令和8年5月24日 井原西鶴
井原西鶴は関西を代表する浮世草子・人形浄瑠璃の戯作者。
浮世の月 見過ごしにけり末二年
(人生五十年というのに、二年も長生きして、浮世を見過ぎたかもしれない)
浪花の町人作家井原西鶴は、きれいごとなど、とことん信じていなかった。商人の子で若くして愛妻を亡くし、盲目の娘にも先立たれて不孝と道連れだった。だが、不運をはねのけ、浮世草子というスタイルの小説を編み出した。
即吟で知られる俳諧師だった西鶴には、「人間は欲に手足のついたる物ぞかし」や「世に銭ほど面白きものはなし」などの句があり、金と色恋が好きで、本音で生きる浪花庶民の代弁者だった。「好色一代男」「世間胸算用」など、色恋と金銭に振り回される主人公を登場させ、これが人間だと笑っている。しかし、自身は欲の亡者になり果てず、さっさと世を見切って去って逝った。元禄六年八月十日病没。五十二歳の働き盛りだった。
時雨きてかっこうの声遠く 渥美清

令和8年5月17日 花斗秀男
作家・夏目漱石と、親交のあった津田青楓は洋画から日本画に転じ、昭和五十三年に八十八歳で亡くなった。後日、私は津田夫人より、青楓が大切にしていた名墨を譲り受けた。
その墨は、中国の明時代のもので「萬歴年製」と銘があった。墨の長方形の形は、ほんのちょっと使っただけで、造られた時の姿に近かった。墨を包んだ布には、青楓の筆で「清の墨客より、富岡鉄斎(日本文人画の最後の傑人・大正十三年八十八歳没)の有となり、その後漱石山房に渡る。山房から、縁あってわが庵に来る」というようなことが記されていた。
この名墨がわたしの手元に来た折、ある古老に見せた。古老曰く「人の命は短く、名墨の命は長し」。
中国の教養とは、まず硯、墨、筆、紙の「文房四宝」から入って、「文房四宝」に如からずとも彼は語っていた。
「坊ちゃん」は夏目漱石年譜によると、明治三十九年に発表された。その時、漱石は三十九歳であった。当時を思うと、硯と墨は、「坊ちゃん」を手にしていた読者の座右にあり、「文房四宝」は共有する話であったのだろう。
さらに年譜を見ると、漱石はなんと十年後の大正五年十二月九日、四十九歳で永眠、となっている。

令和8年5月10日 川柳 田辺聖子
飽食と惰眠 夢も貧しくなりにけり
なんとかなりますよ と言うのは他人

令和8年5月6日 浅田次郎
星に願ったためしはない。幼い私は、おのれのほかに頼むべき人や神のこの世にないことを知った。困ったことには、社会に依存するばかりか、周囲の人々さえもみな社会の一員であると錯覚して、あたりかまわず他人に依存心を抱く人間が多くなった。
日は短く星は昴(すばる)
以て仲冬を正す

私は『尭典』に曰くこの言葉に憧れた。
星は潔癖である。星は孤高である。私の好きな夜空の星々の姿を、これほど端的に正確に言い表している言葉はなかった。
「スバル」は外来語のように思えるが、実はかの枕草子に書かれているごとく、れっきとした和名である。
その語源は多くの星々が集まる「すまる」であるとも、天空を「統(す)べる」という意味であるとも、また天照大神が身につけていた「みすまるの珠」にちなむとも言われるが、定かではない。

令和8年5月5日 鯉のぼり
鯉のぼりの歌はご存じのように二曲あります。「鯉のぼり」と「コイノボリ」です。
大正二年、文部省唱歌として発表された「鯉のぼり」はいまだ作詞者、作曲者ともに未詳のままです。
♪甍の波と 雲の波 重なる波の 中空を
橘かおる 朝風に 高く泳ぐや 鯉のぼり

勇ましく元気のいいこの歌に比べ、昭和六年に「エホンショウカ ハルノマキ」に発表された「コイノボリ」は幼児向けの口語体でわかりやすく、鯉の親子ののどかさが伝わってきます。作詞は未詳、作曲は 小出浩平。
♪ヤネヨリ タカイ コイノボリ
オオキイ マゴイハ オトウサン
チイサイ ヒゴイハ コドモタチ
オモシロソウニ オヨイデル

令和8年5月4日 続 渡辺文雄
福瀬餓鬼さんは書家であるから紙には関心が強い。あるとき素晴らしい紙が手に入った。煮?箋と呼ばれる中国の名紙四枚が手に入った。そのうち二枚を中川先生に進呈した。だが先生は「ありがとう」と言ったきりでほとんど関心を示さない。
それどころか奧から一枚の紙を持ってきて「良いだろう」と福瀬さんに見せる。見るとそれは障子紙であったという。
呆れ返って「あ、この人は紙がわからない」と思ったそうである。
だがその後で先生のアトリエに行って、間違いなく三百枚以上はある煮?箋の一束を見て愕然としたそうである。聞けば知り合いの画商が置いていったという。
そのとき障子紙を見せながら「良いだろう、暖かいだろう」と言ったあの先生の一言が改めて心に重く拡がったそうである。
名前も肩書も関係ない。先生が良いといったものは、先生にとってはあくまでも良いものなのである。
ここでもまた、先生は誰にも迷惑はかけないが、しかし自分勝手なのである。

令和8年5月3日 渡辺文雄
書道家の福瀬餓鬼さんとの対談の中身のほとんどは、あの中川一政先生の思い出話だった。
お二人の共通項はいうまでもなく書である。
「最初の印象ですか。偉ぶらない、見下さない、そしてあわてない。でもただのお爺さんでした。だからこっちも言いたいことを言いました」そして福瀬さんは足繁く中川邸に通うことになる。
「書ですか。なんて下手な、というよりもなんて自分勝手な字を書くとんでもない爺さんだと思いました。それが徐々に、じわじわとそのすごさ、偉さをわからせてくれました。それも言葉で私にわからせようとしたことは一度もありませんでした。言葉でなくそのことを私にわからせ、私の人生を変えてしまったことがあります」
じつは福瀬さんには、ずっと書の神様だと思う書の大家の先生がいた。
そんなに偉いと思っている先生なら一度会わせてあげると、ご自分の展覧会に招きあわせてくれました。
「そして私の目から鱗が落ちました。一目瞭然でした。自分の憧れの志の低さを思い知らされました」
これといった二人の先生のやりとり会話は、一切なかったにもかかわらず、その二人のありようを見ていて思い知ったのだそうである。そして最後に中川先生が一言いったそうである。
「よかったね。とにかく会えて」 続く

令和8年4月26日 五木寛之
目の前にあるものはすべて変わっていく。人間も老いてゆく。病を得る。そして死んでいく。天地自然も変貌していく。春も夏も、あっという間に過ぎていく。みんないつかは別れなければならないのだ。そういう気持ちを抱いて生きていくことはとても大切なことかもしれない。そこから、今を惜しむ気持ちが生まれ、万物への愛が生まれてくるからだ。
神護寺の薬師如来坐像は神護寺の変遷とともに、さまざまな人々の人生を見守り続けてきた。赤みを帯びた唇から、覚悟して生きなさい、という言葉がこぼれてきたような気がした。
また、雨粒が落ちてきた。私は神護寺をあとにして、清滝川の上流にある西明寺の門前の指月橋まで歩いてみた。清滝川は連日の雨で水かさが増し、勢いよく流れている。指月橋の丹塗りの欄干にぬれたもみじの葉がはりつき、それに隠れるようにして、カタツムリがしっかりとしがみついていた。カタツムリも必死に生きているのだなと、ふと思った。

令和8年4月19日 続 角田光代
そのとき私はある小説で、直木賞にノミネートされ、落選していた。
選評にはその小説の救いのなさを指摘したものがいくつかあった。けれど私は世の中にはそうかんたんに救いなんかないと思っていた。けれどそうして書いている小説は、何かが決定的に足りないことも自覚していた。
この老編集者の言葉の意味がわかったのは、その旅行からしばらく後だった。救いはないと断じるのなんて簡単なことだ。そこから信じられる救いをつかみ出す、そういう小説こそ力を持ち得るのではないか。彼が言っていたのはそういうことじゃないか。そうして書き出した小説で、一度逃がした賞をいただいた。
私はようやく頭と体のぜんぶで理解したのだ。三十四歳年上の編集者が、小娘に言い続けたことを。彼が、長い編集者生活から産み落とした真実の言葉を、作家気取りの小娘に惜しげもなく伝え続けていたことを。
2010年の春、この編集者は亡くなった。デビューしてから、つまり私が彼にはじめて会ってから、ちょうど二十年目だった。

令和8年4月12日 角田光代
子供の頃から言葉にかんして懐疑的だった。だから、記憶に残っているいろんな人の言葉は、みな、かっこわるかったり、何気なかったりする一言だ。あとは、その人の長年の経験から産み落とされた、借りものではない言葉。
私より三十四歳年上の編集者に、「あなたは希望を書かなくては駄目だ」と、言われたのは七年前のことだ。会ったときからすでに白髪で、デビュー当時からの私の小説についてずっと「厭世的すぎる」と言い続けていた。その言葉を、言われるたび私は聞き流していた。年長の編集者が作家気取りの小娘に優位性を示すために、だめ出しているんだろうと思ったからだった。
その編集者は十数年前には定年退職し、それでも小旅行で顔を合わせる機会があった。件(くだん)の老編集者が私の隣にきて、言った。「なあ、世の中に残っている小説は、全部希望を書いているんだ。残る小説にするには、希望を書かなければだめだ」と。
続く

令和8年4月5日 喜入敏文 富山市 39歳
何の取り柄もなく、会社でもうだつが上がらない俺。生活のためだと頭を下げ、上司に媚びへつらうこともある。そして、ツマラナイことを忘れるために同僚と愚痴をこぼし合い、まずい酒ばかり飲んでいる。仕事だから、付き合いだからと大手を振り、休みの日はゴロゴロするばかりで、家のことはすべてお前任せ。
でも、この前の日曜日、お前が洗濯物を畳んでいる後ろ姿を見たとき、その姿が、ひと目惚れした二十代の頃とはまるで違っているのに気が付いた。うなだれた首、背中は丸くなり、とても小さく弱々しく見えた。
俺は何をやってるんだ。ここはウソをつく必要のない、自分にとって一番大事な人間がいる。こみ上げてくるものを抑えられなかった。誕生日とクリスマスにはまだ遠いけど、俺の全力をかけたヘソクリで、家族みんなでゆっくり温泉にでも行こう。丸い背中を伸ばしてくれ。頼む、お前のために、家族のために何かさせてくれ。

令和8年3月29日 立ち上がる力に春は 夏井いつき
さかしまにさへづるさへづるさみしいか 夏井いつき
「さへづり(囀)」は春の季語。桜に集まってくる鳥の中には、体を逆さまにして花の蜜を吸うものたちもいる。
道後の上人坂伊月庵前には、細い鏡面仕立ての柱が立っている。その鏡面には、この句が白字でカッティングされている。
伊月庵宛てにお手紙が届いた。親友三人と松山に旅行し、伊月庵の前で記念写真を撮ったそうな。「撮り終わり、振り返ったら『さかしまに』の句が目に飛び込んできました。そのとたん、なぜか分からないけど立ち竦んでしまい、ボロボロと涙が出てきました」と綴ってある。
「親友たちは、このところ私の身に起きた様々な出来事を知っているものですから、急に泣きだした私の背中を擦ってくれたり、抱きしめてくれたりしました。私は、自分が、本当は、ずっと淋しかったんだということに気づきました。気づけてよかったと思います。ここから新しい自分が生まれてきそうです」と、手紙は結ばれていた。
自分の句が誰かの心に届くとは、時空を超えて悲しみや淋しさを共有すること。一人ではないという思いが心の柱となれば、人は立ち上がれる。歩きだせる。私は、そんな俳句の力を信じてやまない人間の一人だ。

令和8年3月22日 御木本幸吉
世界で初めて真珠の養殖に成功した。昭和二年、渡米の際、尊敬する発明王エジソンを訪ねた。自分がどうしてもできなかったことが二つある、とエジソンが語った。一つはダイヤモンド、もう一つは真珠を造ることだ。幸吉は自分の体験を話し、種明かしするのは、あなたが初めてです、と言うと、エジソンは涙を流して喜んだ。
明治三十八年、天皇が宇治山田に行幸された際、召されて説明した。「世界中の美女の首を真珠で締めるのが夢です」と述べて、背後に控えた三重県知事に突かれた。
「禍い転じて福となす」が幸吉の処世の標語であった。こうも言う。「短い人生において、生きがいのある仕事をするには、ためらいは禁物である」
春分や何をするでもなく暮れて
来し方は霞の奥に隠したし

令和8年3月15日 結婚式
結婚一周年を「紙婚式」と言います。以下並べてみましょう。
2藁、3革、4花、5木、6鉄、7銅、8青銅、9陶器、10錫、11鋼鉄、12絹、13レース、14象牙、15水晶、20磁器、25銀、30真珠、35珊瑚、40ルビー、45サファイア、50金、55エメラルド、60ダイヤモンド、その後はすべてダイヤモンド婚式と言うんだそうな。ま、その辺が我慢の、もとい、寿命の限界でしょう。
仲のいい老夫婦はいいものです。しかし果たしてどのくらいの夫婦がそんな老境に到達できるでしょうか。
ピアスした子からまず泣き卒業歌

令和8年3年8日 俳号
俳号の付け方に、これといった決まりはない。例えば、高浜虚子という俳号は本名「清」=「きよし」から「きょし」=「虚子」と変化させての命名。「虚」の字が何やらカッコイイではないか。
正岡子規の「子規」は時鳥(ほととぎす)の別名。喉の奥が赤く「鳴いて血を吐く」という故事を持つ時鳥に、喀血した自分を重ねた。
うたたねの本落としけり時鳥 正岡子規

令和8年3月1日 夏井いつき
愛読者カードにこんな句が記され、「なぜか涙がとまらなくなった」と書き添えられたお便りがあった。
さきすさぶさざんかさざんかかなしむな 夏井いつき
さざんか(山茶花)が冬の季語。花のかたちそのままに落ちる椿とは違い、山茶花は花弁がばらばらと散っていく。
「なぜか涙が」というその方の事情を、私は知らない。が、固く閉じ込めていた感情が何かのきっかけで溢れ出す時の涙を、私は知っている。愛読者カードに書かれた「涙」とは、そんな種類の涙に違いない。

令和8年2月22日 川柳 田辺聖子
ちりぢりに友は大人になりにけり 浅井五葉
これは川柳というより、俳句の味がありますね。これは季が入っていないだけで、俳句的ですね。人生を眺めていますでしょう。これは学友たちなのかしらね、卒業したりすると、小さなころからの遊び友達も、みんな、それぞれの運命に従ってばらばらに別れてしまう。一種のさびしさもあるし、時間がたった感慨はあるし、友達への思いもあるし、それを五七五でこんなにきれいに仕立てられるのは、浅井さんずごい腕前ですね。
「大人になりにけり」というところ。人の世のいろいろがにじみ出ている。それ相応にみんなが大人になってゆく人生の感慨。

令和8年2月15日 川柳 田辺聖子
貧しさもあまりの果てに笑い合い 吉川雉子郎
これは昔から吉川英治先生の句として有名、これは本当のことだったんだって吉川先生は書いていられました。
年末、次から次へと、掛け取がくる。集金人ですね。とりに来る度に、あちこちちょっとずつ、ちょっとずつ渡すんだけど、払うほうもチエを出して、「みな払ってしまうと縁が切れたようにさびしいから、少し残して御縁をつなぐように」なんてうまいこと言って。しまいにすっからかん。渡すものがなくなって、吉川先生、そんなこともエッセーで書いていらしたと思います。
「あまりの果ては笑い合い」というのは、戦前の日本だったら、普通の庶民は、きっと実感したと思います。

令和8年2月8日 川柳 田辺聖子
このご恩は忘れませんと寄りつかず 太田佳凡
これはもう人の世にはかなり昔からあることだ。大概は、この通り、忘れないから寄りつけない。行くたんびにまたお礼を言ったり、ものを持っていかないといけない。恩を受けたところは、やっぱり敷居は高いのである。
自分の困ったときにいろいろ親切にしてもらったのだけど・・・。

令和8年2月1日 川柳 田辺聖子
金もなく朝日まばゆき家に住み 岸本水府
この句、一瞥した人は思わず笑い出すであろう。朝日を持ってきたのがいい。
自足していて、だから句に、のんびりした温かみがあって、読んでいる人は笑ってしまう。
この句を目にした人は思わず失笑、口々に言うであろう。
「うちは最低やな。金もないし、朝日も射せへんし」
「そのかわり夕日が射しますがな」
「あれが暑うてな」
「やっぱり最低やな」

令和8年1月25日 松田権六
わが国には、中国伝来の三大名銅鑼というものが遺されている。その一つが益田鈍翁の所蔵であった。ある日、まだ若かった魚住さんが自信作の銅鑼を下げて鈍翁を訪ねた。鈍翁は、持参の銅鑼を鳴らす前に、自慢の名銅鑼の音を魚住さんに聴かせた。魚住さんは、その銅鑼の音のあまりすぐれたのに打ちのめされてしまった。とうとう自分の銅鑼を鳴らすことなく鈍翁宅を辞した魚住さんは、銅鑼づくりの研究に一心不乱となる。努力を重ねること数年、金目のものは住む家に至るまで、総てを抵当にし、ついに中国の名銅鑼に劣らぬ音色のものを完成させた。そして第一回指定の人間国宝に選ばれている。
良い銅鑼とはどんな銅鑼をいうのか。
ふつう銅鑼は、叩くとその瞬間は音が大きく、次第に消えゆくように小さくなるものである。ところが、名銅鑼といわれる銅鑼の音は、叩いたあと次第に大きく膨らむように高鳴るのである。鈍翁の銅鑼は一分二十秒も鳴り続けるという。
魚住さんは、遂に鈍翁にもその技量の抜群であることが認められ、為楽の号を賜ったのである。

令和8年1月18日 松田権六
漆というのは不思議な樹液である。主成分を漆酸あるいはウルシオールという。まず漆は独特な乾き方をする。漆が乾くというのは洗濯物の乾くのとはわけが違う。漆液が大量の酸素を吸収し、そのゴム質に含まれているラッカーゼの作用により液の酸化が進み、液体から固体に変化し硬化することが、漆が乾くという意味である。だから漆を乾かすにはむしろ適当な湿気を与えなければならない。湿気中の水分が蒸発し、その中の酸素が漆に作用して漆の酸化作用が促進されるからである。
あるいはまた、漆酸はいったん乾燥するときわめて堅牢になる。簡単にこれを融かすことはできなくなる。塩酸、硝酸、硫酸、王水、いずれにつけても漆酸はびくともしない。

令和8年1月11日 炬燵にて 石田公男(神奈川県 73歳)
私が心臓のバイパス手術を受けて、麻酔から覚めたら、真上に愛子の顔があった。「お父さん」とやさしく声を掛けてくれたあの心配そうな顔は今でも忘れられない。あれから二十四年。今年は結婚四十五年だね。
この間波風も立った。喧嘩したあと、私のヘソクリを見つけて「子供たちと、おいしい物を食べてきた」と言われた時は参った。今は懐かしい思い出だ。先日ふたりで炬燵に入っているとき、「私ね、お父さんと結婚してよかったと思っているわよ」と言われた。高望みせず小さな幸せを大事にしていこうという気持ちに感謝している。
子供達も嫁ぎ、余生を送る身になったけど、老いの楽しさもあるよ。縁あって一緒になった愛子の一生を大切にしてあげなければと、つくづく思うこの頃だよ。これからも頼り合い仲良く暮らそう。私の自作の川柳を添えておくよ。
幸せか 妻の寝顔に 聞いてみる

令和8年1月4日 森鴎外
公私ともに成功者として君臨したかの森鴎外は、晩年にこんな言葉を残している。
「中夜、忽然として坐す。無言にして空しく涕洟(ていい)す」
あの鴎外先生が、夜中の座敷にひとり正座し、手で顔をおおい、ぐしゃぐしゃに涙と鼻水を垂らして泣きじゃくっている姿は、なかなか想像することがむずかしい。森鴎外が「無言にして空しく涕洟す」とつづったこの感情は、明治の頃によく使われた言葉、<暗愁>である。
どんな人の人生も、結局はままならないものだ。そもそも、人は自分で自分の生まれ方を決めることができない。また、人の一生は日々、ひたすら死へ向かって進んでいるだけだ。そして、人生には必ず期限がある。これらの三つのことがまざまざと感じられたとき、人間はどうしようもなく、人生のはかなさや、やるせなさを感じ、わけもなく深い思いの淵に沈んでしまう。この感情を<暗愁>と呼ぶのではあるまいか。

令和8年1月3日 香川県 越智由美子 25歳
「由美子、こずかいの500円、何カ月か貯めてごらん、もっと大きなものが買えるよ」それは小学校5年の時。
父はウサギの貯金箱を私に渡してそう言いました。それ以来、毎月500円を貯めることにしたのです。
ある時、父が仕事中の事故で腰を痛め入院しました。退院後も痛みが取れず、母に腰をもんでもらっている姿に、ひどく悲しい思いがしたものです。このままケガが治らなかったらどうしよう。私は貯金箱を開け、近所の薬局に行って、痛みの取れそうな薬とサポーターを買い、父に手渡しました。父は涙を流して喜んでくれました。父の笑顔を見るのは本当に久しぶりのことでした。
という話を、私はつい2年前まで、すっかり忘れていたのです。ところが私の結婚が決まって、父と主人がお酒を飲みに行ったとき、父はこの話を彼にしたのでした。そして最後に、涙を流しながら言ったそうです。
「あいつは昔から、一見キツイようだが、本当は優しい子なんだ。大切にしてやってくれ」
主人からそれを聞き、胸がいっぱいになりました。そんな小さなことを父がちゃんと覚えてくれていたなんて・・。
いまもあの"ウサギ"は壊れることもなく、父のそばで元気にしています。
実家に行き、大切に飾られたその貯金箱を棚に見つけるたび、何だか幸せな気分に包まれる私です。
生きて行こう こう呟いて見る 雲は冬

令和8年1月2日 ジャポニスム
1878年のパリ万博に尾形光琳の名作「八橋蒔絵螺鈿硯箱」が出品された。光琳は光悦、宗達、乾山と並び称される、日本近代美術史における最高峰の芸術家である。
「装飾画派」の名称で呼ばれるこの四人の芸術家がいたことを、私は日本人の一人として、非常に誇りに感じる。
装飾画とは、建物を飾る壁画や襖絵、屏風絵、和歌や経文をしるす料紙の下絵、扇や団扇の絵模様など、「広く何かを装飾する目的で描かれた絵」のこと。画家が自己の個性を直接強く表現する近代の純粋絵画とは区別される。
その意味で日本の絵画の大部分は装飾画に属することになる。
光陰の矢の串刺しや鏡餅

令和8年1月1日 元旦
一年に春夏秋冬があるように、人生にも四季がある。
青春のときはもうすっかり霧の彼方、ぼやけて見えない。
朱夏のとき、私にもあった。妻と子供のために張り切って生きていた頃。
白秋のとき、子供が巣立って妻と二人ゆるゆると秋の日差しを楽しもうと思っていたのに、陶芸教室を始めてしまった。
今、ここかな。玄冬のとき。まさにこれから、二人生きる老い。どうなっていくんだろう、この二人。
どうしたって老いることをあれこれと考えずにはおれない。
若い頃は、老いは余得のように、人生の終わりにほんのちょっぴりおまけでくっついている時間と思っていた。
人生を遡ってみると、結婚し、子供が生まれ、子供が結婚、孫が生まれ、親の看取りと年表にしてみるとイベントの多くは、ほぼ五十代から六十代までに集中している。それからは平穏、悪く言えばヒマ。老後は長いんだと驚いた。老いの時間は子供の時間と同様人生の最初と最後に与えられた自由に生きられる時間ではないだろうか。安心して楽しんで生きたい。
クローズアップ下諏訪の表紙と下諏訪市民新聞の元旦(巧い・上手い)号に掲載されました。