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令和7年1月12日 | 論語 |
「父母は唯(た)だ 其(そ)の疾(やまい)を之れ憂う」孔子 親はひたすら子供の健康ばかりを案じている。体を大切にすることが一番の孝養なのだよ、という意味である。 言われるまでもない説教に聞こえるが、親の目から見れば、心をなおざりにして、みてくればかにこだわる子供は、もはや憂うべき病人なのである。 |
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余寒厳し窯出しの壷締まる音 |
令和6年12月31日 | 小倉千加子 |
私が「死」と呼んでいるものは、人間が必ず迎える体験でありながら、誰もが考えないようにしている体験、恐怖という感情と強く結びついた体験のことである。 昨年、友人が乳癌の手術をした。病院で乳癌と告げられた時から死の恐怖に怯えた彼女は、入院までの二週間、友達の家を泊まり歩いて、一人住まいの自宅に帰れなかった。癌で亡くなった清水クーコさんは、「眠ってしまうと死んでしまうと思って朝までベッドに座ってずっと起きていた」という。彼女の言葉は、死を間近にしていない私たちの日々の睡眠が文字通りの惰眠であることを思い起こさせてくれる。 死に瀕した田山花袋を見舞った島崎藤村は、花袋の枕元で平然と尋ねたという。 「君、死んでいくというのはどんな気分かね」、「暗い暗い穴の中に落ちていくような気分だよ」。 長い生の労苦の果てに、人間にはまだ死という苦悩が待っているという事実に、私はまったくどうしていいか判らない。 |
令和6年12月29日 | 関頑亭 |
僕は形としてはサツマイモのように生きたいと思っているんです。 生まれた時はへその緒を付けてすーっときて、大人になって多少成長して、後のほうはまたすーっと細くなって消えていく、そういう形なんです。太くなるために頑張って大人にならなくてはいけません。だけど太いままでは決まりが悪い。だんだん細くなっていって「いなくなっちまったな」という感じが本当の死だと思う。 身につけた余分なものを落としていく。知識も技術もだんだん消していって、それでも残ったものがきっと本当のものなのでしょう。それが平らな世界です。 |
令和6年12月22日 | 村松友視 |
寸又峡へ紅葉を見に行きませんか・・そういった私の言葉に応じて、幸田文さんは静岡に来てくれた。 寸又峡の紅葉は見事だった。吊り橋を渡って来る着物姿の幸田文さんの背景に、燃えるような紅葉のけしきがあった。吊り橋を渡って来る幸田文さんの姿に、私は"ダンディ"という言葉をかさねた。 女性にダンディは奇妙という気もしたが、そのときの幸田文さんにはその形容がぴったりだった。 それから旅館の一部屋を借りて休憩し悪友のお母さんがつくってくれたおにぎりを食べた。 二つづつ食べた後、葉蘭の上におにぎりが一個だけ残った。悪友がそれを片付けようとした一瞬、幸田文さんの手が鋭くそれに伸びて 「あたし、それ食べる!」という声がひびいた。 母親のつくってくれたおにぎりを捨てずにすんでうれしかったと、悪友は今でもそのことを語り草にしている。 あたし、それ食べる!という声を聞いたとき、幸田文さんの気遣い、気配り、優しさが確かに一座に伝わった。 |
令和6年12月15日 | 魂をゆさぶる辞世の句 |
大野九郎兵衛 (赤穂藩城代家老 仇討ち反対派) 死する碁は 白黒とてもわからねど 彼岸(かのきし)にてはうたむ 渡り手 (死んで逝く自分には、赤穂のことは良かったのかわからないが、あの世では打つ手を間違えないようにしよう) 塩田経営で赤字の藩を立て直した財務のプロは、我慢が足りず家臣を路頭に迷わせた主君に殉ずる気持ちはなかった。 現実主義者で、命と家族が大切だった。晩年は息子ともども乞食同然であったともいう。一族も悲惨だった。 最期は大阪・京都を転々として名を変え、仁和寺付近で発狂して世を去っている。汚名だけが残った。 人生、何が正しいのかその時点ではわからないことが多いが、判断を間違えて恥を残さないようにしたいものだ。 人の真価は大事の時に現れる。死期は討ち入り前後諸説あるが、討ち入り決行を聞いたら、どのように言っただろうか。 |
令和6年12月8日 | 杉本秀太郎 |