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| 令和8年3年22日 | 御木本幸吉 |
| 世界で初めて真珠の養殖に成功した。昭和二年、渡米の際、尊敬する発明王エジソンを訪ねた。自分がどうしてもできなかったことが二つある、とエジソンが語った。一つはダイヤモンド、もう一つは真珠を造ることだ。幸吉は自分の体験を話し、種明かしするのは、あなたが初めてです、と言うと、エジソンは涙を流して喜んだ。 明治三十八年、天皇が宇治山田に行幸された際、召されて説明した。「世界中の美女の首を真珠で締めるのが夢です」と述べて、背後に控えた三重県知事に突かれた。 「禍い転じて福となす」が幸吉の処世の標語であった。こうも言う。「短い人生において、生きがいのある仕事をするには、ためらいは禁物である」 |
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| 春分や何をするでもなく暮れて 来し方は霞の奥に隠したし |
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| 令和8年3年15日 | 結婚式 |
| 結婚一周年を「紙婚式」と言います。以下並べてみましょう。 2藁、3革、4花、5木、6鉄、7銅、8青銅、9陶器、10錫、11鋼鉄、12絹、13レース、14象牙、15水晶、20磁器、25銀、30真珠、35珊瑚、40ルビー、45サファイア、50金、55エメラルド、60ダイヤモンド、その後はすべてダイヤモンド婚式と言うんだそうな。ま、その辺が我慢の、もとい、寿命の限界でしょう。 仲のいい老夫婦はいいものです。しかし果たしてどのくらいの夫婦がそんな老境に到達できるでしょうか。 |
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| ピアスした子からまず泣き卒業歌 | |
| 令和8年3年8日 | 俳号 |
| 俳号の付け方に、これといった決まりはない。例えば、高浜虚子という俳号は本名「清」=「きよし」から「きょし」=「虚子」と変化させての命名。「虚」の字が何やらカッコイイではないか。 正岡子規の「子規」は時鳥(ほととぎす)の別名。喉の奥が赤く「鳴いて血を吐く」という故事を持つ時鳥に、喀血した自分を重ねた。 うたたねの本落としけり時鳥 正岡子規 |
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| 令和8年3年1日 | 夏井いつき |
| 愛読者カードにこんな句が記され、「なぜか涙がとまらなくなった」と書き添えられたお便りがあった。 さきすさぶさざんかさざんかかなしむな 夏井いつき さざんか(山茶花)が冬の季語。花のかたちそのままに落ちる椿とは違い、山茶花は花弁がばらばらと散っていく。 「なぜか涙が」というその方の事情を、私は知らない。が、固く閉じ込めていた感情が何かのきっかけで溢れ出す時の涙を、私は知っている。愛読者カードに書かれた「涙」とは、そんな種類の涙に違いない。 |
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| 令和8年2年22日 | 川柳 田辺聖子 |
| ちりぢりに友は大人になりにけり 浅井五葉 これは川柳というより、俳句の味がありますね。これは季が入っていないだけで、俳句的ですね。人生を眺めていますでしょう。これは学友たちなのかしらね、卒業したりすると、小さなころからの遊び友達も、みんな、それぞれの運命に従ってばらばらに別れてしまう。一種のさびしさもあるし、時間がたった感慨はあるし、友達への思いもあるし、それを五七五でこんなにきれいに仕立てられるのは、浅井さんずごい腕前ですね。 「大人になりにけり」というところ。人の世のいろいろがにじみ出ている。それ相応にみんなが大人になってゆく人生の感慨。 |
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| 令和8年2年15日 | 川柳 田辺聖子 |
| 貧しさもあまりの果てに笑い合い 吉川雉子郎 これは昔から吉川英治先生の句として有名、これは本当のことだったんだって吉川先生は書いていられました。 年末、次から次へと、掛け取がくる。集金人ですね。とりに来る度に、あちこちちょっとずつ、ちょっとずつ渡すんだけど、払うほうもチエを出して、「みな払ってしまうと縁が切れたようにさびしいから、少し残して御縁をつなぐように」なんてうまいこと言って。しまいにすっからかん。渡すものがなくなって、吉川先生、そんなこともエッセーで書いていらしたと思います。 「あまりの果ては笑い合い」というのは、戦前の日本だったら、普通の庶民は、きっと実感したと思います。 |
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| 令和8年2年8日 | 川柳 田辺聖子 |
| このご恩は忘れませんと寄りつかず 太田佳凡 これはもう人の世にはかなり昔からあることだ。大概は、この通り、忘れないから寄りつけない。行くたんびにまたお礼を言ったり、ものを持っていかないといけない。恩を受けたところは、やっぱり敷居は高いのである。 自分の困ったときにいろいろ親切にしてもらったのだけど・・・。 |
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| 令和8年2年1日 | 川柳 田辺聖子 |
| 金もなく朝日まばゆき家に住み 岸本水府 この句、一瞥した人は思わず笑い出すであろう。朝日を持ってきたのがいい。 自足していて、だから句に、のんびりした温かみがあって、読んでいる人は笑ってしまう。 この句を目にした人は思わず失笑、口々に言うであろう。 「うちは最低やな。金もないし、朝日も射せへんし」 「そのかわり夕日が射しますがな」 「あれが暑うてな」 「やっぱり最低やな」 |
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| 令和8年1年25日 | 松田権六 |
| わが国には、中国伝来の三大名銅鑼というものが遺されている。その一つが益田鈍翁の所蔵であった。ある日、まだ若かった魚住さんが自信作の銅鑼を下げて鈍翁を訪ねた。鈍翁は、持参の銅鑼を鳴らす前に、自慢の名銅鑼の音を魚住さんに聴かせた。魚住さんは、その銅鑼の音のあまりすぐれたのに打ちのめされてしまった。とうとう自分の銅鑼を鳴らすことなく鈍翁宅を辞した魚住さんは、銅鑼づくりの研究に一心不乱となる。努力を重ねること数年、金目のものは住む家に至るまで、総てを抵当にし、ついに中国の名銅鑼に劣らぬ音色のものを完成させた。そして第一回指定の人間国宝に選ばれている。 良い銅鑼とはどんな銅鑼をいうのか。 ふつう銅鑼は、叩くとその瞬間は音が大きく、次第に消えゆくように小さくなるものである。ところが、名銅鑼といわれる銅鑼の音は、叩いたあと次第に大きく膨らむように高鳴るのである。鈍翁の銅鑼は一分二十秒も鳴り続けるという。 魚住さんは、遂に鈍翁にもその技量の抜群であることが認められ、為楽の号を賜ったのである。 |
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| 令和8年1年18日 | 松田権六 |
| 漆というのは不思議な樹液である。主成分を漆酸あるいはウルシオールという。まず漆は独特な乾き方をする。漆が乾くというのは洗濯物の乾くのとはわけが違う。漆液が大量の酸素を吸収し、そのゴム質に含まれているラッカーゼの作用により液の酸化が進み、液体から固体に変化し硬化することが、漆が乾くという意味である。だから漆を乾かすにはむしろ適当な湿気を与えなければならない。湿気中の水分が蒸発し、その中の酸素が漆に作用して漆の酸化作用が促進されるからである。 あるいはまた、漆酸はいったん乾燥するときわめて堅牢になる。簡単にこれを融かすことはできなくなる。塩酸、硝酸、硫酸、王水、いずれにつけても漆酸はびくともしない。 |
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| 令和8年1年11日 | 炬燵にて 石田公男(神奈川県 73歳) |
| 私が心臓のバイパス手術を受けて、麻酔から覚めたら、真上に愛子の顔があった。「お父さん」とやさしく声を掛けてくれたあの心配そうな顔は今でも忘れられない。あれから二十四年。今年は結婚四十五年だね。 この間波風も立った。喧嘩したあと、私のヘソクリを見つけて「子供たちと、おいしい物を食べてきた」と言われた時は参った。今は懐かしい思い出だ。先日ふたりで炬燵に入っているとき、「私ね、お父さんと結婚してよかったと思っているわよ」と言われた。高望みせず小さな幸せを大事にしていこうという気持ちに感謝している。 子供達も嫁ぎ、余生を送る身になったけど、老いの楽しさもあるよ。縁あって一緒になった愛子の一生を大切にしてあげなければと、つくづく思うこの頃だよ。これからも頼り合い仲良く暮らそう。私の自作の川柳を添えておくよ。 幸せか 妻の寝顔に 聞いてみる |
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| 令和8年1年4日 | 森鴎外 |
| 公私ともに成功者として君臨したかの森鴎外は、晩年にこんな言葉を残している。 「中夜、忽然として坐す。無言にして空しく涕洟(ていい)す」 あの鴎外先生が、夜中の座敷にひとり正座し、手で顔をおおい、ぐしゃぐしゃに涙と鼻水を垂らして泣きじゃくっている姿は、なかなか想像することがむずかしい。森鴎外が「無言にして空しく涕洟す」とつづったこの感情は、明治の頃によく使われた言葉、<暗愁>である。 どんな人の人生も、結局はままならないものだ。そもそも、人は自分で自分の生まれ方を決めることができない。また、人の一生は日々、ひたすら死へ向かって進んでいるだけだ。そして、人生には必ず期限がある。これらの三つのことがまざまざと感じられたとき、人間はどうしようもなく、人生のはかなさや、やるせなさを感じ、わけもなく深い思いの淵に沈んでしまう。この感情を<暗愁>と呼ぶのではあるまいか。 |
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| 令和8年1年3日 | 香川県 越智由美子 25歳 |
| 「由美子、こずかいの500円、何カ月か貯めてごらん、もっと大きなものが買えるよ」それは小学校5年の時。 父はウサギの貯金箱を私に渡してそう言いました。それ以来、毎月500円を貯めることにしたのです。 ある時、父が仕事中の事故で腰を痛め入院しました。退院後も痛みが取れず、母に腰をもんでもらっている姿に、ひどく悲しい思いがしたものです。このままケガが治らなかったらどうしよう。私は貯金箱を開け、近所の薬局に行って、痛みの取れそうな薬とサポーターを買い、父に手渡しました。父は涙を流して喜んでくれました。父の笑顔を見るのは本当に久しぶりのことでした。 という話を、私はつい2年前まで、すっかり忘れていたのです。ところが私の結婚が決まって、父と主人がお酒を飲みに行ったとき、父はこの話を彼にしたのでした。そして最後に、涙を流しながら言ったそうです。 「あいつは昔から、一見キツイようだが、本当は優しい子なんだ。大切にしてやってくれ」 主人からそれを聞き、胸がいっぱいになりました。そんな小さなことを父がちゃんと覚えてくれていたなんて・・。 いまもあの"ウサギ"は壊れることもなく、父のそばで元気にしています。 実家に行き、大切に飾られたその貯金箱を棚に見つけるたび、何だか幸せな気分に包まれる私です。 |
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| 生きて行こう こう呟いて見る 雲は冬 | |
| 令和8年1年2日 | ジャポニスム |
| 1878年のパリ万博に尾形光琳の名作「八橋蒔絵螺鈿硯箱」が出品された。光琳は光悦、宗達、乾山と並び称される、日本近代美術史における最高峰の芸術家である。 「装飾画派」の名称で呼ばれるこの四人の芸術家がいたことを、私は日本人の一人として、非常に誇りに感じる。 装飾画とは、建物を飾る壁画や襖絵、屏風絵、和歌や経文をしるす料紙の下絵、扇や団扇の絵模様など、「広く何かを装飾する目的で描かれた絵」のこと。画家が自己の個性を直接強く表現する近代の純粋絵画とは区別される。 その意味で日本の絵画の大部分は装飾画に属することになる。 |
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| 光陰の矢の串刺しや鏡餅 | |
| 令和8年1年1日 | 元旦 |
| 一年に春夏秋冬があるように、人生にも四季がある。 青春のときはもうすっかり霧の彼方、ぼやけて見えない。 朱夏のとき、私にもあった。妻と子供のために張り切って生きていた頃。 白秋のとき、子供が巣立って妻と二人ゆるゆると秋の日差しを楽しもうと思っていたのに、陶芸教室を始めてしまった。 今、ここかな。玄冬のとき。まさにこれから、二人生きる老い。どうなっていくんだろう、この二人。 どうしたって老いることをあれこれと考えずにはおれない。 若い頃は、老いは余得のように、人生の終わりにほんのちょっぴりおまけでくっついている時間と思っていた。 人生を遡ってみると、結婚し、子供が生まれ、子供が結婚、孫が生まれ、親の看取りと年表にしてみるとイベントの多くは、ほぼ五十代から六十代までに集中している。それからは平穏、悪く言えばヒマ。老後は長いんだと驚いた。老いの時間は子供の時間と同様人生の最初と最後に与えられた自由に生きられる時間ではないだろうか。安心して楽しんで生きたい。 |
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| クローズアップ下諏訪の表紙と下諏訪市民新聞の元旦(巧い・上手い)号に掲載されました。 | |