緋色窯日記31年に続く


平成30年12月31日 日記    橋之口 望
日記は皇国少年団時代から書いてきた。内容を一部ご披露いたしましょう。
日記に書いていることは、出来事の他に、その日の思いを吐き出した随筆風のものである。ちょっと違うのは「天気欄」の下にカミサンのご機嫌を4段階に分けて、数字(暗号)で記している。諍1、不機嫌2、普通3、上機嫌4と。
我が家の天気も小春日和の日ばかりではない。カミサンの運勢欄にも目をとおし、「心を粗末にすれば一切が粗末になる。本日特にご用心」とあった日など、先手を打つ。
暇に任せて今年の喜怒哀楽の年間統計をとってみた。1が32、2が55、3が246、4が32、昨年と比較すると、1が少なくなっている。
老いてくると楽しく暮らすために、お互いに大目に見るようになってきたからだ。叱られるうちが花、日記は過去の自分に会いに行くだけでなく、未来の自分との対話でもある。日記は反省を促し、感動のセンサーである。
朝日新聞の論説委員・加藤明氏に「妻の天気」の事を話した。08年1月10日付けの「素粒子」に、
「妻のご機嫌を長年、天気印で日記に付けている初老の恐妻家あり。年重ねるごとに心遣い深くなり『晴天が続くよ』としみじみ」
と紹介されていた。

平成30年12月30日 たき火     関川夏央 (ノンフィクション・ライター)
昭和30年代に大掃除がなくなってしまった、がただひとつ、いまでも当時にならいたいことがあるとするなら、それはたき火である。
大掃除もしまいに近づくと、父は裏の空き地でたき火をした。過去の遺物(これも当時父から教えてもらった言葉だ)を惜しげもなく火にくべた。その中には海軍予備学生時代の軍帽もあった。父と私は炎を眺めつづけた。これこそ母には、すなわち女にはわかりようもない暗い楽しみであると、無言の中に父と子は確信した。
将来、山に家を持つ時があれば(東京では家もアパートもすでにあきらめたのである)、わたしは日曜日ごとにたき火をしようと思う。
なにを火にくべるかというと、過去をではない。過去の遺物でもない。現在をである。二流三流の現在の破片である。
駝本を駄作をふんだんに燃やしてしまおうと思っている。
その炎はどれほど小気味よく高くあがるだろうかと想像するだけで、わたしはすでに身震いを禁じ得ないほどだ。

平成30年12月23日 人生の秋    小此木啓吾 精神医学者
中高年の心の危機を語るとき、思秋期という言葉を使う。つまり、人生の秋を知る年代という意味である。
例えば鏡を見て、突然、自分の顔の老いに気づく。何か病気があることが発見される。
この会社での将来もここまでという見極めがつく。こうした体験を上昇停止体験と呼ぶ。
それは、人生の秋の訪れを知る体験である。その先には、死がごく身近なものとして迫っている。
このような心理について、メタファーとして秋という言葉が使われる。
しかし、この使い方には実はもっと具体的な実態がある。
例えば秋口、肌寒さを感じる頃になると、うつ病を再発する人々がいる。夏の暑い時には結構活発にやっていた人が、秋の訪れとともに気が滅入り、人生の無常を感じ、いわれのない寂しさに取りつかれる。
こんな気持ちの中に落ち込んでいくと、本物のうつ病が再発してしまう。

平成30年12月16日 消えゆく豊かさ     出久根達郎
旧知の年長者から、お手紙をいただいた。用件を述べたあと、「いずれ春永に」と結ばれてあった。
なつかしい言葉を聞いたような気がした。春は日がながくなる。その時心ゆくまで、こもごも話をしましょう、という挨拶である。
先日、若い方に親切にされたので、「はばかりさまです」と頭を下げたら、けげんな表情で聞き返された。
はばかりさまは、恐縮の意だが、いまや通用しない言葉らしい。
「そういえばご苦労様、お疲れ様と様をつけますね」「お粗末さま、ご面倒さま。ほら、結構『さま語』はあるじゃないか」
そう、「お移り」という言葉も耳にしなくなった。よそ様から物を頂いた時、その容器に心ばかりのお礼の品を入れて返す。
マッチとか庭の花を切って、「お移り」とした。
お返しをもらって、恐縮しない程度の品である。そうそう、もらい物をよそに分け与える、これを「お福分け」と言った。
なんだか、わが国古来の言葉が、ここにきて、目に見えて身のまわりから消えていく。

平成30年12月9日 絵      養老孟司
中年を過ぎてから、人生って絵を描くようなものだという気がしてきました。地位も財産も才能も、ある人もない人もいます。絵の具や額縁が、たとえ高価な物でなくても、それを精いっぱいに使って、それなりに完成した絵を描こうとする。それが人生じゃないの。
何だか偉そうなことを言っているみたいですが、こういうふうに思えば、楽じゃないですか。
人生は自分なりの作品です。国宝級の絵じゃないかもしれないけれど、その人なりに完成するはずの絵です。
絵の良さに比べて額縁がいまひとつ、という人もあります。
額縁は立派だけれど、絵は果たしてどうかなあ。
そんな人、毎日テレビで見ているような気もしますけどね。

平成30年12月2日 美の基準      重兼芳子
私は容貌コンプレックスに長い間悩み続けた。ところがニューヨークにしばらく滞在しているうちに、容貌コンプレックスは簡単に吹き飛んでしまった。ニューヨークのスターテンアイランドという島から、200人乗りのフェリーに乗って毎日ダウンタウンに通ったのだが、フェリーに乗っている間私は千差万別の人間たちを観察し続けた。
肌の色、髪の色は一人一人が違って当たり前だ。大きいのは巨人としか言いようのないほど巨大であり、小さいのは私の肩までくらいの人が何人もいる。デブだってはんぱじゃない。胴回り2メートルもある人が、あそこにも、ここにも。
毎朝のラッシュアワーには、さまざまな体臭を発散させながら、ハンバーガーにかぶりついたり、コーラをラッパ飲みしたり、フェリーの中は人間のごった煮という感じだ。
「シャイン、シャイン」と大声で呼び歩く靴磨きのおじさんだって、また帽子の中にコインを入れてくれと廻ってくる乞食のおじさんだって、胸を張り堂々と営業している。
そのような風景を毎日見ているうちに、美の基準なんてどこにもないことに気がついた。巨大なデブだって髪の毛や肌の
色と同じように、その人の個性であり、パーソナリティなのだ。
市民が自由に渡る赤信号を、私もどうにか平気で渡れるようになったとき、自分を呪縛していた鎖の一つがほどけたのを感じた。

平成30年11月25日 小唄      神津カンナ
小唄の師匠だった祖母から三味線を一棹、譲り受けた。
幼い頃から何となく祖母の横で、小唄を口ずさむことはあったのだが、三味線を持ったことはなかった。「あなたはなかなか筋がいいから、その気になったらおやりなさい」と言う祖母のおだてにのせられて「はい」と答えたものの、その三味線はいまだに私の部屋の片隅で、埃をかむっている。
  いくら口説いても張子の虎は、すました顔して首をふる。すました顔して首をふる。
  なれどその日その日の風しだい。
  のびあがり、のびあがり、見れども見えぬ後ろかげ。ええい、じれったいと噛み切る爪楊枝。
  お伊勢参りに石部の茶屋であったとさ。かわいい長左衛門さんが岩田帯締めたとさ。
  梅は咲いたか桜はまだかいな。柳、なよなよ風しだい。山吹ゃ浮気で、色ばっかりしょんがいな。
  雪のだるまにたどんの目鼻、とけて流るる炭ごろも。
・・・・などと時々、気分がいいと歌ってみることもあるのだが、三味線には手がだせないのだ。
無趣味の私には格好の玩具になってくれるだろうと思うのだが。

平成30年11月18日 夢の証し   猪瀬直樹
長者番付が発表される季節、ランキングに登場した老人を訊ねた。東京近郊の広大な敷地の一隅にある茶室に招き入れられた。
一般に土地成金と呼ばれる人種は、ベンツ、ルイ・ヴィトン、ケネス・スミスのゴルフセットなど、さまざまなモノを、無秩序に体系なしに収集しているのがつねである。だが、老人の趣味はそうした分類から良い意味で少しだけ逸脱していた。
「あのとき、もし自転車がパンクしなかったら…・」
彼の家は、少し大きめの家屋と広い山林を持っていたけれど、百姓に変わりなかった。彼は、医学の道を目指したかった。
しかし、百姓家の跡取り息子として、生き方を選択する自由はなかったのである。入学試験に受かったら、両親もあきらめるかもしれない。
ある朝、家を飛び出して駅まで懸命にペダルを漕いだ。工程半ば、十七歳の少年の夢は無残にも打ち砕かれた。思いもかけずタイヤがパンクしたのである。
医者になっていれば・・・・・。たぶん、土地が高騰するよりもずっとずっと早い時期に、田畑を売り払っていただろう。
数十億円の資産家になるチャンスを逸したとしても、夢はかなえられていたはずだ。
ありあまる資産を手にした彼にとって、唯一手に入らないもの、それは置いてきぼりにした少年期のくるおしいまでの向上心、人生を選択する恍惚と不安、その彼方にひらけている未知の世界だった。

平成30年11月11日 好きな人ができたら  斉藤茂太
私がまだ思春期にも達しない小学校上級生のある日、母がいきなりこんなことを言った。
「茂太、好きな人ができたらウチへ連れていらっしゃい」
わが母は家事も駄目、育児も駄目、およそ女らしくない女性で、祖父をして、男だったら病院の立派な後継者になっただろうと嘆かせた母であった。そんな母がある日、突如としてこんな言葉を吐いたのである。この一言で遠く離れていた母が急に身近に感じられた。
そのおかげかどうか、私はその後、「大きな」女性関係の失敗もなく、めでたく結婚した。戦局やや傾きかけた昭和18年秋のことだ。
 ある日、私は父に、このごろ少し動悸がするともらした。その時、父はポツンとこんなことを言った。
「過ぎぬか」
この一言で、私は父をぐっと身近に感じた。父もまた本業の精神病院長と文学活動に多忙で、ウチにいてもほとんど書斎に閉じこもっていて、父はやはり遠い存在であった。しかし、この一言は、父の私への限りない愛情と感じられたのである。
三か月後、私は軍服を着た。父は昭和二十八年に死に、母は九十歳近くまで生きて、一昨年あの世に旅立った。
今年、私は父が死んだ年になった。

平成30年11月4日 恩送り     竹内千恵子
中学校の美術教師だった夫が、中川の土手で写生をしている時「Aが川に落ちた」との報告。慌てて水辺に走ると、A君はすでに救助されていた。B君が即飛び込んで助け上げたという。体格がよく、暴れん坊で通っていたB君だった。
後日表彰の話が出たとき、B君の親が申された。
「日ごろお世話ばかりかけている子ですから、それくらいの恩返しは当然です。表彰なんてとんでもない」
以後、夫は"困った子"といわれる生徒を見る目が変わったという。
姑はこの話に感動した。夫が幼い頃、溺れかけたのを通りすがりの若者が救ってくださり、名も告げずに去ったと言い、
「受けた恩は直接返せなくても、他の人に贈るのがせめてもの恩返し」と言った。
後年、井上ひさし氏の『恩送り』話を耳にした。
私も恩送りを心がけてきたが、近頃は席を譲って頂くなど、受けることが多く、申し訳なかったり嬉しかったりしている。

平成30年10月28日 もっとスマイル  ストライン玲子
私は25歳のときに主人と結婚して、一緒にコロラドの大学の既婚者の寮に入りました。忙しいけれど毎日がとても楽しくて、今思い返せば本当に充実していました。
でも日本人というのはバスの中で他人と目が合ったからと、すぐに笑顔を返す習慣がなく、私もその一人だったのですが、ある日私がよく使うバスの運転手さんが乗りぎわに私に名前を聞きました。そして彼は「玲子、もっとスマイルしてごらん」と言ったのです。
それからは少しずつですが、自然と笑顔を返すことが出来るようになり、人間のもつ思いやりや優しさを、日常生活の中に簡単に見つけることが出来るようになりました。そんなある日、私がもうバスが行ってしまったのを知らず待っているのを反対方向のバスの運転手さんが見て、行ってしまったバスに無線連絡してくれたのです。するとそのバスは乗客の許しを得て、バックで戻ってきてくれました。私は一生の心の宝を得たと思います。
日本に帰って来て、今では笑顔も忘れがち、だけどアメリカで生活経験のある皆さん、アメリカの進んだところばかりじゃなく、スマイルや思いやりも、もっと真似していきませんか?

平成30年10月21日 飲んだら乗れぬ、乗るなら飲むな 2    田丸久美子(イタリア語通訳)
普通、イタリアで食事中に飲むのはワイン。余り酒に強くない男性は、女性より先に酔いつぶれる失態をさけるため、デート前に大さじ一杯程度のオリーブオイルを飲んでおく。こうすると胃壁をカバーしたオイルがアルコール吸収を妨げてくれるのだ。彼らはこんな涙ぐましい努力をして、その後の"愛の格闘技"に備える。
イタリアでは飲む前に相手のグラスと軽く合わせて「チンチン」といいながら乾杯をする。「なんで飲む前にグラスを鳴らすか知ってる?」
理由なんて考えたこともない。興味津々身を乗り出した私に、彼は言った。
「まずグラスをたなごころで感じてごらん。冷たく薄いガラスの感触だ。それをゆっくり振ると、青リンゴとカシスの香りが馥郁と立ち上がる。色も楽しめる。透き通った美しいルビー色だ。次にゆっくりと口に含む。なめらかな舌触り。コクのある半甘口だ。ここまで触角、嗅覚、視覚、味覚を使ったね。欠けているのは聴覚だ。そこでグラスを鳴らして耳でその音色を楽しむことにしているんだよ。そして今夜、僕はすべての感覚を使って君を味わいたい」
日本の男性方、二日酔い対策なんか考えている場合じゃないでしょ。こう、活を入れるつもりだったのだが、こんなせりふが吐ける相手に勝てる見込みはない。もう諦めて、今夜も男同士やけ酒でもあおってちょうだい !!
いや意外に、日本男性の殆どは、「イタリアに生まれなくて良かった」と幸せの美酒に酔っているのかもしれない。

平成30年10月14日 飲んだら乗れぬ、乗るなら飲むな 1     田丸久美子(イタリア語通訳)
「バッコ、タバッコ、ヴェーネレ」これがイタリア版の「飲む、打つ、買う」。
人生でなかなかやめられない三つの悪徳で、バッコはバッカス神、つまり酒。タバッコは煙草、ヴェーネレはヴィーナス、つまり女性のことである。"酒"と"煙草"は日伊で共通しているのだが、イタリア人が女性を"ヴィーナス"と女神で表現しているのに、日本では「買う」である。夢もロマンもあったものではない。
私は三十年来イタリアを行き来しているが、いまだかってイタリアで酔っ払いというものを見た事がない。
理由はただ一つ。酔いつぶれては女性と楽しむことが出来ないからだ。それだけではない。
イタリアでは、男同士でくだを巻き、はしご酒をする姿は皆無、夕刻以降のレストランで見かけるのは大半が男女のカップルである。
同じヨーロッパでも、イギリスはパブで、ドイツはビアホールで、ロシアではウォッカバーで、男達はおごりおごられ際限なく呑み続ける。
泥酔した後は、いびきをかいて寝るしかない。
こうして慢性的欲求不満に陥っている北の国の女性たちは、夏場、リゾラヴァ(リゾートの愛人)探しに大挙してイタリアの海岸に押し寄せる。イタリア男性は、世界各地の呑んべえ男たちが放棄した義務を代行してくれるありがたい存在なのだ。
  続く

平成30年10月7日 海のおくりもの     木村静枝
昭和22年、今から55年前のことです。北緯50度にそれほど遠くない、南樺太の西海岸に、父の仕事の関係で一家9人で住んでいました。その地が、ソビエト領サハリンになって、2回目の冬のことです。
軍国少女の私は、敗戦をどう受け止めていいかわからぬまま、昆布拾いにでかけていました。
寄せては返す波。波は、いっときもやすむことなく、寄せては返しています。
私はボーッと、波を見続けていました。
この波は、太古の昔から寄せては返してるんだなあー、なにごともなかったように・・・・・。
そう思ったときです。波が言ったのです。
生きるんだ、生きなければいけないよ、って。
昭和23年6月、引き揚げ命令がようやく出ました。
この日のためにとっておいた米で、ご飯を炊き、犬と猫のおわんにも山盛りにしたご飯を置いて、港にかけつけたとき、シシャモが波にただよいながら寄せていました。

平成30年9月30日 壺 2      海野泰男
私は「見る」上で壺を最上と考えるが、それは壺がそれだけで完結している小宇宙の美しさと深遠を感じさせるからだ。
「壷中天」という言葉があり、古代の中国人は壺の中に壺公という仙人が棲んでいると考えていたそうだ。
この壺の中の天地は決して閉ざされた空間ではない。
仙人が飛翔する無限や永遠に通ずる時空なのだ。壺は人の心を異次元の別天地に誘う力を持っているような気がする。
仙界とは限らない。人を自由闊達にする、すべてを超越した世界---。
人間が骨になって、行きつく所は壺の中だというのも、象徴的なことに思われたりもするのである。

平成30年9月23日 壺      海野泰男
男が好きなものは、その一生において動物、植物、鉱物の順に変わっていくという説がある。美術評論家で詩人の宗左近氏の本に書いてある。若い時の動物とは女性。中年以後の植物は桜とか植木、そして老年の鉱物は陶磁器なのだそうだ。もっとも、最後の鉱物が、金の延べ棒だったり、メダル(勲章)だったりする人もいるようだ。私はいま鉱物の境地に達している。
焼き物の愛し方には「作る」「使う」「見る」の三っがあるようで、それぞれの論者の主張がある。
「作る」派は粘土をこねなくては問題にならないと言い、「使う」派は茶碗などの掌に伝わる感触こそがやきものの命だと言う。
私は造形のセンスはないし、茶事にも不案内、逸品をわが物として「使う」には"先立つもの"に先立たれている身、そこで必然的に「見る」派である。負け惜しみ? をいうならば、フランスの哲学者が「火炎の神の芸術」と言ったやきものの真の価値は、神が作りたもうたその<美>にあるので、作ったり使ったりするよりは、見ることがもっとも神の御心にかなうのだ。   続く

平成30年9月16日 雑念からの解放      高見沢たか子
母に先立たれた後、私たち一家と暮らした父は、晩年、よく展覧会に出掛けた。そして帰宅すると、玄関に腰を下ろしてこう言うのだった。
「ああ、良いものを見た。生きていて良かった」と、仕事に子育てにと日々、目の回るほどの忙しさだった当時の私は、
「またまた、大げさなことを言って・・・」と父のつぶやきを笑い飛ばしていた。
昔ながらの亭主関白で、生活の何もかもを妻に頼って暮らしながら、80歳を超えて独り身となった父の孤独に思いが至らなかった。
だが最近、父の言葉をよく思い出す。
岸田劉生が娘をモデルに描いた「麗子像」を初めて見た時は、初々しい感動だけだった、が私自身が年を重ね、髪の毛や皮膚の色、着物の模様などに、気の遠くなるような画家の努力の積み重ねを感じるようになった。
時折よぎる「何のために生きているのだろう」というむなしさ。若い頃はなかった感慨にとらわれ、抜け出せなくなる日もある。
そんなとき、美しい絵を見、それを描く画家の無私の境地を思い、心が静かに満たされる・・・。
「生きていて良かった」という父の言葉が、今になって分かる。年を重ねても悩みがなくなるわけではない。
むしろ憂いは増えるばかり。でも絵画を見るそのひとときだけは、日々の雑念から解き放されると感じる。

平成30年9月9日 土と炎の里     津村節子
竹久夢二の生家は、邑久郡邑久町本庄にある。
夢二の生家近くに復元された「少年山荘」は、かれが大正十三年に現在の世田谷区松原に建てたアトリエで、昭和九年九月に死去したのちは荒廃して取り壊されてしまっていた。その名は「山静かにして太古に似たり、日の長きこと少年の如し」という宋の詩人唐夷酔眠の詩からとったもので、別名を「山帰来荘」という。山帰来は蔓草の一種である。
三歳の頃からすでに画才のひらめきが見え、十六歳で故郷を離れた夢二は、岡山では布衣頭とさげすまれる絵かきになり、二十代後半では人気作家、時代の寵児になった。
   花のお江戸じゃ夢二と呼ばれ故郷へ帰ればへのへの茂次郎
茂次郎の名を嫌った夢二のざれ歌が書かれている水路の小さな橋には、今も矩形の田船が浮かべられている。

平成30年9月2日 ずっと、ふたり暮らし    長野市 高橋香代子
物置を整理していたら、三十数年前、主人とかわした手紙が百通ほど出てきました。今のラブレターといったものでしょうか。思わず読みふけってしまいました。
結婚して三十年もたつと、お互いに刺激もなくなり、ただ空気と水といった関係になっていました。ところがその手紙が、砂漠のオアシスになり、少々心がときめいています。
ある人は言います。年とってあまり仲が良いと、どちらかが欠けた時、淋しくてたまらないから、なかよくしない方がいいと・・・・・。
でもこの世の中で出会えた、たった二人の男と女。
命の限り、なかよく年を重ねていきたいと思う今日この頃です。

平成30年8月26日 定年退職の日    児島章江
父の定年退職の日、「卒業」の電文81番を打った。
新シイ門出ニ際シ、限リナイ前途ヲ祝シマス」・・・一緒に生活している時は、事ある毎に反発し、ほとんど口もきかずにいた。
「やめてえ、やめてえ」という言葉。「明日から勤めにいかねェ」というのもよく聞いた。そのたびに、働いてもらわないと食べていけないなあと思う反面、「本音を言っているな、人間らしいな」と思った。
気が小さくて弱い人間と思っていたオヤジさんを、四十年余り仕事にしばっていたのは、まぎれもなく”家族”だったと思う。もしかするとものすごい強い人なのかもしれない。
夕方、「電報どうもありがとう」の電話の明るい声。
「明日からは寝て暮らしたらいいですよ」と言うとうれしそうに笑っていた。

平成30年8月19日 風鈴    愛知県 庭本啓子
この夏は風鈴を吊るしました。南部鉄の風鈴を買ったのは三十年前、八歳の娘と三歳の息子を連れての、北海道家族旅行の帰りです。列車が盛岡駅に入ると、ホームいっぱいに吊るされた風鈴が、みごとなハーモニーで迎えてくれました。
窓から身を乗り出して眺める子供に、「父さんが買って来てやる!」と、わずかな停車時間に、夫はダッシュして求めてきてくれました。
昨年は初孫誕生、息子の結婚準備で、すっかり忘れていた風鈴を、今年は短冊を取り替えて吊るしました。
夫と二人暮らしの我が家に、リーンリーンと風鈴は鳴りました。
そして私には、若かりし頃の夫のあのダッシュした足音も聞こえました。

平成30年8月15日 思い出の「ローマの休日」2    山田洋次
某国の新聞記者が、ヨーロッパ諸国の友好について質問し、ヘップバーンが
---私は諸国間の友情を信じます、人々の友情を信じるように。
と答えた時、ベックが発言を求め
---王女の信頼が裏切られることはないでしょう。
という。驚くことに、この長いシーンの中でペックがセリフを言うのは、これと、あとは、王女に名前を名乗るときの、たった二度きりなのである。やがて記者会見は終わる。後ろ向きのヘップバーンが、もう一度振り返って、涙を溜めた眼でペックをじっとみつめ、その悲しい表情がゆっくりと笑顔に変わる。
王女は去り、記者たちもゾロゾロ引揚げる。広い室内にポツンとひとり残されたペック。やがて彼はゆっくり歩き始める。
有名な、長い長い移動のショットが70秒続き、THE ENDのタイトルが浮かび上がる。
軽快なテンポから一転して、長い沈黙の、重苦しい終り方に、ワイラーはどんな思いをこめたのだろう。
「ローマの休日」は、三文記者と王女の悲恋物語に形をとってはいるが、決して悲しい映画ではない。
むしろ、人間は必ず信頼し合えるのだ、という希望について、フランク・キャプラ流の楽観主義ではなく、ハリウッドの赤狩りの嵐の中で友情や信頼が無残にうち砕かれる姿を見たワイラー監督やその仲間たちが、深い絶望と戦いながら、懸命に謳いあげようとした作品であり、それが観客に幸福な、明るい気分を与える原因なのではないだろうか。
好きな映画は? という質問をよく受ける。なかなか答えにくいが、強いていうなら、王女会見の場のヘップバーンの有名なセリフを借りて、---たくさんの映画が忘れ難く、どれが好きかをきめるのは簡単なことでは・・・・・いえ、「ローマの休日」、もちろん「ローマの休日」です。
ということになる。

平成30年8月12日 思い出の「ローマの休日」    山田洋次
「ローマの休日」を知らない人はいないだろう。
監督ウィリアム・ワイラー、主演グレゴリー・ペック、そして王女アンを演じた、あのオードリー・ヘプバーン。
アメリカ映画はよく見ていたが、乱暴にいえば娯楽作品と考えていた。チャップリンの作品や、ジョン・フォードの「怒りの葡萄」「わが谷は緑なりき」などが未公開だったせいもあるが、芸術とは縁遠いもののように思えたのだろう。
「ローマの休日」は、もちろん日本でも大ヒットした。しかし、内容は王女様の恋物語である。あんな甘ったるい恋愛映画の、どこがそんなにいいのだ。ある日、その頃カチンコ叩きとしてついていた、渋谷実監督に思い切ってぶっつけてみた。
生意気な小僧めといった顔で僕を眺めながら、それでも親切に答えてくれた。
「ラストシーンの王女の記者会見を思い出してみろ、ほとんどセリフのない、ヘップバーンとペックの短いカットバックのくり返しの、そのひとつひとつが、何を語りかけ、何と答えているかが、まるで聞こえるように分かるだろう。あれが演出というものなんだ」
後に知ったことだが、この映画が作られた当時、ハリウッドには赤狩りという言論弾圧の嵐が吹き荒れていて、良心派であったワイラー監督やクレゴリー・ペック等は、息苦しいハリウッドから逃げ出すようにして、ローマでこの作品を作ったのである。
だから「ローマの休日」の画面に溢れる、のびやかな解放感は、ヨーロッパの自由な空気にふれてほっとしたアメリカ人のスタッフの気分そのものだといってもいいだろう。

続く

平成30年8月5日 陰暦暮らし   千葉望
祖父母の墓の前で、いろいろなことが思い出された。
人間が、自分を愛してくれた人を十分に愛し返すことのなんというむずかしさ。私は祖父母や両親の愛に不自由したことはない。
だが、彼らの深い心に見合うだけのものを返したとは到底言えない。
若さとはたくさんの可能性や美しさをはらんでいるが、経験からくる想像力を大いに欠いている。
今だったら、どれほど祖父母の歩んできた人生を、興味を持って受け止められただろうかと思うと、残念でたまらない。
盂蘭盆会とは、かって自分を愛してくれた人に再会する日であろう。
お盆を迎えるのなら、ぜひ先祖のお墓に足を運んでみてほしい。必ずや大切な人に出会えるはずだから。
  墓拝む人の後ろを通りけり    虚子

平成30年7月29日 見当識3    吉川道子
すべてを済ませたあと、私は夫に見当識の様子を伝えた。親友でもあり、義弟にもなった夫は、言った。
「本当に吉岡、そう言ったのか?」
夫は義兄のことを医学部時代の友人の時のまま、終生こう呼んだ。
「そう、その時、慶兄さん、見当識の字まで教えてくれたもの」
(すごいなあ、吉岡---)夫は呻くようにこう言った。
見当識とは医学用語で見当障害と言い、意識のレベルのことで(判断できる)状態の意味に使うと説明してくれた。
義兄は自身の極限の症状を医師として判断、認識していたことになる。夫はそれを(すごいなあ)と敬意をこめてこう言ったのである。
父も義兄も去って逝った。その後ろ姿は鮮明である。
壁から絵を外した後の空間はいつまでも埋めようがない。

平成30年7月15日 見当識1    吉川道子
壁にある絵を取り外すと、あとの思わぬ白い広さにかえって無い絵と向き合ってしまうと思うことがある。
私は身近な人を失うとよくこのように思った。
亡くなった父は地方の小都市で開業していたが、外科医としての信頼か人柄か実に忙しい病院であった。
手術を終えた父が庭を通って帰ってくると、母や誰彼集まってきて
「お父さん、お疲れ様。大変でしたね」「やあ、ちょっとこみいった手術でね」
父とのそんなやりとりがあって居間は寛ぎの場所になる。父が社会的に働く志が強かったのを見るのはこういう時であった。
そんなある時、父がこんな話をしたことがある。
「患者さんが亡くなる前に、こう何かを手繰り寄せるような仕草をすることがあるね」と両手を伸ばして緩やかに空を掻いた。
忙しくて元気であった父が70代半ばの頃、体調の崩れが出た。それは胃がんであった。
数日後父は夫に付き添われて岩国に帰っていった。見送って池田の家に帰った私は家の柱に身体をぶっつけて初めて泣いた。
数年後、重篤になった父に病室で付き添っている妹が電話で知らせてきた。
「父さんが変よ、手を伸ばして何か招くようにされるのよ」
父が話していた末期の患者さんに見た様子ではないか。受話器を握って身を硬くした。
(父さん、駄目、その招きに応じては駄目)父を幽鬼に渡してなるものか。そして逆らうことの叶わない大きなうねりが近づくのに脅えた。
桜花充ちる春、父、死去、八十六歳。
続く

平成30年7月8日 吉永小百合
第9作「男はつらいよ 柴又慕情」で吉永小百合さんは、寅さんが思いを寄せるマドンナ、高見歌子役で出演した。
撮影所の雰囲気には慣れていたが、寅さんはじめ「とらや」のおなじみのメンバーが毎回顔をそろえる中に「一人ぽんとゲストで入っていくことには、緊張感があった」と言う。和らげてくれたのは、監督と渥美さんだった。
ある晩、翌日の撮影に備えて泊った旅館に監督から手紙が届いていて『明日のせりふを覚えるんじゃなくて、とらやに遊びに来るような気持ちでセットに入って下さい』って書いてあった。ああそういうことなのねって、ほっとして、うれしかったですね。
渥美さんは撮影の合間に、羽仁進監督「ブワナ・トシの歌」でアフリカに行った思い出話を話してくれた。
「テントで生活していて、夜中に用を足そうと外に出たら、無数の星が瞬いていたという話を、渥美さん独特の語り口でしてくださったんです。自分がそういうことから離れすぎている、旅をしたいなあと思いました」

平成30年7月1日 倉田保雄
フランスのインテリ支配階級は毎朝、保守系のル・フィガロを読み、夕方は革新系のル・モンドを読む。だからひとたび政治談議となったら、テーマにこと欠くようなことはない。よくフランス人は財布は右、投票のときは左というが、フランスで暮らしてみるとその辺のかね合いがよく分かっておもしろい。
日本のように新聞がみんなそれぞれ公器であると思い込んで中立を気取っている国では不可解なことかもしれないが、フランス人に云わせれば、新聞が軒並み中立なんてことはあり得ないし、第一つまらないということだが、私もそう思う。
「パ・コム・レ・ゾートル」(他人と同じでありたくない)が確固たる生活信条であるフランス人と、たえず他人と同じでありたい日本人との違いがはっきり現れているわけである。

平成30年6月24日 新渡戸稲造        酒井茂之
新渡戸稲造は、旧5千円札の肖像にも取り上げられたから顔はよく知られているが、彼こそ、日本人として初めて真の国際人になった人物といっていいかもしれない。
明治二十四年に、アメリカ留学の際に知り合ったメリー・エルキントンと結婚し、札幌農学校の教授として赴任する。
しかし、北海道の厳しい気候のために体調を崩し、転地療養中の明治三十三年に『武士道』を英文で書いて出版。当時、日清戦争に勝利した極東の島国である日本と、日本人に対する関心が高まっていた時期でもあり、『武士道』は各国で翻訳されベストセラーになった。
稲造が『武士道』を書くきっかけとなったのは、ベルギーの法学者・ラブレー氏に「あなた方の学校には宗教教育というものがないのか?」と尋ねられ、「ない」と答えると「宗教なしで、いったいどのようにして子孫に道徳教育を授けるのか」と質問されるも、これに即答できず、ショックを受けたからであった。
その後、東京女子大学学長などを歴任し、大正九年に国際連盟が設立されると事務次長に就任した。
昭和八年、カナダのバンフで開催された太平洋会議では、国際連盟を脱退した日本の弁護に努めたが、出血性腎臓炎のためにビクトリア市で客死した。稲造は若い時期、「われ太平洋に架ける橋とならん」との志を立てたが、それを全うした人生であった。

平成30年6月17日 森鴎外      酒井茂之
森鴎外は医師であると同時に、夏目漱石と並んで、日本の文学史を彩る文豪であることは誰もが知るところである。
13歳の年に鴎外は医科予科(現・東京大学医学部)に入学し、16歳で本科に進んで20歳で卒業した。東大医学部に最年少で入学して卒業、しかも在学中は常にトップの成績だったという。この目を見張るような記録は、いまだ破られていない。
文士としては、「舞姫」「雁」などの淡く淋しい恋愛小説から、「高瀬舟」「山椒大夫」などの歴史小説、「渋江抽斎」などの史伝まで、いずれも文学史に残る傑作との評判が高い。
鴎外は大正11年7月死去するが、口述筆記で遺言を残した。そこにはこう書かれている。
「・・・余は石見人森林太郎として死せんと欲す、宮内省陸軍皆縁故あれども生死別るる瞬間、あらゆる外形的取扱いを辞す森林太郎として死せんとす、墓は森林太郎の外一字も彫る可からず・・・」
彼の死生観がよく表れているこの遺言を守り、墓石には一切の栄誉、称号も刻まれることなく、「森林太郎墓」とだけ刻まれている。

平成30年6月10日 城ケ島の雨3      高橋治
小津安二郎は世間では頑固一徹で生涯独特の美意識を貫いた男だとみられている。だがどうでも良いことには実に融通無碍なところを持っていた。
戦後の小津の作品に雨のシーンが少ないのは誰もが指摘するところである。別に理由はない。
ただ、雨の撮影が面倒だったのと、”俺の作品に天気の演技まで借りてくる必要はない”と満々たる自信を持っていたからに過ぎない。
映画はお天気が作るものものではなく、監督が作るものだという態度を潔癖に貫いた。
しかし、有名な例外がある。『浮草』という作品で、どしゃ降りの道をはさんで、京マチ子と中村鴈次郎が怒鳴り合う場面なのだ。
お互いに張り倒してやりたいと思っていながら、余りの雨の烈しさに相手の側に行けない。そこがまた素敵に面白い。
「宮川一夫ってカメラマンは大したもんだぜ。俺に雨のシーンを撮らせやがった」小津はそういってニヤニヤしていた。
その場面では自分の美意識よりも宮川の美意識が優っていたことを恬淡と認めたのである。粋なのだ。
小津も多分利休鼠の似合う男だったのだろう。

平成30年6月3日 城ケ島の雨2      高橋治
着物の色としては、利休茶の方がはるかに着こなしやすい。だが利休鼠は、鼠が勝つと途轍もなく地味になり、緑に寄ると思いがけなく派手になる。無理して着ようとすると、薄ぼけてとんだ野暮になる。
結果として野暮であるのは一向に構わない。人間にはその人なりの器があって、無理をしたところでその外側に出られるわけではないのだから。だが、野暮で終わってしまう人生でも、心映えとしては、精一杯粋でいなせで、まあ、頑張ってますと、自分なりの納得がしたいのだ。
三橋鷹女にこんな句がある。
  夏痩せて嫌ひなものは嫌ひなり
鷹女はふとれなかった体質の人らしい。、晩年の写真を見ても鶴の如き痩躯でしゃっきりと立っている。そんな人が夏痩せをしたら、体力も落ちるだろう。しかし、嫌いなものまで口にしてとは思わない。
これぞ、野暮の対極にある姿勢のように思える。これだけは、だれが何と言おうと、しない。あるいは、何があろうと止めない。
そんな基準を持った人は、いくつになろうと、どんな境遇にいようと、粋な男であり、美しい女なのだ。 続く

平成30年5月27日 城ケ島の雨1      高橋治
 雨はふるふる 城ケ島の磯に         北原白秋 作詞
 利休鼠の 雨がふる
 雨は真珠か 夜明の霧か
 それとも私の 忍び泣き
六月の海は利休鼠の色になることが多い。しかし、これには顔から火が出るような思い出があって、私は忘れられない。
利休鼠とは動物のネズミの一種だと思い込んでいたのである。これが”ちょっと待てよ”と考え直すきっかけは、ある小説に深川鼠の羽織を着た老女の描写を見つけたことだった。羽織とある以上、色の話にきまっている。私はすぐ辞書を手に取った。深川鼠は出ていなかったが、利休鼠の方は緑がかった鼠色とはっきり書かれているではないか。しかも、駄目押しでもするかの如く、利休茶の説明も並んでいた。
利休鼠も特に利休が好んだ色というわけではないらしい。千利休、茶人、抹茶と連想が発展し、抹茶色に寄る鼠色だから、そう名付けられたようだ。これは利休茶にも共通したことで、茶と緑の玄妙な配合が、利休茶と特に呼びならわされる色になっている。 続く

平成30年5月20日 駅   渡辺隆次
ぼくのアトリエの最寄りの駅は、中央線「日野春」である。八ヶ岳南山麓にあり、駅から眺める雄大な山岳風景には定評がある。
足もとからせり上がる八ヶ岳はむろん、南アルプス、奥秩父、南に遠く富士山と、人は一大パノラマに対峙して、思わず感嘆の声をあげるだろう。「ああ、ここには空がある」
「ひのはる」。この明るいひびきの名の駅に、ぼくがはじめて降り立ったのは、信州への旅の途次、あたりの景観に心引かれてのことである。道沿いのムクゲの花が満開だった。
この翌年、駅から北へ二キロの村の片隅にアトリエを建てた。人の運命はわからないものだ。事の始まりは、一時下車だった。
もっとも、人生そのものが、この世にたまたま一時停車したようなものではないか。
各々が手にもつ切符を透かして見れば、終着駅名はみな同じであり、遅かれ早かれその駅に行き着く。
ところで、だれやらの句にこんなのがある。
 日の春をさすがに鶴の歩みかな
うろ覚えだから少し違っているかもしれない。めでたい初日の出を詠んだものだが、山ろくの駅名になにかふさわしい。

平成30年5月15日 母の日   富士真奈美
「今年の母の日はラクだった。欲しいものがわかっていたからね」
と娘から手渡されたプレゼントは、スウォッチの腕時計だった。
私の腕の幅ほどもある大きな時計である。手ごろな腕時計が欲しいな、とデパートの売場で立ち止まったことはあるが、私ならこんなでかい腕時計を買おうなんて発想はなかったと思う。
「あ、私の赤いジープに良く似合うわ。ありがとう」と殊勝げにアタマを下げて
 「母の日や 見やすき文字の 腕時計---ね」
即興の俳句で感謝した。そして娘が幼かった頃の母の日を思い出していた。
  八歳の 母の日の 肩たたき券   衾去(富士真奈美)
娘から渡された肩たたき券を、その後何年間もお守り札のように財布に入れて持ち歩いていたものだ。
あの頃は蜜月だったなぁ、と懐かしい。
忘れっぽい私も、俳句で括れば優しさまで甦るようである。

平成30年5月13日 時は巡り 友は去り   森繁久弥
三三ヶ九が出たのなら、八八・六十四、”八波むと志”というコメディアンの話もしておきたい。
浅草で叩かれてきた良い腕、悪い腕をひっさげて丸の内入りした。
或る日、浅草役者の悪いクセで、私にスカシを食わした。スカシというのは人のセリフを真面目にうけないでとぼけることをいう。これはもっとも行儀の悪いやり方である。私は我慢した。ところが二度三度、とうとう堪忍袋の緒が切れて、部屋に呼んでこっぴどく叱りつけた。
以来なんとなく不仲の歳月が流れ、風の便りに彼も反省している風な声が聞こえてきた。
十二月三十一日、私はNHK紅白歌合戦に出演するため劇場に赴いたが、「あなたが休息する楽屋は八波さんのお部屋です」といわれた。
誰もいない八波の部屋で、私は妙に懐かしさを感じ、白粉をといて鏡に、
「許せ友よ、心おきなく話せる昔にもどろう。それでなければ歳月に相済まぬ。森繁久弥」と書いて舞台に出た。
開けて元旦。彼は素晴らしい舞台をあけて五日目、終演後タクシーと共に電柱にぶつかり、無意識のまま数日を経て往生した。
病院に見舞いに行った時、弟子たちの
「あんなに喜んでおりましたのに、長い間、鏡の字は消さないででおりました」という言葉に、私は不覚にも涙を流した。

平成30年5月6日 時は巡り 友は去り   森繁久弥
  山茶花を雀のこぼす日和かな
どなたの句か失念したが、いかにも早春のあわれを誘う陽射しを感ずるのだ。まことに可弱い冬の花が、雪に、身を切るような寒風の中に、白や薄紅色の八重の花びらを散らす風情は何とも美しい。
この山茶花の花とは似ても似つかぬ私の友がいた。遂に肺を病んで物故したが、その名を山茶花究という。
これは花に因んでつけたわけではなく、ただ三三ヶ九をもじっただけだが、ひときわクセのある男だった。
いかにも仇役の典型ともいうべきにくらしい面がまえ、色紙を頼まれると「非情」と書くような奴だった。
宴会でも何一つ料理を口にしない妙な男の悲しい末路は、加えて栄養失調で、がい骨のようであった。か細い声で、私の手をとり、
「もうアカン」
「元気出せよ」
「フム、なんや淋しい。一緒に行ってくれへんか」
そこまでは付きあい切れない。返事に困って、ただ呆然と友の顔を見るだけだった。
彼は何を想い、どこを見ているのか、いかにもあの世が見えているようなかすんだあの彼の目を忘れることが出来ない。
そして三月四日、山茶花の花のように散りこぼれて死んだ。まことに痛ましい破滅型の最後だった。
続く

平成30年5月5日 僕にとっての川島雄三    山田洋次
松竹に助監督として入社し、最初に配置されたのが川島組だった。今では川島雄三監督は伝説的な人となっているが、当時はまだ新進気鋭といった位置にいた。僕はこの個性豊かな監督を目の前にして、何もかも驚くことばかりだった。
川島さんは小児まひの後遺症で脚が悪い。小児麻痺独特のパタンパタンと投げ出すような歩き方をする。
撮影が終わり、編集が済むとダビングが始まる。監督は狭い調音室のソファに腰を下ろして、一日中本を読んでいた。
いったいこの監督はどんな本を読んでいるのだろうと、川島さんが席をはずした折に机の本を手に取った。それはフランスの天才的数学者であり、革命家でもあったガロアの伝記「神々の愛でし人」だった。川島さんが戻り、あわてて本を置く僕に、
---その本読みたいですか。貸してあげます。
と云ってその本を渡してくれた。監督が本を貸してくれた。それだけでもうれしかった。僕は一晩か二晩で読み通した。
その本を川島さんに返したのはダビングの終わった日、つまり監督との付き合いの最後の日だった。
礼を云って本を返そうとすると、川島さんは、君に差し上げます、と云ったあとで、こう付け加えた。
---人間に勇気を与えてくれる本です。
僕が印象深かったのは、そう云った川島さんの顔が、パァーッと赤くなったことである。そんな真面目な、正面切ったものの云い方をすることが川島さんにとってどんなに恥ずかしかったことか、しかし、この若者にはそんな風に言わなければならないのだ、という義務感が、親しい人達には決して口に出さないような言葉を吐かせたに違いない。
川島さんに貰った「神々の愛でし人」は、今でも僕の本棚の一番上におさまっている。

平成30年5月4日 母     浅田次郎
東京オリンピックの前年のことである。
私はどうしても私立中学を受験すると言い張って、貧しい母を困らせた。生家は数年前に没落し、家族は離散していた。遠縁の家に預けられていた兄と私を、母はようやく引き取って六畳一間で三人の暮らしが始まったばかりであった。母はナイトクラブのホステスをしていた。
合格発表の日、母は夜の仕度のまま私と学校へ行ってくれた。盛装の母は場ちがいな花のように美しかった。私の受験番号を見上げたまま、母は百合の花のように佇んで、いつまでも泣いていた。
その日のうちに制服の採寸をした。それから、小さな辞書には見向きもせず、広辞苑と、研究社の英和辞典、大修館の中漢和を買いそろえてくれた。おかげで私はその後、吊り鞄のほかに三冊の大辞典を詰めたボストンバッグを提げて通学しなければならなかった。
紅葉の色づくころ、母が死んだ。癌を宣告されてからもけっして子供らの世話になろうとせず、都営団地にひとり暮らしを続けた末、消えてなくなるように死んでしまった。七十三の享年に至るまで、たおやかな一輪の百合の花のように美しい母であった。
遺された書棚には私のすべての著作に並んで、小さな国語辞典と、ルーペが置かれていた。
あの日から、三冊の辞書を足場にしてひとり歩き始めた私の後を、母は小さな辞典とルーペを持って、そっとついてきてくれていた。
そんなことは、少しも知らなかった。

平成30年5月3日 父    岡部千鶴子
大学4年の春だった。フランスで遊学を終え、帰国の途に就いた。パリ・オルリ空港、大韓航空707便。夜八時突然目の前がピカッとオレンジ色に光り、爆発音。大韓航空機はソ連領空を侵犯した。飛行機は奇跡的に凍結した湖上に胴体着陸した。
思い出は薄まらないけれど、あの出来事から20年がたったころ、やはりあれは一つの死だったと思わせることがあった。
父が亡くなり、日記が出てきた。飛行機事故があった日のページに、突然娘の死を知らされる父親の、どうにも術のない感情が、あふれるように乱れて綴られていた。
私はどんなに愛されていたか。泣かずにいられなかった。
今更思っても仕様もないが、この日記を父の生前に見ていたら、と思う。そうしたらもっと良い娘になれたのに。
父娘とは、他所もそういうものかもしれないが、肚を割って言葉を交わしたり理解し合うことはなく、謂れのない憎しみで刺々しくなっていくものなのだろうか。心の底から謝りたかった。
その日記は父の部屋にあった。が、私の手で見つけたのではない。
葬儀は父の弟子たちの手に委ねられ、生前ゆかりの品々を飾るため家探しをしたなかにあったのである。
かって酌み交わした酒器揃いを見つけた男性が一瞬破顔し、「あー、これで飲んだ飲んだ」。と宝物でも見るようににこにこしている。
私など、まるで、親戚の子のように立って見ているだけだった。
努力で勝ち取った師と弟子の紐帯は、ただそこに生まれましたという意志のない血の絆より美しく思えた。私は負けたと思った。
父のなきがらは、竹刀と剣道着で荘厳が尽くされた。大車輪の葬儀前夜に出てきた日記が、今、語るように私の枕元にある。

平成30年4月30日 いちばん温かかった日  東京都 山口秀樹28歳
大学を卒業して某金融機関の大阪支店に配属となると同時に、私は、盲人の方の英語の「リーディング」を始めました。
リーディングは、テキストを私が読み、盲人の方が点字のタイプライターでその日本語訳を打つというものですが、それを初めて半年後の冬のある日のことです。その日は何人かのリーディングがあり、それを終えて帰ろうと自転車置き場に行くと、二時間以上前にリーディングを終えて帰宅しているはずの中学二年生の盲人の女の子が、私の自転車の側でうずくまっていたのです。
「どうしたんや、こんなところで。寒いのに風邪ひいたらどないするんや」
と私が言うと、彼女は、
「帰ろうと思う;てんや。そしたらさっき先生が自転車の荷台に太いひもをつけたんや言うてたの思い出して、どんなんやろう思うてさわってたらチェーンはずれてるのに気がついて、直したろ思う;やけど、うち、目見えへんやろ、うまいこと直せんと。先生、うちのために会社で疲れてんのに日曜日にはいつも勉強教えてくれて。それなのにうち、何もしてあげれんから、くやしいな、くやしいな・・・・・」
と言って、泣き出してしまいました。
私は彼女の、油で汚れて黒くなった手、傷だらけで血も出て赤くなった手を見て、もう無我夢中で、
「もうええよ、もうええ。おおきに、おおきに」と彼女の手を握りしめていました。
粉雪が降って身を切られるほど冷たい日でしたが、手に落ちる彼女の涙のぬくもりが、あたたかく私の心も体も包み込んでいったのです。
あの日の涙のぬくもりが、私にとって終生忘れられぬ宝となりました。

平成30年4月29日 永井荷風    酒井茂之
浅草のストリップ小屋で、胸をあらわにした踊り子たちに囲まれて笑っている老人を撮ったモノクロ写真が残されている。
伝えられるところによると、いつも楽屋を訪れる老人を、踊り子たちは「文化勲章を受章した偉い先生」だとは知らず、ただの女好きな老人だと思っていたという。
昭和二十七年、文化勲章を受章した荷風は、昭和三十四年に、市川市八幡町の侘び住まいで、口から大量の血を吐いて絶命しているところを発見された。かたわらに多額の現金(現在の金額で3億円以上)が記載された通帳の入った、手提げ鞄がころがっていた。
彼が死ぬ間際まで記録していた日記『断腸亭日常』に、死後についてこう書かれている。
「余死する時葬式無用なり。死体は普通の自動車に乗せ直ちに火葬場に送り、骨は拾うに及ばず。墓石建立亦無用なり」
 との遺言にもかかわらず墓はつくられた。文化勲章受章者の墓をつくらないわけにはゆかなかったと思われる。

平成30年4月22 荷風     小沢昭一
   葉桜や 人に知られぬ 昼遊び   荷風
私の日頃愛誦している句です。はい、私、荷風崇拝者でありまして、私のあこがれの生き方、あこがれの所業、私ごとき凡人のなし得ないオコナイをきっちりおやりになって、キビシイ最期をとげられた永井荷風センセイ。土下座のほかはありません。
「人に知られぬ昼遊び」---この言葉に荷風の世界が凝縮しているような気がします。どんな昼遊びかは見当がつきます。
ブランコに乗ったり、隠れんぼをしたりではありませんよね。いや、それに近いかもしれませんが・・・・・。

平成30年4月15日 川田芳子     小沢昭一
升本喜年著『かりそめの恋にさえ---女優・川田芳子の生涯』
いまや、この当時のトップスターの名をまったく知らない人も多くなってしまったようです。
及ばずながら私も、芸の道を歩む一人でありますが、しかし、高齢化してまいりますと、芸道の、具体的な芸の苦心よりも、芸人の生き方に、より関心が深くなるのです。この本の著者は、かっての松竹の三大スターを対比させて、
「一人の女として聡明に生きた栗島すみ子、自ら運命を果敢に切り開いて行った田中絹代、・・・・・川田芳子の場合、運命のままに次々と押し流されて行った感がある」と述べております。
いさぎよくスターの座を退いて、日本舞踊水木流の家元として晩年を全うした栗島すみ子。老醜をさらしてまでの名演に輝いて、最後まで女優を貫いた田中絹代。そして芸者の出身ではあったが、六十過ぎてから温泉芸者に出て、老残の果てにひとり陋巷に息絶えた川田芳子。芸人の人生の三様がここに見られると思われました。
川田芳子の生涯は、芸人の”末路哀れ”を絵にかいたようだと人は言うのかもしれません。しかし”末路哀れ”こそ、芸人の花の生涯なのではあるまいかと、ふと私は思ったりもしているのですが、他人さまの末路なら、そうも言えるのでしょうか。私もいよいよ”末路”を迎えて、さあ、どうなりますのやら。

平成30年4月8日 志賀直哉     酒井茂之
志賀直哉は生前から「死んでから盛大な葬式は考えてもいやだ」と語り、家族には墓をつくらず灰は自宅に置いて、邪魔になったら海に沈めてもらいたいと伝えていたという。しかし、盛大な葬式こそおこなわれなかったが、青山葬儀場には千人以上の人が詰めかけて見送り、垣根に囲まれた志賀一族が眠る広い墓地に墓がつくられた。
里見クと散歩中に電車にはねられて重傷を負ったあと、城崎温泉で静養していたときに見聞したことをもとに書いた『城の崎にて』、父との和解を描いた『和解』、唯一の長編『暗夜行路』を発表。近代文学の最高峰といわれる簡潔な文体は、優れた散文表現と評価され『小僧の神様』という短編からとって、「小説の神様」といわれた。
昭和24年に文化勲章を受章した近代文学の至宝の遺骨は、生前に陶芸家・濱田庄司につくってもらった骨壺に納められ埋葬されたが、骨壺ごと盗難にあい、墓には直哉の骨はないと伝えられている。

平成30年4月1日 現代学生百人一首
 祖母の死に 涙流して手を合わす 母の姿が小さく見える       富山聾学校1年  金井秋彦
 夕暮れに庭の柿の実ながめれば 懐かしきこと今よみがえる    太田東高校1年  坂田浩一
 亡き祖父の思い出話に涙する 母が娘にもどった命日         武蔵野高校2年  加藤浩子
 図書室の貸出カードに君の名を 見つけて借りたヘルマンヘッセ  神奈川大学付属高校1年 伊藤眞子
 日だまりで紅葉と話すわが祖母は 枯葉のごとく老いてゆくなり   北条高校1年    黒田奈緒美

平成30年3月25日 現代学生百人一首
 折鶴を 折りし幼きあの頃の われに会いたくて折り紙を買う     福光高校3年   水戸一代
 人生に初心者マークないものか 頬杖ついて高校3年         池田高校3年   村上優子
 病床の祖母の寝顔はいたましく 冬の訪れなお気にかかる      明星高校2年   井上一樹
 叶うなら 亡母と二人で歩きたい 十七の夏十七回忌          五泉高校2年   小川峰可
 週一度 やさしい父の顔を見る 単身赴任は疲れませんか       楠蔭高校2年   嶋岡早苗

平成30年3月18日 ありがとうが言いたくて  生島ヒロシ
主人の定年目前にして、半身不随になった私。
主人の生活は一変しました。
メモを持ち、スーパーに自転車を飛ばすが、財布を忘れたといって戻ってくる主人。
花と草の見分けもつかず、花までむしって平気な顔。
笑いあり、涙ありのこの十年、本当にありがとう。
溝井三代子  (神奈川県 66歳)。

平成30年3月11日 神頼み   田中善治
日本の船には大小に拘わらず、操舵室や海図室に神棚がある。
外航船や大型船になるとほとんど四国の金毘羅宮を守り神としており、そのお札が麗々しく安置されている。
昭和45年10月、私は一等航海士としてT丸に乗船した。4航海目にアメリカで甲板上に原木を板蒲鉾状に積み上げて日本に向かった。
冬季北太平洋は特に偏西風が連日吹き荒れ難儀するため、甲板上の原木はワイヤーとロープとチェーンで念入りに固縛し荒天航海に備えた。
案の定、日付変更線を過ぎる頃より、波浪は小山のようになって本船に襲い掛かってきた。いつもは快活なK船長の表情にも緊迫したものを感じた。烈風と10メートルを優に超す波浪に、船長は連日連夜操舵室の窓ガラスから荒れ狂う波浪をにらみつけていた。
不意に私の横に来て原木の固縛を切断して投棄できないか、という。荒天の中での海上投棄は命がけの作業であることは皆知っている。私は、まだ舵効があるうちは暫く凌げるのでは、と進言した。船長は黙ってその場を離れた。
数分後、心配になって海図室を覗くと、神棚の前で大揺れに耐えて足を踏ん張り両手を合わせて必死に祈る孤独な船長の後姿があった。

平成30年3月4日 ありがとうが言いたくて  生島ヒロシ
脊椎を損傷して寝たきりの生活も六年。
在宅にて夫の、いわゆる、゛男の介護を゛受けております。
「こんなはずじゃなかった俺の人生」が口グセの夫。
でも、相田みつおさんの詩、
「生きているうち、働けるうち、日の暮れぬうち」に出会い、すっかり変ったわね!
仕事と介護の両立で大変だろうけど、趣味のテニスも続けてね。
ああ、あなたが倒れたら生きていけない私。いつもありがとう。
一生に一度の互いの人生、私もあきらめていませんよ。
  M・N  (熊本県 45歳)

平成30年2月25日 ありがとうが言いたくて  生島ヒロシ
かみさんへ
タンスの一番下の引き出しに私の真新しい下着がいっぱい詰まっていました。
テレビ台の中には、使った形跡のない料理の本が二冊入っていました。
いつ買っておいたのですか。
私は今になって知りました。
自分が、この世を去ったあとのことを考えられるあなたの気持ちの優しさ。
長い病の末、この世を去った、かみさん。
ありがとう。
また、いつかお便りします。
  五十嵐進  (東京都 67歳)

平成30年2月18日 ありがとうが言いたくて  生島ヒロシ
退職された方から「退職のあいさつ」のハガキが届く。私は必ず返信のハガキを書く。
「長い間ご苦労様でした」と書きながら、気持ちがしっくりしない。
そこでいい言葉を見つけた。
「長い間ありがとうございました」
お仕事に励んでこられて、きっと世の中の一隅を照らしてくださったに違いないと思う。
長い間、ほんとうにありがとうございました。
  上岡美智雄  (高知県 80歳)

平成30年2月11日 信州あるある   加藤清志
小学校のプリントに「水くれ当番」。友人にお菓子をもらったとき「子供にくれてやって」と言われてビックリ。
「改札の前でで待ち合わせ」と他県の人にいうと「でが多い」と突っ込まれる。まえでにどうぞ
?も方言か。
「カギをかってくる」というと、「買うの」と聞かれる。昔、引き戸につっかえ棒をかっていた名残かも。
「持ちに来て」といったら、「まさか重いものを持たされる?」。「持ち」を「取り」に変えるとわかりやすい。
「リンゴがボケる」は標準語では言いあらわせない。「スカスカになる」が近いかも。
「家がたたった」といったらおはらいをすすめられた。たたったは「祟り」ではない。「建つ」だ。
運動会のプログラムに「とびっくら」があった。「かけっこ」より「とびっくら」のほうが足が速い感じ。なにしろ飛んじゃうんだから。
「野沢菜漬け」を「おはづけ」と呼ぶ。大切なものには「お」をつけるんだね。

平成30年2月4日 川柳こころ遊び       田口麦彦
   朝起きて 夜寝るまでの 探し物   和田彰夫
「そんなおおげさな」と笑ってしまうかもしれないが、これが老いの現実である。
どんなに錆びつかないようにしても大脳の記憶装置が作動しなくなるのは人間が動物である以上、仕方がない。
いま街を颯爽と風を切って歩いている若者もいずれは歳をとる。
老いの問題を共通のものとしてとらえる視点がもっとあってよいと思っている。

平成30年1月28日 愛しい人へ   宮崎能子 65歳   永六輔編 
「逢いたい」の曲が最初に放送されたとき、主人はミシン、私はアイロンの仕事をしていました。
曲が終わって主人が振り向いたとき、私も主人も涙でいっぱいでした。
その主人も去年7月5日、癌で亡くなりました。70歳でした。
やっと1周忌も過ぎ、ハガキを書く気になりました。
この曲は二人の気持ちが通じ合った曲でした。
今は、思い出されてほんとうに逢いたいです。涙でいっぱいです。

平成30年1月21日 人生川柳
   えんぴつを なめなめおぼえた じもわすれ   中沢禎壱
この川柳、おそろしい。漢字ゼロ。
あの文字はどこへ行ったのかなぅ。やさしい字なのになあ。
確か、書けたんだがなぁ。たしかあんたはぁ、はて、どなたでしたっけ?
「高齢者は尊敬され、軽蔑される。その長い経験で尊敬され、その長いグチで軽蔑される」

平成30年1月14日 人生川柳
    敵に背を 見せない性質で 負け続け    中橋孝行
良く言えば、一本気。融通の効かない偏屈。
それでいて、どこか、憎めないところも持ち合わせていて、
損な性分だなぁ。分かっているんです。
奇人、変人の陰口も気にせず。こんな人が、案外、いい仕事をしている。

平成30年1月7日 俵万智
出会い・・・・・そう、生徒たちとの出会いが、四年間の教師生活の一番の財産だろう。
私は生徒に限らず、人と人の出会いが、自分にとっては何よりの宝だと思っている。
そして、出会いは無数にあるけれど、別れは一つもない、とも思っている。
物理的に、あるいは精神的に遠ざかることがあったとしても、「出会った」という事実は消えやしない。

平成30年1月4日 最高の贈り物    木村恵利香  仙台市立荒町小学校5年
台所の棚に、まだ使ってない新しいまな板がありました。「この新しいまな板はいつから使うの?」と私が聞くと、
「そのまな板はまだ使うことが出来ないのよ」とお母さんに言われました。
そのまな板は、夏の終わりにお母さんがおばあちゃんから頂いたものだそうです。
おばあちゃんは、ガンで入院し、治療を終わって退院し、家で静養していますが、いつ再発するかわからないのだそうです。
もし、今度入院したら家には戻れないかもしれないので、そうなる前におばあちゃんがお母さんへ贈物をしてくれたのです。
その贈物がまな板です。まな板をお母さんへ渡す時こう言ったそうです。
「もし、私が死んだら、後に残った人たちは忙しいから、私のことなど思い出すこともなくなるでしょう。でも、台所でまな板をトントンたたくたびに、きっと私のことを思い出してくれるでしょう」
お母さんは、その言葉を聞いて泣いてしまい、その後何も言えなくなったそうです。
おばあちゃんは、自分がガンであるということを知っていながら、一つも不満を言わず、いつも「今が一番幸せだよ」といっています。
人間は、人生の最後に自分の家族に何を残せばいいのだろうかとふと考えました。
私のおばあちゃんが、生きているうちにあとに残そうとしている物は、まな板というささやかなものです。
でも、私たち家族にとっては、「最高の贈り物」であると思いました。

平成30年1月3日 榎本勝起
  レンタルの 晴れ着で写す お正月      渡辺良一
申しません、申しません。人生の幸せの瞬間を切り取った一枚のスナッブ、しかも、借り着なんて。
もしかして、もしかして、隣に立っている人、レンタル?妹さんからの?彼の後ろに写っているのもレンタカー?
でもね、みんな、ローンの家に住み、ローンに乗り、ローンを着ているんで、気にしない、気にしない。
ある人が言っていたわ。「人間の命は、神様からの借り物。レンタルのようなものですって。いつか、きっと返さなきゃならないって」

平成30年1月2日 身ひとつの今が幸せ   富士真奈美
そうだ。今夜も、活躍している炊飯土鍋で牡蠣雑炊を作ってみよう。卵でとじて、三つ葉を散らして。
   牡蠣雑炊 われら明治に育ちけり     伊藤余支江
その雑炊を、明治生まれの母にもう一度食べさせてやりたい。一緒に食べて、
 「おいしいわねぇ。あったまるわ」
などと、喜んでもらいたい。母は九十歳。もはや病院暮らしの身である。二度と叶わぬ情景かも知れない。
思えば、家族一同が顔をそろえ、夕餉の卓を囲んでさりげない会話を交わしながら食事をしあった光景は、あまりにも遠い過去になってしまった。あの当たり前であった情景はもう二度と還ってこないのだ、と思うと、突然、途方に暮れたような気持ちになった。いやはや。
2017年師走、そして2018年へ。
  一切を 過去に投じて 今年あり     富安風生
  正月の 子供になって みたきかな   小林一茶
うん、この意気込みである。

平成30年1月1日 元旦
明けましておめでとうございます。
皆様、よいお年をお迎えのことと存じます。
今年も緋色窯をよろしくお願いいたします。
     
   萩 備前 黄瀬戸 絵唐津 初日の出

私は昨年古稀になりました。
孔子の『論語』に「七十歳にして、心の欲する所に従えどものりをこえず」
(私は七十才で思うままに生きても人の道から外れるようなことはなくなった)
江戸時代の都々逸に、「割って見せたや私の心、割れば色気と欲ばかり」というのがあります。
人間の心にはいつも色気と欲が先行しているのではないでしょうか。
目先の私欲に振り回されるドロドロとした心ではなく、自分の欲望をしぼませて、サラサラとした清々しい心になれるようにしたいものです。

腰が痛い、目は白内障、耳・歯が悪いという老人化の症状も、まだけっこう笑って話せます。
年をとることについて、初老あたりだと本人はあまり深刻な気持ちにならないものです。
しかし、薪窯を焚くのは、精神的にも体力的にも、ハードで年寄りには向かない仕事です。
でも、年をとり、経験を積んだから、たくさんの方に信じてもらえたり、協力してもらえるのだと思います。
ありがたいことです。
やきものは私の人生そのものです。
年をとっても、やることがあるということは、本当に幸せなことだと思います。

今年は自分らしく、そして楽しく生きていきたいと願っています。

*ホームページを開設して18年、工房は22年、穴窯は11年目です。
2018年が皆様にとって、明るい年でありますよう祈念いたします。