緋色窯日記 2014年に続く

平成25年12月31日 大晦日  小沢昭一
 なにはさて あと幾たびの 晦日蕎麦  変哲

古い歌をうたうと、その頃の自分に、即、戻れるのでありまして、あの時、あの頃の悲喜こもごもの思い出がよみがえります。
心の旅とでもいうのでしょうか、あわただしく世渡りをしてきましたから、歌に触発されて、
来し方行く末に思いをめぐらし、もう一度、己が人生をゆっくり振り返る旅に出られるのです。

平成25年12月30日 来し方行く末 (こしかたゆくすえ)
来し方行く末とは過去と未来のこと。
人生の盛りを過ぎた人は、誰でも、過ぎ去った数多くの華やかだった出来事と、あまり期待はできぬ今後への不安に思いをはせる。
最近は「きしかた」という人が増えて、行く末が心配である。

平成25年12月29日 宝船
赤穂浪士の一人大高源吾は、芭蕉の弟子の俳人其角の弟子として子葉。
討ち入り前日、其角の「年の瀬や水の流れと人の身は・・・・・」に
「・・・あした待たるるその宝船」

平成25年12月22日 雀の号令 宮城県 高橋和子
畑に囲まれているせいで我が家は、東西南北、風当たりが良い。
トタン塀の中側のサンに、雀が団体でとまっている。
丸くふくらんで可愛い姿に、シャッターを押した。途端に一斉に飛び立っていった。
「行こう」という雀の号令が聴こえたような気がした。
いいね、仲間がいて。
一人暮らし二年目
北風の日に。

平成25年12月15日 幸せだから  群馬県太田市 内村照子
高一の息子が、私の頭を見下ろして何気ないように「白髪が増えたなあ」と一言。
私は思わず「苦労しているから」と一言。
息子は隣にいた主人に「白髪がねえなあ」そのタイミングの良さに吹き出したいのをこらえたのは、
主人の「幸せだから」と言ってくれたこと。
息子は「ふふん」と鼻で笑って行ってしまった。
主人と息子の私に対する優しさにしみじみ感謝した夜でした。

平成25年12月8日 誕生カード 広島市岡村恵子
「僕のお嫁さん 誕生日おめでとう 今年はなにかと心配かけて申し訳ない」 というカード
足がちょっぴり不自由になったおむこさんは ちょっと気弱になったかな
「僕もがんばる 君も支えになってくれ」 赤い線が引いてありました
結婚して四十五年
父さんのおかげで今があります
どうか照れずに手をつないでください

平成25年12月1日 置き忘れた母印  埼玉県富士見市 小島さかえ
市役所に行くと私の隣でおばあさんが「ここに印鑑を押してください」と言われて、あいにく印鑑を持って来ていないとか。
そこで職員の方が、「では、母印でもいいですよ」と。
するとおばあさん、あがってしまっていたのか「すみません、母印も家において来てしまって」と言っているではありませんか。
私はその時、職員が笑うかバカにするような態度をとるのではないかと気になってみていると、さりげなく「そうですか、では、指でいいですよ。ここに押して下さい」と言っているのです。
なんと素晴らしい人なんだろうと感心致しました。
私もちょっとしたことで恥をかきますが、こういった対応にどんなに救われるかと思い、見習わなくてはと反省もした一日でした。

平成25年11月24日 裁判長ここは懲役四年でどうすか  北尾トロ
  被告たちの年末年始。
今度は裏ビデオ販売男。えーと、前科もあり、暴力団員だった被告の男。トッチャン坊やみたいな顔が良い。
検察官が目を吊り上げて質問してもエヘラエヘラと柳に風。
「いやぁ、もう、反省してマス」と全く反省していない表情で、ヌケヌケと頭を下げる。
ここで内縁の妻が、わざわざ子供を連れて登場。女のパフォーマンスは見事だった。はきはきと質問に答えるしっかり者、しかも美人で若い。子供もあどけなくかわいい。検察側もそれ以上突っ込みようがなく、
裁判長も直ちに判決を言い渡す。家族そろって正月を迎えさせてやろうという粋なはからいである。予想通り執行猶予5年でケリがついた。
喫煙時にやってきた親子、「ま、証言なんてあんなもんよね」「どうってことねーよ、楽勝」
さっきまでとは打って変わっての普段着会話に好感が持てるね。しかも安ど感からか、口が軽い軽い。
「どうする、今夜」 「そりゃおめー、どっか行こうよ、どっか」 「イヤらしい、何よその目は」 「ゴムなしか、ははは」
執行猶予記念にキツ〜い一発の誓い。

平成25年11月17日 裁判長ここは懲役四年でどうすか  北尾トロ
  裏口入学詐欺事件・・・カモはいくらでもいる。
塾経営者が受験生の親に裏口入学を持ちかけ、数年間で33億円の斡旋料をだまし取った事件。
塾経営者は商売繁盛で相棒を探すがその男、新聞社の政治部記者とうそをついて塾講師になり、裏口入学の話を嗅ぎつけると欲望爆発。
男の欲望とは、政治家になること。もちろん「政治家になればもうかる」から。「選挙に出たい、そのためには金が要る」
何もせずに給料をもらい、謝礼をネコババ、1億4千万円。
4千万で山梨県議会に立候補、もちろん落選。
「それはまぁ落ちます。一度目は顔見世ですから、二度目で当選を狙っていました。」
こういう証言を聞いていると、政治の世界の裏側が実感できるね。こんな男でも、金さえ続けばいつかは当選して、今度は利権漁りに東奔西走するのだろう。
詐欺師の塾経営者が詐欺で男を訴えてどうするの。

平成25年11月10日 パットン大戦車軍団
懐かしの映画「パットン大戦車軍団」を見る。
70年アカデミー賞7部門受賞。コッポラが脚本賞受賞で脚光を浴びる。
名優ジョージ C スコットはアカデミー主演男優賞を拒否。
猛将パットン将軍の壮烈な生涯。
パットン将軍最後の言葉「栄光は移ろう」

平成25年11月3日 年賀状  宇部市 野村みのり
エーッ!そんなに!?年賀状印刷の高いこと。
「私がゴム印を押す!」
賀正、元旦、住所氏名を押して、最後にエトの絵。
何しろ、ン百枚だから、手が疲れてチョッピリ後悔。
それでも夫は来年三月で長い勤めの終わり。定年です。
住所録から、だんだん氏名が減っていくことでしょう。
まず来年はこれ程はあるまいと思いながら、印を押す。ペッタン、ペッタン。

平成25年10月27日 万事休す  札幌市 鈴木泰子
よりによって、結婚記念日の朝十時過ぎ、急須を壊した。代替品がないから万事休す。
「瀬戸物屋さん孝行か」という夫の声が聞こえたような気がした。
午後から急須を買いに街に出た。どれにしようか。やっぱり安い方に決めた。だが、この考えがいけないのかもしれない。
高価な品を求めれば、大事に大事にとその気になって扱うのかも。
いいんだ、いいんだ、そそっかしい私のことだもの、この安い方でいいんだ。
夜、知らんふりしてお茶をついでいたら、夫の一言「おっ、やったな」
やっぱりバレてしまいました。

平成25年10月20日 息子も覚えていた  新宿区 高部光子
「おはよう、結婚記念日おめでとう、四十六年か」 二階から下りてきた息子。
「おはよう、覚えていてくれたの。でも、生きて揃っていてはじめて言えることよ」
「知ってる、わかっているよ。今夜、寿司でも食べに行こうか」
ねぎらってくれる心がうれしい一日でした。
  心根の 亡夫に似ていし 秋桜

平成25年10月13日 究極の選択  宮城県 鈴木徳子
先日の晩のこと、義妹の縁談の話から、突然、主人が「お金持ちのいやな男と、お金はなくとも優しい男と、お前ならどっちを選ぶ?」
と娘にきいた。娘はすかさず「優しい人」と答え、私は、「後悔するぞ!」と大笑い。主人も「母さんみたいになるぞ」と苦笑い・・・・・。
結婚14年目、貯金も借金も何もない人と暮らし、やっとマイホームを手にしたこの頃、
ローン返済にちょっと疲れた私には、いたい質問でした・・・・・。

平成25年10月6日 いたわる心   岐阜県 松村久子  
腰痛で整形外科へ行きました。
先生がマスクの中で、ゴホンゴホン。私、思わず呼吸を止めました。
主婦としてはカゼごときで弱ることはできません。
先生の診察が終わって、急いで処置室に移動しました。
次の患者さんは七十歳代のおじいちゃんでした。
「先生、カゼかね、大変だねぇ、お大事にしてくりゃあよぉ」
と言って診察室を立たれました。
おじいちゃんの暖かい言葉に、私は恥ずかしくなりました。

平成25年9月29日 看護婦が見つめた人間が死ぬことと  宮子あずさ
私が見た "ああ、これが老衰なんだなあ"と思える亡くなり方をした患者さんは、94才の女性でした。
静かで、苦しみのない死。それだけに、なおのこと、死は最終的に誰も逃れることのできないものなのだと思い知ったのです。
夜は娘が付き添い、静かに編み物をしていました。彼女はあるときこんなことを言いました。
「私も75歳のおばあちゃん。私がこの母の年まで生きられるかわかりません。母を看取ったらすぐに、今度は私が追いかけるかもしれない」 と。言われてみれば、まさにその通りなんですよね。長生きをすればするほど、それを看取ってくれる子供たちも、年をとっている。
その話を聞いて、私は、死は人間にとって永遠に続く繰り返しなんだとしみじみ思いました。

平成25年9月22日 看護婦が見つめた人間が死ぬことと  宮子あずさ
若い頃から水商売の世界にいて。一時は料亭の女将をしていたという彼女は、貌貌も変わり果てた中にも、そこはかとない"粋"を感じさせる瞬間があったことを今も思い出します。
ただ、厳しい世界を渡ってきたせいでしょうか、人を寄せ付けず "言いたいことは言わせてもらいますよ" とばかりにこわおもてに、大上段に振りかざしたものの言い方をするため、大部屋での彼女は嫌われ者。
「トイレに行けるようになったら、またこの部屋に戻るから」
そういって部屋を出た時の言葉もむなしく、彼女はまもなく帰らぬ人となりました。
人の弱さを受けとめるだけでなく、時にその弱さを見ないふりをすること、それも看護婦にとっては必要な態度だと、私は彼女から学びました。
急変を聞いて駆けつけた夫は、病室に入る前から涙ぐんでいて、今まさに息絶えようとしている彼女の手を握ると、その上に大粒の涙がいくつもこぼれ落ち・・・・。そのぬくもりに安心したかのように、彼女はその生を終えたのです。
子供も頼れる親戚もいなかった二人は、本当に二人で力を合わせて生きてきたようでした。
霊安室を経て、寝台車で自宅に無言の帰宅をするまで、彼女に付き添っていたのは、夫ただ一人だったのです。
ずっと泣きっぱなしだった彼に、私たちは言葉のかけようもありませんでした。
「本当にお世話になりました」そういって深々と頭を下げた彼は、果たして立ち直ることができたのでしょうか。
今でも時々心配になることがあります。

平成25年9月15日 看護婦が見つめた人間が死ぬことと  宮子あずさ
若い人の死は、概して印象が強いものですが、中でも忘れがたいある男性の死がありました。
その死がなぜ忘れがたかったかと言えば、ただの一人も身内の人が来なかったから。
三十代半ばというのにすでに両親は無く、それでも兄弟はおり、連絡もついていたのです。
しかし、言を左右にして見舞いに訪れようとはしなかった兄弟たちに、彼の急変を告げた看護婦に返ってきたのは、
「勘当された弟なんだから、彼とはもう何の関係もないんだ。赤の他人のことで連絡されても困る」という、冷たい一言でした。
そして、いよいよ意識が無くなり、力尽きたように死んでいこうとする彼を前に、最後の電話を兄弟にした時返ってきたのが、初めに書いた、冷たい言葉だったのです。
結局彼の死は、医師と看護婦だけがみとりました。
享年三十六歳。早すぎる、淋しすぎる死・・・・・。
そしてその亡骸の引き取りすら兄弟は拒絶し、彼は無縁仏として葬られることになりました。

平成25年9月8日 看護婦が見つめた人間が死ぬことと  宮子あずさ
患者さんの死に際して、残される親族は、多少なりとも遺産の話をします。
遺産と葬式は、残される人間にとっては嫌でも処理しなければならないこと。
"もういよいよ"という状態になったら、話が出ても当たり前のことでしょう。
今ではそれも、生き残る人間の自衛策としてはいたしかたないことなんだと、理解できるようになっています。
人間の死とは、死んでいくものにとってはきわめて哲学的な問題、しかし、生き残るものにとってはそれ以上に、きわめて現実的な問題なのです。ですから、そのずれが、財産があるばかりに、最後まで悲しいすれ違いとなって埋まらないことも出てくるのです。
お金は時に人を狂わすものなんだなあと、つくづく思い、お金に汚い人間にだけはならないようにしようと心に決めています。

平成25年9月1日 日本一短い父への手紙  北海道佐藤弘子
背広の中にすべてを隠していた父。
退職して初めて気づきました。背中丸くなったね。

平成25年8月25日 お金なんて  練馬区 福田健二
胆石のため入院。
先に手術を終えた病室の先輩が、
「痛いときってただ治りたいの一心で、お金なんて一銭もいらないって思うんだよな」と言っていた。
さて、今度は自分の番、術後三日間、まったくもって同感させられる。
でもその先輩、
「治って元気が出てくると、またお金がほしくなるんだから、人間って勝手なものだなあ」とも言っていた。
今、私は退院するところ。十一万九千円の請求書が来た。
さあ戻るぞ、お金の社会。

平成25年8月18日 裁縫箱  豊橋市 熊沢哲  
押入れのなかを整理していたら、思い掛けない箱がありました。
フタを取ると、針山や木綿糸、それに指ぬきもありました。
もうはるか昔、小学校の家庭科に使っていた裁縫箱でした。
裁縫箱に触れていると、優しかった当時の先生を思い起こしました。
そして、今はきっとメガネが手放せなくなったに違いないあの友この友。
それぞれ、長い人生をどんな風に歩いてきたのか、恩師を囲みながら、童心に返って語り明かしたくなりました。

平成25年8月15日 父が母に出した手紙  東京都石山敏子
文箱に大切にしまってある、一通の手紙を取り出した。
擦り切れた封筒の表には、北多摩郡砂川村字一番組 市川スエ子様(写真在沖)と書いてある。
婚約した母に父が出した手紙。
女性のような美しい文字で、家族の紹介、将来の夢、子供が大好きなこと、趣味の写真について、手に怪我をしていた母をいたわる優しい言葉、などが便箋五枚に綴られている。
父が母を写したモノクロの写真。丸顔の母はしあわせそうに笑っている。

昭和二十年一月に私は誕生。その父は、二十年五月にフィリピンのルソン島で戦死。
苦労を重ねた母も、平成三年、父のもとへ旅立っていった。

平成25年8月11日 風天  渥美清のうた  
渥美さんという人は、芸名 渥美清、役者名 車寅次郎、本名 田所康雄に、俳号 風天という四つ目の顔があります。
「田所康雄はそーっと消える。彼はそれが理想だということを奥さんの正子さんに言っていたそうです。
いつの間にかいなくなって、町で誰かが噂している。渥美清っていたなあ、どうしたんだって言うと、あれ、一昨年、死んだよ、ああそうかという消え方が理想なんだけれども、なかなかそうはいかない。
『僕も一応現役だからマスコミに死んだという事を知らせる前に骨にしておきなさい』
と奥さんに言い置いて亡くなり、奥さんもその通りにした。
大騒ぎをして死ぬのがイヤだったんでしょうね」

 少年の日に 帰りたき 初蛍

平成25年8月4日 風天  渥美清のうた  
こういう話を渥美さんとよくしたものですよ。
例えば、ある鄙びた温泉宿の帳場で将棋盤を探している変な爺さんがいる。
主人の息子の将棋盤はあったが、駒がそろってなくて飛車はボール紙でできている。
そこへ寅が現れて『じいさん、オレも暇だからイッチョウやるか』と言う。
『相手してくれるのか』 『うん、してやる、してやる』となるが、寅は『ただし、いっとくけど、オレは強いヨ。ガキの頃は隣近所の大人をみんな負かしたくらいの腕前だ。飛車角オチでいくか』などと威張ってみせる。
しかしイザとなるとあっという間に負けてしまい、いくらやっても勝てない。
実はそのじいさん、有名な将棋指しでその宿で次の王将戦に備えて一人で想を練っているところだった、と言う話。

 夢で会う ふるさとの人 みな若く

「渥美さんは詩人でしたね。風景に対して、人間に対して、社会に対して実に見事な言葉を発する人でした。
だから、詩人になっても俳人になっても、あの人は一流になれたんじゃないかと思います」

平成25年7月28日 風天  渥美清のうた  
山田洋次監督秘話 「寅さん対放浪の俳人」
撮影の合間に、この次こんな物語をやりたいんだけど、という話をよくしたものです。
あるとき、寅さんが旅先で山頭火みたいな放浪のお坊さんと一緒になったらどうなるかしら、と言ったことがあります。
「旅を続けるうちに坊主が俳句を好きなことがわかって、その作品を読ませてもらうが寅さんは
『こんなのダメだよ。まるで俳句になってねえよ』と言う。
坊主が 『じゃあ、どんなのがいいんだ』と言うと、寅さんは『こんなのどうだい。五七五にうまくはまらねえけど』
とその場で思いつきを口にしてみせる。坊主はそれを聞いて『それ、いい句だよ、あんた俳人になれるよ』と感動した話。」
「そんなときに寅がペロペロって口ずさむのはどんな俳句かな?と聞くと渥美さんは、・・・・・具体的には忘れたけれど・・・・・要するに、飲みすぎて下痢をして朝、ウンコをしたら夕べ食べたトマトのタネがいっぱいあった、という俳句。ハハハ」
寅さんが友達になったその人は、実は有名な俳人で、あとになって句集を出す。博が「兄さんこの俳句、いいでしょう」と言うので見たら、『あっ、それはオレが作った俳句だ。オレのを盗むくらいなら大したことはねえな』・・・・・という話。」

 村の子が くれた林檎ひとつ 旅いそぐ

平成25年7月21日 風天  渥美清のうた  
若い時に片肺を摘出、健康不安を抱えながらも国民的スターに上り詰めた渥美にとって数少ない魂解放の場が句会だったのではないか。
監督山田洋次のエッセイによると、渥美清はゴルフや賭け事のたぐいにはまったく興味を示さなかった。
ひたすら読書、そして時間のある限り芝居と映画を見て歩く。それも招待券でなく必ずお金を出して切符を買って入っていたという。
俳句はあくまで余技、遊び。先生について勉強し、俳句で有名になろうなどという気はさらさらない。
俳句の中で自由に振る舞い、逡巡し、癒されていたのではないか。
風天俳句の原風景をたどってきて得た私なりの結論は、渥美清はきわめて孤独な人だが、その孤独をしっかり楽しんでいた粋な人でもあったということである。
 流れ星 ひとりみつけて 肌寒く

平成25年7月14日 風天  渥美清のうた  
「男はつらいよ」シリーズは第48作「寅次郎紅の花」が最後だった。
幻の49作は「寅次郎花へんろ」。
高知を舞台に、お遍路の旅に寅さんがつきあっているうちに美しい女性に会う物語です。
マドンナは田中裕子、ゲストは西田敏行の予定だった。
シナリオは大きなストーリーだけですが、大阪で身を持ち崩した水商売の女と、その兄貴の物語。渥美清が亡くなって実現しなかった。
  お遍路が 一列で行く 虹の中
いろいろ考え合わせると、この句はやはり渥美清、晩年の心象風景としての辞世の句だったかもしれない。

平成25年7月7日 大江戸釣客伝  夢枕獏  
津軽采女が著した、わが国最古の釣り指南書「何羨録(かせんろく)」の序から
 嗚呼、釣徒の楽しみは 一に釣糸の外なり。利名は軽く 一に釣艇の内なり。
生涯淡恬(たんてん)、静かに無心、しばしば塵生(じんせい)を避くる。
すなはち仁者は静を、知者は水を楽しむ。あにその外に有らんか。

「雨宿り図屏風」 東京国立博物館所有の英一蝶の絵である。
夏のある時、ふいの夕立があって、往来を歩いていた人々が、ある武家屋敷の門の下に、雨宿りをしている図だ。
その門の下には、武士もいる、子供もいるし、巡礼や、太神楽、旅の僧---
およそありとあらゆる人間たちが、そこで身を寄せ合って、雨の止むのを待っているのである。
誰もが、雨を避けて宿る者たちだ。
いったい、どこに貴賤があるか。
人が愛おしい、人間が愛おしくてたまらないという、一蝶の肉声が聴こえてくるような絵である。

一蝶が死んだのは、享保九年(1724)正月十三日である。享年、七十三.。
辞世の句は、
まぎらはす うき世の業の色どりも ありとや月の 薄墨の空

平成25年6月30日 息子の独立   豊橋市  折目恵子
お正月に息子が帰ってきました。
四月から大学四年生になる息子に、夫と二人で、
「どんな所に就職したいの」 「どんな仕事するの」 「地元に戻ってくるの」
とあれこれ聞いてみたら、何を聞いても
「さー」 とか 「まー」 とかしか答えない彼が、ひとつだけはっきり言ったのは 「地元に帰って来ても別居するよ」だって。
私は 「その方が良いね。私も下宿のおばさんやるの嫌だから」。
息子が下宿に戻った夜、夫がぽつんと「あいつ、ここには戻ってこないなー」
三年前、息子が家を出た時、「初めは二人だけだったじゃないか。今また、そこに戻っただけだよ」と言った夫が急に年とって見えました。

平成25年6月23日 電動自転車  豊川市 片岡桂子
私の家から十キロ離れた所に、八十一歳になる父がいる。その父の元へ、毎日家事を手伝いに自転車で通っている私。
その私がいかにも疲れている様に見えたのだろう。社会人になったばかりの息子が、
「お母さん、今、電動自転車って楽なのがあるんだよ。ボーナスもらったらプレゼントするからね」

そして七月、息子にボーナスが出た。三万九千円也。
「お母さん、悪いけど冬のボーナスまで自転車待ってね」

そう言ってパンフレットを渡してくれた。十二万円もする電動自転車。
パンフレットをもらっただけで胸がジーンとなり、疲れが吹っ飛んでしまった私でした。

平成25年6月16日 ぼけせん川柳  山藤章に
後妻には 思った以上に せがまれる
近頃は いい人ばかり 殺人者
殺人鬼 罪を犯せば 精神病
最後には 加害者だけが 残る国

平成25年6月9日 ぼけせん川柳  山藤章に
早く逝け わしら子供も 年老いた
ころり死を 今日も願つ 薬のみ 
天下り 地獄の底まで 下りゃいい
責任を とって辞めても 行き場あり

平成25年6月2日 ぼけせん川柳  山藤章に
定年後 妻をお慕い 申し上げ
  ゴミも捨てます。足腰もお揉みします。巨乳には
目もくれません。だから見捨てないでください。子羊より。
眠れない 羊の横に カバがいる
  お気の毒に。カバと同衾じゃ寝苦しいや。でも横に黒木瞳や、藤原紀香がいても眠れないよ。翌日疲れないだけカバのほうがいいかも。

平成25年5月26日 うっとり 下着川柳  トリリンプ編
勝負ブラ 誰のためって 念のため
ガードルを 脱いでビールの うまさかな
みちゃダメよ でもね見て見て この谷間
湯上がりの 下着に夫 ナンパされ
倦怠期 谷間つくって 夫待つ

平成25年5月19日 大阪弁川柳
試食品 そない食べんと わからんか
泣くもんか べっぴんさんが 台無しや

交通違反ワースト3に必ずランクインするのは大阪だそうな。
その原因は、交通違反に対する罪悪感があまりないのがフツーの大阪人。
スピード違反に信号無視、
「見つからんかったら、かめへん」の精神が旺盛。まして駐車違反など何とも思っていないフシがある。
筆者のお隣さん、私が近所に駐車場を借りたことを知り、
「何でそんな勿体ないことしまんねん。ここの道路はめったにポリさんは来いしまへん。駐めといたらよろしいねん。
考えてみなはれ、駐車場代で年に何遍も罰金払えまんがな。始末しなあきまへん」
と叱る。
「はぁ、すんまへん」と謝ったけど何かおかしい。

平成25年5月12日 大阪弁川柳
まで かけた女て これかいな
こうなりやぁ 百まで生きて こましたろ


何ってたって大阪弁の代表選手は
「あほ」
「あの件はアカンでぇ」「そんなあほな」と無念、哀願の表現。
「あほな物、買うてしもた」「あほやなぁ」と同情しつつも喜びの表現。
「お母ちゃん、あれ買うてぇな」「あほなこと言いな」と否定の表現。
てな具合に何にでも使用可能なチョー曖昧言葉が「あほ」。
標準的な大阪人なら日に百遍も使おうかという大切なことばである。

平成25年5月5日 父の育児記録  山梨県五味久美子
「私は幸せ者だ。妻よありがとう」
これは私が生まれた時の、今は亡き父が書いた記録。
父四十歳、母三十七歳で私が生まれ、神様にも先祖様にも感謝したという。
私が入学するまで父は私の育児記録を忘れなかった。
私が嫁ぐ日、初めて見た父の涙・・・・・、孫も三人見せることができた。
父の育児記録を参考にしながら、私も今三人の育児に追われている。
淡い桃色の桜の季節・・・・・、父は静かに深い眠りにつきました。

平成25年5月4日 ああ勘違い  岐阜県  岩前恵吉
結婚二十周年、記念にどこかへ行こう。
二人して思い切った。北海道へ。三泊四日の道東の旅。
飲んだ本場のビール。うまかったな。何もかも別世界。
感激を胸に帰りの雲の上、妻がそっと出したメモ書きの紙。
「お父さんありがとう。みんなを大切にするからね。お義母さんも大事にするからね。本当にありがとう」
ちょっと胸を詰まらせて、中指と人差し指に挟んで、思案顔。
そこへ、かわいくて、きれいなスチュワーデスさん。
「ゴミですか、頂きます」

平成25年5月3日 結婚記念日 川崎市 稲本久恵
先日、結婚記念日に夫が菊の花束を買ってきました。
「まあ、きれい。どうしたの。仏様のお花。誰が死んだの」と思わず言ってしまった。嬉しいくせに。
ありがとうと素直に言えないのです。夫もただ差し出すだけ。
私達30年がたちました。私は夫に言いました。
「30年前のこの日から君は不幸せになったんだね」と。
「そうよ、お互いよく我慢したわねぇ」と私。
「花より団子じゃないの」と妻が言えば、「お団子も買ってきた」と夫。
おかしくって笑ってしまった記念日でした。
私達、どうやらもう少し持ちそうです。

平成25年4月28日 笑って許して  横須賀市 羽淵敦子
まだ現役の私、仕事から戻ると、お焦げのにおいがプンプン。
毎日が日曜日になったばかりの夫が、味噌汁をあたためて私の帰りを待つうち、つい、うっかり、お鍋をまっくろ焦げにしてしまったとか。
おなべはぴかぴかに磨き上げられ、新しい味噌汁が出来上がっていました。
食事時
「よく磨いたわね」と聞くと、わが夫は「風呂場の軽石で磨いた」と一言。
娘は、
「うえー」と言って飲みかけた味噌汁のお椀を置いてしまいました。成程、軽石は小さくなっていました。
一週間後、そのお鍋はガステーブルの受け皿の上にポタポタと涙を落とすようになりました。
これから、笑って許しての生活がしばらく続くのでしょう。

平成25年4月21日 母の手、父の背中  行田市 長谷川千代子 39歳
四月から高校生になる長男にと、実家の両親が入学祝を持って来てくれた。
「いつまでたっても、お父ちゃんとお母ちゃんに迷惑をかけちゃうね」という私に
「いいんだよ、これが生きがいだし、仕事をする張りが出るんだからさぁ」と、
お茶を飲みながらいってくれた母の手は、あかぎれで皺だらけでした。
朝、五時に起きて、今でも仕事に行く母には、頭が下がります。
帰り支度をする母に、
「ほら、行くぞ、しっかり立って」という父。
腰もすこし曲がった母と、昔、骨折した足が痛むという父の後姿を見送っていたら、鼻の奥がツーンと痛くなりました。

平成25年4月14日 逝く仕度  岐阜県 牛丸朝子
桜が散り始めましたが、まだこの桜が二分咲きの頃、大切な友達がこの世を去ってしまいました。
亡くなる二週間前に入院先の外泊許可を受けて自宅に帰り、心に残っていることを片づけたそうです。
大切に育てた花が咲いているか、つらい体をおして二階まで見に行きました。
今までに写した写真を見て思い出を語って、自分の葬儀に使う写真を決めました。
通夜に使う座布団を家の人に確認しました。私には綿の木の種をまく時期を知らせてくれました。
「この家も見納めね」の一言を残して、病院へ戻って行きました。
孫の入園式と葬儀が重ならなければいいと心配していたけれど、一日ずれた暖かい日でした。
年下の彼女に見事な死に方を教わりました。

平成25年4月7日 川柳うきよ大学   小沢昭一
名句鑑賞
  今はただ小便だけの道具かな
川柳はうまいことを言うものだなと、若い時感銘いたしましたが、今や私、かの俳聖芭蕉の「この道や往く人なしに秋の暮れ」よりも、具体的に、心に深く沁みこむ句です。
つらつら己れのモノを眺めるに、小さくおとなしく、わが幼少時代を思い出して懐かしく、とてもじゃないが”生涯現役”などという境地にはなれませんが、でもナゲキません。
人生はよくしたもの、もうミニスカート見たって、バカだなぁフン!ですよ。
ご婦人に気が散らないだけでもメッケモン。オスの時間を捨てた分、時間が余りますな。
さ、その残り時間をのんびりいこう・・・・。

平成25年3月31日 川柳うきよ大学   小沢昭一
 惚けた親 永の別れが 辛くない   大阪市 木下昇

実の親が死んでアアよかったじゃ、世間のひんしゅくをかいますが、正直、長患いの惚け老人を看取ると、感無量とは別に、ホッとするのです。

平成25年3月24日 みんなのつぶやき 万能川柳
スリッパを はけど三歩で 脱ぐ間取り
想い出の 曲ねと言うが 俺知らぬ
役場だけ やけに立派な 村おこし
生きている だけで疲れる 歳になり

平成25年3月17日 一番早く花咲く木  神奈川県 河野正
三月十七日、朝から雨。
昨日からの暖かさのためだろう
。横須賀線の線路わきで、今年一番の桜の開花を見る。
去年も、この桜の木が一番早かった。去年はこの桜の花の下を通って、何度か母を病院へ送り迎えした。
最後に連れて行った頃は、満開をとうに過ぎていたはずだ。母は四月二十九日に逝った。父の三回忌を目前にしてだった。
二人は仲がいいんだろう。今頃はどこかで、二人で花見、かもしれない。

平成25年3月10日 みんなのつぶやき 万能川柳
こんなにも 悲しい時でも 腹はへり
ぼけたふり 本気にされる 年になり
空腹を 信じてもらえぬ 三段腹

大海を 知って蛙は 井に籠り

平成25年3月3日 小さな旅  山形県多田政子  
乳頭温泉に行ってきました。どうしても行きたいと言う主人のために、何度も電話して、やっと空きが出た小さな部屋。
案内されてドアを開けたらポツンと小さなテーブルが一つ、まるで、かけおちしたみたいだと、二人で笑ってしまいました。

山の古びた宿、星空の下の一人の露天風呂。
すぐ隣からは主人の
「いい湯だねえ」の声。「いいねえ」と私。まるで時が止まったようでした。
次の日、混浴の露天風呂に入った主人が
「一緒に入ろうよ」と言うけれど、やっぱり、もうすこし年を重ねてからにすることにしました。
そのころに、また連れてきてもらう約束は忘れません。
主人と二人の小さな旅は、とても大きな思い出になりました。、

平成25年2月24日 力がぬけて  愛知県石川弘子
何年ぶりかで帰宅した息子と、夜の更けるのも忘れて話しているうち、「脳死」とか「葬式」の話になりました。
私が自分の力で食べられない様になったら終わりでいいし、葬式もしないで、
骨は海が好きだから三河湾の海に撒いてほしいと言うと、
息子は、僕が小さかった頃は、お母さんは
世間体とか外見にこだわっていて窮屈だったけど、いいねえ、力がぬけて・・・・・
としみじみ言われ、数か月過ぎた今も頭から離れない言葉となりました。

平成25年2月17日 滋酔郎  小沢昭一
 おい癌め 酌み交わそうぜ 秋の酒     江國滋
私今日、築地のがんセンターから来たんですが、このあいだの七夕の時に、患者のための七夕が用意してあって、小学生の筆跡で、こういう句がありました。
「みいーんな完治しますように!!!」・・・・・
みんなのためを思ってその句を・・・・句ではないですが・・・・・私は胸が熱くなりました。
で、看護婦さんがあなたも書けというので、私は、
 『七夕や たった一つの 願いごと』・・・・・  

平成25年2月10日 芭蕉  小沢昭一
かって私、いっとき芭蕉でした。
その芭蕉になったのは、井上ひさし作『芭蕉通夜船』という舞台でした。
これは、芭蕉だけしか登場しない、いわゆる「一人芝居」です。
芝居の冒頭の前口上で私は、芭蕉の
「嵯峨日記」のなかの「ひとり住むほどおもしろきはなし」という言葉を引いて、
「・・・・・芭蕉翁は、一人で生きることに深くこだわった人でした。というより、人はひとりで生き、ひとりで死んでいくよりほかに道はないことを究めるために苦吟した詩人でした」。  
なんて台詞をしゃべります。
四十歳の八月、芭蕉は
「野ざらし紀行」の旅に出ます。「野ざらし」というのは骸骨のこと。すべてを捨てる、野垂れ死に覚悟の旅ということでしょう。木曽福島での闇夜の野宿。雷鳴とどろき、いなずま走るなかで、芭蕉はしみじみとした笑みを浮かべて、私が大好きだった台詞を静かに語ります。
「野宿する身の貧しさ、やるせなさ、切なさ、侘しさを、あべこべにこっちから笑顔で迎え出ること、それが誠の〈心のわび〉というものではないかな。わびとは、貧者の笑顔のことさ。ちがってたらごめん」・・・・・いいセリフでしょ。

平成25年2月3日 クボマン  小沢昭一
敬称略でお許しいただいて、久保田万太郎の俳句は・・・・・僭越ですが、私の性にあうんですね。
万太郎俳句のなかの、絶唱一句ということになりますと、たいてい、
 
湯豆腐や いのちのはての うすあかり
これは、愛人の急逝のあとの傷心の句であることはよく知られておりますが、老境、ささえを喪ったすぐあとの暮れの二十七日、「銀座百点」の忘年句会での即吟なんです。食事をしながら、雑談しながらの句会だからって、名人ならば、後世に残る名句が生まれるのですね。
いずれにしましても、俳句は、カナシイ人生でないとダメなんでしょうか。そういえば、病気になって絶唱を生んだ俳人が多いようです。私、因果と丈夫で、あまりカナシクもなくて・・・・・弱ったなァ。
ともあれ、
  
何がうそで なにがほんとの 露まろぶ   万太郎
スゴイ句ですねェ。脱帽、礼 
!

平成25年1月27日 俳優 中村伸郎  小沢昭一
中村伸郎さんは1991年82歳でお亡くなりになりました。数々の名演は記憶に残りますが、生前、「百点句会」のメンバーだったのです。
私どもの「やなぎ句会」にも何回かゲストとしてお越しいただきました。お亡くなりになる少し前の句ですが、
 
迷惑を かけずに生きて 冬日和
 また誰か 死んだ話に 昼寝かな
 風除けて ひっそり生きて 逆らわず

中村さんの晩年のお気持ちが、さわやかに伝わってきます。
で、その中村さんの抜けられた「百点句会」の穴を、やはり俳優で埋めるということで私が呼ばれたのでしょうか。
もしそうだとしたら、とてもその穴は埋められやしません。

平成25年1月20日 苦い煮びたし  多摩市 淡野信子
二人で夕食をとりながら、夫にきいた。
「あなたにとって結婚とは?」即座に「しあわせ」との答え。
私は少しあわてた、もっと違う答えを想像してたから。
「あなたは?」とききかえされてとっさに言葉にならず、「うーん」といってしまい、心の中でちょっとまずいなと思った。
夫は
「そうだな、俺が『しあわせ』ということは、思い通りに生きてきたってことだから、あなたには我慢だよね 
私の心を見透かしてしまった夫。見透かされてしまった私。これだから夫婦って面白い。
二人で歩いて来て、これからも歩く道。
同じ答えがいいなと、ちょっと苦かったホウレン草の煮びたしをのみこんだ。

平成25年1月13日 ボチボチと  愛媛県 篠原敬子 46歳
私も主人も人と話すのが下手である。人付き合いが悪いわけでも、人付き合いが嫌いなわけでもないのだけれど・・・・・。
結婚して二十三年。まわりの人からは、夫婦仲がいいねとよく言われる。二人で行動する時間が他の夫婦よりチョッピリ多かったかな。
結婚したいと言った時、母が、
「あの人と一緒になったら、平凡には暮らせるだろうが、お前の一生、小さくしか生きられないよ」と言った。
今になってそれがよくわかる。人生の先人はさすがだ。
まあ、いいか。ハデに生きるだけが人生じゃないものね。これからもボチボチいきましょうね。お父さん。

平成25年1月6日 最後まで陶芸家   渡辺譲3
 「萩の湯呑はすぐに汚れて使えないよ」
と言う人が多いが
「萩の七化け」と言われるように使われて育っていく器の代表格がこの萩焼。
三輪栄造といえば萩焼の名門。
三年前に肝臓がんで52歳で惜しまれつつ逝ったのだが、葬儀が終わり家人が仕事場に入ると素焼きされた200個の湯呑があった。
釉薬のカメの前には2個の
釉を掛け分けた湯呑の見本。
「会葬者へのお返し」の意を込めて死出の用意を整えて、後に続く息子へ釉と焼成を託して逝った作家の心。
最後まで作家であろうとした陶芸家に自分の心が重なって・・・・・。

平成25年1月3日 酒仙   渡辺譲 2
昭和40年代から50年代は備前焼のブームで、私も古備前の種つぼの小振りなものとか壺を少し買ったが、皆米に代わって食べてしまい今残っているのは藤原建、雄、山本陶秀などの酒器ばかり。その備前で酒仙と呼ばれる陶匠中村六郎氏が陶器なんかというものはと語っている。
「磁器はスカッと均整のとれた八頭身じゃなきゃだめだ。だが陶器というものはこりゃ六頭身でも五頭身でもええ。
あいくるしいなあ。私の美の狙いはそういうところにあるんです。文人は整った美を好まんのです。
下手の美、稚拙の美、三つ四つの子が作ったものに何とも言えぬ魅力がある。
やきもんは上手になってもう一遍下手くそにかえれるかどうか・・・・・」

酒飲んで、へべれけになってうずくまってしまったような徳利を作る六郎氏の言や良しです。

平成25年1月2日 やり残しの山   渡辺譲1
 「物づくりの苦しさは鑑賞眼が自分の実力よりも先に行ってしまうから」  加藤唐九郎
この巨匠加藤唐九郎が88歳で亡くなった翌日に息子の重高氏が父の焚いた窯の窯出しをした。
「父の最後の作品を見ると、随分とやり残したことがあったんだと思う。
やきもの作りは迷路だと常々言っていたが、やり残しの山を築いて心残りで逝ったんだ」
と語っている。
芸は一生、やきものは一生半というが、
「うまく出来ないからもうやめる」といっているあなた。
70年80年とその道まっしぐらに進んでも完成しないやきものの道。
生まれ変わってもまたやればいいやと、ゆったりとした心でやりましょうや。

平成25年1月1日 元旦
明けましておめでとうございます。
皆様、よいお年をお迎えのことと存じます。
今年も
緋色窯をよろしくお願いいたします。

私は去年目出度く高齢者(65)の仲間入りをしました。
我々団塊の世代で、20年後も健康で楽しく生きている人はどのくらいいるのでしょうか。
私もこれから老人としてどう生きるか、ううん・・・・・、考えると難しいことですね。
しかしどんな人生でも今が一番大切。いまが一番若い。
自分らしく、飄々と、持ち味を生かして生きていきたいと願っています。

 
生きること ようやく楽し 老いの春   富安風生

*ホームページを開設して13年、工房は17年、穴窯は6年目です。
2013年が皆様にとって、明るい年でありますよう祈念いたします。