令和四年に続く

令和3年12月31日 大晦日
家族の間には、しばらく穏やかな年月が流れているかと思えば、何かの転換期が波のように押し寄せてくる時がある。
そんなことを考えて、私は部屋の片づけにかかることにした。
   そのかみの愛読の書よ
   大方は
   今は流行らずなりにけるかな   石川啄木
書物にもむろん流行すたりがある。
愛読の書に過ぎし日の己が追想される。
 
風流
(上品な趣があること)、 風雅 (世俗から離れて、詩歌・書画など趣味の道に遊ぶこと ) に生きていこうと思う。


時の流れ、人との出会い、環境の変化の前に意識は無力である。
     また来るよ 大きな顔して お正月

令和3年12月30日 萩原葉子  萩原朔太郎 長女
いつか私も年齢を重ねてゆくうちに、大切な人の死に出会い、その度に谷間に落ち込むような寂しさを味わう。
一人の人間が、生きていたという事は、重大なことだと、ようやく分かるようになった。
その人のもっているものは、良いも悪いも、その人だけのものであり、他の誰にもかけがえは望めないからである。
この間会ったときには何気なく別れてしまったが、あれが見納めになってしまったのかと、愕然としたこともある。
大切に思われている人や良い仕事をしている人ほど、比較的早く死んでしまうのはどうしたわけだろうか。
憎まれっ子世にはばかる為なのか。
父の死によって人間の弱みにつけこむ欲深や、あさましさは、嫌というほどに知らされている。
私にとって、世の中でありがたいのは友達であり、身に染みて恐ろしいのは、縁故関係者である。

令和3年12月26日 拓野茂樹
お父さん、こちらの世界にいたらもう九十一歳ですね。
私は六十五歳になりましたからお父さんがそちらへ行って六十五年経ったことになります。
私が生まれて六十日目にあなたは旅立ちました。だから、私は何も覚えていません。
私を育ててくれた祖父母から聞かされた事だけが、あなたの思い出です。「神様のように優しい人だった」と云っていました。
最近、表紙もなく、綴じ糸の切れたあなたの日記を見つけました。私のことが書かれていました。
昭和十八年九月のある日に、「妻みごもるという、あめつちのめぐみをかんず、わが子、みごもるという。神々しいことぞ」とありました。
お父さん、初めてあなたの私への思いを知り、感動でした。
十か月後には、病であの世に旅立ったことを思うと、あなたの無念さが思われ涙が溢れました。
今まで言ったことのなかった「お父さん!」と初めて声に出して呼びかけてみました。聞いてくれましたか。
また、お便りします。どうぞ私達家族を見守って下さい。では、おやすみなさい。

令和3年12月26日 全国アホ・バカ分布考           松本修
日本中で入り混じっていますが、面白いもの。
北海道は「ハンカクサイ・ホンジナシ・マヌケ」、東北は「オタンコナス・トロイ・バカタレ・アンポンタン」、福島は「バカモノ」、茨城は「ゴジャッペ・コケ・デコスケ・アホダラキョウ」、関東は「ボケ・トンマ・ポンツク・ウスラバカ」、山梨「オバカ・ズデーバカ・ボンクラ・ノロマ」、静岡「トロイ・バカッチョ」、長野県「バカコゾウ・スットボケ・ノウナシ・ハチリン・ロクデナシ・トロクセ・オタンチン」、富山は「ダラ・コンジョウナシ・ボケナス」、福井は「アヤ・」、愛知は「ヘボ・タワケ」、関西は「ホーケモン・ドアホ・クソッタレ・アホクサイ」、姫路は「ダボ」、岡山は「アンゴウ・トロイ・トンマ」、四国は「スカタン・ボンクラ・ホッコ・ワヤ」、九州は「フーケモン・ノータリン」、沖縄「フリムン」。
     酒やめた ならばなぜ持つ そのコップ
クリスマスは貧乏人のシャンパン (白ワインの炭酸割) で乾杯しました。
     飲めるうちゃ 元気の証拠と もう一杯

令和3年12月19日 やくざのスラング
 喧嘩       ゴロ
 酒         キス
 大言      ラッパ
 危ない    ヤバイ
 悪事      ワリゴト
 富豪      ヒンマガリ (わかります)

令和3年12月12日 曽野綾子
1996年、まだ中国の三峡ダムが建設途中であった頃、私は揚子江下りをしたことがある。
同行者の中に、気っぷのいい、しかし生粋の共産党員がいた。私は彼に尋ねた。
「三峡ダムができると、何人くらいの人が湛水池から動かなければならないんですか?」
「百二十万人だよ」
「ええっ?」
というのが、私の無様な返事だった。最終的に移住する人の数は三百七十万人にもなるそうだが、百二十万人でも私は驚いたのである。
「そんなたくさんの人をよく移住させられますね。日本だったら、十二人か、百二十人動かすのだって大騒ぎですよ」
「それは、日本が世界一の社会主義国だからだよ」
この皮肉たっぷりの会話は極めて軽快に交わされたのだが、これは心から笑っていいのか、深刻に受け止めるべきことなのか、私にはわからない。

令和3年12月5日 マクベス    シェイクスピア
人生は歩く影だ。
あわれな役者だ。
舞台の上を自分の時間だけ、のさばり歩いたり、じれじれしたりするけれども、やがては人に忘れられてしまう。
愚人の話のように、声と怒りに充ちてはいるが、何らの意味もないものだ・・・・・。

令和3年11月28日 山田風太郎
私は誰にも、「死についてどう思うか」なんて訊いたことがなかった。
「そんなこと考えたってしょうがないよ。死ぬときは死ぬさ、アハハ」 という返事しか返ってこないに決まっているからだ。
これはみなが度胸がいいせいではない。まことにラ・ロシュフコーがいったように、
「人間は太陽と死は正視できない」 ものである上に、人間というものは、同条件下にあっても、「ひとは死んでも自分は死なない」 という奇怪な信仰を失わない特性を持っているからである。

令和3年11月21日 植松 黎
漬物が家庭の幸福感と深く関わっていることを感じたのは、離婚寸前の頃だった。
私は、崩壊しつつある夫婦なら誰でも感じる不安の中で夕食の準備をしていた。
残り物の野菜に塩をふってぎゅうと絞り、即席の浅漬けを作った。それに箸をつけながら相手が言った。
「いつも浅漬けばかりだな、どうしてぬか漬けにしないんだ?」
夫婦が危機にあるときにどうしてできよう。私は心の中で叫んだ。
ぬか漬けにかぎらず、漬物の味は塩加減もさることながら、作り手の「幸福加減」で良し悪しが決まる。
多様で豊かな漬物を作るには、頭の中にすべての作業が一年の暦として組み込まれていなければならない。
漬物の野菜には適切な季節や時期がある。洗ったり、干したり、切ったりと、漬け込む準備もまた一仕事である。
年々歳々滞りなくおこなうには、食卓を共にかこむ家族が前提にあるからだろう。
褒められる相手がいるからこそ、苦労が喜びと誇りにとって変わるのだ。
いま、私は一人になった。しかし、ぬか漬けだけでなく、梅干しやラッキョウも漬けている。今年の冬は沢庵に挑戦するつもりだ。
心に戻った平穏の証のように、その日を心待ちにしている。

令和3年11月14日 還暦川柳
 角が取れ 丸くなるのは 背中だけ
 もう嫌だ 何しに来たか もう忘れ
 いい人は 短命よねと 老妻(つま)が言い
 バラのよう 枯れても妻は トゲを持ち

令和3年11月6日 誕生日
家族で一人でも入院すると事件である。
日常性が狂い、家中がくたびれてしまいのだ。
突然襲う外部からのストレス。
父の介護のときに疲弊してしまった経験から、母の介護の時は、私達は体調を崩さず、普段通りの生活を送りながら準備をしようと決めていた。
しかし、何日かしては持ち直し、容体が急変するとまた深夜病院に呼び出される、というのが三年間続きました。
期待したり落胆したりの繰り返し。これが本当にこたえて、精神的にも肉体的にも限界でした。


私は完治せぬ病の身になり、新型コロナの流行で、三年の日月が無為に過ぎていった。
六十歳で仕事をやめ、趣味に暮らそうと決めた私は七十四歳になった。
心の中では、これからどう生きていったら良いのだろうか、といつも自問自答している。

    「何しに僕は生きているのかと /或る夜更けに /一本のマッチと /はなしをする」       立原道造
一年一年、体力が減退していくだろうから、気力だけは養って向上していかなくては・・・と、いつもの原点に還る。
薄ら寒い空をあおぐと、雲が空を流れていく。
私はどこまで流れていけるのか。
すべての川は海へ行く。

足の動くかぎり行ってみようと思う。

令和3年10月31日 安藤優子     1993年     
カンボジア選挙の、投票日、女の人は晴れ着を着て投票所にやってくるんです。
私はそのとき、「今、本当にほしいものは何ですか?」と随分インタビューを試みました。
すると、パンや電気や水道という答えは返ってきません、「平和が欲しい」と言うんです。
日本で同じ質問をしても、「政局が安定してほしい」なんていう人はほとんどいないと思うんですね。
私達は、平和などという言葉を素直に信じることが出来なくなっているんです。

令和3年10月24日 石川好
今年の五月、父が食道がんで亡くなった。享年八十六歳だから長生きした方だと思う。
息をひきとる二日前、僕は父の最期の涙を見た。
ガンでミイラのようにやせおとろえた体。意識もほとんど不明となり、死は時間の問題だと医師に言われた時、僕は父の枕元にいた。
母が大声で、「父ちゃん、分かるか息子の・・・」といって、僕の手を父の胸に導いた。
父はかすかに、動いた。その時、きつと閉じられていた両眼から、うっすらと水が湧き出るのが見えた。
その五日間くらい、食事どころか、水分の一滴も取ることが出来ず、体内に水分があろうはずがないのに、父は自分の最後の命の水を涙として、僕にくれたみたいだった。
最後の水は、生者が死にゆく者に与えるのではなく、死にゆく者が自分の生の泉を生者に見せることなのかもしれない。
父の最期の涙は、生まれて初めてぼくを、父の前で、大きく泣かせてしまった。

令和3年10月17日 森繁久彌
ある日レコードに種田山頭火の俳句を読む機会があったが、「生死の中に・・・」をセイシと読んで、折角の録音がやり直しというひどい目にあったことがある。これはショウジと仏語で読んでほしいと。
いやこっちは赤面の至りだった。モノを知る知らぬは、たったの一言で見抜かれる。
恐ろしいことでもある。

令和3年10月10日 土門拳
カメラマンの土門拳は、三度の脳血栓で倒れてから平成二年九月十五日に亡くなるまで、意識不明のまま十一年間も闘病生活を続けた。
元気なころは仕事の鬼といわれ、たみ夫人は約五十年の結婚生活中に一枚も自分の写真を撮ってもらえなかった。
「昔は貧乏で、フィルムがもったいないからといっていました」

令和3年10月3日 埴生の宿        矢橋幸子
今は遠い日、造成されたばかりのこの分譲地には、整然と真新しい木造住宅が並んでいた。
家の中からは終日、幼い兄弟たちのはじけるような歓声が漏れてきたことだろう。
「パパ、おかえりなさい」 バタバタと足音をたてて、玄関に出迎える声。
やがて、「おかわり」と、可愛い声がして、お茶碗の触れ合う音。兄弟喧嘩の泣き声。お母さんの叱る声。
この頃が人生で一番幸せだったことに、人は過ぎ去ってから気が付くのだが。
やがて三十余年の月日が流れた。
子供たちはそれぞれ独立し、夫を亡くしたNさんひとりがこの家に残された。
すぐ近くに住む次男とは、嫁との折り合いが悪く、ほとんど没交渉だったとか。
阪神大震災の後も、次男は老いた母親に安否を尋ねることもしなかったと聞くと、どんないきさつがあったにせよ、さびしく悲しい。
「Nさんの行動がおかしくて、東京に住む息子さんが連れていかれたそうよ」と人づてに聞いた。
頭の中が少しづつ壊れていく音を聞きながら、住み慣れた家を離れ、未知の地に連れていかれたNさんは、どんなにか心細く悲しかったことだろうと胸が痛む。

令和3年9月26日 フランス人の考え方   小池真理子
フランス人は、私達日本人とは個の確立が異なって徹底しているといえる。
ありていに言えば、自分は自分、人は人なのだ。
世の常識、というものは、たとえあったとしても、それは個々人、自分の人生を歩む上において、何の参考にもならない。
彼らはおしなべて、人と違うことことについて悩まないし、不安に思わないのだ。
目を向けるのは常に自分自身であり、自己との真摯な対話をおろそかにしない。自分で決めたことは、揺るぎなく押し通す。
「自由」 とは何か、と私はよく考える。何でも好きなことが出来る、というのが自由ではない。
人生を生きる上で、行き詰まるような感覚を覚えた場合、それまでの場所を捨て去って、新しい場所を求めて出ていくことが出来る・・・それこそが人間の究極の自由ではないか、思ったりする。
そしてその「自由」は、個が確立されていなければ、決して手にすることはできない。
「こういう私をわかってほしい」 と誰彼かまわず卑屈に懇願するのではなく、 「私はこうなのだ」 と宣言することのできる個の強さが必要不可欠なのであり、だからこそそこに本物の自由が生まれるのである。

令和3年9月19日 小林亜星   
明治以後、西洋音楽が入って来て、文部省で歌詞を付けました。これを”曲先”といいます。
その後、北原白秋、野口雨情などの天才詩人の活躍で”詩先”に変わってきます。
そして彼らの詩に曲がつくと、「北原白秋 作詩」となります。
ところが現在では「作詞」となっています。これは”曲先”だということです。
私が第四回古賀政男賞をいただいとき古賀先生が 「作曲家の一番うれしいときはどんなときだい」
私が 「はっ?」 と言いますと、先生は
「それはねえ、君、詩人の先生から素晴らしい詩をいただいた時だよ」 とおっしゃったんですね。
いやー、私、感動しましたね! 確かにその通りです。
素晴らしい詩をいただいて、ここに自分の曲をつけさせてもらえるのか、と思ったときこそ本当に作曲家になってよかったなあと実感します。

令和3年9月12日 古本屋     出久根達郎
古本屋は客の本探しも引き受ける。
「サンズの河はご存じですね、河原で子供が石を積んでいる、 聞いた覚え在りませんか」
「あります、あります、サイの河原ですね、ひとえ積んでは父のため・・・」
「その歌の全文が知りたいんですが、なんという本に出ていますかしら」
さあむずかしい注文である。仏教書を当たってみたが出ていない。民族の本や数え歌や民謡全集にもない。
地獄の研究書も調べたが (こういう本もチャンとある) サイの河原は現れたが、歌詞の記述はない。
三日かかって歌の正体が「和讃」であることをつきとめた。新書版の通俗仏教書にでていた。
この本の売値は百円である。客には大層喜ばれたが、もうけだけを考えたら、この商売やれるものではない。

令和3年9月5日 佐野洋子
一年前乳ガンの手術をした。ガンと聞くと私の周りの人達は青ざめて目をパチパチする程優しくなった。
私は何でもなかった。三人に一人はガンで死ぬのだ。あんたらも時間の問題なのよ。
私はガンより神経症の方が何万倍もつらかった。何万倍も周りの人間は冷たかった。
私の周りから人が散っていった。人を散らす様な私になっているのだ。
やがて私は死にたくもない死ねない廃人になって生きながらえるのか。
心底ガンの人がうらやましかった。
そんな事を口に出したら、わずかに残った心優しい友達も飛び跳ねてどこかに行ってしまうだろう。
私の神経症は今でも治らない。一生治らない。
 

令和3年8月29日 水谷八重子
作家の川口松太郎は、水谷八重子が鬼籍に入ったとき次のように主張した。
「どんな立派な戒名がついても誰だか分からない。
水谷八重子といえば日本中が知っている。戒名の必要はない」

令和3年8月22日 往時茫々
人を押しのけてまで上にあがろうとせず、先を考えて心配することもしない。
今日一日の生活ができればそれで良い。
そんな平和な暮らし。
流れゆく時の中で、一瞬たりともとどまることのない生き物としての生々流転の道理から、消えてなくなる一時の姿や言葉や心根など、いとおしくおもわれる。
すべてのもののささやきに耳を傾け、手を触れ、心を通い合わせたら、どんなに和やかな日々が送れるだろうか。
命長ければ恥多し。
ああ、老骨はこういう時決まって、”往時茫々”という。

令和3年8月16日 藤原てい
「僕たちも一度、新田先生のスイスのお墓へお参りに行きたいなあ」
それが実現したのである。それも二十人余という大部隊で。
みんなみんな新田のお友達、懐かしい人たち、心あたたかな人達。
チューリッヒに着くと、バスを一路グリンデルワルトへ走らせた。海抜二千メートルのクライネシャイデックは霧の中にあった。寒い。
今日はアイガーも、ユングフラウも、メンヒも、かすかに頭を雲の上にのぞかせているだけである。
高山植物の小さな花々が、夏の終わりを精一杯に咲き乱れている。その土手の中腹の石に、新田の銅板ははめ込まれている。
  「アルプスの山々を愛した日本の作家、新田次郎、ここに眠る」 と、刻み込まれて。
牧草を踏みしめて、一人一人が手を合わせている。何を語り、何と慰めるのか。長い長い沈黙の時間が流れた。
線香の煙が霧に溶けてゆく。
「これから先生のお好きだった『荒城の月』をみんなでうたいましょう」
その声と同時に、ハーモニカが鳴り出した。合唱は高く低く、アイガーの北壁を昇って行った。
私は墓石の横へ座り込んだ。
かすかにホルンの音を聞きながら、このまま新田と並んで石になってしまっても悔いることはないと思って、眼をつむっていた。

令和3年8月15日 先祖と子孫     三浦朱門
亡くなった親の供養をしないと、悪運に見舞われる、と言う人がいるが、私の両親に関する限りでは、そんなことはない。
母は私の知る限りでは、一度両親の墓参りをしただけである。母は八十九歳の残暑の朝、昼寝をするからと言ってベッドに横になり眠ったまま死んだ。父は九十二歳の秋に肺炎になり、、子や孫に見守られながら息を引き取った。
私は三浦半島に墓を作った。私の両親をみると、先祖の供養をしなかったからといって、悪運に見舞われることなどなさそうである。
大体、私は息子や孫が可愛いし、彼らが私の晩年にそれほど優しくなくとも、彼らが幸せならばそれも許せると思う。
ましてや墓参りをしないからといって、呪うような気持ちは全くない。
どうして先祖の霊が子孫に祟ることなどあるものか。先祖は子孫がよかれとのみ、願うのではないだろうか。
私は気の向いた時に、海の見える墓地に参る。
そしてふと息子や孫なども、あれほど可愛がってくれた祖父母であり、曾祖父母なのだから、一年に一度くらい墓参りをしてもいいのに、と思ったりする。私は両親より、肉親愛が強いらしい。

令和3年8月14日 俵万智
明治四十年夏、与謝野鉄幹、北原白秋、木下杢太郎、吉井勇、平野真理の五人が九州へ旅行した。
昭和二十七年五月、吉井勇は再び天草を訪れている。五人で歩いたまぶしい夏の日から四十五年の歳月が流れていた。
   ともにゆきし 友みなあらず我一人 老いてまた踏む天草の島
その折に詠まれた一首が歌柱に刻まれ、遊歩道に立っている。他の四人はすでにこの世にはいなかった。
何の技巧もほどこされていない素朴な歌だが、海を見下ろす位置にあるその歌柱は、さまざまな思いを抱かせる。
かって、五人の歌人が、たしかにこの道を歩いたのだ。
若い詩の魂を胸に秘めて、その日の海もきっと、こんなふうに青く輝いていたことだろう。
彼らはそこに何を見ただろうか。そして四十五年後、再び訪れた吉井勇を、海は同じ青さで迎えたにちがいない。
「友みなあらず」とうたった彼も、もうこの世にいない。
今、同じ土を踏みしめている自分とて、海の前には一瞬の訪問者である。

令和3年8月13日 グレタ・ガルボ
グレタ・ガルボは84歳で亡くなるまで結婚をしないで、その私生活はベールに包まれていた。
あるとき、ガルボと親しかった伝記作家が「生涯で後悔することは?」と訊いたら、彼女は溜息まじりに語った。
「結婚をしないで、私はなんて馬鹿だったんでしょう。
これまで見た中で最も美しかったのは、腕を組んで歩く老夫婦の姿でした・・・・・」

令和3年8月8日 森繁久彌
共同通信のドイツの支局長のお世話になった。
いいお住まいで一行は日本めしのご馳走になったが、利口そうな小学校六年のご子息が、
「ねえ、オジさん、日本ではどうして国旗をあげないの」
「どういう意味?」
「ドイツでは、始終国旗をあげるよ。日本は、日の丸が恥ずかしいんでしょうか?」
私は絶句して、この坊やに親切な返事が出来なかった恥ずかしい記憶がある。
あるドイツ人が私に言った。
「これからはドイツの誇る偉大な哲学者も、詩人も、楽聖も出ません。出るのはマーチャントだけです。
あなたの国もそうでしょう」と。

令和3年8月1日 全国アホ・バカ分布考           松本修
漢字では、「マヌケ(間抜け)」 「トンマ(頓馬)」 「フヌケ(腑抜け)」 「ボンクラ(盆暗)」 「アンポンタン(安本丹)」 「ノータリン(脳足りん)」 「クソッタレ(糞っ垂れ)」 「タコ(蛸)」 「カス(滓)」
関東では「居る」ことを「イル」関西は「オル」。
「七日」のことは「ナノカ」と「ナヌカ」。明後日の翌日は「ヤノアサッテ」と「シアサッテ」。「おりこうさんね」と「かしこい」

令和3年7月25日 全国アホ・バカ分布考           松本修
東京の人は「バカ」と言い、大阪の人は「アホ」と言う。
大人同士の会話も、
「俺たち、バカなことをしたなあ」
「うん、もうこんなアホなことはやめよう」
ときにはこれが愛の言葉にもなる。
「きょうの君は、すばらしい」 などと言われて、愛くるしい乙女は、
「いやん、バカ」
「なに言うたはるん、アホかいな」

令和3年7月18日 家森澄子
読み終えて私は、親友の恵美子さんのご家族のことを思い浮かべた。恵美子さんのご両親も目の見えない人であった。
子供のころよく遊びに行かせてもらった。玄関にはいつも季節の花が活けられ、本棚にはきちっと本が整理され、衣紋かけには家族の順から、きちっと洋服が掛けられていた。我が家と違い、ずいぶん綺麗に片付けられていることは子供ながらに感じていた。
ある日、恵美子さんの家にお邪魔しているとき、恵美子さんの弟の寛君におばさんは、厳しい声で
「寛、お行儀良くご飯を食べなさい」とたしなめられた。寛君は足を投げ出して、ご飯を食べていた。
私はびっくりした。おばさんの目はまったく見えないのに寛君のお行儀の悪さがなぜわかったのか。
幼かった私は、不思議なことをすぐおばさんに訊いた。おばさんは笑いながら話してくださった。
「目は見えなくても人の態度は、ことばや、声で分かります。お花は見えなくても匂いで季節の移ろいを感じます。
物を整頓しておけば、探さなくても済みますし、全く心配はありません」
立道聡子さんや、恵美子さんのお母さんのお話から、健常者にはまだまだ分からない、ご苦労や、努力が身にしみた。
老いを言い訳に面倒なことから逃げ出す怠け心を持つ私は、やる気と勇気を授かった。

令和3年7月11日 家森澄子
先日書店で立道聡子著「たからもの」を購入した。
作者は生まれた時からの全盲で一切の光を感知できず「見える世界」というものを知らない。
二十二歳の時全盲の男性と結婚した。やがて彼女は妊娠したが、周囲の人からは出産を反対された。
障害が遺伝するかも、それに二人とも全盲でどのようにして子育てするのか。
しかし、彼女は愛する人の子供が欲しかった。どんなことがあっても、夫婦で愛情をもって育てようと決心して、元気な男の子を出産した。
彼女は 「目の見えない私たちが、家族を作り子供を育てることは決して簡単なことではありません。想像を絶するような困難にも幾度か直面しました。でも、この世にできないことなんかないのです。ほんの少しの勇気があれば・・・・・そう信じています。・・・・今まで出会った多くの人たちから、私がたくさんの勇気をもらったように、私も誰かに勇気を分けてあげられたら、と思います」と、締めくくってあった。 続く

令和3年7月4日 寺山修司
マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや。
 なみだは人間の作るいちばん小さな海です。
人類が最後にかかる、一番重い病気は「希望」という病気である。
 歴史は嘘、去ってゆくものはみんな嘘、そして
   あした来る、鬼だけがほんと。

令和3年6月27日 花のタクシー   鈴木八洲伸    
「夕べ・・・・・と言っても一・二時間前だけど、留守電に珍しく父の声がはいっていたの。
聞いてみると、母が倒れた、と頼りない声でしゃべっているの。戸惑ったような声を聞いていたら、いたたまれなくなっちゃった。
『すぐ帰ってこい』っていうのかなと思ったら、『そういうことだから・・・・』って切っちゃって。
頑固者の父が、まるで迷子の子供みたいに、自信なさそうにしゃべっているの。
聞いているうちに、涙が出てきて止まらなくなっちゃった」 それで、急いで荷物をまとめ、飛び出してきたのだという。
そう話してから、女性は突然こう言った。
「このままずっと、田舎で暮らそうかしら」

令和3年6月20日 父・中川一政のこと   原 桃   
何より父を尊敬するのは、父が自分のことを偉いと思っていなかったことだ。
日常会話の中に何か耳新しいことがあると、「そうかい、それは知らなかった、これから気を付けよう」などと自然に言われると私は身の置所に困った。
「やっと思うような絵が描けるようになった」と父が言ったのは何年くらい前だったか。
父はそのころからだんだんやさしくなった。
あまり苦労しないで絵が描けるようになったぶん余裕ができて、かわいい曽孫と遊ぶことが出来たのは、本当に良かったと思う。
父は病気の話をするのも聞くのも嫌いだった。そして、痛みや苦しみを我慢した。
また、元気な絵を描きたい一心で、お医者様の言うことをよくきいた。本当に、いつも前向きの入院だった。
父の最期の入院を知らされた時、私は風邪ですぐに行けず、元気になって看病に駆け付けると、父は目をつむったままだった。
翌朝、父は逝ってしまった。

令和3年6月13日 虹              市川美代子  大正十四年生
そろそろ夕食の準備に取りかかろうと、台所に立った途端、夫が外で大声で私を呼ぶ。何事か、と表に飛び出すと、高い山をひとまたぎに、大きく弧を描いて虹がかかり、その下に、低い山の端より人家の屋根にとどく小さな虹がかかっている。二重にかかった美しい虹である。
無口で無頓着な夫にも、一人で見るのはもったいない。美しいものを共有したいとの思いがあったのか
結婚して四十有余年、一度も見せたことのない夫の一面、優しさを感じた一瞬、私も年を重ねて、ひとの気持を思いやることが、少しはできるようになったのか。
最近、特に耳が遠くなり、ますます無口になった夫。
自分の言いたいことのみを言って、返事を聞くでもなく、さっさと立って行ってしまう。
テレビと自動車が何より好きな夫。その夫も七十四歳。
眼鏡をかけなくても、新聞を読むことが出来るが、耳が遠くなり、運転免許証を返さなければならない日も、あまり遠くないような気がする。

令和3年6月6日 鳥居孝昭
東京都の奥多摩にある都立水産試験所を訪れたことがある。
水槽にはイワナやヤマメなどの渓流魚が放たれていたが、興味深いのは「最終槽」である。
その水槽には雑多な魚が入れられている。口をぱっくり、逆さに泳ぐ、鮮やかな青や黄色の鱗をした魚などがいる。
要するにこの最終槽に収容されているのはどこか「異常」のある魚なのだ。
突然変異や、病気を他の健康な魚に感染させないため隔離されているのである。
その抱腹絶倒、そして、やがて哀しくなる光景を見ていると、実に人間の社会、犯罪者たちを含めた一般の人間社会に似通っているなと思う。過去、いろんな事件に接し、その事件に関わった犯罪者たちを見ていると、犯罪者たちとそうでない者との差は、結局のところ「最終槽」に群れる魚と健常イワナや健常ヤマメなどとの差ほどの開きはないと思う。
総体としての人間社会は、むしろ最終槽の魚たちに似通っている。

令和3年5月30日 東山千栄子        出久根達郎 
東山千栄子は十八歳で結婚した。夫は貿易商社のモスクワ支店長で、資産家であり、モスクワで八年間暮らした。
大正六年、夫妻は休暇をもらい帰国した。その留守にロシア革命が起こり、居宅は焼かれて、戻れなくなった。
そこに、大正十二年九月一日の関東大震災である。
まのあたりに惨状を見た千栄子は、人間のはかなさを知った。そして、自分を省みて慄然とした。
生まれてきたから、ただ生きているだけの自分。夢も理想も持たず、ムダに遊んでいる毎日。
勉強しなくてはいけない。千栄子は猛然と本を読み始める。
大正十四年、築地小劇場の研究生になる。新劇に理解のある夫は条件を付けた。
お金をもらってはいけない、という一条である。
夫は一生食に困らぬ額の千栄子名義の貯金通帳を作ってくれた。
演劇人になった千栄子は、逆に普通の生活人に変貌した。
「ああ疲れた」と決して言わない人だった。茄子作りの名人でもある。
「天才がトップまで行くんなら、私は努力で一生かかって七分か八分のところまで行ければと思ってやってきました」と言っている。

令和3年5月23日 長谷川如是閑
長谷川如是閑は医者に三十歳まではとても生きられまいと言われ、本人もそう思い、療養中の日記を「曽礼魔伝日記(それまでにっき)」と名づけ、扉にこんな歌を記した。
  「長き短きけじめはあれど人みなの生きる命はそれまでの命」

「徒(いたずら)に百歳生けらんは恨むべき日月(じつげつ)なり」      道元

令和3年5月16日 山田風太郎
天正十年、織田信長は明智光秀の謀反により本能寺で自刃した。
「人間五十年、化天の中をくらぶれば夢まぼろしの如くなり」。その五十年を待たず、信長数え年四十九歳。
---死は大半の人にとって挫折である。
しかし、奇妙なことに、それが挫折の死であればあるほどその人生は完全形をなして見える。
信長こそその大典型。

令和3年5月9日 母の日    森繁久彌  
八王子で会社を経営している社長がロータリーで講演した時、全員感涙にむせんだという逸話がある。
その日は全員に赤飯が出ていた。
何事だろうと全員がいぶかしい気持ちだったが、話が始まるとその意味が解り、ひとしくその赤飯をかみしめたという。
「私は貧しい百姓の家に生まれた長男でした。十六歳の寒い或る日、今日こそ家出しようと、持ち出す荷物とて下着の二三枚ですが、風呂敷に包んで午前三時ころ部屋をそっと出ました。すると、台所でなんとお袋が何かしている模様です。
見つかっては大変と、足音を忍ばせて出ていこうとしましたら、突然お袋の声が小さく聞こえました。
『一男 ! 』
私は息をのみ、黙って立ちつくしていました。
『めしを食ってけ ! 』
すへてはバレていたのかと観念し、お膳の前に座りました。
暗いランプの下で、何と湯気の立つ赤飯が私の前においてあるではありませんか。
母は一言もいいませんでした。
私はとうとう一口も口に出来ずに、黙ってそれを包んで出奔しましたー。
これは私の母の話ですが、或はこれが日本の母の常の姿かと思っております。
どうぞ記念に皆様に食べていただきたいと思って赤飯を差し上げました」

令和3年5月5日 畏友森谷司郎      森繁久彌
天然記念物の猫がいるという沖縄は八重山諸島、西表島に来た。
森谷司郎は生前その西表に見せられて、オレが永遠に眠るところはここだ---と決めていたそうだ。
森谷司郎は完全主義者であった。
「八甲田山」の時も雪の山中に四時間待たされて、逃亡した男もいたくらいだ。
「クソ、森谷メ、何を血迷っとる!」「畜生ッ!死ね!」
と、低音でうなっていたが、三時間目くらいから誰もなにも言わず、零下十度の山中の吹きっさらしの中で、語る言葉も凍るのである。
みんながニラみつけると、彼は始終ソッポを向いていた。
映画「海峡」は「八甲田山」と同じように難渋を極めた。
雪の中に私を二時間待たせるのだ。「どうしたんだ、監督、なに待ちだ」と怒鳴ると、助監督がやって来て、山の向こうの雲がなくなるのを待っているんですーーーという。
そんな男なのに、なぜ、彼を信奉してみんながついてゆき、モノ言わぬ彼の遺骸の前で泣いたか、それこそ監督の真骨頂であろう。
完成の祝いには、不思議な感動におそわれただけに 「なぜ死ぬんだ、これからじゃないか、森谷のバカめ」と顔をくしゃくしゃにして、読経の中で香を焚いたのだ。
あの英姿は、やがて病院のベッドで、衰えはて、
「人間ってこんなに痩せるものかネ、シゲさん!」
と一言残してこの世を去ったのである。
その彼は、私達からあまりにも遠い南海の一孤島に永遠の眠りについている。

令和3年5月4日 尾崎士郎
尾崎士郎の代表作「人生劇場」は、昭和十一年、日活の内田吐夢監督で「青春篇」が映画化された。
主人公の青成瓢吉に小杉勇、吉良常に山本礼次郎が扮した。好評につき「残侠編」が制作された。
小杉、山本の他に、飛車角役に片岡千恵蔵が加わった。ここで主役争いが起こった。小杉か千恵蔵か、看板もめである。

昭和三十九年二月十八日は朝から雪が降っていた。
尾崎の臨終の枕元に、家族や知友が集まっていた。
尾崎が見回して、「臨終みたいだな」と言った。「みんなに飯を食ってもらえ」と命じ、「酒を飲んで待っててくれ」とも言った。
「青葉繁れる」の合唱をさせて尾崎は逝った。
病床に息子を呼び遺書を口述筆記させた。
「残夢消えつくして一抹の残るところなし、人生の興業ここにことごとく終わる、人情を知ってこれに及ばず、ただむくゆるあたわざるを悲しむのみ」

令和3年5月3日 森繁久彌
新京の南に鞍山という大きな鉄鉱山がありました。
そこに日本の八幡製鉄の技術を導入して大規模な露天掘りをやろうというので、技術者がやってきました。
鞍山の露天掘りは壮大でした。働いている人間たちが、芥子粒みたいでした。
青空が高すぎて、鞍山削岩機の音なんか、ほんの小さくしか聞こえません。
ここで人間が、どんなに嘆こうと叫ぼうと、それは草のそよぎにしかすぎません。
満州は、私に〈大〉と〈小〉の不思議を教えてくれました。
人間の大きさと小ささ、人生の長い短いーーー私は今でも、コーリャン畑の落日の朱に染まって立っているような気がします。

令和3年5月2日 蛍     佐藤英一
その老人は二十日あまり前、ぶらりと外来に一人でやってきた。診察の結果は手遅れの肺がんであった。
身なりも言葉遣いも上品だが、誰も見舞いに訪れなかった。カルテに書かれた住所も電話番号もでたらめであった。
ある日X老人とじっくり話し合うことにした。
「先生は身寄りのない年寄りと思っていらっしゃるでしょうね。しかし、私には妻と五人の子供と十三人の孫がいます。夫婦仲もよく子供も幸福な家庭を営んでいます。
初めは妻や子に看取られて一生を終えられたらなんて甘い身勝手な考えをしていました。
妻も日に日に老いさらばえていく病人の最期を手を握って看取る義務はないでしょう。
勿論、毅然とした強い父親に憧れてきた子供たちにこの苦しみでのたうちまわる哀れな老人など見せるべきではないと思います」
そこには常在死の葉隠れの古武士が息絶え絶えに横たわっていた。私は目頭が熱くなり涙を流すまいとずっと天井のシミを数えていた。
「死ぬ為の費用は枕の下に二千万円くらいあります。くれぐれも私が死ぬまで家族には連絡しないでください。先生をこの世で最後の友として全てをお話ししました。先生、蛍は人間を楽しませる為に光を放っているのではないのですね。蛍は自分が生きるために光っているのです。私が妻や子にと思って尽くしてきたこの人生もすべて私のためだったのです。・・・疲れたので休ませていただきます」
X老人の死は蛍の光のようにいつか淡くなった。穏やかな死に顔であった。
枕の下の通帳は無記名だったが、一緒に出てきた色紙には蛍が一匹光を放っていた。
サインは私にもわかる有名な画家のものであった。

令和3年4月25日 ただいま赤字中     藤山寛美
子供の時に、何気ない言葉の使い方一つで、人を感動させることを知った。
母が夜なべの針仕事をしている。五人の姉弟が、一言ずつ母に声をかけて寝床に入る。「おかあちゃん、あした五時に起こしてや」 「おかあちゃん、スカートにアイロン当てといてや」 「おかあちゃん、弁当のおかず***にしといてや」寛美は最後にこう言う 「おかあちゃん、はよ寝や」
手帳に知友の忌日を控えていて、命日には毎年、花を贈った。
寛美が亡くなった時、ほとんどの債務者が、香典に、と借金を棒引きにしてくれた。
寛美語録。
 「順番を待っているだけの人間には、永久に順番が来ない」 「病気の数は千とあるが、健康は一つしかない」

令和3年4月18日 松永安左衛門
「生きているうち鬼と言われても死んで仏となりて返さん」
松永安左衛門が、米寿の宴席で詠んだ歌である。松永は「電力の鬼」と称された。
昭和40年「年頭所感」と題し、こんな句を詠んでいる。
 「なんとなく 九十一まで 生きにけり」
クヨクヨ思いわずらわぬことが、健康長寿の秘訣であると述べた松永は九十六歳まで生きた。

令和3年4月11日 ワクチン
日本で開発された新型コロナワクチンが出来てこない。
日本は先進国と思っていたが、今、コロナワクチンでは、ロシア・中国・インドなどにも後れを取っている。
原因は、副作用で訴訟が多く出たため、役人は研究費を出さず、製薬会社は製造をやめてしまったようだ。
      ケビン・メア      米国元国務省高官
日本のエリートたちの、現実を直視する力が衰えていると思います。
決断のできない優柔不断と、希望的観測に頼る傾向はおそらく同根の弱さではないでしょうか。
若い頃、私は日本専門家から「日本の美意識の真髄は醜いものをあえて見ないことだよ」と教えられました。
銀閣寺を見学したとき、見事な日本庭園の傍らに殺風景な自動販売機が置かれていたのです。
私は、「なぜ、こんな美しい場所を台無しにする自販機を置くの?」と怒りを覚えたのですが、一緒の日本人は三人とも「どこ」と尋ねてきました。そして周囲の日本人はだれも気にしていないことに驚きました。
たぶん、日本人はその場にそぐわない醜悪な物体を自然に意識から排除したのだと思いました。
見て見ぬふりをする文化は日本だけではなく、世界中に存在します。
しかし、日本の場合、政治エリートが現実を直視しない傾向にあるわけですので、事はいささか深刻です。
コンセンサスの呪縛とともに、極度に失敗を恐れる今の日本の精神文化も、政治の決断が遅れる一因になっていると思います。
現代の日本では「一度失敗すると終わり」という恐れが強すぎると思います。
本当はそんなことはなく、人生は何度でもやり直しがききますし、何度か失敗したところで長い人生にとっては物の数ではないのです。

令和3年4月4日 オシャレ         加山早苗
1986年、入社式を控えた長男に、私は背広をプレゼントするつもりでいた。
「そろそろ背広をね、二着作っていいのよ」
「ありがとう。ウーン・・・・」 「ねえ、オヤジさんのスーツ、見せてくれませんか」
私は、亡き夫の背広を箱から取り出し、広げて並べた。
「お母さん、僕、着られたら着てみるよ」 長男は自ら、リフォームの店に持って行った。
四月、長男のフレッシュマン生活はスタートした。彼は父親のスーツと、ネクタイをその日の気分で選んで結んだ。
二か月が過ぎた。
「同僚に『オシャレ!』って言われたよ」 会社から帰宅した息子は、おかしさを堪えた表情で私に告げた。
「え?オシャレって・・・・・」
私の顔はたちまち泣き笑いで崩れた。
彼は父親のお下がりの背広のポケットから、白いハンカチを取り出して、軽く投げてよこした。
「お母さん、ハイ」 私は笑いながらハンカチをキャッチして、涙をぬぐった。

令和3年3月28日 卒業式      佐藤二三江  
卒業式は、盛大に、そして厳粛に挙行された。
ところで、私は姪の友人である卒業生のひとり、名古屋出身のHK君と話をした。
「ご両親へのご恩を忘れないで、立派な社会人になってネ」
「ハイ、決して忘れません。両親には、かなり苦労をかけた・・・・・と、思います」
Hk君は、自分がはじめて帰省した一年生のときの夏休みのことを話してくれた。
「久しぶりに家に戻ると、家族が大歓迎をしてくれました。しかし、食卓に並べられたおかずの品数が、私が高校を卒業するまでとは、極端に違って、少ないのです。それはその日だけかと思っていたら、夏休み中、ずっと同じでした。口では一言も漏らしませんでしたが、これは両親が生活を切り詰めて、私の学費を出していてくれたのです・・・・・」
彼の目は、心なしか潤んでいた。
私はそういうHk君に、頭の下がる思いがした。
そしてまた、Hk君のような人を育てられた両親に、ことばでは表現できない感動を覚えたのであった。
そしてk君と姪に、「おめでとう」と心の底からの喜びを伝えた。

令和3年3月21日 森繁久彌
元外務次官の黄田多喜夫さんからうかがった話である。
私は「のるかそるか」の語源を知らなかった。
辞書をひくと「伸るか反るか」となっており、成功するか失敗するかの意と出ているが、もともとはサンスクリットから来ているもので、「のるか」は地獄を意味し、そるかは実は「そるが」が正しく、天国を意味するものだと拝聴した。
ついでに、「猫も杓子も」の語源はご存知かと聞かれた。
「猫も杓子も」は、正しくは「禰宜も釈子も」から来ているのだそうだ。禰宜は神官、釈子とは釈迦の弟子という意で、つまり神も仏もみんなこぞってということになるのだという。

令和3年3月14日 辞世便覧      江國 滋
明治三十六年、尾崎紅葉が胃がんで死んでいる。亡くなる直前、枕頭を囲んだ弟子たちの顔をゆっくり見まわして紅葉山人いわく。
「おまえら、せいぜい、まずいものをくって長生きしろ」 いやな野郎。
    辞世
  死なば秋露の干ぬ間ぞ面白き         紅葉
せいぜいまずいものをくって長生きしろ、といわれた一人である泉鏡花は、それから三十六年ながらえて昭和十四年九月七日に没した。
おまえら、と毒づいた紅葉が三十七歳、毒づかれた鏡花は六十六歳であった。その鏡花も辞世を残している。
   露草や赤のまんまもなつかしき

令和3年3月7日 出久根達郎
芥川龍之介は昭和2年7月24日に自殺したが、その年の11月、八冊ものの全集の第一巻が発売された。
菊判で一冊が七百ページの豪華なもの。一冊が四円、当時、白米の上等が十五キロ買えた値段である。
初めての全集ゆえ編集作業は難をきわめ、配本は予定通りに運ばなかった。付録の月報は、ほとんど編者の遅刊お詫びでしめられている。
一に我々の怠情にある、と謝した。
ところが次の月報で版元の社長が、さにあらず、全責任は見通しを誤り、かつ努力を怠った自分にある、と述べた。
編者と版元が責任を取合ったのである。
予定に半年遅れて完結した。
七、八巻は千ページ近い大冊となり当然赤字になったが、版元は一言も泣きごとを言わず、最後まで応援してくれた五千八百人の読者に、心からの謝意を表した。同時に編者をはじめ印刷製本会社の社長従業員、その他この全集にたずさわったあらゆる人の名をあげて、丁重に礼を述べた。編者も同様のあいさつを記した。
私はこんなにもあたたかい内容の月報を他に知らない。
全集の版元は、岩波書店である。

令和3年2月28日 森繁久彌の大遺言書   久世光彦
「とうとうこの家を壊すことになりました。築五十年はとうに過ぎています。
廊下の凹みも、柱の疵も、雨戸の節穴も、そこから射し込む朝の光も、聞き慣れた戸車の軋みもーーー
みんななくなると思うと胸が痛くなります。
みんないなくなってしまったけれど、母親が日向ぼっこをしていたこの籐椅子や、あそこの釘に掛かっている女房の麦わら帽子。
今日までそのままにしておいたけれど、この家がなくなれば、とっておいても仕方がない。私の知らない間に、どうにかして下さい」
物の記憶は、人の記憶である。
森繁さんの目の裏には、そうした人たちのかっての日常が、駆足みたいに浮かんでは消えるのだろう。

令和3年2月21日 教訓をいわぬカナリヤ西條八十     出久根達郎  
西條八十は大正初期からの純粋詩人であったが、本業は早稲田大学仏文の教授であった。
しかし世間的には「東京行進曲」「侍ニッポン」「予科練の歌」「青い山脈」「芸者ワルツ」など歌謡曲作詞家として名高い。
「唄を忘れた金絲雀(カナリヤ)」の童謡作家でもある。フランス詩人の研究者でもあるし、翻訳家でもある。少女小説も書いた。
あらゆるものに精通し、何をやらせても秀れているというのも通人の資格であるから、八十はその典型といってよい。
むろん自他ともに認めるところの艶福家でもあった。それと女性に対しての無類のやさしさ。
ふしぎなのは偉大な詩人にしては、気のきいたセリフが、ない。
「女が一度ぐらい躓いても、起こしてやるのが男の役目だ」 
実に平凡である。
まことの通人は、教訓めいたことは決して口にださないものらしい。

令和3年2月14日 必殺仕掛人+
日なたを歩けぬ悪党どもが  大手振り振り江戸の街
正直者は涙雨   尽きぬ不運が泥溜り
晴らせぬ恨みを金で買い   許せぬ巨悪を始末する
その狙いに仕損じ無し   「必殺」の殺し屋、見参
「馬鹿野郎!渡世人のケジメを忘れやがって」
シュッ (懐に入っていたドスのサヤを振り落とす音) チャララー(主題歌)
親が黒なら子も黒と!畳の上じゃ死ねないが、兄弟杯握り締め、背中の不動に雪が降る!

令和3年2月7日 高峰秀子
女優という職業柄フツーの人よりはずいぶんと大勢の人間に出会ってきたが、ときおりハッとするようないい顔を見た事がある。
それらの人は、ある時は漁師のおじさんだったり、農家のおばあさんであったりして、優美淡麗とはいえないけれど、与えられた人生をあるがままに素直に生きてきた一種の気品のようなものがそのシワに刻まれていて、静かな、いい顔だった。
美しく老いることは不可能だけれど、静かないい顔に近づくことはできる。
人間の顔が「顔」になるか、単なる「ツラ」に終わってしまうのかは、当人の心がけ次第、というところだろう。

令和3年1月31日 大往生  永六輔
「人間は病気で死ぬんじゃない。寿命で死ぬんだよ」  友人ががんセンターに入院した時、同室の老人から聞いて感動した言葉。
「テレビドラマの病院の場面でね、ベッドの患者を運ぶ時、頭が先になっていることがことが多い。あれは死者の運び方です」
「死因ですけどね、ホントのところは病院のなかの派閥によります」 
  たらい回しは役所の窓口に限らない。
  「あの医者に診てもらったなら、私は診ない」、そう断言した医者もいた。
  「医は算術」と認めた医者も。

令和3年1月24日 そこまで言って委員会
平成16年1月、東京板橋区の路上で中国人男性が職務質問を受けた際に警官を殴り、逃走したため拳銃で撃たれた事件の裁判が行われた。この男性は不法入国者で、ピッキング強盗の常習犯。
事件当時の状況を、一般常識的にみると、発砲もやむを得ないと思える凶悪犯だったという。
ところが、犯人側の「発砲は違法」との訴えに対し、東京地裁の裁判官は、警察側に636万円余りの損害賠償を命じた。
また、沼津市のストーカー殺人事件の裁判では、罪のない女子高生が34か所も刺された残虐事件にもかかわらず、「殺された人数が一人では死刑にならない」という相場主義にこだわり、無期懲役に。
さらにいやーな話があります。加害者の学歴が高い場合に、罪を軽くする傾向があります。
裁判官と同じような学歴を持った人間に対しては甘いんですよ。
こうしてみると、現行の司法制度は、一般の人々の常識、良識的観点からは随分とかけ離れてしまっているようだ。

令和3年1月17日 中くらいの妻   井口泰子
私の夫は、何でも「中」が好きである。
上、中、下とあるうちの、中、である。夫は、そう好みや自己主張の強い人ではないから「一番いいものを」「どうしてもこれを」というほど気負うこともなく、かといって「一番安いもの」というのも財布の底を見透かされるような気もして、「中くらい」を選んでしまう。
夫はふだんは口数の少ない方であるが、一杯入ると、とたんに舌の回転がなめらかになる。
その時も、夫が熱中して聞かせる話を「またか」と上の空で聞いていたら、
「僕は何でも中が好きだから、かみさんも中にした」 といったのが、これはストレートに耳から頭に突き抜けた。
”むむむ、なんだと?”
私は日頃の慎みを忘れて思わず声にならない叫びを上げた。怒りがむらむらっとこみ上げた。
”あんまりだ”
むろん、私は自分を上の女だなどとさらさら思っているわけではない。
「中」なら上々、「下」と思われたって仕方がない人間である。
私が怒ったのは「中の女」といわれたことではなく、夫の無神経さである。
何も二十五年たった今になって、「お前は中だ」と突きつけなくてもよいではないか。
私は手当たり次第に酒の肴を口に放り込みながら、ぶつぶつ胸に中で、夫への小言を言い続けた。
口に出さないだけがせめてもの我慢であったが、夫にはそれが聞こえたらしい。
夫は更にとどめをさした。
「こんな事でむくれるところが、”中”の”中たるところ。上の女なら『あらまぁ、あなたは”上”の”上”ですわ』とにこやかにかわして話を面白く持っていくものだよ」

令和3年1月10日 親のかなしさ・あわれさ    中村汀女
よく言われる「子を持って知る親の恩」 とは、私は、そのときに知る親のあわれさ、かなしさと思っている。
親として威張っているというのは表面であって、なんと親は、子供の顔色をうかがって暮らしているといっても言い過ぎではないようだ。
「主人よりも子供が怖くてね」
と、育ち盛りの子を持つ人たちがいっているのを聞くと、私はつい笑ってしまうのだけれど、私はもうそんな時代を過ぎてしまったからである。そんな時代とは、子育ての時代、女のもっともよき時代、張り合いのある時代であり、それを過ぎたらあとは空しき、さびしき日々だ。

令和3年1月5日 父        中村洋子
日本郵船に勤めていた父は、イギリスで暮らしたり、スイスの国際会議に出席したり、大げさに言えば、世界を舞台に活躍した人だったが、晩年は静かに、やさしく生きた。
一人で一日中ベランダの椅子に座っていたり、おコタにあたっていたりで、今思うとなぜもっと頻繁に訪ねてあげなかったかと悔やまれる。
けれど、誰が訪ねても、目を細めて迎えてくれ、自分でやっとこさと立ちあがっては横の棚からお菓子や果物を出してくるのだった。
--般若心経はどうした?このごろも読んでいるかい? と、ときどききく。
--読んでもわからない。 と答えると
--僕だってわかりゃしないさ。でも、読むと心が安らぐ。 と、微笑んでいた。
*
早いもので、父がいなくなってから、もう二年になる。

令和3年1月4日 行く末
一年の計は元旦にあり、計画(夢)は三日で簡単に破れる。
私は己の浅はかな考えが、温かい紅茶に投じた角砂糖のごとく脆いものだと思い知らされた。
そして夢物語を丸めて燃やし、灰はカスピ海に撒いた。
アディオス、アミーゴ。
生まれ変わることがあったら、また会おう。

令和3年1月3日 古書往来   出久根達郎 (古本屋)
古書をさばく前には厳重に点検する。
そうしてみて気がついたのだが、古本のページには、実にいろいろな物が隠されている。
写真。押し花。切手。入場券。箸袋。・・・しおりのかわりに用いたのであろうから、小さくてかさばらないものばかりである。
楽しい年賀状を見つけたことがあった。
「おめでとお」と五文字が紙片いっぱいに書かれて、めっぽうへたな字である。
隅に女の人の手で、「安男、三歳のじきひつです」 と添え書きしてあった。
ようやく文字をおぼえた息子が、父親にあてた賀状なのである。
父親は出稼ぎで東京に住まっているらしかった。
彼は生まれてはじめてつづった息子の文字を、何度もしみじみながめたにちがいない。
他郷でひとりぼっちの正月を、その年はまことにほのぼのとすごしたであろう。
酒のシミが点々する愛児の賀状は、『住宅ローン入門』という本にはさまれてあった。

令和3年1月2日 富士真奈美
なんの屈託もなく、母が徹夜で縫い上げた春着を着て、元旦の霜の道へ走り出た子供時分が懐かしい。
   屠蘇の座のその子この子に日がさし来      加藤知世子
一家揃って新春を寿ぐ行事も、もはや過去のものになりつつある。
一家、というより家族の単位が崩れてしまっている。
旅行に出掛けたり、スキーに行ったり、それぞれの正月の過ごし方がある。
私は大晦日はたぶん、行きつけの蕎麦屋で年越し蕎麦を食べ、元日はいつものように一人の朝を迎えるだろう。
そして、その状況を少しも寂しいと思わぬ自分に、ちょっぴり寂寥感を覚えるのである。
  元日や手を洗いをる夕ごころ     芥川龍之介

令和3年1月1日 元日
明けましておめでとうございます。
皆様、よいお年をお迎えのことと存じます。
今年も緋色窯をよろしくお願いいたします。
     
  新年は スカーレットの 初日の出

昨年は朝ドラの「スカーレット」で私の緋色窯(スカーレットキルン)もコロナにもかかわらず、にぎわいました。
人は他者との出会いをくりかえして生きていくもの。
初めて来ていただいた人とは、
越後(一期)一会でなく、長くお付き合いしたいものです。

年をとればあちこち悪くなるのは当たり前という諦観を素直に受け入れます。
明日の天気のことをくよくよ考えたって仕方ない。
同じように、明日以後の病気を自分ではどうすることもできない。
年をとったら楽観的に生きたいものです。


  
『賢者と付き合う人間は賢者になる』
     ギリシャの格言

今年は丑年、背筋をしゃんと伸ばして毎日を丁寧に、自分らしく飄々と生きたいと願っています。

*ホームページを開設して21年、工房は25年、穴窯は14年目です。
2021年が皆様にとって、明るい年でありますよう祈念いたします。