平成24年12月31日 大晦日
今年も一年間とても忙しかった・・・・。
工房と山の窯場と老人施設でも陶芸を教え、研修バス旅行に行き、穴窯を焚いた。
サラリーマン時代は休んでいた土日も忙しく、好きな言葉が
隠居生活という私は「生涯現役」はしたくありません。
     もう余禄 どうでもいいぜ 法師蝉  変哲
毎日忙しいことはありがたいことと思いつつ、しかし来年は少し余裕で暮らしたいものです。

今の下諏訪町。
10年前と比較して、人口は9.3%減、工業は33%減、商業は18%減、観光は18%減です。
人口は、昔最高で28000人いたのに、今は21000人。しかも高齢者率は諏訪郡で一番高い。
将来町が無くなるかもしれませんね。

秋と春の窯では、奥の段の備前がまずまずでした。
今年は穴窯焚き2回、本焼き25回、素焼き15回でした。

平成24年12月30日 へその緒  榊莫山
年の暮れというのは、なんとなく忙しく、何となく淋しい。いや、やるせないといったほうがよいのか。
今も昔も、あと何日や----とつぶやきながら、財布の底も気にしなくてはならんからだ。
貞享四年の年の暮れ、
「笈の小文」の旅の途次、芭蕉は故郷の伊賀上野に立ちよっていた。
仏間に座った芭蕉は、兄の半左衛門と母の思い出にふけっていた。
 「これ、おまんのへその緒や」
古びた和紙にくるまれていた臍の緒はひからぴてコチンコチンのするめの足みたいになっていた。
「これがなあ」と、見つめながら、芭蕉はせまりくる感慨と追憶をそのままに、ぐっとかみしめていた。
 
 「古里や  臍(ホゾ)のをに泣く としのくれ」
いま、この句碑は、芭蕉の生家の路傍にたつ。珍しく芭蕉自筆の文字を彫り、その嫋嫋たる風情が良い。
芭蕉の字は細くしなやかで、江戸時代にふさわしい穏やかさを宿す。
ただ、世にあまたある芭蕉の句碑のほとんどが、芭蕉の字ではない。
くずれた字とか、だらけた字とか、眺めていて目の毒になるようなのばかりだ。
その意味では、自筆をコピーしたこの
「臍の緒碑」は、素晴らしいといえる。

平成24年12月23日 ニセモノはなぜ、人を騙すのか  中島誠之助
粘土をねりあげて作り、窯に入れて焼いた焼き物の原点といえば、四百年前の桃山時代の織部や志野などの美濃ものだろう。
窯から出した時に、ゆがんだモノがあったと思う。ところがそのゆがみの中に、面白さを見つけたのは美濃の人たちだ。
焼き物の楽しみは、茶碗なら茶碗、鉢なら鉢を見るのではなく、その向こう側にある何かを感じる楽しみが潜んでいる。
左右対称の完璧な形だったら、面白みがない。
美濃陶には、不完全さというプラスアルファがあるから人の心をとらえてはなさないのだ。
ゆがみのある茶碗というものを、よくぞ考えたと思う。
洗いやすく、使いやすく、収納しやすいというのが食器だから、今の時代、あんなゆがんだものでお茶を飲もうなんて誰が考えるだろうか。四百年前に美濃の人たちが、窯の中で
「ゆがみ」を焼こうとしたのは、類いまれな発想だと思う。
だから、粘土という素材を自然界から受け取って、独特の世界を創造した
桃山時代の美濃は、陶器の原点だと思うのである。

平成24年12月16日 ニセモノはなぜ、人を騙すのか  中島誠之助
ホンモノを創造することは、人間の善意の魂がさせることだと思う。
与謝野晶子の歌のように、
「劫初より つくりいとなむ殿堂に われも黄金の釘一つ打つ」
「黄金の釘」を、自分も一つ打ってみたいと思い、黄金の釘でなくても、せめて真鍮の釘くらいでもいいから打とうと思って、毎日一生懸命世のため、努力しているのではないか。世のため、人のために仕事をすることがホンモノ造りなのだ。
そして、生きることに夢中な人間がホンモノのヤツなのだ。
「あいつはホンモノだ」という言葉がある。
ホンモノの人間は、自分が善意で一生懸命に進んでいるのだ。

平成24年12月9日 ニセモノはなぜ、人を騙すのか  中島誠之助
ところで冒頭で触れた、私がひっかかってしまった「海揚がり備前の徳利」のその後はどうなったか。実は私もちゃんと手をうった。
手ごろなターゲットを見つけて、未熟なナカマに嵌め込んだ。
損はしなかったから、よかったと胸をなでおろしていた矢先、私に嵌め込んだ先輩業者からこんなことを言われた。
「そういえば、ナカジマ君、あの海揚がりの徳利どうした?」
「実は、よそに売りました」
「君も一人前になったなあ。いい腕になった」

やはりニセモノとわかっていて、私をひっかけたのだ。
もっと目利きになって腕を磨かなければ
「やられてしまう」と、骨董商としての固い決意をしたきっかけとなったニセモノだった。
 
平成24年12月2日 幅広き街の啄木  東京都 田中善松
仕事場の団扇に書いてあった見慣れない漢字に目をとめていたら、親方が、
「それはとうもろこしと読むんですよ。幅広き街というのは札幌のことです」と教えてくれました。
翌日、親方は啄木全集とアルバムを持ってこられ、札幌や東京の話をしてくれました。
私の修業時代の数年間、いろいろなことを教わり、上京後もずっと見守ってくれた師匠でした。
あれから50数年たったこの度の北海道ツアーで、あの懐かしい歌碑に出会うことができました。
  しんとして幅広き街の
  秋の夜の
 
 玉蜀黍の焼くるにほひよ
一人口ずさんでいると、やさしかった親方のことや修業時代のあれこれが、昨日のことのように思いだされ、屋台のむこうのテレビ塔が涙でかすんでまいりました。

平成24年11月25日 父へのひとり旅  神奈川県相模原市 目黒洋子
新宿まで出て、そこからは湘南新宿ラインに乗り小山で両毛線に乗り換えて、カタコトと関東平野を走り、富田までの三時間を超える父に会いに行く旅です。
  
利根川を渡ればふるさと 麦の秋
  じゃあまたね 父と握手 冬すみれ
  父あずけ 帰路のたんぽぽ 帰り花

三年半続いたこの旅も、終りになってしまいました。父は百歳で、母のところへ旅立ってしまいました。
明治・大正・昭和・平成と歩み続け、九十過ぎまで自転車に乗り元気でしたが、最終は介護ホームにお世話になったのです。
産土(うぶすな)の足利から離れることなく、老人会長までした父でした。
日帰りのこの旅は、下手な俳句作りに専念できる時間でした。
危篤の電話で駆けつけた車窓は、萱草の花が線路沿いに風にざわめいていて、この旅は終わりました。

平成24年11月18日 父   小林佳代子  昭和十八年生
昭和天皇と同じ年生まれを誇りにしておりました父も、今年九十七歳、もう何も話してくれません。
二年前の秋に入院以来、入退院を繰り返しましたが、今は、自分の部屋から、
「空ゆく雲をながめ、鳥の囀りを聞く」 (父の好きな言葉です) 毎日を過ごしています。
父の年賀状には、毎年自作の短歌を添えることにしておりました。中でも私が好きなのは、
  
大も小 小も大なり 正中の
  真美は 生命限り無き代を

  侘助の 白花ほつほつと 咲き揃い
  年を寿ぐなり 小鳥二羽来て

元気だった父と過ごした年月を心の糧に、今の父と私との時の流れをかみしめながら、気負わずに、共に生きる、共に過ごすというような看取りが出来たら、それでいいと思う今日この頃です。

(この原稿を書きました翌月、満月の夜、月の光に誘われるように父は旅立っていってしまいました。
百歳まではと、思っておりましたのに…・。父のことですから、私の体を心配して、もうこの辺でと気遣いをしたのかも知れません)

  
あまりにも 突然逝きし父なれば
  ちょっと午睡の面ざしのまま

平成24年11月11日 老いの至福   三谷千里 明治39年生まれ
この6月1日で私は満92歳になりました。この様に長生きするとは予想もしませんでした。
私は十人兄弟姉妹の一番末に生まれましたが、中には早逝した兄や姉もいますので、その人達に代わってこの世をつぶさに見てまいりました。
  
行き昏るる 一生の闇を透かし見む
  吸はるる如くに 芝に降る雨

大した苦労もせず、ごく順調に生きてきた私でも、年をとると感傷的になります。
我が家では年に一回芝生の上でバーベキューをいたします。
子供に孫、曾孫たち総勢16人集合し、まことに楽しく賑やかな時を過ごしました。
  
生きていて 幸せと思う 日も多く
  老いは悲しき事のみならず

二十四年前、七十四歳で亡くなった夫に見せたい情景でした。
  
星影も さだかに見えぬ 老いとなり
  自らに問う 生存の価値

平成24年11月4日 愛すべき名歌たち     阿久 悠
「いちご白書」をもう一度   昭和50年 
             作詞 荒井由実  作曲 荒井由実  歌 バンバン

   〜いつか君と行った 映画がまた来る
    授業を抜け出して 二人で出かけた・・・・・
この詞の中の映画が「いちご白書」である。この歌が発表される5年前に公開されたアメリカ映画で、80年代の後半、大学紛争で荒れるキャンバスでのこと。ノンポリ学生サイモンは、活動家の女子学生リンダへの恋心から政治活動に熱意を示し始める。ラストが涙するところで、バリケードを破って突入して来た警官隊に、二人は引き裂かれるのである。
当時のシンボルであった
「いちご白書」が再公開された時、恋人のどちらかが、
  〜君も見るだろうか 「いちご白書」を
   二人だけのメモリー どこかでもう一度・・・・ 
と歌う。
この青春は昨日のことである。昨日のことは昨日のことのみずみずしさといたいたしさがあり、それは巧拙を超える。
  〜雨に破れかけた 街角のポスターに
   過ぎ去った昔が 鮮やかによみがえる…・
さて、今、街角のポスターから、昨日へ、ある時代へトリップするような上質の感傷があるのだろうか。

平成24年10月28日 愛すべき名歌たち     阿久 悠
時の過ぎゆくままに   昭和50年 
             作詞 阿久悠   作曲 大野克夫  歌 沢田研二

   〜あなたはすっかり つかれてしまい
    生きてることさえ いやだと泣いた 
けだるい歌である。さらにけだるくなる。
   〜こわれたピアノで想い出の歌 片手でひいては ためいきついた・・・・・ 
;と、まさに都会の片隅で、荒らぐことなく、細い吐息だけで生きている男と女の渇いた愛の歌で、ぼくの気に入りの歌ができた。
昭和50年、日本もぼちぼちだが贅沢になりつつあった。贅沢は物を手に入れることではなく、男と女の愛の中にけだるさなどという要素が入り込んでくるようになったことで、僕にとっては面白い時代であった。大体、怨念や情念は苦手の方で、虚無的な人間が、一瞬虚無を忘れて愛に溺れ、熱が冷めるとやはり虚無の中にあるというのが好きだった。
   〜時の過ぎゆくままに この身を任せ
    男と女が ただよいながら・・・・・
   さらに詞は、
   〜堕ちてゆくのも しあわせだよと
    二人冷たい からだ合わせる・・・・・
 と続く。
堕ちるという言葉を変えてくれと、プロダクションから言われたが、僕は頑張った。
堕ちる歌なのである

平成24年10月21日 愛すべき名歌たち     阿久 悠
港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ   昭和50年 
             作詞 阿木燿子   作曲 宇崎竜童  歌 ダウンタウン・ブギウギ・バンド

   〜あんた あの娘の 何なのさ
     港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ・・・・・

この歌を初めて聴いた時には、ちょっとした衝撃を受けた。正直やられたと思った。やられたの意味は
「俺が書きたかった」に近い。
前年あたりからすっかり主流になっているフォークソング、またはフォーク調歌謡曲の、湿度の高いセンチメンタリズムに、
「冗談じゃねえやい」と一撃を食わせたような快感が、このグループの登場にはあった。
   〜ハマから流れて 来た娘だね
    ジルバがとっても うまくってよォ・・・・・  
それから
   
三月前までいたはずさ 小さな仔猫を拾った晩に 仔猫と一緒にトンズラよ と続く。そして
    〜あんた あの娘の 何なのさ 
 
である。一言一言に劇画のコマ
が浮かんで感心したし、悔しかった。昭和50年、僕は発奮した。

平成24年10月14日 愛すべき名歌たち     阿久 悠
学生街の喫茶店   昭和47年 
             作詞 山上 路夫   作曲 すぎやま こういち  歌 ガロ

ガロが歌う
学生街の喫茶店は昭和47年に大ヒットした。『学生街』という言葉も、「喫茶店」という言葉も少し懐かしく感じられるようになった時代である。

詞の中に
片隅で聴いていたボブ・ディラン・・・・・というのがあり、さらにそれが過去のことで、
あの時の歌は聴こえない、人の姿も変わったよ 時は流れた・・・・・
とつながるから、たぶん、この学生が喫茶店へ出入りしていたのは、青春の挫折の1970年以前のことではないかと思えるのである。
全く、この年を最後に、青春を取り巻く環境が一変し、
「学生街」「喫茶店」もなくなってしまったのだから。
ボブ・ディランが流れる喫茶店も時代なら、僕の学生時代の、実存主義のアイドルといわれたジュリエット・グレコの歌が流れる喫茶店も時代であった。
ところで、ボブ・ディランを聴きながらコーヒーを飲む学生は、何を手にしていたのだろうか。
文庫本か、スケッチブックか、セロか、それとも、ヘルメットかアジビラか、メガホンか。
ふとそんなことを思わせる歌である。

平成24年10月7日 文人・藤沢桓夫  榊莫山
藤沢桓夫先生の展覧会が開かれるとき、私は何枚かの絵を頼まれた。
水墨の絵をかいて、どこかに余白を残しておくと、先生がそこに俳句を入れてくれる手はずになっていた。
一級の文人というのは、絵を見てたちまち、イメージがわくようだ。
わたしがお渡しした絵の一枚には、、大和は宇陀野の山家を書いておいた。すると、
  夕月の  墨一色に  春の山
という、先生の句が絶妙なタッチで添えられていた。
絵はぼんやりと、気抜けしたような風景であったのに、賛の句を入れてもらったら、ムード満点、じつに美しくよみがえった。
ところで、青嵐燃える季節になったので、わたしは書斎に先生の書をかけた。
   
石蹴りの  少女ら去りぬ  桐の花
いかにも文人の書らしく、気負いもてらいもない書である。
わたしは、書はかくありたきものよーーーと思いながら、しばらく先生に見つめられている中で、仕事をすることになる。
この先生は、出不精で、人嫌いだった。
知友が集まって誕生祝いをしようという日、当の本人が会場の店先まではきたものの、何を思ってか、すごすご家へ帰ってしまった。
という話があるくらいだ。

平成24年9月30日 今日庵  榊莫山
「今日庵」は、裏千家のシンボルともいうべき席である。ときにはは裏千家のことを、今日庵というそうだ。
千利休の孫に、宗旦というすごいのがいた。だんだん年を取り、「隠居するには・・・・・」と、小さな一畳台目の席を作った。
江戸も初めの正保三年のことだった。
名刹・大徳寺に、清厳という名だたる僧がいた。清厳は、新しく出来た宗旦の茶室へ、招かれていた。
その日、大徳寺から裏千家へ、
「こりゃ遅れたな、おそうなったな」と、つぶやきながら清厳は道を急いだ。
待っていた宗旦は、いっこうに現れぬ和尚に、しびれをきらし
「明日来てくれ」と家人に伝言して家を出た。
やっと和尚が着いたとき宗旦はいなかった。
ずかずかと茶室に上がった和尚は
「こりゃ、なかなかのもんじゃわい」と言いながら、腰の矢立を取り出して、こともあろうに茶室の腰張りに一筆。かいてすたこら寺へ帰っていった。
宗旦が帰ってみれば、書いてある、ある。
  
懈怠比丘  不期明日  (けたいのびく  あすをきせず) 
比丘は梵語で僧のこと。
『怠け坊主のこのわしにゃ、明日のことはわからんがのう』というのだった。
そして二人の禅問答。宗旦とて、名だたる天下の茶人である。
  今日今日と言いてその日を暮らしぬる
  明日の命はとにもかくにも

と、心境を歌にして清厳に答えた。明日よりも、〈今日〉が大事というのだろう。
それより『今日庵』は、いまにつづく。茶の湯の心をまもりながら。

平成24年9月23日 河東碧梧桐  榊莫山
  砂の明るさの
  二本ともの
  コスモスが倒れた

空の青さが澄む季節にくると、わたしはこの句を想いだす。
--明るい秋の陽のなかで、昨日までしゃんとしていた二本のコスモスが、ともに倒れてしまった--というのだが。
この短冊を、祖父がはじめてわたしに見せたのは、中学一年の秋だった。
「わしが死んだら、お前にやるが、売ったらあかんゾ」
それがいま、わかるどころか売るどころか、わが心の宝物の一つになっている。
すこしオーバーに言うなら、この挫折のイメージのかたまりみたいな碧梧桐の短冊に、何度も励まされたと思うし、それに祖父への思いも重なった。

平成24年9月16日 柔らかな犀の角
俳優の山崎努さんが、エッセー「柔らかな犀の角」を出版した。映画・舞台人による読書体験記には、未知の世界に開かれた心持や、悠々と老いを楽しむ心模様がにじむ。
主人公の少年が、与えられた場所を甘受する小川洋子さんの小説
「猫を抱いて象と泳ぐ」には深い共感を吐露した。
「与えられた枠の中で生きるしかない。そこで自由をつくっていくのが本当の楽しさ」と常々感じていたからだ。
それは目先の快楽とは正反対の、工夫や労苦の果てにある達成感だ。
気に入っている言葉は「どんぶらこ」。肩の力を抜いて流れに身を任せる身の処し方は、読者にとっても心地よい。
「生きていれば、いろんな出来事が降りかかります。とりあえず受け入れて、自分の中で何が生まれるかを見るのが楽しみの一つ。
その快感、大切さを分かるのは年を取ってからでしょうね」

平成24年9月9日 啄木 2 榊莫山
石川啄木は、函館の立待岬に眠っている。津軽の早い潮流のかなた、下北半島をのぞみ、啄木の墓が立っているのだ。
 「はたらけどはたらけど猶 わが生活楽にならざり ぢっと手を見る」

とつぶやいて、函館から小樽へ、小樽から釧路へと、北海の港をさすらった。吹く風は冷たく、無情であった。
その感懐をしるす啄木のペン字も、筆の字も、じつにうまい。単純な筆のはこびの中にさめた抒情をはらませる名手であった。
虚飾をさけ、饒舌をこばみ、その書の風景はみずみずしくて美しい。
 「函館の 青柳町こそかなしけれ 友の恋歌 矢ぐるまの花」
このペン字の拓本は、函館の擂鉢山の歌碑である
しびれる哀感をペンにのせ、歌の字は絶妙に走る。啄木にとっての函館は、よほど悲しく、そして懐かしかったに違いない。

平成24年9月2日 啄木 1 三枝ミ之
望郷の人、センチメンタルな泣き虫。そして100年後の今も愛される国民的歌人。
石川啄木にはいろいろな特徴があるが、もう一つ、自分の居場所を見つけられない男でもあった。
 「うすみどり 飲めば体が水のごと 透きとほるてふ 薬はなきか」
人はどんなとき透明人間になりたいと思うだろうか。自分を消してしまいたいという願望である。
そんな薬はないことを承知の上で望んでみる。現実への深く切ない失望がそこに現れている。
 「何となく汽車に乗りたく思いしのみ 汽車を下りしに ゆくところなし」
どこかへ行きたい。しかし当てはない。だから汽車に揺られて、ここでもあそこでもない。束の間の空間を浮遊する。
 啄木のこのような自画像は、心の置き場所を求めて漂流する現代の若者たちの感受性に近い。
多くの人々が離郷を余儀なくされた東日本大震災
以後の今日、100年前の啄木の望郷が新しい切実として広がっている。

平成24年8月26日 ワープロ   吉岡忍(佐久市出身)
90年代末、佐久で暮らす父から「使わなくなったワープロをくれないか」という電話がかかってきた。
教員を辞めて四半世紀、晴耕雨読の父は、六十の手習いどころか、八十七、八歳になっていたはずだった。
私はとりあえず携帯用のワープロを送った。
一年後の2000年晩秋、父から80ページの冊子が送られてきた。
それは父が若いころに勤務した、諏訪市の小学校の教え子たちが、喜寿を迎えたのを機に書いた作文集だった。
父は一人一人に宿題を課したらしい。集まった25人の作文をワープロで清書し、それをそのまま印刷所に持ち込んで、冊子にしてもらったのだ。
「八十八歳のこの野叟(やそう) (野に生きる老人)は、読み、書き、考え、不器用にワープロを打つ中で、じつに多くを諸君から教えられ、『生きる』ことについても改めて考えさせられた」と、あとがきにある。
これが父の最後の著述になった。
それから九年後、父はあの世へと旅立った。

平成24年8月19日 川柳ふきよ大学   小沢昭一
 方丈記 判る頃には 介護四    流山市 加藤義教

「ゆく川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたはかつ消えかつ結びて久しくとどまりたるためしなし」

重度の介護を受ける床にありて思いを致せば、うたた無常なる人の世。
すべからく空と悟りて、
尿瓶に手を伸ばす。

平成24年8月15日 墓参り   七円の唄 誰かとどこかで  静岡県 大倉孝子
一年ぶりに父の墓参りをした。
私が10歳の時、父は定年退職。だから私は若いころの元気な父を知らない。
知っているのは、いつも無口で、たまに口をきけば小言。
口答えでもしようものなら物が飛んでくる、怖くてわがままな気の小さい病弱な父。

私はそんな父が嫌いだった。
何かの折に、母や姉から、子供が病気をすると父が寝ずの看病をして、子供を大事にする人だったときいても、私は全く信じられなかった。
それがわかったのは、父の、孫に対するなめんばかりのかわいがり様をみてからだ。
孫に会うと、手放しで喜ぶ父の顔は、私の知らない父の表情だった。
今思うと、父は老いていくなか、大勢の子供を育てることの不安やいらだちで、笑顔をみせるゆとりなどなかったのだろう。
「みんな、おとうちゃんのこと思って、墓参りに来てるんやから嬉しくないなんて言わんといて」
とお線香をあげながら、いま、むしょうに父に会いたいと思う。

平成24年8月12日 私の履歴書2 父の死  山田洋二
「あと十年若い時に引き揚げていれば、戦後の日本でもう一度やり直すことができたに違いない。
自分の力を生かす機会もなく、息子たちに満足な学費も渡せず、後の世代に何の貢献もできないまま、私は馬齢を重ねてしまった」。
ある地方雑誌に父が書いた文章を読んだ時、僕は涙が止まらなかった。
大連から引き上げ船に乗った時、父は50歳。そして1976年、千葉県の弟の家で失意の中に息を引き取った。
「家族」(70年)「故郷」(72年)
という映画には、追われるようにして満州を離れ、引き揚げ後も内地で辛酸をなめた、僕の父と家族の姿が二重写しになっている。
東京に人口が一極集中し、その一方で坂から転がり落ちるように地方が衰弱していった時代でもある。

「男はつらいよ」のロケ撮影で全国を旅すると、大きな農家でポツンと留守番するのも、田畑で働くのも老人ばかりだ。
田舎が子供たちの声であふれるようににぎわい、そこに暮らす人々が幸せな日本であって、どうしていけないのだろうか。
父は折にふれて随筆のような短い文章をよく書いた。
死の二日前に僕を呼び寄せ、長年書きためた文章を書物にして、葬式の香典返しに親しい友人や親せきに贈ってほしい、とかすれた声で命じた。
「貧しい文章なのだから、ほんのお目汚しですが、と丁寧に書き添えるのだぞ」。
それが遺言である。
その本を作家の藤原審彌さんに一冊、差し上げたことがある。
活字に目を走らせていた藤原さんは
「似ているね、君の文章にそっくりだよ」と感慨深げに言ってくれた。
僕のほうから心を開くことは少なく、反発することの多かった父親だったが、その時、ぼくは自分の体の中に息づいている父の面影を感じたものだ。

平成24年8月6日 私の履歴書1  家族    山田洋二
1968年、当時流行した"ふるさと" "ディスカバー・ジャパン"という言葉に、僕は奇妙な違和感、あるいは怒りのようなものを感じていた。高度経済成長の流れからはじき出されてしまったような五人家族を見たとき、映画「家族」の構想が始まる。
北海道の別海町にシナリオ・ハンティングに出かけたのはその年の12月。釧路から乗り換えた標津線はまだSL列車で、客車の中ではゴウゴウとストーブをたいていた。汽車を降り、バスを乗り継いで深い雪の中をある酪農家の家に向かった。

「もう酪農はダメですよ」。その家の主人は開口一番、ため息とともにつぶやいた。今から27年前のことである。
北海道の広い自然の中での牧歌的な生活をのんきに頭に描いていた僕は、返す言葉に困った。
彼はふっと表情をゆるめて言葉を続ける。
「でもね、春になると雪が溶け緑が広がり、放牧した牛が草をはんで、乳がどんどん出るようになる。
すると妙なもので、今年はいいことがあるんじゃないかと、わけもないのに希望が湧いてくるんです。
暮れになれば赤字になるのがわかっていながら、そんなかすかな希望を信じて人間は生きられるものですね」。

映画が完成し、翌年に廃鉱が決まっていた長崎県伊王島の炭鉱で試写会を開いた時のことだ。
北海道でおじいさんが亡くなり、息子が長崎にとどまっていればよかったと、後悔する場面で、突然シンとしていた観客の中から絶叫に近い声が上がった。
「どこ行ってもおんなしじゃろが !」。
炭鉱を追われようとする人たちの苦しみに、ぼくは圧倒されて声も出なかった。

平成24年7月29日 尾形乾山    渡辺譲
尾形乾山は今から320年ほど前(1663年)京の雁金屋という呉服商の三男に生まれ、兄は有名な尾形光琳。
乾山には京都時代の陶器づくりと、69歳になって移り住んだ江戸の入谷での陶器づくりがある。
70才から亡くなる81才までの間に残されたやきものの中に、とくに書や絵に最上のものがあり、老いとともに最高の芸術性をみせていく乾山に、芸術家のありようの凄さを見せつけられる思いがする。
得意の絵や書を書くという絵付けが目的のやきもの作りだが、文人としての才が絵となり書となり思想となって器の表に表現され花開いているのが乾山の器。
これは今も昔も変わらないやきものづくりの大切なポイントで
、やきものづくりには広い視野にたった教養と勉強が必要不可欠で、単なるやきもの馬鹿ではなさけない。この乾山が亡くなったのが寛保3年6月2日。 辞世
  「うきことも うれしき折も すぎぬれば ただあけくれの 夢ばかりなる」
奇しくも兄・光琳も6月2日に亡くなっている。

平成24年7月22日 ラジオ記者走る  清水克彦 
マイクが世界で拾った言葉 イラク軍がクウェートに侵攻して。
「アラブの人はみんな、クウェート人に同情なんかしてませんよ。彼らは石油をバックに大金持ち。
私らヨルダン人、隣のエジプト人など石油が出ない国々との格差はものすごいんです」
と吐き捨てるように話していた。

エジプト・カイロで取材したクウェート人家族の父親はこう言っていた。
「日本に航空母艦は無いのか、欲しいのはお金なんかより軍隊、人なんだよ」
その後、湾岸戦争で日本は『血を流していない』と批判され、最近の自衛隊イラク派遣につながったのはご承知のとおりである。
クウェート人の言葉は、
戦火に苦しむ国の人の本音だったかもしれない。

平成24年7月15日 「終焉の道」火山峠 2  相子智恵
火山峠(ひやまとうげ)は井月の通いなれたルートで、明治19年の年末、田んぼの中で行き倒れた井月を村人が見つけ、戸板で運んだ場所でもある。以来井月は病床に臥し、翌年の春に没した。
峠の「芭蕉の松」は樹齢約300年、高さ11m、枝張り15mもある赤松の名木で、駒ケ根市の天然記念物に指定されている。
 闇き夜も 花の明かりや 西の旅
井月没後100年に当たる昭和62年、芭蕉の句碑の隣に井月の句碑が建立された。碑文には「井月終焉の道」とある。
「西の旅」とは極楽浄土への旅のことで、闇夜でも満開の桜の花が死出の道をほのかに明るく照らしているという意味。
つまりは辞世と目される句だ。
井月は旧暦の2月16日に没した。くしくも西行と同じ日であった。井月には次の句がある。
 今日ばかり 花も時雨れよ 西行忌
西行も芭蕉も、井月が憧れた漂泊の詩人である。井月もまた、漂泊の系譜に連なろうという志が伝わる。
ただ晩年の井月は酒が過ぎ、句も輝きを放たなくなり、放浪の末に火山峠で行き倒れてしまう。
目の前にした『芭蕉の松』は、急斜面にどっしりと枝を伸ばしていた。
よく見ると、一本の添木の根元の斜面が崩れ、添木は松の枝にぶら下がって宙に浮き、ゆったりと風に揺れている。
芭蕉の松を支えるはずの添木が、逆に枝にぶら下がっているという矛盾の光景は、なぜか心安らかだった。
それは芭蕉を追い求めるはずが、いつのまにか芭蕉にすがってしまった井月の人生を思わせ、また矛盾のないところには、美も、詩も文学もなく、人がみな矛盾のうちに生きるのは当然ではないかというすがすがしい確信を私にもたらしたのだった。

平成24年7月8日 人任せの人生 1    相子智恵
目出度さも 人任せなり 旅の春     井月
井月を慕い、その墓参に訪れた放浪俳人・種田山頭火の人生もまた、人任せの人生であった。
山頭火の二度目の伊那行きは、昭和14年、57歳のときだった。
三月末に山口を出発し、天竜峡から電車で伊那へ着いたのは5月3日のことだ。
乗り合いバスに乗り込んで井月の墓についたころには、日が傾きはじめていた。
山頭火は「井月の墓前にて」と前書きを付けた次の四句を残している。

 お墓したしくお酒をそそぐ
 お墓撫でさすりつつ はるばるまいりました
 駒ヶ根をまへにいつもひとりでしたね
 供えるものとては 野の木瓜の二枝三枝
じつはこのとき、お酒を持っていかなかったことを、同行した伊那高等女学校の前田若水は『層雲』に
「その翌朝、木曽への権兵衛峠へ氏を送って別れたのであったが『今度来てくれる時は忘れずに酒を垂らしましょう』
と交わした言葉の、遂に来る日のないことを悲しまずにはをられない」 と書いている。
墓に酒を注いだのは山頭火の見事な創作であったが、それは彼の真情の詩なのであり、酒を愛した漂泊者同士の「幻の酒」の味わいは色褪せない。
井月の墓参の一年半後に亡くなった山頭火は、天国でようやく、井月と酌み交わしたことだろう。
山頭火のこの四句を刻んだ句碑は、井月の
「落栗の座を定めるや窪溜り」
と並べられ、井月終焉の地に立っている。

平成24年7月1日 老い    たけしの万物創世記
野生の世界では、寿命を決める厳しい掟があります。子孫を残した瞬間に一生を終える動物が少なくないのです。
けれども、人は違います。人がほかの生物と違うのは
「成長期」より長い「余生」という時間を得たことです。
他人に面倒をみてもらわなくてはならない状態になっても生き続ける動物は、間違いなくヒトだけ。
弱肉強食の野生の世界に
「老後」はありません。
では、ヒトはどのくらい長生きできるのでしょうか。ヒトの寿命は、時代が進むごとに延びてきました。
縄文時代は14歳、江戸時代は20歳、大正時代は42歳、終戦後は50歳、現在は80歳と、長い年月を経て、人類は野生の世界ではありえない
「老化」という時間を獲得したのです。
一言でいえば、老化とは身体が縮み、乾いていくこと。身長は20歳前後のピーク時に比べると、15センチ縮み、体内の水分は20パーセント少なくなるといわれています。声は低くなり、髪は白くなり、眼は老眼になり、骨は弱くなり、皮膚はしわだらけになります。

平成24年6月24日 健康寿命
健康寿命が厚労省から発表されました。
介護を受けたり病気で寝たきりになったりせず、自立して健康に生活できる期間を示す「健康寿命」。
男性は70.4歳、女性は73.6歳だそうです。
私は今年65歳、前期高齢者?になり老後について、終活について考え始めました。
薪割などしていると、足腰や気力の衰えを感じます。
体力に余裕があるのは70才まででしょうか。

平成24年6月17日 一言絶句  永六輔 選
いつ死ぬかも知れないから やりたいことをしよう
長生きするかもしれないから 計画的に生きよう       
宮地成子

平成24年6月10日 一言絶句  永六輔 選
苦しみも悲しみも 幸福と同じくらい 儚ければいいのに  内藤利恵子   
人の夢と書いて儚い ぼくには夢はもうありません 希望と計画はまだあります

平成24年6月3日 一言絶句  永六輔 選
兄ちゃん気取っていて もしょうがないよ
気取っているうちに 人生終わっちゃうよ      新宿のポン引き

平成24年5月27日 一言絶句  永六輔 選
一本一本 歯が抜けて おかしい かなしい 老いた父  立花耀子
少しずつ 親に似ながら 老いてゆく    黒子青磁
年取って 男の気品 失わず  五十嵐敏雄

平成24年5月20日 一言絶句  永六輔 選
何程の者じゃなし 静かに生きる   各務政憲  大和市39歳  静かに生きられれば大人物
含羞(がんしゅう)は花にあり       楠本たけし  「はにかむ」 懐かしい響の言葉です。含羞の人は珍しくなりました
死神に啖呵(たんか)を切って 手術台  榊誠一郎

平成24年5月13日 中城ふみ子
彼女は乳癌で両乳房を摘出され、「乳房喪失」という歌集で名を馳せた北海道生まれの夭折の歌人である。

 冬の皺(しわ) 寄せゐる海よ 今少し 
            生きて己の 無残を見むか

彼女の代表作とされる歌である。
彼女は大正11年(1922年)、北海道帯広市の比較的裕福な呉服店の長女として生まれた。
20歳で北大出身の国鉄エリート技師と結婚し二男一女をもうけるが、29歳で離婚する。
離婚一ヵ月後に彼女は左乳房の異常を自覚し、4ヵ月後の30歳で切除手術を受ける。
そして更に一年、転移した癌は彼女の残った右乳房をも奪うことになる。
彼女は不倫の報いに対するあがないを
「乳削ぎの刑」と呼び、自らを冷たく突き放す。
そして誰からも理解されない行き場のない嘆きを、こんなふうに歌うのである。
 みづからを 虐ぐる日は声に唱ふ
         乳房なき女の 乾物(ひもの)はいかが?

彼女の作品は、
「乳房喪失」題する歌集として出版されることになる。
しかし、そのゲラ刷りが届けられたのは彼女の死の僅か35日前のことであった。
昭和29(1954)年8月3日、中城ふみ子死去。 「死にたくない!」と口にしつつ。享年三十一。

平成24年5月6日 極楽へのハッピーゲート  榊莫山26
四天王寺の鳥居の扁額。地上八メートルのこの扁額は、いつ誰が作ったのかわからない。
字は聖徳太子とか空海とか、いや小野道風だとか言われるが、そんな大げさなものではない。

 釈迦如来転法輪所当極楽土東門中心
と、何のことやら難しいが、
「ここは釈迦如来の教えを転じたもうた所。西方の極楽からみれば、東門の中心ですぞ」というのだ。
極楽へのありがたいハッピーゲートである。
まだ、難波の辺りが海だった頃、この寺のある上町台地に波が打ち寄せていた。
西方の浄土は、あの海の彼方にと、人々は、この丘で沈む夕陽を浴びながら、彼岸に想いをはせていたにちがいない。
時はどれほど流れても、春秋、彼岸はやってくる。
四天王寺への信仰は篤く、いまでもこの鳥居をくぐる善男善女は、彼岸七日で百万人。
でも、今、
あの扁額を拝むどころか、仰ぐ人さえもういない。
落日に想いをはせ、西方浄土への祈りは、いったいどこへいったのか。

平成24年5月5日 宵待草の碑  榊莫山25
マツヨイグサの仲間が、夕暮れの淡い光にさそわれて咲きだす季節がやってきた。
詩人か画家かー竹久夢二は、
 
まてど暮らせど来ぬひとを
 宵待草のやるせなさ
 こよひは月も出ぬさうな

と人々に唄わせて、大正から昭和にかけて、日本中をしびれさせたのである。
故郷の岡山では夢二郷土美術館がオープンした。
絵という絵には女が描かれて、風のようにして夢二の中を通り過ぎていった恋人のたまき・彦之・お葉・順子らを想わせる感傷のシルエットから、大正の官能がこぼれ落ちていた。宵待草のメロディーが流れて、そんな絵を撫でるものだから、うつろな気分に誘われた。
美術館の川向いには、この夢二追憶の碑も出来た。
「まてど暮らせど」という夢二の筆跡をコピーして「宵待草のやるせなさ」を語ること抜群、筆触の淋しさもまた抜群に美しい
だが、その碑の石は肥りに肥って、ちっともやるせなくないのが気になった。
碑のまわりにはマツヨイグサをいっぱい植えて、そのリアリティはいささか食傷気味である。

平成24年5月4日 ねそべる文学碑
 行き暮れて
 ここが思案の
 善哉かな 
    作之助
織田作之助の碑は、大阪は南の法善寺横丁でねそべっている。行きかう人の肩と肩が、ふと触れあうほどのせまい路地の軒下である。
横丁は、いつも水かけ不動さんの線香の煙と匂いでけむりつづける庶民信仰のメッカ。
「夫婦善哉(めおとぜんざい)で文壇にデビューした織田作が、夜な夜な徘徊したあたりである。
わずか三十四歳で世を去っていった織田作之助はその短い人生を突っ走った。
ひろがり放題ひろがった織田作の文字を、かくもへんちくりんな石に刻んで、せまい路地に寝そべらしたのである。
なんと見事に、というほかない。
いま、もし、織田作がこれを見たならば、
「おおきに、おおきに」といってにんまりするにちがいない。

平成24年5月3日 詩仙堂の小額  榊莫山23
京は、東山の麓に,詩仙堂を構えた石川丈山は、かなりの変わり者だった。
本名は嘉左衛門と並みの名だが、号が凸凹だの六六山人だの山木山材だの、けっして憚顔(はばかりがお)ではない。
邪魔くさいといって妻も娶らず、さて行くところはない。住みついたのが一乗寺村の丘の上、今の詩仙堂のあるところだ。
丈山ときに五十八歳。
「人生ここにつきる」いって、雑木の山から水を引き、「そうず唐臼」を仕掛けた。
そうずは、竹の筒に水がたまっては、カタンと音をたてる風流なもの。
一人暮らしの丈山は、その音を聞きながら、
ココニ農器あり。之を添水ト名ヅク。・・・・・田野ノ小器ナリト雖モ、由来スル所ヒサシ。・・・・・
なんて詩を作りすましこんでいる。
その気分やよし
とこの詩をかいたのが富岡鉄斎である。
鉄斎の字には独特のひねりが遊んで、丈山の詩心をたわめつくしている。
見ていて愉快、ほのぼのと微笑みをさそう。
だが、この額を仰ぐ人は少ない。それがあまりに小さいからか、漢字ばかりが並んでいるからか。
わたしは丈山の静寂をいとおしみ、彼のかいた
「閑」の拓本を買って帰った。

平成24年4月29日 ストーカー  「裁判官の爆笑お言葉集」2 長嶺超輝
本件は、鹿児島県に住む33歳の女が、バスの車内で居合わせた38歳の男性に一方的に好意を抱き、それから男性の職場に押しかけて結婚を迫るなどした事例です。
ストーカー規制法違反で懲役10か月の実刑を言い渡した岡村裁判長は、
「恋愛は相手があって成立する。本当に人を愛するなら、自分の気持ちに忠実なだけではダメだ。
相手の気持ちも考えなくてはいけない。」

鹿児島地裁の初公判では、被告人は行為を大筋で認めたうえで、
「男性と結婚したい気持ちは変わらないので、やれるだけのことはやる。実刑判決を受けても刑期が終わったら会いに行く。」
とも述べています。
ストーカー対策の先進県も、彼女のゆがんだバイタリティを前にしては、無力だったようです。
周囲から結婚のプレッシャーでもかけられ、被告人は焦っていたのか。
あるいは、男性が相当なイケメンだったのでしょうか。
思い当たるフシのある男性諸氏、くれぐれもご用心ください。

平成24年4月22日 償い  「裁判官の爆笑お言葉集」1 長嶺超輝
「唐突だが、君たちは、さだまさしの『償い』という唄を聴いたことがあるのだろうか。
この唄の、せめて歌詞だけでも読めば、なぜ君たちの反省の弁が、人の心を打たないか分かるだろう」

2002年2月19日、東京地裁の山室裁判長は、傷害致死容疑で起訴された二人の少年に対し懲役3年〜5年の不定期刑を言い渡しました。
「お前ら、ちゃんと謝れよ。すみませんぐらい言えんか」
「足なんか踏んでねぇだろ。うぜぇんだよ」

2001年1月29日午前0時10分、三軒茶屋にて暴行事件が発生。
5月4日早朝、牧さんは亡くなりました。享年43歳。頭部打撲によるクモ膜下出血でした。
東京地裁の
刑事法廷で
「申し訳なく思います」「反省しています」「深くお詫びします」など謝罪した少年の態度は実に淡々として、人一人の命を奪ったことの重大さを正面から受け止めているとは言い難いものでした。
冒頭の「さだまさし説諭」は、このような事情を背景として生まれたものです。
実話をもとにして作詞された
「償い」は、交通事故の加害者が自分の幸せや楽しみを犠牲にして必死にお金を作り、毎月欠かさず被害者の奥さんに郵送し続けるという唄です。

平成24年4月15日 かすみの奥は・・・・・  七円の唄 誰かとどこかで  埼玉県 太田文 72歳
主人の一周忌も過ぎホッと一息、気も落ち着いたところへ、息子に突然吉野へ行くかと云われ「あっ、行く、行く」
六十年もあこがれ続けた吉野山。小学校六年の国語の教科書にあった吉野山。なぜかその美しさが脳裏に焼き付いてしまった。
娘が奈良に嫁ぎ
主人と二人でゆっくり吉野山へ行こうねと云っていたのも束の間、、主人は脳梗塞で倒れてしまった。
それから十年の介護。吉野山の夢も消えていた。
今、息子に云われて、それが実現しようとしている。
夢は満開の吉野山に登っている教科書の絵。
 『吉野山 かすみの奥は知らねども 見ゆる限りは桜なりけり』 

平成24年4月8日 愛すべき名歌たち 5   阿久 悠 
 また逢う日まで   昭和46年 
             作詞 阿久悠   作曲 筒美京平  歌 尾崎紀世彦

   〜また逢う日まで 逢える時まで
     別れのそのわけは 話したくない・・・・・
作詞家として最初の勲章になったのがこの作品である。レコード大賞を受賞した。
   〜ふたりでドアをしめて ふたりで名前消して
    その時心は何かを話すだろう・・・・・

さて、ぼくの父は、古武士のような田舎の警官であった。
口にこそ出さなかったが、僕の将来は、警察官僚になれば最高と思っていたはずである。
しかし、僕は、広告の世界に入り、テレビをやり、作詞をやりで、腹の中ではどう思っていただろうか。
不安も不満もあっただろうが、「また逢う日まで」のレコード大賞受賞は喜んでくれたようである。
僕の仕事について、あれこれ言うことは全くなかったが、ある時、何かの折に、「お前の歌は品がいいね」とポツンと言ってくれた。
「また逢う日まで」のことを言ったように思う。
その父も、それから間もなく他界した。

平成24年4月1日 愛すべき名歌たち 4   阿久 悠 
 野球小僧   昭和26年 
             作詞 佐伯孝夫   作曲 佐々木俊一  歌 灰田勝彦

ぼくは、父という人を、法と秩序がすべての武骨な正義派と思っていたし、単純明快な保守派だと思っていた。
しかし、いくらか大人になってから、父は、僕が考えているより複雑なところのある人で、本当は面白い人ではないかと思うようになった。
さらに大人になり、今に近くなって来ると、およそ、僕と父は正反対の生き方をし、共通するものはほとんどないと見えていながら、実は、同じ資質の人間であったのではないか、という気がしている。
同じ資質でありながら、ぼくはのびのびとそれをひろげ、父は、何かの理由があって、いつの時代かに封印して、完璧な巡査になった、ということである
武骨であった。軟弱を嫌った。それにもかかわらず、ぼくが映画や小説や歌に興味を持つことには、実に寛容であった。
およそ、歌など歌う人ではなかったが、機嫌良く口笛を吹いているのを聞いたことがあった。父には不似合いの気楽なメロディーであった。

   〜野球小僧に逢ったかい  男らしくて純情で
     燃える憧れスタンドで   じっと見てたよ背番号・・・・・
という
「野球小僧」の歌であるとわかった時には驚いた。灰田勝彦である。
それを言うと、父はやはり、
「アホぬかせ」と否定した。

平成24年3月25日 愛すべき名歌たち 3  阿久 悠
男と女のお話   昭和45年 
             作詞 久仁京介   作曲 水島正和  歌 日吉ミミ

   〜恋人にふられたの よくある話じゃないか
    世の中変わって いるんだよ 人の心も 変わるのさ
実にアッケラカンとしていた。しかし、明るい歌かというと決してそうではなく、また、日吉ミミの声も明るいかというと、怨歌に通じるものがあって、笑い飛ばしでもしなければやっていられない、投げやりさを感じた。
お前さんは自由だよ、勝手だよ、と言われることは、捨てられたと同じ気持ちになることがある。
だから、この歌の、面白さの裏の真の暗さや寂しさがよくわかった。

   〜男と女が   ため息ついているよ
    夜が終わればさよならの   はかない恋のくりかえし・・・・

それでも、昭和45年の日本人は、まだ、世の中や時代は、明るさと暗さで成立していることを知っていたし、明るさの中にいる人は暗さを思いやり、暗さの中にいる人は、明るさに手を伸ばしながらも、どこか暗さにいとおしさを覚えていたと思う。

平成24年3月18日 愛すべき名歌たち 2 阿久 悠
 東京ブルース   昭和39年 
             作詞 水木かおる   作曲 藤原秀行  歌 西田佐知子

東京オリンピックをきっかけに、大活況を呈すると幻想を抱いていたのに、過ぎてみると不況の風が吹き、暗さと寒さは倍にも感じられた。

   〜泣いた女が バカなのか     だました男が 悪いのか
    褪せたルージュの くちびる噛んで  夜霧の街で むせび哭く
    恋の未練の 東京ブルース
まさに、祭のあとの歌に思えた。
巨大な国家プロジェクトのあとには、このように倦怠感に満ち、どこか投げやりな気分のものが似合うのかと思った。
   〜月に吠えよか 淋しさを    どこへも捨て場の ない身には
歌の持っている時代性とは、直接時代の出来事を歌うだけではなく、たとえば、男と女といった個人的なことに変装させながら、気分として訴えることも出来るのだと、感心する。
東京の街は、すっかり近代化され、しかし、
近代化された物だけが人を拒む廃墟に思え、寒風が吹き、「東京ブルース」が流れた

平成24年3月11日 愛すべき名歌たち 1 阿久 悠 
 高校三年生   昭和38年 
             作詞 丘灯至夫   作曲 遠藤実    歌 舟木一夫

   
〜赤い夕陽が校舎をそめて  ニレの木陰にはずむ声
     ああ高校三年生 僕ら・・・・・
この歌を初めて聞いた時、なぜかこれは北国の高校の歌に違いないと思った。
北国を思わせるイメージがニレにはあって、やはりこれは、東北か北信越の高校だなあ、と勝手に思ったものである。

   
〜残り少ない日数を胸に 夢がはばたく遠い空
   ああ高校三年生 僕ら・・・・・

この歌でデビューした舟木一夫は、詰め襟の学生服姿で歌い、それが清潔であるとか、純情であるとかいって、たちまち人気者になった。
「高校三年生」に透明感と冬の光景を覚え、僕自身の8年前の高校三年生に、もっと生々しい生理や、抵抗心のからんだ夏の光景を思い出せるのは、既にその頃、「純情」「友情」「清潔」
死語になりつつあった時代という事であろう。

平成24年3月4日 一茶
能なしは 罪もまたなし 冬籠り
淋しさや おち葉が下の 先祖達
長き夜や 心の鬼が 身を責める
あっさりと 春は来にけり 浅黄空

平成24年2月26日 看護婦泣き笑いの話3  宮子あずさ
要は、他の世界で好かれない人は、やっぱり看護婦からもそれほど好かれはしない。
病気になったんだから、なんの人間的な努力もせずに、だれもが自分を大切にしてくれるだろうなんて、理性のあるうちは思わない方がいいと思います。
看護婦の方は、短い付き合いだと思うからそりゃあ耐えられるでしょう。
でも、日常的に付き合う家族や友人は、やはり離れて行ってしまいますからね。

人間関係は、いつだって努力なしにはありえないものなんでしょう。

平成24年2月19日 看護婦泣き笑いの話2  宮子あずさ
末期がんで寝たきりになった、七十代の男性の体を拭いていたときのこと。
「ちょっとお下のほうを拭きますね。ごめんなさい」
そういって、私がおしぼりでいつものように拭きはじめたら、彼はしみじみいいました。
「いいんですよ、もう、ただの道具ですから。気を使わないで何でもやってください。申し訳ないのはこっちのほうです」
その、「ただの道具ですから」とため息まじりにいったときの彼の表情の、淋しげだったこと・・・・・。
言葉と裏腹に、私は
"この人も、男性なんだなあ"と、しみじみした気持ちになりました。
彼は間もなく亡くなり、死後の処置に入った私は、今度は何の気兼ねもなく、彼のお下を思いっきり洗いました。
あの世で使う機会があるかどうかわかりませんが、新しい世界へ旅立つ彼への、それがせめてものはなむけのように思えたのです。

平成24年2月12日 看護婦泣き笑いの話1 宮子あずさ
「なぜ、同じように食べているのに、こんなに体格が違うのでしょうか」
と彼は嘆きますが、
そもそも人間て、けっこう不平等につくられているもんなんです。
「太りたくても太れない人がいるかと思えば、水を飲んでも太る人がいるし。
めちゃくちゃな生活をしてても丈夫な人は丈夫だし。しかたないのよ」

と、いつも私は慰めるのですが・・・・・。
看護婦をしていると、健康の自己管理の大切さとともに、人間の運命の不平等さも学ぶので、
自分の健康についてはいつも最後には、まあいいか、になってしまします。

平成24年2月5日 たかじん胸いっぱい 4 やしきたかじん
夜の街、北新地。
ぼくが親の仇みたいに通い続けるのは、そこに他にはないドラマがあるからだ。
色鮮やかにネオンが灯り、酒があり、ホステスさんがおり。
でも浮いた浮いたはうわべだけのことで、みんなそれぞれの事情を引きずりながら闘い続けている修羅場なのだ。
”事情”が化粧して、着物を着て・・・・・
そんな切なさを感じながら、高い金を払って酒を飲む所なのだ。
だから、いいのだ。
そうやろ?キーちゃん。
でも、たぶん死ぬまで水商売になりきれんあんたに、こんなこと聞くのは残酷かなあ。
「船唄」という曲がある。

^お酒はぬるめの燗がいい/肴はあぶったイカがいい/・・・・
キーちゃんはこの歌を好んで歌う。しかも、最初から最後まで
「肴はあぶったイカがいい」しか歌わない。
肴はあぶったイカがいい・・・・・か。
キーちゃんのあの歌、ほんまに好きやで。

平成24年1月29日 たかじん胸いっぱい 3  やしきたかじん
嬉しく悲しく切ない夜がそんなふうに更けていき、同級生全員が酔い潰れて眠ってしまった。
翌朝、ベランダに出ると、いつもの見慣れた町の風景があり、人も車も当然のように動いている。
〈神座は諦めきれない気持ちを、これからも引きずりながら生きていくのだろうなあ。
川端は、あんなふうに文句を言いながら神座についていくのだろうなあ。
金子さん、いつまでも小説家になる夢を持ち続けてるんやろか〉

それぞれの人生模様がたまらなく愛しく思えた。
(けど・・・・・終わってしまったことはしゃあないんや。人生いっぺん歩きはじめたら、もう後戻りも、仕切り直しもできへんのや。
そやからせめて、いつも胸いっぱいの気持ちで生きていかんとあかんねやなあ)

柄にもなくぼくはセンチであった。
陽春の日差しが二日酔いの眼にちょっとまぶしかった。

平成24年1月22日 たかじん胸いっぱい 2 やしきたかじん 
最近とみに思うのだ。
僕は今日までよい人ばっかりに巡り合ってきたと。
ついこのあいだ、ちょっと落ち込んでいたぼくは、久しぶりに佐々木さんに電話をした。
「じんちゃん、なんか元気ないなあ。男はガーッと前向いて・・・・・」
(わかった。もうわかったて)
「ほら昔、うちの店で真夏なのに”雪が降る”ばっかり歌ってたなあ・・・下手な歌やったけどなあ」
電話の向こうで佐々木さんが笑う。
「頑張りや、じんちゃん。ガーッと前向いて」
(もうわかったて)


佐々木さん、あなたはぼくに
”生きるという事はどういうことやねん”ということを教えてくれました。
佐々木さん、あなたが今も尚、人生と懸命に闘っている姿が僕には見えます。
遠くの方から、 
「じんちゃん、俺はやるぞ!」
という声が聞こえてきそうな気がします。

平成24年1月15日 たかじん胸いっぱい 1  やしきたかじん
やしきたかじんは、1949年大阪生まれ 「夢いらんかね」でデビュー
「じんちゃん、あんた覚えてるか? 二十年前にやった初めてのコンサートを」 佐々木さんがしんみりと言う。
言外に「売れてよかったなあ・・・・あの時のコンサートが嘘みたいやなあ」というニュアンスがあった。
1973年5月15日ーやしきたかじんリサイタルイン京都。京都文化芸術会館。入場料五百円。
佐々木さんと奥さんのために京都でのコンサートのチケットを用意した。
僕はフィナーレで
「あんた」という曲を胸いっぱいになりながらうたった。
 うちのことはええからね/どうせ命は預けたんやから/だからハンパな夢じゃあかんよ・・・・・
 もう夜明けが来るよ/言いたいことがあまりに多過ぎて/涙も枯れてもう出ん
 今時バカげた二人やけど/男はいいよね子供のままでいられて
 

この歌を僕は、佐々木さんと奥さんに向けて歌った。歌いながら涙がどうしても止まらなかった。

平成24年1月8日 天平への挑戦上田整 昭和四年 東京都
 薬師寺の西塔が完成して、東西両塔を比較したとき、屋根の勾配の違いが誰にもわかる。
当時の図面通りの塔を建ててなお、この違いを、棟梁の故西岡常一氏は、
「東塔は千二百年の年月により、自重で屋根の勾配が緩やかになっている。
その変化にも耐えられるよう設計されているのであるから、西塔を今の東塔と同じ勾配にしたら千二百年ももたなくなる。
同じ勾配を望むならば千二百年たってから見るがよい」 
と言われたそうである。
 作品に対する自信と自分の技術への信頼と誇りであろう。
千二百年の時の流れは、人間が空を飛び、海の底を抜け、かって伏し拝んだ月に立つことさえ可能にした。
当時の彼らが今この世に現れたなら、神や仏以上の奇跡に発狂するかも知れないほどの驚きを想像できる。
 だが目を一度
美術工芸の方に向けた時、にやりと笑ってこう言うであろう。
「ちっとも進歩していないなあ」

 
伝承の 言葉は重し 千余年
  時流れても 技は甦る

平成24年1月3日 これからは二人で  七円の唄 誰かとどこかで  宮城県 菅原民雄 52歳
日帰りのバスツアーに申し込みをした。
昭和五十年に結婚して以来、子供が小学校時代に子供会の行事などで出かけた以外、夫婦そろって出かけるのは初めてである。
窮屈なバスの座席、隣の席に、二十六年間も、一緒に生活してきた家内がいるのに何故か、しばらく落ち着かなかった。
妻は
「ねえ、ねえ、見て!」 と車窓から見える景色にはしゃいでいたが、疲れて小さな寝息が聞こえて来た。
横顔を見ると、数本の白髪が見えた。手も荒れてカサカサだった。
苦労かけているんだなぁ・・・・・。
子供たちも手がかからなくなったことだし、
「これからは二人でいろんな場所を旅して歩こうね」と寝顔に話しかけた。

平成24年1月2日 山暮らし
一億総中流も今は昔、「格差社会」が到来して、新たな下流階級が出現しています。
私は、「うん」、時流にのってしまっているなと、痛感する今日この頃です。
でも、私達夫婦は、
贅沢なんかしていないし、望まない。
そんなに貯蓄はないけれど、借金もない。
つまり自分の身の丈で生きています。
八ケ岳の麓の
ここが、今の暮らしが、ちょうど二人のスケールかなと思っています。

「足ることを知らば 貧といえども富と名づくべし、財ありとも 欲多ければこれを貧と名づく」 (往生要集)

平成24年1月1日 元旦
明けましておめでとうございます。
皆様、よいお年をお迎えのことと存じます。
今年も
緋色窯をよろしくお願いいたします。

「面白き ことも無き世を 面白く 住み成すものは 心なりけり」

幕末の志士、高杉晋作の時世だそうだ。
たとえ面白みのないことでも、自分の気持ち次第で面白いものに変えてしまおう、ということだろう。

私達団塊の世代の前半生は終わっている。
いや、人生八十年を二十年ごとに区切れば四分の三は終わり、起承転結の結・終息にむけて仕上げの時期になっている。
そして、人間は、自分が今
「起承転結」のどの辺で生きているのか、自覚しているかいないかでは、後々になってずいぶんと違ってくると思う。
前半生に句点を打ち、これからは自分の好きなように、楽しく面白く生きればいいと思うがどうだろう。

*ホームページを開設して12年、工房は16年、穴窯は5年目です。

2012年が皆様にとって、明るい年でありますよう祈念いたします。