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W−3 好きな自然と価値ある自然(18)

 自然の価値は好き嫌いの次元で扱うべきでない、という設問である。

 私もブナは好きである。北陸のある県での勤務の時、休日には身近にある山の自然を楽しんだ。自然はどれもすばらしいのだが、とりわけブナ林が標高の高い急な斜面などにわずかに残されているのを見ると、その稀少さが有り難いということもあるが、新緑の頃など、ブナの葉の薄緑色の下の明るい地表に、ユキツバキの赤桃色の花が配されているのを見ると、自然の造形ながら色彩豊かなのが美しく、神が一幅の絵を人間にくれたのだとまで思えてしまう。

 下山途中に植林地に至る。そこでは植林時から長い時を経て、現在では伐採の経済効果が薄くなって、結果として切り出されることなく朽ちていく杉などに哀れみ、また林業経営の無策を思うと、風景までが憎らしくなってしまう。ただ、枝おろし、間伐などの管理をしなくなっているので、人工林と言っても、自然そのものになりつつあるのだが。

 全然違う事例だが、元々蛍のいない場所に蛍の生息する水路を作り、清澄な河川を願うあまり、鮭を、水質がまだ完全には改善されていないのに、棲息するようにと、いち早く放流することがはやった。ブナを、場所を選ばず、植林する運動もある。いずれも人間に好まれた結果だが、蛍、鮭、ブナは自然の条件が合えば、無理して導入しなくても、「自然と」その場所に根付くものだ。前記の場合でも、もし条件が合わなければ、いったん人工的に導入しても長続きはしない。合わないものを持ってくると生態系の破壊につながることもある。

 このような好まれる自然というものを否定はしないが、自然保護というからには好みの問題ではなく、守るに値する「価値ある自然か」という言い方の方が正しいだろう。世界遺産に指定されている青森秋田県境の白神山地のブナの森は、太古から続き、その面積も大きくまとまっていることから、価値があると言える(たまたま景観もよく、好まれる自然でもある)。だからブナがよいのだと言って、必ずしもブナの適地でない場所に植林することは、自然保護とは無縁で、好きな自然だからだろう、あるいは水源涵養のための植林(これは林業そのもので、立派な行為ではある。ただブナにかぎらず適応樹種がよい)にはなるが、と言われても仕方がない。杉などの針葉樹は、林業の対象になり、そのためもとからの広葉自然樹を伐採する原因となるというイメージで、嫌いな人でも、富山県の立山山麓の自然樹である立山杉の森は、ブナと同じ理由で、価値ある自然であることを認めてもらわなくてはならない。

 人工林でも秋田杉の植林地など、よく手入れされ下草が刈られ、まっすぐ伸びた樹形と木々の間の空間の薄暗く冷涼とした雰囲気など、景観としてもすばらしいと思うのだが、ブナの好きな人にも同じ理由プラス「林業も人間社会には不可欠なもの」という理解で、「好きな自然」に入れてほしい。

 ここまで言うと、ブナ派の人は、ブナの森の自然の豊かさと保水力が大きいことを主張し、好きなだけでなく大切だからと反論するだろう。しかし、自然の豊かさとか保水力とかは、程度の違いはあるが、どの森にもあるし、極端なことを言うと倒木更新中の草原にもそれなりの機能はあると考えられる。大事なことは、林業経営がもし必要であるなら、ブナなどの在来樹を皆伐する事を避け、随所に切り残すなどの混交林の状態にするべきだと要求することである。混交林は自然が多様で、治山上の機能も残り、何よりも秋の紅葉時に広葉樹の赤黄に加え針葉樹の緑も加わり、より美しいと思うのだが。

 

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