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平成28年12月31日 |
私は詩人 |
年末になると今年を振り返り来年の抱負を考えたりしますね。
大掃除をしていて無くしたと思っていたものを発見したりもします。
最近、作陶がマンネリ化して、何か刺激がほしいなんて思っています。
そんなことをきっかけに
「自分には何が出来て、何をしている時が最も楽しいのか?」
「こんな自分でも、何か人の役に立てるのだろうか?」とか考えてます。
「夕日の向うに明日の知恵がある。今日はすでに遠い遠い過去」 トマス・ホーンズビー・フェリル
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平成28年12月25日 |
妻 |
手のひらに きらめくものは 過去ばかり
自分史の 最後は妻よ ありがとう
底浅き わが人生に 妻(はな)一輪 |
平成28年12月18日 |
人間にとって本当に大切なものってなんだろう 吉村英夫 |
「その親にも 親の親にも似るなかれ かく汝が父は思えるぞ子よ」 石川啄木
「俺に似よ 俺に似るなと 子を思い」 現代川柳
「古来いかに大勢の親はこういう言葉を繰り返したであろう。私は畢竟失敗者だった。しかし、この子だけは成功させなければならぬ」 芥川龍之介
親に似ないで親を乗り越えていってほしいとか、私に似て私の志を継いでほしいとか、親と子が意見を異にして葛藤があり、和解があったりもする。さまざまな親の願いは願いとして、しかし、結局同じような親子関係は連綿と続いていく。
それが人間の世であり、人間が文化を作り、生きていき、歴史となっていくということであろう。 |
平成28年12月11日 |
ご長寿川柳 |
孝行を するには親が 長寿すぎ
あの世とは 良いとこらしい 行ったきり
年寄りが 丈夫だという 地獄あり |
平成28年12月4日 |
「花は愛惜に散る」 道元 「正法眼蔵」 |
花は人に愛され惜しまれているうちに散るべきだ。
花とは言わぬ、人生すべてそういうものだという教えであり、戒めである。
嫌われて追い出されるようなことがあってはならない。 |
平成28年11月27日 |
命は幸せや人生の根源 吉川英治記念館館長 吉川英明 |
「命をたのしみ給えよ」。小学4年生の時、父は表表紙の裏にそう記した宮本武蔵の本をくれました。
父が亡くなってから、意味がよく分かりました。命を粗末にするな、生きる喜びをかみしめて楽しめー。
父は常に命というものを、幸せや人生の根源のようなものとして捉える概念を持っていたんです。
人間の幅が広がるので、小説を読んでほしい。
今の時代はとかく、映像から受けるイメージが大きい。映像ばかりから入ると想像力が欠けてしまうと思います。
活字は想像力をもたらす。心理描写、人間の「心のひだ」を表現するのに文章に勝るものはないと思うのです。 |
平成28年11月20日 |
心は億万長者 |
日府展の授賞式で長年御批評を頂いていた田中穣先生の著書「生きる 描く 愛する」より。
本当に好きな絵に出会ったら、買えば何百万円、として心に貯えること。
心の中にあの絵とこの絵と何枚も貯えることによって、心の億万長者になれるという寸法なのです。 |
平成28年11月13日 |
人とぶつかるのは当たり前 工藤美代子 |
言いたいことをストレートに言えないのは、日本人特有の資質かも知れない。
「和を持って貴しとなす」よろしく、相手に嫌われない様に、あるいは人とぶつかることを避けるようにふるまう嫌いがある。
この資質は世界でも奇異にみられて、外国人からよく「日本の女性はノーと言わないって本当か」などと聞かれる。
若い時ならガマンも大事な修行だからよしとして、六十過ぎた人はその種の修業をさんざん積んできたのだから、もうガマンはやめた方がいい。
「人とぶつかったって、いいじゃないの。ストレスをためない健康法だと思えば、恐れるに足りないことよ」
そんなふうに腹を括るだけで、ずいぶん楽になるはずだ。 |
平成28年11月6日 |
腹立ちはその場で解決する 工藤美代子 |
別のパーティで、私はもう一つの「ストレスをためないコツ」を学んだ。
それは何事につけちょっと自慢する奥さまの家に招かれた時、テーブルには豪華な料理が並んでいた。
勿論私は褒めた。
「お料理、お上手ですね、どれも美味しいわ、大変だったでしょう」
「いいえ、たやすいことですわ。今日、私はテニスもしましたし、のんびり本を読んでましたし、その後でおもてなしの仕度をしたんですから」
それまでにも何度も彼女の自慢話に辟易させられていた私は、帰り道にカナダの友人に不満をぶちまけた。
私は友達も一緒に「ほんとよね」と同調してくれることを期待していたのだが、そうはいかなかった。
「悪いけどミヨコ、そういうことを、私に言わないでくれる」
「えっ」
「そう思ったのなら、どうしてさっき彼女に直接言わなかったの」
「だって、失礼じゃないの」
「失礼であったにしても、言った方があなたは気がすむでしょ。その場で言わないから、私にモンクを言うことになるのよ。これからはストレートにあの奥さんに言って、自分で解決してね」
日本人はこんなことは言わないだろう。友人の反応に傷つきながら私は、彼女がいうことは正しいと認めた。
念のため付け加えると、今の私はこんな些細なことで腹を立てない、「年をとって、ちょっとは人間が丸くなったかな」と思う。 |
平成28年10月30日 |
嫌われてもいいじゃないか 工藤美代子 |
私がカナダにいた時、パーティで大笑いしたジョークを紹介したい。
カナダは多国籍の人種が集まっている国なので、様々な文化の背景を持つ人たちが集まっていた。
その中でユダヤ人の男性がこんなジョークを披露した。
「ユダヤ人は周りに十人いたときに 『この中で一人でも自分を好いてくれる人がいるといいな』 と、ほんの少し心配する。
一方、日本人は 『十人のうち一人でも自分を嫌いな人がいたらどうしよう』 と真剣に悩む」
お腹を抱えて大笑いしながら、「うまいことを言うな」と感心した。
たしかに日本人は、誰にも嫌われない様に行動するところがある。
わかるはずのない周りの人の気持ちを考えて、自分の好き勝手に行動できないのだ。当然ストレスがたまる。
そういう思考をやめて、「一人でも自分を好いてくれる人がいるといいな」と自分主体で考えると、格段に行動の自由度が広がる。 |
平成28年10月23日 |
大阪人の格言 苦しいときこそ笑わなアカン |
足跡も 思い出や。 大失敗した人を、どんな言葉で励ませばいいだろう。
切った爪集めて どうすんねん? 過去をいつまでも引きずるな。
手袋はめたままやと 手相見えんぞ。 心を開かないと気持ちを通じ合えない。
犠牲フライばっかりやったなあ ワシの人生。 定年を迎えた大阪人が、しみじみとそう口にした。
人生やり直すんやったら 精子からやり直せ。 何かをやり直す時は、根本まで立ち戻れ
自転車に一回乗れたら また乗れるんや。 人生はやり直しが可能だ。
その人は本当に自分自身を奮い立たせるように言った。なんか、とてもカッコ良かった。
北風や言うても しょせん南の逆の風や。 強がるときに使う言葉
「ワシは金がないれど、他のヤツはちゃんと持っとる、それでチャラや」 こんな訳のわからない人もいる。
下を向いても 地べたしかないぞ。 落ち込んでてもしょうがない、胸を張れ!
以前、甲子園球場で阪神の選手がエラーしてうつむいている時に
「さっさと顔上げんかい、、お前、いつまで甲子園の土見とんねん?プロのくせに土持って帰る気か!」
借金が増えたら 計算力がアップするちゅうもんや。 不幸中の幸い
嫁さんに逃げられた友人の、その日のセリフがとても印象深い 「さあ、久しぶりの独身貴族や」
もう 笑うしかない。 つらすぎるときは笑え。
「人間、いつどこで、えらい目にあうかわからへん、けどな、そこで、どんだけ笑えるんか?それや、一番大事なんは」
うちのおばあちゃんは、いつもこう言っていました。 |
平成28年10月16日 |
自由闊達独流を貫く・・・小寺勇 小沢昭一 |
どういうおつもり、お立場の俳人かは、こんな句からお察しがつくと思います。
秋日和 この指たかれ 臍曲がり
私ごときも「この指」にたかりたくなるのですが、まだまだ「臍曲がり」の性根が出来ておりません。
有季定型どこ吹く風と、自由闊達に、毎日毎日、尼崎の仰臥六畳の空間で、ひたすら句を作っておられたようです。
蜆汁 ちっちゃい身まで びんぼ性で
老いぼれの 一物を連れ 菖蒲湯に
おれの忌は ものが旨なる 秋半ばに
この句のとおり、平成六年の秋、師・日野草城のもとへ逝かれました。
最晩年の「自画自賛・小寺勇俳句集」の中に私についての一句もあるのでして、
冬の世は 小沢昭一 エロ・エッセー |
平成28年10月9日 |
投げ忘れた花束 徳岡孝夫 |
昭和30年、結婚式の日は穏やかに晴れた春の日だった。
父ははじめ私の結婚には反対した。そのことで親子の間に涙を浮かべた言い争いもあったが、父は折れた。
二十数年後、父の死後に妹から聞いた話では、父の反対はもっともだった。
「母親のない者同士が結婚したら、お産の時どうするねん」、父の反対した理由だったそうである。
披露宴で、父は反対したことを水に流し、気持ちよく呑み、気持ちよく酔った。
プラットホームの端に立つ父は窓越しに私に花束を渡して言った。
「懐仁病院の前を通るとき、窓から投げてくれ」
私は無言で花束を受け取った。何か言えば涙がこぼれただろう。懐仁病院は十八年前に私の母が死んだ病院であった。
母は享年二十七、その時私は七歳の小学二年生。母の臨終は昭和十二年の菊の節句、晴れ渡った明治節の午後だった。
ベルが鳴って、列車は動き出した。私も妻も窓から手を振った。動く列車に沿って父の走っているのが見えた。
「やれやれ済んだね」 夫婦はその日初めて顔を見合わせて微笑んだ。
たしか神戸に一時停車したと思う、窓の外を「すま」という駅名が走った。
「あっ」
列車が西宮を通過した時、花束を投げるのを忘れていた。
父が万感を込めて頼んだに違いない母への贈り物。「見てくれ、芳子。孝夫を一人前にしたよ」という伝言。私はそれを忘れた。
頼まれて、わずか十分後に忘れた。バカ息子は、椅子の背の倒し方に気を取られていた。特2に乗ったことのない貧乏人の悲しさか。
その夜の十二時ごろ、汽車は広島に停車した。原爆からまだ十年、私はそっと西宮で投げ忘れた花束を、広島の闇に向かって投げた。
万死に値する失敗を、私はとうとう生前の父に打ち明けなかった。父も「たしかに投げただろうな」と訊ねなかった。 |
平成28年10月2日 |
適当教典 高田純次 |
それにして人生って短いよね。今、だいたい人生80年でしょ。80年っていったら、365日×80で・・・・約3万日しか生きられないんだよ!こう考えるといやなことやってる時間はないよなぁ。学校、会社、いやならすぐにでも辞めるべき、だって3万日しかないんだから。 |
平成28年9月25日 |
土と炎の里 津村節子 |
加藤唐九郎氏は、
「男と女は物を見る眼が違う、男は醜いものの中にある力を見出して惹かれるが、女は美しいものを美しいと見る場合が多く、作品にもその違いが出る。女の作品は技巧が勝ちすぎるきらいがある」と言われる。 |
平成28年9月18日 |
土と炎の里 津村節子 |
坂高麗左衛門さんをお訪ねしたのは、秋も深まった十一月の末のことで、その年最後の窯出しの日であった。
お作品を拝見しながらいろいろとお話をうかがったが、作陶中、後ろに立った人が素人か玄人かわかる。玄人に見られていると目の圧力を感じる、と言われたのが印象に残っている。
坂さんのお茶碗は、力強い轆轤目がつけられている。それが五本の指にちょうどうまくあたる感じで、
「大変持ち易く、感触が良いです」と言うと、
「用が第一条件ですから、そのように作ります。手ざわり、口ざわり、量感など、使う側に立って作らなくてはなりません。しかも美しくなくてはならない。美ばかり追求して用を足せないものは、工芸とはいえません」と言われた。
萩は七化けと言われ、使っているうちにお茶が染み込んで雰囲気が変わる。坂さんは、作りあがった時の茶碗は未完成で、萩焼は使う人によって完成する、作り手の責任が半分、使い手の責任が半分、と言われた。
思い切って井戸茶碗を一つ譲って頂いたが、果たして私の使い方でこのお茶碗が完成するかどうか、楽しいが不安もある。
宿題を抱えたような気持ちで帰京したのである。 |
平成28年9月11日 |
土と炎の里 津村節子 |
私が初めて塚原介山の作品を眼にしたのは、昭和四十八年に福井県陶芸館を訪れた折である。私は、郷里の福井に、こんな陶芸家がいたことを初めて知り、以来、介山のことが気にかかって、いつか彼のことを小説に書きたいと思うようになった。
私はどういうわけか、溢れるような才能を持ちながら、世に認められぬまま不遇なうちに死んだ人々に心惹かれてならない。画家でいえば、モジリアニ、ゴッホ、青木繁など数えれば限りがない。
芸術を志す人々は、野垂れ死には覚悟の上であろう。いかに才能があり、人一倍の努力を重ねても、それを理解し、受け入れてくれる人々がいなければ、その作品は二束三文である。世に認められるかられぬかは、その人が持って生まれた運としか言いようがない。
塚原介山は、明治四十年福井市豊島仲町に生まれた。昭和五年、二十三歳の折に、瀬戸の加藤唐九郎氏に師事したが、翌年福井市一本木町に築窯し、作陶生活に入った。
素人考えでも、修業期間が短すぎるようなので、この間の事情を、加藤唐九郎氏にお尋ねすると、
「瀬戸で一流になって福井へ帰ればよかったんじゃが、お父さんは介山が可愛くて、一緒にいなくては生きておられんじゃった」と言っておられた。
そして、「介山は、展覧会に出して周囲を圧し、自己を主張するような作品を作るのは最も嫌いじゃった」と言われる。
そのような作風だから、一層認められにくかったのだろう。
介山は、焼けつくような昭和二十年七月十八日、一本木の小屋で三十八歳の生涯を閉じたが、その夜福井市は、大空襲のため灰燼に帰した。介山の作品も大方がこの時失われた。 |
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