでしょうか。

令和5年10月10日 窯出し
墓石の横に戒名が彫られています。戒名とは僧名ともいい仏門に入ったときつけられる名前で、極楽へ行くための臨時の名前。
「お彼岸」 とは「仏の世界に至る」 という意味で、仏の世界に至るには昔、インドなどでは一定期間、修行を積みました。
それが日本では一週間に限って先祖供養を行う行事として残りました。
この期間、お寺では「お施餓鬼」 という法要が行われます。 「施餓鬼」 とは、施すという字に、餓えるという字に、鬼と書いて、施餓鬼。
餓鬼とは、よく仏画の地獄絵に、手足がやせ細って、お腹だけ膨らんで、髪の毛が半分抜け落ちて、飢えて食べ物を漁っている姿が描かれているけれど、あれは生前犯した悪行の罰として、飢えの苦しみを与えられている亡者です。
そこの餓鬼という亡者に食べ物を施す行事が施餓鬼です。
深夜、火を焚き、パチパチと燃える薪の音を聞きながら独り本を読む。
今回の窯焚きでは9冊の文庫本を読んだ。

令和5年10月8日 赤とんぼ
麦わら帽子と、麦わらトンボ、ひまわりと入道雲は、私の少年時代のキーワードだ。
昼頃に入道雲が出ると夕方には必ず夕立がきた。
山小屋を建てた十五年前の秋には庭に赤トンボが溢れていた。
最近、山小屋の庭に赤トンボが少ないのに気がついた。
秋の空は相変わらず青いのに赤トンボがいない。
   赤とんぼ まだとび立たぬ 窯の上

令和5年10月1日 窯焚き五日目
もうもうと 煙は吐いてる 火の祈祷 河井寛次郎
日曜日  

         気温 朝 8度 朝は雨、昼から曇り。AM6:00〜PM5:00  
火前1300℃。
      平林さんに、朝 6:00からPM1:00まで応援に来ていただいた。ありがたい。
      PM1:00〜妻と二人最終の薪くべです。灰を融かすため1300度まで上げる。
      PM3:00、奥のゼーゲルを見ると7番8番が倒れている。
      PM5:30窯を閉め水を撒いて秋の窯焚きは終わりました。
      窯を閉め、8時就寝。12時間寝る。翌日は10時間眠る、体重2Kg減でした。

令和5年9月30日 窯焚き四日目
汚れつちまつた悲しみに
今日も小雪の降りかかる
汚れつちまつた悲しみに
今日も風さへ吹きすぎる

土曜日      気温 朝 8度 晴れ。AM5:00〜PM10:00  1200℃。妻と二人薪くべです。
        AM6:00 1200℃まで上げました。
寝不足でくたくたです。
       今日は湊、増澤(み)さんがAM10:00〜PM2:00まで応援。
       野中、伊藤、東城さんがAM10:00〜PM4:00まで応援してくれた。
       PM4:00に1300℃まで上げました。

     PM2:00〜PM7:00まで永田さんが応援してくれた。

       
PM7:00〜翌朝 5:00まで、大雨の中、岩田さんにお応援いいただいたお陰で眠る。

令和5年9月29日 窯焚き三日目
あれも焼きたい これも焼きたい 火の希望 河井寛次郎

金曜日        桂の葉が匂う。小雨、名月見えず。夜は寒い。
       
AM6:00 窯温度220℃、気温9℃、晴れ。焙り焚き AM7:00〜AM10:00   火前200℃〜700℃。
        武井、宮坂(美)、中沢、山田、萩原、小松さんがAM10:00〜PM3:00まで応援。
        PM3:00〜PM9:00まで藤村さんが応援してくれた。PM5:00に900℃、PM11:00 1100℃まで上げる。
        
PM10時〜翌朝5時まで岩田さんが応援してくれた。少し眠れる。

令和5年9月28日 窯焚きニ日目
近藤悠三の人と作品 梅原 猛
私は、氏の作品には、ふつうの芸術家の作品と反対の工夫がほどこされていると思う。
ふつうの芸術家は、できるだけ、自分の作品を目立たせようとする。われわれはそれによって、その作品にひきつけられるが、いつか、あきてしまう。その自己を目立たせようとする、さもしい心が分かると、いやになるからである。
近藤氏の作品には、これと反対の意思が働いているように思える。
自己を決して目立たせない。自己の美しさをわざとかくして、平々凡々な顔をしている。
われわれはこれにあざむかれて、大したものではないと思うが、それは大間違いなのである。
そこに、つきない味わいをもつ美が隠されているのである。
近藤氏の作品は、すばらしい美を秘めつつ、己を塵に交わらせる菩薩行を行じているのであろうか。

木曜日     焙り焚き AM6:00〜PM4:00   火前175℃〜550℃ 。
        気温 朝 8度 霧雨から晴れ、日中暑い。焚口を閉めロストルの前で柴を2バレット焚く。
        昼食は七輪で焼肉。
焼き芋が絶品に仕上がる。
        
煙道のドラフトを開ける。
        夕方窯を閉め、明日から応援してくれる人たちの食糧を買いに行き、九時就寝。

令和5年9月27日 窯焚き一日目
「神や仏に手を合わせたら良い酒ができるというものではありませんが、この世には、人間の及びもつかない自然の摂理というものがのがありますね。
目に見えない神や仏に合掌し感謝して酒造りをやらないと、微生物がそっぽを向くんです。
お酒は蔵の中に生きている
何万という微生物の働きで生まれるものですから…」 ある酒造り人の言葉

注連縄が張られ、神酒が供えられ、「かしこみ、かしこみ」と神に祈り、窯に火を入れます。

水曜日  神事  (御神酒・塩・洗米)  火入れ  今回のお酒は諏訪の「高天 ひやおろし」。
            焙り焚き AM7:00〜PM5:30   火前450℃ 見学者 大葉、池田、若松さん。
            気温 朝 8度 晴れ。 焚口を閉めロストルの前で柴を2バレット焚く。
            昼食は七輪で焼くお餅と焼き肉
            
煙道のドラフトを開ける。夕方窯を閉め、九時就寝。

令和5年9月24日
うしろから ふいに目隠しされて 秋
秋しぐれ 鱗を持たぬ 魚を買い

令和5年9月17日 窯焚き (魯山人)
緋色窯の穴窯焚きも29回目である。
今回も、窯を焚く人は細かく割り振った時間割で集まります。

生徒さんはじめ応援の皆さんは早朝、昼間、方、そして深夜に窯を焚いてくれます。

魯山人は備前焼でも革新的な作陶を行っている。
土の風合いが持ち味とされる備前に、銀の粉をにかわで溶いた「銀泥」を施したのである。
一見、無謀ともいえる試み。魯山人の下、窯場で働く職人たちもつい首をひねる。
中に「そんなにキンキラした仕上がりでいいのですか」 と尋ねるものが出た。そのとき、魯山人、上機嫌で曰く、
「なにをいっておるか、これが十年経ってみろ。くすんで、いい趣になるんだ」
確かに、時を経るとともに銀はかえって土の質感を強調し備前の特徴を一層際立たせることになった。
薪を2パレット運びました。

令和5年9月10日 魯山人
魯山人の織部の俎皿。調理場にあるまな板を参考にし、それまでなめらかに仕上げるのが絶対とされていた土の表面を、あえて石で叩き、細かい凹凸を付けた。通常、織部には、地元、美濃の土を使う。ところが魯山人は信楽の土を用いた。粘りがあり細かい細工を施すには信楽が向いているというのだ。美濃という伝統の地では、ありえない着眼点であった。
織部の緑釉が効いている上品な器。
いいですね。


昭和三十四年、魯山人は横浜の病院で没した。享年76。この数年前、文部省から二度にわたって、重要無形文化財(人間国宝) の指定受諾の要請があったが、魯山人は頑として首を縦に振らなかった。
「芸術家とは、どんなものであれ、位階勲等とは無縁であるべきだ」 との信念を貫いたのである。
魯山人の人生最初の記憶が、養母に背負われて見た、満開の躑躅の赤の美しさだったという。
生涯かけて「雅美」 なるものを追い続けた魯山人の原点は、実にこの記憶にあったのかもしれない。

令和5年9月3日 魯山人
魯山人の手になる器は、実に20万点と伝えられる。魯山人の窯場には、彼の手足となって働く複数の職人が存在したから単純な比較はできないが、それでも魯山人の仕事ぶりは、超人的といっていい。
こうした作品は、手本をもとにつくられた写しだった。魯山人はその名手だった。
魯山人が自宅に設けたコレクションルーム 「参考館」 。魯山人はここに2000点を超える古い陶磁器を集め、日々鑑賞した。
平野雅章さんは魯山人から言い聞かされた。
「やきものを作るんだって、みなコピーさ。なにかしらコピーでないものはないのだ。
但し、そのどこを狙うかという狙いどころ、真似所が肝要なのだ」
黒田和哉さんが語る。
「古いもの、いいものを買い集めて周りに置いて、自分がよりどころとしたもののエッセンスをとってしまうというやり方。
われわれはそういったものを『本歌取り』 と言っているんですけれども、魯山人の場合は、その本歌を乗り越えていくんです」

令和5年8月27日 窯詰完了
加藤唐九郎
素焼きして出しても、釉掛けしてみても調子がいいし、今焼いたら素晴らしいものが出来るような、夢見ておるんですよ。
その間が一番いいですよ。やきものというのは、窯詰したときが一番いい気持ちですよ。何か夢が多くてね。
けれども窯開けの時大抵その夢が破れる。窯を開けるのが怖いような気がする。

灰被りの窯詰め (伊賀土) が完了しました。
煉瓦で入り口を塞ぎながら、上下二か所の焚口を作り、モルタルで隙間を埋める。
炙り焚き用の柴を用意しました。

令和5年8月20日 窯詰
四年前に健康そのものだった私は、病に倒れた。五欲兼備だったから、かなりのショックをうけた。
今の私は、人間の五欲のうち可能なのは食欲と睡眠だけ、財・色・名(名誉)は欲しいと思いませんし、縁もありません。
陶芸のこうでなくてはいけないとか、こうあるべきというのは考えないで、自分の思うとおりに創ります。

中の段の窯詰めです。 12×12 10×10 備前土  12×12 粉引き 12×12 10×10 10×10 (45×30) 志野土。
中の段の窯詰め、棚板12+1枚。二日間で終了です。
1日で前の段の窯詰め完成です。
棚板10枚。古信楽土・緋色土・伊賀土 10×10 10×10 12×12 15×15


9月13日から窯を焚く予定でしたが、深夜の応援が予定通りに集まらず、半プロにOK貰っていたのが、貸し窯が入って駄目になりました。急遽二週間遅らせて9月27日から10月1日に変更しました。

令和5年8月13日 窯詰
地面に置かれた板の上の作品。棚板を並べ水平と隙間の寸法を測ります。
ゼーゲルは奥の段の下(7・8番)と、前の段上(9番、10番)の合計2ヶ所。
奥の段の窯詰め開始しました。10×10 15×15 (サヤ) 12×12 10×10 10×10 (45×20)
備前土の奥の段の窯詰め、棚板12枚+1枚。二日間で完了です。

令和5年8月12日 作品完成
春の窯焚きから三ヶ月で秋の窯焚きというのはとても忙しく、大変なストレスです。
日課の散歩は続けましたが、好きな読書ばかりか、私を慕う多くの美しい女性達との食事も断ち、妻と作品作りに明け暮れました。
6月から作品作りを始めて、300Kgの作品が出来ました、やっと完成です。
生徒さんと、窯焚き応援の人たちの作品も集まりました。
棚板にアルミナを塗り、ツクをサイズ別に並べました。道具土で作品の下に置くセンベイを作りました。
窯詰に使う材料をそろえました。いつもの、わら、貝、もみ殻、炭、灰、道具土、サヤです

令和5年8月11日 浜田庄司
「民芸」という言葉は、大正十四年春、柳宗悦と河井寛次郎と私の三人で伊勢へ旅した時の、道中の汽車の中で生まれた。
三人で「何か新しい言葉はないか」と話しているうちに、「民衆の工芸」を詰めて、「民芸」という言葉を得たのである。
「アーツ(芸術)」でなくて、「クラフト(工芸)」なのである。
初めのうち私たちは、こうした品々を下手物と呼んでいた。
もともとは一般に芸術品として尊重されている上手物に対する言葉で、庶民の生活具としての工芸という意味であった。
しかし、「ゲテ」という語感の悪さもあったと思うが、本来の意味合いとは別に流行語として乱暴に利用されているので、「新しい言葉を見つけよう」という冒頭にふれたような汽車の中の語となったのである。
緋色土、伊賀土、古信楽の作品ができました。

令和5年8月6日 白洲正子
白洲 窯を焚く時期は、何時がいいですか。
加藤 夏に作っておいて、ちょっと涼しゅうなる頃…十月は空気が乾燥していいから、十月から二月がいい。
悪いのは四月、六月、九月だね。寒い時は空気が乾燥しておるからやりいいが、どうも湿っておると具合が悪い。圧力が違うからね。
白洲 夏に作っておくって…でもあんまり置いといちゃ駄目でしょ。
加藤 置いといても大丈夫じゃけれども、あまり置くと、自分が嫌になっちゃうんです。なんべんも眺めるとあかばっかり見えてきて、焼く気にならなくて割っちゃう。その間やっぱりどれだけか進歩しているしね。半年前のやつはだいぶん自分の欠陥がわかってくる。
志野の作品ができました

令和5年7月30日 白洲正子
加藤唐九郎との対談の中で、もう一つ印象に残ったのは、暮らしの質素なことである。
客間はかまぼこ型の兵舎を移したもので、床はうちつけのコンクリート、大きなテーブルのほかは、装飾の類は一つもない。
荒川豊三氏の優雅な生活とは、何という相違だろう。
おもうに唐九郎さんは、自分の仕事以外に興味のない人間で、お金もそちらの方に全部つぎこんでしまうに違いない。
窯場の中も、工場のように殺風景で、魯山人や荒川さんの工房を見慣れた私には意外だった。
そこには手び練りの茶碗が何百も並んでおり、これから窯に入れるのかと思ったら、手ならしの為に作ったという。
やきものも、踊りと同じように、リズムに乗ることが大切なのだろう。
永久に日の目を見ることのないそれらの作品に、私は唐九郎さんのかくれた一面を見る思いがした。
古信楽の作品ができました

令和5年7月23日 白洲正子
加藤唐九郎との対談の中で、最も心に残ったのは、唐九郎の奥さんで、お宅(翠松園)をたずねた時にお目にかかった。作家を知るには、婦人を見るにかぎる。
「昔、わしが結婚した女です」と、唐九郎さんは紹介したが、その言葉には絶対の信頼と、彼らしい愛情がこもっていた。こんな旦那様を持って、さぞかし苦労されたであろうに、奥さんはえびす様みたいな人相で、終始ニコニコされていた。みかけは百姓のお婆さんみたいだが、唐九郎さんの芸術を支えて来たのは、この夫人であり、彼の生涯の傑作は彼女ではないかと私は思った。
続く
赤土 (粉引き) の作品ができました。

令和5年7月16日 しばた はつみ 歌手
二十歳になって渡米を決心した。「人に頼るな、自分で決めろ」 が口ぐせの父は、知らんぷりです。
仕方なく貯金をはたいて、サンフランシスコ行の片道切符をもって、まるで家出でした。見つけた仕事はナイトクラブ歌手。
日本で 「ジャズ界の神童」 なんて言われていい気になっていた私は、恥ずかしげもなく、ことさら難しい曲を選んで歌っていました。
ところが、二年ほどたったある日、五十回目の結婚記念日だという老夫婦のリクエストで、いつもなら体よく断る曲を歌うはめになっちゃったんです。 「ユーアー マイ サンシャイン・・・」。二人は踊りだしました。
キス、抱擁、そして私へのほほ笑み。その目には涙が光っていました。拍手と歓声がすごかった。
すべてが初めてで、頭の中はもう真っ白。聞き手を感動させる歌とは何かを、お客さんに教えられたのです。
小生意気な日本娘の鼻はポッキリです。この日から私の音楽の間口が広がりました。
こうなるのを父は待っていたんですね。
知らせた直後から、絵葉書が頻繁に届き、余白の「北陸にいる、刺身がうまい」 といった文字が、「帰ってこい」 って読めました。
帰国した時、たつときには見送ってもくれなかった父が、空港の到着ロビーの一番目立つところに立っていました。
このとき、歌手としてやっていく自信が持てました。
穴窯を開けて掃除をしました。備前土の作品ができました。

令和5年7月9日 シャンポリオン
ロゼッタストーンは、ナポレオンのエジプト遠征の際に発見されてから、国家同士の争いの種になってきた。
なぜここまでロゼッタストーンはヨーロッパ人の心を射止めるのか?
その秘密はヨーロッパ文明の根幹を揺るがす、エジプト文明の 「規模」 にあった。
たとえば、エジプトのルクソールに現存する巨大なハトシェプスト女王葬祭殿の中にある、「小さなほこら」 ですら、ギリシャ文明のパルテノン神殿の大きさに匹敵する。ギリシャ文明の神殿は、エジプト文明からすれば物置き程度のサイズにすぎないのだ。
その圧倒的な規模の建築物を目の当たりにしたナポレオンは驚愕し、その驚きはヨーロッパ中に広がっていった。
かくして、エジプト文明の解明の鍵を握る、エジプト古代文字ヒエログリフの解読をめざして、各国は血眼で競争に入ったわけである。
その競争の真っただ中にいたシャンポリオンは、稀代な天才解読者であった。
当時だれにも解読できなかった、表音文字にして表意文字でもあるヒエログリフをどうして彼だけが解読できたのであろう。
ハードとしてのオーパーツが遺跡や遺物だとすれば、ソフトとしてのオーパーツは歴史の営みを記す言語と文字である。
緋色窯の焼印を白樺のコースターに押しました。

令和5年7月2日 浜田庄司
絵の勉強も相変わらず続け、黒田清輝主宰の白馬研究所に通ってデッサンをやった。
一年のときだったと思う。私の絵が光風会で二点入選した。胸をはずませて会場に行ったところ、ほかの絵ばかりがよく見えて自分のものはじつに惨めであった。二点入ったのだからまぐれではないと思っていたが、どうすることもできぬほどの恥ずかしさであった。
意を決して事務所へ行き、「私の絵をはずしてほしい」と頼んだ。すると、対応に出た年とった画家が、
「君は非常にいいことに気づいた。それだけでも値打ちがある。優待券があるのだから毎日でも見に来て、会が終わるまでどれだけ恥ずかしい思いをするか、つらくてもやってみなさい」といった。
絵描きと言えば、だらしのないものばかりと思われていた中で、これだけ内省した先達がいるのかと、私はむしろ大変うれしかった。画家は中沢弘光さんであった。
中沢さんはのちに益子を訪ねてこられ、前後半年もかかって窯の風景を写生していかれた。
諏訪湖は静かに水をたたえ、八ヶ岳は毅然と天に聳え立っている。
秋の窯焚きに向けて準備をしていきます。