令和2年に続く

令和元年12月31日 大晦日
不条理な日常生活が私たちを取り巻いています。どうにもならない事がたくさんあります。
しかし、どうにもならない事を、どうにかしようという心と行動は私たちの心をゆさぶります。

毎日を当たり前のように暮らしていた自分に、今年は大きな転機が与えられました。
病人を介護している人が病気になるとか、介護疲れで鬱になるなどということがよくいわれます。
実際に、私も妻も98歳の母の三年間の老々介護で病気になりました。
ボケた母は「お金をとられた」「意地悪された」とよく言いましたが、介護者の精神的ストレスは ゛ボケ老人の言葉゛ だそうです。
私は若いようでも七十二歳、真夜中に母が何度も何度も救急車のお世話になり、病院で暴れ、入退院を繰り返す母の介護疲れで、精神的にも肉体的にも限界だったのです。昨年12月には妻はストレスで二度倒れ救急車で入院しました。
今年1月末に葬式が終わり、私は心労で体重が10キロ減でした。すぐ病院で見ていただき、今年一年間療養しました。
もう元の躰には戻りませんが、これからは病気と上手に付き合っていきたいと思います。

来る年が、皆様にとって、さらにおだやかで、のびのびした年でありますように祈念いたします。
良い年をお迎えください。

令和元年12月29日 老親
両親は寝たきりの介護されるようになった数年間、二人にとって決して幸せな時ではなかったと思う。
私と妻は懸命に老々介護し共倒れ寸前の状態でしたが、色々悔いはあります、後悔もあります。
しかし、両親にも若い日があり、子供の成長に希望に燃え、幸せだった時もあっただろうと思うと、少しは慰められます。

母は延命治療はしないと病院に告げていました。
最期を看取った私たち遺族がいま思うことは、意識不明で心臓だけが動いている状況での、あの薬は何の意味があったのか。
もう長くないといわれた3年前、もうすぐ死ぬといわれた1年間、皮下点滴と酸素マスク、あれは延命治療ではなかったのか。
もっと早く、静かに死なせてやれなかったのは大きな後悔です。

令和元年12月22日 天使の手    川路ゆさ  
昭和五十九年十二月、田舎の母が他界した。最期を看取ったのは義妹だった。
寝たきりの母を、義姉・姉・私が引き取らない中、手を差しのべてくれたのは義妹だった。
まだ幼い二人の子供を抱えての半年間の悪戦苦闘が始まったのである。サラリーマンの弟は頼りにならなかった。
敬虔なクリスチャンである義妹は、自分に与えられた試練と受け止めていたようだ。
やがて夜中にむずがる母の相手まで始めた時、疲労はピークに達した。
弟からの電話で、驚いて帰省した時、義妹は別人のようにやせ細っていた。
ある夜のこと、笛の音で目覚め、雨戸をあけると、庭先で義妹がフルートを吹いていた。
コスモスの花畑の中で、満天の星に向かって、細い指が踊っていた。弟に聞くと義妹は毎夜フルートを吹いていたそうだ。
疲れ果て、それでも母に優しくしたい義妹は、なんとか自分を見失うまいと好きなフルートで気分を立て直していたらしい。
その時、私は初めて自分を激しく恥じた。仕事の忙しさにかまけ、逃げていた自分をはっきり知ったのである。
嫁が姑の世話をするのは当然というような気持ちが私の中になかった、とは言い切れない。
義妹が、ただ夫の母であるというだけで、毎日、魂をけずる思いでいる時、私は都会で友人と酒を飲み笑い合っていたのだ。
雨戸を閉めながら私の手はふるえていた。
それから間もなくして母は死んだ。

令和元年12月15日 大阪弁川柳
 ついてるでぇ つけてまんねん ご飯粒   山田啓子
 そやけどな 失楽園はしんどいで      太田又稔
 よう辛抱しはりましたと 妻の酌      井上たかし
 もうちっと 心に化粧しなはれや      乙倉武史

人生川柳
  急ぐとも 心静かに手を添えて
  外にこぼすな 松茸の露      詠み人知らず


男はみんな同じですね。自分のがよほど大きいと思ってるのか、勢いよく飛ぶと思っているのか。
「一歩前」

令和元年12月8日 犬と棒   楊 逸
 犬も歩けば棒に当たる。
あなたは、犬それとも棒。本気半分からかい半分で日本人の友達に尋ねると、だいぶ悩んだ末に「犬なんだろうな」と答えてくれた。
どうも日本人は犬に対して、中国の「イコール畜生」という罵倒語的なイメージがなく、まるで抵抗がないようだ。
 指切りげんまん嘘ついたら針千本飲ます。
その意味を真面目に考えると、子供の明るく楽しそうな声と裏腹に、極めて恐ろしい「誓い」であるように思えてくる。
これと同じシチュエーションで、中国の子供は「嘘ついたら、犬になる」と唄うのだ。
いわば、犬になるという中国的な感覚は、日本の「針千本飲ます」に相当するもので、人間として最も屈辱的で受け入れられない事である。
そして、犬以下は走狗、つまり「悪の手先」である。
私は、幸か不幸か、悪の手先の人間ならたくさん見てきたけれど、そのような犬は未だ見たことがない。
何れにせよ、人権ならぬ犬権もない環境で育った私は、棒にたたかれてばかりの犬より、一度で良いから、犬でも人間でも叩ける棒になることを、選んでしまいそうな気がする。

令和元年12月1日 ある老女の遺書         河橋敏江
   老人ホームで孤独に死んでいったある老女の書置き。
私が十才の時、父と母と一緒に暮らし、二十歳になろうとするとき花嫁になり、二十五歳で子供が生まれ、子供のために安全で幸福な家庭をきずき、三十歳の女性になり、子供の成長は早く、巣立つ日も近く、五十歳の時、再び、私のヒザの上で幼子が遊び戯れ、もう一度私を愛する子供達と私は理解し合う。
夫が死に、暗い日々が続き、未来を見つめ、恐怖に身震いする。
若い者たちは皆子育てに忙しく、私は昔を、愛し合った日々を思う。私は年老いた女、自然は残酷だ。老年が私をおろかに見せる。
私の体から優雅さは打ち砕かれた。活気はなくなり、かって熱く燃えた心も今は石のよう。
しかし、この古い身体の中に、若い少女は住み続ける。
そして今も再び、心がときめく喜びの日々を、また苦しかった日々を思い出し、私の人生を愛し続け、過ぎ去った日々をびたどる。
永遠に続くものは何もないという厳しい事実だけを残し、あまりに短い、あまりにも早く過ぎ去った年月のことを思う。
さあ看護婦さん、目を開いて私を見つめて、もっと側に寄って、気難しい老女でない、私を知って。

令和元年11月24日 文明の偏見    藤田絃一郎
ヒトは有史以来、寄生虫と仲良く「共生」してきた。
寄生虫との「共生」ををやめた最近の日本人は、花粉症やアトピー性皮膚炎などのアレルギー病に苦しむ結果になった。
寄生虫と「共生」しているインドネシア人にはまったくアレルギー病が見当たらないのだ。
そんな人たちといっしょに生活していると、清潔って何だろう。健康って何だろう、と考えさせられた。
そして、僕たち日本人の健康観や人生観は、この広い地球上ではごく一部の人々の考え方に過ぎないことに気づいたのであった。

令和元年11月17日 柿右衛門の茶碗
私は毎日使っているめし茶碗をつくづく眺め、自分の人生を振り返ってみることがある。
私たちの年代はめしどころか鼻の下を通るものであれば、何にでもかぶりつくという実にあさましい一時期を体験した世代である。
そんな育ちのせいか、食事といえばただかぶりつくだけで、食事を楽しんだり、その器を愛でたりするという心の余裕や豊かさなどかけらも持ち合わせていなかったのである。
あるとき同級会から帰ってしばらくすると、私に恩師から小包が届いた。中からは実に見事な白磁の茶碗、薄造りでいかにも脆そうで扱いも丁寧になる。添え書きによれば「柿右衛門の茶碗を君に進呈しよう。4年生の国語の時間に教えたが覚えているだろうか」というだけ。
--何故に、あの先生が、この俺に柿右衛門なのか?
それでもその茶碗で食事をするようになってだいぶ経ったころ、家内が不意にこんなことを言ったのである。
「このごろ食事がとても丁寧になったわよ」
そう言われてみて私もようやく柿右衛門の意味が解ってきた。もっと豊かな人間であってほしいという先生の言葉が。
この茶碗がなかったら私は一生こじきのような食事をくり返して自分の生を終えたであろう。
そう思うと、この茶碗を贈ってくれた先生に感謝せずにはいられない。

令和元年11月10日 バスの中で      山田恵美
学生時代にバスを利用していたある日、若い母親に抱かれた赤ちゃんが泣き止まない。
私は早く降りないかなぁ、お母さん何とかしてよというのが偽らない本音であった。
若い母親は、半分涙声で、「泣かないの、泣かないの」と繰り返すばかり、のその時。
「泣かせておきなさい、誰でも赤ちゃんだったんだよ、みんな他人に迷惑かけて大きくなったんだから遠慮なんかするすることない」その声はバスの運転手さんであった。
私はその言葉にハッと我に返ると同時に、とても自分がちっぽけで、自分勝手で情けない人間だと、恥ずかしさに身のちぢむ思いであった。そして、今自分がここにこうしていることを、誰の手も借りず、一人で成長してきたように勘違いしていたことを思い知らされたのであった。私も幼い頃は泣き虫で、皆を困らせて大変だったという話を、昔母から聞かされたことを思い出した。
きっと母もこんな風にして私を育ててくれたに違いない。申し訳なさそうに小さくなっている彼女の顔と私の母の顔が重なって思い出された。

令和元年11月3日 真如の月    高畠弘子
あれは私がセーラー服の時代だったと思う。
今まで、この和尚さんと話をしたことなどなかった。
今しかない、そういう切羽詰まった思いに駆られて、私は口を開いた。
「和尚さん、真実って、何なのでしょう」
誰も答えてくれそうもなかったから、誰にも聞いたことなどなかった。
「雪が降るでしょう。白いですね。それが真実です」
和尚の笑ったままのお顔がさらに笑って答えた。
「そうなんですか、ああ、そうだったんですか」
二十歳の時には二十歳の心で思う。
四十歳の時には四十歳の心で。
七十歳の時にもやはりそう思うだろう。
真如の月のようなあの言葉を。
「雪は白い、それが真実なんですよ」と。

令和元年10月27日 近衛文麿   須藤慎志
近衛文麿は、平安京を舞台に藤原時代を築いた一門の直系という高い家柄に生まれたばかりに、昭和前期の動乱の中で政治の表舞台に登らされ、服毒自殺という悲劇的な最期を遂げざるをえなかったのは、なにやら歴史の因果を思い起こさせる。
近衛の墓は菩提寺である大徳寺にあるが、千代子夫人が死去されたとき遺骨を埋葬すべく墓を開けたところ、文麿公の遺骨が壺事消え失せていた。近衛を憎む者か、あるいは慕う者の仕業か分らぬが、その行方はいまだに知れない。
墓の中でも安住できなかったとはなんともお気の毒としか言いようがない。
若き宰相として絶大な人気を誇ったが、結局その任務を全うできず苦労した近衛にとって、平成の世になってお孫さんの細川護照氏が首相の座に就いたとき、草葉の陰での感慨はいかばかりのものであったろうか。

令和元年10月20日 別れ    竹木 信
ヨハンナ・スピリの「アルプスの少女」の中に次のような場面があります。
夕焼け色に染まった二人のやりとり、
「おじいちゃん、夕焼けってどうしてあんなに美しいの?」とハイジが聞きます。するとおじいちゃんは、
「お別れをする時が何でも一番美しいんだよ。今、お日様がネ、私たちのいる地球にお別れのあいさつをしているんだよ」と。

令和元年10月13日 アナタ    佐々木英一
俳句、それも優れた句には、あの五七五の短い言葉の中に人の心を揺さぶり続ける驚くばかりの力が秘められている。
が、私がここに紹介するのは、その俳句もかぶとを脱ぐ、ただの一言、かな文字でわずか三文字の電報である。
南極の基地で過ごす越冬隊員たちにとっては、内地の肉親から届けられる手紙や写真などが、何よりも彼らを慰め、勇気づけ、活躍の意欲を燃え立たせる原動力になる。
そんな基地の生活の中に、ある日、日本から一通の電報が届いた。
それは一人の隊員にあてた奥さんからのものであった。電文は、
「アナタ」
そこに居合わせた隊員達も、一瞬、しーんと静まり返ったそうである。

令和元年10月6日 ユートピアに消える老人たち    三浦しをん
近所のおばあさんは言った。
「私の友達はもう二週間も行方不明だよ」
ええっ。私はかなり驚いた。老人界では、そういうことはよくあることなのか?
「でも、さすがに二週間はまずいんじゃ・・・・・」
「うんにゃ」何でもないことのように、お婆さんは首を振った。
自発的楢山節考というのかなんというのか、老人たちの潔さにたじろいでしまう。
もしかしたらこうやって、人知れずどこかに消えてしまった老人はたくさん存在するのだろうか。
老人だけが知ることのできる「象の墓場」みたいな場所がどこかにあるのだとしたら・・・などと夢想しつつ、私は陶然となるような、哀しいような気分になった。
後日、お婆さんに確認してみたところ、その友人は雑木林で行き倒れ死体となって発見されたらしい。

令和元年9月29日 家庭教師のお兄さん   さくらももこ
姉の家庭教師が来ることになった。私が幼稚園の年長組の頃の話である。
すぐに若者はやってきた。うちの母も一緒にやってきて「宇野先生よろしくお願いします」と言って去っていった。
一年ばかり、先生は来てくれていたが、大学を卒業することになり、家庭教師を辞める日がやってきた。
幼い私は、その日限りで宇野先生に会えなくなるという実感が湧かず、寂しさも悲しさもなくただそこにいた。
私はいつも通りに「またね」と言って笑って手を振った。宇野先生も「またな」と言って手を振っていた。
私は外に出て、先生のバイクが遠ざかってゆくのを見ていた。
それからもう二十五年も過ぎてしまった。
宇野先生が、今どこで何をしているのかも私にはわからない。死別に近い別れだったのである。
なのに当時はそれに気づかず、「またね」と言って笑った自分の幼さが哀しい。
そして宇野先生の「またな」という言葉を信じていたことも。

令和元年9月22日 大阪弁川柳
  かんにんな 心に残るこのひびき   滝崎京子
 「かんニン」と語尾が美しく上がれば文句なしの大阪弁で、特に女性の口から正しい発音で吐息のように漏れたとき、男をぞくぞくさせるほどの力がある。
 『春の宵 嫌です だめです いけません』は文豪井伏鱒二のなかなかの句であるが、標準語では限界があろう。
 『春の宵 あかん かんニや かんニンや』と大阪弁で詠む艶やかさにはかなうまい。
「かんニして」と誰かに言わせようとするあんた、健闘を祈る。

令和元年9月15日 森繁久彌
これはまた、残酷ないい分と聞かれるかもしれぬが、人間には、実は死に時があるのかも知れない。
向田邦子氏は些か急ぎすぎたようだが、ああ惜しい、惜しい人をなくした、と誰もが思う時はそうそうあるものではない。
その時に死ねれば名は末代で、いつまでも語り継がれる。
音もたてずに時代の歯車は、二度三度と廻り、気がつけば取り残されたようにポツンと生きているのだ。
しかし、この間九十五歳の矍鑠たる老実業家がこんな話をしてくださった。
「君ネ、死におびえては何も出来んよ。死は予期せぬ時に来るものだ。その時は終わりです。でもその前までは生きているんです。一切死ぬなどと考えて仕事をしてはいけません」当たり前の話だが、噛みしめると金言の味わいがあった。

令和元年9月8日 薬より踊り    森田功
「人はかんまんな自殺をする」という箴言がある。いけないとわかっていても止められない、自覚しながら不摂生を続けていく、という意味らしい。
世の中にはさまざまなストレスがある。社内での対人関係とか夫婦の争いとか、耐え難いと言われるストレスも、子供に先立たれた衝撃に比べれば、ものの数ではない。
トミ老は夜も昼も泣き通した。ものが食べられないのに下痢が続き、やがて胃潰瘍になった。やせ衰えながら、血圧が上がった。
ストレス処理のためには、性格を丸くしろとか、楽天的になれとか言うが、にわかにできるものではない。
団地には踊りや宗教の集まりがあり、その仲間が、手を取って連れ出したり、一泊の温泉旅行を予約してくれたりした。
気分転換というが、一人では難しいものである。踊りや宗教の集いが、老にとっては何よりの救いになった。
亡き者をしのび、涙することが供養であり、老が涙を忘れきる日は遠いにしても、「子供の分まで健康で長生きして」、という言葉を素直に聞けるようになったのだ。
笑顔の回復とともに、薬は不用となり、私の出る幕はなくなった。

令和元年9月1日 藪医者の一言   森田功
高齢化とともに、がんが増えた。がんは全身のどこにでもできる。
男性の乳がんは絶無ではなく、たいていは、片方の乳首がただれたり、しこりが触れたりするので、早期に発見し手術して根治ができる。
青年期に、生理的女性化乳房というものはかなり多い。ほとんどは片方の乳房が、はれて女性のように大きくなり、押さえると痛む。
それは、バランスが崩れて女性ホルモンの割合が多くなると、乳腺が刺激されてふくらむ。
そのままにしておいても、男では二十歳ごろまでに消えてなくなる。
生まれて間もない新生児に、ふくらんだ乳房を見ることがある。母体の女性ホルモンで乳腺が一時増生するためである。
赤ちゃんがおっぱいを分泌する場合もある。魔乳と呼ばれるが、魔物の正体は母親の女性ホルモンにほかならない。
男でも乳がんがあることを知っていないと、手術で治りやすい乳がんが、みすみす手遅れになってしまう。
「じいさまが乳がんや子宮がんではサマにならない」
と笑うが、子宮がんは組織奇形でもない限り起こるわけがない。

令和元年8月25日
という字は、身を美しくと書く。
身と美の組み合わせをしつけと読ませる国に育ったことを、もっと本気で感謝したほうがいいかもしれない。

令和元年8月18日 人生に乾杯
「何に乾杯しようか?」
彼女はちょっと思案した。「ユダヤの乾杯をご存じ?」
「いや」
「人生(ルチャイーム)にっていうの。わたし、それが大好き。こういう瞬間に、人生はなんてすばらしく思えるのかしら」
彼女がグラスを彼のグラスに軽く合わせて、お返しをした。
「ルチャイーム」

令和元年8月15日 紫の人   原田悦子
七年前の十一月、広島のK駅に知人を訪ねようと降り立った。
駅構内の雑踏を眺めていると、一際華やかな笑い声が上がる年配の人たちの中の一人の婦人に目が止まった。
後ろ姿であるが、着物の着こなしが水際立って美しい。銀ねずの地に紫の小さな亀甲文様の長着、抹茶色の道行きが何とも言えず上品である。その冴え冴えとした立ち姿に見惚れていると、その人が振り返って私の方を向かれた。
瞬間、「アッ」と声を上げそうになり、慌てて目を伏せた。
「エッ ? なぜ ? どうされたのかしら ?」
鳴り止まぬ動悸の中で、私は混乱した。それほどまでに、その人の顔半分は、古いやけどの跡が無残であったのだ。
左半分のお顔が品良く整っておられるだけに一層むごい。
しばらくして、ハッと思い当たった。「あーっ、ここは広島だったのだ」と。
女の顔は、いわば命である。その顔半分をそこなわれたと知った時、どんな深い嘆きがあっただろうか。
悲しみと憤りの時を越え、今はあんなにも明るく堂々としておられるし、とてもおゃれなのである。
私はその人にドンと背中をたたかれた思いがした。
「ホラ、人生って、もっと素晴らしいのよ」
畏敬の念さえ覚え、もう一度、目を上げて、その人を見ると、手に持っていた紫のショールをフワリとはおり、友と語らいながらホームの方へ歩いて行かれた。

令和元年8月14日 母が姑を大事にした理由    時実新子
父方の祖母は気位高く勝気な人で、老いて引き取った母方の祖母をいじめ抜いた。私には母の気兼ね、苦労がよく分かった。
ある日、母は村はずれの小屋を買って祖母を移した。母方の祖母は雛人形のような人で、しばらく生きて静かに死んだ。
父方の祖母が寝たきりになったのは、それから三年後のことである。
あさはかな私は、母がどのような仕返しをするかとドキドキした。ところが母は真心こめて姑を看取ったのです。
父は母に「すまん」と言い、母は笑って、「なあんも、おばあさんの得ですよ」というのであった。
母は父を死ぬほど愛していた。子供の私の目にも照れ臭いほど愛していた。
もともと献身的な母の性格に、父の喜ぶ顔見たさが半分あったとしても、本人が気づかずに姑をしんそこ大事にしたのだと思う。
ひとまわりも若いのに、母の方が先に死んだ。母を抱いて抱きしめて号泣したあの日の父の顔が忘れられない。
仏前のざぶとんが凹むほど母を恋い慕った父は、私の手を払いのけるようにして10ヵ月後に母の処へ旅立った。
夫婦は二世、本当かもしれない。

令和元年8月11日 往時茫々       田辺聖子
私の生家は大阪の福島にあった。
夏祭りには、日の丸の代わりに、〈御神燈〉の提灯が吊るされる。町内じゅうにそれがかけ渡され、浅黄の幔幕が夏風にはためくのを見るのは子供ながら威儀を正す、という気分になって、嬉しくも誇らしいものであった。
一ぱい機嫌の男たちはひとしお、気を入れて〈コンコンチキチン、コンチキチン〉と力いっぱい、太鼓を打ち、鉦を打つ。
そのころには上方特有の長い夕方もやっと暮れなずみ、これまた浪花名物のむしむしする夕凪もやんで、涼しい夜風が吹きはじめ、家々の〈御神燈〉の提灯を揺らしてゆく。
この間のことのように思われるのに、早や六十年、相経ち申し候、というところだ。
思い出も人も遠い。
  「遠き人を北斗の杓で掬わんか」  橘高薫風
大阪の夕方の長さと、夕凪のむしあつさは昔とちっとも変わらず、わが身ひとりは老いて変わってゆく。

令和元年8月4日 記憶と記録      久世 光彦
テレビドラマなどで、発音した際に紛らわしい言葉というのがあるが、その一つに〈記憶〉と〈記録〉がある。
アクセントが同じな上に、使い方も似ている。年齢のせいもあり、昔から記録の趣味がないせいもあって、このごろの記憶についての自信のなさは、自分でも嫌になるくらいである。つまり、物忘れがひどいのである。
こんなことなら、日記でもつけておけば良かったとこの頃しきりに思う。
・・・しかし、私は後悔しかけて思い直す。ふと考えると、もしその日から毎日克明に私が事実を記録していたなら、今の私の、曖昧にぼやけた記憶を基にした〈思い出〉というものは、まるで違ったものになっていたのではないか。
名前を忘れたから懐かしい人もいる。〈記録〉は正確であればあるほど、人を裏切るのかもしれない。
〈記憶〉は身勝手で、当てにならないから可愛いし、せめてそれに縋ってみようという気持ちになる。
・・・・・そうして私は次々と人の名を忘れ、かって行った土地を忘れ、自分を愛してくれた人たちの顔さえも忘れいくのだろうが、最後に一つだけ、残された小さな点ほどの脳の中のキャパシティに、忘れ物みたいにポツンと置かれるのは何なのだろうと考える。
それが〈記憶〉も〈記録〉も洗い流した後の〈私〉なのかもしれない。
   秋風やわすれてならぬ名を忘れ      万太郎

令和元年7月28日 名前     北林谷栄  
もう七十年も昔になるが、生家の縁者におきいちゃんと呼ばれている人が居た。
この人は、その顔さえ直視しなければ躰ぜんたいが何か不思議な雅趣を発していて、まるでそこに居るのがたいした美人でもあるかのように感じさせる人だった。その名の菊というのも大いに預かっていたと思う。
私を育ててくれた祖母はある時こう言った。
「おきいちゃんはあの御面相なのに、まるで別嬪さんと向き合っているような気を起させるでしょう。お前は器量よしではないのだから、よくおきいちゃんを見習うといいよ。それにはあの人をよく視ていることだよ」 祖母はなかなか賢いことを言ってくれたものだと思う。
おきいちゃんのあのムードは声音と手の控えめなしぐさと、相手の言葉をきく時の注意深い顔つきにあったのではないか、と今の私にはわかる。
私は菊はあまりにも多い名なので、自分の娘に他の美しい名前はないものかと苦吟した。
そして茜という字を見つけた。茜、あかね、イメージも気に入った。
初めて血肉を頒ったこのいとし娘は、二年後、ロケ撮影で私が信州に発った留守の夜、家人の瞬間の不注意からヨチヨチ歩きを誤って、熱湯を注いである盥に転倒して落ち、全身の火傷で死んだ。
戦後のものの乏しいそのころ、どこの家でも行水を使っていた時代だった。ペニシリンもまだ東大分院にも無かった。
西の空の瞬時の紅は、やはり儚い命運を象徴してしまったらしい。
茜は悪い名前だった。いまも夕焼けを見ると顔を覆いたくなる。

令和元年7月21日 自然災害       早坂 隆
日本の歴史は、自然災害との苦闘の連続であった。
「行く河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず」
という書き出しで有名な鴨長明の「方丈記」には、平安時代末期の日本人が体験した様々な災害について仔細に記述されている。
 〈その状況は、世間並みの地震ではない。山は崩れて来て、河を埋め、海は傾斜して、陸地を一面ぬらした〉
平成七年の阪神・淡路大震災の時も、関西人たちは得意のユーモア精神を失わなかった。
  現地入りしたボランティアが避難所のお婆さんに聞いた。
  「今、一番、欲しいものは何ですか?」
  お婆さんは答えた。
  「一億円」
人と人が出逢い、話をする大切さ。そこに「笑い」の要素があれば、いっそう良い。「笑い」は社会の潤滑油である。
「笑い」には、この世に生きる辛苦を一瞬でも忘却させる重要な作用がある。
健全な小さな「笑い」の積み重ねこそが、寄る辺ない現世の不条理の中で、新たな歴史を少しづつ養い、培っていく。
そして、笑わない方が、人生は疲れる。
復興には大変な努力と時間を要する。しかし、ゴールを見ながらマラソンは走れない。
私たちが生きている今日とは、亡くなられた多くの人々が本来は生きて、笑うはずだった一日である。
それが叶わなかった人たちのためにも、生き残った者は容易に笑顔を諦めてはいけない。

令和元年7月14日 うな重
死ぬ前に江戸前のうな重を食べたい。それが私の密かな願望だ。
東京浅草の、仲見世にほど近い通りに老舗のうなぎ屋がある。子供の頃に父が連れて行ってくれた。
そんな店に行ったのは一度きりだったけれど。私の家はお金に縁がなかったのだ。
ある日、母が「今日の晩御飯ね、すごいよ」と言った。「えっ、なに?」と聞くと、にっと笑う。
「かば焼きよ、おどんぶり」
わーい鰻丼だ。大喜びで食卓につくと、出てきたのは確かにかば焼きだった。鰯の。
食が細くてガリガリだった私が、魚は苦手なのに鰻だけは喜ぶので、母が工夫して鰻丼そっくりに作ってくれたのだ。
だが私は一口しか食べなかった。「鰻の」とは言わなかったけれど、母は微妙なやり方で私を騙したのだ。許せなかった。
結婚して、自分で家計をやりくりするようになってから、ふと鰯の蒲焼きを作ってみた。
脂ののった小ぶりの鰯を開き、フライパンで焼いて醤油とお酒と味醂を煮絡める。ご飯に乗せて食べると想像以上の美味しさだった。
それで泣くほどヤワではなかったけれど、その味は私の胸の底にしんと降りていき、母の顔になって、そっとうずくまった。

令和元年7月7日 時間    袖井孝子
人々が時間に追われるようになったのは時計が発明されてからといわれる。より正確にいえば、庶民階層までが時計を所持するようになって以来、人々は時間を気にするようになった。考えてみれば太古の昔から、人々は太陽や星の運行にともなって時が過ぎていくことを実感していた。しかし、時は自分の上を流れていくものであって、時間によって自らの行動を律しようとは思わなかったであろう。
このところ、金銭消費から時間消費へと人々の関心が移ってきたといわれる。バブル紳士たちの凋落ぶりを見ると、金で買える幸せには限界がある、それよりも充実した時を持ちたいと考えるのは、決めて当然のことだ。
しかし、残念なことに、時間への関心は、時間にとらわれないことや時間に追いかけられないことではなくて、時間の能率的、効率的な使い方に向かっているような気がする。能率的、効率的に時間を使って、さて空いた時間をどうするかといえば、もうひとつ仕事を入れてしまうのが働きすぎ日本人の悲しい性だ。
能率的、効率的でない時間の使い方のできるチャンスをいかにして確保するか、が私を含めて多くの日本人の課題であろう。
だが実情は、南の島でのんびり時計のない生活をしたいとあこがれながら、相変わらず時間に追われているのが時間貧乏の私なのである。

令和元年6月30日 荒野の真ん中駅   玉手まり子
アメリカ東北部にあるロチェスターという町から、カナダのトロントへ列車で旅したときの話です。
ロチェスター駅は、一日に長距離列車が八本出ているだけの小さな駅です。1本はカナダに残りは逆方向のニューヨーク市へ向かいます。その日カナダ行きの列車が二十分遅れでホームに滑り込んできたとき、六十歳くらいの東洋人のご夫妻が、娘さんと一緒に駅へ駆け込んできて、列車のドアが閉まるまでの時間に別れの言葉を交わしていました。ホームで見送る娘さんに手を振りながら、ハンカチで目頭を押さえていました。
列車が動き出し、私たちの車両に恰幅のいい車掌さんがやってきて、乗客の切符を点検し始めました。その車掌さんは中国人ご夫妻の切符を手に取ると、「この列車はニューヨーク行きでなく、反対のカナダに行くんです」と。
私はそのときのご夫妻の、おおっという絶望的なうめき声と、凍り付いたような表情を今でも忘れることができません。
だれだって、異国の地で列車を間違えたら、どんなにか心細いことでしょう。
しかし、車掌さんは、蒼白になっているご夫妻をなだめると、「私に任せなさい」と言って、車両から去っていきました。
それからしばらくすると、荒野の真ん中に列車は停車しました。そこに停まっている列車はご夫妻が乗る予定のニューヨーク行きでした。
この出来事は「時は金なり」をモットーに生きてきた私に、ちょっとぐらいの時間とは引き換えにならない素晴らしい感動を与えてくれました。
そして、ひたすらスケジュールに従って突っ走るだけでなく、ときには困っている人のために立ち止まることのできるような心の余裕こそ、人間らしさの条件なのだと、つくづく思い知らされました。

令和元年6月23日 考える葦     佐藤愛子
何年くらい前になろうか、生甲斐ということが盛んに論じられていたのは。主婦の生甲斐、老後の生甲斐、だが、この頃生甲斐論は影を潜めている。あの頃はバブル景気で人はみな豊かだったから、生甲斐について考えるゆとりがあった(つまり「暇つぶし」)ということだろうか?
かって日本が貧しかった時代、日本人は--殊に青年は人生について社会について自分自身について本気で考えたものだった。
なぜ働きたいのに仕事がないのか、なぜ働けど働けど貧しいのか、なぜ権力はこんなに強大なのか、己の無力卑小を歎き、思うに委せぬ現実に切歯扼腕して苦しみ、そして考えた。
今、男子大学生に向かって「万一、日本が軍事攻撃を受けた場合どうするか」というアンケートを取ったところ「戦う」にマルをつけたのは百人中ただ一人で、あとの九十九人は「安全な場所を捜して逃げる」にマルをつけたという。
その話をした人は、若者から勇気や愛国心が欠如したことを嘆きたいようだったが、私は彼らはただ「何も考えない」だけなのだと思う。
「人間は葦のように弱いものだ、しかし人間は考えることを知っている」とパスカルはいったが、今、人は考える葦ではなくなった。
考える習慣がなくなっているのにちがいない。

令和元年6月16日 父の日    朽尾寿子  27歳
「皺は苦労の証なんだよ」昔一緒に入ったお風呂。面白がって皺をなぞる私に教えてくれた。
今あの頃よりももっと沢山、もっと深く刻まれてしまった皺を、年が暮れる度に見つけては
「この皺はもしやあの時の・・・・・」と思い当たるフシ数知れず。
それ程今迄どんなに怒鳴られ喧嘩をしてきたことだろう。
離れて暮らしてめったに言い合うこともなくなったけれど、今もなお父の顔を着々と皺だらけにしている犯人はこの私かもしれない。
本当にごめんなさい。
毎年恒例のプレゼントを頂く。折角頂くのに申し訳ないがマンネリ感。

令和元年6月9日 四字熟語ひとくち話
  低処高思   ていしょこうし
岩波書店の創業者、岩波茂雄が信条としていた四字熟語。
「低く処りて高く思う」とでも読むのであろうか。暮らしは質素であろうとも、思いは高萬にあらん、の意。
ワーズワース詩集に、
質素なる生活、高遠なる思索は既になく、昔ながらの善き主張の飾りなき美は去り・・・・・
という一節がある。岩波茂雄はワーズワースのこうした生き方を愛した。
信州諏訪の生家跡には大きな自然石に「低処高思」の四文字が深く刻まれている。

令和元年6月2日 四字熟語ひとくち話
 絶体絶命  ぜったいぜつめい
漢字の書き取りテストと言えば、こちらは定番。「体を絶ち命を絶つ」ほどなのだから、「ぜったい」は「絶体」で正しいのだが、なまじ「絶対」なんて熟語があるもんだから「絶対絶命」と書いてしまう。絶対に死ぬんだよなあ、なんて勝手に解釈してつじつまを合わせる。
そんな間違いの常連の四字熟語
「厚顔無知(恥)」 「意味深深(津津)」 「不和(付和)雷同」 「前代見(未)聞」 「意味慎重(深長)」 「短(単)刀直入」 「言語同(道)断」 
「五里夢(霧)中」 「異句(口)同音」 「羊頭苦(狗)肉」と、たくさんある。
えっ、どこかおかしいの ? などと聞かないでほしい。( )の中が正しいのです。

令和元年5月26日 井上ひさし
人間は、脳がまだ二割五分しかできていないのに母の胎内から追放されるべく宿命づけられた生き物。
もう一つ云えば、ひとは未熟のまま楽園から追放された存在なのだ。
産婦人科諸家の説をまとめるとこうである。
チンパンジーのように脳を八割方完成したところで出生するためには、ひとの母の産道はあまりにも狭すぎる、と。
母の陣痛は平均百回から百五十回。胎児は頭部をソーセージのように細長くし、骨盤の骨の形に合わせてネジのように旋回しながら、陣痛という子宮の収縮力によって押し出されてくる。つまり胎児は母親の痛みを利用しながら旋回して産道を前進するのである。
逆に云えば、それぞれの脳がほぼ完成する十三、四歳までは、この世が彼らの子宮であり、胎内なのだ。

令和元年5月19日 とうでん川柳倶楽部
   一緒にははいりたくない墓を買い   札幌市 土井富
近頃は墓不足で共同墓地タイプがよく売れているそうな。ご先祖様はさぞ嘆いておられるだろうがこれもご時世である。
生きている間は核家族で死んだとたんに夫側の先祖代々の墓へ入るには抵抗がある。
「あんさんどなた?」なんて言われかねないし、どうにも居心地が悪い。それに加えて夫と一緒がいやという女性が増えてきた。
夫婦は二世なんてもう死語なのか。それにしても一人一人が墓を持てばこの狭い日本、墓だらけですねえ。

令和元年5月12日 絵馬    金比羅絵馬館  (京都市東山区)
絵馬というと、屋根様のものをつけた五角形の木札を思い浮かべるが、絵馬の分類によると、これは「小絵馬」と称されている類のもので、庶民が自分の願い事を絵や文字を使ってこれに記し、しかるべき神社に奉納するというものだった。
願い事の絵馬はバラエティに富んでいる。絵馬定番のひとつである「意馬心猿」の絵馬は、煩悩が制しがたいことを、暴れ馬と猿で象徴し、何とか自分の煩悩を抑えてほしいと願って奉納されたものだろう。
また、白毛または赤毛の馬と黒毛の馬を組み合わせた図を持つ絵馬も少なくない。これは豊作を祈る絵馬で、白毛・赤毛の馬は太陽を乞う意味を持ち、黒毛の馬は雨乞いの意味を持っているのだそうだ。
独特の絵馬もある。傑作なのは男断ちを願った50歳を超えた女性の絵馬で、それまでに関係のあった男性を絵に描きずらりと行列させて、もう男はいらないと記しているのだが、最後に「ただし三年に限る」と条件を書き込んでいるのである。

令和元年5月6日 小山年男    (千葉県・七十九歳)
あれは暮れも迫った日の夕方だった。君の入っていた老人ホームから電話が入り、駆けつけると君は担架で運び出され、懸命の措置も空しく君の魂は戻ってこなかった。
私達は東京で知り合い結婚、教師の職が見つかり郷里に帰った。
相変わらず収入は少なく、君は病院で働き、迎えに行った帰り親子四人で屋台のラーメンを啜ったのも懐かしい。
明るかった君は「ナイチンゲール精神」だと言って挫けなかったね。私は無い賃ガールだろうと揶揄したのを今、後悔しています。
葬儀から帰って洗面所を覗くと、今はもう主の居ない化粧水の壜が空しく並んでいました。
堪らなくなって「さよなら」と言いながら全部を流しました。ゴボゴボと泣いていました。
やっと落ち着いた頃、日記を付け始めました。愚痴日記と呼んだそれは愚痴の聞き役、つまり君の代役を果たしてくれたのです。
やがて愚痴はリズムとなり、昇華して歌になりました。勧められて歌壇に投稿したら載りました。きっと何かの力が働いたのです。
  引っ越しの最後の荷物積み終えて長押の妻の写真を外す    朝日歌壇

令和元年5月5日 琥珀       久慈琥珀博物館 (岩手県久慈市)
久慈のあたりは日本列島における最大の琥珀産地だそうである。
太古の樹々が嵐や洪水などで倒れ、次第に地中深く埋もれていったとき、その樹々の樹脂もまた埋もれ、長い長い時を経て、地層の隆起とともに化石となって再び地上に姿を現す。その樹脂の化石こそが、琥珀である。
実は、世界の他の地域で採掘される大半の琥珀が三千万年から四千万年前の新生代に属するものであるのに対して、久慈の琥珀は九千万年前の白亜紀後期、つまり恐竜時代のものだという。
まるで、「ジェラシック・パーク」を想像させる話ではないか。

令和元年5月4日 福本伸行
   明日からがんばるんじゃない
   今日・・・・・今日だけがんばるんだっ
   今日がんばった者・・・・・今日がんばり始めた者にのみ
   明日が来るんだよ
「明日からがんばろう」という発想からは・・・・どんな芽も吹きはしない・・・そのことに20歳を超えて、まだ、わからんのか・・・
まったく仰る通りで返す言葉もない。
言うまでもなく「明日から」「次からは」なんていう先送りは単なる逃げ。
そんなことをやっているうちは、永遠に頑張るはずの明日はやってこない。
頑張るのは今日、今この時しかないのだ。

令和元年5月3日 尾崎士郎
小田急線「生田」駅から、だらだら坂を上ること20分。住宅に囲まれた丘陵地帯の南側の崖に沿って尾崎士郎文学碑はある。
そこに刻まれた尾崎士郎の言葉は、
「去る日は楽しく来る日もまた楽し、よしや愛隣の夢は儚なくとも青春の志に湧き立つ若者の胸は曇るべからず」
いかにも「人生劇場」という大作を書いた作家らしく、熱い心情が伝わってくる。
昭和八年から都新聞に連載された「人生劇場」は士郎の代表作である。
この作品は作者の自伝的大河小説で、「青春篇」「愛欲篇」「残狭篇」「風雲篇」「遠征篇」「夢幻篇」「望郷篇」「蕩子篇」まで、ほぼ二十年にわたって書き継がれ、十四度も映画化されている。
私の読んだ本で長いものは「大菩薩峠」とこの「人生劇場」である。
私は主人公に自分をかさね、飛車角にあこがれました。

令和元年5月2日 小さな天使   中谷いづみ
三年前の冬。その日は朝からとても寒い日でした。
夕方になり、私は夕食の仕度のため、台所に立つと、足の先からじわじわと冷たくなり、そこで石油ストーブに火をつけ、また仕度を続けたのですが、やはり、足はあたたかくならず、あまりの冷たさに思わず、「あー、足が冷たいなあ・・・・・」と独り言を言っていました。
突然、ふくらはぎに、じわーとあたたかいものが触れたので、下を見ると、当時三歳だった息子が自分の小さな両手を私の足にあてているではありませんか。「チャーチャン(当時息子は私のことをこう呼んでいました)あし・・・あったかいか」と聞いたのです。
私は息子のこの一言で、この子が何をしてくれようとしたのがわかりました。
「うん、とてもあったかいよ」と言いながら、息子の顔を見ようとするのですが、涙でぼやけて見えませんでした。
すると、息子は立ち上がり、モミジのような小さな両手をストーブにかざし、また、私の足にあてたのです。
「また、あしがつめたくなったら、ゆうてよ。しんちゃんのてを、チャーチャンのあしになんかいでも、あててあげるからな」と言ったのです。
とってもとっても、寒い日でしたが、私の心と足は、ぽっかぽかになりました。

令和元年5月1日 ウサギ王国の教え  河合雅雄
オーストラリアというと、カンガルーの国というイメージを持つ人が多いだろう。
しかし、オーストラリア全土にのさばっているのは、ウシとヒツジ、ウサギである。
私はウサギ社会の研究をしていたので、二度オーストラリアへ調査に訪れた。広大な草原にはウサギの巣穴が点在していた。
二度目に訪れたとき、私は凄惨な光景に出くわして背筋が寒くなった。ウサギの大量死である。
ウサギが爆発的に増えたのは天敵がいないからだ。食料は無限にあり、肉食獣がいないから、頭数は増大する一方である。
ある地域で生息数が極大に達すると、ウサギたちは餌を求めて大移動を始める。私はその現場に立ち会ったのである。
見渡す限り並ぶぼろ布のような死体、その中を痩せこけた亡者のようなウサギがうろついていた。
地獄絵さながらの光景に私はしばし茫然として立ちつくした。
この状況をクラッシュというが、穏やかな性質で平和な社会をもつがゆえの悲劇である。
この事件は、人口爆発という難問をかかえた人間の運命を象徴しているように思えた。
天敵のいない人類は、人口の自己抑制ができない限り、クラッシュをまぬがれざるをえないのではないか。
暗い予兆に、私はしばし震えが止まらなかった。

平成31年4月30日 中野翠
江戸・明治の遊び人たちはよく襦袢や羽織裏に凝ったものだが、そういう中に骸骨をモチーフにしたものが多いことに驚かされる。
骸骨が酒を呑んだり踊ったり滑稽な身ぶりをしていたりする。俗世の快楽も透かし見ればこんなものさ、ということだろうか。
杉浦日向子さんが好んだ江戸っ子たちの冗談に「人間一生糞袋」という言葉があるのを思い出さずにはいられない。
この世の快楽も欲望も、はたまた苦難や煩悶も、ある角度から見れば、生きていればこその、ある種のニギワイであって、人生の根本は骸骨の一踊りであるのかもしれない。
揺るぎない真実は唯、「人間一生糞袋」ということに過ぎないのかもしれない。

平成31年4月28日 漱石     魚住速人
漱石には有名なエピソードがある。
漱石がいつものように東大で講義中のある日、たまたま懐手をしたまま聴講している学生に気がついて、虫のいどころが悪かったせいかどうか、
「君、失敬じゃないか。手を出したまえ」
その学生はうつむいたまま。隣の学生が助け舟を出す。
「先生、この人にはもともと左手がないんです」
さすが漱石、とっさに応じた答えが、
「僕も、ない知恵をしぼってこうして講義をしてるんだ。君もない手を出したまえ」というのである。
なかなかこうはゆかない。普通なら、うろたえてしまうところだ。
実をいうと、私の父が、その左手のない学生である。名前は惇吉という。

平成31年4月21日 親切の二本立て      横須賀市 合田杉郎
ある日、私が立ち食いそばを食べていたら、一人のおじいさんが入ってきて、「花屋さんはどこですか」と尋ねてきました。
店員さんは忙しく、恥ずかしい話ですが、私も聞こえないふりをしていました。
するとね私の近くにいた二十歳くらいの男性が食べている途中だというのに、「すぐ近くだから一緒に行きましょう」
と、おじいさんの荷物までも持ってあげ、出て行ってしまいました。
近くなのでものの一分ぐらいで帰って来ましたが、なかなかできることではありません。
店員のおばさんも感心したらしく、気をきかせ温かいそばに替えてあげていました。
なんか「小さな親切の二本立て」を見てしまったようで、嬉しい気持ちにもなり、反省もした次第です。

平成31年4月14日 生命なりけり     津江昌武
平成六年、七十三歳にして初めて大病をした。胃がんである。
手術は七月二十日。体中につけてある色々な管が、全部取れるまでが難行苦行であった。
しかし、病院が近くだったので、妻がいつも居てくれたことで安心もし、力づけられもした。
ある日の午後、ふと気が付くと、妻は昼寝をしていた。私の方を向いて椅子に腰かけ、テーブルに置いた両腕の中に顔をうめている。
連日の看病でよほど疲れているに相違なかったが、仮眠の間も私を気遣ってくれる気持ちが、私の方を向いている姿の中に見て取れて、ジーンときた。
  こちら向き介護の妻の昼寝かな
HDDが壊れ、今迄のデータはすべてなくなりました。
このホームページもかなり先まで打ち込んでありましたが、全て消えてしまいました。
病気もあり、気力がなく、少し遅れますがホームページは続けていきたいと思います。

平成31年4月7日 鉋    早坂暁
「胆嚢癌です」主治医から、はっきり告知されたときは正直言ってもう駄目かなと思った。なにしろ心筋梗塞で倒れ、心臓手術を待っているときの癌発見である。それもかなり進行しているらしく「早坂さん、好きなものを食べていいですよ」と言うではないか。
「いままでで、一番の鉋だな・・・・・」
”鉋”とは、ある宮大工がつぶやくように教えてくれた「木というんは、結局のところ鉋をかけてみんと分かりません」とのこと。素直な佇まいの木でも、ときとして柾目が乱れていたり、大きな塊を抱いていたりする。つまり、人の性根も”鉋”をかけてみないと分からない。人の”鉋”は、いつも”切所”という形をとって現われるが、死は最大の”切所”である。
それにしても、死とはどんなロケーションなのか。四国に遍路道を開いてくれた空海が、死の直前に、それこそ死を最も間近に見ての、現場中継のような言葉を残してくれていた。
「生まれ、生まれ、生まれ、生まれて生の始めに暗く、死に、死に、死に、死んで生の終わりに冥し」
あれから十三年。私は死後十三年と数えることにしているのだが、あのときはなんとも厳しい鉋をかけられたと思っている。
生きているかぎり、鉋はかけ続けられるのだろうが、いまのところ、私は向日性の、それほど乱れもなく、しかし、それほど密度のない柾目をもった性根の”木”のようである。

平成31年3月31日 牽手 (Khan chhiu)    曽望生
古希を過ぎた諸兄よ、近頃でも妻と手をつないで散歩した事があるだろうか?
台湾語に「牽手」という夫婦を意味する呼称の言葉がある。自分の妻や夫を、他人に紹介する時によく使われる。
もともと「牽手」の語義は、手をとる、手と手をつなぐ意味で、日常ふだんよく口にする。
字を見るとおり、歩みのゆったりとした牛を、綱でいたわるようにひいて行く閑な風景が浮かんでくる。
古詩に「夕陽無限好 只是近黄昏」と詠まれてある。
感覚というのは案外に忘れやすいものだ。ここらあたりで、老妻の手のぬくもりを、もう一度確かめてはどうだろうか。
自分の妻や夫を牽手と呼び合う、このつつましい台湾の方言を、改めて見直したい。
付記
日本の同学で「牽手」をよく口にしていたのは、亡くなった桜井明兄でした。高雄に来るたび拙宅に訪ねてくると、
「オイ、牽手はいるか?」と、妻の在宅を訪ねるのが、彼の挨拶だった。
桜井兄を偲んでこの文を書きました。兄よ安らかに。  (高雄中学二十期会会報第十三号)

平成31年3月28日 古希
   平常心 いのちを追わぬ 古希祝
妻が古希になりました。

唐の詩人・杜甫が「人生七十古来稀なり」と詠んだのは四十七歳の時。
粛宗の側近としてようやく仕事を得たが、謹直すぎる性格のせいか不興を買い、官職を追われて地方に左遷され、杜甫はそのあと生涯ふたたび都・長安へ帰る日はなかった。
人生七十年は長いのか、短いのか。
妻の本心は「苦しきことのみ多かりき」だったのではないだろうか。

平成31年3月24日 墓参り    富田富士也
お彼岸を過ごすと、次の川柳を思い出します。
  「叱られた恩を忘れず墓参り」。老いていった両親の姿が重なると、生前の葛藤を超えて慕う気持ちが湧いてきます。
学校で話した時、気の利いた合いの手を入れてくれた男子生徒がいました。
  「叱られた恨みを忘れず墓参りなら分かります」と。
叱られたことに腹を立てた事もあったけれど、それをバネに生きてきた。
そのことを今にして振り返ると「恨み」が「感謝」や「恩」に変わってきたりする。
でもそんな心境にたどり着いた時、親や恩師はこの世で会える人でなかったりする。
叱らない諭し方もあるでしょうが、愚直さを見せつつ叱る親や恩師の姿に、子供は深い愛情を感じるものなのです。

平成31年3月17日 父の遺産2   下重暁子
そして、今回、家を整理するにあたって、引出の奥などから、それ等の下絵がおびただしい数、発見された。
何枚か見ていくうちに、思わず、顔が赤らんだ。黒い紙にはさまれて、しどけない女の姿や、男女の交合の図もあった。
あの頃、絵を描いている父の部屋に入ろうとすると、血相変えて怒られた。
多分、父は、いくら生活のためとはいえ、そうした絵を描いている姿を見られたくなかったのだろう。
それまでの誇りをかなぐり捨てて、こんな形で好きな絵と対面しなければならなかった心情を考えるとたまらない。
けれども、私は、父に優しい顔を見せなかった。父の弱さを見ることは、私の弱さを見るようで目をそむけずにはいられない。
老人結核が原因で亡くなった病院の父の枕元には、雑誌から切り抜いた絵がピンでとめてあった。
時間がたった今、やっと素直な気持ちで父を認めることが出来る。
引出の奥の黒い紙にはさまれた危な絵、そしておびただしい数の下絵は、父が私に残してくれた遺産なのである。

平成31年3月10日 父の遺産1      下重暁子
母が亡くなって三年経つ。父はそれより九年前に亡くなっているので、私が家の後始末をしなければならなくなった。
父の希望は画家になることだった。いやいやなった軍人生活の間も、絵筆を離さなかった。
やがて、敗戦。父は公職追放になり、売り食いだけで暮らす日々が続いた。もともと全く向いていない職業になったのである。
性格的にも、繊細で、感情の起伏が激しく、戦後はいつもイライラしていた。私はそんな父を見るのが悲しく、落ちた偶像に思えた。
境遇が変わってももっと堂々としていて欲しかった。だんだん私は反抗的になり、口もきかなく、父が戦後、どう変わっていくのかを、意地悪く見守るようになった。いまから思えば、私を学校に上げ、自分たちの暮らしを守るのに必死だったのだろう。そうした姿を見たくないと、私は父から目を背け続けた。 続く

平成31年3月3日 蕪村の水2  佐々木幹郎(詩人)
「春風や堤長うして家遠し」という蕪村の句は毛馬の堤を歌ったものだが、この句を読むと今でも、毛馬の堤で過ごした私の青春時代の感覚が二重写しになってしまう。
蕪村は生家を離れた後、故郷を懐かしく思う事はあっても、二度とこの土地に戻ってくることはなかった。「家遠し」はその感覚を読み込んでいる。
20代の私に、青春という「堤」は長かった。どこが自分の帰り着くべき「家」なのか、自分が何をする人間になるのか、遥かなる未来はいつも手元からこぼれ落ちるような気がした。早くそんな青春期から脱したい、と痛切に思った。
そのためには蕪村のようにゆっくりと呼吸し、歩き出すべきだ。わたしはこの堤の上の掘立小屋の中で詩を書き始めたのだった。
「春の水すみれつばなをぬらしゆく」スミレもツバナも水のほとりに咲いている。小川に根を浸す春の草花。
蕪村は春の詩人だとよく言われる。水もまた春の水だ。蕪村の描く水は官能的で、青春期のわたしの心をぬらし続けた。

平成31年2月24日 蕪村の水1  佐々木幹郎(詩人)
水を眺めるのが好きだ。川でも海でも、水面を見つめ続けていると、時が経つのを忘れてしまう。
二十代の初めの頃、大阪の淀川のほとりにある堤防の上で「水守り」のアルバイトをしていたことがあった。
堤の上には掘立小屋が建てられていて、そこに寝泊まりしながら二十四時間体制で淀川の水を見続けた。
その水面の底には、近世の詩人、与謝蕪村の生家があった。現在の大阪市都島区毛馬と呼ばれる土地である。
春の水の澱み。夏の堤を吹く風。秋の枯草を燃やす匂い。冬の川面に落ちる雪。私は水を見つめながら、二年間、堤の上にいた。
ひろびろとした淀川の水の流れは、二十代の私に不思議な事を教えてくれた。
 早く年をとったら?老いれば老いるほど人間は面白いよ。
なんという不思議なささやきだったろう。わたしは毛馬の堤の上で与謝蕪村の句集を読みふけり、彼の代表的な俳句が晩年の十年間に集中して詠まれていることを知った。五十代半ばから六十八歳まで。
生きていれば誰もがいずれその年齢に達するとしても、当時の私には、それは遠くて想像もつかない年齢だった。
与謝蕪村という詩人はその年齢になって、二百年後のわたくしたちに届く、若々しいロマンに満ちた詩の世界を花開かせたのだ。  続く

平成31年2月17日 ナース川柳
   皺の手を いつか我が身と 脈をとる
日常の業務の中で多くの高齢者と接する。
其々の人生が刻まれた、患者さん一人ひとりの皺の手に触れ、自分自身が迎えるこれからの老年期の生き方に思いを巡らせている。
自分もいつか人のお世話になる時が来るであろう。心豊かに老いることを願わずにはいられない。

平成31年2月10日 遺言川柳
     ありがとう そのひとことの 遺書で泣き

一月二十五日、母が亡くなりました。葬儀は一月二十九日。九十八歳でした。
私の身近にも介護で苦労されている方が大勢いますが、私も母の介護は本当に大変でした。
緊急入院、病室で暴れて暴言、ベッドから落ちてケガ、夜中に緊急の電話が何回も来ましたので寝てはいられませんでした。
”みとり”は何回もしました、その度に親戚に集まっていただきました。
大小便の始末や食事の世話など長期間介護をした嫁には”ありがとう”のひと言の感謝の言葉もありませんでした。そういう母でした。
私も看護婦さんに「息子さんもストレスで倒れそう」と注意され、12月は本当に体調が最悪でした。葬式が終わり、皆に痩せましたねと言われ体重を測ると3キロ減でした。
妻は介護疲れで12月に2度倒れ、2度目はとうとう救急車で緊急入院しました。
人の本当の姿はこういう困った時に分かりますね。
死の重みが希薄になったと言われて久しいが、死が身近にあった時代であっても、高度医療や緩和ケアが充実した現代であっても、臨終の瞬間は残る人々の想像力をはるかに超えます。
坂本繁二郎が最晩年に描いた絵は、終末の予感が老いの憂愁に包まれて、得も言われぬ古雅の趣を匂い立たせている。
最後の日、枕元の老いた妻と二人の娘に、「もう水もいらない、このままにしておいてほしい。ほんとうにお世話になったね」と言って静かに目を閉じて、八十七年のいのちを終えた。入寂と言ってよい。

平成31年2月03日 江戸像の虚実  小島慶三
小うたに「夏の涼み」というのがある。両国の船のにぎわい、物売り、新内流しなどを歌い込んだあと、
「めぐる月日も百余歳、今の両国は鉄の橋、濁った浮世に黒い水、お江戸懐かしいと思いませんかヨ」と納めるのである。
江戸への郷愁には、現実のやり切れなさが込められている。濁った浮世というが、昨今の迷走をきわめる政治、システムの機能不全、社会あげてのカネ狂騒、血も凍るような少年非行、赤新聞まがいのジャーナリズム、どこを向いても汚染のペンキ塗り、モラルのかけらさえない。
「静まれ、静まれ、この紋所が目に入らぬか」という黄門様や、「天人ともに許せぬ」と鯉口を切る長七郎君、勿体なくも通宝をつぶて代わりにする銭形平次、悪人ばらを逆手切にする座頭市、さては必殺グループの仕掛人などが、テレビの長寿番組を占めているのも、何かすっきりした悪への応報を求める庶民の心をうつものがあるからだろう。

平成31年1月27日 窪田空穂の一首      俵万智
天気のいい休日、のんびり散歩している老夫婦の姿を見たりすると、自然に浮かんでくる歌がある。
  老ふたり互いに空気となり合ひて有るには忘れ無きを思はず
長年連れ添った夫婦を、空気のような存在、と捉える比喩は、若い私にもすんなり受け入れることができる。
「有るには忘れ」というのも、よくわかる。互いの存在をことさら意識しない、そこにいることさえ忘れてしまう。それこそ空気である。
新鮮だったのは結句の「無きを思はず」だった。いないということを思わない、というのだ。
これは「有るには忘れ」の単なる裏返しではない。
それ以上の、深い信頼が宿った表現だ。
たとえ「死」というものが、二人の肉体を一時的に引き離したとしても、心はいつまでも「無きを思わず」なのだろう。

平成31年1月20日 早坂隆行
英BBC放送が世界中で行った世論調査で、「世界で最も好影響を与えている国」を聞いたところ、
日本は堂々のトップ、続いてカナダ、フランスの順でした。
一方「悪影響」との評価が多い国は、イスラエル、イラン、アメリカ、北朝鮮の順であった。
日本のマスコミほど日本叩きが好きなものはいない。
「日本が世界から孤立する」「アジア各地で日本バッシングが起きている」といった誤った情報を読者に喚起させるような紙面づくりは厳しく批判されるべきだ。実際には、国をまとめる軸として「反日」を利用している「ご近所さん」の数か国を除き、世界は概ね親日的といっていい。
私がこれまで取材してきた50か国以上での体験を通じて得た実感とも通じる。
もちろん、「自慢主義」に陥る必要はないが、「自虐主義」もほどほどにしないと、将来ある子供たちは自分の国に嫌悪感を抱くのみである。

平成31年1月13日 福本伸行
うまく生きれずとも…  
人から見たら・・・
徒労…不毛に見える悪あがき・・・苦しみ…だとしても・・・
輝きだ・・・!
かけがえのない時間なんだ・・・・!

人間の価値とやらはどうやって決まるのだろうか。平田にとってそれは金、才能、容姿、地位、権力、名誉・・・・そんなものの有無が決めるのだろう。しかし、実際には人間の価値なんて、そんな”持ち物”の多寡によって他人に決められるものではないはず、そして、たとえ平田からは劣っている人間に見えようとも、その個人の人生の中には、他人にはわからなくとも、輝かしく、かけがえのない時間があったかも知れないのだ。そんな時間の価値は相対的なものでは決して計れない。それでもそれは個人の人生の中でいつまでも輝き続けるものだろう。

平成31年1月6日 立川 談四楼
「何人だ?並べ」などと言い、札びらを切る人がいます。
御大などと呼ばれる大物俳優によく見られる現象ですが、石原裕次郎という人、シャイで、これが出来なかったといいます。
でも、スタッフや大部屋俳優には感謝しているんですね。
何とか謝意をカネに託したいんです。もらって嬉しいのはキャッシュですから。
で石原裕次郎、考えたんです。擦れ違いざま、実にさり気なく、胸ポケットなどに押し込んだそうです。
「紙飛行機でも作ってよ」と囁きながら。
これが世に名高い「裕次郎の紙ヒコーキ」です。今でも懐かしそうに言う人がいます。
「スマートだったよな」
「うん、裕さんの紙ヒコーキ」

平成31年1月5日 義母の遺句集   富士真奈美
義父は私がまだ結婚していた頃、74歳でなくなった。義母に介護の慌ただしさも重さも味あわせぬ他界であった。
  あと従いてゆけばよかりし枯野かな   明子
という心づもりの義母にとっては、呆気ない別れであったには違いない。
暫くの間、義母は寂しげでぼんやり日々を過ごしていた。
「私ケニアに行ってくるわ」と義母は箸を動かしながら、宣言するように言った。決心すると早かった。
亡き夫の持ち物を整理し、姑(亡き夫の母)の古い琴や三味線、浴衣などの古着、昔々、義父が戦地から送ったラブレターの束を捨てた。
家の周囲に植えられていたオリーブの樹は根こそぎ引き抜かれ、かわって義母の好きな椿が植えられた。
  老いながら椿となって踊りけり   三橋鷹女
という心づもりかもしれない。
私が知っているのはそこまでで、あれこれあって、私が離婚することになった時も、
「私は親子で血が繋がっているから、これからもあの子と付き合ってゆく運命だけど、あなたとは他人なんだから別れたらさっぱりしてくれていいのよ」と二階の階段の踊り場で言って、私たちは元の関係になった。それっきり会わなかった。
その義母が、八十五歳で亡くなった。そして義妹だった人が、遺品として、義母が愛用していた歳時記と句集を送ってくれた。
横田正智編の『写真俳句歳時記』もあり、こちらは「秋」だけボロボロに近く使い込んで、ところどころ、セロテープで止めてあった。
その中の、田んぼの手前に帽子を被った案山子が立っている写真。
義母も何度かこの案山子を眺めた事だろう、と胸が詰まり、ふと田舎でいま重い病床にある、自分の母の事を思った。
   細き目の女案山子は母に似る     衾去


平成31年1月4日 楽陶の会
昨年「楽陶の会10周年記念作品集」を刊行しました。
会員の皆さんには本当に感謝です。ありがとう。
10年の足跡をふり返ると月日の経つのは早いものだと思います。
今は、若くて張り切っていた頃が懐かしく思い出されます。
時と共に会員は入れ替わりましたが、お互いを尊敬し仲良く陶芸をするのは変わりません。

何十年か振りで八木重吉を読みました。彼の抒情詩は、あくせく暮らす私に失われた昔を思い出させました。
 路をなつかしみうる日は
 みずからがこころおどる日である
 なつかしみうるほどの路をみいでし日は
 うばわれがたきうれしさをおぼえる

平成31年1月3日 立川 談四楼
「何もできなかった。でも一人だけ幸せにできた」
これは今は亡き女優、沢村貞子さんの言葉です。長年連れ添い、先に逝った夫が
「こんな楽しい老後が待っているとは思わなかった」と書き残していて、そう実感したそうな。

「星は天国のカーテンにあいた穴なんだ」
アーミッシュの言い伝えであるという。
いい映画でしたよねえ、「刑事ジョン・ブック 目撃者」

平成31年1月2日 正月だけは自分の手で      高橋治
高度成長期と共に、宮廷行事四方拝にならった元旦の行事は姿を消してしまった。
私たちの時代は、子供らは元朝に学校に行き、紅白の饅頭を有難く頂戴して来たものだ。
「治ちゃん、私の紅白のおまんじゅう返してよ」小学校の同窓会に出て行くと、いい年をした元少女、現祖母群から思いもかけぬ催促を受ける。どうも、責められるだけのことをしたらしい。
拙宅は正月料理に関して時流から大分遅れて、伝統を墨守している。そんな面倒は一切省いて、ホテルにと考えないこともない。
だが、さすがに、不味くて無茶に高いと相場が決まっているホテルの和食堂で、”年の初めの例”である雑煮を食おうとは思わない。
いつ出しをとり、いつ野菜を切り揃えたかと考え、宿泊客の数も計算に入れれば、そんなものに金を払う気にはなれないからだ。
 三椀の雑煮かゆるや長者ぶり     蕪村
正月の句で、私が一番好きなものだ。
長者と自らとなえながら、その境遇とは生涯無縁と見きわめきった潔さが、新しき年を迎える覚悟として脈々として伝わって来る。
貧しいなりに、心だけはたっぷりこめられた雑煮を三杯も食う。これが庶民の正月だ。”なんか文句あっか”と云わんばかりである。
この、とことんのところの誇りと満悦感を、わが手から人の手に渡してしまって、年改まった日をどう迎えるのか。
私にはそこのところがどうしてもわからない。
不足だらけにせよ、正月だけは自分の手で演出しようと私が譲らないのは、あるいは、人の饅頭まで取り上げてしまった幼い日への償いかも知れない。

平成31年1月1日 元旦
明けましておめでとうございます。
皆様、よいお年をお迎えのことと存じます。
今年も緋色窯をよろしくお願いいたします。
     
    志野 織部 粉引 信楽 初日の出

遠くの人が突然訪ねてくる。
私は諏訪の工房と八ヶ岳の山小屋に半々住んでいます。
だから突然来られても会えないことも多いと思う。
訪ねて来られるのは焼き物に興味ある人、山歩きや山暮らし、樹木・山野草、そしてこのホームページに興味のある方。
今年も多くの人と出会えたが、なあんだとがっかりさせてしまったのではないかと心配です。

十年前は薪割がまる一日出来ました。もうあんなことはできない。半日で体中が痛む。
今は少し夜更かしをすると翌日は早く起きられない。
「あれは黄金の日々だった」私は不意に切なくなる。懐旧の情というやつか。
寒くて湿っぽい冬の日に、夏の記憶を抱いたまま、寒さが骨身にしみる日がくるとは、考えもしなかった。
私は胸の内でそっとつぶやいて、追想を断ち切り、山道を歩く。

    旧正の 縁の日なたに 老二人  長谷川素逝

今年は、背筋をしゃんと伸ばして、毎日を丁寧に、自分らしく生きていきたいと願っています。

*ホームページを開設して19年、工房は23年、穴窯は12年目です。
2019年が皆様にとって、明るい年でありますよう祈念いたします。
福寿草