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「フーガの技法」の概要

−目次−
自筆譜
主題の変形
出版譜
対位法的技術
曲の重複
フーガの種類
様々な作風
演奏楽器
曲のタイトル
音楽史上の意義



目次
「フーガの技法」はバッハが晩年、およそ10年に渡って作り続けた曲集です。
1つの主題を元に、ニ短調による複数のフーガが作られており、
反行フーガ、多重フーガなど曲ごとに異なった様式に取り組んでいます。
最晩年には出版の準備に並行して作曲が続けられていましたが、
残念ながら完成を前にして バッハの視力が低下、作曲が中断され、
曲集の大半は出来上がっていたものの、未完成となりました。

「フーガの技法」には大きく分けて2つの成立段階があります。

第1段階:1742〜1746年頃、12曲のフーガと2曲のカノンを記譜
第2段階:1740年代後半、出版準備、フーガとカノンを2曲ずつ追加

第1段階は自筆の楽譜帳の形で残されており、
のちに出版される曲集の大部分を含みます。
ただし晩年に曲集の出版を企画した際、バッハは様々な変更をしました。
大きな変更点は曲の順序と新曲の追加です。
また、「フーガの技法」の中でも最大の規模を持つ
3重フーガが未完成のまま残されることとなりました。

未完成の曲集は関係者によって若干手を加えられて出版されたため、
様々な問題を生む結果となり、今日なお議論されています。


自筆の楽譜帳
目次
フーガの技法の自筆の楽譜帳には、14ないし15曲の作品が含まれます。
1730年代後半から1740年代中頃にかけて作曲されたと考えられており、
のちの「音楽の捧げ物」や「カノン風変奏曲」へと続く、
一連の対位法的作品群の先駆けと位置づけることができます。

その大きな特徴として、すべての曲がフーガまたはカノンという模倣様式で
作られており、それらはすべて第一曲に示された主題に基づいています。


第一曲の冒頭に示された主題。これがすべての曲の元になっています。

フーガの多くは4声部、すなわちソプラノ、アルト、テノール、バスの
4つのパートからなる合唱曲のスタイルで作られています。
また一部のフーガは3声(ソプラノ、アルト、バス)で、カノンは2声
(ソプラノ、バス)で、それぞれ書かれています。
この曲集では、こうした複数の声部を明瞭に区別するために、
合唱曲のように各声部一段ずつの楽譜で記譜されています。
なお2曲のカノンについては、先に謎カノンの形で記譜され、
そののち完成された曲が示されています。

曲集の中で主題は装飾・変形され、曲ごとに形が変わります。
またそれに新たな主題が伴ったり、2重対位法が用いられるなど、
対位法的に様々な扱いを受けていきます。
個々の曲は無秩序に並べられているわけではなく、そうした主題の扱いや
対位法的技術の種類によって、2曲ずつまとめられています。


出版譜(初版・第2版)
目次
フーガの技法の出版譜は20曲あまりの作品からなる曲集です。
先の自筆譜において1740年代前半にひとまずまとめられた曲集が、
1740年代の後半になって修正され、出版の企画・準備がなされました。

あいにくバッハの死によって出版準備は中断されましたが、
製作途中だった銅版は息子のエマニュエル・バッハに相続され、
彼の企画によってバッハの死後、出版されることとなりました。
1751年に出版された初版と、1752に出版された第2版があります。

出版に当たって、曲集にはいくつかの変更が行われましたが、
基本的には自筆譜と同じく、一部の例外を除いたすべての曲が
フーガまたはカノンという模倣様式で作られており、
それらは第一曲に示された主題に基づいています。


Contrapunctus1の冒頭に示された主題。これがすべての曲の元になっています。
自筆譜の第一曲と同じ曲ですが、拍子が変更されています。

自筆譜同様、複数の声部を明瞭に区別するために、
合唱曲のように各声部一段ずつの楽譜で記譜されています。
ただしカノンについては謎カノンの記譜が省かれています。

また自筆譜では曲の種類によって2曲ずつまとめられていたのに対し、
出版譜では3〜4曲ずつのグループに分けられています。

曲集は未完成に終わっています。というのも、中でも一番規模が大きく、
曲集の頂点をなすと目される3重フーガが、中断されているのです。
しかしこの未完のフーガには、先ほど述べた共通の主題が見られません。
このため、この未完のフーガはフーガの技法の一員ではなく、
実は曲集は完成していたのだという説もあります。
この未完フーガこそが、フーガの技法中最大の謎といえます。


曲の重複
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フーガの技法の出版譜には16曲のフーガと4曲のカノン、
そしてオルガンコラールが一曲含まれています。
このオルガンコラールは病床のバッハが弟子に口述筆記させたものと
いわれており、未完成に終わった曲集の穴埋めとして
追加されたものであることが序文に記載されています。

16曲のフーガのうちContrapunctus10Contrap. a 4の2曲は
実質同じ作品です。すなわち、Contrap. a 4は自筆譜のYと同じもので、
出版譜の出版準備の際、曲の冒頭に22小節書き足されています。
バトラー(Butler,G. 1983)の説によれば、フーガの技法の中で
Contrap. a 4が置かれている位置には、もともと未完成のフーガ
Fuga a 3 soggettiが入る予定でした。それを曲集の最後に回し、
まさにその穴埋めとしてContrap. a 4が加えられたというのです。
復元された配列については曲の順序の表にまとめてあります。

また、Contrapunctus a 3Fuga a 2 Clav.も同じ作品です。
後者は前者を2台の鍵盤楽器用に編曲したもので、新たに1つの声部が
加えられています。この編曲の位置づけについてはレオンハルトの説
(Leonhardt,G.1969)が妥当だと思われます。
すなわちContrapunctus12Contrapunctus a 3の2曲は
音域が広いために鍵盤独奏が困難であり、2人での演奏が要求されます。
4声部のContrapunctus12は1人が2声部ずつ弾けばよいのですが、
3声部のContrapunctus a 3は「1人が片手をポケットに突っ込んで演奏」
することになります。そこで演奏上の便宜を図るため、新たに1声部加え、
2人が2声部ずつ受け持つように編曲したという説です。

以上のような曲の重複や配置の変更により、バッハの本来の構想が
不明瞭となり、後に研究者の論議を呼ぶことになりました。
これもフーガの技法にまつわる謎の1つとなっています。


様々な作風
目次
フーガの技法の中には、古式な声楽やリチェルカーレ、
(当時の)モダンな協奏曲、さらには前衛的なファンタジアなどの
作風が混在しています。譜面の外観が拍子の画一化によって
統一されているため、一見わかりにくくなっていますが、
拍子が画一化される前、すなわち自筆譜においては、
それぞれの曲調に適した拍子記号が用いられており、
より明確に個々の曲の作風をうかがい知る事ができます。

フーガの技法の作風による楽曲構成は、クラヴィア練習曲集第3部
(オルガンミサ)とよく似ています。すなわち声楽風の作品に始まる点や、
付点リズムによる序曲風の作品の挿入、さらには曲集の終盤に
2声の作品があることなどです。加えて言うならば、
クラヴィア練習曲集第3部に含まれる曲も、その多くがフーガ、あるいは
フーガ様式によって書かれた作品となっています。

勤勉で知られるバッハは、過去の作曲家から最新の作曲家まで
広く関心を持ち、そうした作品を演奏し、また自身の作品の中に
学んだものを取り入れています。フーガの様々なスタイルの追求、
あるいは対位法的技術の駆使が目的と思われるフーガの技法の中に、
こうした様々な作風が盛り込まれている事は、この曲集が
学術的なものに留まらず、芸術作品として演奏されるべきものでも
あることを示唆しているのではないかと思われます。
「技法」="kunst"は「技術」と同時に「芸術」も意味しているのです。


曲のタイトル
目次
フーガの技法に含まれる曲の大半には、"Contrapunctus"という
タイトルが付けられています。"Contrapunctus"は「対位法」を意味し、
1つの主題に対して曲ごとにさまざまな対位法的技術が
用いられている事を示しているものと思われます。

バッハがフーガの技法以外の作品の中で"Contrapunctus"という
名称を用いた事はありません。しかし、若いバッハに大きな影響を
与えたとされているブクステフーデの作品の中に同じタイトルが見られます。
バッハがこうした作品、あるいはさまざまな作曲家の作品を見習い、
発展させて作り上げた「曲集」に対するタイトルが「フーガ」の技法で、
個々の曲のタイトルは「対位法」である事は興味深い事実です。


主題の変形
目次
曲集の中でそれぞれの曲に共通して用いられている主題は、
曲ごとに、さらに一曲の中でも、その形を変えていきます。
例えばContrapunctus7においては、大きく分けて6種類の
変形主題が存在します。曲集全体では実に30種類以上にもなります。
中には形が大きく変わり、一見主題と気づかないものさえあります。
その変形主題の数々を、新たな主題を含めて主題一覧にまとめました。

主題の変形の仕方は、以下のように大別できます。
またこれらの組合せもあり、より複雑な変形となっていきます。

反行形:主題を上下逆さまにしたもの
リズム変形:付点音符やシンコペーションによる変形
装飾変形:新たな音符を付加し修飾したもの
拡大・縮小:音の長さを2倍あるいは1/2にしたもの

主題の変形については基本主題とその発展に詳細をまとめてあります。

こうした変形の中に、バッハに固有のものはありません。
いずれもルネサンス時代からバロック時代の前半にかけて
様々な作曲家が実践してきた手法ばかりです。しかしこれらの手法は
明確な定義を与えられず気ままに用いられていたため、
聞き手の混乱を招く事も少なくなかったと思われます。
バッハの作品の中では、こうした手法がより洗練された形で用いられ、
聞き手とって主題変形の手法を学びうるものとなっているのです。


対位法的技術
目次
フーガの技法あるいはあらゆるフーガの中で、もっとも頻繁に
用いられる対位法的技術は、8度の2重対位法です。
主題と対主題、あるいは主題と第2第3の主題は、毎回同じ声部に
示されるわけではなく、その上下位置が入れ替わります。
従って、こうした複数の旋律の絡み合いにおいて、
8度の2重対位法は欠かせないものとなっているのです。

フーガの技法においては、10度あるいは12度の2重対位法も
用いられています。これはフーガとカノンの双方に見られ、
曲のタイトルに明示されています。10度の2重対位法は
Contrapunctus10Canon alla Decimaに、12度の2重対位法は
Contrapunctus9Canon alla Duodecimaに見られます。

さらに高度な対位法として、転回対位法も登場します。
これは主題のような短い旋律の相互入れ替えではなく、
曲全体が上下転回できるように作られているのです。
転回対位法はContrapunctus12Contrapunctus a 3に見られます。
バッハ本人は「転回対位」"Contrapunctus inversus"と銘打っているものの、
一般にこれらの曲は「鏡像フーガ」と呼ばれています。

以上のような様々な技法について、
分析室0対位法的技術に詳細をまとめてあります。

こうした対位法技術、特に2重対位法については、他の作曲家も
しばしば言及し、あるいはカノンなどによって模範を示しています。
例えばタイレ(Theile,J. 1646-1724)の曲集「音楽技法書」では、
1つの短い2声カノンを題材にして、2重対位法による声部の入れ替えで
派生する20もの組合せをすべて楽譜に示しています。しかしこれらは
あくまで組合せの例に過ぎず、作品といえるものではありません。

バッハは2重対位法による旋律の様々な組合せを示すと同時に、
それを曲にまとめ上げ、単なる学術的な範例を超えた
実践的作品にした点で、他の作曲家とは一線を画しています。


フーガの種類
目次
フーガの技法に含まれる曲は、以上のような主題の呈示の仕方や変形、
あるいは対位法的扱いなどによって以下のような種類に分類されます。

単純フーガ
反行フーガ
縮小・拡大フーガ
2重・3重フーガ
「鏡像」フーガ
カノン

ただし、中には複数の種類にまたがっている曲もあるので、
単純には分類できません。例えばContrapunctus7は、
反行、縮小、拡大の3つの要素が含まれています。

どの曲の中でどんな様式が用いられているかについては、
フーガの様々な様式に詳細をまとめてあります。

バッハはフーガの技法の中で、個々の曲をフーガの種類によってまとめ、
配列しています。どの曲がどんな種類に該当するかは、
主題一覧あるいは研究室の曲の順序において表にまとめています。

バッハはその生涯の中で数多くのフーガを作り上げましたが、
その中で用いられているフーガの様式は、すべてこのフーガの技法に
網羅されています。また転回対位法によるフーガのように、
他の作品にはあまり見られない対位法的技術も用いられています。

逆にフーガの技法には、平均律クラヴィア曲集などほかのフーガに
しばしば伴う相方が欠けています。それは「前奏曲」です。


演奏楽器
目次
フーガの技法に含まれる曲は、一部の例外を除いて、
一台の鍵盤楽器で演奏することができます。
しかし先に述べたとおり、曲集中のすべての曲が合唱曲のように
各声部1段の楽譜、すなわちオープンスコアで書かれています。
バッハはいかなる楽器での演奏を想定していたか。
これもフーガの技法の謎の1つです。

ルネサンス期の鍵盤作品には、オープンスコアで記譜されたものが
少なからずありました。鍵盤作品であることが明らかな作品が、
オープンスコアで書かれていた伝統を取り上げ、フーガの技法も
鍵盤作品であるとする説があります。加えて言うならば、
バッハの合奏曲の中に両手で演奏できるものはありません。
なお上で取り上げたレオンハルトの論文(Leonhardt,G.1969)では、
フーガの技法の中から鍵盤作品にしかありえない部分を取り上げ、
説得力のある説明をしています。

しかし、ルネサンス期の鍵盤作品の中には、
合奏で演奏されても良いと明言されているものもあります。
その場合のオープンスコアは、絡み合う対旋律を明瞭にするだけでなく、
合奏での演奏を行う上での便宜でもあるのです。
バッハが伝統を踏まえた記譜を意識していたなら、「鍵盤曲であるが、
合奏でもかまわない」という解釈が妥当かもしれません。

フーガの技法が特定の楽器の音色にこだわった作品ではないことを、
ピアニストであるグールド(Gould,G. 1932-1982)も雄弁に語っています。
楽器やその編成よりも構造が重視されていたのだと。


音楽史上の意義
目次
フーガあるいはそれに類似した様式の曲が大きな発展を遂げた時代、
まだ現在のような平均律は確立されていませんでした。
楽器は曲の調に従い、その都度調律して用いられていたのです。
そして1つの調律の中で美しく響く和音は限られており、
遠隔調への転調は考えられませんでした。

使用できる音に制限のある中で、フーガを表情豊かなものにするために、
作曲家たちは多くの主題を用いたり、即興的なパッセージを挿入したりと、
様々な工夫を凝らしてきました。そうした中で生まれてきたのが
多くの部分からなるフーガです。曲をいくつかの段落に区切り、
段落ごとに拍子を変えてゆきます。最初の段落に示された主題は
段落が変わるごとに拍子に合わせてその形を変えていきます。

遠隔調への転調の欲求が高まってくると、調律に工夫が施され、
次第に平均律に近い調律が出来上がってきました。
すると曲の様式や構成への工夫よりも音色の工夫が優先され、
フーガは段落の少ない単一主題の物が好まれるようになりました。
しかしそうした中でも多部分のフーガは一部の作曲家によって
作られており、やがて一曲の中の各段落が独立するにいたりました。
「同じ主題に基づく複数の曲」というコンセプトが生まれたのです。

フーガの技法はこれと同じコンセプトで作られています。
そこにはバッハが学んできたフーガの様々な様式や対位法技術が
盛り込まれており、バッハにとっての集大成であるばかりでなく、
バッハ以前の作曲家たちが作り上げた対位法音楽の要素が凝縮されており、
「フーガ史」の集大成であるといっても過言ではありません。

その価値はバッハの死後、多くの作曲家たちによって見出されました。
モーツァルトはフーガの技法のContrapunctus8を弦楽三重奏に編曲し、
ツェルニーは自ら校訂したフーガの技法を出版、その師である
ベートーフェンもその出版に賛辞を寄せています。
そのベートーフェンが主題とその変容による多部分からなるフーガ=
「大フーガ」op.133を作り上げた事は、単なる気まぐれではないでしょう。

バッハ以後の作曲家が作り上げたフーガは、そのほとんどが
バッハのフーガを学び、影響を受け、あるいは着想を得て作られています。
フーガは影を潜めていても、その精神は受け継がれているのです。

フーガの技法が現在どのような意義を持つか、
それはフーガの技法を楽しむ我々一人一人がよく知っています。


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