平成30年の緋色窯日記に続く

平成29年12月31日 大晦日
私は70年の人生で、世渡り上手なやつに何度も騙され、貶められ悪評をたてられてきた。
嫌な思いをし傷ついてもきた。
でも、それはまじめで誠実で善良な多くの人達が味わってきたことでもあろう。
しかし、思えば、あの日があって今の私がある。暗い顔をしたところで同じ人生、明るく生きよう。
私も彼らも、いつかは死ぬ。だからみんな許そう。
この変心をもたらしてくれたもの、それが定年。
私は定年退職して一番良かったと思うのは、こういう心の汚い人と付き合わなくてよくなったことです。
映画では悪人が強いと面白いが、今、私の周りは善人で人柄のよい人ばかりで、本当にありがたいです。

そして、大きくいえば、無責任で強欲な政治家や役人に、お金も命さえも巻き上げられてきたのが歴史である。
テレビで見る政治家は、見るからに志が低くて無責任で、目を背けたくなるような人たちばかりです。
今年も政治家のスキャンダルが多かった。
下半身が暴走した女性政治家。暴言女性政治家は性格が悪すぎるし、政務活動費を架空領収書でだまし取る男性政治家。
ひどい話ばかりでした。
でも、世の中はこういう俺が俺がという悪党が、のさばっているんですよね。本当に始末が悪い。
こういう恥という言葉を知らない輩は、誠実でおとなしい善人を踏み台にしてきました。
いずれまた、みそぎを終えて世の中に出てくるんでしょう。

   眼に残る 親の若さよ 年の暮れ

年末のあわただしさ中、やはり忙しく立ち働いていた、若かった頃の親の姿が思い出されます。


平成29年12月24日 日記帳   吉行和子
日記帳はシュレッターですべて処分しました。その時の気分の良さ、せいせいしました。
過去の恋はゴミとなり、燃えてしまったのです。ザマーミロです。

  秘め事も 黴と同居の 日記かな
なんて一句を作ってみました。カビは生えていませんでしたが、過去はいりませんからね。
私に大切なのは、これからの日々ではないか、
う残り少ないその日々こそ充実させねば・・・・・

平成29年12月17日 あれから    阿久悠俵
「あれから」は、小林旭のために書いた詞である。「熱き心に」の八年後、平成5年に発表した。
〜 心が純で 真直ぐで
   キラキラ光る 瞳をしてた
   はにかみながら語る 夢 大きい・・・・
この歌い出しの詞に、ある時代からこっち日本人が失ったものが、全部入っている。純も、キラキラも、はにかみも、夢もである。
と思っていたら、これらのすべてを満たしている人達を見た。ノーベル賞のお二人である。
一般的には若い田中耕一さんの人気が高かった。
素朴で、シャイで、控えめで、そういえばその昔、僕らの周辺にはこういう人がいっぱいいたな、と思わせたのである。
しかし、この田中さん、僕が見たところ、誰の真似もせず、自分そのもので生きている信念の人であって、決して和ませようとしているわけではない。
もう一人の小柴昌俊さんは、こんな大人がもっといたら、日本の若者はずっと幸福に、立派になれるだろうと思わせる堂々の人物で、ぼくは、授賞式後のダンスのことを訊ねられて「あたしゃ ごめんこうむります」と言ったのには、芯からしびれてしまった。

平成29年12月10日 老楽笑歌
  寿命より 貯金が先に 逝っちまい
  茶柱が 立った見合いで この暮らし
  居ては邪魔 居ないと困る 旦那様

平成29年12月3日 さようなら江國滋さん    瀬戸内寂聴
江國さんは癌告知を受けてすぐ、電話で私にそれを知らせてきた。
「医者が何と言ったと思いますか、高見順と同じですって。ヒドイでしょう、そんな言い方って」
これは大変だというショックで、胸が痛くなった。
「でも、これで俳句の大傑作が生まれるでしょう。それをやらなきゃ」
「そう、そうなんですよ。もう作り始めています。いくらでも作れるんです」
「命をかけたものは傑作に決まっています」
「そうか、命をかけているのか」江國さんはその後、急に沈黙した。
俳句は私は一応束修も収めて弟子入りをしたのだが、二回しか見てくれなかった。弟子の才能を見限ったのであろう。
江國さんのお葬式。私は初めて葬儀委員長というものを勤めた。
勢津子夫人から手渡された骨壺の箱の意外な重さにどきっとした。
「ほら、最後にびっくりさせてやりましたよ」
江國さんの笑っている遺影がそういって私を見下ろしているようであった。
生き長らえるということは、愛する人々の死を見送る辛さを劫罰として受けることのようである。
師匠の句の真似をして弔句ひとつ。
  あの人が あの人が ガン死 夏終る

平成29年11月26日 石浜淳美
日本では昔から「女房と畳は新しい方がいい」などといわれているが、近頃は「亭主とキッチンは新しい方がいい」などといっている。
これはお互いに、古女房、古亭主とのマンネリ夫婦生活には刺激が不足しているということだと思われる。
こうした現象は人間社会だけに見られるものではない。例えば、雌羊の群れに一匹の雄羊を与えておくと、その羊の群れは交尾しなくなる。その時、別の雄羊を入れてやると、にわかに交尾を始め子羊が生まれるという。これを「クーリッジ効果」といっている。
これを人間に当てはめるならば、古女房では性欲も起こらないが相手を変えればまたできるというということであろう。
新婚当時は毎晩行っていた夫婦も、年数が経つにすれて冷めていくというのは悲しいかな物事の真理である。
「クーリッジ効果」のクーリッジとは、第30代アメリカ大統領の名前であり、この大統領が国立農事試験場を視察した時のこんな逸話が残っている。
大統領夫婦は別々に試験場を見学して回り、養鶏場の方には夫人が先に行った。
案内人が、オンドリは一日に数十回は交尾するというと、夫人は、その話をあとで夫に話して頂戴と頼んだ。
しばらくのち大統領が来た時、、案内人が夫人に言われた通り、オンドリの交尾数の話をすると、大統領は、「君、それは同じメンドリが相手か」と問い返した。「いいえ全部相手が違います」というと、それを聞いた大統領は「そのことを女房に話してくれ」といったという。
それ以来、相手を変えると性能力が回復することを、この大統領の名前をとって「クーリッジ効果」というようになったらしいが真偽のほどはわからない。

平成29年11月19日 着物
日本の着物がなぜ衰退したか。
絹糸は中国製、作るのはベトナム。
自国の衣装が自分で着られない国民。いま、一人で着物を着られる人が何人いるのか。
「伝統」と書いて「ぼったくり」と読む。
小泉八雲は、「怪談」など日本に関する英文の印象記や随筆、物語を発表した、日本人以上に日本の風土や精神を理解したイギリス人です。明治三十七年四月に早稲田大学の講師になったが、この時期は短かった。九月二十六日には狭心症のために亡くなったからである。
九月十九日に狭心症の発作を起こした時に、彼は
「自分が死んでも決して泣いてはいけない。小さな瓶を買って骨を入れ、田舎の寂しい寺に埋めてほしい。私が死んでも知らせることはない。もし人に尋ねられたら、『先ごろ亡くなりました』と言ってくれればそれでよい」と、妻の節子に伝えたという。
しかし、日本に尽くし従四位を贈られた人物の骨を瓶に入れて田舎の寂しい寺に埋葬することは出来なかった。
結局、雑司ケ谷の霊園には「小泉八雲の墓」と書かれた墓が建てられた。戒名「正覚院殿浄華八雲居士」。

平成29年11月12日 俵萌子の陶芸暮らし
細川護照さんの工房で…
"山居暮らし"という細川さんの私家本に出てくる一文。

「日暮れ途遠し 我が生既に蹉駝たり 諸縁を放下すべき時なり」
この文章は、細川さん自身の解説によると、次のようになる。
「自分の余生も余すところそうあるわけではない。来し方を振り返ると 世俗的なしがらみや雑事に振り回されてここまで来たが、ここで立ち止まって深刻に考えないと取り返しのつかないことになる。これからはやれ葬式だ、結婚式だなどといった世俗的な付き合いも失礼して、ただひたすらに自分自身の魂の平安と充実の為だけに生きていきたい」
この私家本で面白かったのは、インタビューのくだり。
ーーー自作に値段をつけるとしたら?
「サァー・・・。売るほど安いものはつくっていないからね(笑)」

平成29年11月5日 俵萌子の陶芸暮らし
私は「窯家族」という言葉を愛する。「同じ釜の飯を食った仲間」をもじって「同じ窯で作品を作る仲間」を"窯家族"と呼んでいた。
人間同士だから、さまざまな葛藤はあるにせよ、一つの窯を中心に出来上がる人間関係は得難いものではないのか。
ひょっとすると、"窯家族"は、後半の人生の大切な財産になるのではないか。
そう思うと、頑張って、今年も何かやらなくては・・・・・という気持ちになる。

平成29年10月29日 俵 萌子の陶芸暮らし
陶芸家といっても、いろいろなタイプがある。初心者が幼稚なことを質問しても、丁寧に答えてくれる人がいる。
何でも教えてくれる人もいる。かと思えば、何を聞いても、「それは"企業秘密"ですネ」といっさい口をつぐむ人もいる。
さらに言えば、一応親切にいろいろ教えてくれるのだけれど、肝心のところだけは、全部その人がやってしまうので、結局私にはわからない。という不思議なタイプの人もいる。
私がいちばん畏敬の念を感じたのは、何でも教えてくれるタイプの陶芸家だった。しかし、ほんのわずかお付き合いしてみれば、
すべてを教わっても、決してその人と同じようには出来ない)ということに気づく。
いや、逆に言えば、その人は、すべてを教えても、相手が同じようには出来ないということを知っているから、平気で教えるのではないか。
(芸術とは、そういうものではないのか。芸術家というのは、そういう誇りを持っている人ではないのか) と思う。
すると、ますますそのタイプを尊敬してしまう。

平成29年10月22日 全力疾走の日々   西島 とよ子(74歳・長野市)
「おかあさん、まいにちしごと、いそがしい。おかあさん、まい朝ごはん作るの、いそがしい」
すっかり茶色に変色した半紙に、大きなしっかりした字で書いてあった。
冬ごもりの時しかできない本棚の整理をしていたら、黒いホルダーの中におさまっていたのを見つけた。
絵を描くのが得意な当時小3の次女が、私の誕生日に描いてくれたのだ。
仕事を優先せざるを得なかったあの頃、母親のことを、幼いながらこのように受け止め、理解してくれていたのだと、今更驚き、胸が熱くなった。
平日は会社勤務、休日は畑仕事という兼業農家であった。末の子が2歳のころ、玄関まで泣いて後を追われ、後ろ髪を引かれる朝があった。3人の子が同時に小学生だった年の参観日には、足早に三つの教室を回り、また職場に戻っていた。
事務服のまま行った私に「今度来るときはスカートはいてきて」と次女に嘆かれた。
いつも忙しいだけの、配慮の足りない母親であったに違いない。
今まさにその子供たちが成長し、子育てに、共働きにと奮闘中である。
私の頃とは時代も取り巻く環境もだいぶ違うが、最も活気にあふれ、最も充実している時期でもある。
窓の外は雪降りやまず・・・・・。遠い昔の全力疾走の日々に思いをはせる。
とても片づけられない物ばかりだ。ほこりを払い、丁寧にまた本棚に戻した。

平成29年10月15日 石井英夫
東京・神田の古本屋で見つかったという大正の画家・竹下夢二のアンケートは興味深い。
『貴下の最も好まるる』ものは、という質問の「一日のうちの時」に「夢のさめぎわ」と書き込んでいる。
いま夢二の描いた絵の中の女や男たちは、さめた夢のように消え去ってことごとく遠い。
「黒船屋」や「女十題」には、やるせない表情で身をくねらせる女、顔を覆って悲嘆にくれる男が、大正の憂愁を訴えていた。
一番初めの著作は26歳の冬の「夢二画集 春の巻」で、巻頭には
「波は淘去し淘来せり / 人は/いずこより来り / いずこにかゆく」という詩をかかげている。
恋愛遍歴と放浪漂泊、名声と失意のくりかえしも、もとより覚悟だったのだろう。
昭和九年、五一歳で信州のサナトリウムで死んだとき、スケッチブックに書きつけた
「日にけ日にけかっこうの啼く音ききにけりかっこうの啼く音はおほかた哀し」が辞世とされた。
夢二にとって死は、夢の入り口でなく、「夢のさめぎわ」だったのではないか。
(92.1.22)

平成29年10月8日 榎本勝起
小津安二郎監督の「東京物語」
広島尾道から、東京の息子・娘夫婦を訪ね、帰ってきた老いた親。笠智衆・東山千栄子さん。
「こども達、みんなに、逢うことも出来て、もう思い残すことはありませんよ、あなたぁ」
「かぁさん、縁起の悪いことを言うもんじゃない」  
そんな会話が、急な別れを連れてくる。
行く夏の午後、茶の間、一人、肩の落ちたゆかた姿の笠さんに、隣人が声をかける。縁側から如才なく。
「お寂しいことでございましょう」
「はぁ、突然、こう、一人になりますと、急に、一日が長くなりますなぁ」
「気のきかんヤツだと思っとりましたが、こんなことになるんなら、もっとやさしくしておいてやれば良かったですわ」
やさしい尾道の海、小型の船が、のどかな音を立てて遠ざかりつつ 「終」。

平成29年10月1日 母     富士真奈美
子育ては大変だったが、ここまで育ってしまうと、あとはこちらがモトを取る番であろう。
大いに心配をかけて子守ならぬ親守をしてもらいたい。
いや、実際には子供の面倒になぞなるものか、迷惑をかけて嫌われるようなことは絶対にしたくない、と思っている。
シモの面倒をかけたばかりに、親でもなければ子でもない嫌悪の対象になり、厄介者扱いされるようなことになっては、といまから固く己れを戒めている。
   紫蘇畑の風に影して母軽し     小林康治
ふと故郷の母を思った。数年前まで、梅を漬けて各地に散らばった子供たちへ送ってくれた老母。もはや梅を漬けることもままならぬ。
人は順繰りなのだ。寂しいが、真実である。

平成29年9月24日 ニュースキャスター  筑紫哲也
その無知を思い知らされるのは敗戦後のことだった。
この「聖戦」に疑いを持ち、ごく少数だが反対の人すらいた記録が次々と出てきた。
疑うことの大切さ、そのためには無知の対極である知が大切であると思い知った少年の私は、戦時中のあの圧倒的抑圧の時代にそれを持ち合わせていた人達に敬意を抱いた。 初めのうちは・・・・・。
だがその少年は腹を空かしていた。自分たちにそんな境遇をもたらした大人たち総体への「恨」である。
「あんな戦争には賛成ではなかった」という大人や、抵抗した大人も、例外とはならなかった。
「だけど結果としてあんたらはそれを止められなかったじゃないか」・・・・・。

私の世代は、年長者への敬意をひどく欠いた世代である。その人が年上であることが自動的に尊敬の対象となることはまずない。
大人に向かって、こういう世の中を次の世代にもたらした、総体としての世代責任、結果責任を「恨」の眼差しをこめて問うてきたかっての少年は、今逆にそれを問われる立場にいる。
なかでも、世間に向かってモノを言う「キャスター」と呼ばれる仕事から逃げ出したい衝動に駆られることが私にはしばしばある。
だが、結果責任から逃れられる大人などこの世にはひとりもいない。

平成29年9月17日 ニュースキャスター  筑紫哲也
「9.11」が「世界が変わった日」なら、「1.17」は「日本が変わった日」であり、天災と人災のちがいがあるが、「安全神話」が大きく揺らいだ。
世界貿易センタービル近くに住んでいる青木富貴子さんはその生々しい体験を「目撃・アメリカ崩壊」に綴っているが、興味深いのは事件直後のニューヨーカーたちが柔和で他人に優しくなったという描写である。
現場に近い友人に聞くと『確かにそうだったけど、そんなもの2週間と持たなかったわ』と言う。
神戸は「国際都市」の近代的な装いにもかかわらず、地域社会の濃密な人間関係が健在だった。
こんな状況でも、優しく健気でもある日本人に誇りを感じる瞬間がこの悲劇の中に多々あった。
が、日本という『システム』。はひどかった。
ニューヨークの場合、人々を結束させたのは、テロ攻撃を加えてきた「敵」への怒りと憎しみ。そして多数の犠牲者を出した警察と消防は英雄となった、
「敵」が見えやすい人災と違って、地震のような天災には怒りのもって行きようがない。しかし、「先進国」を名乗ってきた国としてはあるまじき犠牲を拡げてしまったことに人災の面がなかったのか。
標的にまずなったのは、総理大臣等の政府首脳、知事、市長を含む、この国と地域を統治しているはずの「システム」だった。
不測の事態、危機に際して、それはいかに無力、無能であるかをさらけ出してしまった。
そんななかからはいかなる「英雄」も生まれなかった。
それだけではない。戦後、民主主義の衣をまとったものの、この国のシステムの中枢に君臨し続けた行政機構が、その実、いかに「民」に対して酷薄な、当てにならない存在であるかをまざまざと見せつけた。
カレル・ヴァン・ウォルフレンがいみじくも名付けた「人間を幸福にしない日本というシステム」が露出したことが、”神戸ショック”のなかでも、その後に続く心理的損傷として最大のものだったと私は思う。

平成29年9月10日 ニュースキャスター  筑紫哲也
テレビにコラム欄を作ろう。毎日、長さは90秒、一人しゃべり、タイトルは「多事争論」。これは福沢諭吉の代表的著作「文明論之概略」に出てくる福沢の造語だが、私にとっていわば座右の銘に近い、大切な言葉である。
  「単一の説を守れば、その説の性質はたとい純精善良なるも、之に由りて決して自由の気を生ず可からず、自由の気風は唯多事争論の間に在りて存するものと知る可し」
平たく言えば、「なるだけ多くのことをなるだけ論じあったほうがよい」というのがその意だが、当たり前のようでいて、それができないできたのが今にいたる日本近代だと私は思っている。
国でも組織でも、少しでも困難に対面すると「小異を捨てて大同につく」ことになりがちだし、常日ごろでも、「長いものには巻かれろ」「赤信号みんなで渡れば怖くない」とばかりに、「単一の説」に流れ込む風潮が強い。「自由の気風」が高い価値を持っていない社会だからである。
だが、付和雷同の「単一の説」がとれだけ国を誤らせ、人々に厄災をもたらしてきたこととか・・・・・

平成29年9月3日 ニュースキャスター  筑紫哲也
では、そういうおまえは一体どうなのか。「北風」と「太陽」と、どちらを志しているのか。ニュースキャスターということでよく引き合いに出される久米宏氏とどう違うのか。
そのインタビューを見た人は、本当にそこに人食い魔、ハンニバル・レクターがいるようで恐ろしかったという。「ニュースステーション」に出演した時の名優アンソニー。ホプキンス。映画「ハンニバル」で受け取った史上最高の出演料を何に使うつもりか、という久米さんの問いに「余計なお世話だ」とホプキンスは答えてそのインタビューは始まり、最後に握手を求めた久米さんに目を向けず手だけ差し出して去るボディ・ラングェッジでそれは終わった。その日の昼間、私もインタビューのためにポプキンスに逢っていた。私の目的と興味は、この人物そのものに在った。珍しい存在である。若い頃はパッとした俳優ではなかった。が、年齢を重ねるにつれ輝きを増し、「サー」の称号を持つ名優となっていった。老境に入ってから脚光を浴びることになったポプキンスが、どんな心境で自分の人生を眺めているのかを知りたいと思っていた。
そう断った上で始めたインタビューで、相手は寛いだ感じで、ときには顔をくしゃくしゃにしたような表情を見せながら、己を語った。
私の番組と久米さんの番組では全く別人といってよいポプキンスを視聴者は見ることになる。しかし、どちらも本人にちがいがない。
ただ、「北風」と「太陽」ということでいえば、この例では久米さんは前者、私は後者のアプローチをとったとはいえるだろう。

平成29年8月27日 ニュースキャスター  筑紫哲也
イソップ寓話の中に『北風と太陽』という話がある。
韓国の金大中大統領の対北朝鮮融和政策が「太陽政策」と呼ばれるのも、この寓話に因んでいる。
インタビューということを考える時、私はいつもこの寓話を思い浮かべる。
ただ、寓話の常として、イソップでは勝者は太陽と答えははっきりしているのだが、現実はそうはいかないし、必ずしも太陽が勝者とも限らない。
日本で「北風」の達人といえば田原総一郎氏だろう。遠慮会釈なく切り込み、相手を問い詰めていく手法で彼に勝る人はいない。
田原氏の功績として大きいのは、建前と玉虫色で終始しがちなこの国のありよう、とくに政治の世界でのそれを、絶えず突き崩していることだと私は思う。
だから、あいまいにごまかして事を運ぼうとしてきたことが、日曜日の彼の番組『サンデープロジェクト』で、その矛盾を突かれ、元の木阿弥になってしまったり、政治家が言質をとられて後々まで苦しんだりというといったことが起きる。
テレビとは”軍鶏の蹴り合い”つまりケンカがおもしろいメディアであることを、テレビ人である彼は良く知っている。
挑発的であることが、議論を活性化させる。
「論」をやりたがらない、避けようとする社会のなかで、これは貴重な挑戦である。

平成29年8月20日 人生の秘境   やなせたかし
年をとってくると時間の経つのが速いとは聞いていたが、なるほど年々速くなる。風のように光のように時間が飛び去っていく。毎日めまぐるしくアタフタしながら暮らしている。
このままいけば気がついた時は火葬場の煙になって消えているんだ。情けない。
でも八十歳過ぎると人生のマニュアル、つまり手引書のようなものが何もない。
毎日が新鮮なびっくり仰天、未知の世界への冒険旅行だから面白い。
人生というのは後半の方が面白い。年をとってから解ることも多い。
若い時夢中になって読んだ小説が青臭くって幼稚に見えてくることがある。
老人になると枯淡の境地になるのかと想像していたが、僕の場合でいえば全然枯淡にはならない。よほど低級な俗人に生まれてしまったんでしょうね。お恥ずかしい。
すてきな異性を見ると心がときめく。恋する心もある。これは自分でも意外だった。
この世界でも、年はとっても精力絶倫という豪傑もいる。残念ながらぼくは世間並以下で、本心は残念無念口惜しいのだが、こればっかりはしょうがない。その代り、スキャンダルとは全く無関係で天使のように清潔に暮らしているから、アンパンマンの作者としては好都合である。
とにかく老境は人生の秘境であることは間違いない。

平成29年8月17日 線香花火
夏の終わりは、線香花火でしめたいものです。
線香花火のはじめから終わりまでの変化を「牡丹」「松葉」「柳」「散り菊」と表現するそうです。
線香花火の儚い情緒を感じる心は、貴方自身を美しくさせることでしょう。

平成29年8月15日 あなたはいつもそこにいる   海野兼夫 六十歳
私の親父は明治生まれでした。
ずいぶん過酷な人生でしたが、東京下町の暮らしで、しらずしらす身についた「風流」というものを愛して、ちょいと自慢でもあったようです。
相撲や寄席や、浅草や葛飾、いろんなところに出かけて楽しんだ日々のことを、よく思い出しては語り、懐かしんでいました。
それが、東京にいた頃は稼ぎも結構良かったのが、田舎に戻ってからは腕をふるえる職にもありつけず、「身なりは着たきりスズメ、財布はシジュウカラ」と自分で言っていたとおりの暮らしでした。
その「風流」ですが、親爺は川柳をやっていて、田舎に戻ってからもそれだけは楽しみに続けていたんです。
やっとありついた仕事が、ある高校の用務員の職、仕事に上下はないというものの、その高校のすぐ近くに私の小学校があって、遠足なんかで通りかかると小柄な親父がゴミ焼き場で悪戦苦闘、私は冷や汗をかきながら足早に通り過ぎた覚えがあります、
そこの校長先生は立派な方で、親爺が川柳をやっていると聞くと、定時制の生徒の励みになるものをと声をかけてくれ、親爺のつくった標語みたいなものを額に入れて校長室に飾ってくれました。
夕飯かなんかで安い酒をちょいと飲んでは、
  屁をひって おかしくもない 独り者
とか、
  こいつらが 何を笑うと 隠居の屁
とか、江戸川柳を聞かせてくれました。面白かったですな。
八十を過ぎて亡くなりましたが、霊園に墓が出来て、見に行くと、横並びの墓の列に、「いろはにほへと」と番号がふってあって、親爺のは、「への五」。みんなして泣き笑いしてしまいました。
親父が死んでから二十年、定時制高校が廃止になり、その記念に親父の句が高校の玄関を入ってすぐの所に立派な石碑になりました。
除幕式に呼ばれた姉から来た手紙に同封された新聞には、大きな石碑の写真。
  働いて 学んで若さ つつがなし
その写真を見つめながら、私が思い出していたのは、あの遠足の日、親爺がゴミを抱えて奮闘する姿でした。

平成29年8月13日 やなせ たかし
働き盛りとか女盛りとか花盛りとか伸び盛りとかいいますね。
僕は今、衰え盛りである。一日一日年老いていく。でもこれは自然の摂理だから嘆いてみても仕方がない。
どうせなら、衰え盛りを派手に面白く人生の最後の道は微笑して辿りたいね、なんて気障な奴 (ぼくのことですけどね)
けれども、医学の大進歩のおかげで衰え盛りもなんとか生き延びていられる。
そして、そうやってせっかく生きているとすれば、やはり自分も楽しく、他人も楽しくすることだけ考えていたい。
他国へミサイルをぶち込んだりする人はいったい何を考えているんですかね。衰え盛りのぼくには全く理解不可能である。

平成29年8月6日 俵万智
「日本一短い母への手紙」の入選作の中に、こういうのがあった。
「おかあさんのおならをした後の 『どうもあらへん』 という言葉が私の今の支えです」
どうもあらへん・・・・・いい響きだなあと思う。おおらかで、素朴な人柄の母親像が、この短い言葉から浮かんでくる。
小さいことにいちいち気を使ったって、疲れるだけやよ。そんなこと、どうもあらへん、どうもあらへん。
日常の中で、ふとしたことに行き詰る。そんなとき、母親の口ぐせのようだった 「どうもあらへん」 が、作者の耳に聞こえてくるのだろう。
そして、おまじないのように口ずさむ、「どうもあらへん、どうもあらへん・・・・・」

平成29年7月30日 俵万智
  白抜きの 文字のごとあれ しんしんと新緑をゆく われのこれから       安藤美保
人は悪意にはすぐ気づきますが、善意や好意にはなかなか気づかないもの、ささやかな優しさを、感じ取ることのできる心を培っていきたい、と思います。それは、自分のなかに、ささやかな優しさを持ちつづけたい、という思いでもあります。

平成29年7月23日 俵万智
「たそがれ」の語源が、「夕方は人の姿が見分けにくいので『誰そ彼?』と尋ねるところから」と知ったのは、たしか高校生の頃だった。なんて洒落た語源だろうと感じ入った。
同じような語源を持つ言葉に「かわたれ」という語がある。こちらは「彼は誰?」。
「たそがれ」よりも、少し明るい印象を受ける言葉だ。
はじめは、「たそがれ」も「かわたれ」も、明け方や夕方の薄暗い頃を表していた。
が、次第にたそがれは夕方、かわたれは明け方に、多く用いられるようになった。

平成29年7月16日 立川談四楼
「世の中で澄むと濁るは大違い、ハケに毛が有りハゲに毛が無し」
昔の人はうまいことを言ったものである。
東京キー局の女子アナが、関東近県への一泊旅行を紹介した。さて、エンディング、彼女がこう締めくくり、騒ぎに火がついた。
「週末はカップルでご夫婦で、ぜひ一発旅行をお楽しみください」
彼女の不幸は生放送であることと、この時点で番組が終わってしまったことである。
録画や番組の途中であれば訂正し、言い直すことも可能であるが、しかししかし番組は言いっぱなしで終わってしまい、視聴者の耳には「一発旅行」という、実は本来の目的である一言が鮮やかに残ったのだ。
私としても同情は禁じ得ないが、それにしても思い切ったことを言ったものだ。ありがとう、素晴らしいネタを。

平成29年7月9日 立川談四楼
前座の言い訳はご法度である。
「言い訳をするその口でなぜ謝らねえ」 と雷が落ちること必定で、落語界というところ、とにかく謝っちゃえ、頭を下げろ、下げてるうちに小言は頭の上を通る、という世界なのである。
だいたい冷静に小言を言う人は少ない。
カッとくるから小言を言うのであって、小言は不快感の解消、吐き出してしまえばスッキリするのである。
スッキリすれば余裕が生まれる。でどうしたんだと質問があり、そこで初めて実はーーと言い訳ができる。
その言い訳や説明によって、師匠はたいがい軟化する。
時には誤解してた、ゴメンよなどということになり、まず謝るというのが鉄則なのである。

平成29年7月2日 魯山人おじさんに学んだこと      黒田草臣
ある夏の夜、小山富士夫宅でガーデンパーティーをすることになった。
これを聞いた魯山人は二階堂の小山宅にやってきて、おもむろに風呂敷包みを拡げると、
「みなさん、ビールも酒も飽きたでしょう。僕が煮ふくめた身欠きにしんを持ってきたので召し上がってください」と鉢に盛りつけた。
「奥さん生姜を沢山おろしてくれませんか、氷と砂糖を少々・・、それとジンをください」 小山夫人はあわてて指示に従う。
魯山人は鉢に生姜を絞り、ビールを開け、ジンと砂糖を加えながら味見をし、これをグラスにとりわけ、「どうぞ、どうぞ」とすすめた。
一同は鰊の美味に舌鼓をうち、目の前で出来上がった魯山人風ジンジャーエールの新鮮な味に大感激。これを見て魯山人は、
「じゃあ、失敬」
と待たせてあった車で風のごとく走り去った。
魯山人は人を喜ばせる名人である。人の意表をつくことで人を感動させる。そのつき方が鮮やかなのだ。

平成29年6月25日    魯山人おじさんに学んだこと      黒田草臣
独立してはじめて企画した「小さな焼きもの展」は普段使える陶芸作家の器を扱いたいと思った。
依頼に伺うと好意的な作家が多かったが、もちろん
「私は作家である。先生である」と偉ぶる作家も多かった。
食器は雑器だと決めつけて、「そんなものは弟子に作らせる」というのだ。
「そんなの(食器)は職人さんのやること、食器を作ったら陶芸家としての自分の価値が下がる」といった作家さんもいた。
「小皿一つできないのか、もう二度とこの作家の敷居は跨ぐまい」
と何度、思ったことか。若かりし日の思い出である。

平成29年6月18日 魯山人おじさんに学んだこと      黒田草臣
魯山人の陶芸の中でもっとも量的に多い作品といえば織部だろう。昭和五年に豊蔵が美濃大菅で志野の古窯址を発見してから、志野や織部の再現に努めた魯山人は、唐九郎の築いた瀬戸窯で本格的に志野、織部、黄瀬戸の作品を焼成するようになった。
織部のもつ深遠な味わいを好んだ魯山人は、星岡茶寮で料理を引き立たせるものとして扇面鉢や兜鉢、向付などを多用している。
織部釉の原料は土灰と二酸化銅の組み合わせで作られるが、これを還元炎で焼成すれば鮮やかな辰砂といわれるものとなり、酸化焼成すると緑釉となる。織部は高温になると色が飛んでしまう。魯山人の織部作品の中に辰砂のように赤い発色が多いのも登窯が還元焼成気味だったことを物語っている。

平成29年6月11日 魯山人おじさんに学んだこと      黒田草臣
父の使いで鎌倉の川端康成邸に二・三度配達に伺ったことがある。由比ヶ浜通りから路地を入った数寄屋造りのお宅だった。
川端康成は陶芸品が好きで、父のお得意様だった。
  「やわらかい、夢のようで、いい志野は僕らも好きですね」    「千羽鶴」の一節
美濃山中の五斗蒔峠付近には独特の藻草土があり、志野はこの土で焼かれる。そのザックリとした土は、かさの割には持ったときの感じが軽い。しかも、ボッテリとした長石釉とあいまって志野茶碗をより温かみのあるものに仕上げてくれるのだ。
藻草土は、まだ粘土化の進んでいないピンク色の「若い土」。現在、手に入る藻草土は材料屋で調合して作ったもので、本物の藻草土をみたことのない若い陶芸家が大勢いる。みんな「幻の土だネ」とあきらめ顔でいう。
藻草土は砂目が多く、粘りが少なく薄作りや細工物などには適さない。薄く挽こうとすると崩れてしまうから、分厚い、ゆったりとした志野茶碗が出来たのだろう。
「バサバサしていて作りにくい土なんですよ。だから志野のおおらかさが出た。作りやすい土はあまり面白くないので作りにくい土をだましだまし作ります。できないから一生懸命作ります」 と可児郡御嵩の加藤孝造はいう。

平成29年6月4日 魯山人おじさんに学んだこと      黒田草臣
焼きものを語るときに世界に知られた小山富士夫の名をいわぬ人はいない。明治33年3月、父親が富士登山した後に、岡山県玉島に生まれたので「富士夫」と命名された。富士夫は昭和47年に、鎌倉二階堂から土岐市の招きで美濃の古窯址が集結する五斗蒔峠近くに越してきた。大きな花の木のある静かな山間に種子島焼とほぼ同形式の穴窯を開窯し、翌年5月、初窯を焼いた。
窯出しの日に花の木窯に伺うと、すかさず酒宴となる。酒はウォッカとジンを半々に入れた、古山子特製「花の木カクテル」。私にはとても強くて飲めなかった。
けっして、土に逆らわず、人一倍早い回転の轆轤で、一気に挽きあげる。一見無造作であるが、誰にも真似のできない鋭い高台と口作りには独特の雰囲気と味がある。
お気に入りの花の木を眺めながら好物の酒を飲んで、悠々自適の晩年を過ごすはずだったのが、わずか4年の花の木窯となってしまった。それは、蛇窯の窯焚きをしている時だった。頭痛がするといって、二階に上がり、長年集めた所蔵品に囲まれた寝室で、1975年、心臓発作で一人、波乱万丈の七十五歳の生涯を閉じたのである。

平成29年5月28日 魯山人おじさんに学んだこと      黒田草臣
私がもっとも好感を抱いた備前の陶芸家は金重道明である。一点一点、丹念に制作し、赤子に頬擦りするように作品の手入れをする姿をよく見かけた。「食器はむずかしい。備前に本当の食器ができる作家がいなくなってしまうのでは・・・・」と嘆いていたのは、亡くなった年の7月頃であった。「本当の」というところに力を入れた声がいまでも耳に残っている。
備前で焼かれる食器は、無釉ゆえ、肌触りの悪さや硬さが嫌われる。しかし、長時間、赤松で焼かれた備前作品は、火襷、牡丹、胡麻など千変万化の窯変を造りだし、赤、青、黒、緑、灰色の器肌を呈する。人の手に触れ、使えば使うほど手に馴染み、しっとりとした土味が何ともいえない親しみを感じさせてくれるのだ。
備前中興の祖、陶陽を父にもち、終始、備前の土に愛情をもって、自らに厳しく作陶する人柄、まさに備前陶芸界の重鎮だったが、惜しくも六十一歳で帰らぬ人となった。

平成29年5月21日 魯山人おじさんに学んだこと      黒田草臣
焼きものである陶磁器が「用の美」といわれるからには、使う楽しみと見る楽しみを兼ね備えていなければならない。
客をもてなすことができ、日常生活の中に溶け込んでいる使いやすい器が、「用の美」をもつ器だと思う。
しかし残念なことに食器類は決められた寸法で作られている。多くは熟練した職人によって画一的に作られたものだ。
陶芸家と呼ばれる人たちが、このような器を作るならば熟練した職人さんになどにかなうはずがない。
それでも、「食器だから」と画一的な寸法で釉調や絵付けも同じものをつくろうとする陶芸家には疑問を抱く。
なぜ、食器なら画一的でよいというのだろう。このような器には人の心を打つような芸術性はない。
むろん、造り手が各々の個性を発揮することは容易なことではない。
しかし、一つの見本から同じようにコピーするのは窯元の職人さんのすることであり、個人の陶芸家なら、それぞれ違う個性を持った器を作って「当たり前」だと思う。
陶芸家と呼ばれるならば、同じ上釉をかけて焼成した器が炎の当たり具合で釉調が違ってしまうことを恐れずに制作してほしい。
無難な焼きを求めることは、数をそろえる職人さんの仕事だ。

平成29年5月14日 現代学生百人一首
 ペダル踏む 十三キロの往き帰り 日々変わりゆく 山なみの色  大垣南高校1年 平山貴士
 教室で ノートに書きとる中也の詩 彼も見たのか 秋の青空   成田北高校1年  高橋昭憲
 奈良に来て 初めて会った阿修羅像 わたし真奈です どうぞよろしく  板橋第五中学校3年 伊藤真奈
 あふれ出るほどの気持ちを持ちながら 字足らずのわれ 言葉にできぬ  岩泉高校3年  藤田真里子
 震災後 更地になった空き地にも 秋のおとずれ コスモスの花  神戸高塚高校1年 松本綾介
 通学路 その柿の実を採る人に 見た事のない祖父を重ねる   慶応義塾中学1年  市川貴士

平成29年5月7日 現代学生百人一首
 朝起きて 野菜を洗う母を見て 「冷たくないの」と 聞けないわたし   和光高校1年 富山美穂子
 強くって 大きい人と思ってた ため息をつく父の背小さし         寄居高校3年  山中奈緒美
 幼い日 おぶってくれた祖父を今 私が抱く 小さな遺骨          光が丘女子高校3年  平田理佳
 ご先祖は すごい人だと言う母よ 私の中では あなたが一番      須惠高校3年  西田陽子
 学びたきに 学べざりにしわが父母を 心につれて 講義受けいる   東京女子大学1年 飯田有子
 苦しさの中から 母が穏やかに私に告げる 癌でもよいと       湊川女子高校3年  荒木香奈

平成29年5月5日 「ありがとう」が言いたくて   生島ヒロシ
先日、父が七十八歳でこの世を去り、私はさびしくてしかたありませんでした。
台所で涙ぐんでいたら六歳の息子が、
「ママ、また涙のボタン押したんでしょう」
と、子供ながらに慰めてくれるのです。そして今度は三歳の娘が、
「私が泣かないボタン押してあげる」
と胸のボタンを押す、しぐさをするのです。
ありがとう。
お母さん、もうしっかりするね。
    匿名

平成29年5月4日 「ありがとう」が言いたくて   生島ヒロシ
娘二人を残して世を去った亡夫。
お互いに二十代の若さでした。
今春、亡夫の五十回忌と、私の喜寿を迎えました。
振り返れば、本当に永い苦難の道のりでした。
これからは運命の好転に期待をし、残された人生をゆっくりと歩いていきたいと思います。

  娘があらば 追っても行けぬ にがき過去 
  早や五十年か 生きて喜寿なり                   秋山久米子 七十七歳

平成29年5月3日 「ありがとう」が言いたくて   生島ヒロシ
僕は年をとりました。
でも、この古ぼけた肉体にも、まだ少年のようなワガママなところが残っていて、君を困らせているね。
ひだまりのようなあたたかさで包んでくれて、ありがとう。
君は、いつも特製ジュースを作ってくれる。胃腸が弱っている時のハチミツ大根ジュースはありがたかった。
この間、君のいないときに自分でこっそり作って飲んだけど、まずかったよ。
君はすごいね、プロみたい。
口に出して言えなかったけど、僕は世界一のラッキージジイだよ。     下江利洋 広島県 60歳

平成29年4月30日 「ありがとう」が言いたくて   生島ヒロシ
病気一つしたことのない主人が突然肺がんで、早ければあと二、三か月の命だと宣告されたのは平成十年十一月、五十三歳のときでした。検査入院をした一日目の夜、主人から「先生より90%ガンだから、明日から治療を始めますと言われたよ」と電話が入ったときは、ただただびっくりして泣いてばかりの毎日でした。
主人の「仕事を辞めないように」という言葉に甘え、仕事帰りに病院へ寄るのが日課になりました。
結局、入退院を繰り返しながら、主人は一年三カ月も生きてくれたのです。
亡くなってから、主人の書斎の机の上にメモを見つけました。
 「妻ありて 蘭ありて 我が人生 悔いはなし
  人の世は ある時は象の牙のごとく またある時は蘭のごとく」
老後は蘭を趣味にするといって、七百鉢以上も蘭を育てていた主人。
いつ書いたのか、メモを見て私はとても幸せな気分になりました。
夫婦生活三十年。
楽しい思い出を本当にありがとう。         AY 静岡県 五十五歳

平成29年4月23日 「ありがとう」が言いたくて   生島ヒロシ
〜この道はいつか来た道、ああそうだよ
車いすを押して散歩していたとき、父は涙を流し、この歌を口ずさんでいた。
明治生まれで頑固な父は、決して弱気なところを人に見せたことがなかった。
初めて見た、父の涙であった。
そんな父が逝って二年。
父と私しか知らないこと。
親父、ありがとう。                野中健一 56歳

平成29年4月16日 俵万智
 「ローマの人はね、明日のことをくよくよ思わないの。
 それは刹那主義、というんじゃなくて、自分の人生の短さを知っているところからくる明るさ、というのかしら。
 だから精いっぱい今日を充実しきろうって感じなの。今年ためたお金は、今年のバカンスで思いっきり使っちゃうわ」
紀元前のものです、というような建物がぼこぼこ建っているローマでは、時間が千年単位で語られるのだ。
そんな建物に囲まれていると、「自分の人生の短さを知っている」というTさんの言葉が、すんなりと理解できるように思った。

平成29年4月9日 鳴子     渡辺隆次半
もう二十年も前になる。アトリエの建築工事が八分通り進んだ頃、杖をひく村のお年寄りが立ち寄った。
「目障りなものを建てますが、よろしく」 ぼくの挨拶に、近くの田んぼに目をやり穏やかの応じた。
「なに、雀たちに鳴子の役になるさ」
鳴子については、結城昌治 『志ん生一代』 に、ぼくの好きなエピソードがある。
志ん生がまだ前座の朝太時代というから、明治末か大正初めのころ、甲府にあった稲積亭で『甚五郎』をやった。
招き猫や龍の彫り物で有名な左利きの名工の逸話である。
客には受けたが、一人、辛口のことばを朝太に投げかける老人がいる。亭の下足番だ。
「おまえさんの甚五郎は薄のろだよ」
ムッときたが、老人のはなしには納得させられるものがある。
名を小常といい、旅回りの途中、甲府に住みついた元二つ目のはなし家だった。
畑の中の一軒家に一人暮らし、日中は鳴子の縄を引っ張って雀を追い払うのが仕事。
翌日、朝太がその家を訪ねると、小常はときどき縄を引きながら、珍しい江戸小咄を教えてくれたり、いいはなし家になってくれよと励ましてくれた。このときの恩を、志ん生は、名人といわれるまでになったのちのちまで忘れなかった。−−−どんな世界にも、運不運はある。

平成29年4月2日 「本当の幸せ」って何だろう   養老孟司
養老さんは約20年前にブータンを訪れた時の驚きを忘れることが出来ない。
屈託のなさ、他者への信頼。足るを知り、ほどほどに分相応に生きようとする謙虚さ。他人が困っていると、寄っていって世話を焼いてしまう親切心。多くの日本人が近代化と引き換えに無くしていった「大切なもの」が、まだこの国には根付いていると感じた。
相模原の障害者施設殺傷事件や相次ぐいじめ、ブラック企業の問題も、「根っこは同じ」とみる。
「生きていても役に立たない」。そうした愚かな結論が出るのは「頭の中の理屈だけで考えようとするせいだ」と養老さん。
「本当は幸福や人生なんて人それぞれで、結論なんてないのに」。ブータンで自然に、自由に育った人の面構えを見てるとね、そう思うんです。

平成29年3月26日 憲法    ビートたけし
(第96条@ この憲法の改正は、各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会がこれを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行われる投票において、その過半数を必要とする)
おいら実は憲法で一番怖いのは、改正条項だと思うんだ。この規定では絶対に憲法改正はできない。つまり、未来永劫に変わらない憲法を作ってしまったという話だよ。こんな憲法をもっているのは、世界でも日本だけ。
この憲法を一週間で作ったGHQのメンバーも、日本が未だに一字一句変えていないと聞いて驚いたらしい。サンフランシスコ講和条約の後に、当然、改正するだろうと思っていたという。要するに、たたき台のたたき台のようなつもりで作ったのにって。
本当は国会議員が性根を据えてやれば、できないことじゃないんだよ。日本の将来のためには、絶対に必要だって考えればね。本来、五十年先、百年先を考えるのが政治なんだから。
だけど、政治家は年寄りが多いし、あと数年、もめごとがなければそれでいいと思ってる。だから、あらゆることを後の世代に先送りしてしまう。

平成29年3月19日 憲法   ビートたけし
(第14条@ すべての国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない)
この平等主義というのも、相当恐ろしいよ。平等というのは、日教組に支配された小学校が、運動会の徒歩競争でお手々つないで一緒に走って、一緒にゴールインってことじゃないんだけどな。やる気のある奴は同じスタートに立てる、とそれだけ。
ところが、「機会の平等」のはずなのに、この国ではなぜか、「結果の平等」にすり替わってしまった。
一部のマスコミが、やたら平等を煽るから、おいらの所にも変な手紙が来たりして困っているんだよ。
「私は映画が好きで、今までいろいろな監督の下で働いたけど、助監督にもなれなくて、ついてはたけしさんの組で助監督させてもらえませんか・・・・・」なんて、自分の不遇を切々と書いてくる。おまけに、
「たけしさんがうらやましい。漫才やっていたはずなのに、急に映画を撮らせてもらって、賞まで取った。人間は平等なはずなのに、なぜたけしさんばかり・・・・・」
ばかやろう、そんなこと知るかって。俺のせいじゃないょ、こういう手紙には、ホント困っちゃう。
要するに、教育がいけないんだ。若いやつみんなを何の意味もなく励ましたからね。どんな奴にも才能があって、自分の好きなものを一生懸命やれば道は開けるなんて、いい加減なことをぬかしたのは、いったいどこのどいつだ。
好きなだけではダメ。才能も、それに運も必要なんだ。すべての人間に可能性があるってことだけ教えたら、挫折の繰り返しに決まってる。

平成29年3月12日 憲法   ビートたけし
憲法前文というのは、やはりノーテンキだよ。
〈日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した〉
「人間相互の関係を支配する崇高な理想」って、いったいどういう意味なんだろう。もう少しわかりやすく言ってくれないと、「深く自覚」なんてできないよ。
「平和を愛する諸国民」なんてどこにいるんだ。テポドンを見ろ、中国やインド、パキスタンの核実験を見ろって。どこも民族紛争やトラブルばかり。そんな連中の「公正と信義に信頼」するなんて、これぐらい危険なことはない。
こういう憲法を後生大事に崇め奉ってきた人たちは、おいらから見ると、「オーム真理教」ならぬ、「憲法真理教」の信者だよ。
外国でどんなことが起きようが、平和憲法がある限り日本に害は及ばないという発想だろう。日本が侵略されるとか、そんなことは考えたこともない。よく考えると、こんな怖いことはない。テポドンをぶち込まれても、戦争状態になっても、「いや、日本国憲法がありますから」って、黙って爆弾を落とされたり、敵の兵隊に撃たれたりしている。それこそギャグ漫画の世界の話だよ。
下手したら、憲法は残ったけど、日本国民は誰もいなくなったということになりかねない。
国破れて憲法あり。 それでどうするんだって。

平成29年3月5日 涙     渡辺隆次
ある日、九十に手が届こうかという実家の母が、めずらしく訪ねていったぼくに言う。
「昔のイヤなこと、ツラかったことが、ときどき頭に浮かんでくるんだけど、そのたんびに両腕を上にあげて、手のひらで、さっ、さっ、と後ろに追い払ってしまうのさ」 最晩年のことばだった。
母はすでに煩悩から解放され、枯淡の境地にいると思っていたから、ぼくはいささか驚いた。
母が手で払う思い出の中には、親不孝を重ねてきたぼくのことなどもあるのかなと、殊勝な気持ちになったものだ。
高卒後、いったん就職したぼくは、近くのアパートに下宿することにした。姉や兄をさしおき弟が先に親元を離れるとは、家族にとって事件だった。母は特に反対した。
家に母一人がいる日中、借り物のリヤカーにわずかな引っ越し荷物を乗せ、出発しようとすると、玄関口に飛んできた母が哀願するように言う。
「どうしてもかい・・・・・」
上り框に立つ母が、自分の感情の制御が利かぬふうに体を捩り、とりすがる柱をこぶしで強く打ちつづけた。
「行かないでおくれよ!」
その姿と声は、日頃の母ではなかった。
おもわずリヤカーを引く手を強く握りしめ、ぼくは一目散に新しい自分の城に向かって歩き出していた。

平成29年2月26日 オトギリソウ     渡辺隆次
オトギリソウは夏から秋にかけ黄色の可憐な花をつける野草である。乾燥させた全草には止血の薬効があり、この秘薬を人に漏らした弟を、鷹匠の兄が切り殺す。
兄弟は他人のはじまり、という言葉が頭にうかぶ。背景には、家長である戸主や長男が絶対的権力を持ち、他のものはそれに従うという家族制度があった。この風潮は社会のすべてにいえたことだろう。
僕は昭和二十年に小学一年生だった。生まれたてほやほやの、自由、平等の旗印のもとに育った世代である。それ以前の社会は知らないから、たちまち民主主義のとりこになった。
世の中に出てみると、しかし何か違うのである。芸術の場や、進歩的といわれる人の中にさえ金品と上下関係の仁義がまかり通っている。異質なものへの差別は、ことに動物的本能の排除や嫌がらせというかたちで表れる地方の山村だけに限らない。両翼からの攻撃もキツかった。ものの善し悪しの判断は、長に倣った全体主義的多数決が正義なのである。 
人も社会も年をとると、おおかたは閉鎖的な保守に傾くといわれるが、ぼくは嘘八百を二次元の面にデッチあげる絵かき屋稼業だ。
この装置のうちに解き放たれていればこその王国であるとは先刻承知、たてまえのやせ我慢であっても、自由であるために、一人でいることを選んだのである。野に立つ一本のオトギリソウの健気さだけは保持したいものだ。
今日までぼくが、村八分でけっこうと、いっさいの団体、グループ、コンペなどに関与せず無縁なのは、これらの世界に家父長が仕切る家族制度の度し難い匂いを嗅ぐからだ。臭覚でばかり言っているのではないことも、確かなのである。

平成29年2月19日 晩酌      渡辺隆次
昭和20年代中ごろは、まだ深刻な食糧難が続いていた。台所の隅っこにある米櫃の中で、クモが糸を張りサーカスをやっている。などという笑い話がやりとりされた世の中。我が家は総勢七人、食い物確保こそ肝心で、晩酌どころではなかった。
その反動か、父はごくたまに外で大酒をくらい、ひどく荒れた。
謹厳実直を絵に描いたようで、日頃は物静かだったのが、がらりと豹変するのである。自らを苛むようにも見えた。
深夜、家々が寝静まった頃、帰還する父の酔いどれ声が遠く闇の彼方から聞こえてくると、布団の中で息をつめ体をこわばらせていた。幼心にも、人生にはきっと哀しいことがいっぱいあるんだ、とぼくは思った。
かく言うぼくも四十を過ぎてから、父のやらなかった晩酌をはじめた。夜毎の晩酌も「愁いを掃う玉ぼうき」とばかりはいかない。
いまだにものごとを否定的にとらえるくせが抜けず、ときには家人の前で、大声をあげている。
その声にハッとして、酔いが覚めたりする。親に似ぬ子なし、とはよく言ったものである。

平成29年2月12日 画商    渡辺隆次
初秋の夕暮れ時、男はタクシーでやってきた。
70年代はじめの(美術ブーム)のころ、ただ一度だけ東京で顔を合わせた画商が、八ヶ岳山麓の僕のアトリエを訪ねてくるとは…。
晩酌の酒をわけあったが、彼はたちまちに酔う。昔と同じ多弁だった。
「あの美術ブームのころには、新人の絵でさえ飛ぶように買い手がつき、私らは笑いが止まらなかった。しかし、絵かきさんも弱いものですな。自称前衛も手のひらを返すように、毒にも薬にもならない絵を描きまくって、私らのところへ持ち込むんですからね」
相づちを打ちながら、駆け出しの僕にまで、画商から誘いのあったことを思い出す。花でも女性でも、とにかくキレイキレイな絵だったらいくらでも引き取るからと。
彼は、夜更けてタクシーを呼び帰っていった。
3日後のやはり夕暮れ時、土間の椅子に男は坐っていた。彼は言った。「1万7千円ほど用立ててくれませんか・・・・財布を落としちゃって」
口振りは騙りに堕していた。詮索をせず、ぼくは黙って二万円を手渡した。わしづかみにすると、扉に手をかけて、振り向きざまに画商は言った。
「しかしあなたも丸いお顔に似合わずガンコですねぇ。先夜ちょっと覗いたけど、昔と同じ売れそうにもない分からない絵を描き続けてますなぁ」

平成29年2月5日 シルバー川柳
 夫婦仲 社会福祉と 妻は言い
 古希過ぎりゃ 嫉妬もされぬ 朝帰り
 バラに似て 妻も花散り トゲ残し
 聞き取れず 隣にならって 空笑い
 美しく 老いよと無理な ことを言う

平成29年1月29日 シルバー川柳
シルバーとは和製英語で「老年世代」をさす。
 老後にと 残した夢も 夢のまま
 「アーンして」 むかしラブラブ いま介護
 老人会 ハイカイ王子が また一人
 手おくれの 人で混み合う 美人の湯
 幸せは 妻と二人の 冷奴

平成29年1月22日 時代おくれ    阿久悠
昭和六十一年に「時代おくれ」という詞を書くというのは、かなり酔狂に思われた。時代おくれになっちゃいけないという歌ならともかく、
  時代おくれの男になりたい・・・
というのだから、面白いが勝ち、新しいが勝ち、贅沢が勝ちの世の中では、辛気臭く思われたに違いない。
貧しいより豊がいいに決まっているのだが、ただの拝金時代が美しく見える筈がない。着飾れば着飾るほど寂しく見え、金満を誇れば誇るほど哀れが目立つ社会を見て、正直似合わないなあと感じていたので、これを書いた。
  目立たぬように はしゃがぬように
  似合わぬことは無理をせず
  人の心を見つめつづける
  時代おくれの男になりたい…
いい歌だと思ったが、土に埋もれた落ちた種はそれだけのことで、いつか忘れそうになっていたが、ある時、突然芽を出した。
それなのに、平成十三年四月、これを歌った川島英五が四十八歳の若さで急逝した。
川島英五はぼくに、「あれはちょっとカッコよ過ぎますよ」と遠慮気味に不満を口にしたことがある。
しかし、この誰もがカッコ悪い新世紀の中では、少々のヤセガマンも必要だと、頷いてくれるのではないだろうか。

平成29年1月15日 契    阿久悠
「契」は映画の主題歌として頼まれた。その映画が「大日本帝国」というので、ちょっと腰がひけるところがあったが、曲も書いた五木ひろしとともによくよく考えて、愛する国と愛する人へのラブレターのつもりで書いた。はるか未来の国や人への呼びかけの歌である。
  あなたは誰と契りますか 永遠の心を結びますか・・・
と静かに入る。そして、未来を問う。
  流れは今も清らかだろうか 子供はほがらかか
  人はいつでも桜のように 微笑むだろうか
  愛するひとよ 美しく 愛するひとよ すこやかに・・・
さて、この詞を書いてから二十数年、今、ここは美しいかとふと思う。すこやかかとも。

平成29年1月8日 新男はつらいよ
梅の花が咲いております。
どこからともなく聞こえてくる谷川のせせらぎの音も、
何か春近きを思わせる今日この頃でございます。
旅から旅へのしがない渡世の私どもが
粋がってオーバーも着ずに歩いておりますが
本当のところ、
あの春を待ちわびて鳴く小鳥のように、
暖かい陽ざしのさす季節に
恋焦がれているのでございます。

平成29年1月4日 冬桜  千葉望
2004年の2月初め、入院していた父の余命があとひと月もないと弟から電話で知らされたとき、私の心を衝いたのは、
 「もう父は今年の桜も見ることが出来ない」
という思いだった。桜がひとつの区切りとなっていることを、思いもよらないかたちで知らされたのである。
私の実家には山桜の大木がある。父はことのほかこの木を愛していた。
山桜を見ることなく父は逝き、そこまで永らえさせることが出来なかったことを私は心のどこかで悔いていたが、しばらくたってから、父にささやかな花見をさせたことを思い出した。
正月に帰省し、散歩に出た時、粉雪の舞う寒い山道に小さな花が咲いているのを見つけたのである。木は若く、丈も2メートルほど、枝の先にはぽっちりとピンクの花が咲いていた。寒い三陸の正月に花が咲くとすればせいぜい藪椿だからこんな花は珍しいと思い一枝手折って持ち帰った。もう外に散歩に行くこともなかった父に見せると、ことのほか喜んだ。
父の弔いを終えてから、調べてみるとあの花は『冬桜』、だった。十一月から咲き始める、冬の花だった。
よかった。父は今年も花見ができたのだ、と思った。冬桜に送られて逝ったのだ。それでよしとしなければなるまい。
  仏には 桜の花をたてまつれ わが後の世を 人とぶらはば
大切な人を見送るようになると、西行の歌が身にしみる。
だが、人ひとり亡くすたびに心が深くなるという思いが、私の心を慰める。

平成29年1月3日 錦上花   迫勝則
ある日叔父から手書き(毛筆)の手紙が届いた。
「娘が所有している江戸時代の雛人形を展示するので、その会場に、錦上花を添えてほしい」というものだった。
「錦上花を添える?」正直言って、叔父にしては、少々厚かましい依頼をしてきたものだと思った。
会場の飾り付けが寂しいので、花を届けてほしいという依頼だと思ったからである。
家内と近所の花屋さんに行き鉢植えの生花を届けてもらった。展覧会に行くと、生花は、入口の目立つところに飾ってあった。
何事もなければ、話はここで終わるところだった。ところが、叔父の没後、ふとその手紙を思い出した。胸騒ぎというのだろうか、どこか気になるところがあったからだと思う。そう、あの「錦上花」のことである。そっと広辞苑を開いてみた。
「えぇー」 私は絶句した。これを直訳的に書けば、
「錦上花を添う=美しいものの上にさらに美しいものを添える」ということである。
もうお分かりだと思う、この表現は、相手を敬った言い方で、
「あなたのような立派な方に展覧会に来てほしい」ということだったのである。
なんという薄識だっただろうか、私は、これを誤って解釈し、実際に生花を贈ってしまったのである。
もうあの世に逝ってしまった叔父に、この話をするわけにはいかない。かなり恥ずかしい話なので、従弟にも話していない。
今でも思う、人生を実り多く豊かに生きていく上で、教養ほど大切なものはない。
それにしても、「錦上花」の一件、穴があったら入りたかった。

平成29年1月2日
  善男善女 こんなにもいた 初詣  

寒のどん底で、人は春を待つ。
昔の人は、春の陽がのびるのを、「畳の目ひと目ずつ」といいました。
寒の寒さは厳しいが、ひと目ずつ春は近づいています。

平成29年1月1日 元旦
明けましておめでとうございます。
皆様、よいお年をお迎えのことと存じます。
今年も緋色窯をよろしくお願いいたします。
     

 凛として 輝き生きる 古希の初春    中山キヨ

私は今年70歳になる。七十といえば「古来稀なり」で、古希ってやつだ。
古希だからと言って、急に人間的に成熟するわけでもなければ、突然すぐれた陶芸家になれるわけでもない。
「あ、おれ、古希?目出度いな、皆と呑みにでも行くか」てなもんです。
孫に「おじいちゃん」と呼ばれる身ですが、「ふーむ、これ、ホントに俺の年かね」と可笑しくなります。


春を待つ昼下がりの陽射しのなかで福寿草が咲いています。別名、元日草とも賀正蘭ともいう。
福寿草という名前そのものに新春を祝うという意味が込められています。

  
福寿草 見てしずかなる 命かな  清原拐童

今年は自分らしく、そして楽しく生きていきたいと願っています。
*ホームページを開設して17年、工房は21年、穴窯は10年目です。
2017年が皆様にとって、明るい年でありますよう祈念いたします。