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令和7年7月27日 | 立川談四楼 |
「面白くねえぞ」 命知らずです。談志をそう野次った客がいました。談志はすかさず「プログラムのどこに面白いと書いてある」と言い返し、あっさり勝負はつきました。楽屋に帰った談志曰く「こういう時はマイクを持っている方が強えんだ」。ごもっともです。 「稽古が仕事 高座は集金」 某所で、橘家文左衛門の色紙を見たら、そう書いてありました。なるほどとしばし唸りましたっけ。 |
令和7年7月20日 | 永六輔 |
僕は「ゼン・平田」さんの相撲のクロッキーが好きで、相撲がはじまると、必ず「日刊スポーツ」でお目にかかった。 僕たちは浅草に行くことにした。 稲荷堂から横丁をへだてて「鳥たこ」という店があり、平田さんは腰高の油障子をあけながら、 「俺は生きているぞォ」 髪をひっつめにした矢絣の女将が、「アラぁ、いらっしゃい」 「鴨なべ、食いにきたァ、精をつけて怪しい振舞におよぶぞ」 「なにいってるの、ここまでくるのがやっとなのに」 ポンポンはずむ会話とはうらはらに、いたわるように手をとって、平田さんをすわらせる女将の色っぽさ。 「抱かせもしないのに優しくするな」 と子供っぽくすねてみせる平田さん。浅草を舞台にした人情喜劇そのままである。 同じ半身不随の渋谷天外と酒井光子の舞台をふと思い出す。 いまでも見かけるトンボ鉛筆のマークは平田さんの作品。図案家と呼ばれたころの作品で、その後、僕はたまたまトンボ鉛筆の社長さんに会うチャンスがあって、平田さんの話をしました。トンボ鉛筆はその後、平田さんの晩年と亡くなった後のご遺族に、きちんと礼を尽くしてくださいました。 |
令和7年7月13日 | 永六輔 |
追分宿の入口に浅間神社があり、ここにもという感じで芭蕉の句がある。 吹きとばす 石は浅間の 野分かな 句碑を建てたのが寛政五年、芭蕉の死後、約百年を経ているが、今から二百年前のものだ。 僕は俳句に興味はないが、旅人としての芭蕉には関心がある。寛政年間、死後百年たって句碑が出来るということは、当時のスターとしても群を抜いた人気がなければ出来るわけがない。 今でこそ、生存中からこの種の文学碑の建つのがブームだが、マスコミどころか、木版画の出版物しかない当時の情報社会である。その知名度の高さが思い知らされる。芭蕉の歩いた道、弘法大師の歩いた道を歩くのは、僕の宿題である |