穴窯焚く31に続く
令和7年1月12日 論語
「父母は唯(た)だ 其(そ)の疾(やまい)を之れ憂う」孔子
親はひたすら子供の健康ばかりを案じている。体を大切にすることが一番の孝養なのだよ、という意味である。
言われるまでもない説教に聞こえるが、親の目から見れば、心をなおざりにして、みてくればかにこだわる子供は、もはや憂うべき病人なのである。
余寒厳し窯出しの壷締まる音

令和6年12月31日 小倉千加子
私が「死」と呼んでいるものは、人間が必ず迎える体験でありながら、誰もが考えないようにしている体験、恐怖という感情と強く結びついた体験のことである。
昨年、友人が乳癌の手術をした。病院で乳癌と告げられた時から死の恐怖に怯えた彼女は、入院までの二週間、友達の家を泊まり歩いて、一人住まいの自宅に帰れなかった。癌で亡くなった清水クーコさんは、「眠ってしまうと死んでしまうと思って朝までベッドに座ってずっと起きていた」という。彼女の言葉は、死を間近にしていない私たちの日々の睡眠が文字通りの惰眠であることを思い起こさせてくれる。
死に瀕した田山花袋を見舞った島崎藤村は、花袋の枕元で平然と尋ねたという。
「君、死んでいくというのはどんな気分かね」、「暗い暗い穴の中に落ちていくような気分だよ」。
長い生の労苦の果てに、人間にはまだ死という苦悩が待っているという事実に、私はまったくどうしていいか判らない。

令和6年12月29日 関頑亭
僕は形としてはサツマイモのように生きたいと思っているんです。
生まれた時はへその緒を付けてすーっときて、大人になって多少成長して、後のほうはまたすーっと細くなって消えていく、そういう形なんです。太くなるために頑張って大人にならなくてはいけません。だけど太いままでは決まりが悪い。だんだん細くなっていって「いなくなっちまったな」という感じが本当の死だと思う。
身につけた余分なものを落としていく。知識も技術もだんだん消していって、それでも残ったものがきっと本当のものなのでしょう。それが平らな世界です。

令和6年12月22日 村松友視
寸又峡へ紅葉を見に行きませんか・・そういった私の言葉に応じて、幸田文さんは静岡に来てくれた。
寸又峡の紅葉は見事だった。吊り橋を渡って来る着物姿の幸田文さんの背景に、燃えるような紅葉のけしきがあった。吊り橋を渡って来る幸田文さんの姿に、私は"ダンディ"という言葉をかさねた。
女性にダンディは奇妙という気もしたが、そのときの幸田文さんにはその形容がぴったりだった。
それから旅館の一部屋を借りて休憩し悪友のお母さんがつくってくれたおにぎりを食べた。
二つづつ食べた後、葉蘭の上におにぎりが一個だけ残った。悪友がそれを片付けようとした一瞬、幸田文さんの手が鋭くそれに伸びて 「あたし、それ食べる!」という声がひびいた。
母親のつくってくれたおにぎりを捨てずにすんでうれしかったと、悪友は今でもそのことを語り草にしている。
あたし、それ食べる!という声を聞いたとき、幸田文さんの気遣い、気配り、優しさが確かに一座に伝わった。

令和6年12月15日 魂をゆさぶる辞世の句
大野九郎兵衛 (赤穂藩城代家老 仇討ち反対派)
死する碁は 白黒とてもわからねど
彼岸(かのきし)にてはうたむ 渡り手

(死んで逝く自分には、赤穂のことは良かったのかわからないが、あの世では打つ手を間違えないようにしよう)
塩田経営で赤字の藩を立て直した財務のプロは、我慢が足りず家臣を路頭に迷わせた主君に殉ずる気持ちはなかった。
現実主義者で、命と家族が大切だった。晩年は息子ともども乞食同然であったともいう。一族も悲惨だった。
最期は大阪・京都を転々として名を変え、仁和寺付近で発狂して世を去っている。汚名だけが残った。
人生、何が正しいのかその時点ではわからないことが多いが、判断を間違えて恥を残さないようにしたいものだ。
人の真価は大事の時に現れる。死期は討ち入り前後諸説あるが、討ち入り決行を聞いたら、どのように言っただろうか。

令和6年12月8日 杉本秀太郎
京都市中から眺める限り、愛宕山は、あちら向きに座ってうつむいているお坊さんのうしろ姿に似ている。
背筋を伸ばせば、そびえ立つだろうに、いつまでも低声にとなえごとをしているようである。
この愛宕山から左右に連続し、不規則ながら、切れ目なく、おだやかな曲線を描いてつらなる山々の稜線は、うたがいもなく京都盆地に独特の景を与えている。この盆地の中に住みついて、朝となく夕となく北の山、西の山、そして東山三十六峰をながめているのでなくては、長次郎に始まる楽茶碗のあの口べりの曲線は発明されなかっただろう。
一服を楽の茶碗で喫するごとに、これはこの盆地の底にたまった地精がみどりの液に化したものかと私はうたがって、茶の味にえたいの知れぬ深刻なものをおぼえる。
嵯峨野、大原の路傍には、愛宕灯ろうというものがしばしば目にとまる。愛宕の灯の神に献じられたこの灯ろうは、すべて愛宕山の方向をさして立っている。
一つのことが気がかりになると、どの考えもそちらに向くのを、私はひそかに愛宕灯ろうと称している。
愛宕の山に登ったのは遠い日のことで、ケーブルカーに乗った。戦争のおわりころ、ケーブルカーは取りはらわれた。
その後、愛宕山には登ったことがない。茫々五十年。

令和6年12月1日 チョッチョッから先 井伏鱒二訳
セーヌ河のほとりで、素人画家が油絵の風景画を描いている。立ち止まってそれを眺めている男がいる。
やがて男は、「貸してごらん」と相手の絵筆を取り上げ、絵に少々手を加えた。
素人画家はびっくりして、その通行人の顔を顔を振り仰いだ。
「あんた一体誰なんだ。あんたがチョッチョッといじっただけで、私の絵は見違えるほど美しくなった。どういうことだ、これは」。男が答えた。
「私の名はポール・セザンヌ。チョッチョッというけどね、あのチョッチョッから先が芸術なんだよ」
楽陶の会会員さんの蓼科の別荘に薪をいただきに三回行きました。友達からも木を切ったとのことでいただきました。
薪割は二日間、三時間ですべて終わりました。

令和6年11月24日 木谷恭介
深沢七郎三が『楢山節考』で、第一回「中央公論新人賞」を受賞されたのは昭和31年(1956)であった。
かって、日本の農村は貧しかった。貧しい時代、生産性を失った年寄りは共同体にとって穀つぶしであった。
だが、豊かになれば、年寄りは大切にされるのか。いま、深沢さんが『楢山節考』を発表した昭和31年には想像もしなかった『長寿』という問題が、人類の前に立ちはだかった。
ぼく自身、60代までほとんど病気をしなかった。
70代にはいるとそれがガラリと変わった。74歳、鬱血性心不全、79歳、直腸がん、そして83歳、心不全の発作。
これはぼくだけのことではないだろう。年をとれば病気をするのは当然のことで健康保険はますます増大していく。
『人間は寿命に従順であるべきだ』という司馬遼太郎さんの言葉を、もう一度、考え直す時期が来ているのは確かだ。

令和6年11月17日 木谷恭介
もうひとつ、日本の仏教に対しての疑問に、お経を漢文のまま読みくだし、日本語に訳さなかったことがある。
「西遊記」で有名な三蔵法師は、お経を得るためインドまで出かけて行ったが、帰ってくるとサンスクリット語の経典を中国語に翻訳するため、一生をささげた。ところが、日本では、仏教が伝来した6世紀以来、1600年ちかく過ぎているのに、今もお経は漢文のままだ。
現在も漢文のまま呪文のように唱えられている。なまじ、日本語訳などしないほうが僧侶にとって都合がよかったのだ。
<教養のないお前たちにはわからないだろう。知りたければ教えてやるから、相応の寄付をしろ> とばかりに、寺の権威と利益を守った。
日本語で読め、日本人の誰もが理解できるお経。それがあったら、日本の仏教は変わっていたのではないか。

令和6年11月10日 木谷恭介
僕はひとりの個人だが、個人を生みだすのにはながいながい人間の系譜があったし、その源は阿弥陀如来に集約されるという考えがある。ところが、浄土真宗は阿弥陀如来だが、真言宗は大日如来であり、禅宗は釈迦如来、日蓮宗は曼荼羅と、それぞれの宗派によって本尊が変わってくる。
釈迦によって開かれた『仏教』が、宗派によって本尊が変わり、教義も変わってくる。しかも、仏教にかぎったことではなく、古今東西、すべての宗教が、権力と妥協し、ときの権力に『権威』を与えることで、持ちつ持たれつの関係を保ち、栄耀栄華を極めて来たことを思うと、ぼくは宗教を好きになれない。続く
萩原さん(お兄さん)の蓼科の別荘から薪(楢)を車三台分頂きました。
喜寿陶芸展の写真頂きました。

令和6年11月6日 黒井千次
八十歳になった時、年来の目標に到達したと感じてほっとしたものだ、とその人は笑いながら自分に頷いた。
同感です、とこちらも共鳴する気分を伝えた。七十代から八十代にかけての坂が難所であり、それを何とか登りきるのが課題だ、と前からよく聞かされていたからだ。
かっては還暦を過ぎた後は、古希(七十歳)や喜寿(七十七歳)といった区切りが年齢の節目として重視されたと思われるが、我々の寿命が延びるにつれて、むしろ八十の坂を登りきることのほうがより切実な課題として重視されるに至った。
だから、八十代に届いた時、人は傘寿などという呼称を思い出すのではなく、やれやれと一息ついてその裸の数字を撫で廻す気分になるのであろう。
次にその人が洩らした言葉が身体の芯に届いた---
目指す八十代に達して一安心した時、その先の目標が急になくなったような気分を覚えた。
喜寿になりました。
いつか、七十七年という、長い歳月を生きてきたわけで、振り返ってみると、曲がりくねった、細く長い道が続いていて、茫々たりの一語に尽きる。
近頃、とんと記憶力が衰えて、大抵のことは頭のなかを素通りしてしまう。
来し方は 霞の奥に 隠したし

令和6年11月3日 立川談四楼
イチローは国民栄誉賞の打診を断りました。英断です。イチローはもっと上の器なんですから。
しかしイチローは政府の見識のなさを非難せず、やんわりと断りました。
「未熟ですから」と。大人だねえ。

令和6年10月27日 吉田篤弘
いつだったか、とある古道具屋で使い込まれた古机を見つけ、気に入ったので購入しようとしたところ、見ると机の表面に細かい傷が入っていた。そのためか値段は格安で、しかし、傷が目に付き値切りたくなった。
「もうひと声」
「だめです」
ひとしきり攻防が続いたあと、ふいに店主がぽつりとこんなことをつぶやいた。
「傷っていうのは、そこに人が生きていた証ですから」
このセリフが、いつのまにか人生の後半を歩んでいた自分に痛く響いた。
結局、そのセリフに負けて傷だらけの古机を購入し、この原稿もその机の上で書いている。
とかく、人の世は「無垢」や「純粋」といったものに特別な価値を見出しがちだが、人をかたちづくっているものは、間違いなく傷の歴史の方にある。

令和6年10月20日 土屋賢二
1.神はたいてい男である。また、神は老人である。
2.老人であるためか耳が遠い。神を呼び出すのに、鈴などをガランガランと鳴らす必要がある。
3.美女美食を好む。この点では、わたしは神とそっくりだといいきれる。
4.神は多忙である。人間が勝手な願い事をしてくるが、神には万物を創造する仕事がある。
5.神は不公平だ。もし公平なら、私を不幸にしている周りの人間を懲らしめてくれるはずだか、実際にはわたしを懲らしめているように思える。
6.友達がいない。ほとんどの人間は「お前は神様か」といわれるのを嫌がる。
こうしてみると神の性質は相当悪い。だがやむをえない面もある。人間がひどすぎるのだ。神に「美人になりますように」と気軽に頼んだりする者もいる。中には、自分を神だと思っいる者(わたしの家にも一人いる)さえいる。神の名を借りて金儲けする者もいる。しかも神はすべての責任を負わされる。神には相談相手もおらず、祈るわけにもいかず、誰からも同情されない。性格が悪くなるのも無理はない。
神様、わたしだけは神様の味方です。

令和6年10月13日 小池真理子
一昨年の三月、私の住んでいる別荘地の奥の小さな家に独りで住まっていた高齢の男性が亡くなった。
数日後、私は徒歩で彼の住まいまで行ってみた。雪が残った小径の突き当り、小川沿いに建つ小さな古い家だった。川面に春浅い光が弾け、キラキラと輝いていた。「病院に行って留守にしています」という手書きで書かれた紙が、玄関扉に貼られ、家の外には、雪かきの道具や竹箒が立てかけられていた。亡くなる直前まで、彼が独りで黙々と営んでいたであろう、物静かな生活がしのばれた。川のせせらぎの音に溶け入るようにして、幾種類もの野鳥がさえずっていた。残雪の甘い香りがした。こんなに澄んだ森の空気に包まれ、ガラス越しに射してくる光を浴びながら、ここの住人は逝ったのだろう、と思うと、哀れなどとはつゆほども感じることなく、むしろ温かな心持に充たされた。孤独も孤立も、私たちの生命の営みの壮大さの中で見れば、ほんの一瞬のできごとに過ぎないような気もする。
令和6年10月13日 喜寿陶芸展
喜寿は七十七歳のお祝い。憙の字を略すと七が三つになり、七が重なるので七十七歳のお祝いをいいます。
曾良は長崎県壱岐市で死亡(62歳)し、お墓は能満寺にある。没後30年に故郷諏訪の正願寺に墓標が建てられた。
友人が正願寺の草取りなど管理をしているという。
人生は山坂多い旅の道。お迎えが来たら、せくな老楽これからよと言え。

令和6年10月6日 喜寿陶芸展二日目
アフリカには <子どもは村中総出で育てるもの> という諺がある。
とすれば、私が個展をするには大勢の人々の力を必要とする。
その方々は、まず陶芸展をしたらどうかと提案してくれた楽陶の会会員の皆さんに感謝したい。
そして村の中心である家族に感謝したい、妻は夢を追求する余裕を与え支援してくれた。
6日 応援    受付  中澤、宮坂(美)
         会計  平林 武井、小松
         食事  加藤 、宮島、野中
         梱包  藤村、永田、宮坂(由)、漆戸、伊藤(ち)、増澤、萩原、東城、山田、増沢(ふ)、増沢
   芳名帳 67名      大勢の方に来ていただいたが、ろくに話が出来ずに申し訳ない。
喜寿陶芸展を企画してから、私は、一転充実した日々となり、会員の皆さん、妻と娘には本当に感謝です。
昨年、高野山に同行したおばあさんが見に来ていたただいた。
お昼は質量ともに満足、初日はお寿司、二日目は赤飯。初日のお昼に唐揚げの差し入れ、二日目は豚汁の差し入れ。
毎日お菓子や果物の手土産をいただきました。
私が六月の益子旅行で濱田庄司から学んだことは、人の目や流行に流されず、自分の好きなものを作ることです。
人間には、弁えておかねばならぬ分というものがありますが、今回は自分の背丈に合った陶芸展が出来たと思います。
人間の寿命は短い。日本は世界一の長寿国と言われるが、それでも人間の命はたかだか八十歳前後にしか過ぎない。
これからは淡々と路傍の野菊のごとく、大それたことを考えず生きていきたい。
個展は曇り空で紅葉には少し早かったですが、過ごしやすい陽気でした。
褒め合って 喜寿の陶展 なごやかに

令和6年10月5日 喜寿陶芸展一日目
諏訪自動車会館Bu-buで令和六年十月五日(土)~六日(日)喜寿陶芸展を行いました。
病を抱えて六年、山小屋で自適の生活をしていても充実感がない中で、喜寿陶芸展は本当に嬉しいことです。
爽やかな秋風に誘われて、諏訪湖畔の会場に多くの人に来ていただきました。


個展初日 昔の友の署名かな
5日 応援    AM10:00~PM4:00
         受付  野中、東城
         会計  平林、湊、増澤
         食事  宮坂(由)、 小口、藤村
         梱包  武井、中澤、宮坂(美)、宮島、加藤、増沢(ふ)、増沢、漆戸、伊藤(ち)、萩原
   芳名帳 58名
広い会場で会員の奥様達が友人知人とおしゃべり、賑やかで楽しくお客さんが少ない時でも寂しくない。
慰労会 PM5:00
   幹事  野中、小松、武井
   会計  東城
         湊、増澤(規)、漆戸、伊藤(ち)、、中澤、 宮坂(美)、宮島、萩原、 加藤、 藤村、宮坂(由)、永田、小口、山田 、増沢(道)、 増沢(ふ)
午後5時から下諏訪町 台湾料理「龍鳳楼 」で慰労会と宴会。
会場には喜寿の紫の帽子と羽織が用意され、全員のスピーチ。病気に負けずに教室を続けるよう励まされる。
6:30から諏訪湖で花火大会があり窓から見ました。
飲み放題で男性の中に酩酊した方がいました。
料理が美味しくて、お酒が進み、皆さん日頃のストレスが発散できたのではないでしょうか。
月が夜空で笑っている。

令和6年10月4日 喜寿陶芸展準備
  幹事  野中、 武井 、小松
      中澤、宮坂(美)、萩原、藤村、東城、小口、増沢、宮島、山田、増沢。
  運搬  武井、早出、藤村、平林、増沢。
PM1:00.Bu-buに集合して準備。机に白布、箱から作品を取りだし展示する。
「楽陶の会」から玄関と受付の花をいただき、会場がわかりにくいということで幟(のぼり)をつくっていただいた。
向山さんからお花をいただく。
PM3:00に新聞社の取材を受ける。
秋の日はつるべ落とし、虫も鳴き出したのでPM4:00準備が出来て解散しました。
ご挨拶
本日はお忙しい中、喜寿陶芸展にご来場頂き誠にありがとうございます。
作陶生活三十二年、山田剛敏先生のもとで、修行させていただいたこともついこの間のような気がして、時の流れの早さに感無量です。
工房をかまえて二十七年、山小屋に薪窯を作って十七年。以来、土と炎の明け暮れでしたが、道を極めるにはほど遠い毎日です。また作品は、即その人を表現するだけに、作者の人間性とこれまでのその道での蓄積がそのまま作品になります。
ただひっそりとあって、人にそっと語らい、「用と美」はもちろん、そこに作者の感性がにじみ出ているような作陶を願っています。喜寿陶芸展を迎えてひとしお身の引き締まる思いです。
ご高覧のうえ、ご叱声を賜れば幸いです。
  令和六年十月五日
工房  下諏訪町西四王
薪窯  原村丸山の森
     緋色窯   増沢道夫

令和6年9月29日 喜寿陶芸展
  行き行きて 倒れ伏すとも 萩の原  曾良

皆さま、その後いよいよご清栄のこととお喜び申し上げます。
 さて、このたび
「喜寿陶芸展」を左記の通り開くこととなりました。
私は薪の窯で焼き締めると現れる
緋色という、母のおにぎりのような素朴な焼き物に惹かれ、
陶芸を三十ニ年続けてまいりました。
薪窯で自然釉(
窯の中で薪の灰が器に降り掛かり高温で釉薬になったもの)を相手ですから思うようなものは出来ませんが、土と炎のせめぎ合いは私を深い思いに誘います。
             

  場所   諏訪自動車会館 Bu-bu 諏訪郡下諏訪町赤砂崎10795
  ☎    0266ー27ー9206
  日時   令和六年十月五日(土)~六日(日) 十時~十六時

  お忙しいとは存じますが、諏訪湖畔へお立ちより下さり、錦上花を添えていただけれは幸いです。
      工房・緋色窯  下諏訪町西四王
      薪窯      原村丸山の森
     (社)日本画府 (日府展) 常任理事・審査員 増沢道夫

令和6年9月22日 子規
蜩(ひぐらし)や机を圧す椎(しい)の影 子規
「蜩」は初秋の季語である。
椎の木の濃い繁りが、秋めく涼風を運びながら机上に深く翳りをもたらす夕べ。
肺腑に沁みわたるような、澄み冴えた蜩の声が沸き起こる。

令和6年9月15日 日本一短い手紙
痴呆症の母へ・・・
幸せそうにしてたけど
忘れたい事、いっぱいあったんですね
渡辺洋子(神奈川県 54歳)


母さん、耳鳴りは潮騒、かすみ目は花がすみやから、
あんきに暮らすこと。
松本公子(愛媛県 50歳)

令和6年9月8日 日本一短い手紙
父さんが亡くなって
一人テレビを見ている後姿
母さんこんなに小さかったの。
大濱滋子(兵庫県 40歳)

「疲れた」と言って下さい。
「しんどい」と言って下さい。
隠れて薬、飲まないでください。
井上ニ三夫(京都府 45歳)

令和6年9月1日 村田喜代子
ずいぶん以前あれはアンチエイジングを特集した雑誌だったと思うが、ある学者が言っていた。
若いということは未熟ということ。ものを知らないこと。食物でいうなら醗酵不足のこと。
「年を取らないと、悪魔の言葉はわかりませんよ・・」
ああ、この言葉には痺れる。そういえば大人の国イギリスを旅したとき、パブに入ると老人天国で、悪魔の言葉がわかりそうな老人たちがおおぜい気炎を吐いていた。年取ることは、かくも融通無碍になることか。

令和6年8月25日 渡辺文雄
佐世保重工の造船所で聞いた話。
「仕事をすればするほど、最期にわかるのは、この仕事はむずかしいということだけ。けどそのときいつも思います。「
むずかしかけん面白か」。この一言です。そしていつも幸せだなぁと思います。そう、この仕事にはゴール、終わりというものがないからです。どんな仕事でも本物の仕事には、ゴールなんてものはないように思ってます。負け惜しみに聞こえるかもしれんが、大会社の社長や総理大臣がゴール、なんて人生はひょっとしたら淋しいもんなんじゃないですかなぁ」

令和6年8月18日 鎌田敏夫 (脚本家)
一昨年、「井出俊郎生誕100年祭」が、故郷の唐津でありました。
その後、師匠の妹さんから手紙をもらって、こちらも返信したところ、「兄に字が似てる」と言われて恐縮しました。
実は、師匠は脚本家になる前にデザイナーだったことがあって、字がとても綺麗だったのです。
弟子になってすぐのときに、清書をしろと言われたのですが、逆に汚くなって、二度と言われませんでした。
弟子というのは、師匠が培ってきた畑を食い荒らして生きていくところがあります。
「どんな職種でも、弟子が独立すると師匠の批判をする。師匠は弟子の悪口を言う。それが普通だけど、おたくのところは何も聞かないねぇ」
と、師匠と長年仕事をしていたプロデューサーが言ってくれたのが、不肖の弟子の最高の勲章です。

令和6年8月15日 鎌田敏夫 (脚本家)
弟子だったときに、師匠がいった言葉です。
「スキを見せると賞をくれるから、気をつけないとダメだよ」。脚本家になれていないときですから、そんなやせ我慢みたいなことを言わなくてもと、その程度にしか理解していなかったのですが、後になって、賞をもらってみると重く心に響く言葉でした。そんなときこそ、自分を律していかなければいけない。スキを見せるなというのは、そういうことだったのです。「人にけなされてダメになった人間はいないけれど、人にほめられてダメになった人間は大勢いる」。そうも言っておられました。

令和6年8月14日 渡辺文雄
唐津の中里太郎衛門窯で中川一政先生にお目にかかれたのは、まさに僥倖であった。
先生と私は同じ作業台に並んで、土をこねていた。
気になる。隣で土をこねる中川さんの存在がまことに気になる。先生はときどき、ちらっと私の手元を見る。
邪念が膨らみ私の心は土から離れた。仕方なく、えいやと中途半端の土の塊をつぶした。そのときである。
「あ!」という小さな一言が先生の口から漏れた。
「は?!」。思わず私が聞き返す。「どうして・・つぶしたの?」「失敗です。失敗しました」「失敗・・ね」
再び沈黙である。何もいわずに先生は土をひねり、土と一体になる。やがて大ぶりの茶碗が姿を現す。
やや間があって、まるで独り言のように話し出す。
「失敗だなんて・・倣慢だね・・。あれは失敗なんかじゃない。あれが・・今の君自身・・君、そのものなんだ・・」
相変わらず目は己が作品を見据えたままである。
「作品というものは、・・そういうものなんだ。誰が作ったのでもない。君が君の心で創ったのが・・あれだ。それをつぶしたところで、土はつぶれても、そのときの君の心までは・・消し去ることはできない。目の前から土の形を消し去って・・失敗だ、の一言で安心してしまうなんて、安っぽすぎる。・・卑怯すぎる」
こう話し終わって、はじめて私のほうにふり返る。
凝然と立ちすくむ私の心に、先生の春風のような笑顔が、杭のように、深々と突きささった。

令和6年8月13日 北大路魯山人
今後、作家たらんとする後進は、務めて身辺を古作の優れた雅品で満たすべきである。
かけらでも、傷物でも、そんなことは頓着することではない。内容さえあれば、誰が芥子粒程の瑕瑾をとがめよう。
人間でもそうだ、如何に偉人でも、一寸した欠点は持っている。
そんな瑕瑾があるために、偉人の価値が消えて無くなるであろうか。

令和6年8月11日 直木三十五
「芸術は短く、貧乏は長し」。三十五の言葉だか、貧乏の長さといったら「桓武天皇以来」だという。
ムダ使いの名人、と称されたが、三十五はムダに生きたわけではない。
友人と出版社を設立し、『トルストイ全集』を刊行した。我が国で初めての全集である。
またローブシンの『蒼ざめた馬』や片岡鉄兵訳の探偵小説も出版した。この出版事業で負債を作り苦しんだわけである。
また映画製作にも、手を染めた。月形龍之介や、伊藤大輔を発掘し育てたのは、三十五である。
本名の植村宗一の姓を分解して直木とし、三十一歳だから直木三十一と筆名にした。
翌年三十二とし、一目上がりに変え、四を飛ばして三十五、これで打ち止めにした。
亡くなったのが、四十三。「直木賞」に名をとどめる。

令和6年8月4日 三川内焼
三川内焼の名を高めている透し彫りの福本正則さんの窯場は、佐世保市内である。
「そうですね、仕事の仕方としては決して省略をしないこと。手間と時間をかけることを厭わないことでしょうか。ですから秘伝のなかには効率化、経済化という要素は入っていないと言い切っていいと思います」
それはそうだろうと思う。
その部屋の真ん中にでんと据えられた高さ一メートル余りの五重塔。聞けば製作年数は四年余りに及んだという。
「四基作りました。普通はうまくいって一基しか残りませんが、これはたまたま二基残り、一基を宮内庁に献上しました」
その見事な五重塔を眺めながら、溜息が出る。
これは、間違いなく今の世の流れというものにさからって、遡ってこそ会える見事な風景、眺めであると思う。

令和6年7月28日 壺屋焼
沖縄の壺屋焼は厚手の陶器である。そのぽってりとした佇まいからまず伝わってくるのは、素朴さと温かさ。つまりいかにも民窯らしいそのありさまは、全国各地に見られる人なつっこいあの表情である。
金城敏夫さんは沖縄県の無形文化財。
「皆さんの多くが品物を選ぶ時の基準にするのは、白いものと薄手ということです。ここの土は島の赤土、粘度も低く、薄手は無理、そのまま焼けば黒っぽい出来上がりになります。薄くて白くて彩も鮮やかな世界では、残念ながら石もん(磁器)には絶対にかなわない。でも、わしにはこの土しかない。この土ならではの仕事をしなくちゃいかん。つまり開き直っていたのですな」
このこと、間違いなく一つの厚い壁を突き抜けたということだと思う。そして自由になったことだと。
壺屋焼きの一枚の皿、そのふっくらとした感触から、次々と何かが、魅力ある何かが湧き出して、ずっしりとした存在感を確実に伝えてくる。この重さ、まことに快い。

令和6年7月21日 赤い靴 埼玉県 石田昭子(53歳)
元気だった母さんが寝たきりになり、夜になると畳を踏ませようと両手で母さんの両足を持って、トントンと交互にリハビリしていたとき、私が「赤い靴はいてたおんなの子・・」と歌い、トントン。
すると母さんも一緒に「赤い靴~」と歌っていた。
繰り返し繰り返し、歌いながらリバビリした日々。
母さんが元気なころ、川越や横浜に遊びに行きましたよね。
私のあとをトコトコついて来た母さん。歩けなくなっても車椅子で散歩に行きましたね。
「桜が咲いているよ、若葉がきれいよ」といっても、目を開けなかった母さん。
母さんが亡くなって九か月が過ぎようとしています。
いまも赤い靴を一緒に歌った母さんを思い、涙があふれます。

「赤い靴」のおんなの子のモデルは、雨情の同僚の妻が静岡で産んだ父なし子。彼女はそのことを雨情に話しました。
宣教師に預けたきみは渡米することなく孤児院で九歳の儚い命を閉じます。
薄倖の少女きみちゃん。各地に建てられた少女の記念像の目には、いったい何が映っているのでしょう。
やっと天国でお母さんの胸に甘えられるね、きみちゃん。
母子の歌声が聞こえてきます。

令和6年7月14日 赤い靴 愛知県 川嶋敏裕(38歳)
幼少時、私は病弱だった。枕元で、母が繰り返しこの歌を口ずさんでくれた。
「異人さん」という言葉がわからず、私は長い間「いい爺さん」だと思っていた。
いい爺さんがどうして人さらいをするんだろう。などと考えていた記憶がある。
数ある童謡の中から、母はなぜこの曲を選んだのだろう。
いまとなっては知るよしもないが、ひょっとすると、母は女の子が欲しかったのかもしれない。
歩き始めたばかりの娘が近寄ってきた。
この子に赤い靴を履かせて、久しぶりに帰省してみようか…ふと、そんな気になった。

作詩 野口雨情 作曲 本居長世
  赤い靴 はいてた      おんなの子
   異人さんに つれられて    いっちゃった

令和6年7月7日 胸中の山水
初夏の山はさわやかだ。
青い雑木、鳥の声。そんな山道を歩けば、いっぱいイメージが湧いてくる。
かって中国には、胸中にたくさんのイメージをつめこんで、いざ芸術するときに、そのイメージをしぼり出す手法があった。
具象とか抽象にとらわれず、名づけて 〈胸中の山水〉 といった。
花なら 〈胸中の花〉、仏さまなら 〈胸中の秘仏〉

令和6年6月30日 桂文楽
文楽師匠のヨイショには、その心底に、キビシイ判別、認定があった。
若い真打の披露口上をやるときには、鰻屋じゃありませんが、口上に、上、中、並、のランクがあるのです。
「この者は至って芸道未熟ではございますが・・」 が上。
「この者は親孝行でして・・」 が中。
「この者は、何か奥にピカッと光るものがありまして・・」 が並。
誰でも褒めることは褒めて励ますのですが、厳然と差をつけていました。
「知って知らざれ」 も "ヨイショ道" の奥儀でしょう。

令和6年23日 辞世の句 窓叢竹(まどのむらたけ) 狂歌師
詩も歌も 達者なときによみておけ
とても辞世の できぬ死にぎは

「死に際には何もできないよ」と言っているが、その通り。何事も早めが肝心である。
「自分の死は地球より重い。他人の死は愛犬の死より軽い」
と書いた文豪がいたが、そのとおりで、人は死んだらあっという間に忘れられる。なにせ、誰でも自分が生きるのに精一杯なのだから。薄情と恨んでも仕方がない。人は忘れなければ生きていけない生き物だ。
さすがに狂歌師だけのことはあって、叢竹は人間の業をよく見抜いていた。だが、彼は辞世をいつ作ったのだろう。

令和6年6月16日 窯出し
人(人物)はいる、というのを考えさせられた窯焚きでした。
生徒の女性陣は元気に明るく前向きに生きている。
男は六十・七十代になってどう生きていけばいいのか。早い人は七十代で健康を損なう。
老人は知恵も暇も金(?)もあるが、女性よりは影が薄い。
そんな男性陣も前向きに生きている人は大勢いるのを知りました。

令和6年6月9日 あめあめふれふれかあさんが・・福島県・猪股照一(四十九歳)
私はいまでも「あめふり」の歌を聞くと、心が傷み涙ぐんでしまう。
それは、息子がまだ保育園へ行っているときでした。
ある日、迎えに行った帰り道に、息子は突然「あめふり」の歌を歌った。
それが、「母さん」という個所を「ばあちゃん」と歌っていた。
わたしはハッとした。聞いてはいけないことを聞いてしまった、そんな気がした。
母親のいない子には保育所でそう教えたのかどうかわかりませんが、とにかく無性に腹立たしかった。
しかも、その怒りが自分自身に対するものだということがわかったとき、私は自分の罪深さに身の裂かれる思いだった。
私は男泣きした。そしてそれを知った老父母もまた泣いた。
先日、その息子が上京した。
その朝、天気晴れ。

令和6年6月2日 窯焚き五日目
6月2日
日曜日      朝 気温9℃、AM6:00~西井さんが昼まで応援してくれた。後は妻と二人最終の薪くべです。
      灰を融かすため1300度まで上げる。AM7:00、奥のゼーゲルを見ると7番8番が倒れている。
      PM1:00窯を閉め水を撒いて春の窯焚きは終わりました。
      毎日雨か曇りでしたがまずまずの窯焚きでした。三日目から疲れで食欲なく体重2Kg減でした。
      窯を閉め、8時就寝。12時間寝る。翌日は10時間眠る。
魯山人の言葉の中に「一見下手に見える上手がいちばん」とか「野心があると俗になる」というのがある。
綺麗を真似ることは比較的易しい。なぜならそれは技術の問題だからである。一方、雑や、汚いを真似ることは難しい。なぜなら当意即妙や無垢によって成り立っているからである。だから、魯山人の作品で赤呉須鉢の赤を綺麗に塗ってある、または轆轤が完璧に挽かれ、歪みがまったくなく、中国磁器のような端正なものであればそれは偽物である。
魯山人が言うように、いかなる作品もその人から離れて出来上がっていないし、「人」こそが芸術にとって最も大事な要素である。魯山人はこう主張している。「人間というものが出来ていなくて、しかも作品だけが立派に出来得るということは、ものの道理が許さないことである」

令和6年6月1日 窯焚き四日目
6月1日
土曜日       平林さんに、朝AM6:00からPM1:00まで応援に来ていただいた。ありがたい。
       寝不足でくたくたです。朝雨が止むが、夜はまた雨。
       AM6:00 1200℃まで上げました。気温9℃
       今日は湊、野中、宮坂(由)、伊藤、増澤(み)、東城さんがAM10:00~PM3:00まで応援。
       漆戸夫妻が午後から、永田さんがPM3:00~PM7:00まで応援。
       鶯・不如帰・郭公など小鳥が鳴いている。PM4:00に1200℃まで上げました。その後、1250度で朝まで焚く。
       PM6:00~翌朝AM5:00まで、岩田さんにお応援いいただいたお陰で眠る。
魯山人は「綺麗」と「美しい」を明確に分けている。「美しい」を求め、「綺麗」を求めていない。綺麗は不満であり、むしろ拒絶すべきものと捉えられている。「美しい」は大事な精神をもつもので、綺麗は大事な精神を欠くものということになる。世間では、綺麗と美しいは同一視されることが多いが、魯山人の中では対極的な概念になっているのである。
魯山人の作品を見てみると、綺麗に上げることを周到に避けていることがわかる。汚くというと語弊があるが、造形や筆致に綺麗や完璧を避け、一見汚く、あるいは小児の純朴にもつうずる無垢と、彼が「当意即妙」という言葉で語った奔放さと自由とが表現されて、魯山人ならではの作品になっているものが多い。誤解を恐れずにいえば、魯山人は一見雑や汚さと見紛うところに風情と精神をこめた。

令和6年5月31日 窯焚き三日目
5月31日
金曜日      AM6:00 窯温度228℃、気温7℃、朝は小雨、のち曇り、夜は雨。森元さん見学。
         武井、小松、宮坂(美)、中沢、萩原、漆戸、早出さんがAM10:00~PM3:00まで応援。
         PM3:00~PM9:00まで藤村さんが応援てくれて、妻とPM10:00まで焚く。
         PM5:00に700℃、PM11:00 1100℃まで上げる。
        
PM10時~翌朝4時まで岩田さんが応援してくれた。
少し眠れる。
芸術陶器を三つに分けると、三つ目は、高い美意識と明瞭な目的を以てつくられた器である。
同じ陶芸家の作であっても、刺身を盛ろうと思って作った器と、何を盛るかを考えないで作った器とでは、料理を盛ったときにその差は歴然たるものになる。酒飲みが作ったぐい吞みと下戸が作ったぐい吞みにも、これに似たことがいえる。
具体的なイメージがあるかないか、明確な目的があるかないかで雲泥の差が出るのだ。だから高い美意識を持った美食家が料理と調和する器を作れば、その結果は目に見えて現れるわけである。そしてこれが魯山人の器の特徴だと言えるのだろう。

令和6年5月30日 窯焚きニ日目
5月30日
木曜日       窯温度100℃、朝の気温13度~昼20度天気は晴から夕方曇り。
        焚口を閉めロストルの前で柴を2バレット焚く昼間は暑い。
        山小屋の「アズキナシ」が咲いている。
        窯場に薪を運び込む。焼き芋が絶品に仕上がる。
        AM6:00~PM4:00。600℃まで上げ、煙道のドラフトを開ける。
        夕方窯を閉め、明日からの応援者のための食料品を買いに行く。
九時就寝
芸術陶器を三つに分けると、二つ目は、高い美意識と技術を以て作られているが、制作の目的と用途が漫然としていて、間口が広いがゆえに何でも盛れる器である。
逆に言えばどんな料理を盛ってもそこそこで、綺麗止まりというべきか、現在の高級料亭で使われている器のほぼすべてがこれに当たる。ただ綺麗に、「いい感じの小皿を作ろう」などという気持ちで轆轤を挽き絵付けをすれば、当然心が入りきらないで作為ばかりが顔を出すことになる。陶器は絵画や彫刻と違って焼成の際に窯変などの偶然性が深く関わり、思わぬ景色が生じて逸品が生まれることがある。これは土物(磁器でなく陶器)の場合だが、魯山人の言葉を借りれば、日本の陶芸は「美神に跪く」芸術であり、日本人の美意識は代々これに寄り添って発達してきた。料理と食器がお互いに寄り添おうという意思なくして作られれば、料理と食器が一方は右を向き、一方は左を向くこととなり、盛り付けしだいでは台無しになってしまう。

令和6年5月29日 窯焚き一日目
窯焚きに必要なものは、気力と体力。一笑(生)懸命、楽しく焚きます。
注連縄が張られ、神酒が供えられ、「かしこみ、かしこみ」
と神に祈り、窯に火を入れます。

5月29日
水曜日  神事   御神酒(秋田の純米大吟醸)・お米・お塩をお供えして、火の神様に二礼二拍手一礼で始める。
          AM7:00~PM6:00。450℃まで上げました。大葉さん、西井さん見学。

         朝の気温10度~14度、朝は霧、曇りから午後は晴。窯場は暑い。焼き芋うまい。
         ロストルで一日湿気を抜くため火を焚きました。日が射すと蝉時雨。
         
煙道のドラフトを開ける。
         温度管理のパソコンを岩田さんからお借りする。
         夕食は七輪で焼くお餅と焼き肉。夕方窯を閉め、九時就寝
芸術陶器を三つに分けると、一つは、作品それ自体で完結し、何ものをも拒む器。
この代表は「人類史上最高のやきもの」と言われる北宋汝窯青磁の「水仙盆」。この神品至宝は天青色の盆で、雲頭形の足がついている。天青色とは、雨上がりのしっとりとした水分を含んだ空の色を指す。台湾の国立故宮博物院に四点、中国に一点、日本に一点が現存する。かってこの器は永いこと紫禁城に収蔵され、日中戦争の戦火を逃れるため収蔵品の調査がなされ、その際「水仙盆」と名付けられた。それはあまりにも美しいこの器の色が、どことなく水仙を想起させたからに違いない。作られて九百年以上も経つのにこの器の用途は未だにわからない。この器は、隠世(あの世)の彼方で水仙と繋がっている予感を与えたものの、現世では何物をもそこに載せることを拒否している。

令和6年5月26日 窯焚きの準備
寒炉深く炭を撥(か)く 孤灯復た明るからず
寂寞として半夜を過すに 壁を透して渓声遠し 良寛

令和6年5月19日 日府展開幕
第71回日府展は5月19日から5月25日に東京都美術館で行われます。
授賞式に行きました。東京の美術展は当然ですが、地方展よりワンランク・ツーランク上です。
増澤規江さんの娘さん二人 (東京に住んでいる) と一緒に見る。

増沢道夫    常任理事 審査員    緋色壺       審査員出品
増沢ふみ子   委員             夕やけ       入選
湊美由紀     会員             春の訪れ     入選
宮坂由紀子   一般            華魅布紅呂    日府努力賞
増澤規江      一般       
     ミルク缶       日府奨励賞

令和6年5月12日 母の日 鶴田由美子 熊本県 31歳
お母さん 故郷とは人間(ひと)です。
あなたを失った今、わかりました。
窯詰完了
灰被りの窯詰め (伊賀土) が完了しました。
煉瓦で入り口を塞ぎながら、上下二か所の焚口を作り、モルタルで隙間を埋める。
炙り焚き用の柴を用意しました。

令和6年5月7日 前の段の窯詰め
1日で前の段の窯詰め、棚板12+1枚完成です。
緋色土・伊賀土 10×10 10×10 12×12 15×15  15×0 (45×30)


令和6年5月6日 日府展の審査
第71回日府展の工芸作品の審査に東京都美術館へ行きました。
日本各地から集まる作品。一般出品者は増えましたが、陶器が少なくなりました。

令和6年5月5日 窯詰
与謝蕪村は寡欲の人だった。あるとき、その寡欲な蕪村が富くじを買った。
それを知った弟子が不審にたえず、どうしたことかと問うと、その答えは次のようなものだった。

自分はまだ上絹の屏風を書いたことがなく、一度は絵の具を尽くして一代の傑作ともいうべきものを描いてみたいのだが、ご存知のとおり赤貧洗うがごとくで、屏風を買うカネがない。そこで苦慮した結果、富くじを買ってみた。もし幸いにこれが当たれば屏風を買って、そこに心血を注いで絵を描きたいものだ。

弟子たちはそれを聞いて、篤志の人を集め、屏風講というものを組織し、蕪村に屏風を供したという。
   月天心貧しき町を通りけり 蕪村
中の段の窯詰めです。10×10 12×12  12×12 粉引き 12×12 10×10 10×0 (45×30) 志野土
中の段の窯詰め、棚板12+1枚。二日間で終了です。

令和6年5月4日 森繁久彌
パッと僕が舞台へ出ていくと前列は女学生で埋まっていた。これは「屋根の上のバイオリン弾き」を持って総勢百十人が九州を回った時の話だ。事件というほどのものでもないが、一番前列に並んでいる女学生の中に、一切芝居は見ないで下を向いて眠っている女の子がいた。出演者たちはみんな "なぜ芝居を見に来て寝るんだよ、どうか寝ないで、見てくれ" と口々にぼやいた。
しかし、芝居は進行するにしたがって万雷の拍手が起こり、泣き出すものもおり、このミュージカルは観客を感動の渦に追い込んだのだ。でも彼女は相変わらず寝ていた。
長いアリアが終わって、私は突っ立っているホーデルの側へ行きお別れをするのだが、このシーンになると主役の私は毎日泣いた。しかし、残念ながら、前列の観客の女の子は、相変わらず下を向いて寝ていた。
二幕目のフィナーレはまことに感動的なシーンだった。そして幕になるのだが、幕が再びあがると今度はアンコールカーテンですばらしい踊りが入って、有名な歌が始まり、そこを通って私が出る。万雷の拍手の中を。すると、どうだろう、彼女は、その時初めて顔を上げて、涙に濡れた目をしばたたかせ、私に拍手を送ってくれた。
しかし、その目は・・・。私は思いもかけない情景に胸を打たれた。
その盲目の美しい顔を見ながら、私は涙をこらえたが、出演している全員も感動の一瞬で目頭を拭いた。
私はとうとう舞台の端に座って、その可愛い女学生を呼んだ。そのお友達らしい女の子が彼女の手を引いて来た。
私はその両肩をしっかり抱いて、ごめんなさい、ごめんなさい、私は勘違いをしてました、許してください、と言った。
彼女は綺麗な声で、とてもすばらしいお芝居でした、動きもみんな分かりました、と私の手をしっかり握った。
舞台に出ている全員も、あるいはお客さんも、万雷の拍手を惜しまなかった。
窯詰を始めました。
奥の段 10×10 10×10 10×10 10×10 10×0  (45×30)
備前土の奥の段の窯詰め、棚板10枚+1枚。二日間で完了です。


令和6年5月3日 穴窯
道具土で作品の下に置くセンベイを作りました。
今回も、窯を焚く人は細かく割り振った時間割で集まります。
用を充たして美に至る。用美一体。日々使うやきものの美を追求する。
棚板を並べ水平と隙間の寸法を測ります。
ゼーゲルは奥の段の下(7・8番)と、前の段上(9番、10番)の合計2ヶ所。

令和6年4月28日 作品完成
穴窯を開きました。
3月から作品作りを始めて、300Kgの作品が出来ました、やっと完成です。
生徒さんと、窯焚き応援の人たちの作品も集まりました。

棚板にアルミナを塗り、ツクをサイズ別に並べました。
窯詰に使う材料をそろえました。いつもの、わら、貝、もみ殻、炭、灰、道具土、サヤです

令和6年4月21日 河井須也子 ・・河井寛次郎の一人娘
「絵画や書の世界に、筆、紙、硯、墨の四宝があるように、作陶のうえで土、釉薬、形体、焼成のうちどれが一番大切ですか?」と愚問ともいえる質問を父にしたことがある。父は、「それはどれ一つとしても欠かすことのできない大切なものだが、陶土にしても磁土にしても、先ず形体をなすことが一番大切な基本だと考えている」との答えだったことを覚えている。
また、物を購うとき、何を基準に選んだらよいかを訊ねてみた。父は、「誠実、簡素、健全、自由」の四つの提案をしてくれた。この四つのシグナルは自我が先行し、迷い多く脱線しがちな私の軌道修正をしてくれたことは言うまでもない。しかし、いまだに満点とはいえない私でいる。
伊賀土の作品が出来ました

令和6年4月14日 河井須也子 ・・河井寛次郎の一人娘
父は高級料亭などの、全く素材の本体がわからなくなるような、あまりにも凝り過ぎた、食器に飾りたてた料理を好まず、母の手作りのささやかな家庭料理である「おばんざい」を一番好んでいた。
おばんざいを「静」とするなら、母はまた別の「動」の面を持ち合わせていた。
来客の時は、父の大皿や大鉢、食籠をふんだんに使って、父の作品にマッチするように母なりの工夫をしていつも好評だった。こんなことを書いているといかにも我が家は順風満帆の暮らしみたいだが、決してそんな日ばかりだったとはいえない。
人にはいえない不如意だった昭和初期の頃、母は来客をもてなす食膳に十分なことができず、「ぬた」にいれる具が青葱だけの、「青葱オンリーぬた」をお出ししなければならなかった時、京都大毎支局長の岩井武俊さまが、「ぬたもいろいろ食ったが、今日のこれが、本当のぬたの味だ」と大変お褒めくださった由、母はこの思いがけぬお言葉を、「貧にめげず頑張りなさい」とのお励ましと受け取り、勇気百倍したと私に話してくれたことを思いだす。

自他ともに客人(まろうど)としてこれの世に
招かるる歓びをあかせし父
ひいろ土の作品が出来ました

令和6年4月7日 河井須也子 ・・河井寛次郎の一人娘
父は「ものつくり」を生業にしてきたので、自作も部屋に置いてはいたが、それは部屋を飾るというより、作品の成果を見るために参考として置いてあるにすぎない。陶器の形体とか釉薬の発色具合、焼成後の結果を知りたいから窯出しの後など、チンカンチンカンとまだ産声をあげている嬰児である作の幾つかを並べて見ていたのだ。
父はいつも、仕事に追われるより仕事を追って生きてきたような人だから、とても自分の作品に満足して飾るというような気分ではなく、自分の仕事に対しては誰よりも厳しい眼と心で向き合っていた。
作品の一つ一つに慎重に全身全霊で最善を尽くしてやまなかった姿が、今も彷彿とする。

糸ぐるま廻すマハトマ・ガンジーの
姿おぼゅる轆轤牽く父
備前土の作品が出来ました

令和6年3月31日 作品
ひたすら働くことが美徳であった時代は終わり「ゆとりの時間」が増えました。
この時間の有効な使い方が「人生八十年時代」の私たちにとって、最も切実なテーマとなりました。
私たちがなすべきことは、「物質文明」の追求ではなく、「精神文化」の充実を図ることです。


春雨や 暮れなんとして 今日も有り
粉引きの作品が出来ました

令和6年3月24日
萩原朔太郎
桜の下に人あまたつどひ居ぬ
なにをして遊ぶならむ
われも桜の木の下に立ちてみたけれども
わがこころはつめたくして
花びらの散りておつるにも涙こぼるるのみ
いとほしや
いま春の日のまひるどき
あながちに悲しきものをみつめたる我にしもあらぬを
今日は曇り、天気は下り坂で明日は雨らしい。
志野の釉掛けをしました

令和6年3月17日 やきもの談義 白洲正子・加藤唐九郎
加藤 僕のものは女の人には使えないものばかりだ。
白洲 私は好きだな。
加藤 そのかわり男性的ではあるな。京都で作るとみな女性的になるんですね。
白洲 陶器の女性的なんて気持ち悪いわ。
加藤 どうも僕は、長襦袢の模様みたいなものは描けないね。
白洲 魯山人の茶碗は感心しないね。
加藤 魯山人の作品から脂粉の匂いがするのは妙ですね。京都人ですね。やっぱり。
白洲 そういうものがあったわね、魯山人自身に。金持ちに媚びるようなところが。
加藤 僕がやると、どうも何作っても野武士のようになってしまう。
白洲 やっぱり人間が出るんですよ。だって見たところそうだもの。
志野の作品が出来ました

令和6年3月10日 年寄り
幼い頃、「年寄りの言うことは聞いておくもんだよ」とよく耳にした。
家庭でもどこでも、年寄りの存在は今よりずっと重んじられていたのではないか。
TVなどで、若者が年寄りの些細な失敗をあげつらって笑いを取るのを見ると、残酷だなあと思う。
古いものはそれだけで嘲笑の対象である。
ぼくにしたところで、エラそうなことは言えない。
若かったころ、年寄りを軽んじる気持ちがまったくなかったとはいえないのだから。
人はだれでも年をとる。

春の暮れ 家路に遠き 人ばかり

令和6年3月3日 立派なお雛様   安中市 中島 幸江 (77歳)
三月三日「ひな祭り」の日、私は老健施設でおひな様を折っていた。
右手はマヒでまったくきかないから、左手を使う。一生懸命やっているのだけれど、皆さんのようにきちんと折れない。
できないので泣きたくなってしまった。でも、自分で折ったおひな様だから、部屋に持って帰り、目を入れた。それもへんてこだ。
施設でいただいたひなあられを供え、自分だけのお祝いをした。
翌日、私の折ったおひな様のところに手紙が置いてあった。
「私は、あなたが折っているのを見て手伝ってあげようと思った。でも、あなたは真剣だった。うまく出来なくても、それを完成させた時の喜びを味わうだろう。また、左手でできるという自信を持つだろう。そう思って、じっと我慢していた。ごめんなさい」
という内容で、職員のМさんからのものだった。そのとき、私は真の親切というものを感じた。

令和6年2月25日 久保田万太郎
   湯豆腐や いのちのはてのうすあかり
 ( 独り湯豆腐を食べていると、何か生きることが切なくなってくる)
久保田万太郎は明治の浅草に生まれ、生涯浅草を愛し、浅草を描き続けた下町の作家だった。
美食家で東京の名店を食べ歩き、詠んだ俳句にも食べ物の句が多い。俳誌「春燈」 を主宰し、作った句は八千百余にもなる。
掲出の句にも彼らしく湯豆腐を詠んでいるが、なぜか寂しげだ。
それは最初の妻を自殺に追いやり、二番目の妻とはうまくいかず別居、愛人と死別したあとの独り住まいの中で作ったからだろうか。
電灯の下、ぽつねんと湯豆腐を食べている老人の姿が目に浮かぶ。
彼はこの句で、逃れようもない老いの向こうにあるものを詠んでいる。
明治、大正、昭和の三代を見た作家の最期は美食家らしく、梅原龍三郎の美食会で赤貝を喉に詰まらせて死んでいる。
昭和三十八年五月六日 変死。享年七十五歳。
粘土を用意しました。ひいろ土60K、黒泥20K

令和6年2月18日
私、すっかり耳が遠くなりました。
耳の遠い人は声がデカいので老人同志ですと聞こえますが、若い人は声が低い上に早口で、何を言っているのかわかりません。
こっちは、フムフムなんて相槌をうっていますが、話は全く伝わってきません。
でも、それに慣れると、けっこう楽で、申し訳ないけど、一種の馬耳東風ですね。
ニコニコ笑ってうなずいているだけです。
急に暖かくなりましたので、粘土を用意しました。
去年より値上がりしていてびっくり。
伊賀土90K、信楽石入り土80K、赤土40K、備前土60K、五斗蒔土80K、黄土20Kです。

令和6年2月11日 細川護熙
やきものはもろもろの道楽の行き着くところだとよくいわれる。
わたしの場合、やきものは単なる道楽のつもりではないが、作陶を始めてみると、たしかに奥が深くて、その言葉がわかるような気もする。
外国の器というのは、中国でも欧米でも、まずほとんどすべて同心円だが、日本では少し歪んだような、ひょうげたものに味わいがあるとされる。日本の茶陶では、微妙な歪みや窯焚きの際に生じた肌の変化などが大きな見どころになるが、これは外国人にはわかりにくいようだ。
初めて歩く道は長く遠く感じる

令和6年2月4日 加藤唐九郎
私は、今から十三年前フランスにいてパリの美術研究所に通っていました。
日本には日展や院展の有名画家がいることを話しますと、その研究所にいたフランスの美術家連中は、
「日本には美術などない、日本の絵かきは、われわれヨーロッパ人が十九世紀に作り上げたものを模倣しているにすぎない。彫刻にしても、イタリアやギリシャのまねで、仏像などは中央アジアのまねで、そんなものは問題ではない」 といいます。
それで私は、日本の陶器のスライドを映して、「日本人は、陶器鑑賞のツボを心得ているから、あなた方にはそれが分からないかもしれない」 と言って解説しながらスライドを見せますと、今度は、人間がガラリと変わって、私の解説を納得したかのように見ていました。
その翌日「日本の陶器の美について講演をやってくれ」 といってきました。そして、「日本の陶器についての美は、われわれの及ぶところではない。日本の陶器の鑑賞力はすばらしい」 と賞賛をあびせました。
そこで思うことは、官庁の人などは、美術とは絵画であり、彫刻である、と思っているようですが、日本の絵画や彫刻を海外に持っていって、良かったためしはありません。しかし、室町以後、日本人が見極めてきた陶芸という日本独特のものは彼らにはわかります。それを持っていけは必ず成功します。

令和6年1月28日 加藤唐九郎
世渡り上手な作家はうまく働いてどこかの展覧会で賞をとると、えらそうに見えますが、たいてい世渡り上手で一生を終えてしまいます。それでも名前は出て、作品の値も高くなりますが、その人の死後は、そういう作品はタダになってしまいます。時流に竿さして華やかな生涯を送ったものは、流れに従って、ついには消えてしまう運命にあることを知るべきであります。

若い人たちはすぐに偉くなりますね。それがいけない。
ぼくはね、・・・これこそ将来見込みがあると思っていた若い連中にあっているが、・・日本全国でね。
それから十年か十五年たってから、よほどうまくなっているだろうと思って訪ねてゆくと、もう昔持っていた豊かな天分はどこかに消えて、いつの間にか商売人になっている。
立派な家を造って外見は立派だが、内容はおそまつになってしまっている。そういう人間が非常に多い。

令和6年1月21日 加藤唐九郎
川喜田半泥子は、私より年上であったが、彼が陶芸を志す初期には私が教えた。
その特徴とするところは、キメの細かいものが嫌いで、大ざっぱで、肌の荒いものを好んだ。
まともなものを疎んじて、崩れたもの、不完全を愛した。
利休の「さび」と、「へうげもの」と光悦の「大らかさ」に通ずるものがそこにあった。
今から考えると、陶芸を専門とする私たちの方がかえって遊びが多く利害に疎かったことを切に思わせる。
半泥子の作品には
、秀れてよいものと、全くつまらないものとの差がありすぎる。
おそらく後者の方が数において多いであろう。この展覧は、川原で宝石を探す感があるだろう。
キリストは「金持ちが天国に入ることはラクダが針の穴をくぐるよりも、なおむつかしい」といった。
半泥子は針の穴をくぐった珍しいラクダである。

令和6年1月14日 浜田庄司
彫刻家であり詩人でもあるエリック・ギルのことも忘れられない。
彼は作品だけでなく、日々の生活そのものが潔癖で厳格であって、野菜なども自作し、パンも自分で麦を作り粉にひいて、家で焼いて食べていた。子供達も学校には行かせず、すべて両親が厳格に教える。
私は彼の人と家庭を知ることで田舎の健康で自由な生活というものに、ますます強くひかれるようになった。
以前から田舎が好きで、現にセント・アイヴスという田舎に住んでいたのだが、よりすぐれた具体的な生活を目の前にして私は非常に驚き、「英国に来た縁」 というものを思った。
そうして私は、日本の益子のことを連想した。

令和6年1月7日 朝鮮の旅 浜田庄司
潭陽という村を訪れた時、小学校の勉強ぶりを見せてもらった事がある。上級生の「推句」という教科書を見ると、まず 「天は高く地は低し」 とある。読み進むと、「白き酒は人の面を赤くし、黄色き金は吏の腹を黒くす」 などと書いてある。まことに明快で、真をうがっており、三人とも大いに感心した。
買い物では、私が今使っている眼鏡は朝鮮のものである。同じものを棟方志功に頼まれて買って帰ったところ、あいにく度が合わないで残念がった。ところがそれを聞いた河井寛次郎が 「目の方を合わせろ」 と言った。
ただの冗談ではなく、好きなものに対する河井の執念の激しさがこもっているのであった。

令和6年1月4日 元気なうちの辞世の句  阪上裕子 京都府・六十二歳
   今生を 程よく生きて 竜天に
人生楽あり苦あり、それを相殺すれば、まあ 「ほどよく」 というのが現在の結論でしょうか。
長野県の小布施町の北斎美術館で見た彼の最晩年の作品 「竜天に昇る」 が印象的で、季語に選びました。
竜の背にまたがって、われもまた黄泉の国へと旅立とうではないかといったところ。

令和6年1月3日 冬のカーネーション   城谷久美子
佐世保市三内川の喜助窯に修業に入ったのは二十九歳の時だった。窯場での仕事は驚きの連続であった。
土揉み、磁器土(天草石)でのロクロ、削り、絵付け、釉薬掛け、何もかもが難しかった。絶望的に難しかった。
覚悟がなかったわけではではなかったが、予想をはるかに超えた厳しい世界であった。
どうやら成形(ロクロ)がうまいったと思って削ってみると"マキ"(亀裂)が入っている。土揉みの段階での失敗である。
それでも一年が過ぎて行き、日々の絶望とも多少の馴れ合いが生じた。
ともかく食い下がっていくしかないという、居直りに近いふてぶてしさも芽生えてきた。
そのころ、アパートに八歳の男のこと女の子が見かけられるようになった。
お母さんはよその男とどこかに行き、お父さんと三人でここに越してきた。
お父さんの帰りが遅い時、一度夕食に誘ったのがきっかけで、三日に一度は一緒に夕食を食べるようになった。
夏も終わり、枯れた朝顔を処分していると男の子が、これは何と聞く、母の日にプレゼントするはずだったカーネーションだった。
それは母の日が来ても、蕾がつかなかった。「あげようか」 というとパッと顔が輝いた。
そのうち私は、ガス窯を築くことになり、にわかに忙しくなった。
窯 (焼成) のイロハを知るためと 「ロクロのヘタさ」 を知る必要があるという師の助言もあって、話はバタバタと進み、私は何日もアパートを空けた。十二月の半ば過ぎ、窯のめどがついてアパートに戻ると、ドアの前に男の子にあげたカーネーションの鉢が置いてあった。細い茎の先に淡い桃色の花が咲いている。
私は荷物を玄関に投げ込むと下に降りた。部屋に灯りの色はなく、表札は剥がされていた。
私は佐世保と長崎の往復の忙しさで、男の子のカーネーションに蕾がついたのも知らなかったのだ。
玩具の赤い如露でカーネーションに水をやっていた男の子の小さな後ろ姿が浮かんで胸が詰まり涙があふれた。

令和6年1月2日 起きて半帖
人は、起きて半帖、寝て一帖、天下とっても二帖半の広さがあればいい。
誰の言葉だったか、
人間 百年たったら、みんな骨・・・くよくよしたって、はじまらない。

記念すべき第30回目の穴窯焚きを目指しスタートします。

令和6年1月1日 元日
山小屋の庭は雪景色。
何と穏やかな眺めだろう。
見ているだけで、痛めつけられた心を癒してくれる。
せわしなく刺激を求めたあげく、人生で最も大切なものを見逃していた。
静かな生活を楽しむ余裕がなかったのだ。

   初詣 今年の禍福 知るよしなし   鈴木真砂女
   息災の 階登り切り 初詣       鈴木真砂女