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令和4年12月31日 | 大晦日 |
このホームページに駄文を書いてきた。 それからニ十余年の歳月が流れた。 日めくりの暦が風にあおられて、あの日あの時こんなことを考えていたのかと思い改め、それを現在の時計に重ね合わせて、肯いてみたり、否定してみたりするが、いささか気負いと感傷が先行しているようで気が引けている。 今だったら、もう少し違った書き方をしただろうと思い後悔したりもする。 だが、人は「書けるときに、書けるものしか書けない」と臆面もなくまたこの駄文を書いている。 ”本がなくては生きていけない ” トーマス・ジェファーソン、 ジョン・アダムス への手紙 1815年 何をしていいのかわからぬ、漠然とした不安。 ストレスのこの世界では、自然に、そのままで、生きるしかない。 新しい年が皆様にとって素晴らしい年でありますようにお祈りしております。 人は皆 旅人なりと 除夜の鐘 |
令和4年12月30日 | 年の暮れ |
流れゆくものに 日当たる年の暮れ 黛まどか 今年も終わろうとしています。嬉しいことも悲しいこともあった一年だったことでしょう。 「月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人なり」 「奥の細道」の冒頭の一節です。 この世に生きる人々も、うつろいゆく時も、すべてが川の流れのように無情で、旅人のようであると芭蕉は言います。 流れゆくすべてのものをいとおしむように、歳晩の日が包んでいます。 |
令和4年12月25日 | 鬼の涙 佐藤英一 神戸大学医学部教授 |
同級の病理学助教授Iの肋骨の間に差し込んだ注射器を引くと、深紅の液がほとばしった。真剣に覗きこんでいる目と合い私は息をのんだ。手術には手遅れだったので化学療法と放射線治療によった。数ヶ月も過ぎたある日 「佐藤、俺ってそんなに変わったかね、なんとかもう一週間でも十日でも研究が続けられるよう頼んまっせ」 頭髪は全く抜けて無く、頬骨が笑った。病室を出ると奥さんが待っていた。 「佐藤先生、今の治療をすると吐き気がひどく、苦しみどおしです。何のために、何時までこんな悲しい、辛い思いをしなければならないのですか」涙がとまらない。 「奧さん、今の治療が済めば、少し落ち着く時期がきっと来ます、辛抱してください」心を残して背を向けた。 のぞみも空しく、彼は一週間後この世を去った。病室で最後のお別れをした。骨と皮になったが穏やかに眠っていた。 「こんなにまで主人の人格の尊厳を傷つけ、この世とも思えぬ苦痛を与えた先生は鬼です。鬼です。一生お恨み申します」 部屋を出る背に絞り出す様なすすり泣きが追ってきた。その夜、幾ら飲んでも酔わず、翌朝、気が付くと靴も無く背広の袖は千切れ、鍵を持ったまま大学の部屋の前に大の字に倒れていた。 葬儀が済んで暫くして、未亡人が大学に訪ねてきた。黙って封書を差し出した。乱れてはいたが、懐かしい筆跡だ。 「U子よ、佐藤を恨むな、君が度々恨みごとを言っているのを聞いている。きっと、言い訳をすまい。奴はそんな男だ。俺は癌とわかった時、是非とも成し遂げたいことがあった。そこで、数か月間生かして欲しい。それにはどんな苦しい治療でも甘んじて受けると、嫌がる奴を説得したのだ。やつは、残された時間を妻と子供たちの思い出に使うべきといった。俺はそれを拒否し癌研究の論文を残す。佐藤に感謝して渡してくれ」 「男、友情、素晴らしいですわ。子供達は必ず父親に続くと信じます」 未亡人の目から怨みが消えていた。渡された論文のインクに涙がにじんでいた。それに鬼の涙が重なった。 |
令和4年12月18日 | 貧 |
古今亭志ん生さんには「びんぼう自慢」という、自伝があります。その息子の故金原亭馬生さんの書かれた 「わたしとおそば」 より。 暖房がなく寝られない私のために母は錆だらけの古い湯たんぽをもらってきた。母は「おそばやさんでお湯をもらっておいで」 と云った。 普段食べに行ったことのない蕎麦屋さんである。幼い私はなかなか格子戸を開けて中へ入れず、嵐の中にいつまでも立っていた。 身体は冷え切ってフルエが止まらない。通りがかりの人が私の頭をなぜ、そば屋の戸をガラリと開けて声をかけてくれた。 「オイ、この子に湯たんぽのお湯をやってくれないか」 私は店の隅に立っていた。目の前で天ぷらそばを食べている客がいた。 うまそうに食べているのを空腹の私はいつの間にかジーッと近くまで行って見ていた。 その客は店の人に怒鳴った。「オイこのガキに早く湯をやれ、そばがまずくなっちゃうよ」 私は顔から火の出る思いだった。 帰りの夜道で湯たんぽを抱きながら私は、 「今に大人になったらそばを山ほど食べるんだ」 と泣きながら歩いた。 |