        
平成24年12月31日 |
大晦日 |
今年も一年間とても忙しかった・・・・。
工房と山の窯場と老人施設でも陶芸を教え、研修バス旅行に行き、穴窯を焚いた。
サラリーマン時代は休んでいた土日も忙しく、好きな言葉が隠居生活という私は「生涯現役」はしたくありません。
もう余禄 どうでもいいぜ 法師蝉 変哲
毎日忙しいことはありがたいことと思いつつ、しかし来年は少し余裕で暮らしたいものです。
今の下諏訪町。
10年前と比較して、人口は9.3%減、工業は33%減、商業は18%減、観光は18%減です。
人口は、昔最高で28000人いたのに、今は21000人。しかも高齢者率は諏訪郡で一番高い。
将来町が無くなるかもしれませんね。
秋と春の窯では、奥の段の備前がまずまずでした。
今年は穴窯焚き2回、本焼き25回、素焼き15回でした。 |
平成24年12月30日 |
へその緒 榊莫山 |
年の暮れというのは、なんとなく忙しく、何となく淋しい。いや、やるせないといったほうがよいのか。
今も昔も、あと何日や----とつぶやきながら、財布の底も気にしなくてはならんからだ。
貞享四年の年の暮れ、「笈の小文」の旅の途次、芭蕉は故郷の伊賀上野に立ちよっていた。
仏間に座った芭蕉は、兄の半左衛門と母の思い出にふけっていた。
「これ、おまんのへその緒や」
古びた和紙にくるまれていた臍の緒はひからぴてコチンコチンのするめの足みたいになっていた。
「これがなあ」と、見つめながら、芭蕉はせまりくる感慨と追憶をそのままに、ぐっとかみしめていた。
「古里や 臍(ホゾ)のをに泣く としのくれ」
いま、この句碑は、芭蕉の生家の路傍にたつ。珍しく芭蕉自筆の文字を彫り、その嫋嫋たる風情が良い。
芭蕉の字は細くしなやかで、江戸時代にふさわしい穏やかさを宿す。
ただ、世にあまたある芭蕉の句碑のほとんどが、芭蕉の字ではない。
くずれた字とか、だらけた字とか、眺めていて目の毒になるようなのばかりだ。
その意味では、自筆をコピーしたこの「臍の緒碑」は、素晴らしいといえる。 |
平成24年12月23日 |
ニセモノはなぜ、人を騙すのか 中島誠之助 |
粘土をねりあげて作り、窯に入れて焼いた焼き物の原点といえば、四百年前の桃山時代の織部や志野などの美濃ものだろう。
窯から出した時に、ゆがんだモノがあったと思う。ところがそのゆがみの中に、面白さを見つけたのは美濃の人たちだ。
焼き物の楽しみは、茶碗なら茶碗、鉢なら鉢を見るのではなく、その向こう側にある何かを感じる楽しみが潜んでいる。
左右対称の完璧な形だったら、面白みがない。
美濃陶には、不完全さというプラスアルファがあるから人の心をとらえてはなさないのだ。
ゆがみのある茶碗というものを、よくぞ考えたと思う。
洗いやすく、使いやすく、収納しやすいというのが食器だから、今の時代、あんなゆがんだものでお茶を飲もうなんて誰が考えるだろうか。四百年前に美濃の人たちが、窯の中で「ゆがみ」を焼こうとしたのは、類いまれな発想だと思う。
だから、粘土という素材を自然界から受け取って、独特の世界を創造した桃山時代の美濃は、陶器の原点だと思うのである。 |
平成24年12月16日 |
ニセモノはなぜ、人を騙すのか 中島誠之助 |
ホンモノを創造することは、人間の善意の魂がさせることだと思う。
与謝野晶子の歌のように、「劫初より つくりいとなむ殿堂に われも黄金の釘一つ打つ」
の「黄金の釘」を、自分も一つ打ってみたいと思い、黄金の釘でなくても、せめて真鍮の釘くらいでもいいから打とうと思って、毎日一生懸命世のため、努力しているのではないか。世のため、人のために仕事をすることがホンモノ造りなのだ。
そして、生きることに夢中な人間がホンモノのヤツなのだ。「あいつはホンモノだ」という言葉がある。
ホンモノの人間は、自分が善意で一生懸命に進んでいるのだ。 |
平成24年12月9日 |
ニセモノはなぜ、人を騙すのか 中島誠之助 |
ところで冒頭で触れた、私がひっかかってしまった「海揚がり備前の徳利」のその後はどうなったか。実は私もちゃんと手をうった。
手ごろなターゲットを見つけて、未熟なナカマに嵌め込んだ。
損はしなかったから、よかったと胸をなでおろしていた矢先、私に嵌め込んだ先輩業者からこんなことを言われた。
「そういえば、ナカジマ君、あの海揚がりの徳利どうした?」
「実は、よそに売りました」
「君も一人前になったなあ。いい腕になった」
やはりニセモノとわかっていて、私をひっかけたのだ。
もっと目利きになって腕を磨かなければ「やられてしまう」と、骨董商としての固い決意をしたきっかけとなったニセモノだった。 |
平成24年12月2日 |
幅広き街の啄木 東京都 田中善松 |
仕事場の団扇に書いてあった見慣れない漢字に目をとめていたら、親方が、
「それはとうもろこしと読むんですよ。幅広き街というのは札幌のことです」と教えてくれました。
翌日、親方は啄木全集とアルバムを持ってこられ、札幌や東京の話をしてくれました。
私の修業時代の数年間、いろいろなことを教わり、上京後もずっと見守ってくれた師匠でした。
あれから50数年たったこの度の北海道ツアーで、あの懐かしい歌碑に出会うことができました。
しんとして幅広き街の
秋の夜の
玉蜀黍の焼くるにほひよ
一人口ずさんでいると、やさしかった親方のことや修業時代のあれこれが、昨日のことのように思いだされ、屋台のむこうのテレビ塔が涙でかすんでまいりました。 |
平成24年11月25日 |
父へのひとり旅 神奈川県相模原市 目黒洋子 |
新宿まで出て、そこからは湘南新宿ラインに乗り小山で両毛線に乗り換えて、カタコトと関東平野を走り、富田までの三時間を超える父に会いに行く旅です。
利根川を渡ればふるさと 麦の秋
じゃあまたね 父と握手 冬すみれ
父あずけ 帰路のたんぽぽ 帰り花
三年半続いたこの旅も、終りになってしまいました。父は百歳で、母のところへ旅立ってしまいました。
明治・大正・昭和・平成と歩み続け、九十過ぎまで自転車に乗り元気でしたが、最終は介護ホームにお世話になったのです。
産土(うぶすな)の足利から離れることなく、老人会長までした父でした。
日帰りのこの旅は、下手な俳句作りに専念できる時間でした。
危篤の電話で駆けつけた車窓は、萱草の花が線路沿いに風にざわめいていて、この旅は終わりました。 |
平成24年11月18日 |
父 小林佳代子 昭和十八年生 |
昭和天皇と同じ年生まれを誇りにしておりました父も、今年九十七歳、もう何も話してくれません。
二年前の秋に入院以来、入退院を繰り返しましたが、今は、自分の部屋から、「空ゆく雲をながめ、鳥の囀りを聞く」 (父の好きな言葉です) 毎日を過ごしています。
父の年賀状には、毎年自作の短歌を添えることにしておりました。中でも私が好きなのは、
大も小 小も大なり 正中の
真美は 生命限り無き代を
侘助の 白花ほつほつと 咲き揃い
年を寿ぐなり 小鳥二羽来て
元気だった父と過ごした年月を心の糧に、今の父と私との時の流れをかみしめながら、気負わずに、共に生きる、共に過ごすというような看取りが出来たら、それでいいと思う今日この頃です。
(この原稿を書きました翌月、満月の夜、月の光に誘われるように父は旅立っていってしまいました。
百歳まではと、思っておりましたのに…・。父のことですから、私の体を心配して、もうこの辺でと気遣いをしたのかも知れません)
あまりにも 突然逝きし父なれば
ちょっと午睡の面ざしのまま |
平成24年11月11日 |
老いの至福 三谷千里 明治39年生まれ |
この6月1日で私は満92歳になりました。この様に長生きするとは予想もしませんでした。
私は十人兄弟姉妹の一番末に生まれましたが、中には早逝した兄や姉もいますので、その人達に代わってこの世をつぶさに見てまいりました。
行き昏るる 一生の闇を透かし見む
吸はるる如くに 芝に降る雨
大した苦労もせず、ごく順調に生きてきた私でも、年をとると感傷的になります。
我が家では年に一回芝生の上でバーベキューをいたします。
子供に孫、曾孫たち総勢16人集合し、まことに楽しく賑やかな時を過ごしました。
生きていて 幸せと思う 日も多く
老いは悲しき事のみならず
二十四年前、七十四歳で亡くなった夫に見せたい情景でした。
星影も さだかに見えぬ 老いとなり
自らに問う 生存の価値 |
平成24年11月4日 |
愛すべき名歌たち 阿久 悠 |
「いちご白書」をもう一度 昭和50年
作詞 荒井由実 作曲 荒井由実 歌 バンバン
〜いつか君と行った 映画がまた来る
授業を抜け出して 二人で出かけた・・・・・
この詞の中の映画が「いちご白書」である。この歌が発表される5年前に公開されたアメリカ映画で、80年代の後半、大学紛争で荒れるキャンバスでのこと。ノンポリ学生サイモンは、活動家の女子学生リンダへの恋心から政治活動に熱意を示し始める。ラストが涙するところで、バリケードを破って突入して来た警官隊に、二人は引き裂かれるのである。
当時のシンボルであった「いちご白書」が再公開された時、恋人のどちらかが、
〜君も見るだろうか 「いちご白書」を
二人だけのメモリー どこかでもう一度・・・・ と歌う。
この青春は昨日のことである。昨日のことは昨日のことのみずみずしさといたいたしさがあり、それは巧拙を超える。
〜雨に破れかけた 街角のポスターに
過ぎ去った昔が 鮮やかによみがえる…・
さて、今、街角のポスターから、昨日へ、ある時代へトリップするような上質の感傷があるのだろうか。 |
平成24年10月28日 |
愛すべき名歌たち 阿久 悠 |
時の過ぎゆくままに 昭和50年
作詞 阿久悠 作曲 大野克夫 歌 沢田研二
〜あなたはすっかり つかれてしまい
生きてることさえ いやだと泣いた
けだるい歌である。さらにけだるくなる。
〜こわれたピアノで想い出の歌 片手でひいては ためいきついた・・・・・
;と、まさに都会の片隅で、荒らぐことなく、細い吐息だけで生きている男と女の渇いた愛の歌で、ぼくの気に入りの歌ができた。
昭和50年、日本もぼちぼちだが贅沢になりつつあった。贅沢は物を手に入れることではなく、男と女の愛の中にけだるさなどという要素が入り込んでくるようになったことで、僕にとっては面白い時代であった。大体、怨念や情念は苦手の方で、虚無的な人間が、一瞬虚無を忘れて愛に溺れ、熱が冷めるとやはり虚無の中にあるというのが好きだった。
〜時の過ぎゆくままに この身を任せ
男と女が ただよいながら・・・・・
さらに詞は、
〜堕ちてゆくのも しあわせだよと
二人冷たい からだ合わせる・・・・・ と続く。
堕ちるという言葉を変えてくれと、プロダクションから言われたが、僕は頑張った。堕ちる歌なのである。 |
平成24年10月21日 |
愛すべき名歌たち 阿久 悠 |
港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ 昭和50年
作詞 阿木燿子 作曲 宇崎竜童 歌 ダウンタウン・ブギウギ・バンド
〜あんた あの娘の 何なのさ
港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ・・・・・
この歌を初めて聴いた時には、ちょっとした衝撃を受けた。正直やられたと思った。やられたの意味は「俺が書きたかった」に近い。
前年あたりからすっかり主流になっているフォークソング、またはフォーク調歌謡曲の、湿度の高いセンチメンタリズムに、「冗談じゃねえやい」と一撃を食わせたような快感が、このグループの登場にはあった。
〜ハマから流れて 来た娘だね
ジルバがとっても うまくってよォ・・・・・ それから
〜三月前までいたはずさ 小さな仔猫を拾った晩に 仔猫と一緒にトンズラよ と続く。そして
〜あんた あの娘の 何なのさ
である。一言一言に劇画のコマが浮かんで感心したし、悔しかった。昭和50年、僕は発奮した。 |
平成24年10月14日 |
愛すべき名歌たち 阿久 悠 |
学生街の喫茶店 昭和47年
作詞 山上 路夫 作曲 すぎやま こういち 歌 ガロ
ガロが歌う「学生街の喫茶店」は昭和47年に大ヒットした。『学生街』という言葉も、「喫茶店」という言葉も少し懐かしく感じられるようになった時代である。
詞の中に〜片隅で聴いていたボブ・ディラン・・・・・というのがあり、さらにそれが過去のことで、
〜あの時の歌は聴こえない、人の姿も変わったよ 時は流れた・・・・・とつながるから、たぶん、この学生が喫茶店へ出入りしていたのは、青春の挫折の1970年以前のことではないかと思えるのである。
全く、この年を最後に、青春を取り巻く環境が一変し、「学生街」も「喫茶店」もなくなってしまったのだから。
ボブ・ディランが流れる喫茶店も時代なら、僕の学生時代の、実存主義のアイドルといわれたジュリエット・グレコの歌が流れる喫茶店も時代であった。
ところで、ボブ・ディランを聴きながらコーヒーを飲む学生は、何を手にしていたのだろうか。
文庫本か、スケッチブックか、セロか、それとも、ヘルメットかアジビラか、メガホンか。
ふとそんなことを思わせる歌である。 |
平成24年10月7日 |
文人・藤沢桓夫 榊莫山 |
藤沢桓夫先生の展覧会が開かれるとき、私は何枚かの絵を頼まれた。
水墨の絵をかいて、どこかに余白を残しておくと、先生がそこに俳句を入れてくれる手はずになっていた。
一級の文人というのは、絵を見てたちまち、イメージがわくようだ。
わたしがお渡しした絵の一枚には、、大和は宇陀野の山家を書いておいた。すると、
夕月の 墨一色に 春の山
という、先生の句が絶妙なタッチで添えられていた。
絵はぼんやりと、気抜けしたような風景であったのに、賛の句を入れてもらったら、ムード満点、じつに美しくよみがえった。
ところで、青嵐燃える季節になったので、わたしは書斎に先生の書をかけた。
石蹴りの 少女ら去りぬ 桐の花
いかにも文人の書らしく、気負いもてらいもない書である。
わたしは、書はかくありたきものよーーーと思いながら、しばらく先生に見つめられている中で、仕事をすることになる。
この先生は、出不精で、人嫌いだった。
知友が集まって誕生祝いをしようという日、当の本人が会場の店先まではきたものの、何を思ってか、すごすご家へ帰ってしまった。
という話があるくらいだ。 |
平成24年9月30日 |
今日庵 榊莫山 |
「今日庵」は、裏千家のシンボルともいうべき席である。ときにはは裏千家のことを、今日庵というそうだ。
千利休の孫に、宗旦というすごいのがいた。だんだん年を取り、「隠居するには・・・・・」と、小さな一畳台目の席を作った。
江戸も初めの正保三年のことだった。
名刹・大徳寺に、清厳という名だたる僧がいた。清厳は、新しく出来た宗旦の茶室へ、招かれていた。
その日、大徳寺から裏千家へ、「こりゃ遅れたな、おそうなったな」と、つぶやきながら清厳は道を急いだ。
待っていた宗旦は、いっこうに現れぬ和尚に、しびれをきらし「明日来てくれ」と家人に伝言して家を出た。
やっと和尚が着いたとき宗旦はいなかった。
ずかずかと茶室に上がった和尚は「こりゃ、なかなかのもんじゃわい」と言いながら、腰の矢立を取り出して、こともあろうに茶室の腰張りに一筆。かいてすたこら寺へ帰っていった。
宗旦が帰ってみれば、書いてある、ある。
懈怠比丘 不期明日 (けたいのびく あすをきせず)
比丘は梵語で僧のこと。『怠け坊主のこのわしにゃ、明日のことはわからんがのう』というのだった。
そして二人の禅問答。宗旦とて、名だたる天下の茶人である。
今日今日と言いてその日を暮らしぬる
明日の命はとにもかくにも
と、心境を歌にして清厳に答えた。明日よりも、〈今日〉が大事というのだろう。
それより『今日庵』は、いまにつづく。茶の湯の心をまもりながら。 |
平成24年9月23日 |
河東碧梧桐 榊莫山 |
砂の明るさの
二本ともの
コスモスが倒れた
空の青さが澄む季節にくると、わたしはこの句を想いだす。
--明るい秋の陽のなかで、昨日までしゃんとしていた二本のコスモスが、ともに倒れてしまった--というのだが。
この短冊を、祖父がはじめてわたしに見せたのは、中学一年の秋だった。
「わしが死んだら、お前にやるが、売ったらあかんゾ」
それがいま、わかるどころか売るどころか、わが心の宝物の一つになっている。
すこしオーバーに言うなら、この挫折のイメージのかたまりみたいな碧梧桐の短冊に、何度も励まされたと思うし、それに祖父への思いも重なった。 |
平成24年9月16日 |
柔らかな犀の角 |
俳優の山崎努さんが、エッセー「柔らかな犀の角」を出版した。映画・舞台人による読書体験記には、未知の世界に開かれた心持や、悠々と老いを楽しむ心模様がにじむ。
主人公の少年が、与えられた場所を甘受する小川洋子さんの小説「猫を抱いて象と泳ぐ」には深い共感を吐露した。
「与えられた枠の中で生きるしかない。そこで自由をつくっていくのが本当の楽しさ」と常々感じていたからだ。
それは目先の快楽とは正反対の、工夫や労苦の果てにある達成感だ。
気に入っている言葉は「どんぶらこ」。肩の力を抜いて流れに身を任せる身の処し方は、読者にとっても心地よい。
「生きていれば、いろんな出来事が降りかかります。とりあえず受け入れて、自分の中で何が生まれるかを見るのが楽しみの一つ。
その快感、大切さを分かるのは年を取ってからでしょうね」 |
平成24年9月9日 |
啄木 2 榊莫山 |
石川啄木は、函館の立待岬に眠っている。津軽の早い潮流のかなた、下北半島をのぞみ、啄木の墓が立っているのだ。
「はたらけどはたらけど猶 わが生活楽にならざり ぢっと手を見る」
とつぶやいて、函館から小樽へ、小樽から釧路へと、北海の港をさすらった。吹く風は冷たく、無情であった。
その感懐をしるす啄木のペン字も、筆の字も、じつにうまい。単純な筆のはこびの中にさめた抒情をはらませる名手であった。
虚飾をさけ、饒舌をこばみ、その書の風景はみずみずしくて美しい。
「函館の 青柳町こそかなしけれ 友の恋歌 矢ぐるまの花」
このペン字の拓本は、函館の擂鉢山の歌碑である
しびれる哀感をペンにのせ、歌の字は絶妙に走る。啄木にとっての函館は、よほど悲しく、そして懐かしかったに違いない。 |
平成24年9月2日 |
啄木 1 三枝ミ之 |
望郷の人、センチメンタルな泣き虫。そして100年後の今も愛される国民的歌人。
石川啄木にはいろいろな特徴があるが、もう一つ、自分の居場所を見つけられない男でもあった。
「うすみどり 飲めば体が水のごと 透きとほるてふ 薬はなきか」
人はどんなとき透明人間になりたいと思うだろうか。自分を消してしまいたいという願望である。
そんな薬はないことを承知の上で望んでみる。現実への深く切ない失望がそこに現れている。
「何となく汽車に乗りたく思いしのみ 汽車を下りしに ゆくところなし」
どこかへ行きたい。しかし当てはない。だから汽車に揺られて、ここでもあそこでもない。束の間の空間を浮遊する。
啄木のこのような自画像は、心の置き場所を求めて漂流する現代の若者たちの感受性に近い。
多くの人々が離郷を余儀なくされた東日本大震災以後の今日、100年前の啄木の望郷が新しい切実として広がっている。 |
平成24年8月26日 |
ワープロ 吉岡忍(佐久市出身) |
90年代末、佐久で暮らす父から「使わなくなったワープロをくれないか」という電話がかかってきた。
教員を辞めて四半世紀、晴耕雨読の父は、六十の手習いどころか、八十七、八歳になっていたはずだった。
私はとりあえず携帯用のワープロを送った。
一年後の2000年晩秋、父から80ページの冊子が送られてきた。
それは父が若いころに勤務した、諏訪市の小学校の教え子たちが、喜寿を迎えたのを機に書いた作文集だった。
父は一人一人に宿題を課したらしい。集まった25人の作文をワープロで清書し、それをそのまま印刷所に持ち込んで、冊子にしてもらったのだ。
「八十八歳のこの野叟(野に生きる老人)は、読み、書き、考え、不器用にワープロを打つ中で、じつに多くを諸君から教えられ、『生きる』ことについても改めて考えさせられた」と、あとがきにある。
これが父の最後の著述になった。
それから九年後、父はあの世へと旅立った。 |
平成24年8月19日 |
川柳ふきよ大学 小沢昭一 |
方丈記 判る頃には 介護四 流山市 加藤義教
「ゆく川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたはかつ消えかつ結びて久しくとどまりたるためしなし」
重度の介護を受ける床にありて思いを致せば、うたた無常なる人の世。
すべからく空と悟りて、尿瓶に手を伸ばす。 |
平成24年8月15日 |
墓参り 七円の唄 誰かとどこかで 静岡県 大倉孝子 |
一年ぶりに父の墓参りをした。
私が10歳の時、父は定年退職。だから私は若いころの元気な父を知らない。
知っているのは、いつも無口で、たまに口をきけば小言。
口答えでもしようものなら物が飛んでくる、怖くてわがままな気の小さい病弱な父。
私はそんな父が嫌いだった。
何かの折に、母や姉から、子供が病気をすると父が寝ずの看病をして、子供を大事にする人だったときいても、私は全く信じられなかった。
それがわかったのは、父の、孫に対するなめんばかりのかわいがり様をみてからだ。
孫に会うと、手放しで喜ぶ父の顔は、私の知らない父の表情だった。
今思うと、父は老いていくなか、大勢の子供を育てることの不安やいらだちで、笑顔をみせるゆとりなどなかったのだろう。
「みんな、おとうちゃんのこと思って、墓参りに来てるんやから嬉しくないなんて言わんといて」
とお線香をあげながら、いま、むしょうに父に会いたいと思う。 |
|