令和三年に続く

令和2年12月31日 大晦日
悔いという字に似たるかな大晦日   岸田今日子
このままでいいのでしょうか大晦日  矢崎泰久
大晦日もういくつ寝るとお正月     永六輔


それでは皆さん、よいお年を。

令和2年12月30日 終活
茫々と時が過ぎました。いつの間にか老人になりました。
過ぎてしまえば人生は夢です。
八ヶ岳のふもとに小屋を持って十三年。
裾野のすすきや萩の原を分けて歩いたり、水の湧く沢のほとりに佇んで、見たことのない蝶を見つけたりしている。

 人間の住んでいる家というものは、何と物が多いのか。しかもその物とは、無駄な物なのである。
人は不要な物に囲まれて暮らしている。戸棚や物置は眠ったままの物が人の暮らしを邪魔している。
レコード・CDは捨てました。昔の陶器・家具類はリサイクルショップ行です。これから古着を整理します。
写真は古いものから半分くらいシュレッターで処分しました。その時の気分の良さ、せいせいしました。
過去はゴミとなり燃えてしまったのです。ザマーミロです。もう
過去はいりません。
ガランと何もない子供部屋と父母の部屋、まだ少しある孫の玩具。
私の書斎の多くの書籍が、私と我が家の歴史を、来し方行く末をかたっている。
 これで全部か・・・・・。


成熟し切らぬまま、小さな喜びが身に染みる年齢に達した私に、大切なのはこれからの日々。
実り豊かな老後、
ゆったりと平凡に暮らしていきたいものです。

令和2年12月29日 私の寅さん  12
  寅    「あの音楽は何ていう音楽です」
  りつ子 (岸恵子) 「あれは、別れの曲」
  寅    「別れの曲ねぇ--やっぱり旅人の歌でござんしょうか」
  りつ子 「そうかもしれないわね」
寅は旅する人間の寂寥感をにじませながら、愛する女性りつ子の前で、あふれる思慕の気持を言葉に出来ず、感極まっているのであるが、「別れ」の曲だと聞かされて、心の奥ではもう、りつ子との別れの時期が迫ってることを予感している。

令和2年12月27日 山田風太郎
 「力なく床に首ふる我を見れば人はさだめて老衰というらむ」
  「力なく床に首ふる汝を見れば人はさだめて腎虚というらむ」
前者は、昔、色川武大が私によこしたハガキに書いてきた歌であり、後者は、それに対して私が送った、返歌である。
どうです、風流なものでしょう。
昔も昔、昭和三十年代後半のことで、色川氏はまだ三十を越えたかどうかという年齢で、ユーモアめかしてはいるが、ともかくも老衰なんて言葉を使っている。
色川氏にしてみれば、卵がかえる前の、もっとも鬱屈した時代であったろう。

令和2年12月20日 健康   石川恭三
頭が痛い、全身がだるい、肩がこるのは精神的な疲れ。
いらいらする、することに間違いが多くなる、根気がなくなるのは、ぐったり疲れである。
ぐったり疲れはへばりの状態であり、頭の芯の疲れからくるもので、頭休めの警告である。
疲れたら休みたいのはごく自然な欲求なのだが、現代社会にはそれを実行に移させない部分があり、疲労回復を困難なものにしている。
たかが疲れぐらいそのうちに治るだろうと、高をくくって無理を重ねてきた人に、突如として身体的ならびに、心身症的な異常事態が発症することが少なくない。人の一生はそんなに長いものではない。
質のいい時間を多く含む人生をエンジョイするためにも、「疲れたら休む」ぐらいのルールは守るべきではなかろうか。

令和2年12月13日 英雄    山田風太郎
「下男から見た主人に英雄はいない」
イギリスにこんな諺があるそうだ。
いかなる偉人豪傑であっても、一日二十四時間ことごとく偉人豪傑の言動で通すわけにはゆかない。
生きていれば人間は、糞もすれば、金勘定もする。
事実、彼がなした一つ二つの功業以外は、まず凡庸な日常であるか、あるいは欠陥だらけの人間が大半なのである。
それにまた、どんな人間またはその行為に対しても、悪口を言おうと思えば言えないことはまずない。
とりわけ英雄など必要ない現代では、一朝目ざむれば天下の人が一夜暮れればお縄付きになる光景を見ても、誰も驚く者はいない。
それどころか、みな、一皮めくれば、こんなものだろうと、したり顔でうなずく。

令和2年12月6日 晩酌  有賀博
「晩酌」という言葉には、私はいやな抵抗感を抱く。
暗い電灯の下で、いろいろな料理を並べた膳を前にして、一人の男が、くどくどと訳の分からぬ小言を言ってた。
膳から少し下がったところに、一人の女がキチンと座って俯いている。女の傍らには三つになる小さな男の子がいた。
男とは私の父であり、女とは私の母、男の子は私であった。
やがて、母に逝かれた父は、すっかり気落ちしたのか、晩酌の酒は、涙をこぼす泣き酒に変わった。
そのころ、郷里へ連れ帰った私の妻は、若い頃の父を知らないので、
「お父さまは、亡くなったお母さまを、いつまでも思い出しては涙ぐむ、本当に優しいお方だわ」と言っていた。
確かに晩年の父は、すっかり気が弱くなった。
私は、父が若い頃酒の席で亡き母をいじめたことについては、妻には一切話さなかった。
父が亡くなる二・三日前、病床で、
「お前の酒は良い酒だ。死んだお母さんには苦労をかけて可哀そうなことをした。これから行って謝るよ」と、ポツンともらした。
だが私は、子供の頃の印象が消えないので、この「晩酌」という言葉だけは、今もって好きになれない。
・・・この父も亡くなって久しい。

令和2年11月29日 ダイレクトメール   群ようこ
一市民の住所を調べ、一方的に送られてくるダイレクトメールというのは不思議なものである。
高校生の頃は英語教材のDMが毎週毎週山のように来た。大学生の時は着物のDMが成人式の時がピークで山のように来た。
卒業から二十五歳までは結婚相手紹介所から、二十九歳過ぎてからは”再婚相手をご希望の方がいらっしゃいます”と送られてきた。そしてつい最近はワンルームマンションのDMである。私は感心してしまった。これから三十五になり四十になったらいったい何が送り付けられてくるのか不安になったりする。
「ねー、空気を入れると若い男の型になるダッチボーイのDMが来るかもしれないね」と同い年の友達は言う。
「ギャハハ、いやらし」といいつつ一抹の不安は隠せない。
もしやひとり身の私の五十五歳の母親はいかにと思って電話をしたら、ひどく怒り狂っている。
「ちょっと、聞いてよ。墓石のDMがきたのよ」
あと二十年もしたら墓石、墓地のDMが山のように送られてくるかと思うと目の前が真っ暗になった

令和2年11月22日 走る女     辺見じゅん
結婚して二十代の後半からジョギングを始め、昨年の東京国際女子マラソンで自己最高記録を六分五十七秒も縮めて七位になった人がいる。松田千枝さんといって、三十七歳の女性だ。この人は、化粧品会社に勤めて十九年、妻と二児の母親業も両立させている。
この松田さんの話で心に残ったのは、
「どう走ればよいのか、このごろようやく見えてきた気がします」という、一言だった。
マラソンに限らず、何かを追い求めて「走る女」には、一途すぎてどこか悲壮感が付きまとっていただけに、どう走ればよいか見えてきたという言葉に感心してしまった。
人の生き方には直向(ひたむ)きな生と、諸向(もろむ)きな生とがある。
どちらを択ぶかはその人の生き方につながる宿命のようなものだが、女性はおおむね直向きな生を選んでしまうらしい。

令和2年11月15日 いのちの川柳   富谷英雄
ラジオ川柳の西條幸子アナウンサーに一通の手紙が届いた。手紙の主は、田澤玲介さんという方で、父は有石といった。
さて、彼の父は昭和二十五年に五十三歳ですでに他界している。
昔のモールス通信時代の郵便局で、電信の上役をしていた父の後を継いだ彼は、父と同じ電信課で働いていた。
八戸へ転勤した彼の父は、講演先で倒れた。彼は盛岡から八戸へすぐに駆け付けた。
彼の父はまだ意識があったが、左半身が動けない状態になっていた。
「父は私の顔を見ると、目にいっぱい涙を浮かべて、動く右手でしきりに指先を動かしていた。実は、モールス通信で『ジセイ、ジセイ』と打っていた。つまり『辞世、辞世』といっていた。私は『送れ』」という信号を合図した。すると、次のような信号があった。
『オモイキリウデマクリアゲチュウシャサセ』
思い切り腕まくり上げ注射させ
『タダノミズノンデミンナニイタワラレ』
ただの水飲んで皆にいたわられ
この二句をモールスで送った後、しばらくして父は息を引き取った」
私は、この話を聞いて絶句した。
こんなに壮烈な人間の最後は、あまりにドラマチックで、自分の川柳がちっぽけなものに見えて仕方なかった。

令和2年11月6日 誕生日
昭和22年生まれ。初めての73歳である。
若い頃の時間はゆったりと過ぎるが、老いと共に時間は近道をし始める。
子供の頃のゆっくりした時の流れが懐かしい。
時はたちまち過ぎてゆき、旅した日々も遥か彼方に去ってゆく。
 年を重ねるとフテブテしくなるが、他方、恥を連ねた人生に早く穴に隠れたい気もする。
結局、過去を振り返ることが恐ろしく、反省のない男になり下がり生きてきた。
この年になって不思議なことに欲がなくなって、時に空恐ろしい気がする。
されば、まるっきりの無欲かというと、そうでもない。
穴窯を焚きたい、良い作品を焼きたい、それに無能な頭を日々悩ましている。
人の歴史はなべて哀しい。

芭蕉は「月日は百代の過客にして行きかう年もまた旅人なり」と看破しました。
移り行くその日その時、世の中はどんどん変わり、一期一会、そしてそこにある無常観に私は立ちすくむ。

令和2年11月1日 インド    木村光
インドは昔から病原菌の宝庫といわれ、有名なドイツのコッホ博士もコレラ菌を分離するためインドに出かけている。
インドはまた、昔から時間の観念がない国といわれている。しがって、歴史の年代が不明である。
早い話が、お釈迦さんに関する年代もわからないので、その年代に関係のあった中国やギリシャの記録を基に推定されている。
インドでは、すべての時間がゆっくり進む。そして、八割強の人がヒンズー教徒で、輪廻転生の思想が今も生きている。
宗教心のないわれわれ日本人には信じられないことだが、百年前の祖先の借金を未だに払っている人がたくさんいると聞いた。
それも自ら進んで払っているそうである。
その理由は、死んであの世に行ったとき、祖先に出会って申し開きができないからだという。

令和2年10月25日 故郷への想い   加藤則子
今年も帰省の時がまいります。昨年まで、父が駅で出迎えてくれました。しかしその風景も今年から変わります。
雪の日、運転中の父は脳梗塞で倒れたのです。
幸い命は取り止めたものの、マヒが残り、退院した今も "食べること" "排泄すること" すべてを母に委ねております。
「人生、二度童子(わらし)、老いて子にもどるというから」
「結婚して五十年、お父さんにお世話になったのだから、今度は私の番」と言う母。
老いてふたまわりも小さくなった母の肩。
その母の肩の荷を一時でも軽くできれば・・・・・と、短い帰省を心待ちにしております。

令和2年10月18日 永六輔
「六十歳過ぎると、そこから元気になる人とそこから疲れきる人といますね」
「年をとったら 転ばない 風邪ひかない 食いすぎない これで十年は長生きします」
「若くして死んじゃうと可哀そうというけれど、長寿で不幸ってのも可哀そうじゃないかな」

令和2年10月11日 母とのこと   丸川珠代
少し前、十四才の少年が両親や兄を殺す事件が相次いだ。なぜ少年たちは、殺したいほど親を、兄弟を憎んだのか。
そうしたら私は突然、思い出したのだ。母への猛烈な憎しみを。
私の母は凄まじかった。高校を卒業して家を出るまで、ひっぱたかれるのは日常茶飯事だった。
離婚して幼子二人を抱え、医者として働くストレスも大きかったのだろう。
でもそんなことはすっかり忘れていたのだ。今では母の苦労もわかるし、感謝もしている。
それなのに突然、憎しみは蘇ったのだ。あまりの生々しさに私はぞっとした。
できるものなら、この憎しみを解決したい。私は母に自分の思いをぶちまけた。
すると母は「本当はあんたに謝らないかんのやろうけど、あの時は私も大変やったから」
私は知らなかった。母もまた、あの時の感情を解決できていなかったのだ。
私には、ますますわからなくなった。いったい、人間の憎しみや怒り、悲しみは、いつか消え去ることがあるのだろうか。
あるいは、こうした不幸な感情は解決することなく、ただ時間の経過とともに、記憶の底に沈殿するだけなのか。
親を殺したいほど憎む理由は、私にもうまく説明できない。
ただ思春期の何年にもわたって、もうれつな苛立ちを腹の底に捻じ込んできたことは、確かである。
どうすることもできず、何もわからないまま、あの感情は再び過去の淵へと沈み始めている。

令和2年10月4日 十年先の未来の自分に
高橋扶実  38歳
     身体ではなく、心が丸くなっています様に
三宅英明 61歳
     ジョギング、ウォーキング、山歩き
     まだまだやれるよ大丈夫!
     夜中の徘徊、これは駄目!

令和2年9月27日 単位の不思議   畔上司
人生八十年時代と言われますが、八十年といえば随分長い気がするものの、月に直して九百六十ヶ月と言えば、それっぽっちかと思う。
一方また自分の「人生経過時間」を日数で数えることもできるわけで、誕生日の他に「生まれて一万日目」とか「二万日目」とかを自分なりに数えてみれば、年単位によってぼかされてきた一日一日の重みがどっしりと感じられるのではなかろうか ?
ちなみに前者は二十七歳の時、後者は五十四歳の時に訪れる。
以上は個人の時間に関する話だが、次に「世代」の話をすると (一世代を三十年とすれば) たとえば、「織田信長は十三世代前の人物である」といった言い方が可能になる。十三世代と言えば、手を伸ばせば届きそうな時間的距離ではなかろうか。
以上のように、単位の変換は、容易に日常性からの脱却を呼ぶ。最後に一つ、私からの質問。
「今度の日曜日はあなたにとって生まれて何度目の日曜日ですか ? 」

令和2年9月20日
 「傘をさしていきなさい」
上ばかり見えるような状況だと疲れて、自分を見失うから、足元を見据えていくという意味だ。
遺言川柳
 遺言は 老いた妻への 感謝状
 「幸せな 人生でした」と 書きし父
 ありがとう そのひとことの 遺書で泣き

令和2年9月13日 生物学的な時間  本川達雄
ネズミからゾウまで哺乳動物の心臓が一回打つのに要する時間は、時間(t)と体重(M)との間に次のような関係が成り立つ(kは定数)
t=kM
0.25
つまり心臓が一回打つのに、体が大きくなるとともに、体重の0..25乗に比例して長くなっていく。
体重5トンのゾウは一回二秒だが、三十gのネズミはその二十分の一しかかからない。時間の流れる速さは動物によって変わる。
人間の間でも、時間の速さは微妙に違うようだ。南の方が北に比べて時間の流れは遅いらしい。南国では時間がゆったりと流れる。
動物には、その動物に合った空間の広さや時間のリズムがあると思われる。
車で走り回り、時間に縛られた生活は、はたしてヒトという動物の持つ空間やリズムに合っているのだろうか。

令和2年9月6日 易者   マルセ太郎
まるっきり仕事がなく、芸人商売に見切りをつけようかと迷った頃、街頭易者になってみようかと考えたことがある。
よく、当たるも八卦、当たらぬも八卦というが、だいたい当たるものである。
何故かというと、お金を払って易を見てもらおうとする客は、すでにその行為のうちに、当てられたがっているからである。
「あなたは、親との縁が薄いですね」と言われると、進んで解釈して「当たってます」と答えてしまう。善い人なのである。
キャバレー巡りをやってた頃、よくホステスの手相を見てやった。座興である。それでも、二つだけは必ず当たる。
そのひとつは、もっともらしく手を見て、「ああいかんな、君は惚れちゃいけない人に惚れてるな」
これが不思議とぴったり当たるのだ。「やっぱり、よく当てたわね」彼女は誰を思ってか、しんみりいう。
「つまらん男に惚れてるな」なんて言い方はしてはいけない。
二つ目は、どんなケチで貪欲な女にでも、「君は、人にものを頼まれたら、嫌と言えない性分だね」と言ってあげる。
間違いなく百パーセント、「そうなんだわ。よく分かるね」とくる。何が「そうなんだわ」だ、このどケチが。
以上二つを切りだせば、あとは思いのまま、君は易者になれる。

令和2年8月30日 うらやましい人    橋本大二郎
人生も五十半ばを過ぎると、他人の生き方を見ていて、尊敬とはひと味違った、ある種のうらやましさを感じる事がある。
その代表的な一人が、高知県が生んだ植物の鉄人、牧野富太郎博士だ。
牧野さんにとって、面目躍如たる出来事があったのは、アメリカから著名な植物学者が来日した時のことだった。
その歓迎会の席で、これといった肩書のない牧野さんが「ミスター牧野」とだけ紹介されると、すっくと立ち上がって、「オオ、グレートマキノ」と大きな声を上げながら、牧野さんの手を握りしめたのだ。
その場に居合わせたお歴々の驚きは、四十三歳のサラリーマンに、いきなりノーベル賞を出されて慌てた、日本のお役所の受けた衝撃に、似ていたのかもしれない。
記念館に行くと、草むらで植物を手にしながら、満面に笑みを浮かべた、牧野さんの写真がある。
どこか、アインシュタインを思わせる風貌だが、貧乏をものともせず、好きな道を一本に貫き通した、わが人生ここにありの一枚だ。
たとえ尊敬などされなくても、後世、ひと様にうらやましがってもらえるような日本人になりたいものだと、牧野さんの生き方を知るにつけ、つくづくと思うのだ。

令和2年8月23日 花咲く家で        山口県  末永敦子 67歳
三人の子供がそれぞれ家を持ったので、ようやく老夫婦の家を建てた。
朝日の当たる南向きの小さな家は、二人の理想どおりに、狭いながらも草花を一杯に咲かせた。
芽の出始めに大切に水やりをしていると、近所の奥さんが来て、
「これ、雑草じゃない」 「えっ本当」と私。
「でももう少し育ててみたいから・・・・・」と大笑いでした。
七十三歳の夫は「この年になって、こんなに生き生きと動くおまえを見るのが一番幸せだ」と云ってくれます。
あと何年一緒に生きていられるだろうかと、ふと思う事があります。
「ありがとう、あなた」

令和2年8月16日 妻の手   上野恭一  上野胃腸医院院長
当院の職員が還暦祝いの誕生祝をしてくれた。当院の職員は全員女性で、私は妻を同伴して、四十名ほどの女性ばかりに囲まれるという、男冥利に尽きる、幸せすぎる時を過ごした。
色々なアイディア尽くしで、私が目隠しをされ、五人と握手して私の妻を当てるというクイズがあった。
一人目はグッと握ったので、「この人は違う」と言ったら爆笑が起きた。
司会が二人選べと言うので「二番と三番」というと会場がシーンとなった。
「ではもう一度握って奥さんを当ててください」というので、「この人です」というと二番目の手を握ったまま目隠しを取ると妻の顔があった。
サスガ、やっぱり、どうして、と歓声が全員の拍手となった。
「自分の女房くらいわかるさ」と私は威張ってみせたが、ショックだった。
私は一番荒れている手を選んだのである。

令和2年8月15日 お墓      俵万智
敬愛する作家の、ゆかりの地を旅するのが好きだ。ゆかりの地には、勿論お墓も含まれる。
そこで手を合わせながら、生前はお目にかかることが出来なかった、その人へ、心の中で話しかける。
私はこれといった宗教も持っていないし、霊魂とか死後の世界とかについて、深く考えているわけでもない。
が、お墓の前に来ると、自然に個人に語りかける気持ちになる。目に見えるよりどころがあるということは、とても大きいな、と思う。
江戸時代の歌人、橘曙覧のお墓は、妻の酒井直子のお墓と仲良く並んでいた。
清貧の暮らしを選んだ曙覧を、ずっと支えた女性である。
親戚から離縁をすすめられても、彼女は決して聞かなかった。
二人の仲むつまじさに、思いをはせながらお参りをした。
いくら故人に語りかけても、もちろん返事はこない。
けれど、お墓があることによって、何かを受け止めてもらえているような、そんな気がする。

令和2年8月14日 師・藤原審彌       山田洋次
藤原さんが、遠い少年時代の思い出を懐かしむようにして書いた小説 『庭にひともと白木蓮』 を映画化したのは、もうかれこれ二十年前。主役はハナ肇。会社はこの作品を喜劇で売ろうとして 『馬鹿まるだし』 という、品の悪い題名に変えてしまった。
映画が完成して暫くたったある日、原作者が私に会いたいと言っている、ということが伝えられた。
嫌な予感がした。たぶん気に入らないところがあって文句を言われるのではないか。
荻窪駅から歩いて十分ほど、風変わりな応接間で私は藤原さんに会った。
藤原さんは笑顔で、「うん、とても良かったよ」と柔かい声で言った。ああ、この人は文句を言うために私を呼んだのではない。
それが判った時のしゃがみたくなるようなホッとした感じを、私は今でもまざまざと覚えている。
病気の身体に鞭うつようにして、執筆や講演旅行に多忙な毎日を見かねて、少し仕事を止めて休息してはどうですか、と進言したことがあった。藤原さんは笑いながらこう答えた。
「良いものを書きたい、少しでも多くの人に、人間のことを語っておきたい、という欲が出るんだよ。そう長くは生きられないんだからね、ぼくは」そして、それは本当になってしまった。
師の背後の壁には、何年も前から額におさめられた書が掛かっていて、それは美しい文字で次のように書かれていた。
 【何よりも先ず、正しい道理の通る国にしよう、この我らの国を      広津和郎】
厚顔無恥な無理がまかり通り、正しい道理が片隅に追いやられようとしている今の我らの国にとって、その国に暮らす日本人にとって、藤原さんの若死には、はかり難い損失、大きな不幸だった。-----

令和2年8月9日 俵万智
    一度だけ本当の恋がありまして南天の実が知っております    山崎方代
愛誦性に富む山崎方代の代表作といって言いだろう。
「南天の実が知っております」---その恋に、南天の実がどうかかわっていたのか、知るべくもない。
が、大事なのは、南天の実のほかは、誰も知らないということだ。そんな、ひっそりとした、恋。
小粒で控えめだけれど、鮮やかな、南天の実。その姿は、その恋を、象徴しているのかもしれない。
「一度だけ」なんて謙遜しているけれど、「本当の」と言える恋が、一生に一度あれば幸せなのではないか。
飄々とした語り口からは、そんな満足げな表情も、うかがうことが出来る。

令和2年8月2日 山田風太郎
先日、女子大生が、ノー豆ってどんな豆でしょう、と訊くので問いただすと、それは納豆のことだったという、ある大学の先生の文章を読んで笑ったが、納豆をナットウと読めないほうにも相当な理由がある。
知っている人間から見れば知らない人間の無知を笑えるだろうが、すべてを知っている人間はこの世にいないのである。

令和2年7月26日 親     出久根達郎
親子で互いが買った本を交換している人がいる。親が読んだ本を子が読み、子が選んだ本を親が楽しんでいる。
世代はいわずもがな好みも全く違うのに、双方何らの違和感も持たない。
しかしおやじも近頃はボケました、と息子が話した。
「おやじの本には、よくへそくりが隠してあるんです。当人は忘れてしまうらしい。むろん内緒でせしめちゃいますがね」
・・・・・私には、そうは思われない。照れ屋のおやじさんは、そういう形で息子にこずかいをあげているのではあるまいか。

令和2年7月19日 昔話    森繁久彌
父は文久元年の生まれで、大正二年に私を作った。そして二年後の大正四年に往生してしまった。
明治の初期に数少ない英語を習った人で、明治二十八年、日銀に勤めた。最後は大阪電燈(関西電力)に入り、常務となって働いていたが、元来弱かったのか、あえなく大正四年に逝ったのである。だから私は父の膝のぬくもりを覚えていない。
母は七十八歳でこの世を去り、今残っているのは私だけだ。
せめて子孫たちを皆集めて大宴会でも開こうと思うのだが、こっちも八十一歳で些かぼけてきているので、どうしようもない。
すべて思い出も人も死に果てて、こんなことを書くのもむなしい気がする。
〜いく年故郷 来てみれば     咲く花鳴く鳥   そよぐ風
  門辺の小川のささやきも    なれにし昔に変らねど
  荒れたる我が家に       住む人絶えてなく・・・・・
この歌の通りだ、あの家も今やありやなしや、訪う気もない。

令和2年7月12日 物や物事に執着しないようになった
訃報に過剰に反応する年齢になった。かってはそんなことはなかった。
六十代・七十代の人が亡くなると考えこんでしまう。
憧れた俳優や歌手やスポーツ選手が亡くなっていく。
そして個人の死を悼むことももちろんだが、時代の終焉という感じ方をするようになった。
日本人は変わった。我慢、辛抱、忍耐、倹約など今ではマイナスのイメージしかない。
昭和は遠い。世の中はこうして変わっていく。
今、ぼくらが形づくった価値観が失われようとしている。
それは時代の流れ、歴史の摂理として淡々と受け止めるべきなのだろうか。

令和2年7月5日 山田風太郎
よく老人が「老いてまわりに迷惑をかけないために健康に気をつける」と異口同音にいうのを思い出した。
一見、異論のない言葉のようだが、これには待てよと首をひねる。
人間、永遠に健康な老人というわけにはいかない。五十歩百歩、迷惑をかけるのがほんの少し先送りになるだけではないか。
先送りになった分だけ老化するわけだから、かえって迷惑の度合いがひどくなるだけではないか…・

令和2年6月28日
私は子供の時から現在まで、風呂以外ではいつも本を持っている。
子供がぬいぐるみや、プラの自動車をいつも持っているようなものです。
とにかく、私は大人になりきれないで、活字中毒というくらい常に何かを読んでいる。
そして私が本好きになったのは、間違いなく父を見て育ったからだ。
ある西洋の哲学者の「人は五歳にしてすでにその人である」言葉がある。
人は一生、同じ歌を歌うものらしい。

令和2年6月21日  父の日 霜融ける      川路ゆさ
高校2年の秋だった。担任に「お前の進学、むずかしそうだナー」と言われた時、「もう、いい」と、自分の中で勝手に決断を下し、父とは以後、会話が途絶えてしまった。結局、私は、文学の専門学校に入学した。
上京の朝、私は父に、「行ってきます」とだけ言い、こんな家には何の未練もない、とばかり、まるで敷居を蹴るようにして家を出た。
汽車が、家の近くを通り過ぎようとした時、私はハッとした。線路間近に父が立っていた。三月とは言え、父の立つ畦道には、真っ白く霜が降りている。その中で、父は、外套も羽織らず、真っ直ぐ私の目を見つめていた。私は一瞬戸惑い、ぎこちなく会釈しただけだった。
今年初め電話で姉と話をしていた時、「ウチは貧乏だったね」という姉に、「私は本当に大学に行きたかったのに…」と愚痴を言うと姉の息遣いが変わった。「高二の時父さん、あなたの進学で学校に呼ばれた帰りに家に寄ったのよ」その頃、姉は結婚して隣町に住んでいた。
「私に、あの子を何とか進学させてやりたいんだ」と言って帰らないのよ。
プライドの高い父である。嫁いだ娘の所へ出かけて、悩みを打ち明けるなど、私の父親像からはあり得ない事だった。
私は、顔を覆いたくなるような衝撃を覚えていた。
娘の希望を叶えられず、自分の不甲斐なさを責めて、一人立ちすくんでいる父の姿が見えてくる。
「今まで黙ってて、ごめんね。あなたサ、もう父さんを悪く言うの、やめなさいね。父さんは、8人もの子供たちに平等に精一杯、愛情を注いだのよ」十歳年上の姉の優しい声を聞きながら、私は涙が頬を伝に任せた。
この夏、四十年振りに私の胸の奥に積もっていた真っ白な霜が静かに融けた。

令和2年6月14日 シルバー川柳
LED 使い切るまで 無い寿命
自己紹介 趣味と病気を ひとつずつ
「こないだ」と 五十年前の 話する
誕生日 ローソク吹いて 立ちくらみ

令和2年6月7日 父        森山紗良 [神奈川県 12歳]
ユージン・スミスの娘は
「父は偉大な報道写真家でした。そして、いつも傍にいてほしいとき、いない人でした」
とか語ったそうですが、あなたの場合は逆ですね。いつも、傍にいないでというとき、近づいてくるんだから。
毎朝の通学電車のことだけど、満員電車の中でかばってくれなくていいんだよ。
ニヤニヤして胸のところで小さくバイバイして降りていくあなたを、私は無視して見送らないのは当然だって皆言うよ。
でも、ごめんね。

令和2年5月31日 シルバー川柳
躓いて 何もない道 振り返り
目覚ましの ベルはまだかと 起きて待つ
「いらっしゃい」 孫を迎えて 去る諭吉
孫帰り 妻とひっそり 茶づけ食う

令和2年5月24日 山田風太郎
「思い出す事など」や漱石の書簡などに出てくる出来事が、夫人の「思い出」になると、同じ事柄でも人によってこうも印象が変わるのか、と嘆息せざるを得ないほど俗化して描かれる。
 いわゆる修善寺の大患のとき、日本国中からの見舞客や手紙を受けて漱石は感謝に満ち溢れ、「肩に来て人懐かしや赤蜻蛉」という心境になった。いま、こんな無私の敬愛を受ける作家、あるいはどんな職業にしろ、そんな人物があるだろうか、と私は考えていた。
ところが森田草平によると、実は鏡子夫人が全国のあらゆる知人に「ソウセキキトク」の電報を打ちまくった結果なのだそうである。
肩に来た赤蜻蛉は自然にとまったのではなく、釣り竿で捕まえたものであったのだ。
----おそらく現実というものは、これまたこういうものなのだろう。

令和2年5月17日 理想があるから人間だ     福本伸行
モノを食べて排泄し、生殖を行い、睡眠をとる。生きていく上での基本的な行動は動物も人間も同じである。
しかし、本能だけで生きている動物と人間は異なる。その違いが「理想を目指す」ところにあると彼は言う。
ただ単に生きながらえることだけで満足しているようでは動物と変わらないのだ。
もちろん、いろんな動物がいるように人間のタイプも様々だ。
中には理想なんて一文にもならないことは一切無視、人を貶めることを厭わず、卑しい人間になろうとも自分の損得を優先 ! という生き方を貫く人もいるだろう。
しかし、彼らはそんな自分を好きになれるのだろうか ? 自分自身に誇りを持てない人生に何の意味があるのか ?
自分自身を自分が尊敬できるような存在になることを目指すことによって、初めて人は自分に誇りを持てるようになる。
その誇りは世界で自分ひとりだけしか描けない理想の自分につながる。

令和2年5月10日 どんな人生もかけがえのない自分だけのもの   福本伸行
何事もうまくいかない時、彼のように「自分がちっぽけな存在」、「自分の人生は大失敗」などと感じることは誰にでもあるだろう。
しかし、自分を誰かと比べてそう感じているのなら、それはきっと間違っている。
人生は他人と自分との比較で決まるものではなく、それぞれの個人がどう感じているかで、すべてが決まるもの。
人生は他人とのレースではない。その持ち物の多さや幸、不幸を他人と比べて一喜一憂しても仕方がない。
彼の言うとおり、人生は「メチャクチャ個人的なもん」なのだ。
どんな生き方をしようとも自分だけのかけがえのない人生。他人と比べて自分を低く見る必要なんてない。
自分らしく自由に生きることが大切なのだ。

令和2年5月6日 定年退職の日に      東京都  井上勇
昭和六十年三月三十一日。三十三年間務めた公職を終えた。
私は、後輩から贈られた花束と賞状の入った筒を持つと、亀戸駅から車中の人になった。
車内はわりあい空いていた。ふと、初老の婦人が声をかけてきた。
「大変失礼ですが、ご定年で退職ですか」
初老の男が花束と筒を持っている。日は三月三十一日。てっきりそう思い、声をかけたのであろう。
私は「ハイ、そうです」と言ったが、言葉の最後は絶句してしまった。
「長い間、大変ご苦労様でした。明日からは、ごゆっくりとおやすみくださいませ」
と何気なく言ってくれた言葉に、熱いものがぐっと込み上げ、「ありがとうございます」という言葉が出ず、頭を下げたままで止まってしまった。でも、何故か三十三年間の苦労がスーッと体から抜けていくような気がした。
言葉をかけてくれた初老のご婦人、見も知らぬ私への一言、本当にありがとうございました。
あれから三年、第三の人生を元気に過ごしております。

令和2年5月5日 新婦 入場です      御蔭 直
ある冬の午後だった。一組のカップルの披露宴が開宴したが、いつもと違うことがあった。
新郎新婦と96名の招待客の殆どが全盲ということだった。私は打ち合わせの時に聞いた二人の来し方を思い出していた。
新郎は大学を卒業後某有名企業に入社、やがて海外勤務を命じられ、五年のヨーロッパ生活を終えて帰国、その直後病魔が彼を襲った。そして、43歳で完全失明。妻は三人の子供を連れて、彼の元を去っていった。
新婦は女子大を卒業後単身アメリカに渡り、ジャーナリズムを勉強し帰国。未来に胸を膨らませていた矢先、横断歩道を渡る彼女にオートバイが突っ込んできた。運命は彼女からすべての光を奪った。
ふたりの出会いは初夏のこと、職業訓練所の庭の木陰のベンチだった。以来、夕暮れの風に涼むひと時が、唯一のデートになった。
彼のプロポーズの言葉は、「ぼくにあるのは、この障害者手帳ときみへの思いだけ、それでもついて来てくれるかい ? 」
みるみるこぼれ落ちる涙。彼女は何度も何度もうなずいていたという。
そして、結婚式。宴の招待客は、まだ目が見えていた頃の知り合いは誰もいなかった。
どんな時も、二人の手はしっかりと握られていた。
この握り合った手と手に、今まで見たどんな夫婦よりも強い絆を感じたのは私だけではなかったようだ。
介添え、会場係、音響係・・・・、すべてのスタッフがうつむいて、あるいは壁の方を向き嗚咽をこらえている。
魂まで揺り動かされるような宴に、温かく長い拍手が送られた。

令和2年5月4日 新婦 入場です      御蔭 直
教会での挙式も整い、披露宴は12時開宴。乾杯。祝福の拍手のなか、新婦がお色直しのために中座した。
順調に式は進んでいった。その時、一人の男性がひと言スピーチをしたいという。新婦の兄だった。
「皆様、本日は若い二人のために、誠にありがとうございました。まず、私たちの父のことですが、父は私が大学一年、妹が高校二年の時、肺がんを宣告されて三カ月であっという間に死にました。けれど、人一倍気丈な母のおかげで、私たち兄弟は何の心配もなく、大学を卒業、やがて私も家庭を持ち、妹も結婚が決まりいよいよこれから親孝行する番だと二人で話していました。ところが、今から三か月前、買い物帰りの母は、玄関で倒れそのまま帰らぬ人になってしまいました。」会場は水を打ったように静まりかえっている。
「・・・・・姉妹のように仲の良かった母を亡くし、妹は仏壇の前で朝から晩まで泣いていました。そんな中で唯一の慰めは、母が妹のために縫い上げた手作りのドレスが完成していたことでした。妹はこの後、母の形見になってしまったドレスを着て入場します。母はきっと妹をどこかで見守ってくれていることでしょう・・・・」新郎とその家族だけでなく、会場じゅうが涙に咽っている。私も不覚にも涙をもらしてしまった。
数分後、私は扉の外に行った。彼女はミディ丈の薄いブルーのワンピース姿で立っていた。妖精のように愛らしい。
「司会者さんどうですが、このドレス。この母のドレス、まだ、母が近くにいるみたいで」
私の目に、また新しい涙が溢れてきてしまった。でも、こうしてはいられない。急いで司会台に戻ると、ひときわ大きくアナウンスした。
「皆様、大変お待たせしました。お色直し整いましたご新婦、ただいま、ご入場でございます」

令和2年5月3日 今夜だけおばあちゃん     群馬県 田村ななえ
旅行が唯一の趣味であるおばあちゃんは、おじいちゃんが亡くなって三年ぶりに初めての一人旅に出かけた。
日暮れに山小屋風の旅館に着き、一風呂浴びてさあ夕食、という時、
大きな食堂に部屋毎に分かれているテーブルの自分の場所を見たとたん、どうしようもない寂しさがこみあげてきた。
周りはみんな家族連れや友人同士、わいわい言いながら名物の「イノシシ鍋」をつついている。
そんな中の自分のテーブル・・・・・すみの小さなテーブルにポツンと置かれたちっちゃな土鍋。
涙がポツンとこぼれ落ちた。
と、その時、二つ向こうのテーブルの若いカップルの、男性が近づいてきて、
「あの、もしよろしかったら三人でお鍋を囲みませんか ? 大勢の方が美味しいですよ」と声をかけてくれたのです。
「いいのかな・・・・・」
一瞬まよったものの、二人の笑顔を見ておばあちゃんの涙は引っ込んだ。それを見て、男性が、
「僕、おばあちゃん子なんですよ。母がいなくてね」というのを聞き、
「じゃあ、今夜だけおばあちゃんになるよ」

 よかったね、あたたかい人たちに会えて、おいしいお鍋を食べられて、そして大切なおばあちゃんに素晴らしい一夜をありがとう。

令和2年4月26日 夕焼け      味方治栄  札幌市
外へつんのめるように追い出された幼い私とすぐ上の兄の後ろで戸がピシャッと音をたてて閉まった。
情け容赦ない父のお仕置きである。見上げた夕焼けの空は何やらもの悲しいまでに赤く、立ちんぼの兄弟のほおを焼いた。
父は私が中学生の時、鼻の奥にできた腫瘍がもとで五十七歳の若さで亡くなった。
寂しがり屋のくせに明治生まれの無骨ものであった父は、家族に対する愛情表現は特に下手だった。
やさしい気持ちを、言葉や態度で表すことの出来ない照れ屋だったのだ。
夕暮れ時、地平線の周りを華やかなオレンジ色に染めて沈む夕日を見るとき、追い出した私たちを、戸の陰でそっと見ていた父の複雑な目の色を思い出す。
私はそんな夕焼けの空が大好きなのである。

令和2年4月19日 子から親     熊本市 永谷奈津子
私の帰宅をおじいちゃんの家で待っていてくれる7歳の息子と4歳の娘。
ある夜のこと、息子が道端に落ちている空き缶を拾っていました。
「そんなもの拾ってはいけません、汚いでしょ」と子供を叱ってしまったのです。すると息子が、
「誰かが拾って飲んだりしたら病気になるから、このカンは家に持って帰って捨てるんだよ」と言いいました。
娘も、空き缶や、ガムの包み紙などを拾って帰りました。
家に着いてから息子にどうしてそんなことをするようになったか聞いてみると、
「だって、お父さんいつもやっているよ」
息子の言葉に、私は穴があったら入りたいほど恥ずかしい気持ちになりました。
これからは、お母さんもあなたたちを見習って、道にごみが落ちていたら、持って帰って捨てるようにするからね。

令和2年4月12日 患者は客だ    山中恒
これまでの患者が医師に対してとるべき態度はただ一つ。
「すべておまかせします。私はまな板の上の鯉になります、いかようにも料理してください」というものだった。
そして、医者に差し出がましい口出しは失礼だ。出してよいのは謝礼金か商品券だけだ。患者は長い間そう思ってきたのである。
けれども、仕事は他人に代わってもらえるが、病気は誰にも代わってもらえない。
自分が病気になったら、治療の結果は(それが良くても悪くても)患者である自分が引き受けるしかないのである。
今までは患者は医学知識のない素人なので、医師に命じられるままに、すべてをおまかせするしかないと思い込んでいた。
けれども、患者が主体的に病院や医師を選んだ方がいい。医師の技量や経験もチェックした方が安全な事もある。
患者がそんなふうに考えるようになったら、医師たちの態度や口のきき方も今よりはよくなると思っている。
何といっても『患者は客だ』ということの意味を、一番理解しているのは医師だからだ。

令和2年4月5日 患者は客だ    山中恒
医者は神様ではない、医者も患者も同じ人間にすぎないのだ。
だから、「医者の言葉を頭から信用してはいけない。言われたことを何でもハイハイときく必要はない。納得できないときは拒否すればよい。言いたいことは遠慮しないでなんでも言え」と私は言いまくってきた。
しかし、「本当におまえの言うとおりだヨ」と同意する人にはいない。「そんなことは、とてもできない」という人ばかりである。
「いくらなんでも、医者にそんな失礼なことは言えない」「へたに医者に逆らったら診てもらえなくなるんじゃないか」「うっかり、こうなんじゃないですかと言ったとたん『だったら自分でなおせばいいだろう』って、怒鳴られたこともあるからなぁ」とか・・・・・。
どんな人でも、医者の前に出たとたん、子羊のごとく従順になって、「ハイ、ハイ」としか言えなくなってしまうらしい。

令和2年3月29日 患者は客だ    山中恒
日本人は人生観や死生観については熱心に論じる。けれども、病気や医療に関しては恐ろしく無関心な人が多い。
いや無関心というよりは、病気という危機に対して無防備と言った方が正しいかもしれない。
病気を予防できるならやった方がいいが、どんなに用心しても人間である以上病気になる。
その時のこともあらかじめ考え、万が一病気になった時にどうすればいいのかを考えておくのも無駄ではないと思う。
また、たとえ病気になっても「これでもう自分の人生はおしまいだ」と絶望しない方がよい。
病気も人生のひとコマと思って、かなり厳しい病気と付き合いながら上手に生きている方も沢山いるからだ。
近代は、死についてのさまざまな恐怖に、病院の治療の恐怖を加えた。
それも百パーセントなおる見込みのない患者に、一日でも一分でも命を与えることを疑う余地のない義務とするのは、
近代医者のホメイニ的「狂信」ではあるまいか。     山田風太郎

令和2年3月22日 卒業      藤原正彦
卒業式のたびに私は感激した。
「仰げば尊しわが師の恩 教えの庭にもはや幾歳 思えばいと疾しこの年月 今こそ別れめいざさらば」
卒業式は大学にもある。先年、学生部長の私は久しぶりに卒業式に出席した。式は進み、「仰げば尊し」となった。
高校までだと、これが始まるや、女生徒や先生の間に白いハンカチが目立つが、大学では違っていた。
私は思いが迫り絶句してしまった。私は『別れ』そのものに圧倒されたのだと思う。
人間は誰も、一定期間ののちに、死を迎える。この世のいっさいと決別することになる。
我々の人生とは、この最終的別れに向かい、少しづつ別れを重ねていく過程に他ならない。
普段は忘れているが、別れに向かい合ったとき、我々はこの事実に傲然とし、底深い悲しみに満たされるのではなかろうか。
じっと口を固く結んでいた私が学生席に視線を向けると、白いハンカチが目に入った。大学院博士課程を専攻するアメリカ人学生であった。
アメリカの大学では涙を見た事は一度もなかった。卒業式はコメンスメント(始まり)とも呼ばれる如く、新しい人生への出発のお祝いである。それだけに彼女の涙は意外だった。「仰げば尊し」が終わっても、彼女は目頭を押さえていた。
日本文学を長年にわたり学んできた彼女は、日本人の底にある、鋭い無常観まで共有するようになったのだろう。
私は一向に立ち直りそうもない彼女を見ながら、この白いハンカチこそが、今日の卒業式の最も美しい花だと思った。

令和2年3月15日 ホスピス      山崎章郎
彼は、自分の病名を知っていた。だからこそ、ホスピスを選んだのだ。
だが、当然のように入院一か月も過ぎると、彼の体はがんの進行とともに衰弱してきた。
歩行がふらつき、ベッドに横になる時間が長くなった。
ある日、かなりの出血があり、なかなか止血できなかった。
最初に駆け付けたのは妻だった。噴出した血液と青ざめた彼を見た彼女は覚悟していたとはいえ、激しく動揺した。
その時、妻の動揺と歎きを慰めるように、彼は落ち着いた表情で妻の顔を見つめながら何度もうなづいた。
それはあたかも「ありがとう、でも大丈夫だよ」とでも言っているように見えた。
そのような彼の姿を見ていると、人間の尊厳とは、肉体的な問題もさることながら、その気持ちや意思の有り様に依拠していることが良く分かる。

令和2年3月8日 月  京都市 田中美枝子  63歳
父は脳溢血のため、48歳でこの世を去りました。私が20歳を迎えたばかりの年でした。
突然の死で、母も私も茫然とするばかり、
肩を落としての帰り道、路面電車の運転席近くに頭をもたげて座っていると、
白髪まじりの運転手さんが、私を呼び、前方上に両手で月に向かって円を描かれました。
その先にまぶしいほどの満月が・・・・・
「上を向いて生きなさい」と言われた気がして、心に響きました。ありがとう。

令和2年3月1日 手当    川崎市 匿名 55歳
新幹線で母の遠距離介護に通っていた時のこと、体力的にも、時間的にも、経済的にも、疲れていたのかもしれません。
帰りの夜の車中で気分が悪くなった時、隣席の老婦人が、
「何か私にできることはありますか? 背中をおさすりしてもよろしいですか?」と声をかけてくれたのです。
その婦人の小さな手のぬくもりが、背中いっぱいに広がりました。徐々に楽なっていくのが不思議なくらいでした。
「手当てって、こういうことなのか」と、遠い日の母の手の温かさを思い起こしました。
東京駅でその婦人と別れる時、
「あなたもどうぞ体に気をつけて、ご自分の時間も大切にね」
と心のケアまでしていただき、ふっと心も軽くなる思いがしました。

令和2年2月23日 海雲
東大寺の管長をしていた上司海雲。
亡くなってから、海雲の書斎から出てきた作品がある。
それは、セミの抜け殻とセミをかいて、かたわらに、
  死ぬことを知りつつ、いまも生きており

令和2年2月16日 大きな古時計
♪大きなのっぽの古時計
 おじいさんの時計
 百年いつも動いていた
 ご自慢の時計さ♪
古い時計も老人も、コチ・コチ、コチ・コチ、と歳月を刻んできた。
その歳月には、想いがいっぱい詰まっている。
動かなくなっても、その想いは消えない。

令和2年2月9日 冬の花
 ♪ 冬の花、見つけた。ふきのとう見つけた
    寒い雪の下で、じっとがまんしてた ♪

令和2年2月2日
人間の脳の神経細胞は平均して百四十億個くらいあるらしいのだが、二十歳を過ぎると1日に十万個ずつ失われていく。
脳の中ではまさに猛スピードで神経細胞が消滅していき、それに伴って人間は様々なことを忘れていくわけである。
つまり、人間は物忘れする生物で、どういうわけか、自分に都合の悪いことを率先して忘れていく傾向にある。
悲しいことなんて真っ先に忘れてしまう。そんなことを覚えていてもただ悲しいだけだから。
脳の中で、「死ね死ね脳細胞」という命令が伝わって、ほにゃほにゃと消滅してしまうのである。

令和2年1月26日 眼科医    坪田一男
眼科医は眼の病気のことはだいたい何でも知っている。
ところがである。
"何で眼は二つあるの ?" "なんで眼は疲れるんだろう、耳は疲れないのに ?" というような素朴な疑問は苦手だ。
最近脳の仕組みが明らかになるにつれて、視覚の仕組みが明らかになりつつある。情報化社会と呼ばれる今日では、情報の70パーセント以上は視覚情報といわれている。普段何気なく使っている眼こそ、脳のコンピューターへのデータ入力を行う外界とのインターフェースなのである。こういう新しい発見は眼科医にとって気持ち良い驚きである。今まで医学の中では、
"眼医者歯医者が医者ならば、とんぼちょうちょも鳥のうち"
と政治的に正しくない表現をされて内心怒っていたところ、脳の仕事の中心は"眼科"にあったわけですね、といわれて気持ちよい。
現代人の80パーセント以上が目の疲れを訴えているが、答えは簡単だ。目が乾くと目が疲れる。
眼の乾きを予防してやれば目は疲れない。

令和2年1月19日 米長邦雄  棋士
「・・・・師匠が教えてくれないから将棋が伸びない。師匠が教えてくれたら将棋が伸びる、というもんじゃないんですね、将棋でも何でも。じゃ、どうしたら強くなれるかといったら、どのくらい好きかってことにかかっているんだよね、たったひとつ、それだけなんです」
と言っている。
それこそ「親がやってくれないから」「学校で教えてくれないから」「会社が言ってくれないから」と称して甘ったれている゛くれない社員゛たちに聞かせてやりたい名セリフである。

令和2年1月12日 エリート      木戸克海 
誰もが避けて通れない老年期を、どのように迎えるかということが、最近、私にとっても気になるひとつとなった。
少しお手伝いをしている特養ホームの園長さんから、とても興味ある話を聞かせてもらった。
「当施設のように、ほとんどの方が寝たきり状態の老人ホームで、エリートといわれる人は、決まって訪れる方がいる人です。
家族の方が定期的に訪れる。友達や、同じ趣味を持った人たちが、お見舞いにやってくる。そういう人なのです。
準エリートは定期的に訪れる人はいないけれど、贈り物や、たよりがきまって来る人です」と
私は園長さんの言葉を反芻してみた。
満ち足りた生き方というのは、何もお金や物をかき集めるだけでは幸福とはいいがたい。もちろん、お金や物はそれなりに大切なことではあるけれども、何よりも、人との交わりに重点を置けるということがエリートの生き方なのだと、私にはそう解されてならない。
園長さんの一言は、一般社会でも通用する言葉ではないだろうか。

令和2年1月6日 あの頃の留学2      加藤恭子 
だが、夏休みが終わり、二人の預金は秋の学期の授業料しか出ない。私は住み込みを続ける決心をした。
今迄の仕事量はこなす、だからこのままの給料で働かせてもらえないかという私の懇願を、その家の女主人は聞き、しばらく黙った。
「私は慈善事業はしたくありません。でも、私があなたに是非続けてほしいのは、あなたが優秀なハウスキーパーだからです」
という女主人の言葉を、私は涙ぐみながら押し頂いた。 
あのアメリカ大陸で、今は亡き主人と私は、力を合わせて闘った。季節労働者とメイドから、階段を一段ずつ上がった。
そして私たちは成功したといえるだろう。主人はマサチューセッツ大学の准教授になり、私もある程度の成果を上げられたのだから。
いや、工場の戸別訪問でことわられ続けた日本人留学生たちのそれぞれが、成功を収めた。
それは、嘘が言えなかった日本人としての矜恃によるのだと、四十三年後の今にして思う。

令和2年1月5日 あの頃の留学      加藤恭子 
昭和28年、敗戦からわずか8年、大同海運の高花丸に、主人と私は乗船。無謀なアメリカ私費留学へと出発した。
東大の大学院で動物学を勉強していた主人は、早稲田大学仏文科の学生だった私と結婚。
それから三年、夢をあきらめきれなかった二人は、そろってカリフォルニア大学バークレイ校の大学院に入学した。
学業がいかに困難だったかは、ここでは語るまい。
すぐにアルバイトを探し、二年目の学費は夏休みに捻出する計画だったが職がない。
三か月しか働かない学生といえばそれだけで工場からは拒否される。
イランの学生は、移民といって働き、三か月で止めればいいのにと嗤う。だが日本人の学生たちは、一人として嘘が言えないのだ。
敗戦国からとはいえ、いつの間にか日の丸を背負っていた。武士道の精神に悖るようなことはできなかったのである。
結果として、日本人学生たちはとぼとぼと工場訪問を続けた。この学生たちが、一流企業の社長や重役たちの子供たちであったことを思うと、隔世の感がある。主人は毛布一枚担いで、季節労働者の群れに身を投じた。私はフルタイムの住み込みメイドになった。
続く

令和2年1月4日 丘の上の父   長谷川光二  昭和六年生
母は私が中学2年の時亡くなった。大学を出て、東京の企業に就職した。母親のいない田舎の家には帰ることも少なかった。
何年ぶりかで正月に田舎に帰った。
明治生まれの父は懐かしそうでもなく、「おうっ、帰ったか」という態度だったが、末の妹が笑って「男同士っておかしいのね、お父ちゃんも、帰るまでは、後、何日で帰ってくるって大騒ぎしてたのに、顔を見ると知らん顔だもんね」と言った。
明治生まれの父は、他人への思いやりを態度で示せる人ではなかった。
人に親切にされても、「有り難う」とか「済まないね」とかが、素直に言えない人だった。
まして、子供に「よく帰ったね」とか「元気にしてたか」とか言える人ではなかった。
正月休みはアッというまに終わり、東京に帰る日になった。帰る時も、私の「じゃあ、帰るからね」という挨拶に、父は「うん」と頷いただけだった。
帰京の汽車が十分くらい東京に向かって走ったあたりが田舎の家だった。
汽車の窓から「あの辺りがそうだな」と思って見ていた私は、ハッとした。丘の上に、汽車に向かって大きく手を振っている老人の姿があった。
父であった。父が私に手を振っているのだ。窓から、私が見ていなければ、まったく無駄なことであった。
頑固で一人よがりの父は私には反面教師だった。「父のように生きたくない」、そう思って育った。
でも、この気づかぬかも知れぬ我が子に手を振る父の姿は、私の父への反発がお釈迦様のてのひらの中での反発でしかなかったことを思い知らせた。
その父ももう亡くなり、七回忌も過ぎた。

令和2年1月3日 絆     佐藤節子
人は、いったい、いくつぐらいで、"哀しい"という感情を覚え、涙するのだろうか。
"嬉しい"という感情は、時として自分で創り出すことができる。しかし、この"哀しい"感情は自分からでなく相手がいたり、対象となる出来事が必ずあって、はじめて心に湧く感情であろう。その意味で"嬉しい"に比して"哀しい"は、とても痛々しく、孤独感さえ感じるものだ。
それだけに私は、誰かと、"哀しい"を共有したとき、相手との強い結びつきを感じる。もしかして、それが"絆"と呼ばれるものかもしれない。
私が息子にはじめて絆を感じたのは、息子の、ある涙を見たときだった。まだ一歳になるか、ならないかの頃だ。
そのころ、私は息子とふたりで生きていく、と決め、肩に力が入りすぎていたのだと思う。
その晩、息子は私が帰宅してから、泣いてばかりだった。私は爆発してしまった。
「お願い、どうしてほしいのかいってよ、泣きたいわよ、ママも・・・・・」
深夜の台所で涙があふれだし止まらなくなった。
息子にかわいそうなことをしたという悔い、堪え性のない自分の情けなさ、自分は親になってはいけない人間なんだ、という責め、そして、何故、私はひとりなんだ、という本心が一気に噴き出した涙であった。
やがて背後に人の気配。そこには寝たとばかり思っていた息子が立っていた。
息子は、私の泣きじゃくった顔を見て、指でゆっくりと私の涙を拭いた。すると今度は息子の両目に、涙があふれだしてきた。
息子はこんなに幼いのに、私の哀しみを知ったのか。そして涙しているのだろうか。この子は。
「ごめんね、ごめんね」
そういいながら、息子の涙を、息子がしてくれたように私は両手の指で拭いた。

令和2年1月2日 神社
神社の参道は端を歩きます。真ん中は神様が通るためです。
鳥居をくぐる時一礼します。鳥居とは、天照大御神を天岩戸から誘い出すために鳴いた鶏が止まる場所だと言われています。
狛犬は(神社によっては違うところがある)口を「あ」と開けている「阿形」が獅子、口を「ん」と閉じている「吽形」の角がある方が狛犬です。
参拝の作法は、ニ礼ニ拍手一礼です。
一般的なおみくじの順番は良い方から、大吉、中吉、小吉、吉、末吉、凶、大凶です。
悪い方のおみくじを引いた場合引きなおしはありません、「吉に転じるよう」願って木に結べば大丈夫。良いものは持ち帰ってもいいです。
    初詣 手から離れん お賽銭   野村甲斐

令和2年1月1日 元日
明けましておめでとうございます。
皆様、よいお年をお迎えのことと存じます。
今年も緋色窯をよろしくお願いいたします。
     
    瀬戸 唐津 丹波 越前 初日の出

太めの女性は「下痢をしてでも痩せたいわ」などと言いますが、昨年体調を崩し、ほとんど脂気のない私はうらやましい。
預金と同様に、栄養も有るところには有り余り、乏しいところには行き渡らない。
世の中は不公平なものである。

元日は1月1日のことで、元旦は1月1日ののことです、つまり旦の字は朝日の象形文字なのですね
ありがたいことと、朝日に手を合わせます。


万葉川原から歩いて数分、大きな椋木の下に、すらりとした自然石の碑。
  
新しき年の始めの初春の今日降る雪のいや重(し)け吉事(よごと)   大伴家持

新春の今日降る雪のように、吉事よ、いよいよ増えていっておくれ・・・・・。

明日を心配せず、昨日のことは忘れ、今日を穏やかに楽しく日々を過ごせたらと思う。

今年は子年、背筋をしゃんと伸ばして、毎日を丁寧に、自分らしく生きていきたいと願っています。

*ホームページを開設して20年、工房は24年、穴窯は13年目です。
2020年が皆様にとって、明るい年でありますよう祈念いたします。