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令和2年12月31日 | 大晦日 |
悔いという字に似たるかな大晦日 岸田今日子 このままでいいのでしょうか大晦日 矢崎泰久 大晦日もういくつ寝るとお正月 永六輔 それでは皆さん、よいお年を。 |
令和2年12月30日 | 終活 |
茫々と時が過ぎました。いつの間にか老人になりました。 過ぎてしまえば人生は夢です。 八ヶ岳のふもとに小屋を持って十三年。 裾野のすすきや萩の原を分けて歩いたり、水の湧く沢のほとりに佇んで、見たことのない蝶を見つけたりしている。 人間の住んでいる家というものは、何と物が多いのか。しかもその物とは、無駄な物なのである。 人は不要な物に囲まれて暮らしている。戸棚や物置は眠ったままの物が人の暮らしを邪魔している。 レコード・CDは捨てました。昔の陶器・家具類はリサイクルショップ行です。これから古着を整理します。 写真は古いものから半分くらいシュレッターで処分しました。その時の気分の良さ、せいせいしました。 過去はゴミとなり燃えてしまったのです。ザマーミロです。もう過去はいりません。 ガランと何もない子供部屋と父母の部屋、まだ少しある孫の玩具。 私の書斎の多くの書籍が、私と我が家の歴史を、来し方行く末をかたっている。 これで全部か・・・・・。 成熟し切らぬまま、小さな喜びが身に染みる年齢に達した私に、大切なのはこれからの日々。 実り豊かな老後、ゆったりと平凡に暮らしていきたいものです。 |
令和2年12月29日 | 私の寅さん 12 |
寅 「あの音楽は何ていう音楽です」 りつ子 (岸恵子) 「あれは、別れの曲」 寅 「別れの曲ねぇ--やっぱり旅人の歌でござんしょうか」 りつ子 「そうかもしれないわね」 寅は旅する人間の寂寥感をにじませながら、愛する女性りつ子の前で、あふれる思慕の気持を言葉に出来ず、感極まっているのであるが、「別れ」の曲だと聞かされて、心の奥ではもう、りつ子との別れの時期が迫ってることを予感している。 |
令和2年12月27日 | 山田風太郎 |
「力なく床に首ふる我を見れば人はさだめて老衰というらむ」 「力なく床に首ふる汝を見れば人はさだめて腎虚というらむ」 前者は、昔、色川武大が私によこしたハガキに書いてきた歌であり、後者は、それに対して私が送った、返歌である。 どうです、風流なものでしょう。 昔も昔、昭和三十年代後半のことで、色川氏はまだ三十を越えたかどうかという年齢で、ユーモアめかしてはいるが、ともかくも老衰なんて言葉を使っている。 色川氏にしてみれば、卵がかえる前の、もっとも鬱屈した時代であったろう。 |
令和2年12月20日 | 健康 石川恭三 |
頭が痛い、全身がだるい、肩がこるのは精神的な疲れ。 いらいらする、することに間違いが多くなる、根気がなくなるのは、ぐったり疲れである。 ぐったり疲れはへばりの状態であり、頭の芯の疲れからくるもので、頭休めの警告である。 疲れたら休みたいのはごく自然な欲求なのだが、現代社会にはそれを実行に移させない部分があり、疲労回復を困難なものにしている。 たかが疲れぐらいそのうちに治るだろうと、高をくくって無理を重ねてきた人に、突如として身体的ならびに、心身症的な異常事態が発症することが少なくない。人の一生はそんなに長いものではない。 質のいい時間を多く含む人生をエンジョイするためにも、「疲れたら休む」ぐらいのルールは守るべきではなかろうか。 |
令和2年12月13日 | 英雄 山田風太郎 |
「下男から見た主人に英雄はいない」 イギリスにこんな諺があるそうだ。 いかなる偉人豪傑であっても、一日二十四時間ことごとく偉人豪傑の言動で通すわけにはゆかない。 生きていれば人間は、糞もすれば、金勘定もする。 事実、彼がなした一つ二つの功業以外は、まず凡庸な日常であるか、あるいは欠陥だらけの人間が大半なのである。 それにまた、どんな人間またはその行為に対しても、悪口を言おうと思えば言えないことはまずない。 とりわけ英雄など必要ない現代では、一朝目ざむれば天下の人が一夜暮れればお縄付きになる光景を見ても、誰も驚く者はいない。 それどころか、みな、一皮めくれば、こんなものだろうと、したり顔でうなずく。 |
令和2年12月6日 | 晩酌 有賀博 |
「晩酌」という言葉には、私はいやな抵抗感を抱く。 暗い電灯の下で、いろいろな料理を並べた膳を前にして、一人の男が、くどくどと訳の分からぬ小言を言ってた。 膳から少し下がったところに、一人の女がキチンと座って俯いている。女の傍らには三つになる小さな男の子がいた。 男とは私の父であり、女とは私の母、男の子は私であった。 やがて、母に逝かれた父は、すっかり気落ちしたのか、晩酌の酒は、涙をこぼす泣き酒に変わった。 そのころ、郷里へ連れ帰った私の妻は、若い頃の父を知らないので、 「お父さまは、亡くなったお母さまを、いつまでも思い出しては涙ぐむ、本当に優しいお方だわ」と言っていた。 確かに晩年の父は、すっかり気が弱くなった。 私は、父が若い頃酒の席で亡き母をいじめたことについては、妻には一切話さなかった。 父が亡くなる二・三日前、病床で、 「お前の酒は良い酒だ。死んだお母さんには苦労をかけて可哀そうなことをした。これから行って謝るよ」と、ポツンともらした。 だが私は、子供の頃の印象が消えないので、この「晩酌」という言葉だけは、今もって好きになれない。 ・・・この父も亡くなって久しい。 |
令和2年11月29日 | ダイレクトメール 群ようこ |
一市民の住所を調べ、一方的に送られてくるダイレクトメールというのは不思議なものである。 高校生の頃は英語教材のDMが毎週毎週山のように来た。大学生の時は着物のDMが成人式の時がピークで山のように来た。 卒業から二十五歳までは結婚相手紹介所から、二十九歳過ぎてからは”再婚相手をご希望の方がいらっしゃいます”と送られてきた。そしてつい最近はワンルームマンションのDMである。私は感心してしまった。これから三十五になり四十になったらいったい何が送り付けられてくるのか不安になったりする。 「ねー、空気を入れると若い男の型になるダッチボーイのDMが来るかもしれないね」と同い年の友達は言う。 「ギャハハ、いやらし」といいつつ一抹の不安は隠せない。 もしやひとり身の私の五十五歳の母親はいかにと思って電話をしたら、ひどく怒り狂っている。 「ちょっと、聞いてよ。墓石のDMがきたのよ」 あと二十年もしたら墓石、墓地のDMが山のように送られてくるかと思うと目の前が真っ暗になった。 |
令和2年11月22日 | 走る女 辺見じゅん |
結婚して二十代の後半からジョギングを始め、昨年の東京国際女子マラソンで自己最高記録を六分五十七秒も縮めて七位になった人がいる。松田千枝さんといって、三十七歳の女性だ。この人は、化粧品会社に勤めて十九年、妻と二児の母親業も両立させている。 この松田さんの話で心に残ったのは、 「どう走ればよいのか、このごろようやく見えてきた気がします」という、一言だった。 マラソンに限らず、何かを追い求めて「走る女」には、一途すぎてどこか悲壮感が付きまとっていただけに、どう走ればよいか見えてきたという言葉に感心してしまった。 人の生き方には直向(ひたむ)きな生と、諸向(もろむ)きな生とがある。 どちらを択ぶかはその人の生き方につながる宿命のようなものだが、女性はおおむね直向きな生を選んでしまうらしい。 |
令和2年11月15日 | いのちの川柳 富谷英雄 |
ラジオ川柳の西條幸子アナウンサーに一通の手紙が届いた。手紙の主は、田澤玲介さんという方で、父は有石といった。 さて、彼の父は昭和二十五年に五十三歳ですでに他界している。 昔のモールス通信時代の郵便局で、電信の上役をしていた父の後を継いだ彼は、父と同じ電信課で働いていた。 八戸へ転勤した彼の父は、講演先で倒れた。彼は盛岡から八戸へすぐに駆け付けた。 彼の父はまだ意識があったが、左半身が動けない状態になっていた。 「父は私の顔を見ると、目にいっぱい涙を浮かべて、動く右手でしきりに指先を動かしていた。実は、モールス通信で『ジセイ、ジセイ』と打っていた。つまり『辞世、辞世』といっていた。私は『送れ』」という信号を合図した。すると、次のような信号があった。 『オモイキリウデマクリアゲチュウシャサセ』 思い切り腕まくり上げ注射させ 『タダノミズノンデミンナニイタワラレ』 ただの水飲んで皆にいたわられ この二句をモールスで送った後、しばらくして父は息を引き取った」 私は、この話を聞いて絶句した。 こんなに壮烈な人間の最後は、あまりにドラマチックで、自分の川柳がちっぽけなものに見えて仕方なかった。 |
令和2年11月6日 | 誕生日 |
昭和22年生まれ。初めての73歳である。 若い頃の時間はゆったりと過ぎるが、老いと共に時間は近道をし始める。 子供の頃のゆっくりした時の流れが懐かしい。 時はたちまち過ぎてゆき、旅した日々も遥か彼方に去ってゆく。 年を重ねるとフテブテしくなるが、他方、恥を連ねた人生に早く穴に隠れたい気もする。 結局、過去を振り返ることが恐ろしく、反省のない男になり下がり生きてきた。 この年になって不思議なことに欲がなくなって、時に空恐ろしい気がする。 されば、まるっきりの無欲かというと、そうでもない。 穴窯を焚きたい、良い作品を焼きたい、それに無能な頭を日々悩ましている。 人の歴史はなべて哀しい。 芭蕉は「月日は百代の過客にして行きかう年もまた旅人なり」と看破しました。 移り行くその日その時、世の中はどんどん変わり、一期一会、そしてそこにある無常観に私は立ちすくむ。 |
令和2年11月1日 | インド 木村光 |
インドは昔から病原菌の宝庫といわれ、有名なドイツのコッホ博士もコレラ菌を分離するためインドに出かけている。 インドはまた、昔から時間の観念がない国といわれている。しがって、歴史の年代が不明である。 早い話が、お釈迦さんに関する年代もわからないので、その年代に関係のあった中国やギリシャの記録を基に推定されている。 インドでは、すべての時間がゆっくり進む。そして、八割強の人がヒンズー教徒で、輪廻転生の思想が今も生きている。 宗教心のないわれわれ日本人には信じられないことだが、百年前の祖先の借金を未だに払っている人がたくさんいると聞いた。 それも自ら進んで払っているそうである。 その理由は、死んであの世に行ったとき、祖先に出会って申し開きができないからだという。 |
令和2年10月25日 | 故郷への想い 加藤則子 |
今年も帰省の時がまいります。昨年まで、父が駅で出迎えてくれました。しかしその風景も今年から変わります。 雪の日、運転中の父は脳梗塞で倒れたのです。 幸い命は取り止めたものの、マヒが残り、退院した今も "食べること" "排泄すること" すべてを母に委ねております。 「人生、二度童子(わらし)、老いて子にもどるというから」 「結婚して五十年、お父さんにお世話になったのだから、今度は私の番」と言う母。 老いてふたまわりも小さくなった母の肩。 その母の肩の荷を一時でも軽くできれば・・・・・と、短い帰省を心待ちにしております。 |
令和2年10月18日 | 永六輔 |
「六十歳過ぎると、そこから元気になる人とそこから疲れきる人といますね」 「年をとったら 転ばない 風邪ひかない 食いすぎない これで十年は長生きします」 「若くして死んじゃうと可哀そうというけれど、長寿で不幸ってのも可哀そうじゃないかな」 |
令和2年10月11日 | 母とのこと 丸川珠代 |
少し前、十四才の少年が両親や兄を殺す事件が相次いだ。なぜ少年たちは、殺したいほど親を、兄弟を憎んだのか。 そうしたら私は突然、思い出したのだ。母への猛烈な憎しみを。 私の母は凄まじかった。高校を卒業して家を出るまで、ひっぱたかれるのは日常茶飯事だった。 離婚して幼子二人を抱え、医者として働くストレスも大きかったのだろう。 でもそんなことはすっかり忘れていたのだ。今では母の苦労もわかるし、感謝もしている。 それなのに突然、憎しみは蘇ったのだ。あまりの生々しさに私はぞっとした。 できるものなら、この憎しみを解決したい。私は母に自分の思いをぶちまけた。 すると母は「本当はあんたに謝らないかんのやろうけど、あの時は私も大変やったから」 私は知らなかった。母もまた、あの時の感情を解決できていなかったのだ。 私には、ますますわからなくなった。いったい、人間の憎しみや怒り、悲しみは、いつか消え去ることがあるのだろうか。 あるいは、こうした不幸な感情は解決することなく、ただ時間の経過とともに、記憶の底に沈殿するだけなのか。 親を殺したいほど憎む理由は、私にもうまく説明できない。 ただ思春期の何年にもわたって、もうれつな苛立ちを腹の底に捻じ込んできたことは、確かである。 どうすることもできず、何もわからないまま、あの感情は再び過去の淵へと沈み始めている。 |
令和2年10月4日 | 十年先の未来の自分に |
高橋扶実 38歳 身体ではなく、心が丸くなっています様に 三宅英明 61歳 ジョギング、ウォーキング、山歩き まだまだやれるよ大丈夫! 夜中の徘徊、これは駄目! |
令和2年9月27日 | 単位の不思議 畔上司 |
人生八十年時代と言われますが、八十年といえば随分長い気がするものの、月に直して九百六十ヶ月と言えば、それっぽっちかと思う。 一方また自分の「人生経過時間」を日数で数えることもできるわけで、誕生日の他に「生まれて一万日目」とか「二万日目」とかを自分なりに数えてみれば、年単位によってぼかされてきた一日一日の重みがどっしりと感じられるのではなかろうか ? ちなみに前者は二十七歳の時、後者は五十四歳の時に訪れる。 以上は個人の時間に関する話だが、次に「世代」の話をすると (一世代を三十年とすれば) たとえば、「織田信長は十三世代前の人物である」といった言い方が可能になる。十三世代と言えば、手を伸ばせば届きそうな時間的距離ではなかろうか。 以上のように、単位の変換は、容易に日常性からの脱却を呼ぶ。最後に一つ、私からの質問。 「今度の日曜日はあなたにとって生まれて何度目の日曜日ですか ? 」 |
令和2年9月20日 | 傘 |
「傘をさしていきなさい」 上ばかり見えるような状況だと疲れて、自分を見失うから、足元を見据えていくという意味だ。 |
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遺言川柳 遺言は 老いた妻への 感謝状 「幸せな 人生でした」と 書きし父 ありがとう そのひとことの 遺書で泣き |
令和2年9月13日 | 生物学的な時間 本川達雄 |
ネズミからゾウまで哺乳動物の心臓が一回打つのに要する時間は、時間(t)と体重(M)との間に次のような関係が成り立つ(kは定数) t=kM0.25 つまり心臓が一回打つのに、体が大きくなるとともに、体重の0..25乗に比例して長くなっていく。 体重5トンのゾウは一回二秒だが、三十gのネズミはその二十分の一しかかからない。時間の流れる速さは動物によって変わる。 人間の間でも、時間の速さは微妙に違うようだ。南の方が北に比べて時間の流れは遅いらしい。南国では時間がゆったりと流れる。 動物には、その動物に合った空間の広さや時間のリズムがあると思われる。 車で走り回り、時間に縛られた生活は、はたしてヒトという動物の持つ空間やリズムに合っているのだろうか。 |
令和2年9月6日 | 易者 マルセ太郎 |
まるっきり仕事がなく、芸人商売に見切りをつけようかと迷った頃、街頭易者になってみようかと考えたことがある。 よく、当たるも八卦、当たらぬも八卦というが、だいたい当たるものである。 何故かというと、お金を払って易を見てもらおうとする客は、すでにその行為のうちに、当てられたがっているからである。 「あなたは、親との縁が薄いですね」と言われると、進んで解釈して「当たってます」と答えてしまう。善い人なのである。 キャバレー巡りをやってた頃、よくホステスの手相を見てやった。座興である。それでも、二つだけは必ず当たる。 そのひとつは、もっともらしく手を見て、「ああいかんな、君は惚れちゃいけない人に惚れてるな」 これが不思議とぴったり当たるのだ。「やっぱり、よく当てたわね」彼女は誰を思ってか、しんみりいう。 「つまらん男に惚れてるな」なんて言い方はしてはいけない。 二つ目は、どんなケチで貪欲な女にでも、「君は、人にものを頼まれたら、嫌と言えない性分だね」と言ってあげる。 間違いなく百パーセント、「そうなんだわ。よく分かるね」とくる。何が「そうなんだわ」だ、このどケチが。 以上二つを切りだせば、あとは思いのまま、君は易者になれる。 |
令和2年8月30日 | うらやましい人 橋本大二郎 |
人生も五十半ばを過ぎると、他人の生き方を見ていて、尊敬とはひと味違った、ある種のうらやましさを感じる事がある。 その代表的な一人が、高知県が生んだ植物の鉄人、牧野富太郎博士だ。 牧野さんにとって、面目躍如たる出来事があったのは、アメリカから著名な植物学者が来日した時のことだった。 その歓迎会の席で、これといった肩書のない牧野さんが「ミスター牧野」とだけ紹介されると、すっくと立ち上がって、「オオ、グレートマキノ」と大きな声を上げながら、牧野さんの手を握りしめたのだ。 その場に居合わせたお歴々の驚きは、四十三歳のサラリーマンに、いきなりノーベル賞を出されて慌てた、日本のお役所の受けた衝撃に、似ていたのかもしれない。 記念館に行くと、草むらで植物を手にしながら、満面に笑みを浮かべた、牧野さんの写真がある。 どこか、アインシュタインを思わせる風貌だが、貧乏をものともせず、好きな道を一本に貫き通した、わが人生ここにありの一枚だ。 たとえ尊敬などされなくても、後世、ひと様にうらやましがってもらえるような日本人になりたいものだと、牧野さんの生き方を知るにつけ、つくづくと思うのだ。 |
令和2年8月23日 | 花咲く家で 山口県 末永敦子 67歳 |
三人の子供がそれぞれ家を持ったので、ようやく老夫婦の家を建てた。 朝日の当たる南向きの小さな家は、二人の理想どおりに、狭いながらも草花を一杯に咲かせた。 芽の出始めに大切に水やりをしていると、近所の奥さんが来て、 「これ、雑草じゃない」 「えっ本当」と私。 「でももう少し育ててみたいから・・・・・」と大笑いでした。 七十三歳の夫は「この年になって、こんなに生き生きと動くおまえを見るのが一番幸せだ」と云ってくれます。 あと何年一緒に生きていられるだろうかと、ふと思う事があります。 「ありがとう、あなた」 |
令和2年8月16日 | 妻の手 上野恭一 上野胃腸医院院長 |
当院の職員が還暦祝いの誕生祝をしてくれた。当院の職員は全員女性で、私は妻を同伴して、四十名ほどの女性ばかりに囲まれるという、男冥利に尽きる、幸せすぎる時を過ごした。 色々なアイディア尽くしで、私が目隠しをされ、五人と握手して私の妻を当てるというクイズがあった。 一人目はグッと握ったので、「この人は違う」と言ったら爆笑が起きた。 司会が二人選べと言うので「二番と三番」というと会場がシーンとなった。 「ではもう一度握って奥さんを当ててください」というので、「この人です」というと二番目の手を握ったまま目隠しを取ると妻の顔があった。 サスガ、やっぱり、どうして、と歓声が全員の拍手となった。 「自分の女房くらいわかるさ」と私は威張ってみせたが、ショックだった。 私は一番荒れている手を選んだのである。 |
令和2年8月15日 | お墓 俵万智 |
敬愛する作家の、ゆかりの地を旅するのが好きだ。ゆかりの地には、勿論お墓も含まれる。 そこで手を合わせながら、生前はお目にかかることが出来なかった、その人へ、心の中で話しかける。 私はこれといった宗教も持っていないし、霊魂とか死後の世界とかについて、深く考えているわけでもない。 が、お墓の前に来ると、自然に個人に語りかける気持ちになる。目に見えるよりどころがあるということは、とても大きいな、と思う。 江戸時代の歌人、橘曙覧のお墓は、妻の酒井直子のお墓と仲良く並んでいた。 清貧の暮らしを選んだ曙覧を、ずっと支えた女性である。 親戚から離縁をすすめられても、彼女は決して聞かなかった。 二人の仲むつまじさに、思いをはせながらお参りをした。 いくら故人に語りかけても、もちろん返事はこない。 けれど、お墓があることによって、何かを受け止めてもらえているような、そんな気がする。 |
令和2年8月14日 | 師・藤原審彌 山田洋次 |
藤原さんが、遠い少年時代の思い出を懐かしむようにして書いた小説 『庭にひともと白木蓮』 を映画化したのは、もうかれこれ二十年前。主役はハナ肇。会社はこの作品を喜劇で売ろうとして
『馬鹿まるだし』 という、品の悪い題名に変えてしまった。 映画が完成して暫くたったある日、原作者が私に会いたいと言っている、ということが伝えられた。 嫌な予感がした。たぶん気に入らないところがあって文句を言われるのではないか。 荻窪駅から歩いて十分ほど、風変わりな応接間で私は藤原さんに会った。 藤原さんは笑顔で、「うん、とても良かったよ」と柔かい声で言った。ああ、この人は文句を言うために私を呼んだのではない。 それが判った時のしゃがみたくなるようなホッとした感じを、私は今でもまざまざと覚えている。 病気の身体に鞭うつようにして、執筆や講演旅行に多忙な毎日を見かねて、少し仕事を止めて休息してはどうですか、と進言したことがあった。藤原さんは笑いながらこう答えた。 「良いものを書きたい、少しでも多くの人に、人間のことを語っておきたい、という欲が出るんだよ。そう長くは生きられないんだからね、ぼくは」そして、それは本当になってしまった。 師の背後の壁には、何年も前から額におさめられた書が掛かっていて、それは美しい文字で次のように書かれていた。 【何よりも先ず、正しい道理の通る国にしよう、この我らの国を 広津和郎】 厚顔無恥な無理がまかり通り、正しい道理が片隅に追いやられようとしている今の我らの国にとって、その国に暮らす日本人にとって、藤原さんの若死には、はかり難い損失、大きな不幸だった。----- |
令和2年8月9日 | 俵万智 |
一度だけ本当の恋がありまして南天の実が知っております 山崎方代 愛誦性に富む山崎方代の代表作といって言いだろう。 「南天の実が知っております」---その恋に、南天の実がどうかかわっていたのか、知るべくもない。 が、大事なのは、南天の実のほかは、誰も知らないということだ。そんな、ひっそりとした、恋。 小粒で控えめだけれど、鮮やかな、南天の実。その姿は、その恋を、象徴しているのかもしれない。 「一度だけ」なんて謙遜しているけれど、「本当の」と言える恋が、一生に一度あれば幸せなのではないか。 飄々とした語り口からは、そんな満足げな表情も、うかがうことが出来る。 |
令和2年8月2日 | 山田風太郎 |
先日、女子大生が、ノー豆ってどんな豆でしょう、と訊くので問いただすと、それは納豆のことだったという、ある大学の先生の文章を読んで笑ったが、納豆をナットウと読めないほうにも相当な理由がある。 知っている人間から見れば知らない人間の無知を笑えるだろうが、すべてを知っている人間はこの世にいないのである。 |
令和2年7月26日 | 親 出久根達郎 |
親子で互いが買った本を交換している人がいる。親が読んだ本を子が読み、子が選んだ本を親が楽しんでいる。 世代はいわずもがな好みも全く違うのに、双方何らの違和感も持たない。 しかしおやじも近頃はボケました、と息子が話した。 「おやじの本には、よくへそくりが隠してあるんです。当人は忘れてしまうらしい。むろん内緒でせしめちゃいますがね」 ・・・・・私には、そうは思われない。照れ屋のおやじさんは、そういう形で息子にこずかいをあげているのではあるまいか。 |
令和2年7月19日 | 昔話 森繁久彌 |
父は文久元年の生まれで、大正二年に私を作った。そして二年後の大正四年に往生してしまった。 明治の初期に数少ない英語を習った人で、明治二十八年、日銀に勤めた。最後は大阪電燈(関西電力)に入り、常務となって働いていたが、元来弱かったのか、あえなく大正四年に逝ったのである。だから私は父の膝のぬくもりを覚えていない。 母は七十八歳でこの世を去り、今残っているのは私だけだ。 せめて子孫たちを皆集めて大宴会でも開こうと思うのだが、こっちも八十一歳で些かぼけてきているので、どうしようもない。 すべて思い出も人も死に果てて、こんなことを書くのもむなしい気がする。 〜いく年故郷 来てみれば 咲く花鳴く鳥 そよぐ風 門辺の小川のささやきも なれにし昔に変らねど 荒れたる我が家に 住む人絶えてなく・・・・・ この歌の通りだ、あの家も今やありやなしや、訪う気もない。 |
令和2年7月12日 | 物や物事に執着しないようになった |
訃報に過剰に反応する年齢になった。かってはそんなことはなかった。 六十代・七十代の人が亡くなると考えこんでしまう。 憧れた俳優や歌手やスポーツ選手が亡くなっていく。 そして個人の死を悼むことももちろんだが、時代の終焉という感じ方をするようになった。 日本人は変わった。我慢、辛抱、忍耐、倹約など今ではマイナスのイメージしかない。 昭和は遠い。世の中はこうして変わっていく。 今、ぼくらが形づくった価値観が失われようとしている。 それは時代の流れ、歴史の摂理として淡々と受け止めるべきなのだろうか。 |
令和2年7月5日 | 山田風太郎 |
よく老人が「老いてまわりに迷惑をかけないために健康に気をつける」と異口同音にいうのを思い出した。 一見、異論のない言葉のようだが、これには待てよと首をひねる。 人間、永遠に健康な老人というわけにはいかない。五十歩百歩、迷惑をかけるのがほんの少し先送りになるだけではないか。 先送りになった分だけ老化するわけだから、かえって迷惑の度合いがひどくなるだけではないか…・ |
令和2年6月28日 | 歌 |
私は子供の時から現在まで、風呂以外ではいつも本を持っている。 子供がぬいぐるみや、プラの自動車をいつも持っているようなものです。 とにかく、私は大人になりきれないで、活字中毒というくらい常に何かを読んでいる。 そして私が本好きになったのは、間違いなく父を見て育ったからだ。 ある西洋の哲学者の「人は五歳にしてすでにその人である」言葉がある。 人は一生、同じ歌を歌うものらしい。 |
令和2年6月21日 父の日 | 霜融ける 川路ゆさ |
高校2年の秋だった。担任に「お前の進学、むずかしそうだナー」と言われた時、「もう、いい」と、自分の中で勝手に決断を下し、父とは以後、会話が途絶えてしまった。結局、私は、文学の専門学校に入学した。 上京の朝、私は父に、「行ってきます」とだけ言い、こんな家には何の未練もない、とばかり、まるで敷居を蹴るようにして家を出た。 汽車が、家の近くを通り過ぎようとした時、私はハッとした。線路間近に父が立っていた。三月とは言え、父の立つ畦道には、真っ白く霜が降りている。その中で、父は、外套も羽織らず、真っ直ぐ私の目を見つめていた。私は一瞬戸惑い、ぎこちなく会釈しただけだった。 今年初め電話で姉と話をしていた時、「ウチは貧乏だったね」という姉に、「私は本当に大学に行きたかったのに…」と愚痴を言うと姉の息遣いが変わった。「高二の時父さん、あなたの進学で学校に呼ばれた帰りに家に寄ったのよ」その頃、姉は結婚して隣町に住んでいた。 「私に、あの子を何とか進学させてやりたいんだ」と言って帰らないのよ。 プライドの高い父である。嫁いだ娘の所へ出かけて、悩みを打ち明けるなど、私の父親像からはあり得ない事だった。 私は、顔を覆いたくなるような衝撃を覚えていた。 娘の希望を叶えられず、自分の不甲斐なさを責めて、一人立ちすくんでいる父の姿が見えてくる。 「今まで黙ってて、ごめんね。あなたサ、もう父さんを悪く言うの、やめなさいね。父さんは、8人もの子供たちに平等に精一杯、愛情を注いだのよ」十歳年上の姉の優しい声を聞きながら、私は涙が頬を伝に任せた。 この夏、四十年振りに私の胸の奥に積もっていた真っ白な霜が静かに融けた。 |
令和2年6月14日 | シルバー川柳 |
LED 使い切るまで 無い寿命 自己紹介 趣味と病気を ひとつずつ 「こないだ」と 五十年前の 話する 誕生日 ローソク吹いて 立ちくらみ |
令和2年6月7日 | 父 森山紗良 [神奈川県 12歳] |
ユージン・スミスの娘は 「父は偉大な報道写真家でした。そして、いつも傍にいてほしいとき、いない人でした」 とか語ったそうですが、あなたの場合は逆ですね。いつも、傍にいないでというとき、近づいてくるんだから。 毎朝の通学電車のことだけど、満員電車の中でかばってくれなくていいんだよ。 ニヤニヤして胸のところで小さくバイバイして降りていくあなたを、私は無視して見送らないのは当然だって皆言うよ。 でも、ごめんね。 |
令和2年5月31日 | シルバー川柳 |
躓いて 何もない道 振り返り 目覚ましの ベルはまだかと 起きて待つ 「いらっしゃい」 孫を迎えて 去る諭吉 孫帰り 妻とひっそり 茶づけ食う |
令和2年5月24日 | 山田風太郎 |
「思い出す事など」や漱石の書簡などに出てくる出来事が、夫人の「思い出」になると、同じ事柄でも人によってこうも印象が変わるのか、と嘆息せざるを得ないほど俗化して描かれる。 いわゆる修善寺の大患のとき、日本国中からの見舞客や手紙を受けて漱石は感謝に満ち溢れ、「肩に来て人懐かしや赤蜻蛉」という心境になった。いま、こんな無私の敬愛を受ける作家、あるいはどんな職業にしろ、そんな人物があるだろうか、と私は考えていた。 ところが森田草平によると、実は鏡子夫人が全国のあらゆる知人に「ソウセキキトク」の電報を打ちまくった結果なのだそうである。 肩に来た赤蜻蛉は自然にとまったのではなく、釣り竿で捕まえたものであったのだ。 ----おそらく現実というものは、これまたこういうものなのだろう。 |
令和2年5月17日 | 理想があるから人間だ |