令和7年5月3日 重い荷物 佐藤英一
大名行列、またの名を金魚のウンコとも呼ばれている教授回診のウンコの一人として、T教授の後ろに従っていた。
私は肝臓癌の、医学部同級生の伯父Bさんの受け持ち医になった。T教授は抗癌剤の投与を指示された。
当時、一人で歩いて入院してきた人が、抗癌剤の投与のためベッドに寝たきりになり、死を迎えるのを多々見てきたので、友人と相談し、抗癌剤の投与をせず、入院のまま残りの人生を気ままに過ごさせることにした。
回診では抗癌剤の投与していないことがわかると怒られもしたが、ほうかぶりをし、Bさんには茶飲み友達と自由に旅行させたり、思い出のために人と会うことをすすめたりした。数か月後死を迎えた。
「急な入院だったのでシャバに未練があったが、おかげで人生の最期を思いのままに送らせてもらったことを感謝している。死を目の前にして、思い残すことは皆無と言えば嘘になるが、無いに等しい。新米先生、死に行く患者の望みは、ベッドに縛りつけられた一分一秒の延命ではなく、人生の最後を思い残すことなく自由に生きることだということを忘れないでもらいたい」と息を引き取った。
とはいうものの、抗癌剤を投与して少しでも延命を試みた方が良かったのではと考えつつ、Bさんの死と、抗癌剤を投与しなかった理由を教授室へ報告に行くと、T教授は、
「君も、医師として、人間として多くの重い荷物を背負うことになるね。金魚のウンコにも五分の魂か」
とまゆ一つ動かされなかった。部屋を出る背に「ご苦労!」と怒鳴り声が迫ってきた。

令和7年5月2日 小堀遠州
昨日といい 今日と暮らしてなすことも なき身のゆめの さむるあけぼの
(今までの人生と残した仕事をさえ 亡くなって逝く自分には 曙の中で儚くさめていく夢のような気がする)
日本のダ・ヴィンチと呼ばれるぐらい多才な彼は、豊臣秀長の家老の家に生まれ、のち家康に仕えた小堀政一という一万二千石の大名だった。武人ながらけた外れの美意識に優れ、茶人、建築家、造園家として名を成している。南禅寺、大徳寺、龍潭寺ほか多くの名園を残した。茶道では公家的な古典美を武家茶道に取り入れた、「きれいさび」という独自の「遠州流」茶道の家元だった。生涯に四百回も茶会を開いている。それだけの仕事をした彼さえ、すべては曙の夢うつつだったような気がする・・
と言っているのだから、何も残さない凡人はどう生きれはいいのだろうか。
窯詰を始めました。
奥の段 10×10 10×10 12×12 10×10
備前土の奥の段の窯詰め、棚板10枚。二日間で完了です。

令和7年5月1日 窯詰
道具土で作品の下に置くセンベイを作りました。
棚板を並べ水平と隙間の寸法を測ります。
ゼーゲルは奥の段の下(7・8番)と、前の段上(9番、10番)の合計2ヶ所。

令和7年4月27日 穴窯を開きました
4月15日 穴窯を開きました。
4月27日 2月から作品作りを始めて、300Kg・600点の作品が出来ました、やっと完成です。
所詮、やきものは、他のどの工芸よりも、いかに材質を生かすかということから逃れられません。
また、やきもの作りは、じつにのっぴきならない時間との闘でもあります。成形の一段階をこなすと、すぐに乾燥が追いかけてきます。土の乾き具合を逃がすともう作業は出来なくなります。
まして、窯に火を入れたとなると、窯場を離れることはできません。人間が睡眠をとらないでいられる限度は、せいぜい二昼夜ぐらいだということですが、窯を焼き始めると火を止めるまで幾晩も徹夜状態ということがあります。どこかでうとうとしていても、火の加減、窯の様子の変化にはちゃんと対処しているんですね。

生徒さんと、窯焚き応援の人たちの作品も集まりました。
棚板にアルミナを塗り、ツクをサイズ別に並べました。
窯詰に使う材料をそろえました。いつもの、わら、貝、もみ殻、炭、灰、道具土、サヤです

令和7年4月20日 立川談四楼
貧乏は恥ではない。しかしとても不便である。ーーどこかの貧乏人の言葉である。人のことは言えないが。

近代国家は納税の義務で国民の財産を奪い、兵役の義務で命を奪い、教育の義務で魂を奪うーー
誰かがテレビでそんなことを言っていました。どこかの大学教授でしたかね。

今までは様々の事してみたが、死んでみるのはこれが初めてーー淡島寒月の父、椿岳の辞世。
椿岳は画家で、生涯に百人の愛人を持ったそうな。で「様々な事してみたが」となるんですな。
ひいろ土の作品が出来ました。

令和7年4月13日 立川談四楼
「昨日を悔いず 明日を憂えず 今日を生きる」
先年亡くなった杉浦日向子さんのモットーであったという。いい心構えです。享年四十六、惜しい人を亡くしました。

「春に生じて夏に長じ、秋に衰えて冬に死す」
平安時代の『和名抄』にそうあるとか。年魚、鮎のことです。
この夏、何度かいただきましたが、いや美味でした。

「薪には古い木を 読むなら古い本を 信じるなら古い友を」
新渡戸稲造の言葉です。いいことを言います。
伊賀土の作品が出来ました。

令和7年4月6日 シルバー川柳
仲いいね いいえ夫は 杖代わり
私だけ 伴侶がいると 妻嘆く
ボケてきた 言うてた頃が 華だった
くたびれる 何もせんのに くたびれる
備前の作品が出来ました。
令和7年3月30日 シルバー川柳
朝起きて 調子いいから 医者に行く
百年も 生きりゃ貯金に 先立たれ
古希を過ぎ 鏡の中に 母を見る
「もうやめた」 検査ばかりで 病気増え
赤土、粉引きの作品が出来ました。

令和7年3月23日 志村ふくみ
何年前になるだろう、まだ奧嵯峨の方は草深い森や、藪の点在している頃、数人の若い人と茜掘りにでかけた。森の奧ふかく入っていた人が、「これ、平安時代の茜かもしれない、帰ったらまつりましょう」と冗談めかしてそういった。たしかに赤黒い太い根は何百年も地中で安らかな眠りについていた思われた。
茜は小さな金平糖のような白い花を咲かせ、それに目をとめる人とてない。私がひそかに嵯峨茜と名付けて掘りに行っていた杉林がつい先日見事に整地されていた。もう日ならずして嵯峨茜は絶滅するだろう。
昔、深見重助翁に習っていた時いただいた緋の紐を経巻のように大事にしている。茜百貫、百回近く染かさねたという。
伊勢神宮のご遷宮などにそれらは使用された由。深見翁の亡きあとは化学染料になってしまったと聞いている。
志野の釉掛けをしました。

令和7年3月16日 中川一政
魯山人が亡くなってから作品が呼び声たかくなった。
魯山人は篆刻、書、画、陶器、料理、いろいろ手をひろげて活動したが、いずれも魯山人から出たもので魯山人という根からいろんな枝が出たものだ。晩年は私に油絵を描きたいといっていた。どの枝も相当な高さまで行っている。
日本人は日本人の圏内で生活している。もちろん魯山人もそうであるが、魯山人の圏内は京都を出ないようである。
魯山人を京都の圏内でみると一番よく似合う。書も陶器もそう思って見ると一番生きてくる。
魯山人は鑑賞家なのである。
乾山を愛し、良寛を親しんだり、それらからいろいろ学ぶ事が多かったが、それから一歩出る事は出来なかったようだ。
鑑賞家魯山人であることは確かだが、創作家魯山人ではなかったようだ。
志野の作品が出来ました

令和7年3月9日 中川一政
春陽会がはじまると、岡本太郎は美術学校の制服を着て、よく食堂にあらわれた。紅顔の美少年であった。
太郎が千家の家元の処へゆくと、床に幅がかかっている。円相がかいてある。
太郎はきく「これは何だ」。家元はいう「これは和敬清寂と申しまして、茶道の奥義を現したものでございます」。
太郎はいう。「そんなものは生きていないから駄目だ。俺なら金平糖みたいな角だらけなものを描く」
私はそれを茶道雑誌で読んで、フレ―フレ―太郎といっていた。
それから間もなく博物館のレセプションの時、太郎が傍を通ったから、「おい金平糖」といったら「読みやがったな」といって向こうへ行ってしまった。

令和7年3月2日 遠藤周作
遠藤周作について偉いと思うのは、遠藤夫人が思春期の息子の部屋を掃除していて、思わずのけぞりそうな出版物を発見たときの処置である。
「あなた、ウチの子の部屋にこんな物が」
と夫人が遠藤の所に血相を変えてやってきた。それを一瞥した遠藤が、
「よかったなあ、ウチの子はホモじゃない。子孫繁栄間違いなし」と言ったという。
2月26日急に春になりました。冬眠から目覚め作品を造りはじめました。
鉄赤土40K、黄土粗20K追加しました。

令和7年2月23日
人間は旅という経験によってたゆまぬ成長をとげる。
金だの時間だの手間だのと、旅に出掛けぬ理由を思いつくのは簡単だが、よく考えてみれば金は貯めるものではなく使うものであり、時間はあるなしではなく作るものであり、手間を惜しむは怠惰の異名に過ぎない。
つまり旅に出てはならぬ合理的な理由は、実は何もないのである。
旅は必ず感動をもたらしてくれる。
感動に出会ったとき、日ごろ金や時間や手間を惜しんで旅せぬ自分を愚かしく思う。
ふと自信 失えし日に 椿咲く

令和7年2月16日 芸術
美しいものを美しいままに表現することが芸術。
それを「言葉」でなそうとするものが文学。
医学が肉体の病を癒すように、芸術は心の憂いを除くためのものである。だからこそ芸術は尊い。
芸術家がそうした本来の使命を忘れて芸術なるものを衒い始めたときから、芸術はアカデミズムの一部に成り下がった。
理屈は何もいらない。そこに理屈を持ち込もうとしたから、芸術は退行した。

令和7年2月9日 立川談志
母親の記憶だと、「御飯だよ」ってサツマイモを出すと、「サツマイモの時は御飯て言わないでくれ」とおれが言ったらしいです。(鈴々舎)馬風師匠のネタで 「だんな様、おかゆが出来ました」「おかゆなんて言うんじゃない。御飯ができましたと言いなさい」「すみません・・だんな様、御飯ができました」「そうか、ではそろそろ啜ろうか」って下らないギャグがありましたが、あれと一緒。
昔の噺家は所帯を持つとき「米だけはいいの買いなよ」と先輩に言われたものです。
そうすりゃ副食物(おかず)に金をかけなくて済むというわけでね。

令和7年2月2日 彬子女王
私の隠れた趣味の一つに、工場見学がある。人や機械が同じ作業をしているのを見ているのが好きなのである。先日、国立印刷局東京工場 (日本の紙幣を作っている工場) を訪れることができた。紙幣の改刷は20年に一度。そのときのために、工芸官はひたすら技を磨くのだそうだ。ベテランの彫刻担当の人は、1ミリの間に10本の線を引けるのだそうで「針研ぎ3年、描き8年、美蘭咲く(ビュランという彫刻刀で美しい蘭の花を彫れるようになる)のは18年」 と言われるくらい、たゆまない研鑽を続けなければ、紙幣の肖像画を描き、彫ることはできない。日本で偽造紙幣がほとんど出回らないのは、多くの人達の血のにじむような努力の成果が込められているからなのだろう。
次の現場に移動する廊下で、理事長さんが言われた一言が心に残っている。「世界的に電子マネーの時代になっていますが、日本にお金を包むという文化がある限り、紙幣はなくならないと思っているんです」と。
祝儀不祝儀にかかわらず日本人はお金を包む。英国にいるとき、人とお金のやり取りするときは小切手が大半で、現金を渡すことはなかった。
お金を包むという文化とともに、日本の造幣技術が末永く未来に伝えられることを願ってやまない。

令和7年1月26日 砂の城
海辺で砂遊びをした思い出は誰にでもある。寄せては返す波の合間をみて、大急ぎで砂を掘り、それを積み上げて城や砦を作っていく。いくら固くしても繰り返す波の攻撃で壁は崩れる。「壊す波」と「作る私」の攻防の、勝負は初めからついているのに、それでも「私の作った私の世界」を束の間味わうスリルに、時を忘れて熱中した、その緊迫感は今も鮮明である。
私たちが、今この社会で暮らすその姿は、間断なく押し寄せる破壊の波に洗われているのに、それに気付かず、まるで揺らぎのない安定した世界にいるかのような錯覚にとらわれている。
「私の財産」「私の地位」「私の愛する家族」「私の大切な友」そういった、私の世界を形作るあらゆる要素が皆、「崩れゆく家」なのである。
釈迦は、「この世は無情である。このことが分かって初めて、人は真の安らぎを得る」と説いた。
2500年前の素朴な教えだが、現代社会が抱える深刻な病に対する薬として、その効用を再認識すべきではないだろうか。
急に暖かくなりましたので、粘土を用意しました。
ひいろ土80K、伊賀土60K、、赤土70K、備前土80K、鉄赤土20K、五斗蒔土60K、黄土30Kです。

令和7年1月19日 千恵詩集より
『ゆき』
白いホワホワが
鉛色の空からふりました
うれしくて 手をかざすと
ホッと 消えてしまいました
どこにいっちゃったのかナ
お空の手品です

令和7年1月12日 論語
「父母は唯(た)だ 其(そ)の疾(やまい)を之れ憂う」孔子
親はひたすら子供の健康ばかりを案じている。体を大切にすることが一番の孝養なのだよ、という意味である。
言われるまでもない説教に聞こえるが、親の目から見れば、心をなおざりにして、みてくればかにこだわる子供は、もはや憂うべき病人なのである。
余寒厳し窯出しの壷締まる音

令和7年1月5日 中村紘子
昔、梅原龍三郎画伯を軽井沢の山荘にお訪ねした時のことである。
当時九十二歳の画伯は、正面に浅間山が美しく広がる高台に私を案内され、「ここが私の大好きなスケッチの場所ですが」と説明された。
「ところが或る朝きてみると、同じ画描きの高畠達四郎の油の壷(油絵のための)が据えつけられているの。ぼくが独占していた絶景を、高畠もみつけて気に入っちゃったんです。ぼくはアタマにきて、その油の壷にねなにしたと思います?ぼく、オシッコしちゃったの、ファッハッハッ・・」
だから高畠画伯の晩年の油絵には、梅原画伯のおしっこが塗りこめられているのだそうだ。
梅原画伯はその後視力をほとんど失われたが、しかし、美しい女性は見えていたのではないかという説もある。
ときおり入院された病院で、顔見知りの看護婦さんが長い髪でも切ろうものなら、「男が変わったのだろうか」と大変心配されたということである。

令和7年1月4日 中里無庵
翁の偉業を支えた最大の柱は、誰が見ても糟糠の妻ツヤである。翁と結ばれたツヤの人生の大半は苦難の道であったことは、翁の歩いた道をたどれば歴然としている。
「親爺(無庵翁)さんには苦労しました。今じゃ、苦労の仕がいがありました。ほんなこて私の一生はバタバタ一生でした」
と語る。
口では「ばあさんには勝てません」といっていた翁は逝き、遺体の前でツヤは、
「親爺さん、ようやったな」と心の中で話しかけたにちがいない。
「親爺さんな、仕事のほかは何もでけん人でした」と、いっていたツヤは、翁が逝って二ヶ月ほどたって、軽い病気にかかった。翁を亡くしたツヤの心の弱りは誰にもわからぬところで、ゆるんでいたのであろうか、急に悪化して帰らぬ人となった。
享年八十二歳。

令和7年1月3日 中里無庵
京都大徳寺本坊にて得度した中里無庵は、即日、長男忠夫に十三代中里太郎右衛門を襲名させた。
この日を境に無庵はわずらわしい世俗のことは忘れて作陶三昧に日々を過ごすことができることとなった。
無庵は自分をぐうたら人間ということがあるがこれは一日に僅か三時間位しか眠らず働き通した翁の反言としか思えない。
「遊びというもんを知りませんもん。遊びをちっと知っとったら、もっと良か作品を創ることが出来たと気付き、いざ遊んでみたいと思っても遊び方がわからず、損をしております」
この言葉も翁の体験から出た味わい深いものである。また、遊びを賞賛する言葉の裏に、
「遊びにも夢中になれぬ人間は仕事は出来まっせん。自分は遊びに熱中することができなかったし、仕事も一生懸命しないから、ぐうたら人間ですたい」
との言葉も出るが、身も心も一体になって作陶に一生を捧げた翁なればこその味わいある言葉といえよう。続く

令和7年1月2日 方谷浩明 京都大徳寺第十二代管長
人間国宝・十二代中里太郎右衛門氏との出会いは昭和三十一年博多崇福寺に始まり、氏の己事究明の志深きを以て、昭和四十四年京都大徳寺本坊にて得度、法名洞翁宗白、号無庵を授けました。
以後居士は、参禅、聞法に於いて放逸に過されることなく、日々宗旨研鑽に励まれました。
その途中に良き思い出があります。或る日無庵居士数個の茶器を寺に持参され、その中の一個がどうしても意に沿わず割り捨てたいとのこと、
「お割りになることもないでしょう」と申しますと、居士意外とばかり、
「如何なる意心がおありになるのですか」
「不出来の出来も又良いものです」と答えるに及び、居士、その時遂に転迷解悟の境地に到られました。
爾来 "一拂"(いつぽつ)と銘づけられた其の茶器は、常に私の座右に在り、愛用致して居ります。

令和7年1月1日 中谷孝雄
私は九十一歳になった今でも、ほとんど毎日のように本を読む。そんな私を見て、妻はからかうように云う。
「いつまで生きられるつもりで、そんなに勉強なさるのですか」
「勉強などしてやしないよ。面白いから読んでいるだけのことで、ひとり遊びをしているのだよ」
林房雄君が私の家を訪れたのは、たしか昭和十二年の秋ごろのことであった。彼は私に紙や筆を用意させてこんなことを書いた。「糸瓜曰(へちまいわ)く ぶらりとしても暮らせるよ」私がほとんど仕事をしないのを風刺し、それとなく忠告してくれたのであった。私は感謝もしたが、しかし私は、その日の暮らしが立つならそんなにがつがつ仕事をするには及ばないと思っていた。
私は現在、大津市に在る義仲寺無名庵の庵主をしている。芭蕉を初代の庵主として、私で二十一代目だそうである。
芭蕉は無名庵滞在中、元禄三年の歳旦吟に、
こもをきてたれ人います花のはる
と詠んだ。句の意味は、尊い聖僧が、乞食に身をやつして、新春というのに菰を着ておいでになるかも知れない、というのであるが、この句は、めでたい新春に乞食を出すとは何事かと、京の俳人たちの間で、ひどく評判が悪かったようだ。
芭蕉は彼自身の云うところによると、好きなことをして遊び暮らしたというが、芭蕉のその遊びで、日本文学の歴史に大きなエポックをもたらしたのであり、尊いかな遊び、と遊び好きな私は声を大にして叫びたくなるのである。
福寿草 黄という色の 恵みかな