平成27年の緋色窯日記に続く

平成26年12月31日 半泥子
尾形光琳、乾山の兄弟は、光悦の姉の曾孫にあたる。
光琳は俵屋宗達の
画風を習得、「琳派」の祖となる。
乾山ははじめ野々村仁清に陶芸を習ったが、のち独立して、嵯峨の鳴滝に窯を開いた。
そこが京都の乾の方向にあたることから、乾山と名乗る。
乾山は、しかし仁清の影響を受けず、独自の境地を開く。その器体作りも絵付けも、常に新しい境地を拓いていった。
そこに半泥子は「素人精神」を見た。
早くから乾山に関心を抱いていた半泥子は、昭和18年、鳴滝を訪れて、その窯跡を発掘調査し、「乾山考」を発行した。
  乾山の  香炉を得て  師走哉        
半泥子

平成26年12月28日 はらたいらのボケてたまるか
かってシャルル・ド・ゴールというフランスの名物大統領がいた。
1973年に上映された映画「ジャッカルの日」で取り上げられた暗殺計画は有名である。
そのド・ゴールの言葉に「老年は難破船である」というのがある。人生を知り尽くした男の言葉だから、余計に説得力がある。

ボケ祝 わが人生の 総仕上げ
家族への おどしのことば 「ボケてやる」
息子みて そのあやうさに ボケきれぬ
はじまった つごうの悪い にわかボケ
パッと咲き パットは散らない ウバ ザクラ

平成26年12月21日 がん
鳥越俊太郎さんの講演会より。
がんと診断されたことで、人生の残り時間には限りがあることを実感した。
そして、新しいことに挑戦したり、人や自然とのつながりに深く感じ入ったりできるようになった。
「がんのおかげで、自分の生と死にちゃんと向き合えるようになりました」と述べた。

平成26年12月14日 長野県  
長野県のランキング
自然  面積・・・第4位(@北海道・A岩手・B福島)。人口・・・第16位(@東京都)。日本100名山
・・・第1位(29座)。
くらし  幸福度・・・第1位(A東京都、B福井)。平均寿命男性・・・第1位(80.88才、A滋賀、B福井)。
     女性・・・第1位(87.18才、A島根、B沖縄)。
観光  温泉地・・第2位(225ヵ所、@北海道)。ただし日帰り温泉施設数は全国1位で605ヵ所。
     日本の棚田・・第1位(16地区、A熊本)。
農業  リンゴ収穫量・・・第2位(@青森)。ソバ収穫量・・・第2位(@北海道)。ブドウ収穫量・・・第2位(@山梨)

平成26年12月7日 自伝 土と炎の迷路     加藤唐九郎
この時代に出会った、忘れ難い人の名を挙げておこう。
それは後に「日蓮正宗総監」となった柿沼広澄師である。
柿沼さんに吹き込まれたことは何事も科学的な基礎学問が必要だということであった。
これは以後私が陶磁史を調べて行く上でひじょうに役に立った。
唯物史観に於て、文化というものは、物質を基盤にして発達し、物質の流通はその時代の政治、経済を抜きにしては考えられないことを知った。当時の僧侶にして、左翼思想をあれだけ研究しているというのは、不思議でもあり、えらいとも思った。
彼は、昭和八年秋瀬戸を去る時、こんな俳句を短冊に書いて私に残して行った。
「風に舞う 木の葉の旅や 何処まで」
瀬戸に住んでいる間に石炭窯の煤ですっかり黒ずんでしまったが、今でも私は大切に保存している。

平成26年11月30日 自伝 土と炎の迷路     加藤唐九郎
昭和五年一月二十五日、祖母懐へ移ってはじめての穴窯を焼いた。この窯で「これは」と思う志野がひょいと焼けた。
何度経験を重ねても、窯出しというものは、胸がおどり、足がふるえる。
今度こそは、と思って焼いた窯から出てきた作品を、どれだけ私は割って捨てたことだろう。
それだけに、これなら残してもいい、という作品が、二つ三つと出てきた時は、いかにもうれしかった。

この前後に、私は名品と呼ぶことの出来る桃山の志野茶碗をいくつか見ている。
一つは、万松館主人所有の、絵志野の茶碗。これは実に堂々とした風格を持った大ぶりの茶碗で、ロクロの達者な、玄人の陶工の作に違いなかった。
さらに今一つ、九鬼家から借り出した「嶺紅葉」(現五島美術館蔵)という茶褐色の志野茶碗。
一瞬ドキッとするような茶碗を見たのは初めてだった。
だが、これは陶工の作ったものではない。茶人とか、趣味人とかいった人の手になるものだと私は見た。
そこで、なるほど、自分たちのやっている職人的技術の熟練だけで、いい作品を生み出そうと思っても駄目だ、と痛切に感じた。
素人で力の優れた者には、こういう作品ができる、たとえ稚拙な部分があろうと、その人間だけが持っている「感性」の発露がなくてはならぬ。ロクロがいくらうまく引けても、それだけでは美として認識することが出来ない。自らが、自分の作品の審判者になることである。

平成26年11月23日 自伝 土と炎の迷路     加藤唐九郎
私が13歳の時親戚のおじさんが、窯跡から発掘した黒い沓形の筒茶椀を見せてくれた。
それまでの私は、やきものとは丸か四角の整った形のものだと思っていた。私はその筒茶碗の変形した力強さに目を見張った。
桃山時代の黒織部である。
私はその美しさに惹きつけられ、胸がドキドキするほどだった。
幕末の名工、加藤春袋の流れを汲む加藤麦袋からも、いろいろな作陶の秘伝とされていることを教えてもらったが、春袋の志野も、麦袋の志野も、今日では志野として通らないものだった。
徳川三百年のうちに、桃山の美意識と技術は、どこかへ失せてしまっていたのである。
麦袋の志野は柔らかい感じで持って軽く、色は暖かみのある白だったが、志野独特の緋色がなかった。
それに桃山独特の力感がなかった。
徳川中期から明治までの人は、どういうわけか”酔いどれ”と言って緋色を嫌ったが、桃山の志野には緋色があった。
私は麦袋の志野のヌメッとして白では満足できず、後年この緋色を出すのにずいぶん苦心をした。

平成26年11月16日 自伝 土と炎の迷路     加藤唐九郎
中根先生は、流石に武家の出だけあって、その生活態度、礼儀作法に対する厳しさなどはまさしく儒教を基盤としたものだった。
私が先生からもらった号は、「越嶺」という。当時私が住んでいた乗越峠という意味だが、瀬戸に行くと、時々この号を記した下手な絵に出くわして人知れず赤面することがある。
先生への懐かしい思いは、私の心をいつまでも去らず、長男が生まれた時も、いただいた号にあやかって、「嶺男」と命名した。

「自分が何かのかたちで、世に頭角を顕せば、必ず敵が現れる。自分よりかけ離れて上のものも、下のものも敵にはならない。
だから、敵の社会的位置や、実力を見れば自分の価値を計り知ることが出来る。
敵はいろんな策を講じて陥れようとするかもしれんが、そういう時は相手になってはいかん。相手になったら、なった方が滅びる。
黙っていれば最後は勝てる」と。
それは、結局、中根先生が、世の中を渡ってこられた経験が言わせた重みのある言葉だということを、私は自分の人生の大きな転機を迎えた時に悟ることになるのだ。

平成26年11月9日 青空うれしのおもしろお墓
小野小町にクレオパトラ、楊貴妃とくりゃ世界の三大美人。「俳諧三聖」といえば、勿論松尾芭蕉に与謝蕪村、そして小林一茶で決まりだ。
芭蕉と蕪村がコチコチのおかたい宗匠さんなら、一茶はソフトな洒落の分かるおじさん。
一茶は信濃の柏原村の黒姫山を望む野尻湖のほとりに生まれた。
十二歳で馬子をしているとき、一人の武士が黒姫山の頂きに積もっている雪を見て、「ウーンウーン」とできぬ句作りに首をひねっていると、一茶少年が「おさむらいさん、ボクちゃんこんなのできたよ」。『黒姫も色気づいたか綿帽子』。
「アリャ、お前はタダの子供じゃねえな。恐れ入った」 と、駄賃をはずんでくれたという。
六十五歳で息を引きとった一茶の辞世の句は「これがまあついの住家か雪五尺」といわれているが、赤ん坊を見て
「たらいからたらいにうつるチンプンカンプン」と、言葉にならぬ口で詠んだという、この句が一茶らしくていい。

平成26年11月2日 青空うれしのおもしろお墓
明治44年漫画家の父一平と作家のかの子の間に生まれた岡本太郎。
パリに留学し21歳の時、町の画廊で見た一枚の絵。これぞパブロ・ピカソの作品。ああ世の中にこんなすごい芸術があるのか。
昭和15年パリ陥落により帰国。ある日上野の博物館で縄文土器を見て「なんだこりゃ」。日本人の原点にこんな凄いものがあったのか。
芸術の大原則はキレイであってはならない。うまくあってはならない。心地よくあってはならない、と言っていた太郎は、これぞそのすべてにマッチする作品であると確信したらしい。
太郎語録はさらに、「幸福はいやしいことなんだ」「好かれない絵を描き続ける」「瞬間に生き瞬間に死ぬんだ」と続く。
パーキンソン病で身体が不自由になって、芸術は商品ではないと、総評価額500億円の作品を川崎市の美術館に寄贈。
太郎、平成八年一月七日永眠。享年八四歳。太郎の墓は頬杖をしている顔の形で、両親の墓に笑いかけている。 

平成26年10月26日 青空うれしのおもしろお墓
時は文禄三年八月二十四日。
京都三条河原で、子供の五郎市と一緒に大釜でグラグラゆでられて昇天したのが、かの大盗賊の石川の五右衛門。
  石川や 浜の真砂はつくるとも 世に盗人の種はつきまじ
実に堂々と悪びれず、こんな素晴らしい歌を残して、グラグラ煮えたつ釜の中で、自分の息が絶えるまで、、子供を両手で頭上に高々と持ち上げていたという。
虎は死んで皮残し、ニワトリ死んで共同募金の羽残し、五右衛門死んで五右衛門風呂残した。
さて俺も何か残すかとつぶやけば、古女房が冷たく言った。
「借金だけは残して行かないでよ」

平成26年10月19日 神の助け
男の人が自宅にいると、川が氾濫して、水が一階の床上に達し、そこへボートが助けに来ました。
でも男の人は「他の人を助けてやってくれ、私のことは神が救ってくれるはずだから」。ボートは去って行きました。
そして屋根に上がりました。でも水は屋根まで上がりました。するとヘリコプターが救助に来ました。
でも男の人は「他の人を助けてやってくれ、私のことは神が救ってくれるはずだから」。ヘリコプターは去って行きました。
やがて男の人は川に流され、おぼれ死にました。気が付くとそこは天国で、神がいました。
男は神に尋ねました。「神よ、なぜ救ってくださらなかったのです?」
すると神は首を振って言いました。
「おかしいな、どうして君がここにいるのかわからない。ポートとヘリコプターを送ったのに。」

平成26年10月12日 アンパンマン
漫画家のやなせたかしは4歳で父を亡くし、再婚した母は去り、伯父に育てられた。
弟は戦争で特攻隊に志願して先立ち、自らは出征先の中国で敗戦を迎えた。
「正義はある日突然逆転する。逆転しない正義とは献身と愛だ」
と悟り「餓死しそうな人がいれば一片のパンを与えること」と考えたのが、後にアンパンマンの原点になった。
1993年に妻を亡くしたやなせさんが「晩年の旅の準備」として書いたのが「アンパンマンの遺書」である。
”遺書”の結びは、やなせさんらしくユーモアたっぷりだ。
「荒波と疾風の中、よろめきながら倒れていくのだ。しかたがない。みなさまアバヨ!」

平成26年10月5日 あま〜い  スピードワゴン
待ち合わせ」
女  ごめ〜ん待った
男  いや、待っていないよ。
女  ウソ!だって一時間も遅刻しちゃったんだよ。
男  一時間なんて待ったうちに入らないよ。
女  えっ?
男  だって
僕は君に出会うまで30年以上も待ったんだから。
あま〜い   

「急いで」
女  どうしたの?身支度なんかして。
男  一緒にここから逃げよう。早く、急いで。
女  わけがわかんないよ。どうかしたの
男  神様に見つかる前に早く!
女  どうしたのよ?
男  天国から天使を誘拐したって神様に怒られちまうぜ。
あま〜い

平成26年9月28日 あま〜い  スピードワゴン
初日の出」
女  こうしてあなたと初日の出を見れてとっても幸せ。今日は特別な日だわ。
男  別に僕は初日の出を見るのがそんなに特別だとは思わない。
女  えっ? どうして?
男  だって僕は、君という沈まない輝く太陽を毎日見ているんだから。
あま〜い   

寝不足」
男  ねぇ、君は一体いつ寝てるんだい?
女  えっ? 毎晩、寝ているわよ。
男  うそばっかり、本当は寝不足なんだろう。
女  何を言ってるの?
男  だって毎晩夜になると僕の夢の中に出てくるじゃないか。
あま〜い   

平成26年9月21日 都道府県 これマジ?条例集  長嶺超輝  
パートナーシップのまちづくり基本条例   長野県茅野市
   「誰もが充実した人生を送りたい。お互いに思いやり、支え合いながら、いつまでも元気で長生きしたい」
   「きれいな空気や水を贈ってくれる緑の山や川、心を和ましてくれる恵まれた自然をいつまでも残して行こう」
   「ごしたいけどおもしろいな」。こんな言葉があちこちで交わされ「みんなで知恵を出し合い、ずくを出し、汗を流そう」
   を合言葉に、茅野市のパートナーシップのまちづくりは広がっていく(前文より抜粋)
パートナーシップとは「市民」と「行政」が一緒に取り組むこと。保健福祉の「福祉21茅野」、ゴミの減量「美サイクル茅野」、子供を地域で育てる「どんくりネットワーク茅野」など。
なお、条例にある「ごしたい」とは、茅野地方の方言で、「疲れた」を、「ずく」とは、同じく「物事に立ち向かう気力や活力など」を意味します。

平成26年9月14日 都道府県 これマジ?条例集  長嶺超輝  
朝ごはん条例   青森県鶴田町
第一条 目的
  この条例は、鶴田の里健康長寿の町宣言に基づき、米文化の継承を透して正しい食習慣の普及と健康増進を図るため、
  鶴田町における朝ごはん運動の基本方針を定める。
町民の平均寿命が男性で全国ワースト10という衝撃的な結果が出たところから、「朝ごはん条例」誕生の物語は始まります。
お金さえ払えば、数分でハンバーガーをほうばれ、レンジで温まった弁当を持ち帰れ、ピザが自宅に届けられる便利な時代。
「食の恵みへの感謝」を思う機会も減っています。子供たちに目を向けると、11パーセントの児童が朝食抜きで登校していると判明。
健康長寿への道は、若い頃からマトモな食生活を身につけてこそ、ではないか。
町の問題を解決すべく、遠回りの道を経て生まれたところに、このユニーク条例の骨太っぷりを感じます。

平成26年9月7日 都道府県 これマジ?条例集  長嶺超輝  
おっぱい都市宣言   山口県光市
  「おっぱい」何と温かく、優しい言葉でしょう、”母と子と父そして人にやさしい町 光”で子育てを楽しみながら、
   この町に住み、町とともに輝くことを夢見て、ここ光市を「おっぱい都市」とすることを宣言致します。
胸を張って世界に誇れるほどのスター性を秘めた珍宣言ですが、取り組みは真剣そのもの。
始まりは、1994年、光市市制50周年を記念して開催された「第一回おっぱいまつり」でした。
会場は、親子連れでごった返し、移動もできない盛況ぶり、年に一度、日曜の朝9時に始まり、正午にあっさり終了。
翌日の通常営業に向けて、すぐに機材の撤収が行われてしまうのです。
夢か幻のような「おっぱいまつり」の一瞬一瞬を、市民は精一杯しゃぶりつくす。
儚さを感じる「祭」本来の姿を見ました。

平成26年8月31日    漢詩紀行
陶淵明
人生根帯無く/ 飄(ひょう)として陌上(はくじょう)の塵の如し
分散して風に従いて転ず/ 此れ已(すで)に常の身に非ず
盛年重ねて来たらず/ 一日再び明日なり難し
時に及んで当(まさ)に勉励すべし/ 歳月人を待たず
陶淵明
人の命はつなぎとめる根も無く/ 風に舞い飛ぶ道のちりのようだ
ばらばらに散り風の吹くままころがる/これは元々永遠の体ではない
若い時は二度と来ない /一日に二度朝が来ることはないのだ
機を逃さず十分に
遊べ /年月は人を待ってくれない

平成26年8月24日 漢詩紀行
生年百に満たざるに  常に千歳の憂いを懐く
楽しみを為すは 当(まさ)に時に及ぶべし 何ぞ能(よ)く来じを待たん

  人の生きる年はたったの百年にも満たないのに / いつも千年も先のことまで心配している
  楽しむにはそれなりの好機を逃してはならないのだ / 来年まで待とうなどということができようか

平成26年8月17日 娘の人生  荒川区 前田陽子  
「幸せだけれど退屈な人生と、エキサイティングだけれどしんどい人生と、どちらがいいですか」カーラジオの矢沢永吉が聞く。
「退屈な人生がいい」と、父を亡くした娘がポツリと言う。
選択の余地をなくした私は黙って、風に舞う娘の髪の向うに広がる海を見た。
「あなたはどちらがよかったの」夏の終わりの海は静かに光っていた。
「銚子へサンマ食べに行こうか」今年も娘が言った。
あれから一年。
初秋の海は青く澄んでいて、娘は自分の人生を歩みだそうとしている。
私の心はまだ、晩夏の海にたゆとうていた。

平成26年8月15日 空    榊莫山
〈空〉と、たった一字だけ彫ったこの石は、ただごとやないーーーという顔をしている。
それもそのはず、この石の立っているのは、高野山の墓地へ入る一の橋を渡ったところ。
そしてこの〈空〉の一字は、弘法大師・空海の書から、抜き取った一字である。ただごとやないーーーという顔をしているはずである。
この〈空〉の碑には、あの戦争で南方の空に散った、空挺部隊兵士の魂が、涙をこらえて宿っているのである。
そういえば、空海の書いた〈空〉の字も、何となくうつろである。
般若心経にでてくる「色即是空」の、空の字であるのかも、と思う。
般若心経の空は、森羅万象一切のものは、常なく定めなきをいうそうだ。
わたしは、この碑をおがむたびに、はかなさ、ここに尽きると、悲しくなる。
虫の声一つない、うっそうたる巨木の林のかげで、若い兵士の魂は、いまもしゃがんで考え込んでいる、と碑をながめて思ってしまう。
碑の背には、淡い冬の陽があたっていて、それも悲しい光なのか、と思う。
この碑は、なくなった若い兵士の遺族たちが、心を合わせて建てたのである。
砂の上に、ただ、ひたすらにポツンと、立ててあるのが、わたしに強い感動を与えてくれる。
ああ、戦士よねむれ。ねむっておくれ。

平成26年8月10日 秘められた手紙  愛知県 山内深雪  
私の宝物の話です。 昭和十七年の春、まだまだ物資のない時代に結婚しました。
母の白喪服を染めて晴れ着にと、母なりに一生懸命作ってくれました。
二年ほど過ぎた頃、長じゅばんの襟をほどいた時に一枚の小さな和紙が出てきました。母の字です。
「お父ちゃんへ、みゆきはお嫁に行きます。健康で明るく、皆様から愛される嫁でありますようにお守りください」と書いてありました。
私が五才の時に亡くなった父への手紙でした。びっくりすると共に、ただ涙でした。
苦労して育ててくれた母。
年をおうごとに一枚ずつほどけば、結婚が決まってから作ってくれた着物や帯に、同じように書いて入っていました。
その度に、この母の為にもがんばって幸せになろうと思いました。

平成26年8月3日 二十四年目の旅  藤枝市 成岡初容
時折吹く風で、白く波立つ海がキラキラ輝いている。志摩の海はどこまでも青く、穏やかに見える。
「いつも迷惑をかけています。結婚記念日に伊勢志摩の旅にご招待いたします」突然カードを渡された。
結婚二十四年めの主人からのプレゼント、二泊三日の旅である。
「もったいないからと言って、なかなか決められないだろうから、ホテルもちょっと豪華なところにしておいたよ」と主人。
私にとっては、何度目かの志摩で、名所旧跡のものめずらしさはなかったが、普段より口数の多い主人の気持ちが嬉しい。
年老いた両親をおいてきたのは気がかりだったが、また明日からがんばれそうな気持になった。
二十五年目も、お互い元気で迎えたいネ。お父さん。

平成26年7月27日 ギュアッタビンデ  宮城県 大沼光子
三十年前、生死をさまよう夫は、タンカで公立病院に移されました。
授乳中の娘は、夜を徹して駆けつけた妹の背に負われて、遠い青森に預けられました。
夜の病院のどこからか聞こえてくる赤ちゃんの泣き声に、あふれ出るおっぱいと涙を洗面所に何度も流しました。
一命をとりとめた夫を家に迎え、青森で再会した娘は、妹夫婦をパパ・ママと呼んで、違う顔になっていました。
抱き上げようとした、私の手を振り払い、逃げまわり、泣き叫び、娘はトイレの中まで妹を追いかけてゆきました。
その夜娘は、妹の首を両手でしっかり抱えて眠り、私は明日どうして連れて帰ろうかと考えて眠れませんでした。
長い車中、私はまるで誘拐犯のようにおどおどとあたりを気にし、やっと我が家に帰った娘は、部屋の隅にうずくまり、小さな声で「ギュアッタビンデ」を繰り返しました。妹に電話して牛乳を温めて哺乳瓶で飲むこととわかり、親子でやっと笑いました。
その娘、くしくも自分の誕生日に出産予定です。
今とても幸せです。

平成26年7月20日 看護婦が見つめた人間が死ぬということ  宮子あずさ
彼は慢性呼吸不全で八十代になってから入退院を繰り返す小柄な痩せた男性でした。
彼のことを思い出す時、私は彼のごみだめのようだったベッドの周りと、誰よりもみすぼらしい格好で面会に来ていた妻を思い出します。私がそれを忘れられないのは、その身じまいへのかまわなさが、彼の、並外れた金銭への執着だったからです。
少しづつぼけの進んだ彼は、ベッドサイドに立って、ゴミ箱に向かっておしっこをするので、ベッドの周りは尿だらけという状態でした。
私は、二人がつましい年金暮らしで、下着を買うお金にも事欠いているのかと考えましたが、実際は貸ビルを持つ裕福な人でした。
二男の妻は「お金を沢山持っていて、楽しく暮らしてくれれば、私達もうれしかったんですが、お金を持ちながら、けちけちして、みすぼらしい暮らしをしている親を見るのは、何よりつらいんです」と。
お金は持っていても心が貧しいというのはこういうことなのかなと、しみじみ私は思いました。
最後は、残された肺の機能をすべて使い切って、ゼンマイが止まるように、静かに亡くなりました。
最後の最後まで、彼は黄ばんだ下着を身に着け、ご遺体を清めた後も、妻が準備していたのは、ぼろぼろの浴衣。
それを見て私は、二男の妻にこれでいいのかと目で尋ねましたが、彼女は耳元で、
「義母の気の済むようにしてやってください」と答えました。
あのような親の元で育った息子たちが、大らかさも持ち合わせた金銭感覚を持っていたのが、不思議です。
それは、その妻たちの影響ももちろん大きいのでしょうが・・・・・。

平成26年7月13日 看護婦が見つめた人間が死ぬということ  宮子あずさ
癌で亡くなっていく患者さんを見ていていつもわからないのは、その患者さんがいつの時点で死を覚悟し、自分の運命を受け入れているかということ。
多くの患者さんは、とにかく回復を信じてがんばり、やがて身体が衰えて、気力が萎え、意識も落ちて、亡くなっていきます。
ある50代の肺がん患者の男性は、奇跡が起こることを信じていました。
しかし、彼の病状は日に日に悪くなり、終日うとうとして、時々目を開けると、妻と息子の顔を見て、それから点滴に目をやります。「ちゃんと治療をしていますからね」と妻が言うと、安心したようにまた眠りにつきました。そして最後は、本当に眠るようなに亡くなりました。
限りある命と告げられた時に、自分が死んだあとの準備にだけ時間を割ける人が、どれだけいるでしょうか。
あきらめ、運命を黙って受け入れるだけが、受容ではありません。
どんなに予後が厳しくても、生きたい、病気を克服したいという気持ちに素直になることで、心の安定を得る・・・・。
はたからは、じたばたしているように見えたとしても、それはそれで、素晴らしい死に方なのではないでしょうか。

平成26年7月6日 看護婦が見つめた人間が死ぬということ  宮子あずさ
「核家族になって、家庭の中から老いや死が消え、そうしたものに鈍感な子供が増えた」としばしば言われる。
40代の両親に、中学生の娘と息子。一見ごくごく普通の家庭の父親が、脳溢血で今にも亡くなりそうな場面で、子供たちが、「部活があるから」「塾があるから」と家に帰ってしまいます。それぞれに事情もあろうと理由付けをしてみても、やはり後味の悪さは今も消えません。
「かなり危険な状態です。会わせたい人がいたらすぐ呼んで会わせてください」 主治医は、妻にこう告げました。
重い沈黙の後、妻が言ったのは、「会わせると言ったって、どうせ本人は、わからないんでしょう?会わせてどうなるんですか」
私は何か、とても怖いものを感じていました。見た目には、品のいい、おそらくいろいろな知識のありそうな、普通の女性。
でも、なんか大切なものが欠落している印象を、この時もったのです。
さらに状態が悪くなり、心臓マッサージが始まりました。「すぐにお子さんを呼んでください」
ところが何時間たっても子供は到着しません。
「親の死に目にもう間に合いませんよ。これはお子さんの到着を待つだけの、延命なんです」私は努めて静かに、彼女に尋ねました。
そしてその問いかけに返ってきた彼女の答えは、
「お忙しいなら、もう結構です」というもの。
私はそれを聞いて本当に、全身の力が抜けました。

平成26年6月29日 看護婦が見つめた人間が死ぬということ  宮子あずさ
健康というかけがえのないものを失う時、人は自分を保つために、さまざまな存在証明を求めます。
その際、中には学歴という一番世の中にわかりやすいところにそれを求める人がいるのですが・・・・・。
それは多くの場合、傍目にかえって、悲惨な印象を与えます。
息子の学歴を自慢しまくって嫌われる、女性の患者さん。
自分の出た大学出身の著名人の話をしては、さりげなく自分の出身大学を人に伝えようとする男性の患者さん。
こうした患者さんと関わるとき、私は、”お互い同じ病気と闘う患者さん同士なんだから、自慢話は抜きにすればいいのに”
とちょっと悲しい思いになります。

平成26年6月22日 看護婦が見つめた人間が死ぬということ  宮子あずさ
病院でも、外の世界でも、ぼけを恐れる人がたくさんいます。私も看護婦として、ぼけのお年寄りを沢山見てきました。
ただ、見れば見るほど、ぼけはそれ自体が悲惨というよりも、とりまく状況が悲惨なのではないかと思わずにはいられません。
ベッド中を便だらけにしても、食べたご飯をすぐ忘れても、本人はにっこりしている。
こんな場面を見るたび、ぼけている本人は、実はそれほど不幸ではないんじゃないかと思ってしまいます。
はっきり言って、ぼけが大変なのは、本人よりも、それを世話するまわりの方。それが私の実感です。
そんな私のぼけに対する考え方を、さらに強くしてくれた、82歳の元職業軍人の方は、入院して間もなく、一気にぼけてしまわれました。
看護婦に対しては腰が低かったものの、やれひげそりがない、ティッシュの残りが少ないと、長男の妻に声を荒げる場面もしばしば。それは、まさに一昔前の、嫁の扱いという印象でした。まるで小間使いみたいに扱われて気の毒と、私たちは彼女に心から同情しました。
「みっともないところをお見せしちゃって・・・。おじいちゃんは、本当に厳しい人で・・・。」
努めて冷静に話そうとするそばから、指が細かく震えているのが、本当にお気の毒でした。
いかにも品のいい彼女が、あそこまで言ったのは、本当に追い詰められていたんだろうと思うのです。
一か月で彼は亡くなりました。私が今でも思い出すのは、あるおむつ交換の時。
私がおむつを換えるのを手伝っていてくれた彼女に向かって、彼が、
「美津子さんありがとう」と、小さな声で言ったのです。
「あら、おじいちゃん。そんな、お礼をおっしゃるなんて、初めてじゃありませんか。すっかり気弱になっちゃって」
と言いながら、彼女は言葉に詰まっていらっしゃいました。
いろいろしがらみがありながらも、感謝の一言を心から喜べる、人間の心の機微、そして、彼女の気持ちの優しさ・・・。
私が看護婦をしていてよかったと思うのは、まさにこうしたものに触れた時です。
しかし、その一方で、ぼけて初めて、人に感謝の言葉を言える、そんな気の毒な人もいるのだという事実に、人と人との関わりの難しさもまた、見た思いでした。

平成26年6月15日 長き老後2  後藤 真躾  
女性の老化は更年期で露わになりますが、男性の老いは、定年で明確に現れます。
地域社会や家庭で生きる女性と違って、組織で生きている男性は、足場となる勤務場所が失われれば、海を漂うクラゲのように心が漂いはじめます。旅行や趣味で時間をつぶしても、肩書のない生活には耐えられません。
泥縄式の生きがいや趣味がどれほどの効力を発揮するのでしょうか。
権力や資産が価値だと思い込んできたために、自分は無価値な人間だと自ら卑下するようになり、気弱な時間をつぶすようになります。
年をとって何が悪いと居直りせず、かくも長き「老後」には早めの対策が必要と思われます。

平成26年6月8日 長き老後1  後藤 真
シェークスピアは、弱いのは女と断言していますが大間違い。
男は生まれながらに虚弱で、思春期までに生きながらえることの少ない悲しい存在です。
そのため神様は生まれる赤ん坊の男女比を男性が少し多くし、思春期にはほぼ男女平等となるように微調整しているのです。
また、いかなる社会でも、男性の寿命は、女性よりも10年も短いのです。
Y染色体は男性の証ですが、そのためではないでしょうが、男性はわい(Y)せつ行為で誤認逮捕されることがあり、これまた悲しい刻印です。寅さんではありませんが、まことに「男はつらいよ」です。

平成26年6月1日   漢詩紀行
前に古人を見ず/後(しりえ)に来者を見ず
天地の悠々たるを思い/独り蒼然として 涕下る
わが前に古(いにしえ)の人々は見えず、わが後ろに未来の人々は見えない
悠久の天地を思って、一人悲痛に耐えられず 涙がほほを伝う

平成26年5月25日   漢詩紀行
悠然として南山を見る/山気 日夕に佳く
飛鳥 相与(とも)に還る/此の中に真意有り
弁ぜんと欲すれば己(すで)に言を忘る
悠然として南の山を見やる/山には夕暮れの霞がたなびき
鳥が連れ立ってねぐらに帰る/このなにげない情景にこそ人生の真意がある
この真意を説明しようとすると、とたんに説明する言葉を忘れてしまう

平成26年5月18日 僕の愛しい歌  阿久悠
 「二十二歳まで」 歌 ダークダックス 作曲 森田公一
この歌は確かに愛しい歌である。どういう歌かというと結婚式の一景で、嫁いで行く二十二歳の娘のことを、生まれてすぐの時からずっと父親が思い出しており、〜結婚式はいつ始まって いつ終わったのか 私は何も覚えてないよ 思い出だけが走馬灯のように駆け巡り 私はじっと目を閉じていた・・・・・という、まるで小津安二郎映画をイメージさせるような歌である。
僕の世代は、花嫁の父には一つのコンプレックスがある。あまりに見事なサンプルがあって、それと重なって泣いてしまうのである。
一本はアメリカ映画の「花嫁の父」、嫁ぐ娘を最も美しかった時代のエリザベス・テーラーが演じ、父親は名優スペンサー・トレイシーが泣かせた。もう一本は小津安二郎の「晩春」で、娘は原節子、父親は笠智衆である。
この二本の映画を知っているために、父親の涙は増幅される。思っただけでも泣く。
あるいは娘が、何かいおうとして顔を見つめただけで絶句する。
条件反射のようにスペンサー・トレイシーになり、笠智衆になってしまうのである。

平成26年5月11日 未熟のウィルス  阿久悠
科学・美術・文化などの発展の上から見て、アングロサクソンは45歳の壮年、日本人はまだまだ生徒の12歳の少年である。この言葉は、日本が占領されていた頃のマッカーサー元帥がアメリカ上院で証言した日本観である。
「日本人は12歳」が独り歩きして僕らは大いに激怒したものだ。
マッカーサーが12歳と断定した理由は不明だが、今の日本を見ながら「どうだ、やっぱり12才だっただろう」と傲慢かつ尊大、預言を的中させた霊能者のように、僕の頭の中で笑う。
今の日本、子供から大人まで、自己の欲望と自己の保身だけで生きようとし、欲望が満たされないと社会が悪だと呪い、保身に失敗すると恥を捨てて駄々をこねる。そして、この世に自分と違う生き方をする人がいることを認めない。
官僚に汚職の認識がないのも、企業の社長に会社があって社会がないのも、政治家が沈みそうな船の上でなお争っているのも、「頼りないわ」と言われただけで夫が妻を刺すのも、もしかしたら、未熟のウィルスのせいではないかと思う。
日本人は12歳なのだろうか。

平成26年5月5日 青春の夢  久世光彦
「青春の夢 風葉と喬太郎」を書いたのは小中陽太郎さんで、この人は博学多識で才気煥発というインテリなのだが、私は時々、この人はもうずっと以前に、人生を投げてしまったのではないかと思ったことがある。
−−−きっと人に言いたくない、いろんなことがあったのだろう。
だから、今度の本を読んで、余計なお世話だが、ホッと安心もした。
この人は、「青春の夢」に30年余りの長い時間と、それだけの思いを籠めているのである。
私はこの本の重さに、小中さんがこの三十年引きずってきた、濡れた砂袋みたいな人生を想って、目の裏がちょっと熱くなった。
小栗京太郎はナチ台頭のころの、ドイツ共産党の党員名簿に名を連ね、第二次大戦後まで生きている。
小中さんは喬太郎の足跡を追って、ドイツのあちこちを訪ね、さびれた小駅のベンチに腰を下ろして半世紀前の喬太郎の胸に燃えていた「青春の夢」を想う。
−−−風葉の夢も、喬太郎の夢も、そしてこれを書いた小中さん自身のかっての夢も、「青春の夢」は、年月を経てみんな後姿になっていく。

平成26年5月4日 ゆかしい
ゆかしい人がいなくなっている。ゆかしい人は日本人の理想像だった。
いつからか「ゆかしい」と言う言葉も使われなくなり、そう言える人も身近にいない。
「ゆかしさ」は自己をいたずらに主張せず控えめで、しかし皆の心をひきつけていく魅力である。
上品で落ち着いた美しさ、であり、奥深い優しさだ。
今の日本社会は、本来ゆかしい人を下品に無遠慮にかりたてている。
「山路来て なにやらゆかし すみれ草」
という芭蕉の句のように、目立たない美しさを大事にするゆとりを持ちたいものだ。

平成26年5月3日 灰皿  久世光彦
ヘビー・スモーカーの私の灰皿の中に、直径10センチほどの、可愛い焼き物の灰皿がある。
太宰が死んで数年後に、やはり自分で命を絶った久坂葉子という若い作家の遺品である。
そのころ、東の曽野綾子、西の久坂葉子と言われるほどの、美貌と才筆で評判の二人で、私たち文学少年の憧れだった。
私が、不良気取りの地方の高校生で、親や先生の目を盗んで煙草を吸いはじめた頃である。
久坂葉子は、昭和27年の大晦日の夜、阪急六甲駅で下り特急電車に身を投げて死んだ。二十一歳だった。
その死の理由なんて、だれにも分かるはずがない。人は誰も、いろいろあって死に、いろいろあるから生きているのだ。
ーーーそれでも私は、久坂葉子の死に重い衝撃を受けた。
その人の弟さんから手紙をもらったのは、一年ほど前のことだ。
どこかの雑誌に、私が久坂葉子への思いを書いたのを、お読みになったらしい。
私は小さな箱をもらった。開けてみると、稚い絵のある手焼きの灰皿だった。
久坂葉子がどこか旅先で焼いたものらしい。
ーーー私はその灰皿に煙草の灰を落とす。
その灰の軽さは、50年の年月のようだった。

平成26年4月27日 看護婦が見つめた人間が死ぬということ  宮子あずさ
個人や家族の幸せと言うものは、人それぞれなんだとはよくいわれること。そんなことを教えてくれたのは、肺がんで亡くなった、ある中年女性とその家族でした。人を外見で判断してはいけませんが、はっきりいって堅気の商売ではない、という印象。
彼女は髪の毛が金髪で、金ぴかのアクセサリージャラジャラだし、夫は生粋のパンチパーマに、縦縞の異常に派手な背広で身を固めていました。「一家みんな変」と私たちは不安の余り、口々に言い合っていました。
そして、最後まで家族は、激しい言葉を交わしていました。亡くなる前日の昏睡状態の母親に、
「何だお袋、また寝てんのか。ちっと目を覚ませや」なんていう息子に「ママ、夜型だから」と娘が応じて大笑いしてる。
明らかに、一本、何かが足りない感じ。最後まで彼らはそのスタイルで、彼女の死を看取ったのです。
私自身は、人間は深い思考があってこそ、人生は味わい深いものだと信じています。
人間最後は、品性と教養なんだと素朴に信じている。
しかし、私の信念とは全く別に、品性とか教養とかと全く無縁に楽しく生き、助け合い、死んでいく人たちがいることも事実。
問題は、常識や自分の価値観に照らしてその患者さんの生き方や死に方がどうであったかということではなく、その人自身がハッピーだったかどかということなんだーーー。
彼女とその家族は、私にそれを教えてくれました。

平成26年4月20日 看護婦が見つめた人間が死ぬということ  宮子あずさ
「こんなに人に迷惑をかけて。早くお迎えが来てほしい」と言うお年寄りも、食事はぺろりと残さず、這ってでも一人でトイレに行こうとするのは、まさに生きる意欲と呼ぶにふさわしい。
それは時に、日常生活のすべてを介護に費やしている家族から見れば、疎ましい光景でもあるでしょう。
「もう先がないと言ってるくせに、死にそうな人はそんなにご飯は食べないものですよ」などと厳しいことを言う嫁や娘を何度も見ました。百歳近いお年寄りといえば子供の代も、もう70代。高齢者が高齢者を見ていれば、こんな言葉が出るのも無理からぬことでしょう。
先日、百歳を目前にした男性が、原因不明の高熱で亡くなられました。長寿で一番悲しいことは、肉親の死を多く体験すること、彼も子供たちはみな先立ち、二男の妻という人と二人暮らしでした。
同じことを言ったり、やったりしても、嫌な気がする人と、そうでない人がいるが、その人自身に人間に対して悪意があるか、好意的かで、印象が決定的に分かれる気がします。
実際彼は、ものすごい痛がりゆえに、看護婦に対して悪態をつくことがありました。
でも、彼のベースには、「ありがとう、ありがとう」の心があることが、理屈でなく、私たちにわかっていたから。
だから、最後まで、彼に対して優しい見方ができたのだと思います。
その意味では、いずれ介護される立場になりうる、すべての人が心がけることは、人に対して悪意を持たず、好意的であることかもしれません。
「百年って、長かったですか」と言う私の問いに、「いや、あっという間だった」その時彼は、とっても遠い目をして「だから、もっと、もっと長生きしたい」
ああ、そうなんだろうなあ、と私は、ただただ感動するしかありません。
長生きしたいーーー。それは、本当に素直な人間の気持ちだと思います。
この気持に、私たちはもっと素直に生きていいのではないでしょうか。

平成26年4月13日 幸せ
キムタクの宝くじのTVコマーシャルを見る。
  「
幸せはお金では買えないんだよ〜って、僕はお金持ちになって言ってみたい」。
ものまねをする私に、妻は、「お金で幸せを買えるよ!」

平成26年4月6日 看護婦が見つめた人間が死ぬということ  宮子あずさ
看護婦として多くの患者さんの家族関係に触れて、一番強く感じることは、中年以降の夫婦で仲のいい夫婦はとても少ないことです。
例えば。
 大酒を飲んで家族に迷惑をかけ続けた挙句、酒で病気になり家族に愛想を尽かされた男性。
 夫を働かせ自分はカルチャー通い、夫が倒れてもそれを変えず、見舞いにも来ない女性。
 妻を小間使いのようにこき使い、怒鳴ってばかりいる年老いた男性。
見た目にも殺伐とした夫婦は本当に多く、こちらがどきどきするような、どぎついやり取りをしている夫婦も少なくありません。
そんな中でも、時に、はっとするほどやさしく温かい夫婦の愛情を見せてくれる患者さんがいます。
肺がんで亡くなった60代の女性は、つややかな丸顔の明るい女性でした。
「かあさん。がんばってくれよ。息をしてなきゃダメだぞ」それは、妻への愛情からくる素朴な言葉であり、”人としてあるべき死に方”を理屈で考える時に、ついつい抜け落ちやすい家族の心情のように思えました。
息苦しさを訴える彼女の手を、彼はじっと握り続けました。
その姿を見て私は、彼は彼女を励ますためでなく、自分のためにも彼女の手を握っているんだと、改めて気づきました。
その翌日、彼女は夫に手を取られながら、静かに亡くなりました。
「お父さんは、気が弱いから」と妻からも子供からも言われっぱなしだった彼ですが、人としてのやさしさと愛情があれば、いざという時は、きちんとその役割が果たせるということでしょう。

平成26年3月30日 看護婦が見つめた人間が死ぬということ  宮子あずさ
肝臓がんの全身転移で亡くなられた70代の男性。彼の印象を一言でいえば、まさに、市井の片隅で誠実に生きる、”普通の人”。
入院してくると彼は、いつも、「お世話になります」と一人一人の看護婦に最敬礼したものです。
その姿は、卑屈とか、お世辞ではなく、人間の折り目正しさ、礼儀正しさというものを私は感じ、我が身を振り返っては赤面したものでした。
彼は、身内に対しても同じ対応をしていました。
「すまないねえ」「ありがとう」をか細い声で繰り返し、多くの家族に看取られて、亡くなっていきました。
感情的なトラブルが付きものの終末期が多い中で、久しぶりに見た、静かな最後でした。
本当に普通の人が、誠実に生き、感謝に満ちた生活をして、安らかに亡くなっていく。
こんな当たり前のことが、一番ドラマなのかもしれません。
死に方は選べないとわかりすぎるほどわかっている私も、”普通のいい人”でいるように努力しなくちゃなぁと、しみじみ思うのです。人に対して優しくあろうとすること、少しでもいい人であろうと努力すること。それはとても大切なことのはず。
そんな大事なことを教えてくれた彼に、私は心から感謝しています。

平成26年3月23日 看護婦が見つめた人間が死ぬということ  宮子あずさ
彼はいかにも頑健そうな体つきの、70代後半の男性。一見頑固そうに見えて、実はとてもシャイで優しい患者さんでした。
実際彼はとてもかわいいおじいちゃんでした。
人間年をとるにつれて、人間としてかわいげのある人と、そうでない人の差がはっきりするように見えてなりません。
彼は当時三年目の若い看護婦が特にお気に入りでした。彼女も彼のことをとても気に入っていました。
苦痛が落ち着くと、彼は、「初日の出が見たい」と言うようになりました。もう、彼は、自分が家に帰れないことは分かっているようで、家に帰りたいとは一言も言いません。それだけに、私たちはそれを聞いて、切ない気持ちになったものです。
折しも彼がお気に入りだった彼女が、大晦日から元旦の朝にかけて勤務についていました。
その日の夜勤も忙しく、看護婦は休みなく動きまわっていたと聞きます。しかし、その中で彼女は、彼の個室からベッドを引っぱり出し、一番大きな、東の窓にそれを持って行って、美しい初日の出を見せてあげたのです。
彼は、喜んで、彼女に盛んに手を合わせて拝み、涙を流していたそうです。
私はその場にいなかったのですが、彼女は本当に素晴らしいことをしたなあと、ひたすら感動しました。
彼は間もなく静かに息を引き取りましたが、彼女の行為は、それを見ていた家族の方々の心にも、きっといい思い出となったのではないでしょうか。

平成26年3月16日 看護婦が見つめた人間が死ぬということ  宮子あずさ
信仰が心安らかな死につながったある女性の死。
彼女はカソリック修道会で重責を担った還暦過ぎの女性で、教職にも就いた知的レベルの非常に高い方でした。
手術不能の肺がんで化学療法を繰り返していました。
「シスターおつらくありませんか」穏やかな修道女の方々の言葉は、はたで聞いていても、心安らぐものがありました。
私達看護婦は、患者さんが周囲の人から大切にされているのを見ると、本当にうれしいものなんです。
そして私達看護婦への最後の言葉は
「粗末な格好で逝かせてください。飾り立てた格好では、神は喜ばれないでしょうから」と言う言葉でした。
私はそれを聞いて、もう涙が止まらなかった。傍らに付き添っていた初老のシスターが二人。
「ええ、シスター、修道服が準備してありますよ、ご安心なさってください」と優しく声をかけていたのです。
彼女が亡くなって仲間のシスターからお礼の気持ちとして頂いたのは、彼女の遺影と聖書の言葉の入った小さなカード。
「神は残された。不思議なわざの記念を」
私は心が洗われたような気持になりました。
人間は何かを残して死んでいくんだということ。そう確信できたことは、自分にとって大きな救いです。

平成26年3月9日 半泥子
半泥子は、最近身体が不自由になった。せっかく泥仏堂に来る人が人があっても、失礼することがあってはいけない。
故に本人の身代わりに厨子におさまる自作半泥子像を置いた。
高さ24センチ。像の背面に「秋晴れや おれはろくろの まわるまま」と書いてある。
首が回るようにできているのは、気に入らない客が来た時、ソッポを向くためだと、藤田等風は言っていた

平成26年3月2日 青空うれしのおもしろお墓
何人かいる弟子の中でユニークな親父を持ったのが青空ぎんし。
北海道の留萌から大工で出稼ぎに来ていたが三年程前に亡くなった。その遺言状がふるっている。
家族が集まって恐る恐る開けてみたら、東京都台東区○×町のKさんに一万円借りたままになっているので返しておくれ。
横浜市△区のYさんに三万円借りたままになっているのでその方も宜しく。
ああ それから迷惑かけついでにもう一つ。せめて葬儀だけは盛大にやってくれ・・・。
こんな親って居ますか?とぎんしが言うので、その借金払って来たのかと聞いたら
「イエ、先方に電話して、『死ぬ前に親父がポロポロ涙して借金の事苦にしながら息を引きとりました』と言ったら、先方が恐縮してもうそんなこと結構ですと、一万円ずつ送ってきました!」
この親にしてこの子アリですな。

平成26年2月23日 懐かしい日本の言葉
鶏口となるも牛後となるなかれ
「鶏の口になるのはよいが、牛の尻になってはいけない」鶏は小さな団体、牛は大きな団体の例えだ。
したがって、小さい会社のトップでいる方が、大会社の平社員よりもいいということだ。
この言葉は、中国の戦国時代蘇秦
が大国秦と同盟を結ぼうとした韓の国王に言った言葉。

平成26年2月16日 日本人の知らない日本語6
色の話・・・・・青
「日本人は青と緑の区別がつかないのですか」「つきます」「では、なぜ緑の信号を青信号と言いますか」「それはですね」
元々「青」は寒色全体を指す言葉だったからです。ブルー(青海波)グリーン(青草、青葉)ブラック(青眼、青鹿毛)。
じゃあ緑は何だったかと言うと「色の名前」ではなく、「新芽」「若々しい」といった言葉でした。
故に「みどりの黒髪」赤ちゃんなのに「みどり児」という、今となってはワケのわからん言葉が存在するわけです。
・・・・・次に赤
日本の学校に子供を通わせる外国人のお母さんたちが共通して驚くこと。それは子供が描く太陽が「赤い」こと。
日本では「太陽といえば赤」ですが、英国ー夕日ならともかく普通の太陽は黄色。中国ー黄色か白。アメリカー黄色。エジプトー金。
ちなみに色だけでなく意味も国によって違います。ヨーロッパでは「君は太陽のようだ」が、アラブでは「君は月のようだ」と言わなくては褒め言葉にならない。
ハイ、色の話は終わり。他に質問は、
「先生、日本の男の人が好きな色を教えて下さい。お世話になった人に肉体をあげたいのです」
「ええええー」「えーと ええっと」
「あ ニクタイじゃなくてネクタイ」でした。
もっと早く言ってよ。
「ネクタイでした」 いや早口で言われても。

平成26年2月9日 日本人の知らない日本語5
AとBはどう違う。
「牛乳はよく飲みますか」「はい、たまたま飲みます」「たまたまじゃなくて、たまにですね」
「たまたまは偶然です」「たまに」は頻度の割合でいうと
100%から、いつも・たいてい・よく・・・ときどき・たまに・ぜんぜんないの 0%まで。
「うれしい」と「たのしい」の違いは? 一番の違いは”喜ばしい気持ち”が続く時間の長さです。
「うれしい」に比べると「たのしい」の方が長く続きます。
「ぜひ来て下さい」と「絶対来て下さい」の違いは? 「ぜひ」は強く願う時や進めるとき。
「絶対」は断らないでという強い気持ちが伝わります。つまり、依頼と言う形の命令です。
「IH炊飯器」と「マイコン炊飯器」はどう違いますか? それは電気屋さんに聞いて下さい。

平成26年2月2日 日本人の知らない日本語4
日本人が普段何気なく使っている丁寧の「お」と「ご」。
基本的に「お」は和語で・・・昔から日本で使われている言葉、音読み、お風呂・お手紙など。
「ご」は漢語・・・中国から入ってきた言葉、訓読み、ご住所・ご連絡など。  例外、電話・茶は「お」がつく。
「ご」がつくと公的で堅苦しく・・御子息   「お」がつくと・・お子さん 女性的で柔らかい感じがしませんか。
なぜなら「お」を女性言葉として定着させたのは室町時代の宮中の女房。
「お」が大好きだった女房達は「屁」なんて下品な言葉は使いたくないわ。
「鳴らす」に「お」をつけて「おなら」はどう。
「あ、それかわいい」、と言ったかどうか。

平成26年1月26日 日本人の知らない日本語3
今日は丁寧な言い方を覚えましょう。はい、ジャックさん。
「教えて頂けますか」と「教えて下さいませんか」の違いを教えて下さい。・・すごい成長
教えて頂けますかの方が、教えてもらえる権利が高いです。
では「さしつかえなければ」と「おそれいりますが」の使い分けを教えて下さい。・・本当に優秀よね、あなたは。
それは相手に断る余地をどのくらい与えるかの違いです。
高いーさしつかえなければ(相手は断ってもいい) 低いーおそれいりますが(へりくだっているがある程度強制力がある)

若い事務員が「先生これからもがんばって下さい」・?・がんばれは本来目下の者を励ます言葉なんだけど
・・でも、代わりに何といえば…「ご苦労様」が目上の人には「お疲れ様」のように何かあるはず。
お花の偉い先生。「確かに頑張ってくださいは目上の方にはふさわしくありません。
その場合お疲れの出ませんようにと言うのがよろしいでしょう」そんな美しい日本語聞いたことないです。
と思っていたら、ジャックさんが使っていました。
「次おめもじ叶う日を楽しみにしております、先生もお疲れの出ませんように」・・
おめもじは会うの謙譲語。古すぎて今は使われない。よっぽど古い本で勉強したな。

平成26年1月19日 日本人の知らない日本語2
上品なフランス人が入学しました。国に帰ればお家はシャトーという本物のマダムです。
マダムは任侠映画マニアでした。フランスにいた頃の日本語の教科書は「網走番外地」などの映画でした。
自己紹介をお願いします。
「おひかえなすって、私マリーと申します。先生、私のことは姐さんと呼んでください」 呼べません。
「水臭いこと・・お言いでないよ」」文法的には問題ないけど、根本的に間違っている。今の日本人そんな言い方しないから。
そこに留学の動機が黒沢映画に憧れたからというスウェーデン人のエレーンさん。
来日したての時、「先生は忍者ですか、武士ですか?」「二択かよ」こんな質問をしたくらい忍者の存在を信じている。
マリーさんは映画だけで日本語を覚えたフランスの方だけど、エレーンさんあなたも同じくらいすごいですよ。と言うと
「これはいたみいります」出たな武士言葉。
映画好きの二人はすぐに仲良しに。
「先生に怒られてケツまくんなよ」「ちょこざいな」
きこえん・きこえん・なーもきこえん

平成26年1月12日 日本人の知らない日本語1
日本語学校で外国人に日本語を教えるってどんな感じ?
「先生、冷めると冷えるの違いはなんですか」「年齢を書くとき、才と歳どっちですか」「袖ビームってなんですか」
毎日こんな感じです。
答え 「冷める」熱いものを常温に 「冷える」常温をさらに冷たく。
「才」は「歳」を習わない小学生のための代用字。「歳」が正式。
「袖ビーム」ガードレールの端の丸まった部分のこと。

平成26年1月5日 神様からの贈り物  北九州市 工藤裕子
意味不明の高熱が続いて、とうとう大きな病院へ入院することになった。
沢山の不安を胸に抱き、退院するまで一か月を病気と過ごした。
これまで27年間、病気とはまったく縁がなく、日々忙しくフル回転で過ごしてきた私。
ゆっくりいろんな事を考える日々を与えられた。
欲を捨てることも教えられた。あのがむしゃらに自分しか見えていなかった私は、だんだん遠くに見える。
また、そんな私が戻ってきそうになった時は、病気の頃の私を思い出そう。神様からの贈り物を思い出そう。
目には見えない、お金では買えない、心で感じる贈り物。
家族や友人、たくさんの人達に心配かけたけど・・・・・大切な事を気付かせてくれたこの一か月にありがとう。
戻ってきてくれた私の健康な体にもありがとう。

平成26年1月3日 熊谷守一
文化勲章も叙勲も辞退し1977年に97才で亡くなった画家熊谷守一。
「私は、誰が相手にしてくれなくとも、石ころ一つとでも十分暮らせます。石ころをじっとながめているだけで、何日も何月も暮らせます」と記している。
この人の「それ自体が芸術」という生き方が確かにあると思える。

平成26年1月2日 時間がかわいそう  埼玉県 福田千恵美
先日、小学二年生の娘と買い物に行った時のことです。
「ねえ、まだスイミングスクールには早いから、ちょっと時間つぶして行こうか」と私。
「お母さん、大切な時間をどうしてつぶしちゃうの、そんな事したら時間がかわいそう」と娘。
八歳になったばかりの娘に、”ハッ”とする事を言われました。
人生の残り時間は、私の方が少ないのに。

平成26年1月1日 元旦
明けましておめでとうございます。
皆様、よいお年をお迎えのことと存じます。
今年も
緋色窯をよろしくお願いいたします。

「金餓新年」
て、ひどい語呂合わせですが、こんな句もあります。
「金なくて なんの己(おのれ)が 桜かな」 いや、本当は金ではなくてですが。

やきものは競争がないのがいいですね、穏やかで。
人の作品にはいいところ悪いところあるんだけど、基本的にはいい部分だけを見て
「いいじゃないですか」って褒めてくれるでしょう。
お互いに褒めちぎり、ヨイショにはヨイショをもってきちんとお返しをし、ほめるところがなければ努力をほめてしまいます。

  生き方も 草笛もまた 不器用で   永六輔
この歌は不器用に生きてきた私の人生と重なって・・・・・、
お金よりも、心豊かな生活を目指して6年たちました。

今年は自分らしく、そして長閑(のどか)に生きていきたいと願っています。

*ホームページを開設して14年、工房は18年、穴窯は7年目です。
2014年が皆様にとって、明るい年でありますよう祈念いたします。