平成28年の緋色窯日記に続く


平成27年12月31日 大晦日
今年もあますところ今日一日。
  ともかくも あなた任せの 年の暮れ   小林一茶
無心無欲それこそが生きることの妙諦なり、あなた(仏)にすべてを任せようじゃないか。一茶の人生観を語った句といえる。
ただし、愉快なのは、一茶のあなた任せの他力本願は融通無碍、およそ宗派なんかにこだわっていないところにある。
浄土宗、禅宗、法華宗なんでもござれであった。でも一茶は「あなた」のましますことだけは信じていたようである。

平成27年12月27日 恥ずかしき事の数々  男はつらいよ 第一作
拝啓、坪内冬子様、久しきご無沙汰をお許し下さいまし。
故郷柴又を出しより一年余り、思えば月日のたつのは早きもの、風の便りに妹さくら出産の知らせを聞き、兄として喜びこれにすぐるものなく、愚かしき妹なれど、私のただ一人の肉親なれば、今後共御引き立てのほど、お願い申し上げます。
 尚、私こと、思い起こせば恥ずかしき事の数々、今はただ後悔と反省の日々を、弟登と共に過ごしておりますれば、お嬢様には他事ながらお忘れ下さるよう、ひれふしてお願い申し上げます。

平成27年12月20日 自然を見つめ
春ランの花が薄緑に色づいた。まわりを野草に囲まれて、小さな陶板の碑がたたずむ。
   たがために 咲くにはあらで道野辺の
   しこのしこくさ(雑草) 咲くべく咲きぬ
瀬戸市川合町、栗本伎荼夫さんの庭。
陶板に刻まれた短歌は愛知県が生んだ美術工芸家、故藤井達吉さんが栗本さんに贈ったものである。
「先生が亡くなる3年前、昭和36年ころです。私が焼いた陶板に直筆で書いていただきました。
ものをつくるものの心構えが良く出ていて、いかにも先生らしいお言葉です」

平成27年12月13日 奥さま川柳
 ああ妻よ せめて紅引け 尻掻くな

 若く化け 写真で見たら 年相応

平成27年12月6日
ロス・ユニオン駅の日時計の台座には銘が刻まれている。
  理解する洞察力
  信じる信念
  実行する勇気

平成27年11月29日 とうでん川柳倶楽部
 死ぬときは 一緒が今は 譲り合い   杉並区 井口春夫

「死ぬときはいっしょよ、ねえ、あなた」と、妻は何度も甘えたものだ。
「そうとも」と答えた俺も若かった。
それが今は互いに年を取って、互いに少しでも後に残りたいと思っている。
「お父さんを残しては死ねませんよ」なんて。

平成27年11月22日 映画館(こや)がはねて  山田洋次
ハイバーガー氏はロサンゼルスに住む映画批評家である。いや、もう故人だからあった、と書くべきか。
大きな体、ユダヤ人独特の長い鼻、相手を包み込むような優しいまなざしの老人で、私はロサンゼルスへ行く度にこの人に会うのが楽しみだった。むこうで上映される私の作品は残らず観ていて、心のこもった批評をしてくれる人だった。
8年ほど前、彼は父親のような口調でこんなことを言ってくれた。
「いいかヤマダ、おまえはアメリカ映画の影響など受ける必要はない。
おまえは、おまえの作りたい映画をおまえが作りたいように作ればいい。
そうしてこそ初めてアメリカ人の心を打つような作品ができるのだ」 ホテルの前で握手をして別れたのが彼との最後だった。
それからしばらくしてハイバーガーー氏が亡くなったという知らせを聞いた。
数年後、ロサンゼルスを訪れた時、せめてお墓に参って花を献じようと思い、いつもハイバーガー氏と一緒だった弟子の青年に墓の場所を訪ねたところ、なんと彼の遺言で墓は造らず、骨は粉にして海の上に撒いてしまったということだった。
帰国する飛行機の窓から私は太平洋を眺めた。
死者を悼むなどということは無駄なことだ、そんなことよりおまえがどのように生き、何を作るか考えろ、というハイバーガー氏の声が聞こえるような気がした。

平成27年11月15日 必殺仕事人W  オープニングナレーション
近頃 世間に流行るもの         押し込み強盗 高利貸し
賄賂(わいろ)をもらう えれえ人    金 金 金の世の中で
泣くのは弱い者ばかり          涙を拭いて おいでなせえ
恨みをはらす 仕事人          陰膳据えて 待っておりやす

平成27年11月8日 必殺仕事人 オープニングナレーション
一掛け 二掛け 三掛けて    仕掛けて殺して日が暮れて
橋のらんかん腰おろし       はるか向うを眺むれば
この世は辛いことばかり      
片手に線香 花を持ち       おっさん おっさん どこ行くの
 
私は必殺仕事人 中村主水と申します
それで今日は  どこのといつを殺ってくれと仰るんで?

平成27年11月1日 とうでん川柳倶楽部
   あの世でも あなたと一緒 いいですか    松山市 北岡昭男

うーん、困りましたね。こんないじらしいことを言われてノーとは答えられない。また、慣れ親しんでいる今の妻のほうが気楽でもある。
しかし、あの世とやらでは新しい人生をやってみたい気も少しはある。
「う、」と答えに詰まった夫を妻は素早くキャッチして、そこからとんでもない大喧嘩になったりする。
まずは「うん」が無難ですね。

平成27年10月25日 とうでん川柳倶楽部
臆病で まだ結婚を しています
このごろは 夫唱婦随が 心地よし
定年離婚 されぬだけでも 可としよう

平成27年10月18日 中高年からの田舎暮らし
「つまり、何にでもなるが、何でもない。人生というのは、究極は死との対決です。どうやって、終わりを迎えられるか。
チベット密教では、最後に到達するのは真っ白な光の世界だといっていますが、最近はそれが良くわかるようになりました。

緑の大自然の懐深く抱かれながら、人間は純白の光の世界に近づいていく。
それは自然に抱かれて日々を過ごす人間の精神が純化されていくプロセスである。と解釈するのは飛躍しすぎだろうか。

平成27年10月11日 とうでん川柳倶楽部
どちらかが がまんしたから 老夫婦
愛してる などと六十歳が言う
残る気で 妻がお経を 習ってる
たまさかに くすぐり合って 老夫婦

平成27年10月4日 アート川柳   田口麦彦
 老いて候 断捨離という こころざし
「ようこそ断捨離へ」やましたひでひこ著(宝島社)という本が話題になっている。
本のサブタイトル「モノ・コト・ヒト、そして心の片づけ術」とある通り、現代のモノあふれ社会をどのようにしたらストレス少なく生き抜くか、その為の整理術である。
私世代の「もったいない」人間は、とにかくモノをため込んでしまう。
いま私が、すぐ手を付けなければならないのはトラック数台分にもなろうかという本。
東京神田の古本屋から高い金を払って買ってきた本も中にはある。資源ゴミ行にするのは社会的損失?と思うのだが・・・・・。
あてにしていた公共図書館も今や収容余力はない。
私にとって宝物でも、残された家族には何の価値もなく迷惑千万のモノ。この「断捨離」術実行の日が迫っている。

平成27年9月27日 アート川柳   田口麦彦
 人も国も燃えてた 「坂の上の雲」
司馬遼太郎原作「坂の上の雲」がNHKのテレビドラマとして放映されている。
日清、日露という列強との国を賭けた戦争という劇場的要素もあろうが、それ以上に時代を国とともに生き抜く人間の活気が感じられるからだ。貧しい生活の中、たくましく生きる若者のエネルギーが画面からあふれ出ている。戦争というエキサイティングな背景ばかりでなく、俳句の革新のために燃える正岡子規の生きざまに感動しながら、その時代の空気に染まってしまった。
ひるがえって、現代の空気を吸っている私たちはどうなのだろうと思う。
いったいどれだけの人が、時代を感じながら生きているのだろうか。
「棺の前にて通夜なども無用に候。談笑清々のごとくなされ度く」
と言い遺して世を去った子規の「超然とした姿」に思いをはせる今日この頃である。

平成27年9月20日 アート川柳   田口麦彦
 いわしは天へ 金子みすゞに つづく道
清水寺の襖絵、全四十六枚を五年間にわたって取り組み、遂に完成させた画家がいる。佐賀県出身、六十七歳の中島潔さん。
画壇には属さず、特に師匠も持たず、ほぼ独学で描き続けてきた独特のノスタルジー溢れる画風。
「風の画家」と言われ近年行われた作品展などで注目されていた。
襖絵の中でも、「大漁」というイワシの大群を描いた作品に圧倒される。何百匹もあろうかというイワシの大群、その一匹一匹が丹念に描き込まれて生きているのである。この「大漁」の絵は、若くして逝った詩人、金子みすゞの詩をモチーフとしたそうだ。
イワシの大群のなかに凛として立つ少女。中島潔さんは「これは私自身ですね、やっと強くなれたかなっていう思いがしました」とおっしゃった。『まず第一に命を輝かせられたことですね』とも。
これこそいのちの復活。私はそう感じる。
中島さんは、ガンを克服して絵筆を持たれたという。
私も続こう、歩く道は違うけれど・・・・・。

平成27年9月13日 アート川柳   田口麦彦
 天気晴朗 されど本日 癌告知
これは他人事ではない。
まさしく私自身の身に起きた出来事である。
それもつい最近のこと。とうに癌適齢期に入っていたので、いつかはその日が来るだろうと覚悟はしていた。
でも、そんな覚悟は実際には何の役にも立たないことを思い知る。
告知の日は快晴、五月の薫風が肌に心地よかった。「早期ですが、立派な癌です。」と言われた。
「立派」なだけ余計だろうと一瞬思ったが医師にはかなわない。
がんになってから『癌と闘うーーユーモア川柳乱魚句集』を出された先達の本を改めて開く。
 ひらがなで 書いた癌なら 怖くない
なるほど「癌」という字は病だれの中に瘤が三つあり、山という字と重ねていかにも手ごわいものに見える。
 なみだ眼を 見せれば癌が つけ上がる
 病巣の イラストうまき 医者信ず
 本名で 答えて入る 手術室
病気のことはお医者さんに任せるしかない。 さあ、このユーモアで私も闘おう。

平成27年9月6日 風のように 炎のように  加藤唐九郎・五木寛之
唐九郎  自分がまだ若い時と同じでやれると思って、やりにかかるとできないですね。だけど一つのことをやる分には年をとってからの方がやりいいと思うんです。経験を持っているから。
五木  一芸に秀でた方が、ある境地に達して創ってゆかれるものが、初心者というか広い人々にも理解できるものでしょうか。つまり、創る側がそれだけの経験と研鑚を経て創られるものは、受け手の側にもそれだけのものがなければ見えないものかどうか?
唐九郎
  いや、年をとってからやる仕事は、相手に分からせるとか分らせんとかいうことは考えないで、自分の信ずるものをそのまま、どうなっても創るでしょうね。
五木
  なるほどね。しかし、それはとても孤独な感じではないですか。

唐九郎
   そりゃ孤独さはあるけれど、世間のことは考えないで、自分だけの境地を掘り下げていくというか・・・・・、それは非常に興味があると思いますね。。
五木  そういう時間に生きている間は、充実感というとおかしいですが、七十五歳を過ぎても八十歳を過ぎても「生きている」というあうな感じがーーーー。
唐九郎  そういう世界に生きて、そういうことをやっていると年齢を感じないし、社会をあんまり対象にしないからね。非常にいいと思うんです。     
(1981年10月)

平成27年8月30日 風のように 炎のように  加藤唐九郎・五木寛之
唐九郎  結局ね、75歳から先は一つのことをやらなきゃいけない。あれもこれもいくつもやっちゃいけないですね。何か一つだけにまとめて、一つのことをやっていけば、年をとってからいいと思いますね。
五木  それは、年をとってからの話ですね。早くから生涯一筋の道とか言わないで。
唐九郎
  それまでに一つのものに固めておく。それを深く掘り下げていくには、年をとって一つの経験を持ってやっていけば相当いけると思いますね。
五木  七十五くらいからですか。先が長いなあ。(笑)

唐九郎
  いやあ、七十くらいから非常に日が早く暮れて、一年が早く暮れるようになるんですよ。
五木  ふーん、そういうもんですかね。
唐九郎
  じゃから、結局こうだと思うんだ。時計が早く回るわけでもないし、太陽が速く走るわけじゃないけれども、自分のテンポが伸びていくと思うんだ。
五木  
自分のテンポですか? ああ、自分の方のテンポですね。

唐九郎  自分のテンポがずんずんずんずん落ちていくから、他が先に行っちまう。

五木  そうか、なるほどね。相対的に考えて、自分がゆっくり歩くような感じになるから、周りが速く飛んでいくんですね。
唐九郎
  そうそう。それで一年くらいすぐ暮れちまう。       (1981年10月)

平成27年8月23日 風のように 炎のように   加藤唐九郎・五木寛之
五木  建築にしても、こういうもの (背後の唐九郎作の陶壁 『野龍共に吠える』 を指す) にしても、ものが形になって残るということは恐ろしいことですね。私は、人間が死んだあとに何か残すということが、非常に恐ろしくって、いまだに子供もつくらないで来てしまったんですれれど。
唐九郎
  しかし活字は恐いでしょう。活字は必ず残っていくから。
五木  まあ、そりゃ残るものは残ります。でも私のような仕事は、できるだけ世の中に形を残さないで、風のように過ぎ去っていけばいいなあっていうーーー。まあ、考え方はいろいろありますけれどね。
唐九郎  このごろは大分変っちゃったけれども、何かいいものを創って後世へ残してやりたいと思ってやってきたけど、いいものができんから、残してもらっちゃ困るもんばっか出来てしまって。ハハハハ(笑)
五木  まあ、その点じゃ何かを残すなんて意識する必要もないんですけれどね。自然となんでも消えてしまうものだと思います。それにしても、気持ちとしてはなにか風のように通り過ぎて行ってしまう。
   (1981年10月)

平成27年8月16日 河井寛次郎
人と作品 点描記   河井須也子
父は生まれて間もなく病弱の母を亡くした。
赤ん坊の父を幼い姉がねんねこ丹前で負い、安来の冬の海岸でお守をしていた時、突風に吹き飛ばされ溺れているところを漁師さんに救われ危うく命をとりとめた。後年父はこの事実を知り、漁師さんを探したが手がかりは得られなかった。これは防空壕の中で父が初めて母と私に話してくれて知った。
人間の計らいや思惑ではどうにもならぬ生命の不可思議。保たれ、与えられ、許されて生きている生命。
借りている命を、何らかの形で、人々や物の恩恵に答えようとした父であった。もらった命を思いっきり使わせてもらい、無位無冠のまま、寸刻を惜しみ「ものつくり」に喜々といそしみ、常に喜びを人と共に分かち、ひたすら美の発見に全生命を捧げやまなかった。
昭和41年11月18日、享年76歳の生涯であった。
  春浅き 書院の唐の三彩の 馬上の人はいづこへ向かう         紅葩

平成27年8月15日 河井寛次郎
 人と作品 点描記   河井須也子
今や風前の灯となった京都。これで見納めになるかもしれぬと、やり場のない沈痛の思いで、父は一人でかけてゆく。
ここで、心のうちに思いもしなかった強い衝撃を受ける事態に出会うのである。
今まで父が持っていた観念的な人生観や抱いていた世界観が百八十度がらりと転換させられ、思惟の大転換となったのである。
「生死一如」とか「自他合一」の真髄を解らせてくれた「葉っぱと虫」は、父に善知識の公案を
与えてくれた天からの贈り物であったに違いない。それからの父は、その後の「生き方」や「仕事」にも、これが原点となり、すべての原動力となって力強く展開していったものと思う。

平成27年8月9日 河井寛次郎
火の誓い
ある日の事、よく出かける山科へ行きました。滑石峠の見晴らしは素晴らしいのです。人々が真に人らしく住まっている暮らしの景色。
この峠を下ったところに山桐の大木が一本立っています。ふとみますと、この大きな木の葉がことごとく虫に食われて丸坊主になっているではありませんか。葉っぱは虫に食われ、虫は葉っぱを食う---見るからにこれは痛ましいものでした。
葉っぱは虫に食われ、虫は葉っぱを食う。これまではこうよりほかに見えなかったことが、
この日はどうした日だったのでありましょう。
虫は葉っぱに養われ、葉っぱは虫を養っている。
この間からムラムラしていたことが、これでよいのだ、これで結構調和しているのだというようなことがはっきりしました。
不安なままで安心。さてはそうなのか、そうだったのか。
暮れるまで山科の村々を私は歩き回っていました。

平成27年8月2日 陶芸の未来  岸本晃
最近は、陶芸家に内弟子として入ることは少なくなったため、伝統的な日本のモノ作りの精神は伝わりにくく、急速に失われつつあると思います。マスコミの情報だけで陶芸に憧れて入ってくる方々には、こうしたところが見え難いところです。
昨年11月に開催された「クリエイターズ・マーケット」(ポートメッセなごや・来場者6万人)では、伝統工芸ブースに出展された方々は、すべて苦戦しており、とても残念でした。
現在、陶芸に限らず、あらゆる伝統工芸品や技術、それに伴う貴重な暗黙知がどんどん失われつつあります。
こういうものが一度途絶えてしまうと、復活させるのはきわめて困難なことです。
しかし、魅力が伝われば、便利さや快適さだけでは満足できない現代消費者の心の豊かさや毎日の精神的な充足感が得られるのでは?と考えています。

平成27年7月26日 陶芸の未来  岸本晃
美濃の陶芸家加藤保幸さん。自然を散策し、花を愛で、茶道を20年近く嗜むといった感性を磨くのに余念がない。
また美食倶楽部を結成して、陶芸家のみならず料理人や建築家といった方々にも声をかけ、極上の美味しいものを食しつつ、意見を戦わせながら器について考える。
陶芸とは五感を使った総合芸術なんだなぁと感じます。
さまざまな問題を抱える現代社会ですが、「人生楽しんだもの勝ち」という思いにさせられます。

平成27年7月19日 陶芸の未来  岸本晃
私の地元美濃では、陶磁器の生産額が20年前の4分の一、メーカーの数は半減しました。
当たり前のように入手できていた原材料が、鉱山の閉鎖などが続き、無尽蔵にはないことが明らかになり、巨大な粘土鉱山が大手の商業施設になる始末です。
素晴らしい作品を作られる陶芸家や、技術力の高い良い仕事をされる窯元さんが大勢いるこの地域がこんな状況に陥り、
いったい作品の魅力を醸し出すものって何だろう?という思いが堂々めぐりしています。

平成27年7月12日 小咄  米原万里
いまわの際の夫が妻に言う。
「ああ、うまそうな匂いがするなあ。こりゃあ、うしお汁の匂いだ。冥途の土産に一口すすらせてくれないか」
「あらダメよ、ダメダメ。これは、あなたのお通夜に来てくださるお客様にお出しする予定なんだから」

平成27年7月5日 小咄  米原万里
「ねえねえ、聞いてよ、聞いてよ」
飲み屋である男が飲み仲間に愚痴っている。
「きのう家に帰ったら、玄関に男物の靴が脱ぎ棄ててあるんだよねえ。コート掛けには見かけない男物のオーバーが掛かっているしよー。俺はピーンときたね」
「それで、どうしたのよ」
「もちろん、キッチンに直行さ。冷蔵庫を開けたら、やっぱりおれの睨んだ通り、チクショー、せっかく冷やしといたビールを全部飲まれちまったよ」

平成27年6月28日 小咄  米原万里
晩秋。冷たい雨が降りしきる深夜、燃えさかる暖炉の火を見つめながら屋敷の主人はウイスキーを飲んでいた。
突然、玄関の扉を叩く音。扉を開けると、ずぶ濡れになった若い美女がガタガタ震えながら立っている。
「どうぞ、どうぞ、火の方へ」主人は女を暖炉の前に座らせタオルを手渡した。一段落して、
「まだ寒いわ」女は相変わらず震えている。
主人は毛布を女にかぶせ、暑い紅茶を用意してやった。それでも女はまだ寒いという。
「亡くなった主人は、いつも私を自分の体で温めてくれたものでしたわ」
「そんなことをおっしゃられてもねえ、奥さん、僕には無理ですよ、この豪雨の中、ご主人の遺体を掘り返して、ここまで運んでくるなんて」

平成27年6月21日 小咄  米原万里
車が浅瀬に突っ込んでしまい、抜け出せないでいるところを、たまたまそこで釣りをしていた年金生活者の男二人が押してあげた。
おかげで車は無事道路に戻った。ドライバーのなかなか魅力的な女性は大喜びである。
「ああ、感謝感激。ぜひお礼をさせてください。お金でよろしいならすぐにもお払いしますし、何だったらパンツを脱いでも構いませんのよ」
女性が引き上げていき、
家路についた二人の男の一方がつぶやいた。
「金にしたのは正解だったな。パンツなんてもらっても何の役にも立たないよ。俺にはデカすぎるし、お前はいつもふんどしだもんな」

平成27年6月14日 陶工
楽長次郎は日本の陶芸史の中で、個人名が作品とともに記憶された最初の陶工。
楽道入(どうにゅう)は「ノンコウ」ともいうが、これは利休の孫千宗旦が道入に贈った竹花入の銘「のんこう」に由来する。「綺麗さび」を表現した。楽茶碗の素地は赤土。赤楽は透明釉を掛け、鉄釉を掛けると黒楽となる。
野々村仁清(にんせい)、仁清の名称は本名の清右衛門の清と窯場のあった仁和寺の仁を組み合わせたもの。

平成27年6月7日 たかじんのそこまで言って委員会
平成16年2月、オーム真理教の元教祖松本智津夫被告が、東京地裁での判決において死刑を言い渡された。
実はこの裁判では、判決までに7年10ヵ月の時間と4億2千万円もの国選弁護人費用(税金)が費やされた。
どう見ても凶悪犯罪の首謀者であろう男を裁くのに、なぜこれほどの時間と血税が使われなければいけないのかと思った人も多いだろう。
平成16年1月には、東京板橋区の路上で中国人男性が職務質問を受けた際に警官を殴り、逃走したため拳銃で撃たれた事件の裁判が行われた。この男は密入国者で、ピッキング強盗の常習犯。
事件当時の状況を一般常識的にみると、発砲はやむをえないと思える凶悪犯だったという。
ところが犯人側の「発砲は違法」との訴えに対し、東京地裁の裁判官は、警察側に636万円余りの損害賠償を命じた。
また、静岡・沼津のストーカー殺人事件では、罪のない女子高生が34ヵ所も刺された残虐事件にもかかわらず、「殺された人数が一人では死刑にならない」という相場主義にこだわり、無期懲役に。
こうしてみると、現行の司法制度は、一般の人々の常識・良識的観点からは随分とかけ離れてしまっているようだ。

平成27年5月31日 映画館(こや)がはねて  山田洋次
男はつらいよが13作と進んだ頃、渥美さんが私にこんなことを語った。
「この作品が始まってから、私は町を歩いていると渥美ではなくて寅と呼ばれるようになりましたが、最初のうちはその呼び名に少し抵抗がありました。つまり私、渥美清は寅ほど馬鹿じゃない、多少の教養もある、あれはあくまでも私が演じている役なのだーーーそんな風に胸の中で考えていたのですが、近頃はそう思えなくなったのです。
つまり、私渥美清ははたして寅より優れた人間なのだろうか、と疑うのです。
いや、ひょっとすると渥美清は寅に追い抜かれていくのじゃないだろうか、と不安になったりもします」
渥美さんのこの考え方は私達スタッフに大きな影響をあたえた。
そのころから、私たちにとっての寅は、無知な愚か者であるより、自由を愛し、他人の幸福をもって自らの幸福と考え、財産、金銭には全く無欲な、神の心をもった存在に変わりつつあった。
また、寅の故郷である柴又帝釈天の「とらや」は、私たちにとっても永遠の心のふるさととなりつつあったのである。

平成27年5月24日 映画館(こや)がはねて  山田洋次
渥美さんは、年2回の寅さんの撮影以外はあまり仕事をしているようすもないから、普段はどうしているんですか?
など聞くことがあります。
「なーに、ただ寝っころがっているだけですよ」なんて冗談のように答えるのですが、実はこれ、半分くらい本当だろうと思います。
渥美さんが週刊誌の類を読んでいる姿を見たことがありません。
「心を動かすような出来事がのっているわけないでしょ」というわけです。
要するに、俳優にとって大事なことは、いい話、美しい出来事に関心を持つことであって、ムダな事や不快な事を見たり聞いたり、体験してもしょうがないという考えなのです。
子供のころ、よくふろ屋で遊んだという話を聞いたことがあります。両手をこすり合わせては自分でケラケラ笑っていた、なんていう他愛のない話でも、情景がありありと浮かんで、そういえば私にもそういう覚えがあると、心が和むのです。
少年の日のことに限らず、渥美さんの思い出話がまるできのうのことのように鮮明なのは、それだけ彼が体験したことを自分の内面にじっとひそめて大事にしているからなんでしょう。
私たちはくだらない体験をいっぱい粗雑にしているから、きれいな想い出も、印象にとどめるべき大事な事柄も、いっしょくたにして忘れ去ってしまうことが多いのでしょう。
だから、渥美さんの自分の律し方というものは、とてもなみのものではないという気がします。

平成27年5月17日 映画館(こや)がはねて  山田洋次
柳家小さん師匠は、私にとって大切な批評家の一人であります。
寅さんはだいたいが失恋の話ですから、さびしく、悲しく終わります。
しかし、さびしい話だからこそ、終りは明るく、一つ弾まなければならない。落語のオチとは、そういうものだというんです。
寅が失恋して、背中を見せて一人さびしく去っていく・・・・・そこでエンドマーク・・・・というのをえてしてやってみたいと思うものですよ。
でも、そこで終わらしちゃあいけない。
もう一つ、カーンと明るい日差しの中で、寅が元気よく商売していて、おかしな冗談を言っているところで終わる。
「お客をさみしい気持ちのままで帰らしちゃあいけません。パーッと陽気な気分になって帰っていただかなくては」と師匠は言うのです。
つまり、どうぞ寅のことはご心配なく、この通り元気でやっておりますから、という作者のメッセージなのです。
観客も、本当にバカだなあ、寅さんもう失恋忘れてらあ、と思って席を立てるわけです。

平成27年5月10日 映画館(こや)がはねて  山田洋次
私がエミ子さんと出会った時はアメリカの水兵さんの奥さんだった。ご亭主はおとなしい人で、エミ子さんには首ったけ、て感じだった。
彼女は大の寅さんファンなのである。私の独断的意見では、喜劇が好きな女性は頭が良い。メロドラマを愛好する女性はあまり賢くない。
エミ子さんは本当に聡明な頭脳の持ち主だった。もしもまともな環境の中でこの人が勉強したなら、一流の仕事をする女性になったに違いない。
「テレビのメソメソしたメロドラマなんか大嫌い、寅さんはいいな。だって私もあんな風に馬鹿で損ばかりして生きてきたんだもの」
本当に寅さんのように向こう見ずで、一本気で、正義感が強くて嘘がつけない性格ゆえに、彼女は様々な衝突を繰り返して生きてきた。
ただ、不当な仕打ち、理由のない差別に徹底的に反抗したのであって、他人に言えないような恥ずかしいこと一度だってしてないんだ、というエミ子さんの言い分を、私は心から信じている。
思えば世の中には、華やかに着飾り美しい微笑をうかべながら中味のない汚れた淑女や紳士がどんなに大勢いるだろうか、と私はエミ子さんの話を聞きながらいつも思ったものだ。

平成27年5月5日 映画館(こや)がはねて  山田洋次
エミ子さんに初めて逢った頃、彼女は26歳だった。両親の顔も知らずに育ち、中学生の頃から不良仲間とフーテン暮らしの波乱に富んだ人生が、まだ若い彼女に苦労人のような雰囲気を与えていた。
「今日、母さんに逢ってきた」と、ある日彼女に告げられてびっくりしたことがあった。
手づるがあって母という人が新宿のバーで雇われマダムをしていることを知り、逢いに行ったそうである。
何の記憶もない母の前に立ってこの人が私を生んだ女かと思っても奇妙に感動が湧かないものだ、というようなことをエミ子さんは語った。
「仕方ないから、あんた本当に私のお母さん?と聞いてみたの」
と冗談のように言う彼女の顔を見ながら、私たち夫婦は涙をおさえるのに苦労したものである。
寒くなると南の九州あたりの温泉場のバーで働き、暑くなると北に移動するというエミ子さんの青春時代のフーテン暮らしは、寅さん像にはっきりと投影されているし、「男はつらいよ・寅次郎忘れな草」の中で浅丘ルリ子さんが演じた放浪の歌姫、リリー像はこの人がモデルなのである。

平成27年5月4日 映画館(こや)がはねて  山田洋次
明治末年生まれだから、もう七十に手が届いているはずなのだが、なぜか私が思い浮かべる母親のイメージは常に四十五・六歳である。
ひとつには、母が私と離れて暮らすようになったのがその年齢だったからであろう。
母は二度結婚している。父親との離婚は、子供から見てもやむを得ないと思った。
あまりにも相性の悪いふたりで、当然別れるべくして別れたという感じを抱いている。
もっとも私は男だから、父が母を好きになった理由はよくわかる。
楽天家で明るくて、どこか可愛いところのある女性なのだ。
私の父はなかなかの趣味人だったが、考え方に片寄ったところがあって、他人を批判する時に、「あいつは頭が悪い」と決めつける悪い癖を持っていた。母にとってそれは我慢ならないことだったようである。
母は四十半ばの時父と離婚し、しばらくして別の男性と再婚した。
財産のない貧しい人だったので、母は将来を考えて英語の教師の資格を取るべく大学に入った。
あの年で人生をご破算にしてもう一度新しい生活を始めようという母のジャンプ力の凄さに、私は今でも感心している。
物事を明るいほうに考える、どんな逆境にあっても楽しいことを発見していく、という優れた能力を、母からあまり受継いでいないことを私はいつも口惜しく思っている。

平成27年5月3日 映画館(こや)がはねて  山田洋次
私の父親は生まれも育ちも九州柳川である。
どちらかといえば情緒的であることを嫌い、合理性を尊ぶ性格だったから、故郷への愛着を息子の前でめんめんと語る、というようなことはなかった。むしろ、少年のころに耐えねばならなかった暑さや寒さ、貧しい食事の内容のことを何かの拍子に語ったりすることから、私たち兄弟は明治時代の九州の小さな町での少年のつらく苦しい暮らしぶりをちらっと想像したりしたものだった。
晩年の父親は、機を見ては柳川を訪れていた。
やはり親爺も生まれた故郷が懐かしいのかな、と思ったりはしていたが、なにしろ望郷という思いを持たぬ息子だから、故郷についてしみじみ語り合う、というようなことはまずなかったし、父親としても仕様がない、と考えていたのだろう。
父親が死んで、兄弟で居間を片付けた時、ベッドの傍の、横になって目の届きやすい位置に、白秋の帰去来の拓本がかけてあるのを見つけた。

山門は我が産土、
雲騰る南風のまほら、
飛ばまし今一度

その美しい言葉を、横になって眺め続けた父の気持ちを思い、涙が出た。
父の墓は、柳川の町はずれ、田んぼに囲まれた崇久寺という古い寺にある。

平成27年4月26日 病院にかかるときの知恵袋   宮子あずさ
病気になって孤独を訴え、精神的にパニックになるのは、頼れる家族のある人のように見えます。
はなから天涯孤独、という人よりも、頼れるはずの家族がいるのに、頼れないという状態の人のほうが、はるかに「荒れる」印象でした。
病院からほど近い所にある神楽坂で芸者さんをしている人は、みな独身で芸一本で生きてきた人たちでしたが、家族よりも芸の仲間に支えられつつ最後の時期を送り、あたたかく見送られて逝ったのです。この事実は私に深い感動を与えてくれました。
最初から頼れる人がいなければ、人間はそれなりに鍛えられ、覚悟を決める強さが備わるのでしょうか。
子供のある人は、子供を手塩にかけた分、知らず知らずのうちに、その見返りを子供に期待してしまうから、不満が強まるのか・・・・・。
人が精神的ダメージを最も強く受けるのは「あてが外れたとき」だというのは確からしく思えます。
人間が強くあるためには、意志の強さもさることながら、あきらめ上手であることもまた必要な事なのかもしれません。

平成27年4月19日 病院にかかるときの知恵袋  宮子あずさ
男性は仕事、女性は家庭という、典型的な役割分担を生きてきた夫婦にとって、夫の定年と、子供の巣立ちは、大きな役割の喪失になります。そこに至るまでに、きちんと人間として向き合える夫婦関係が確立し、軽やかに「第二の人生」を生きる夫婦はたくさんおられます。
一方、人間としての交流が薄く、役割を果たす事のみで夫婦関係を生きてきた夫婦にとって、この転機は大きな試練です。
この時期を境に心を病み、入院してくる人の中には、夫婦としてあたたかく月日を積み重ねられなかった人たちが、少なくないのです。
こうした方々を見ていてしみじみ恐くなるのは、役割りを失った時に、あらわになる人間の未熟さです。
企業人・母親といった役割を果たしてさえいれば、世の中から妙な目で見られることはまずありません。
私が忘れられない女性の例は、子供たちが巣立ってから自傷行為を繰り返すようになった五十代の方でした。
自分の子供位の看護師に、「死にたいの。死にたいの」と駄々をこねる彼女に、二人の子供を育てた母親の面影はありません。
結局彼女は還暦を迎えずに亡くなりました。
元気な時には「死なせて、死なせて」と駄々をこねていた彼女が、死の床で何を思ったか。
そして家族の方々はどんな気持ちでいたのか。それを思うと、たまらない気持ちになります。

平成27年4月12日 裁判官の人情お言葉集  長嶺超輝
突然、三人の家族をおいて自宅を後にした被告人。特に不満もなく、好きな男もなく、19歳の娘と、12歳の娘を育て上げてきたのに、ただ、遊びを知らぬ生真面目な夫に飽き足らず、「こんな人生では面白みがない」と、刺激を求めて女41歳の賭け。
職場の同僚と、職場の寮で暮らし始めたものの、新生活で待っていたのは男の暴力だったようです。
そして、男は別れを切り出しましたが、「やっぱり別れない、逃げたら親兄弟をぶっ殺す」と暴れ、酔いつぶれてしまった。
被告人は、発作的に犯行に及んだのです。
家庭・仕事・趣味・・・・・。
幸せのかたちに、そう多くのバリエーションはなく、似たような毎日の繰り返しが、退屈でつまらない生活と感じさせるかもしれません。
しかし、事故に遭わず、病気にかからず、今日を無事に過ごせたことは偶然。
毎日の偶然が積み重なり、できあがっていく人生も偶然なはず。
東京地裁の小倉裁判長は、
「人生で一番幸せな時はいつでしたか。
当たり前の生活が一番いいということがわかりましたか」

平成27年4月5日 裁判官の人情お言葉集  長嶺超輝
すべての子供は三歳になるまでの間に、その屈託なき可愛らしさによって、一生分の親孝行をしているといいます。
だから大人になっての親孝行は不要、と言うわけではありませんが、それくらい親にとって子供は愛しいものなのです。
札幌地裁の小池裁判長は、生後11か月の女児を虐待死させたとして、母親に懲役3年の判決を言いわたして、
「あなたは心の面で母親になりきれなかったのでしょう。
子供はもう、この世にいませんけれども、あなたの心の中で大切に育てていってください。」と
女児は生まれつき心臓に持病を抱え、生後9か月で退院したころには、父親の男はいなくなり、「母子1対1」の子育てが始まりました。
しかし、なかなか離乳食を食べてくれないことにイラだち、育児ノイローゼに陥った母親による虐待は日常的に行われました。
わが子が可愛くて、叩きながら胸を締め付けられることもあったと当時を振り返る被告人ですから、根っからの子育て不適格者とは言い切れません。女児はその愛情を感じていたはずなのに、悔やまれます。
人の幸せは、命の長さでは決まりません。
でも、もっと生きたかったよね。

平成27年3月29日 裁判官の人情お言葉集  長嶺超輝
「昭和の岩窟王」と呼ばれた吉田石松さんは、無罪判決の9か月後、老衰により静かに息を引きとりました。
司法裁判には逆らえても、自然の死期には逆らえず、運命は時に残酷なものです。
栃木県小山市。少し郊外へ歩みを進めれば、のどかな田園風景が広がります。
足の痛みを我慢して、駅から歩くこと2時間近く。田んぼの隅にある墓地に、大きくて素朴な石碑を見つけました。
中央には「吉田石松翁之碑」と彫られ、その脇には「人権の神ここに眠る」とあります。
石碑の裏にまわると、さらに詳細な事実が彫り込まれていました。
「大正二年八月十三日の強盗殺人事件において、真犯人の偽証のため、逮捕され残虐きわまる拷問をうけたるも屈せず、終始犯行を否認す。(中略)
五十歳にして初めて文字を習い、精魂こめた手記を以って各方面に無実を訴える。(中略)
かくて遂に、昭和三十八年完全無罪の判決を受け天を仰ぐ、その間実に半世紀、人よんで「昭和のがんくつ王」という。
名もなきガラス工場の一介の職工でありながら、権力者の重圧に敢然として抵抗、自己の尊厳を護り抜いた吉田石松翁の崇高にして毅然たる態度と不撓不屈の驚嘆すべきその精神力は、わが国の人権史上永遠に輝くであろう。
行年八十四才」

平成27年3月22日 裁判官の人情お言葉集  長嶺超輝
大正2年夏、名古屋で起こった殺人事件。被疑者として浮上した20代の男二人は、自分たちの罪を軽くしようと、職場仲間だった吉田石松さんを主犯に仕立て上げました。彼は間もなく逮捕され、連日の拷問に耐え、無実を訴えましたが、大陪審で無期懲役の有罪判決。
仮出所後罪をなすりつけた二人から、わび状を取りましたが再審も却下。ついには天皇陛下に直訴。そして、再審が開始されたのは事件から半世紀が経とうとしていました。
本件の取り調べをめぐっては、被疑者の供述調書がほとんど見当たらないのが奇妙に思われていましたが、、検察が本気で捜索したところ、ちゃんと調書は見つかったのです。
逮捕直後の二人の容疑者は、自分たちだけで行った犯行と認めた内容でした。再審開始からわずか4か月で無罪判決は出ています。
無罪判決を言いわたす裁判官は、通常は法壇の上から「ご苦労をかけました」「気の毒でした」など一定の距離をとった言葉をかけるものですが。この小林裁判長はじめ三人の裁判官は違いました。
「被告人、いやここでは被告人と言うに忍びず、吉田翁と呼ぼう。
我々の先輩が翁に対して冒した過誤をひたすら陳謝するとともに、
実に半世紀の久しきにわたり、よくあらゆる迫害に耐え、自己の無実を叫び続けてきた
その崇高なる態度、その不撓不屈の正に驚嘆すべき
たぐいなき精神力、生命力に対し深甚なる敬意を表しつつ、
翁の余生に幸多からんことを記念する次第である。」
と、無罪判決を言いわたして、小林裁判長はじめ三人の裁判官は立ち上がり、被告席に向かって深く頭を下げたと伝えられる。
続く

平成27年3月15日 裁判官の人情お言葉集  長嶺超輝
津地裁の米本裁判長は、四日市の大気汚染被害の民事訴訟で8800万円の支払いを命じて、
「人間の身体・生命に危険のあることを知りうる汚染物質の排出については、企業は採算性を度外視して、世界最高の技術・知識を動員して防止措置を講ずるべきであり、そのような措置を怠れば過失は免れないと解すべきである。」
「四日市ぜんそく」は、「水俣病」「第2水俣病」「イタイイタイ病」と並び、日本の4大公害病の一つです。
ぜんそくを引き起こす原因は、硫黄酸化物。四日市の空は、常に薄い褐色で、どんよりと汚されていたといわれます。
米本判事は、被害の実態を把握するため現場に足を運び、大衆食堂で偶然会った原告の一人に、「心配せんでもええ」と声をかけていたそうです。ただ、原告となった住民は、症状を薬で抑えているため「元気なのに働きもせず」「お金ほしさの裁判」と誤解され、近隣から冷たい目で見られることも多かったようです。現代では高齢者ならひとつやふたつは持病を抱えているのが当たり前になり、公害被害者に向けられる同情も薄れつつあるという指摘もあります。
この判決がいくら画期的であっても、「お金で弁償」との解決策で終わった事実は、決して見逃せません。
少し意地悪な書き方をすれば、「企業はお金さえ払えば、空気を汚して構わない」とすら解釈できるからです。
それでも、『経済性を度外視し・・・・』という一節には、差し止め判決に匹敵するほど重い意味が託されている印象を受けます。

平成27年3月8日 裁判官の人情お言葉集  長嶺超輝
地蔵に供えられた賽銭540円を持ち去ったとして、金沢簡裁の広田裁判長は被告人に、懲役8カ月の実刑判決を言いわたして、
「地蔵に助けてもらいたいという気持ちはわからないでもないが、普通の生活をして初めて救いがあります。
これから寒くなるので冬の間は服役し、良い季節となる来年の4月に再出発してください。」
北風が吹き始める季節に裁判官が出した答えは、実刑判決でありながらも、柔らかな木漏れ日のような温情が込められていました。
人生の指針を失った迷えるものに、心のよりどころを与え、欲望をうまくコントロールする術を伝授するのは、もともと宗教の役割だったように思います。それこそ、お賽銭の盗難被害を受けたお寺が、彼の悩みを聞き入れても良かったように思いますが、難しかったのでしょうか。

平成27年3月1日 男やもめ    明治41年生 愛知県 小塩豊
   針山に 針抜けぬほど錆びつけり
    妻逝きてより ななとせを経て
60才を過ぎてから妻に先立たれると、男は大抵二,三年のうちに死ぬ、と医事評論家の水野肇先生が言われたが、私の知り合いにそのような人が幾人かいる。男は弱い。私は亭主関白で、妻にキビシクしていた事を今思うと妻が哀れでならない。
主婦の日々多忙な事が、死なれて初めて身に染みて知らされた。
毎朝散歩に通る公園のベンチに、上品な男性の老人が座っていた。
元水戸高校の校長さんだった人で、妻を肝臓がんで亡くされたとのこと、現在は娘さんの婚家先に身を寄せておられる由「娘は良くしてくれます。子供は女の子でなくちゃいけません」とつくづく話された。
昔何某だったと肩書にこだわって、老人会などで何かと老人を支配したがる大会社の社長だった人がいましたが、過去の栄光は夕映えのようなもので、ひとときパーッと輝いて消えていく儚いものだから、他人を支配するより老人は自分を支配しなければいけません、と教えられた。
私は現在いろいろな会合の折に、高齢者だ、長老だとか言われて上席に座らされる事が多いが、傲慢にならぬ様に努めている。

平成27年2月22日 父  芹沢俊介
父は、母を一人残したまま、入院先の病院で息を引きとった。亡くなってみて、私たち兄弟は軽い当惑のような感情に見舞われた。3人が3人とも、父の人となり以外に父の出自について何一つ知らないことに、思い当たったのだ。どこでどんな育ち方をしたのが、両親の名前も仕事も暮らしぶりについても、父は一切口をつぐんだままだった。家族の思い出を徹底的に封印したままこの世を去ったのである。
母はある程度父の事情を知っていたかもしれない。母の里には、子供のころ何度も訪れたことがある。母の幸せな幼年時代、少女時代がしのばれるような、穏やかで安らぎに満ちた世界がそこにあった。
父は子煩悩で、俗物で、お人よしだった。気長であり、決して冷たい人ではなかった。ただ、気持ちの芯には、頼めるのは自分一人という思いを持っていた。母とは反対に、家族に関して無残な記憶しかなかったせいかも知れなかった。
父は08年2月に老人ホームに入居してから死ぬまで、「もう一度、母とともに自分の建てた小さな家に帰りたい」という希望を、決して捨てようとしなかった。子供時代の孤独を想像すると、父が自分の家にこれほどまでに執着した訳が、少しだけれど、分かる気がするのだった。

平成27年2月15日 いぬふぐり   倉敷市 大正15年生 宮原寿生
いぬふぐりは早春の小道に咲く小さな小さな瑠璃の小花、人目を避け、清楚に咲いている小花。
お正月を過ぎると、この花を求めて枯草の野道を散策し、一足早い春を楽しみつつ、青春の日々に想いを馳せています。
昭和二十二年、戦後の混乱した世相の中で安らぎを求め、「ホトトギス」同人平松措大先生の門を叩きました。
初めて先生の探梅吟行にお供しました。
  いぬふぐり 摘みようもなく 美しく
一句のみ短冊にしたため、投句しました。いよいよ先生の五句選発表です。
「いぬふぐり 摘みようもなく 美しく」が読まれました。作句者の名乗りがありません。
先生が「良い句です。誰の句ですか」と言われ、我に返り、小さな声で「寿生」と名乗り出ました。
五十年を経た今も、私にとっては忘れることの出来ない一句です。、
措大先生の一徹な作句姿勢は、私の貧しい戦後の青春時代の人間形成に、大きな影響を及ぼしたと思います。
私の化学畑での研究開発の成果に、美しい花を咲かせてくれました。
いぬふぐりのように、目立たないが厳寒の試練に耐えた人生を自賛しています。

平成27年2月8日 すりこぎ棒  山形市 五十嵐ふさ子
台所にすりこぎ棒がある。嫁入り道具のひとつとして持参したものだ。
二十七才で結婚した私の歳の数ほど、父とは言葉を交わしただろうか。頑固で無口、一年中「ムッ」としていた父。
花嫁道具にすり鉢を持っていくと言うと、「すりこぎ棒がいるな」と、裏山の桑の木で作ってくれた。
生木だからヒビが入り、皮も少し残っている。
夜、布団の上に棒を置き、騒ぐとたたくと言われ、一緒に歩いた事もなかった父。
その父が、私だけのために、たった一回作ってくれたすりこぎ棒。
その想いを詰め込んで、やはり口もきかずに世を去って十七年。
昔話に耳を傾けない現代っ子の二男坊に、やっとの思いでいきさつを語り終えたあと、実に爽やかでした。

平成27年2月1日 やきもの随筆  加藤唐九郎
やきものの酸化金属による発色で重きをなすのは、第一に鉄、ついで銅、コバルトの順になります。
日本の志野・織部・黄瀬戸などの微妙な発色も鉄が主で、銅が従です。志野だけは、鉄しか用いません。
特に志野で珍重される、ぽーっとした赤さ、それから南天の実に淡雪でも降りかかったような紅志野の赤味は、「緋色」といってやきものファンによろこばれ、尊重される、世界にも類のない優れたものです。
志野の緋色とは自然発生的なもので、志野は雪白の肌を喜ぶものですが、その白い釉薬のうすれたところに、ほのかに表れる赤い色をいいいます。
志野の緋色は、最初は焼き方による偶発的なものでしたが、この緋色の発色を鑑賞の側から喜ぶようになり、のちにはこの緋色をとらえるために陶工は窯の焼き方に相当の苦心をかなねているような跡がうかがわれます。
諏訪湖の雪の朝は美しいが、今年は暖冬でしょうか、全面結氷を1度もせずに今は波打っています。

平成27年1月25日 やきもの随筆  加藤唐九郎
やきもの芸術に対し「規範芸術」という言葉がありますように、「陶芸」を絵画などより次元の低い芸術と見る考えが、まだかなり残っていますが、戦後こんなことがありました。
1949年秋、フランスに日本美術を紹介するため、フランス政府の文化使節としてフランス国立ギメ東洋美術館館長のグルセ博士が来日しました。日本画・洋画・彫刻をはじめ、あらゆる日本の美術を見て回り、結局日本の美術でヨーロッパに紹介できるのは「陶芸」しかないとグルセ博士は結論しました。そして、1951年「現代日本陶芸パリ展」としてパリのチエルヌスキ美術館ではなやかに開催されたのです。
ヨーロッパに旅して私が強く感じたことは、彼らは日本の絵画や彫刻は頑として受け付けません。
それが、こと ”やきもの” になりますとガラリと変わり、日本人に最大の敬意を払います。
とくに日本人のやきものの鑑賞眼の高さに目を見張るのです。
これは、世界にその類を見ないものであると同時に、私どもが誇りうるものといえるでしょう。

平成27年1月18日 やきもの随筆  加藤唐九郎
柳さんの「初期茶人が雑記の中から茶人の見識によってひろいあげて名器とした」という説で、大衆の目は、初期茶人のやきもの鑑賞のあり方と、茶道を再認識させようというけはいもうまれてきました。
その茶人の、やきもの鑑賞の力が進むにしたがって、「下手物」に重点を置いた柳さんの「だから美しさは下手物にしかない」とい主張は、大衆のやきもの鑑賞の進歩についてゆけない感がありました。そして、大衆は、彼を踏み越えていくようになったのです。
柳さんの民芸運動は、たとえていうと新興宗教と似たような力を持つようになりはしたものの、こうした当時の鑑賞界の進歩によって、柳さんの理論のほうは次第に色あせて観念的なものになっていかざるを得ませんでした。
したがって、柳さんは、鑑賞界の大勢においてきぼりをくったような形になったのです。
正直なところ、柳さんの歌いだした流行歌は、耳新しいうちだけ世間から歓迎されましたが、聞き飽きてからも同じ歌を歌い続けたので「もうけっこう」となったのです。、

平成27年1月11日 やきもの随筆  加藤唐九郎
日本のトップレベルの人たちをとらえ、その財力と政治力、学者から古美術商を左右できた人物・奥田誠一さんを脅かす存在として、大正末から昭和のはじめにかけて、民芸の柳宗悦さんが登場してきます。
閉鎖された上流社会の人たちを相手に、いわゆる上手物(貴族的なもの)しか鑑賞の対象としなかった彩壷会をはじめ、奥田さんたちとは違い、柳さんは
上手物=高級品はぜいたく品であって虚飾の多い、不健康なものである。下手物すなわち民芸品は、貧しい民衆の生活に奉仕してきた健康な美しさがある」と説いたので、時代の波にのり、多くの共鳴者をえたのです。
それは暗に、権力につながり、体面の維持のみに汲々としている者への反撃でもあったのです。

平成27年1月4日 長寿  
誰でも毎年1歳づつ年をとり、私は2年後古希となります。
そこで長寿のお祝いを調べました。
高齢になるほど頻繁にお祝い事があり、お祝い着は色がだんだん薄くなるようです。
昔、体育の教師がよく言っていた「健康第一義」で今年もがんばろう。
60才 還暦 お祝い着は赤 干支が一周
70才 古希 古来稀なる
77才 喜寿 喜は七十七
80才 傘寿 傘は八十
88才 米寿 米は八十八
90才 卒寿 卒は九十
99才 白寿 百引く一
100才 百寿
112才 天寿

平成27年1月3日 美人になれるかな  茨城県 阿久津真理
ある日八歳の娘が私に
「おかあさん、私、美人になれるかなあ」
「そうね、美人になれるかどうかわからないけど、おかあさんぐらいにはなれるんじゃないの」
すると娘「おかあさんは美人だよ」
私「えー。じゃどういうのが美人なの」
娘「思いやりがあってやさしいの」 私は言葉が出なかった。
世の中、やっぱりお金かなあと思いかけていた近頃、娘のひと言に背すじがビーンとした。

平成27年1月2日 俳人山頭火の日記より
八月十七日 午前晴れ、午後曇り、夜微雨。
盆の十四日。私ひとりの盆は、そして旅の盆は淋しいなあ---蚊、蠅、蟻、蜘蛛、蜂までが飛び込んでくる。
生活の要諦は --― 私に関する限りでは --- 次の三項である。
節度を失わないこと
借金をしないこと
過去に執着しないこと ---
当来に期待しないこと --- 一日一日を感謝し、そして楽しむこと

平成27年1月1日 元旦
明けましておめでとうございます。
皆様、よいお年をお迎えのことと存じます。
今年も
緋色窯をよろしくお願いいたします。

人間は生まれると同時に死への道をたどっていく。(人間の死亡率は100%である)
   門松は 冥途の旅の 一里塚
誰でも、自分はあと何回門松を立てるだろうかと、正月にあたり、ふと己が齢を思うものです。
川柳は俳句と違い季語なし、切れ字なし、世の中を滑稽、うがちの視点で自由勝手に詠む、
真実を

お金よりも心豊かな生活を目指して7年経ちました。
定年後は趣味三昧の楽園に暮らそう、そして陶芸の知識や経験を広く次の世代に伝えよう。
そんなことが少しづつ形になっていく気がします。
七年間、
陶芸を学ぼうとする多くの人とふれあいました。
そしてそれが、私の生きる力になっているように思います。
今年も自分らしく、そして凛として、自由に生きていきたいと願っています。

*ホームページを開設して15年、工房は19年、穴窯は8年目です。
2015年が皆様にとって、明るい年でありますよう祈念いたします。
南天 諏訪湖から富士山 さざんか 諏訪湖