平成29年の緋色窯日記に続く
平成28年12月31日 私は詩人
年末になると今年を振り返り来年の抱負を考えたりしますね。
大掃除をしていて無くしたと思っていたものを発見したりもします。
最近、作陶がマンネリ化して、何か刺激がほしいなんて思っています。
そんなことをきっかけに
「自分には何が出来て、何をしている時が最も楽しいのか?」
「こんな自分でも、何か人の役に立てるのだろうか?
」とか考えてます。

 「夕日の向うに明日の知恵がある。今日はすでに遠い遠い過去」   トマス・ホーンズビー・フェリル


平成28年12月25日
手のひらに きらめくものは 過去ばかり
自分史の 最後は妻よ ありがとう
底浅き わが人生に 妻(はな)一輪

平成28年12月18日 人間にとって本当に大切なものってなんだろう    吉村英夫
「その親にも 親の親にも似るなかれ かく汝が父は思えるぞ子よ」 石川啄木
「俺に似よ 俺に似るなと 子を思い」 現代川柳
「古来いかに大勢の親はこういう言葉を繰り返したであろう。私は畢竟失敗者だった。しかし、この子だけは成功させなければならぬ」 芥川龍之介
親に似ないで親を乗り越えていってほしいとか、私に似て私の志を継いでほしいとか、親と子が意見を異にして葛藤があり、和解があったりもする。さまざまな親の願いは願いとして、しかし、結局同じような親子関係は連綿と続いていく。
それが人間の世であり、人間が文化を作り、生きていき、歴史となっていくということであろう。

平成28年12月11日 ご長寿川柳
孝行を するには親が 長寿すぎ
あの世とは 良いとこらしい 行ったきり
年寄りが 丈夫だという 地獄あり

平成28年12月4日 「花は愛惜に散る」   道元 「正法眼蔵」
花は人に愛され惜しまれているうちに散るべきだ。
花とは言わぬ、人生すべてそういうものだという教えであり、戒めである。
嫌われて追い出されるようなことがあってはならない。

平成28年11月27日 命は幸せや人生の根源  吉川英治記念館館長 吉川英明
「命をたのしみ給えよ」。小学4年生の時、父は表表紙の裏にそう記した宮本武蔵の本をくれました。
父が亡くなってから、意味がよく分かりました。命を粗末にするな、生きる喜びをかみしめて楽しめー。
父は常に命というものを、幸せや人生の根源のようなものとして捉える概念を持っていたんです。

人間の幅が広がるので、小説を読んでほしい。
今の時代はとかく、映像から受けるイメージが大きい。映像ばかりから入ると想像力が欠けてしまうと思います。
活字は想像力をもたらす。心理描写、人間の「心のひだ」を表現するのに文章に勝るものはないと思うのです。

平成28年11月20日 心は億万長者
日府展の授賞式で長年御批評を頂いていた田中穣先生の著書「生きる 描く 愛する」より。
本当に好きな絵に出会ったら、買えば何百万円、として心に貯えること。
心の中にあの絵とこの絵と何枚も貯えることによって、心の億万長者になれるという寸法なのです。

平成28年11月13日 人とぶつかるのは当たり前    工藤美代子
言いたいことをストレートに言えないのは、日本人特有の資質かも知れない。
「和を持って貴しとなす」よろしく、相手に嫌われない様に、あるいは人とぶつかることを避けるようにふるまう嫌いがある。
この資質は世界でも奇異にみられて、外国人からよく「日本の女性はノーと言わないって本当か」などと聞かれる。
若い時ならガマンも大事な修行だからよしとして、六十過ぎた人はその種の修業をさんざん積んできたのだから、もうガマンはやめた方がいい。
「人とぶつかったって、いいじゃないの。ストレスをためない健康法だと思えば、恐れるに足りないことよ」
そんなふうに腹を括るだけで、ずいぶん楽になるはずだ。

平成28年11月6日 腹立ちはその場で解決する    工藤美代子
別のパーティで、私はもう一つの「ストレスをためないコツ」を学んだ。
それは何事につけちょっと自慢する奥さまの家に招かれた時、テーブルには豪華な料理が並んでいた。
勿論私は褒めた。
「お料理、お上手ですね、どれも美味しいわ、大変だったでしょう」
「いいえ、たやすいことですわ。今日、私はテニスもしましたし、のんびり本を読んでましたし、その後でおもてなしの仕度をしたんですから」
それまでにも何度も彼女の自慢話に辟易させられていた私は、帰り道にカナダの友人に不満をぶちまけた。
私は友達も一緒に「ほんとよね」と同調してくれることを期待していたのだが、そうはいかなかった。
「悪いけどミヨコ、そういうことを、私に言わないでくれる」
「えっ」
「そう思ったのなら、どうしてさっき彼女に直接言わなかったの」
「だって、失礼じゃないの」
「失礼であったにしても、言った方があなたは気がすむでしょ。その場で言わないから、私にモンクを言うことになるのよ。これからはストレートにあの奥さんに言って、自分で解決してね」
日本人はこんなことは言わないだろう。友人の反応に傷つきながら私は、彼女がいうことは正しいと認めた。
念のため付け加えると、今の私はこんな些細なことで腹を立てない、「年をとって、ちょっとは人間が丸くなったかな」と思う。

平成28年10月30日 嫌われてもいいじゃないか    工藤美代子
私がカナダにいた時、パーティで大笑いしたジョークを紹介したい。
カナダは多国籍の人種が集まっている国なので、様々な文化の背景を持つ人たちが集まっていた。
その中でユダヤ人の男性がこんなジョークを披露した。
「ユダヤ人は周りに十人いたときに 『この中で一人でも自分を好いてくれる人がいるといいな』 と、ほんの少し心配する。
一方、日本人は 『十人のうち一人でも自分を嫌いな人がいたらどうしよう』 と真剣に悩む」
お腹を抱えて大笑いしながら、「うまいことを言うな」と感心した。
たしかに日本人は、誰にも嫌われない様に行動するところがある。
わかるはずのない周りの人の気持ちを考えて、自分の好き勝手に行動できないのだ。当然ストレスがたまる。
そういう思考をやめて、「一人でも自分を好いてくれる人がいるといいな」と自分主体で考えると、格段に行動の自由度が広がる。

平成28年10月23日 大阪人の格言  苦しいときこそ笑わなアカン
足跡も 思い出や。    大失敗した人を、どんな言葉で励ませばいいだろう。
切った爪集めて どうすんねん?    過去をいつまでも引きずるな。
手袋はめたままやと 手相見えんぞ。   心を開かないと気持ちを通じ合えない。
犠牲フライばっかりやったなあ ワシの人生。     定年を迎えた大阪人が、しみじみとそう口にした。
人生やり直すんやったら 精子からやり直せ。     何かをやり直す時は、根本まで立ち戻れ

自転車に一回乗れたら また乗れるんや。   人生はやり直しが可能だ。
         その人は本当に自分自身を奮い立たせるように言った。なんか、とてもカッコ良かった。
北風や言うても しょせん南の逆の風や。    強がるときに使う言葉
         「ワシは金がないれど、他のヤツはちゃんと持っとる、それでチャラや」 こんな訳のわからない人もいる。
下を向いても 地べたしかないぞ。    落ち込んでてもしょうがない、胸を張れ! 
        以前、甲子園球場で阪神の選手がエラーしてうつむいている時に
        「さっさと顔上げんかい、、お前、いつまで甲子園の土見とんねん?プロのくせに土持って帰る気か!」
借金が増えたら 計算力がアップするちゅうもんや。    不幸中の幸い
        嫁さんに逃げられた友人の、その日のセリフがとても印象深い  「さあ、久しぶりの独身貴族や」
もう 笑うしかない。     つらすぎるときは笑え。 
        「人間、いつどこで、えらい目にあうかわからへん、けどな、そこで、どんだけ笑えるんか?それや、一番大事なんは」
        うちのおばあちゃんは、いつもこう言っていました。

平成28年10月16日 自由闊達独流を貫く・・・小寺勇  小沢昭一
どういうおつもり、お立場の俳人かは、こんな句からお察しがつくと思います。 
 秋日和 この指たかれ 臍曲がり
私ごときも「この指」にたかりたくなるのですが、まだまだ「臍曲がり」の性根が出来ておりません。
有季定型どこ吹く風と、自由闊達に、毎日毎日、尼崎の仰臥六畳の空間で、ひたすら句を作っておられたようです。
 蜆汁 ちっちゃい身まで びんぼ性で
 老いぼれの 一物を連れ 菖蒲湯に
 おれの忌は ものが旨なる 秋半ばに
この句のとおり、平成六年の秋、師・日野草城のもとへ逝かれました。
最晩年の「自画自賛・小寺勇俳句集」の中に私についての一句もあるのでして、
 冬の世は 小沢昭一 エロ・エッセー

平成28年10月9日 投げ忘れた花束   徳岡孝夫
昭和30年、結婚式の日は穏やかに晴れた春の日だった。
父ははじめ私の結婚には反対した。そのことで親子の間に涙を浮かべた言い争いもあったが、父は折れた。
二十数年後、父の死後に妹から聞いた話では、父の反対はもっともだった。
「母親のない者同士が結婚したら、お産の時どうするねん」、父の反対した理由だったそうである。
披露宴で、父は反対したことを水に流し、気持ちよく呑み、気持ちよく酔った。
プラットホームの端に立つ父は窓越しに私に花束を渡して言った。
「懐仁病院の前を通るとき、窓から投げてくれ」
私は無言で花束を受け取った。何か言えば涙がこぼれただろう。懐仁病院は十八年前に私の母が死んだ病院であった。
母は享年二十七、その時私は七歳の小学二年生。母の臨終は昭和十二年の菊の節句、晴れ渡った明治節の午後だった。
ベルが鳴って、列車は動き出した。私も妻も窓から手を振った。動く列車に沿って父の走っているのが見えた。
「やれやれ済んだね」 夫婦はその日初めて顔を見合わせて微笑んだ。
たしか神戸に一時停車したと思う、窓の外を「すま」という駅名が走った。
「あっ」
列車が西宮を通過した時、花束を投げるのを忘れていた。
父が万感を込めて頼んだに違いない母への贈り物。「見てくれ、芳子。孝夫を一人前にしたよ」という伝言。私はそれを忘れた。
頼まれて、わずか十分後に忘れた。バカ息子は、椅子の背の倒し方に気を取られていた。特2に乗ったことのない貧乏人の悲しさか。
その夜の十二時ごろ、汽車は広島に停車した。原爆からまだ十年、私はそっと西宮で投げ忘れた花束を、広島の闇に向かって投げた。
万死に値する失敗を、私はとうとう生前の父に打ち明けなかった。父も「たしかに投げただろうな」と訊ねなかった。

平成28年10月2日 適当教典   高田純次
それにして人生って短いよね。今、だいたい人生80年でしょ。80年っていったら、365日×80で・・・・約3万日しか生きられないんだよ!こう考えるといやなことやってる時間はないよなぁ。学校、会社、いやならすぐにでも辞めるべき、だって3万日しかないんだから。

平成28年9月25日 土と炎の里  津村節子
加藤唐九郎氏は、
「男と女は物を見る眼が違う、男は醜いものの中にある力を見出して惹かれるが、女は美しいものを美しいと見る場合が多く、作品にもその違いが出る。女の作品は技巧が勝ちすぎるきらいがある」と言われる。

平成28年9月18日 土と炎の里  津村節子
坂高麗左衛門さんをお訪ねしたのは、秋も深まった十一月の末のことで、その年最後の窯出しの日であった。
お作品を拝見しながらいろいろとお話をうかがったが、作陶中、後ろに立った人が素人か玄人かわかる。玄人に見られていると目の圧力を感じる、と言われたのが印象に残っている。
坂さんのお茶碗は、力強い轆轤目がつけられている。それが五本の指にちょうどうまくあたる感じで、
「大変持ち易く、感触が良いです」と言うと、
「用が第一条件ですから、そのように作ります。手ざわり、口ざわり、量感など、使う側に立って作らなくてはなりません。しかも美しくなくてはならない。美ばかり追求して用を足せないものは、工芸とはいえません」と言われた。
萩は七化けと言われ、使っているうちにお茶が染み込んで雰囲気が変わる。坂さんは、作りあがった時の茶碗は未完成で、萩焼は使う人によって完成する、作り手の責任が半分、使い手の責任が半分、と言われた。
思い切って井戸茶碗を一つ譲って頂いたが、果たして私の使い方でこのお茶碗が完成するかどうか、楽しいが不安もある。
宿題を抱えたような気持ちで帰京したのである。

平成28年9月11日 土と炎の里  津村節子
私が初めて塚原介山の作品を眼にしたのは、昭和四十八年に福井県陶芸館を訪れた折である。私は、郷里の福井に、こんな陶芸家がいたことを初めて知り、以来、介山のことが気にかかって、いつか彼のことを小説に書きたいと思うようになった。
私はどういうわけか、溢れるような才能を持ちながら、世に認められぬまま不遇なうちに死んだ人々に心惹かれてならない。画家でいえば、モジリアニ、ゴッホ、青木繁など数えれば限りがない。
芸術を志す人々は、野垂れ死には覚悟の上であろう。いかに才能があり、人一倍の努力を重ねても、それを理解し、受け入れてくれる人々がいなければ、その作品は二束三文である。世に認められるかられぬかは、その人が持って生まれた運としか言いようがない。
塚原介山は、明治四十年福井市豊島仲町に生まれた。昭和五年、二十三歳の折に、瀬戸の加藤唐九郎氏に師事したが、翌年福井市一本木町に築窯し、作陶生活に入った。
素人考えでも、修業期間が短すぎるようなので、この間の事情を、加藤唐九郎氏にお尋ねすると、
「瀬戸で一流になって福井へ帰ればよかったんじゃが、お父さんは介山が可愛くて、一緒にいなくては生きておられんじゃった」と言っておられた。
そして、「介山は、展覧会に出して周囲を圧し、自己を主張するような作品を作るのは最も嫌いじゃった」と言われる。
そのような作風だから、一層認められにくかったのだろう。
介山は、焼けつくような昭和二十年七月十八日、一本木の小屋で三十八歳の生涯を閉じたが、その夜福井市は、大空襲のため灰燼に帰した。介山の作品も大方がこの時失われた。

平成28年9月4日 陶芸家の”芸”   蔵一成
今では、陶磁器を作る個人作家を誰もが気軽に「陶芸家」と呼んでいるが、辞典で「陶芸」とは、”陶器をつくる芸術”と、記されている。それならば陶芸家とは芸術家のことであり、彼らの作り出す作品は、芸術品でなければならないわけだが、実のところ、今は芸術の”芸”がどこかに消滅してしまい、せいぜい「陶器作家」が存在するに過ぎない。中には、おっ”陶”陶”と呼んでみたくなる情けない作家たちも多数存在している。
しかも驚いたことに、その「陶芸家」と称する人々が、この狭い日本に3〜4万人も住みついていて、皆”作家値段”と称したバカ高い陶器を臆面もなく売り生活している。その連中の中には、厚顔にも自らの作品を”芸術品”と認じ、展示会や個展において、道具商さながらの営業活動をしている姿を見かけると、私は、彼らの作品を片っ端から叩き壊す衝動を抑えるのに苦労してしまう。
作家としての謙虚さ、欲心のない浄らかさを持たず、私欲に縛られた陶器作りをしていては、恥ずかしくてとても「陶芸」の世界に身をおくことはできないはずだ。作家にとって最も重要なことは、技術でも意表でもなく、その”心映え”であることを、決して忘れてはならない。

平成28年8月28日 声に出して笑える日本語  立川談四楼
  バナナの叩き売りの口上
「そこの若い娘さん、ホントにあなたは運がいい、お医者様でも草津の湯でも惚れた病は治りゃせぬ。治らぬ時はどうするか、お百度参りをなさいませ、裸足参りをなさいませ、ご先祖様に手を合わせ、
一は伊勢の大神宮  二は日光東照宮  三は讃岐の金毘羅さん  四は信濃の善光寺  五つ出雲の大社様  六つ昔の吉祥寺  七つ成田の不動さん  八つ八幡の八幡さん  九つ高野の弘法さん  十でとうとう満願日。
それでも病の治らぬ時は私のバナちゃん食べなさい・・・・ 」
何と私は「私のバナちゃん食べなさい」に下ネタの匂いを嗅ぎとっていた。

平成28年8月21日 声に出して笑える日本語  立川談四楼
 「年寄りのバカほどバカなものはない」
これは山本夏彦氏の著書で知りましたが、まったく上手いことをいうなあと唸りました。
そうです、年寄りのバカほどバカなものはないのです。年寄りだから智恵があるだろう、経験からくる示唆には傾聴すべきものがあるだろうなどと思ったら大間違い、といったことはよくあるのです。
いや、ちゃんとした年寄りになりたいものです。

平成28年8月15日 樹の薀蓄 船越亮二
 被爆しても芽吹いたクスノキ
長崎市の原爆落下地点から遠くない山王神社。一帯は悪夢の閃光に包まれ、数十年間、植物は生えないだろうといわれた。
だが被爆60日めに、境内にあった一本のクスノキから小さな芽吹きが見つかった。瀕死の状態にありながら、息絶え絶えに生き残っていたのだ。
「山王さんの大クスを守る会」の人達は、「もしも大クスさんを枯らすようなことがあったら、被爆を風化させることになってしまうばってん、じっとしてはおれん」と、土壌の改良を施したり、樹勢の回復の治療をしたりと必死の活動を行った。
現在、山王神社のクスノキは、炭化した痛々しい個所がいたるところに見受けられるが、回復を見せて堂々たる姿を維持している。
平成8年に「残したい日本の音風景100選」にその葉ずれの音が選ばれた。
被爆という背景をかかえた山王神社の木の葉のざわめきは、なにものにもかえがたい貴重な音だ。
不死身になって、不幸な歴史の証人として、これから、何十年、何百年も生き続けてほしいものだ。

平成28年8月14日 アート川柳  田口麦彦
  馬にたてがみ 人には高きこころざし
『親類の小学生に将来何になりたいかを聞いたら「正社員」と答えた---と読者の投稿にそうあった。今の世にかけているものを一つだけ挙げるとすれば「希望」であろう』 読売新聞 2010年4月9日
日本はいつからこんな淋しい国になったのであろう。戦時中はもとより、終戦直後の食糧難時代でもモノはなくとも助け合い分かち合いで切り抜けてきたし、希望を捨てることはなかった。
ところが、衣食住満ち足りた現代、極めて心貧しい社会へと変貌している。
僅かに残っていた寛容の精神や地域での支え合い、そして最後のトリデの家族の絆も切れかかっている。自殺者が三万人を超え、親が我が子を虐待死させるなど考えられないことが起きている。
冒頭の句は、午年の干支にちなんで詠んだものだが、実は先人の歌を下敷きにしている。
  馬を洗はば 馬のたましい冴ゆるまで 人恋はば人あやむるこころ   塚本邦雄
前衛短歌の巨匠として知られた歌人の鮮烈な作品である。
いっぽう、人は何を支えに生きているのだろうか---自問自答していると、希望、目標、家族愛などに行きつく。
特にこれからの日本を担う若者に希望が与えられているだろうか。答えはNOだろう。どうすれば変えられるのか。
ひとつは、若者を取りまく社会環境をスローライフ社会へと少しづつ変えていく事。いっぽう若者自身については、「人として何を為すべきか」を改めて考えて欲しい。それが希望につながる第一歩ではないかと考えている。

平成28年8月7日 声に出して笑える日本語  立川談四
ヨイショは才能
談志がある晩、後輩数人を「うな銕」へ連れて行った。翌日「師匠、夕べはありがとうございました」「御馳走になりましてどうも」等の礼が聞かれたが、古今亭志ん駒は談志を喜ばせた。「夕べは鰻屋で御馳走になり、ありがとうございました」
大勢で炎天下を歩いていて、談志がアイスクリームをふるまった。味の感想や礼を言う者の中で、林家こん平はこういったという「兄さん、蘇(よみがえ)りました」いや、見事なひと言であります。

平成28年7月31日 声に出して笑える日本語  立川談四
「恐れ入りや(入谷)の鬼子母神」と対を成すものに「情けありま(有馬)の水天宮」があったと某紙に教えられた。
水天宮は安産の神様としてつとに有名だが、江戸の人々は情けや恩を受けた際に感謝して「情けありまの水天宮」というようになったという。いや、世の中には知らないことが山ほどありますな。

平成28年7月24日 声に出して笑える日本語  立川談四
テレビに悲惨な事故現場が映っている。女性キャスターがまとめのコメントをする。
「ご遺族様は今、悲しみのズンドコに沈んでいます」と、このコメントにはのけぞります、どん底とズンドコではえらい違いですから。
「海のモズクと消えました」。この話を友人に話すと三人が三人とも「えっ、モズクは間違いなの?私はずうっとそう思ってた」と答えた。これは一体どういうことだろう。私の友人たちのレベルが低いということなのか。
中山秀征は深川八幡宮の歴代横綱の碑に「ねえ、せっかく来たんだからさ、みんなでキョウヨウしようよ」と。
その脇の石に「供養塔」と彫ってあった。
映画関係者から聞いた話。
某お姫様女優は「曲者」をマガリモノと読んだという。「マガリモノじゃ、ものども出あえ出あえ」と。
王監督の現役時代、756号ホームランという記録を作った時の解説者がすごかった。
「これは立派なカネジトウです。大変なカネジトウです。世界一のカネジトウです」と三連発。
一瞬あっけにとられたが「金字塔」という漢字がふと浮かんだ。
入門早々、私がまだ付け人だった頃、談志が「頭角」と書いたメモを渡しどう読むかと訊いてきた。
私は試されているのかと思いオドオドと「と、とうかくだと思いますが」途端に談志が頭を抱えた。
「やっぱりそうか、しまった、オレはすっかりズカクだと思い、方々でしゃべっちゃった、ウーム・・」
恐ろしいばかりの人でしたが、この日を境に「ああ、この人も人間なんだな」と身近に感じましたですね。おこがましくも。
前座時代、我らは前座会を組織して理事会に前座に対する待遇を陳情しようということになった。
その時まあまあと楽ちゃんこと三遊亭楽太郎が抑えたのである。楽ちゃんは青山学院大学の落語研究会出身、皆も一目置いていた。しかし、楽ちゃんは言ったのである。「みんな、それは時期ナオハヤだよ」と
楽ちゃんは一気に株を下げたが、言わんとすることは、時期尚早より明確に伝わったのが不思議であった。

平成28年7月17日 田口麦彦
  はらはらと 命二つへ 散るさくら  平井夏子
梅が咲いて、さくらが咲いて、そのさくらも散ってしまった。
毎年繰り返されることではあるが、老い深まる夫婦にとっては切ないことである。
「生きている」と思っていたのが、実は「生かされていた」のだと気づいたとき、一日一日が大切になる。
高齢化社会、福祉社会という言葉を枕詞のように使うのはもうよそう。
老人、子供にやさしくない社会は、若者にだっていたわりのない社会だからである。

平成28年7月10日 片岡鶴太郎
  魚行水濁 鳥飛落毛
自分の行動は必ず足跡になる。
今、この現在の足跡は、良くも悪くも過去の足跡の上に成り立っている。
そして、その現在の足跡がまた、未来の足跡の土台となっていく。
そうやって現在の足跡がず-っと一本戦でつながって完結するのが、人生なんでしょう。

平成28年7月3日 陶芸家列伝  黒田草臣
北大路魯山人も備前焼に魅せられ、何度か金重陶陽の陶陽窯へやってきている。
「日本一の陶土を活かすには、ざっくり作った陶板が一番だ」と。陶陽の目の前でヒョイヒョイと作ってみせた。
このさりげない陶板といい、熊山で見つけた陶片といい、「備前の土味を活かすのは、これだ!」と陶陽は思ったのである。こうして、細工を得意としていた陶陽は壮年期に陶芸家として開眼し、「土味のよさ、窯変の妙」を主眼にするようになった。
「窯焚きは子を育てるのと同じ、赤子の時は乳をやる、窯にも乳ほどの薪をやる。少し育てば粥をやる、少しづつ薪を増やしてやる」というのが口癖だった。
私が気に入っているものの一つに、轆轤で作った穏やかな平鉢がある。作為のない火襷が鮮やかな見込みと、登窯でじっくり焼かれた備前観音土の土味があいまって素晴らしい発色を見せている。

平成28年6月26日 陶芸家列伝  黒田草臣
父のお供で初めて京都の作家巡りをした時、魯山人の窯の赤絵担当だった、山越弘悦が退職し、京都で仕事をしていた。
魯山人のすべての芸術は「良い材料を使うこと」から始まっているが、上絵の赤も例外ではなく、よい赤呉須顔料でなければ絵付けをしなかった。魯山人が気に入る「赤」を作るため。山越は血のにじむほど、苦労した。
山越の家を訪れると、さっそく客間に通された。
「擦りながらのお話でいいですか?」
なんと、山越は客間に擦り板ガラスを持ち込み、私たちの話し相手をしながら、終始、手を動かしている。他の陶工は仕事の手を休めて、話をするのに「なぜなのだろう?」と不思議に思っていたとき、
「赤は、こうやって優しく撫でるように擦れば擦るほど、よい赤の原料になるんだ」と父は説明してくれた。硫酸化鉄を焼いて弁柄を作り、これに長石と硅石と媒溶剤を加えて作った酸化第二鉄は、擦れば擦るほど弁柄が酸素に触れて、晒されてくるのだ。
赤以外の彩料の原料といえば、「緑」は酸化銅と酸化クロム、「黄」は酸化鉄と鉛丹と白玉、「紫」は酸化マンガン、「藍」は酸化コバルトを用いているが、赤だけは特別扱いだった。そんなことも父の供をしながら、一つ一つ覚えていったのである。

平成28年6月19日 赤津焼
平成24年に楽陶の会で訪れた赤津焼。
瀬戸市の東はずれ、猿投山ろくの静かな風土に芽生え、一千年の歴史の波にもまれて育った赤津焼。
七色の「顔」と手作りの温かみ--その伝統技法により52年春、国の伝統工芸品に指定された。
瀬戸の山のどこにも転がっている鬼板(酸化鉄が板状になった岩石)や砂呉須(砂粒状になった酸化コバルト)を釉薬にしたり、絵付けの材料にしている。
赤津焼ご自慢の七色の釉薬の発生過程はーー。平安時代に素朴な「灰釉」が誕生。ついで鎌倉時代に「鉄釉」「古瀬戸釉」が登場。
さらに、茶陶ブームにあでやかな時代風俗を反映した室町・桃山期の「志野」「織部」「黄瀬戸」。
また、江戸時代になって、しっとりとした「御深井釉」がお目見え。
「釉薬が多彩になったのはいい土に恵まれていたためなんです。
色が白ければ、何を着せても似合いますし、つまり、瀬戸の土は”色白美人”というわけで」。

平成28年6月12日 片岡鶴太郎
  行雲流水    自由に生きるとは
 その頃私は、「死」ということを考えたことがありました。私の30代はすごく充実していた。しかし、ドラマ「金田一耕助」シリーズ、それにその役柄を愛していた「季節外れの海岸物語」も終わっていった。
うら寂しい風の吹く中にたたずんで、人生の落日を眺めながら一人、腰が砕けそうになるのにやっと耐えているような、そんな日々でした。
そんな二月のある日、隣の大家さんが育てていた赤っぽい花が視界に、 椿でした。
こんな寒い朝にも、こんなに美しく咲いているんだなあって、切ないというか花に対してそれまで感じたことがなかった、なにかこう、しみじみとした感動を覚えました。そして、優しく私を奮い立たせてくれるような気持ちにさせられました。
今になって思い返しますと、椿に心を動かされて、その気持ちを絵に描ける人になりたいと思った時、私という人間は生かされて生きているんだと強く感じたのです。
それならば、生かされていただいている、何かわからないれけど大きなものの流れにこの身を放り込んで、流れのままに任せて生きて行こう、と腹をくくったような気がします。

平成28年6月5日 日本人の知らない日本語  海野凪子
 「人々」などに使う「々」ってこれひとつでは何と読むんですか?人々だと「びと」。「佐々木」だと「さ」と読みます。
読み方はありません。漢字でもありません。「々」はおどり字と言って繰り返しを表す記号です。一文字打ちたいときは「おなじ」と打ちます。表で使う「”」も「おどり字」です。
弗が漢字だと知った時の衝撃を思い出します。$にそっくりなので記号かと。
弗は日本にドルが入ってきた頃$マークに似ているという理由だけで採用された漢字ですから。
先生、ここに「和洋折中の料理」とあるのですが、「和」は和食、「洋」は洋食、「中」は中華。ーーーなら
「折」ってなんですか?
折衷(折中)とは、異なるものをまとめることで中国とは関係ありせん。

平成28年5月29日 一茶俳句と遊ぶ   「笑い」のうしろに「涙」が見える
  骸骨の 笛吹くように 枯野かな   一茶
夏目漱石の句で、兄嫁登世の死に際しての句作のなかの好きな句がある。
  骸骨や 是も美人の なれの果て
これと劣らないほどに、この一茶の句を好みにしている。枯野をヒューヒューと吹き抜けていく風の音を、骸骨どもが吹く笛と聞いているのである。むせび泣くような一茶の心の叫びを、こっちは聞くような気がする。
人生は儚い。栄耀栄華、色に欲、一切虚妄なり。骸骨の 笛吹くように 枯野かな、である。

平成28年5月22日 だめだこりゃ  いかりや長介
親父は口のきき方は乱暴だし、実際手も早く魚河岸では喧嘩ばかりしていたが、心根には優しさをいっぱい持っていた。
歳を取ってからは若い頃の角もとれ、座持ちがうまいというので、近所のばあさん連中にモテモテだった。
若い頃にモテないで、今さらばあさんにモテても仕方ないのだが。
その親父が突然逝ってしまった。
前日、親父は伊豆に一泊の温泉旅行に出かけた。酒を飲み、うまい魚をたらふくたべ、陽気に一騒ぎして、翌日無事に帰ってきた。
だが家に戻ってから、ちょいと具合が悪いと医者に行き、薬をもらって帰宅すると、上がり框に腰を下ろし、「うーん」と言って、それっきりだった。86歳だった。

平成28年5月15日 だめだこりゃ  いかりや長介
ドリフターという言葉を英語の辞書でひけば、流れ者とか漂流物と書いてある。私たちは名前通り、漂流物のように潮の流れるままに流されてきたのだと思う。
カラッケツの5人が集まっていたら、クレージーさんが忙しくなったんで、渡辺プロが穴埋めのためにドリフを拾ってくれた。
すへてては偶然、偶然、偶然。偶然の力によって、私はひたすら流されてきただけだと、つくづく感じる。
私の人生に残り時間がどれだけあるかわからない。
ただ、ハッキリしていることは、これから先も「ザ・ドリフターズ」の名の通り、漂流物のごとく、流され続けていくことだけだ。
こんな人生があってもいいのだろう。

平成28年5月8日 笑点 諸国漫遊
大喜利メンバーの挨拶
「私は先祖代々平家の出だと教えられていたんですが、よく調べたら平屋の出でした。小遊三です」
「上州はかかあ天下が多い。その人達が作った都々逸。かかあ天下と威張っちゃいるがたかが家来は俺一人。好楽です」
「テレビ金沢さんが生まれて満11歳の誕生日を迎えられたそうです。思い返してみますと私が11歳の時は乳母に手を引かれて学習院に通っていました。歌丸です」
「鹿児島県は日本有数の雨が多い県だそうです。皆さん、雨の日には家の中で子作りに励みましょう。山田隆夫です」

「街角で見つけたら 『ダンディー』 と気軽に声をかけてくれても…・ 
無駄だぜ、ダンディー、この衣装を着てないと誰だかわからないから」 ダンディー坂野。

平成28年5月5日 千の風になったあなたへ贈る手紙
   千の風になった貴女へ   岡よし子  福岡県糸島市・74歳
貴女は私にとって大変大切な人でした。私に無いものを沢山持っておられました。
あなたは高級クラブのホステスさんという厳しい夜の職業。この職場は食うか食われるかの女の修羅場の世界だと。それゆえに常に前向き、自分磨きにひたむきでしたね。趣味も多くてクラシック、俳句、茶道、そして書道。この書のお蔭で私の書道教室に入ってこられたのでした。この教室に来ると皆んな普通の人達で優しく、とても癒される・・・・・と。
この水商売の中で穢れず美しく、生きたいと貴女の口癖でしたね。そして暇を見つけてはお寺参り、又障碍者施設にもボランティア。そして貴女の忘れられない言葉。
人に何か贈物する時は心を掛算するんですよね。先生と!!。心の五を賭ければ5倍。十を賭ければその物は十倍の値打ち。心が無く零を賭ければ値打ちはゼロになるんですよねと。
そんな貴女が今、千の風になって春は桜の花弁となり、秋は紅葉となり語りかけてくれます。優しい風が吹けば優しさを、強風が吹けば叱咤激励・・・・と千の風に寄り添って貴女を懐かしく思い温かい涙が頬を伝います。
有り難う、ありがとう。清子さん。
 ○花の雨 逝き急ぎたる 聖女かな   弔句 よし子
 ○ホステスを 誇りて逝きし 紫木蓮

平成28年5月4日 千の風になったあなたへ贈る手紙
  耐える    太田佳生  奈良県奈良市 ・六十九歳。
君が天国に旅立った前の日、朝日新聞に君の川柳が掲載されましたね。
  「耐えること 教えてくれる 野の地蔵」でした。
君は大きな手術を二度乗り越えました。その後の検診では、順調に推移しているということでしたので、私はすっかり安心していました。でも、頑張り屋の君は、少々体調が悪くてもじっと耐えていたんですね。私の君に対する配慮が足りなかったと悔いています。
生前二人で、亡くなるときはピンピンコロリと逝きたいと話し合いましたね。その通り、君は私の側であっという間に逝ってしまいました。孫娘の七五三の着付けを楽しみにしていたのに。
君が逝ってから、今度は私が寂しさに耐える日々を送っています。
天国の生活は如何ですか。私の最近の入選句は 「天国が 載っている地図 さがしてる」です。
さて、同行二人という言葉がありますが、私にとっては、君と私の二人でこれからも一緒に歩んでいく事と考えています。君はずっと私の側に寄り添い、そしてあの笑顔絶やさず。

平成28年5月3日 千の風になったあなたへ贈る手紙
  極楽とんぼへ  安野栄子  千葉県市川市・六十一才
検査入院で入ったベッドで、あなたは逝く前の夜に私に「さやかを頼む。けん、がんばれと。」と言いました。そして、帰る私に左手を高く挙げて。驚くほど大きな声で「さよならあ。」と叫びました。翌日容態が急変して、もう話すこともできず逝きました。高校入学直後の娘が十五歳、六年生の息子が十一歳。
あなたはそれから見ていましたか。あなたの子供はかくれて何回も泣いていました。何回も春は来たけれど、あの日の風に舞い散る桜を思って、桜を見ることが出来ませんでした。

十六年は、長い時間でした。来春は十七回忌です。
今年私は、六十歳の定年を迎えましたよ。
子供たちは、ずっと私に優しいです。あなたが心を残して私に託した子供たちが、私を支えてくれました。
明るく、ひょうきんで、前向きだった『極楽とんぼ』のあなた、私を待っていますか。
でも、私はまだまだあなたのところには行きません。
今、幸せです。昨年の命日、風に桜の花が満ち溢れて、「がんばったなあ」というあなたの声が聞こえた気がしました。
あなたに逢いたいです。
   極楽の とんぼ 私にたのみごと
   線香を忘れる 小事ばかりなり

平成28年5月1日 千の風になったあなたへ贈る手紙
  千の言の葉   福田千恵子  青森県五戸町 五十八才
十一月、私の五十八歳の誕生日に雪が降りました。その二日後があなたの十五回目の命日。
十五年前、ガンで逝ったあなたが、家族に残した手紙に、「必ずみんなのそばにいて守ってやるから」と書いてありました。
子供たちは、十六、十四、十二歳の年齢で父親の、がんとの壮絶な戦いと死を見ました。
目の前に刃を突き付けられるごとく、人生の不条理を見ました。
そろってのんびり気弱な彼らでしたが、その後何度かの自らの転機に際しては、断じて逃げない姿勢を見せ、私を驚かせたのです。
あなたは子供たちへの沢山の手紙を、私に託していきました。成人までのバースデーカード、結婚する時のお祝いの手紙、一通づつ渡すたびに、彼らは一人でひっそりと読んでいたものでした。
私達四人、平穏順調にこの十五年を生きてきた訳ではないこと、知っていますよね。悲しみの大波を受けたあとだから、中波小波をやり過ごせたのかと思うけれど、それぞれの頑張りは、ほめてやってくださいね。子供たちと、ついでに私のことを。
千の言の葉で、子供たちを導き守ってくれてありがとう。千の言の葉で、私たちを幸せにしてくれてありがとう。
今日も雪がちらついています。寒がりのお父さん、天国で温かくしていますか。

平成28年4月24日 一茶俳句と遊ぶ   半藤一利
  花じゃもの 我も今日から 三十九
ある酒席で粋人が、「年よりてはや三十九なり」と歎くのを受けて、気のきいた芸者が「三十九じゃもの 花じゃもの」と唄ったのが始まり。
まだこれから、という応援歌。
この頃は四十歳からはもう老年とされていた。人生五十年はまさしく平均寿命でであったとすれば、三十九歳は最後の大台にのる直前のこと。誰しもがなにがしかの感慨を抱いた。頭髪はすでに半白、歯は大部分がぐらぐらしていたという一茶は、タメ息とも前祝いともつかぬ句で自分を励ました。
真似てわたくしも、  花じゃもの 我も今日から 六十八、 ああ。 

平成28年4月17日 一茶俳句と遊ぶ   半藤一利
 義仲寺へ いそぎ候 初しぐれ
西国旅行の途中、琵琶湖畔の大津の義仲寺で、「芭蕉忌」(時雨忌)が催されると聞いて、芭蕉を崇敬する一茶はそれに馳せ参じた。
これはその折の即興偶感句である。折からの時雨をついて義仲寺へ急ぐ一茶は落魄すれど志は失っていない。
芭蕉は望んで、戦死した木曽義仲を葬った義仲寺に、木曽殿と背中合わせに葬られている。
芭蕉のうちには、落魄の身を愛し、今をときめく者を嫌う気概のようなものがあったようにみえる。
芭蕉のそんな気概をもっとも理解しえたもの、それが一茶なのかもしれない。

平成28年4月10日 一茶俳句と遊ぶ   半藤一利
  はずかしや 蝶は暮れゆく 春もなき
東京は向島の桜堤の下、長命寺で詠んだ句である。ちょっと長い紀行文がこの前にある。
「長命寺という寺に、古くもあらぬ碑あり、「西行に 雨の宿かせ 時鳥」 亡夫左茗 妻妙葩建之と記セリ」
一茶はこの妻の妙葩さんを手ばなしで持ち上げる。、この奥さんを蝶にみたてて誉めあげているのがこの句。
さっそく長命寺を久しぶりに訪れてみた。境墓の内に処せましとならぶ碑石を一つ一つ検しながら、この良妻の建碑をわが眼に確かめようとした。ところが、である。二タめぐりしたけれど、「西行に・・・」の句碑はない。
仕方がないから、毎度おなじみの「好酒院杓盃猩々居士墓」と「好色院道楽宝梅墓」に、手を合わせてむなしく帰ってきた。

平成28年4月3日 決断できない日本   元沖縄総領事 ケビン・メア
  御巣鷹山での悲劇
震災対策のタスクフォースで働きながら、1985年に起きたJAL墜落事故を思い起こしていました。
JAL123便は午後7時ころ墜落、まだ暗くなる前でした。自衛隊や海上保安庁のヘリでは現場に着陸することが出来ず、日本政府は誰も生き残っていないと判断していました。しかし、米軍の横田基地から御巣鷹山まではそう遠くありません。横田基地には夜間行動を取ることが出来るヘリと捜索救助隊があります。夜間スコープを持った特殊な部隊です。そこで、米軍から日本政府に「部隊をすぐに出発させられる」と伝えました。しかし、信じられないことに断られてしまったのです。のちに救出された少女が「暗くなる前にはたくさんの人の声を聞いた」と証言しているように、20人くらいの生存者がいたはずです。でも、救助ヘリは現場に行くことが出来なかった。米軍が行けば助けられたかもしれない。日本政府に電話してすぐに断られてしまったので、米軍の担当者は本当に怒っていました。
なぜこうした政治判断が出来ないのか。要はだれも責任を取りたくないからです。緊急事態でも決断できる人がいないのです。

平成28年3月27日 決断できない日本   元沖縄総領事 ケビン・メア
  平和ボケが治っていない2
米国は原発に対するテロ攻撃の脅威を真剣に受け止め、同盟国日本の原発警備の状況把握に来た。
ホワイトハウスの当局者は日本の原発警備の手薄さに驚き、銃で武装した警備要員の配置が必要であると力説した。これに対する日本政府当局者の答えがふるっていた。
「日本の原発に、銃で武装した警備要員は必要ありません。なぜなら、銃の所持は法律違反になるからです」
ホワイトハウスの当局者は小声で傍らの私に尋ねた。
「これって、ジョークだよね? だったら笑った方がいいかな」
私は彼の耳元にささやいた。「たぶん、ジョークじゃない。笑わない方がいい」
ホワイトハウス当局者は神妙な表情でうなずき、日本当局者の発言をメモに取るふりをしていました。

平成28年3月20日 決断できない日本   元沖縄総領事 ケビン・メア
  平和ボケが治っていない
原発事故後、アメリカは日本に提供できる品目のリストを送った。ところが、日本からはどの支援品目が必要といった回答ではなく、長々とした質問が返されてきました。たとえば、無人ヘリコプターでは、その性能や特徴に関すること細かな質問や、放射能汚染に対する補償はどうなるのかという陽気な問い合わせを返信してきたのです。とにかく、震災・津波・原発事故処理という”戦争”に勝たねばならないのに、この期に及んでなお、「石橋を叩いても渡らない」かのような平時のお役所仕事がまかり通っていました。問い合わせをめぐるやり取りでおよそ2週間が空費され、アメリカ側の支援リストが無駄になりました。
司馬遼太郎の「坂の上の雲」に203高地奪取直後、児玉源太郎大将が旅順港のロシア艦隊を砲撃命令を出します。砲兵隊の高級軍人は二十八サンチ砲の防御に三日間がほしいと難色を示すのですが、児玉大将は「そんなことは戦争が終わってからやれ、今は戦の最中だ」と、直ちに砲撃するよう重ねて命令する場面があります。
アメリカの支援リストに質問を寄せ、時間の浪費を恥じない日本当局者にも同じことを言ってやりたかった。つまらない問い合わせの最中にも、放射能は漏れ続け、陸も水も空も汚し、大地震と大津波を生き残った被災者たちは避難所で寒さと飢えに苦しんでいたのです。

平成28年3月13日 決断できない日本   元沖縄総領事 ケビン・メア
  日本の政治指導力の無能
3.11大震災。その後の日々における東北の人々の反応の仕方、このような圧倒的な困難にもかかわらず、規律が取れてがまん強いこと--をニュースで見た事を思い出すとき、まだまだ3月でも寒い東北で、小さなおにぎり1個を受け取るために何時間も並び、深いお辞儀と「ありがとう」の言葉で感謝の気持ちを表す老人たちの姿を見たのを思い出すとき、私はいまだに涙ぐんでしまいます。
この震災後に東北の人々が示した誇りは、日本人全体の気品ある性格を示す証です。気品ある日本の人々には、今現在いだいている指導力より、さらに高度なリーダーシップがふさわしいはずです。
こんな国民が多く暮らしている国がいつまでも低迷しているわけはない。政治がしっかりと決断し、国民を勇気づけながら明確な目的に向かって進めば、必ず日本は新たな成功を収めると思うのです。
問題は政治のレベルの低さなのです。責任を取らず、自己保身を図ることが目的化してしまっている今の政治から、一刻も早く脱却しなければなりません。
日本人は今の政治のあり方に甘んじていてはいけないと思います。日本の国民はもっとよい指導力、より良い政治に恵まれるべきです。
体育館に避難した人々にひざを折り、誠実に話を聞いている天皇皇后両陛下の姿には本当に頭が下がりました。
対照的に時の総理は、アリバイ作りに2〜3人の話を聞いて帰ろうとしたとき、避難民に「もう帰るんですか、朝から話を聞いてもらおうと待っているんですよ」と呼び止められ、言い訳に「いるのがわからなかった」と。見苦しい。品性が卑しいですね。
日本に大災難が起きるたび、なぜか時の総理に恵まれません。
阪神大震災でも国民が大勢死んでしまいました。

平成28年3月6日 アート川柳  田口麦彦
  三月になると 校長 胃が痛み    石井章
学校が荒れていた頃の三月の句である。
その大変な時期の1988年に秩父市立影森中学校校長となったのが小嶋登さんである。どうしたら教室のすさんだ空気を和らげ、普通の授業ができるかと考えた末、「歌声の響く学校」にすることを目指した。音楽科教諭の坂本浩美さんと共に粘り強く努力を続ける。
歌う楽しさを知ると学校は次第に明るくなって行く。三年目の1991年2月には「卒業を前にした生徒たちに何か記念になるものを残したい」と作詞・小嶋登、作曲・坂本浩美の一曲が出来上がり、それを全員で卒業式で歌ったという。
今全国の多くの中学校や高校の卒業式ソングとして断トツに歌われている曲「旅立ちの日に」はこうやって世に出たのである。なんと温かくも涙ぐましい話ではないか。
その作詞者。小嶋登さんが2011年1月、80歳で亡くなられたと報じられていた。まことに残念なことであり、謹んでご冥福をお祈りしたい。
三月は、桜が咲き始める季節、そして旅立ちの季節である。
  三月は うれしい顔で する別れ    桜井長幸
出会いの数だけ別れがあるのは人生の必然。
卒業式ソング「旅立ちの日に」を口ずさんで暫し涙ぐむのを良しとしよう。

平成28年2月28日 やなせ たかし
僕は夢見がちな人である。子供の時もよく夢を見たが93歳になった現在でもよく夢を見る。
ほとんどとりとめもないものだが、今ではどれが現実で、どれが夢だったのかはっきりしない。
しょせん何もかもすぎてしまえば夢と同じである。

いつのまにやら年をとってしまい、ある日気がついたら後期高齢者になっていたので、これにはたまげてしまった。
世間で言えばレッキとしたお爺さんである。気分は少年のまま老人になっていた。お恥ずかしい。

人生というのはラストコースは死出の旅である。終着駅は近づき、片道切符の道は逆行できない。
それならば残された歳月はなるべく楽しい方が良い。もう思い悩むことはやめようと思った。

平成28年2月21日 陶芸家列伝  黒田草臣
京都美大で富本憲吉や近藤悠三の指導を受け、新鮮な創作を以って昭和の陶芸界を駆け抜けていった異色の陶芸家がいる。
加守田章二である。ある意味で師の富本よりオリジナリティを持っていると私は思っている。
大阪・岸和田市春木に生まれた加守田は 「空(うつろ)を形成する土面」 が焼き物であるといい、その生命は内側の空間にあるという。
昭和45年頃から岩手県遠野の土を使って作品を発表。単調で渋い遠野の素地を、赤、白、青、黒、緑の色彩が流動的に走り抜ける。
曲線の波状紋はあくまでも自由奔放。現代陶芸の旗手、鬼才と呼ばれた加守田章二はわずか49歳の生涯であった。
今日、笠間、益子で加守田章二風の作品が目立つが、売れるからといって安易な気持ちで作られた器は感心できないのだが。

平成28年2月14日 陶芸家列伝  黒田草臣
富本憲吉が育てた陶芸家の一人、近藤悠三は大正10年、19歳の時、憲吉の弟子になっている。
ある日、悠三が懸命に轆轤を挽いていると、
「近藤君!土を延ばすことだけなら職人の方がずっとうまいものだ。作家とはそれ以外の余裕というものを、うんと勉強しなくてはいけないよ。職人でなく、作家にならなければね」 といわれたという。
悠三が、昭和50年、有田の岩尾対山窯で制作した大皿は直径1メートル26センチで、世界一。得意の梅文が描かれている。
この皿は現在、清水寺近くの茶碗坂の、悠三生家あとに建てられた近藤悠三記念館に所蔵されている。

平成28年2月7日 陶芸家列伝  黒田草臣
「湯呑は花の蕾が開きかけ、鉢は花開き、皿は満開」という名言を作った富本憲吉は、明治19年奈良県に生まれた。
憲吉は昭和元年に子供の教育のために東京に引っ越した。長女の「陽」が中学に入学する時だった。
本当は「窯」という名にしたかったが、皆に反対されて「陽」にしたのである。
それでも次女は「陶」といい、憲吉は小学校には通わせず、一枝夫人と二人で教えたという。教育にも熱心だった。
グレーと赤のシャツが似合うダンディーな陶芸家であった。

平成28年1月31日 世界のジョーク集より
神が日本に与えた「試練」
 韓国政界には「困った時の日本叩き」という格言がある。内政で危機に直面すると、日本を攻撃し、目先を変えて危機を突破するという手法である。

  神が天地創造した時のこと、
神   「日本という国をつくろう。世界一素晴らしい気候と風景、食べ物を与え、そこに世界一勤勉で礼儀正しい人々を住まわせよう」
側近 「神様、それでは日本という国が恵まれすぎています」
神  「安心しろ、隣に韓国と中国という国を用意しておく」

  日韓首脳会談が開催され、韓国側が日本を激しく追及した。
韓国大統領  「・・・というわけで、靖国神社参拝が韓国国民の怒りを高めている」
日本首相   「靖国の話は既に出たはずだか」
韓国大統領  「・・・だから、独島が韓国領であることは歴史的に立証されている」
日本首相   「竹島の話を聞くのは、さっきから三度目だ」

韓国大統領  「・・・」
日本首相   「教科書問題を出したらどうなのか」

伊豆諸島の八丈島で、有望な石油鉱脈が発見された。
翌日、中国で八丈島が中国領であることを示す唐時代の地図が発見された。

平成28年1月24日 アート川柳   田口麦彦
  無縁社会 寿限無寿限無と つぶやいて
2010年の夏は日本列島が亜熱帯になったかと思うほどの「猛暑」であった。その暑さをもっとひどく感じさせる事件が続出したのである。いわゆる所在不明の「100歳」問題である。東京で戸籍上111歳になる男性が死後30年以上を自宅に置いておかれた事件。
作家の高村薫氏は高齢化社会における家族のとらえ方について、「核家族化とその先にある単身高齢者の増加は、いいも悪いも家族というつくられた幻想の終わりであり、そうだとすれば、私たち日本人の老いはもっと自由にならなければならない、ということである。子は成長すれは親から独立し、親も子育てが終われば自由になる。家族という単位をその程度にゆるく捉えておかなければ、高齢化社会は誰にとっても地獄になる。」
そうか「ゆるキャラ」がいいのかとナットク。思わず落語の「寿限無」のセリフを口ずさむ。

平成28年1月17日 寅次郎夕焼け小焼け  第17作
 老青観画伯(宇野重吉)が、昔の恋人志乃(岡田嘉子)と何十年ぶりに再会する。青観は、昔、画家としての修業時代に志乃と不本意な別れ方をしていた。青春の甘酸っぱい苦渋に満ちた過去を、胸の内に格納しておこうとする老男女の姿が清々しい。

青観 「お志乃さん。・・・申し訳ない」
志乃 「どないして・・・・・?」
青観 「僕は、あなたの人生に責任がある。・・・僕は後悔しているんだ」
志乃 「じゃあ、仮にですよ、あなたがもう一つの生き方をなすっとったら、ちっとも後悔しないと言い切れますか。・・・私、近頃よくこう思うの、人生に後悔はつきものじゃないかしらんて、--ああすればよかったなあという後悔と、もう一つはどうしてあんなことをしてしまったんだろうという後悔・・・・・」

平成28年1月10日 「寅次郎恋歌」 第8作    本当の暮らし 
 名もなくつましく、しかし真に生きるとはどういうことか。博の父(志村喬)が、妻の死から数日、孤独に耐えながら寅次郎に語りかける。
博の父
 「そう、あれは、もう十年も昔のことだがね・・・・私は信州の安曇野という所に旅をしたんだ。・・・うん。
   バスに乗り遅れて田舎の畑道を一人で歩いているうちに日が暮れちまってね、暗い夜道を心細く歩いていると・・
   ポツンと一軒の農家がたっているんだ・・・・・りんどうの花が庭一杯に咲いていてね、
   開けっ放した縁側から、灯りのついた茶の間で家族が食事しているのが見える。
   ・・・わたしゃね、今でもその情景を、ありありと思いだすことが出来る。
   庭一面に咲いたりんどうの花、あかあかと灯りのついた茶の間、にぎやかに食事をする家族たち・・・・・
   わたしはその時、それが・・・・・それが本当の人間の生活ってもんじゃないかと・・・・・
   ふと、そう思ったら、急に涙が出てきちゃったね。
   ・・・人間は絶対に一人じゃ生きていけない・・・・・さからっちゃいかん・・・・・
   人間は、人間の運命に逆らっちゃいかん・・・・・そこに早く気がつかんと、不幸な一生を送ることになる。
   ・・・分かるね、寅次郎君・・・分かるね」
寅  「へい、分かります、ようくわかります」

平成28年1月3日 だれにでも老いはやって来る   田口麦彦
  長生きは 誰もができると 錯覚し    松方尚義
高齢化社会の到来でみんな長生きできそうに思わせる環境にある。ところが現実はそうではない。
平均寿命はあくまで平均であって保障年齢ではない。
それはみんな本当はわかっているのだろうけど、わかろうとしないようにしているのだろう。
富める者にも貧しき者にも等しく訪れるこの世との別れ。
だからこそ一日一日を大切に生きなければと思う。

平成28年1月2日 寅次郎恋やつれ  第13作
 歌子(吉永小百合)は伊豆大島の心身障害児施設に働きに行くようだ。
 父親(宮口精二)がとらやに訪れてきた。すれちがいが多かった歌子との和解。
歌子 「長い間心配かけて、ごめんなさい」
父 「いや、なにも、君が謝ることはない、謝るのは多分私のほうだろう。私は、口がヘタだから、なんというか、誤解される、ことが多くてな・・・・・私は君が自分の道を、自分の信ずる道を選んで、その道をまっすぐに進んでいったことをうれしく・・・・・私は・・・・・本当にうれしく・・・・・」
 ふと言葉を途切らせ、懐から皺くちゃのハンカチを取り出し顔を覆ってしまう。
歌子の眼からあふれんばかりに涙が。

歌子から、大島で元気にやっているとの手紙が届く。
 「みなさんと幸せについて語り合った夜のことを、時々懐かしく思い出します。
今の私は幸せかどうか、そんなことを考えるゆとりもありませんが、でも十年先、二十年先になって、今のことを思い出した時に、ああ、あの頃は幸せだったと、そう思えるようでありたいと願っています」

平成28年1月1日 元旦
明けましておめでとうございます。
皆様、よいお年をお迎えのことと存じます。
今年も緋色窯をよろしくお願いいたします。

今年私は69歳になります。
 「ただ過ぎに過ぐるもの。帆かけたる舟、人の齢、春夏秋冬」 (枕草子)
無為に年をとりました。

  
賀状書く 寿の字の あたたかさ   久保花子
「寿」という字を「ことぶき」と読む方はこの句の暖かさがわかる方である。
今年一年の幸運を保障しよう。
「寿」を
辞書で引くと「めでたいこと、ことほぐこと、祝、よろこび」とある。
それがつまり「寿命」(いのちことほぐこと)なのだから。

ガンも脳卒中も蹴っ飛ばし、三百六十五日を無事に過ごすことを祈ります。

*ホームページを開設して16年、工房は20年、穴窯は9年目です。
2016年が皆様にとって、明るい年でありますよう祈念いたします。