緋色窯日記 令和五年に続く

令和4年12月31日 大晦日
このホームページに駄文を書いてきた。
それからニ十余年の歳月が流れた。
日めくりの暦が風にあおられて、あの日あの時こんなことを考えていたのかと思い改め、それを現在の時計に重ね合わせて、肯いてみたり、否定してみたりするが、いささか気負いと感傷が先行しているようで気が引けている。
今だったら、もう少し違った書き方をしただろうと思い後悔したりもする。
だが、人は「書けるときに、書けるものしか書けない」と臆面もなくまたこの駄文を書いている。

”本がなくては生きていけない ” トーマス・ジェファーソン、 ジョン・アダムス への手紙 1815年

何をしていいのかわからぬ、漠然とした不安。

ストレスのこの世界では、自然に、そのままで、生きるしかない。

新しい年が皆様にとって素晴らしい年でありますようにお祈りしております。

   人は皆 旅人なりと 除夜の鐘

令和4年12月30日 年の暮れ
   流れゆくものに 日当たる年の暮れ   黛まどか
今年も終わろうとしています。嬉しいことも悲しいこともあった一年だったことでしょう。
「月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人なり」
「奥の細道」の冒頭の一節です。
この世に生きる人々も、うつろいゆく時も、すべてが川の流れのように無情で、旅人のようであると芭蕉は言います。
流れゆくすべてのものをいとおしむように、歳晩の日が包んでいます。

令和4年12月25日 鬼の涙 佐藤英一 神戸大学医学部教授
同級の病理学助教授Iの肋骨の間に差し込んだ注射器を引くと、深紅の液がほとばしった。真剣に覗きこんでいる目と合い私は息をのんだ。手術には手遅れだったので化学療法と放射線治療によった。数ヶ月も過ぎたある日
「佐藤、俺ってそんなに変わったかね、なんとかもう一週間でも十日でも研究が続けられるよう頼んまっせ」
頭髪は全く抜けて無く、頬骨が笑った。病室を出ると奥さんが待っていた。
「佐藤先生、今の治療をすると吐き気がひどく、苦しみどおしです。何のために、何時までこんな悲しい、辛い思いをしなければならないのですか」涙がとまらない。
「奧さん、今の治療が済めば、少し落ち着く時期がきっと来ます、辛抱してください」心を残して背を向けた。
のぞみも空しく、彼は一週間後この世を去った。病室で最後のお別れをした。骨と皮になったが穏やかに眠っていた。
「こんなにまで主人の人格の尊厳を傷つけ、この世とも思えぬ苦痛を与えた先生は鬼です。鬼です。一生お恨み申します」
部屋を出る背に絞り出す様なすすり泣きが追ってきた。その夜、幾ら飲んでも酔わず、翌朝、気が付くと靴も無く背広の袖は千切れ、鍵を持ったまま大学の部屋の前に大の字に倒れていた。
葬儀が済んで暫くして、未亡人が大学に訪ねてきた。黙って封書を差し出した。乱れてはいたが、懐かしい筆跡だ。
「U子よ、佐藤を恨むな、君が度々恨みごとを言っているのを聞いている。きっと、言い訳をすまい。奴はそんな男だ。俺は癌とわかった時、是非とも成し遂げたいことがあった。そこで、数か月間生かして欲しい。それにはどんな苦しい治療でも甘んじて受けると、嫌がる奴を説得したのだ。やつは、残された時間を妻と子供たちの思い出に使うべきといった。俺はそれを拒否し癌研究の論文を残す。佐藤に感謝して渡してくれ」
「男、友情、素晴らしいですわ。子供達は必ず父親に続くと信じます」
未亡人の目から怨みが消えていた。渡された論文のインクに涙がにじんでいた。それに鬼の涙が重なった。

令和4年12月18日
古今亭志ん生さんには「びんぼう自慢」という、自伝があります。その息子の故金原亭馬生さんの書かれた 「わたしとおそば」 より。
暖房がなく寝られない私のために母は錆だらけの古い湯たんぽをもらってきた。母は「おそばやさんでお湯をもらっておいで」 と云った。
普段食べに行ったことのない蕎麦屋さんである。幼い私はなかなか格子戸を開けて中へ入れず、嵐の中にいつまでも立っていた。
身体は冷え切ってフルエが止まらない。通りがかりの人が私の頭をなぜ、そば屋の戸をガラリと開けて声をかけてくれた。
「オイ、この子に湯たんぽのお湯をやってくれないか」
私は店の隅に立っていた。目の前で天ぷらそばを食べている客がいた。
うまそうに食べているのを空腹の私はいつの間にかジーッと近くまで行って見ていた。
その客は店の人に怒鳴った。「オイこのガキに早く湯をやれ、そばがまずくなっちゃうよ」 私は顔から火の出る思いだった。
帰りの夜道で湯たんぽを抱きながら私は、
「今に大人になったらそばを山ほど食べるんだ」 と泣きながら歩いた。

   
書き写しながら私、涙ぐんでいます。

令和4年12月11日 廣淵升彦 国際ジャーナリスト 2007年
インカには高度な文明があった。そうした彼らが、なぜああも簡単に二百人余りのスペイン人に屈したのか?
彼らはこの広い世界には合戦に弓を用いる文明圏があることも、車に荷物を乗せて運ぶ民族がいることも知らなかった。
目に入る物しか見ず、発想が固定化した彼らは、自分たちを侵す異質の勢力や「意思」が、身近に迫っていることを想像することもできなかった。この過酷な世界で生き延びてゆくためには、いわば「精神の車輪」といったものが欠かせない。
「自国にはないが他の文明圏には等しくあるもの」 「自国では通用するが他国では通用しない価値観」 への、幅広くこだわりのない柔軟な思いも必要である。
今の日本には 「平和」 を信仰の対象とし、これを守るための防衛力さえも、「戦争に繋がる」 と主張する人々がいる。
インカの人々と実によく似た発想である。
平和を守るためには冷徹な現状認識と防衛への意思が必要なことは歴史がはっきりと示している。
今から何年か後に、どこかの国のキャスターが
「かって高度の文明を誇った日本という国があった。だが彼らは 『精神の車輪』 を欠いていたために滅び去った」
などというコメントをしている姿は想像したくないものだ。
十五年も前の文章だが、ロシアのウクライナ侵攻を見ている今、外交努力だけで戦争回避は無理だと思う。
もう、七・八年ほど前だが、「子や孫の代には日本は無くなるかも知れないね」 と友達が真面目に云っていた。
日本のリーダーといわれる人たちのあの哲学のなさ、人の痛みを感じない鈍感さ、誇りのなさは何なのか。
大臣が次々と更迭される。悪い事をしても悪びれた様子もない。
バレたから罪になった。バレなかったらどうということはない。
バレてもバレなくても、罪は罪。悪いことは悪い、醜いことは醜い。
いい年をした大人がそういう感覚を失っているのだ。。

失敗を認めない臆病さと、時代を理解しない無能さと、恥を知らないあの厚顔さはどういうことなのか。
自分の利益、保身ばかり考えている体たらくを見ていると日本滅亡をなんか納得してしまう。
侵略者に日本国憲法第九条を掲げて 「これが目に入らぬか」 といっても、侵略者は日本語が読めない。

令和4年12月4日 師走
師走になった。師走は僧侶が教をよみに東西に走って、とても忙しい。
と、いうが、いまは坊さんよりも、我々普通の人の方が忙しいのではないか。

  
沈むまで 夕日眺めて 師走かな

令和4年11月27日 終末
どのような生物でも、生きとし生きるものはすべて終末があり、終わりに近づくにしたがって、活動が衰える。
私は青春時代に戻りたいとは思わない。
自分の「情緒不安」に手を焼いていたからだ。
二度と戻りたくはないが、あの頃の体に戻していただければありがたい。
顔の長さは三十代から減少する。加齢に伴い座高は短くなる。背椎の椎間板が縮むことが原因である。
人間は、唇と唇で付き合うことは人生の中でほんの短期間である。
しかし、人は目と目で確かめあって生きているので目は別である。
じっと相手の目を見つめれば、あの時のあの人が蘇る。
ゆく秋や 書を読み暮らす 洒落もなし

令和4年11月20日 苦しみが教えてくれたこと     多田富雄     東京大学名誉教授
病気など無縁と思っていた私が、脳梗塞で右半身不随になってから、まるで病気のデパートのようにいろいろな病気の巣になってしまった。それも回復不可能なものばかり。まるで「もぐらたたきゲーム」のように、次から次に現れる。
叫ぶことすら不可能な恐怖と絶望の中で、死ぬことばかり考えて日を過ごした。呻き声だけが私にできる自己表現だった。
でもこうして生きながらえると、もう死のことなど思わない。苦しみがすでに日常のものとなっているから、黙って付き合わざるを得ないのだ。
そんな中で、私はいろいろな喜びを味わっている。病という抵抗のおかげで、何かを達成した時の喜びは例えようのないものである。
初めて一歩歩けたときは、涙が止まらなかったし、今日は「パ」の発音が出来たと言っては喜び、カツサンドが一切れ支障なく食べられたと言っては感激する。何でもないことが出来ない身だからこそ、それが出来た時は例えようもなくうれしいのだ。
そうやって、些細なことに泣き笑いをしていると、昔健康で無意識に暮らしていたころと比べて、今の方がもっと生きているという実感を持っていることに気付く。
いろいろなことを健康な時には気づかないで、何でも細分化すれは理解できると思っていた。
医学を学んだ身として愚かなことだった。

令和4年11月13日 榊莫山
   行行(ゆきゆき)て たふれ伏すとも 萩の原
これは、芭蕉の 「奥の細道」に同行した曾良の句である。
辞世の句かどうかは知らないが、死という現実を彼方に見すえて、なにか、禅の風を吹かせている、と思う。
かって、田辺聖子さんが芥川賞をもらったとき、四、五人の仲間で、「なんか記念の品を」ということになった。
あれは、昭和三十年代末のことだった、と思う。

 すると、田辺さんは、「莫山さんに、俳句を書いてほしい と、言いだした。「風炉先屏風にして・・・・・」
と聞いて、さては芭蕉の句とくるかな、とひそかに想っていた。

 ところが、田辺さんが言うのには、
「あたし、曾良の、< 行行て・・・・・> を書いてほしいのよ」 であった。
わたしは、さすが、と思った。
俳句というのは、とても難しい。
さいごはたったの十七文字に、その人の人生をのたうたせなくては、と思うからだ。
やさしくて、よくわかりそうな句である方がよい。
わたしは曾良の句に、それを想う。しみじみと想うのである。


令和4年11月6日 後期高齢者
うかうかと年を重ね、「七十五歳」の後期高齢者となった。
そのせいか近頃やたらと過去に引き戻される。
有為転変は世の習い。変わることも、変わらぬことも貴重だと思う。

最近、テレビに話しかけている自分に驚く。
そうだそうだとか、違うだろそれとか、円安が原因だろとか、しゃべっている自分に驚く。
でも、あれは自分ではない誰かの仕業だと思うのだが。
気が付くと、妻もテレビにしゃべりかけていた。

どうせこの世は夢まぼろし、それとも僕はすでに年老いて、胸の熱血は冷えてしまったのか。
いずれにしても郷愁のスクリーンに写るセピア色のフィルムを巻き戻すすべはない。
今はもうみんな遠い所へ旅立ってしまった。
去年の雪、いまいずこ

令和4年10月30日 黛まどか
   いくたびも 背きし父の 墓洗う   西内正浩
墓を洗いながら、生前の父を偲ぶ息子です。母娘と違い、父と息子はそう多くを語り合うものではないようです。
かっては随分反抗し、いくたびも父の意思に背いてきた息子。
しかし自らが亡くなった父の齢に近づくと、遠き日の父の思いや苦悩が痛いほどわかります。
できることならもう一度会って話がしたい、詫びたい・・・そんな思いで一心に墓を洗う息子の姿です。

令和4年10月23日 田丸久美子 イタリア語通訳
オリヴィエーロ・トスカーニは、野生の自然児、言行一致の自由人、人を決して地位、名誉、資産などで判断しない。
あらゆる固定観念から無縁。長い間ファッション誌でカメラマンをしていたのにいつもラフなスタイルで、オシャレやエレガンスとも無縁。
そんな彼のインタビューほど楽しい仕事はない。思ったことを何も恐れず、率直に口にする。人にどう思われるかなど一切考えない。
「テレビはウンコみたいなものだ。毎日の習慣になっているけど、じっくり自分の排泄物を見る人は誰もいない。それと同じで、みんな暇つぶしに眺めて時間を無駄にしているだけだ」
以前、札幌の講演会の質疑応答で一人の青年が質問した。
だらだら長く話すが、まったく要領を得ない。大体こんなことだろうと訳したものにオリヴィエーロがなかなか含蓄のある答えを返した。
青年はその答えに感謝するでもなく、「通訳を介さないで自分で直接話せないのが残念です」と一言言い放った。
日本語もうまく話せない人間が外国語などできるはずがないと、通訳をした私は内心ムカついていたのだが、オリヴィエーロが胸のすくような答えを返してくれた。
「外国語を話せるかどうかは、二義的な問題でしかありません、大事なのは自分が話すに足る内容を持っているかどうかです」

令和4年10月16日 田丸久美子 イタリア語通訳
1990年10月、フェデリコ・フェリーニが来日した。
文化界のノーベル賞とい言われている高松宮殿下記念世界文化賞の受賞者に選ばれたのである。
フェリーニは、七十歳になっても若々しく、気さくなおじさんという風貌だったが、小柄な体はオーラのようなカリスマ性にあふれていた。
受賞記念記者会見では、「世界文化賞の存在は、日本が世界の文化のパトロンになりつつある」と現状を評価した。
フェリーニのスピーチが終わると、私はすぐ日本語に訳し始めた。しばらくすると、彼が私の顔をじっと見つめ始め、訳を途中で遮った。
「僕、本当にそんなに長く話したっけ?」
場内大爆笑。フォーマルな堅苦しい席が、とたんになごんで、フェリーニに似合った場面に一瞬で転換した。
フェリーニは「私が映画だ」という言葉を残した人らしく、彼一流の演出だったのかもしれないと、今になって思う。
翌日、新作「ボイス・オブ・ムーン」の記者会見が、夫人のジュリエッタ・マシーナと並んで行われた。
「道」など、夫の映画にも多く出演した夫人に、
「厳しい監督が夫だというのは、どんな気分なのですか」という質問が出た。答えは、
「落とし前は家でつけます」
滞在中、主役の夫を立て、常に控えめにふるまっていた夫人のこの答えには妙に真実味があり、フェリーニも苦笑いしていた。
最後まで仲の良かった夫婦らしく、フェリーニの死後間もなく、後を追うように夫人も世を去った。
そんな二人のただ一度だけの来日になった。

令和4年10月16日 榊莫山
菊は山の野道で、ひっそり咲いていた。
そんな風情よりも、昨今はみな華麗で色も鮮やかで、コンクールで一等になるようなのをよしとする。
私は王様のような菊を好まない。「野菊」という、文部省唱歌のような菊がよい。
  秋の日ざしを あびてとぶ
  トンボをかろく 休ませて
  しずかに咲いた 野辺の花
  やさしい野菊
  うすむらさきよ
野の光景が目に浮かぶ。が、さいごの「うすむらさきよ」が、気にかかる。
山国の野菊は、芳香をはなつ白い菊。龍脳菊と呼んでいる。
うすむらさきよ、といわれるとヨメナを想ってしまうんだ。
そうそう、ヨメナのことを"ノギク"と呼ぶ地方もあるそうよなあ。

令和4年10月9日 "辛さ"の化身
緋色辛味。別名蕃椒ともいわれ、"辛み"の代名詞のようになっている唐辛子は、てりのある緋色の美しい野菜だ。
美しいが"辛い"という言葉にこれほどぴったりと当てはまるものもなかろう。
"辛い"という言葉、色に当てはめると、大勢の人の頭に浮かぶのが赤と黄。
つやつやした真っ赤な唐辛子は、全身これ"辛さ"の権化のようである。
唐辛子は頭に"唐"とついているように日本のものではない。
南及び中央アメリカの原産で、日本伝来は桃山から江戸初期にかけて伝わった。
それ以前、日本には唐辛子に匹敵するような刺激の強い香辛料は存在しなかった。
日本料理の基本として、もともと辛みに重点は置かれず、料理に辛みをとり入れる方法の進歩もなかったので、日本の辛みは歴史以前より知られていた山椒のほかは、ショウガ、ワサビ、からしの程度にかぎられていた。
したがって、唐辛子の伝来した江戸時代は、日本人の舌に本格的な辛みを教えた記念すべき時期であるといえる。

令和4年10月2日 金語楼さんのこと   清水光雄
柳家金語楼さんの多忙なスケジュールを都合してもらって老人ホームを慰問してただくことになった。昭和四十七年の夏であった。
ところがその前日、マネージャーから、「師匠は、昨日からひどい高熱ですので、明日の慰問は取りやめにしてほしい」と電話。
ホームのお年寄りたちは、一日千秋の思いで待ちわびている。ホームに連絡しようとした時、再びマネージャーから電話が、
「先ほどは取りやめとお伝えしましたが、師匠は、どうしても、伺うと申しております、予定通りにしてください」
当日、私が 「師匠、お熱のほうは大丈夫ですか」 と伺うと 「ご心配かけてすまなかった。もう大丈夫です」 と笑顔を見せてくれたが、顔色は優れなかった。ところが、ひとたび壇上に立つと、愛嬌たっぷりの笑顔で、
「えー、私の顔をごらんになると、向こう一年間は下痢をいたしません。なぜならば、私の顔がくだらないからです」
会場のどっとした爆笑が静まるのを待って、
「どうぞ、金語楼のくだらない顔をごらんになって、長生きをしてくださいませ」
大歓迎のうちに三か所の慰問を終了し、世田谷のご自宅に帰られたのは夜の十一時を回っていた。
この日の疲労は言語に絶したものと思われる。
数日後、私はお礼のため事務所を訪れて、マネージャから次の話を聞いた。
「ギャラを頂戴しての出演なら、ギャラをお返しして取りやめれるが、奉仕の出演はそうはいかない。金銭ではなく、相互の信頼で成り立つ、無料の出演だからといって取りやめはできない」
笑いの王者として一世を風靡した柳家金語楼さんから教えられた人生学は少なくない。
「怒りは無智、泣くは修行、笑いは悟り、六十にして、ようやく分かってきた」
「無料出演だから取り止めない」 このボランティア精神は、私の心の支えとなった。
金語楼さんは、三か月後に七十一歳の生涯を閉じた。 慰問の時は、すでにがんに侵されていたのである。

令和4年9月25日 森田たま (随筆家)
若い日の自分が思い悩んだのは、人間はなぜ死ぬかという疑問ではなく、自分は何のために生きているのかという疑問であった。
究極は、それも死ぬと決まっているものが、なぜ生きているのかという問いであり、私はその答えを得るために、教会へ行ったり親鸞上人の本を読んだりした。しかし、どの宗教も私の気持ちにぴったりとはしなかった。
生まれたものは素直にその一生を生きなくてはならない。
それがどんなに過酷な道であっても、拒否することはできない。
いまの社会は自由平等というけれども、世の中は生まれながらに千差万別であり、王侯貴族の家に生まれる者もあれば、明日の糧にさへ事欠く家に生まれる者もある。みめ麗しく生まれたもの、頭脳明晰なもの、その反対のもの、白人種、黒人種。
さらにまたその一生も、邪悪な心を持ちながら富栄える者もあれば、正直に暮らしているのに何かしら不運に見舞われる一家もある。
この不合理を仏教では前世の因縁と説いた。まったく、さきの世からの業とでも思わなくては、生きてゆけないのがこの世の実情である。
世界は矛盾に満ち満ちて、なげき、悲しみ、怒り、喜びの交響楽をかなでつつ、花は咲き、花は散り、人は生まれ、人は死ぬ。
しかし、命は滅びない。

令和4年9月18日 森田たま (随筆家)
ベッドに釘付けされた自分が、移り変わる窓外の風景に眼をやりながら、朝も夕も考えたのは、命というものの不思議さについてであった。
十一二歳の時であったろうか、郷里の札幌へ新派の芝居の来たことがあった。木村操という女形が不如帰の浪子を演じていた。
逗子海岸の別れの場で、胸を病んで療養中の浪子を、夫の武男が訪ねてくる。海軍中尉の武男はすぐ戻らなくてはならない。
いよいよ別れの時になって、浪子は武男の手にとりすがって言うのであった。
「人間はなぜ死ぬんでしょうねぇ。生きたいわ、生きたいわ、千年も万年も生きたいわ」
病気の浪子も、出征する武男も生還を期しがたい。このセリフは切々として、幼い私の胸に響いた。
私はこのセリフを覚えて帰り、人のいない部屋のなかでふと口に出して云ってみると、その度に涙がこぼれた。
訳も分からず悲しかった。
成長するにつれて、人間の愛情というもの、人間のいのちというものについて思いを巡らすいとぐちになったのは、実にこの新派悲劇のセリフであった。

令和4年9月11日 ラグナグ国   鈴木司郎
最近の医療技術の進歩は誠に目覚ましい。老化に関わる遺伝子の操作によって老化を遅らせることも考えられている。
このような状況を文章にしたのが、スウィフトの 「ガリバー旅行記」である。
小人国、大人国の後、日本近海にあるラグナグ国にたどり着く。この国は何万人かに一人が不老不死であった。ガリバーは、
「不死であれば、さぞかし老賢人として尊敬される存在であろう。自分がそうであれば、長期に渡り蓄積した知識と富を使って、世の役に立つことがいくらでもできる。この国は素晴らしい」 と述べたところ、同国人の反応は彼の予想と違ったものであった。
ストラルドプラグは額に赤あざをもって生まれ、三十歳以後、あざが赤から緑、青、黒と変化するとともに意気消沈し始め、それと同時に老化のマイナス面である頑固、意固地、貧欲、気難しさ、自惚れ、物忘れなどが進行し、八十歳以後は禁治産者として取り扱われる。
彼らはすべての人間から忌避され、憎まれており、その結果、一般の人は長寿を願うことはないという。
今後の高齢者医療は、たとえ寿命の延長があっても、その期間は、健康で、社会に受け入れられて、生きがいのある生活を送れるのでなければならないという事がよくわかる。
私は、毎日諏訪湖畔か山道を散歩している。
が、すれ違うお爺さんの中に、気難しそうで、いつも怒った顔をしていて、道をゆづっても会釈もしない。
いい年をとっていないなあ、という人は多い。預金をため過ぎたのか。
もう少しなのにもっと楽しく生きられないものか。

令和4年9月4日 平岡栄美 東京都
姑 (はは) と娘が台所で、何やら共同作業中。
「そうそう、うまくよせて」 「いいの?これで?」
「娘の背丈は、とうに姑をこえている。
「上手、上手、本当に器用だねェ」
「まァね、ママ、ほらこれ焼いたの。おばあちゃんみたいでしょ?」
姑は本当にほめ上手。
こうして姑の厚焼き卵の味は孫娘へと受け継がれました。

令和4年8月28日 沢村貞子
老いるという事は、何とも悲しい。歳ごとに頬はこけ、眼はくぼみ、髪は白く薄くなるばかり。
ヨタヨタと歩く自分の姿が姿見にうつったりすると、ぞっとする。
何をしても疲れが激しく、物忘れはますますひどく・・つい、愚痴のひとつも言いたくなる。
「まったくひどいねえ、若い時はこんなことはなかったのに…・いくらなんでも、もう少し、なんとかならないものかねえ」
我が家では、どちらか一人がそう言って嘆いたりすると・・・・相手はすぐ、冷たい顔でハッキリ言うことになっている。
「だめですねえ、なんともなりませんよ、失礼ですけれど、あなた、おいくつですか」 そのトタンに、嘆いた方は、
「え? あ・・・・そうか、そりゃそうだ」 とニヤリと笑って、すぐあきらめてーそれでおしまい。
「ま、仕方ないでしょ、お互いに・・・」
そうあきらめれば、すっと、気が楽になる。夫婦とも寝つきがいいのは、そのせいかも知れない。床の上に脚をのばして、
「ヤレヤレ、今日もなんとか過ぎました。無事でけっこうーー寝るほど楽があるなかに、浮世のバカが起きて働く」
などとー働き者だった亡き母の口真似をしているうちに、もう、ぐっすり眠ってしまうからーーまことにもって、後生楽。

令和4年8月21日 沢村貞子
あれは、梅雨空がどんより曇った日だった。東京の家の縁側で新聞を読んでいた家人が、フッと言い出した。
「・・もう、あと、いくらもない人生だからね、どこか、海の見えるようなところで、のんびり暮らしたいなあ、そうすりゃあ、つまらない見栄もなくなって、ごく自然に幕をしめることができるような気がするしね」
引っ越しなど、夢にも思わなかった私は、戸惑ったが、家人は本気らしかった。
そう言われれば、家人は半生かけた映画雑誌を手離し、・・私も六十年の女優稼業の店じまいをしたことだし。
思い切って、なじみすぎた暮らしに別れをつげ、身のまわりの余計なものをすっかり捨てて身軽になり、毎日、きれいな海を眺めていれば、いい幕引きになるかも知れない。そう、その方がいい。
「引っ越しましょう。海の見える家をさがして
どうしても必要なものだけ持って、そこへ行って身軽な暮らしをしましょう」
気のせいか、家人の顔がサッと明るくなった。その頃、しきりに身体の不調を訴えていたのだけれど…
「うん、そうしよう、それがいい。引っ越すなら早い方がいい。何しろ、こっちは先が短いんだからね」

令和4年8月16日 榊莫山
猿沢池から南一帯を、近年 「ならマチ・奈良町」 と親しみはじめた。
その "ならマチ" の、センターは元興寺・・極楽坊。
鎌倉時代、公家と武家の二元政治は、すったもんだを繰り返していた。
乱世には、政治的無風地帯はなく、まきぞえをくらった庶民の生活は、苦悩の中に明け暮れていた。
庶民というのは、いつの世でも悩み多い現世に立ち向かわねばならぬ。 鎌倉の世は、とくにきつかった。
この世に希望がないならば、せめて来世の安住をーーと、かすかな光を求めて、信仰の道をかき分けた。
朝な夕なの 極楽堂 には、世に疲れ、心に飢えた人々が集まってきた。
おのれの極楽往生を願うもの、不幸な肉親の追慕にひたるもの、生活の苦しみからの脱出をねがうもの。
彼らは木ぎれに仏を刻んだり、紙に仏印を押してみたり、、さまざまの所作をくりひろげた。
人間なんて、たかだか八十年も生きられたら、万歳といてもよい。まして昔は人生五十年という時代であった。
じじつ元興寺には、数えきれないほどの仏や搭が残り、屋根裏には写経が群れをなして現れる。
暮らし貧しい庶民の祈りは、どれもみな手のひらに乗るほどの小さな仏である。
それらは、ささやかなるがゆえに、かえって壮絶さを、わたしは感じる。
そして、壮絶さの彼方に、わたしは中世の庶民たちの抱いていた哀歓を見る。
いま "ならマチ" をゆけば、せまくて細い路地の、風雪に耐えてきた古い格子から
「ナンマイダアブツ、ナンマイダアブツ・・」という中世の声が聞こえてくるような気がしてならぬ。

令和4年8月15日 岡本敏子   (岡本太郎氏養女)
七月二十九日、多摩霊園に岡本太郎の墓が完成し、納骨式を行った。両親も眠るユニークな墓。
かの子の墓は一平が建てた観音像だ。それと並んで、一平の七回忌に息子太郎が据えた自作の陶彫。
両手を広げた人間像が笑っている。
それと斜めに向かい合うように、岡本太郎の作品であるブロンズ像「午後の日」を据えた。
頬づえをついて、にっこり笑っている。いかにも無邪気で、おおらかで、岡本太郎その人の自画像であるような。
一月七日、彼が急逝した時、お葬式はしませんと宣言してそれを貫いたが、墓はどうするんですかと聞かれた。
その時、私はこの彫刻を多摩霊園に据えればピッタリだと思ったのだ。
納骨式には瀬戸内寂聴さんが導士をつとめ、「舎利礼文」という、お釈迦様のお骨を納めるときに読む、いかにもふさわしいお経を唱えてくれた。献花は勅使河原宏さん。
墓碑銘は川端康成さん。岡本太郎の著「母の手紙」に書いて下さった序文を石に彫った。
最後に、骨壺はこれも自作の「太古の壺」。水指として作ったものだが、ブロンズにして地下に納めた。
変なものに入れられたら、あの人は嫌がって暴れだしそうだから。

令和4年8月14日 古澤大樹 栃木県
大学二年の夏、老人介護施設でのボランティアに参加した。
ボランティアをするからには皆さんのお役に立とうという決意、何でもやるぞという覚悟があった。
しかし、実際にやってほしいと言われたことは、入所者の方々の話し相手になってほしいというものだった。
従業員の方は入浴や食事のお手伝い、掃除などでとても忙しそうで、私は座って会話しているだけで大丈夫なのか、実は普段の生活リズムを壊していないか不安だった。
そこで、思い切ってその思いを話してみた。すると返ってきた言葉は、私の考えと真逆の言葉だった。
「あなたたちのような若い人とお話しするだけで、ここにいる人たちにはとても良い刺激になるの。いつも一緒に過している私たちでは生み出せない刺激だから何より助かるわ」
私は心のどこかで、「ボランティアをしてあげている、親切にしてあげている」 という思いがあったのだろう。
それは 「自分本位」 な思いであり、親切の対極にある考え方だと気付かされた。
自分を基準に考えるのではなく、相手を基準として行動する。
そんな 「他人本位」 の精神に気づかせてくれた人、言葉、環境、経験に心からありがとうと伝えたい。

令和4年8月7日 花のいのちは みじかくて   古川一枝
今年は林芙美子さんの没後五十年にあたる。 (令和の今は没後七十年)
私の父、尾崎一雄は、母と林さんの話をするときは 「お芙美さん」 と言っていた。
昭和二十四年五月、私が高校二年の時、林さんは小田原の我が家に病気の父を見舞いに来てくださった。
「一枝ちゃん、小さい時の面影そのまんまね」 と言いながら、その場で色紙に書いてくれた。
   花のいのちは みじかくて
   苦しきことのみ 多かりき
「無理はだめね、長生きしてくださいよ」
姉のような口調で父を励ました林さんだが、二年後の昭和二十六年六月二十八日、過労で急逝した。
現在「林芙美子記念館」になっている家で行われた葬儀には、両親と一緒に私も列席した。
以前の洋風の家ではなく、竹林に囲まれた和風の家であった。

令和4年7月31日 寒山
一向寒山座
淹流三十年
昨来訪親友
太半入黄泉
漸減如残燭
長流似逝川
今朝対弧影
不覚涙双懸
この寒山に やって来てから
月日ずるずる 三十年よ
きのうの友を 訪ねてみたら
あいつもこいつも あの世へいった
人の命は はかないものさ
川の流れか 流転の唄か
今日の命を 誰知るもんか
涙二すじ ほほを流れた

令和4年7月24日 木山京子 笠岡市
祖母が亡くなって二年。煮た魚を食べながら、
「おかあさんが焼いた魚しか食べない人だったので、やっと私の好きな煮魚を四十年ぶりに食べられる」 と母が言っていた。
父が笑いながら、
「私の分の魚もかあさんにやってくれ」 と言う。
魚ひときれで、祖母にまつわる話ができる。
祖母と暮らした年月と、嫁としての母の心を思う。

令和4年7月17日 佐藤英一
恩師のM院長は病気のため惚けて抑制がとれて、自分の病院の看護婦に「あなた綺麗ですね。何処のお嬢さんですか」 と手を握り放さなかったり、夜は付き添いの小母さんの部屋を覗いたりした。
私は今でもM院長を畏敬しているし、その教えを守って恥じない。学問の上でも先生の評価は何の変りもない。
何も死ぬ間際や死後の人格までを人間は責任を持たなくてよいだろう。 びくびくするなかれ。
あの良寛は 「災難に逢うときは逢うがよろしく候。死ぬ時は死ぬが宜しく候。・・」 と言っているではないか。
それより精神が健全で生きている時に、充分悔いのない人生を送ることの方を大いに心配するべきではないか。
七月十三日、四回目のコロナワクチンしました。抵抗力がつくかどうか。

令和4年7月10日 老い
   早く逝け わしら子供も 年老いた
もう十分生きた。これ以上病んだ身で生き続けるのは苦痛だし、かわいい子供に負担をかけるばかりだからそろそろオサラバしたい、と心底から思っていても、今の法律や、倫理観では認められない。
「年をとって悲しいのは、自分が年をとることではなくて、美人の老いたのを見るのが悲しい」
六十過ぎたマリリン・モンローよりも、ただのはたちの女がいい 山田風太郎

令和4年7月3日 尊厳死
「『この一週間が峠です。もう十日ももたないでしょう・・』 と言われ続けて、三ヵ月も過ぎようとしています。
八十二歳になる母は、胸から入れられる点滴でかすかに生きています。
話しかけても呼びかけても、焦点の定まらない目でどこか遠くを見ていて、時たま水、お水と小声で言うのですが一滴も飲ませてもらえません。今までの人格を無視されたような生き方を強制される。そんな延命治療って、なんと残酷なんだろう・・』

ある主婦は、延命治療に疑問を投げかけ尊厳死に一石を投じている。
あと十日の命と言われた時、それならば母の治療をもうしなくていいと誰が言いきれるのだろうか。
たとえ言えたとしても生きていく限り悔いは残らないのだろうか。

令和4年6月26日 小野吉子 龍ヶ崎市
八十歳を過ぎて呆け始めた母。
私は帰省する度に、近くの 「知恵を授ける地蔵」 と、何でも言うことを聞いてくれると評判の 「言いなり地蔵」 へ、母を連れてゆく。
「さあ、これ以上忘れないように知恵をつけてもらおうね」と私が言うと母は素直に拝む。
言いなり地蔵では 「おむつにならないようにコロッといけるようにお願いするのよ」 というなんとも無情な娘の言葉にも母は逆らわず、
「うん、分かった、分かった、でも、お賽銭忘れたよ」と言っている。
私が帰る時「三日間、遊んでくれてありがとう、さようなら」と言う母の言葉に私はドキッとする。

令和4年7月3日 鈴木和雄 松戸市
「どうだい、おばあちゃんの様子は?」 これが毎朝、毎晩の妻との会話の第一声。
”おばあちゃん” とは私の母、八十六歳。
時には仏のような柔和な顔、そして時には鬼のような恐い顔。
ボケている母。最近ますます仏と鬼の差がはっきりとしてきた。
今日は仏の顔をたくさん見せてくれますように。
ひとりの人間の中の仏と鬼。私の中にも仏と鬼がいるのかな。

令和4年6月26日 引田天功
幼いころから死別するまで、父とはほとんど口をきかずに過ごしました。父は私が生まれる前に五歳だった兄を亡くしています。
私は小さいころから病弱でお医者さんから、「頭の骨の病気で十八歳まで生きられないだろう」と宣告されていました。
父は「このうえ娘も失ったら生きていけない。これからお前のことはいないものと思う」って。それ以来私のことは無視されました。
私も心を閉ざして、親のことは考えないようにしていました。
私が十五歳で「女優になりたい」と言って、上京するときは駅まで車で送ってくれました。
家の近くの駅で車を止めたんですが、なぜかまた発進させて次の駅に向かうんです。
繰り返すうちに県境を越えてしまいました。二時間ほどの間、無言でした。
私の病気は二十歳の時自然治癒していましたが、今度は父ががんで助からないとわかりました。
倒れる前に一度だけ私の舞台を見に来て冗談を言っていたそうです。
でもわだかまりは父の最期まで消えず、入院してからも見舞いにはいきませんでした。
新潟を出るとき、「死んだら引き取りに行く、それまでは帰って来るな」と言われたことが頭から離れず、同じ態度で父に接しようと思っていました。
筆談しかできなくなった父が最後に書いたのは「まりちゃん」という私の名だったそうです。
葬儀からしばらくして弁護士さんから聞かされた遺言状には全財産を私に譲るとありました。
私のことなど眼中にないと思っていたのが、そうじゃなかったと初めて知りました。
父が死んでから一週間ほどが過ぎていました。

令和4年6月19日 後藤森重
七年前、まだぼくが北海道にいたころ、おやじを飛騨・高山旅行に連れて行ったんです。
家族と旅行をするなんて、殆んどなかったんだけど。旅館でね、「たまに背中でも流すかい」と誘って一緒に風呂に入った。
一緒にふろに入るなんて何十年ぶりだった。とりとめのない話をしながら背中を流していたら、おやじが急にしゃべらなくなって。
そしたらふろおけからお湯をくんで、何度も顔を洗うんですよ。
泣いていたんです。死んだのは、その翌年、八十二歳でした。
ふろの中で見た背中は、枯れて、小さくてね。
「おやじ」って、多分みんなそうなんだろうけど、言葉に表せないような荷物っていうのかな、それを顔にださずに背負い込むんでしょうね。
自分も親になり、この年になって、ようやくわかってきたような気がします。

令和4年6月12日
私は子供の頃から人を羨む感情が希薄らしい。
他人は他人、自分は自分と割り切っていたことと、最初から負けていれば楽だという負け犬根性があったためである・・・。

「裸にて生まれて来たに何不足」

令和4年6月5日 良寛
むかし訪れたことのある名勝の地を
今この老い衰えた顔で通りかかった。
池の台はみな朽ち果て
人事は幾たびか転変を経た
山なみは平野の手前で終わり
潮は夕日を帯びつつ引いてゆく
千古の昔からの興亡の跡を前にして
錫杖を突いたままとりとめもない思いに沈む

令和4年5月29日 写経
   写経して 釈迦にコネを つけておく
死んで、極楽行か地獄行かに分別されるとき、お釈迦様が
「そういえばこの者は熱心に写経しておったが。よろしい私の方に引き取ろう」 なんてことになるかも知れないね。
私も早速写経しようっと・・・・

令和4年5月22日 老い
生きている 証拠か 今日もけつまずき
高齢化 しかし大人は いない国
体力が なくて使えぬ 健康器
悔い残る 昭和引きずり 七十年
ボケ初め 妻知る子知る 我知らず

令和4年5月15日 加藤達夫
腫瘍で胃の三分の一を切除してから一年半になる。体重は九キロ減で、回復の兆しはない。
その上ここへきてまた少し体重が減り、不調への黄信号がともっていた。
定期健診で医師に報告したら、即エコーの検査と血液検査が行われた。
三十数年にもなる共働きは、お互いに寄りかかっていては続かない。
非常なまでの自主独立でやらないと、子育てなどできるものではない。何ごとも几帳面な二人だけになおさらだった。
わたしは私、あなたは貴方という生活の流れは惰性で続いた。思いや感情は、行違うことばかり。
それでも時間に追われ続け、ずれた感情そのままに過してきた。気付いてみたら家庭内離婚といわれても仕方のない生活になっていた。
それがである。手術後はそれを契機として、どちらからともなく相手の心を気遣う生活が自然に戻ってきた。
相手が大病をすると、お互いに優しくなるとはよく耳にするが、これほどとはどぎまぎしてしまう。
人間はふっと佇んだ時、傍らの弱々しい生命に出会うと、誰でもそっと手を添えてみたくなる。
骨身を惜しまず、いたわりたくなるのだろう。
「検査からはどこも悪いところは診られません」担当医師からは、晴天の診断がくだった。
ちょっと石に躓いたようなものだから、気にせず様子を見ましょうという事になった。
生身の人間だもの、いろんなことがあるのだろう。
石に躓いたことで、またひとつ、キラリと輝く 「優しさ」と「ぬくもり」 が手の中に戻ってきた。

令和4年5月8日 大学生の一行詩 母の日
母と電話していて、家計を気にしてパソコンを買わない私に、母が
「今はあんたに投資しているんやから必要なものがあったら買いや」 って言ったので、私が冗談で、
「投資ってことは、返さなあかんやん」て言ったら、母は、
「お母さんは、あんたが頑張っている姿を見るのが楽しみなんやから、もう充分もうけてるんやでな」と言ってくれた。
久しぶりに泣いてしまった。

令和4年5月5日 結婚二十年目の有難う   富山県 端保八郎 48歳
彼女と出会ったのは今から22年前。
私は富山から、彼女は和歌山県からバスツアーで来ていた岐阜県のスキー場でした。
それから遠距離交際をへて、家無し、金無しの何も無い自分に、温暖な地のミカン農家から嫁いできてくれました。
年が明けていきなりの豪雪、お腹に赤ちゃんを抱えての穴ぐら暮らしのような生活はさぞや大変であったろうと思います。
この春は結婚二十年の節目の年。
二人の子供にも恵まれ、小さなマイホームを持つこともできました。
今ではすっかり富山の人になりきって頑張っている彼女に、何もしてやれない自分ですが、、ただ一つの贈り物は「ありがとう」 の心からの気持ちです。
自分が子供を持って分かったことは、大切な娘を縁の無い遠い土地に嫁がせてくれた両親の決断は大変なものであったろうと、今更ながら感謝の気持ちで一杯です。
年老いた両親の作ったミカンが今年も届きました。

令和4年5月4日 一戸冬彦
"思い出となれば、みな懐かしく美しい" と俗にいわれるが、それは過去を美化しているか、時間の経過とともに風化してくれるのをいいことに、つらい体験や苦い思い出を忘れようと"努力"しているにすぎまいと私はかってに解釈している。
こんな私でもこの場を借りて懺悔したい、いや、せずにはいられない出来事がある。深い深い後悔。取り返しのつかない心の傷だ。
時は、五所川原市の小学校時代にさかのぼる。
同級生にT子さんという女の子がいた。早くにお母さんを亡くし、二人の弟さんの面倒も見なければならなかった、お父さんは魚の行商である。経済的にも恵まれず、彼女の服装はみすぼらしいというより、正直いって汚かった。
金銭的に幾分恵まれた学童たちが彼女の席を囲み、生意気で口の悪い私は先頭に立ってT子さんを貶した。
「きたねえから、もっと離れろよ」 こうした嫌がらせにもT子さんは泣きもせずに堪えた。
そんなある日漢字のテストが行われた。私はどうしても書けない漢字を彼女からカンニングしてしまった。100点だった。
T子さんは98点。「さすが一戸さんね、おめでとう」微笑みをもって心から言ってくれたのだ。
私は先生に正直に告白しT子さんに謝るべきであった。実に情けない、三十年を経たいまでも慙愧に堪えない。
さらにそんなT子さんに、もっと酷い追い打ちが待っていた。悪童どもが「一戸の答えを見て書いたんだろう、お前が九十八点も取れるわけがねえよ」と彼女に中傷の矢を浴びせた。するとT子さんは泣き声で、「私は一戸さんの答えは見ていません。着ているものはきたねえかも知れないけど、心はきたなぐねえです」と叫びながら石炭小屋の方に走っていった。
やがて卒業式を迎えたが私はT子さんに謝らずじまいだった。だか、式の日に配られた「卒業文集」を読み、私は枕を濡らしてしまった。
「・・・私が今一番欲しいのは母ではなく、本当のお友達です。そして、きれいな洋服です」
現在、私は女子の多い大学で教壇に立っているが、機会あるごとにこの小学校時代の"悪事"を語って聞かせることにしている。
ただ、語るたびに困ることが二つある。一つは私が学生の前で、つい涙をこぼしてしまうこと、もう一つは、聞いている学生も泣き出してしまう事である。
T子さんの卒業後について、その消息はわからない。しかし、芯が強く思いやりのある女性だけに、きっと幸せな生活を送っているだろう。

令和4年5月3日 横溝美津子 (主婦)
夫はもう飲み始めているだろうか。小走りに勝手口へと廻った。
案の定、夫は酒を飲んでいた。顔がすでに真っ赤で目もすわっている。
夫は、高血糖、高血圧、高脂血症、高尿酸値と高××のオンパレード人間。
なるべく低カロリーで塩分控えめの食事をと気を遣う私は、そんな姿を見ると、ストレスがどっとふくらむ。
年をとったらなるべく楽しいことを考えて過す方がいいと、友人に言われたことを思い出した。
だが、どういう風に対応すると楽しくなるのか、何にも浮かんでこない。夫はマイペースで酒を飲んでいる。
姑が亡くなって二人っきりの生活になってから、生活が単調になって来ている。
私は朝起きて、食事の支度に始まり、洗濯、掃除のあと整骨院への通院、と一日のスケジュールが判で押したように決まっている。
夫は、午前中は腰が痛いからと新聞を読んだり、テレビを見たり。午後になってニ三時間畑仕事をして、お酒を飲み始める。
お互いに何もない、平凡な日々。
老夫婦の一日なんてこんなものなんだろうか。

令和4年5月1日 児玉和子
この数ヶ月を、夫の限られた命と向き合って過ごし、それに続く死と、そのセレモニーを終えた。
共に過ごした半世紀を振り返ると、夫は私の伯楽であった。
伯楽は駿馬と駄馬を識別できる見識を持ちながら、自分の配偶者に駄馬を選んだ。そして駄馬のなけなしの長所を見出してくれた。
後悔をぐじぐじと引きずる傾向にあった私は、夫との時間経過のうちに、いつの間にか調教され 「事に於いて後悔しない」 という夫の信条が身についていた。
それは「楽天的に生きる、楽しく生きる」に通じ、今の私の境遇に役立つ。
夫は名調教師でもあったのだ。
こうした思い出に耽る時、私は夫を駿馬とまで思ってしまう。駿馬と駄馬の道行きは、文字通り馬が合った。
過ぎ去った歳月に後悔はない。

令和4年4月24日
本には二種類あって、一つは「よむ本」であり、もう一つは「ひく本」である。
辞書のことを「字びき」というが、かいて字のごとく字を「ひく」のである。
世の中には、よむ本とともにひく本もまた、たくさん存在する。
辞典、図鑑、地図、百科事典、年表、年鑑、文献目録なども「ひく本」の一種である。

令和4年4月17日 山本るみ子 (新潟市・36歳)
弘くん、二月で七回忌になりますね。
六年前の二月二十九日みんなに見守られながら逝ってしまいましたね。毎年命日がないのは、私を悲しませないためですか。
「落ち着いてよく聞いてくれ。俺、白血病になった。」
私は一歳の智弘を抱き、泣きながら病院に向かったことを今でもよく思い出します。
三十一歳で発病し、強い抗がん剤になる度に、気力に満ちていたあなたから、体力と笑顔を奪っていった。
弱っていく姿に私は毎日手を握って励ましてきたけど、結局あなたを救ってあげることはできなかった。ごめんね。
でもあなたの臨終の後、看護婦さんが私を抱きしめて言ってくれたんです。
「よく頑張ったね、あなたのような人は今までいなかったわ」
一筋の涙を流して看取ってくれた看護婦さんからの言葉にどれほど救われたか知れません。
あなたを決して忘れないために看護婦になりました。
看護学校の学習では看病と照らし合わせ、こうしたら良かったのか・・・と後悔で胸がつぶれそうになりました。
弘くん、もしあなたが白血病という運命を知らずに受け取っていたならば、最後の瞬間まで愛してくれる人として・・・自分が亡き後も子供たちを育て、しっかりと前に進んでいけると信じて、私を選んでくれたのだと思いたい。
選んでくれてありがとう。

令和4年4月10日 代々木公園の桜吹雪    遠藤順子(遠藤周作夫人)
多くの日本人がそうであるように、主人も毎年花見をすることでその年の春を見届けたいという願望の強い人でした。
京都の桜の名所はほとんど尋ね歩いていますし、梅津大崎の桜が見事と聞けば、鞍馬から朽木街道をへて梅津まで見に行くほど桜には執心がありました。
東京ではまず第一番に行くのは千鳥ヶ淵の桜でした。主人位の年代の人間にとって千鳥ヶ淵は単なる花見の場所であろうはずはなく、花を見ている主人の表情からは、散って行かれた方々への深い思いがいつも感じられました。
それだけに「オイ、代々木公園に桜を見に行かないか?」と言われた時にはびっくりしました。
代々木公園近くに仕事場を構えてから十三年、代々木公園の桜が見事という話は聞いたことがありません。
まず、代々木公園にはこんなに桜の樹があったのかと自分の認識不足にまず驚きました。
桜吹雪とはよく形容したものと感心するほど、絶え間なく桜の花びらが散っていました。
ベンチに座ったまま、二人はしばし忘我の時を過ごしていました。
私はそのあと千石まで用事があり、主人とは森の中で別れなければなりません。
主人が右側の小道を辿り始めたときでした、一段と桜吹雪が激しくなり、見送っている私の目の前で主人の姿はすっぽりと桜の幕の中に消えてしまいました。「主人が死んじゃうとは、つまりこういう事なんだ」 突然襲ってきたこの思いと共に涙がとめどなく溢れてきました。
あろうことか私は主人にその話をしてしまいました。
主人はじっと聞いていましたが、やがて
「一茶の句に--
死に支度 いたせいたせと桜かな--という句があるんだ、辞世に詠んだ三句の一つだ」 とつぶやくように申しました。
思えばあの日以来、私もいつかはこの様な別れの日が来ることを、無意識のうちに心のどこかで覚悟をしていたのかもしれません。

令和4年4月3日 やなせたかし
ぼくは頑丈な人間ではない。身体はあっちこっちいたんできた。修理に出しても部品がない。
長谷川町子は亡くなる時に、こう言ったそうだ。
「もう切ったりはったりはしません。このまま静かに人生を終わりたい」 従容として死を待つという見事な心境である。とぼくは感動した。
女優の高峰秀子も晩年を迎えて、邸宅を縮小し、使用人にひまを出し、家財を整理したと聞く。
作家の吉行淳之介は、病床で、「七十歳まで生きるとは思わなかった。もういいよ」 と言った。
ぼくも 「もういいよ」 と言いたくなる時もある。人間はみんないじらしい。
同い年だった妻が、平成五年に逝ってしまった。胸に空洞が出来て風が吹き抜けていく。
諸行無常の思いは深い。

令和4年3月27日 やなせたかし
平成五年九月五日、カミさんの余命はあと二ヶ月だったが、ぼくはこの時はまだ正月は越せると確信していた。
この後のことはうまく書けない。心が乱れる。
十一月になって、カミさんは女子医大に再入院した。
「今度退院したら、あなたのいうとおりにするわ」 そういってカミさんは入院した。
ぼくは毎日見舞いにいったが、ベッドのまわりにはアンパンマンの手拭やTシャツが沢山置いてあり、看護婦さんや見舞客に配っていた。
カミさんが逝ってしまったのは、十一月二十二日四時過ぎだった。
ほとんど何の苦しみもなく息絶えた。頭の血管が破れた。七十五歳の生涯が終わった。
カミさんは、「葬式も告別式もしないでね。みんなに迷惑をかけるから」と言っていたし、ぼくも形式的なことは嫌いで、結婚式もしなかったから、すべてを内密に運んで、ほんの身内だけでいっさいをすませた。
遺影はカミさんが一番好きだった茶室にかざってある。
写真のカミさんは微笑している。

令和4年3月20日 やなせたかし
いままで過去を振り返ってみたことはほとんどない。いつも、現在と未来を見ていた。
もう一度この人生をやり直すかと聞かれれば 「もういい。こんなものだろう。疲れてしまった」 と答える。
人はおそかれ早かれ死ぬ。恋の熱はすぐに冷える。少女も明日は老婆だ。
ぼくは自分は不真面目で、冷たいと思う。仕方がない。これが自分の性質だ。
   なんのために生まれて
   何をして生きるのか
これはアンパンマンのテーマソングであり、ぼくの人生のテーマソングでもある。
才能に恵まれず、すべての点で中っくらいのぼくとしては上出来である。
幸運に恵まれたことを感謝している。

令和4年3月13日 安藤千代 (香川県善通寺市)
おかあちゃんは、去年の夏、九十一歳でも元気じゃったけぇ、まさか死の淵にいるとは気づかなかった暢気な自分に腹が立ってね。
ごめんね、大事な時に役立たずで。
思えば三十五年前「私らのことは、心配しなさんな」と、遠く四国の地の長男に嫁ぐことを決めた私を励ましてくれたね。
存在が足かせにならんように自由な羽をくれたね。
お父ちゃんが亡くなって七十七歳から七年間、実家の広島で独り、「思い出が一杯あって、心豊かよ、大丈夫」と、私ら三人兄弟の、布団をパッチワークにして頑張っとったね。
でもね、この間その頃のお母ちゃんの日記を発見したんよ。
ノートには「私が子供にして上げられるたった一つのことは、そばにいて嫌な思いをさせぬことと心に決めています」と、サインペンで大きく書いとったね。
泣けました。「大丈夫」も「決めている」も、自分に言い聞かせとっちゃんじゃろ?
ものすごく堪えたよ。

令和4年3月6日 制服 福山市宮本瑛子
高校卒業の日、ほとんどの同級生が進学するなか、就職する私に、
校門で 「頑張れよ」 と肩をたたいてくださった先生。
「ゴメンネ」と私の手をギュッとにぎりしめてくれた母のぬくもり。
テーブルには母の手作りの赤飯が用意されていた。
先生の励まし、母の涙、私のよろこびや、くやしさ。
みんな知っている制服。
ポケットにしまったままのバッジも、さびていることだろうなあ。
三十数年振りに虫干しでもしてみようか。

令和4年2月27日 ブッシュ妄言録   世界一危険なバカ
2002.2.18 東京
日米の結束について国会演説。
アメリカと日本は150年もの間、素晴らしい同盟関係を結んでいます。
(解説) 太平洋戦争はなかったことになるね。


2000.10.4 オハイオ州レノルゾバーグ
(ゴアと行った)最初のディベートでの発言で 「撤回したい発言はありますか?」と聞かれ・・・
自分が信念をもっていれば、どんな質問にも簡単に答えられるものだ。
・・・君の質問には答えられない。

(解説) でた ! まさにブッシズム。ブッシュ大統領は珍回答を繰り返した。

令和4年2月20日 ブッシュ妄言録   世界一危険なバカ
2001.7.19 イギリス・ロンドン
イギリス滞在中、子供にホワイトハウスはどんなところかと質問されて。
白いよ。
(解説) たしかに。

2002.5.26 フランス・パリ
シラク大統領との記者会見で記者に聞かれた質問をすべて忘れて答えられなかった時の言葉。
55歳を越えると君もこうなるよ。
(解説) 記者にこう発言した後、あきれ顔のシラク大統領(69歳)を振り返り 「言っている意味が分かるだろう?」と付け足した。

令和4年2月13日 ブッシュ妄言録   世界一危険なバカ
2002.7.6 コロラド州デンバー
誕生日を迎えたブッシュ大統領。記者団から「誕生日を迎え、どんな気持ちですか?」と聞かれて
少し年をとった気がする。
(解説) とったんだって。

2000.9.29 ミシガン州サギノー
選挙遊説スピーチで
人間と魚は平和的に共存できる。
(解説)・・・・・できないと思う。

令和4年2月6日 笠智衆
 『小津安二郎先生の思い出』 この本の完成直前に、妻の花観が亡くなりました。
僕よりずっと達者に見えたのですが、僕より先に逝ってしまいました。
人間はいつの間にか年をとってしまいます。松竹蒲田以来の友人たちも、いつの間にかいなくなってしまいました。
花観は僕と一つ違いの八十六歳、最後の戦友の死という思いでした。
同じ時代を生きたということは、言葉や文章を超えて、何かがあるのだということを、特に最近は感じます。
子供や孫と一緒でも、やはり違う時代を生きているのでしょう。
僕には出来過ぎの妻でした。
誠に私事で恐縮ですが、この本を、蒲田からの友人たちと、亡き妻に贈りたいと思います。
1991年5月 大船にて 笠智衆

令和4年1月30日 宣伝
宣伝惹句については、アメリカに大傑作がある。それは、ラス・ベガスのあるバーレスク劇場の看板で、
『狂舞する美女五十人、そして彼女たちを飾る豪華な衣装四十九着』 という惹句。
つまり、五十人の美女に対して、衣装は四十九着、つまり一人だけ衣装が足りず全裸で登場いたします、という訳である。

令和4年1月23日 志村ふくみ (染色家)
「生きて、織って、老いてここまで来た」 と 『白夜に紡ぐ』に書いたが、今はその老いについて考えざるを得なくなっている。
よく習字でならう「永」という字の最後の星の勢いがなくなって ヽ となってはおしまいだと昔聞いたことがあるが、そこのところにさしかかっている。
どんな最後が訪れるのか誰も予測できない。すべての人の晩年は例外なく寂しい厳しいものだと思う。
たとえ栄耀栄華をきわめ、多くの人に傅かれても同じことだと思う。
   まことのふるさとへ行くために   おのれをこの世につなぐ鎖を
   少しずつはずしてゆくのは   真にえらい仕事
この世をつなぐ鎖をすこしずつはずしてゆくのが、老いの負荷をはずしてゆくことにもなるのだか、実は不可能に近い。
この世をつなぐ鎖とは、肉親、仕事、生命など、絶ちがたい絆のことである。
老いてみて初めて気付くことがある。
さまざまな愛隣非常な山道もわけ入り、迷いに迷ったこともあったが、それも夢だったのだろうか。

令和4年1月16日 芦原将軍
繰り返し語るは児孫の為なるぞ 人の体験慎みて聞け
誰も皆知り顔にして知らぬかな 命にかかるまつりごとをば
火は燃える水は流れる風は散る 人は死ぬるとかねて知るべし

令和4年1月9日 啄木
   新しき明日の来たるを信ずという
   自分の言葉に
   嘘はなけれど   石川啄木

令和4年1月6日 美味しいよ    彦田信義
昭和二十年八月堀川さんは満州でシベリアに連行された。
帰国して、舞鶴港から留守宅の夫人に翌日帰宅することを知らせた。
夫人は、早速夫を迎える準備に取り掛かった。
抑留中の苦労を慰めるためにも美味しいものを作って食べさせようと、駆けずり回るが肝心の酒がない。
そこへ、懐かしい夫が帰ってきた。
何はともあれ、久しぶりに夫婦差し向かいで食事をすることになったが、酒の工面が出来なかった夫人の胸中には苦しいものがあった。
思案の末、夫人はお銚子に白湯を入れて持参し、夫に持たせた盃に、お銚子の湯を注いでやった。
夫は嬉しそうにそれを口に運んでゴクリと飲んだ。夫人は思わず顔を伏せた。
「美味しいよ」
夫の口から発せられた言葉に、夫人は自分の耳を疑った。
ハッと夫の顔を見たとき、夫の両目からは涙が溢れていた。夫人の目からも涙がとめどなく流れ落ちた。
堀川さんは舞鶴に上陸してすぐ、日本国内の生活物資が極度に欠乏していることを承知していたから、盃の湯を口にした瞬間に、自分は食うや食わずでコメや調味料を蓄えておいたその思いやりをいち早く察知していたのである。
「美味しいよ」 言葉は短かったが、堀川さんの万感を込めた夫人への思いやりと、感動の気持ちが込められていた。
 堀川さんは先頃、世を去ったが、夫人はご健在である。

令和4年1月5日 鴨長明  細川護熙
京の都が源平争乱の序章にあった治承四年、平清盛は摂津福原への遷都を強行する。
この慌しい都遷りのとき、そのありさまを新旧の都で眺めたひとりの男がいた。鴨長明だ。
時代は堂上貴族の世から武家政権が誕生しようとする産みの苦しみの最中にあったが、長明の周辺を襲った災厄は、政争や兵火という人災ばかりではなかった。大風と大火、飢饉、洪水、地震が相継ぐ。
死者は幾万を数え、家屋財産はたちまちに消亡した。
そのなかで長明は、人が家造りに財を費やすほど馬鹿げたことはないという結論をだす。
あっけなく壊れていく伝統の京都、わずか半年にも滿たぬ仮の都だった福原、その二都に見たのは、自然と人為に翻弄される人々の憂いと嘆きだった。
平家が西海に落ちていくときに焼き払われた福原は、今、大都会神戸の中に埋もれて古をしのぶよすがもないが、北は六甲に沿って高く、南は瀬戸内海に下がっていく基本的な地勢は長明のころと変わりがない。
戦火、震災を経てきた現今の神戸の人々にとって、長明が見た嘆きはまた、まさに自らのものであるに違いない。
しかし、夜の帳は遠い昔の歴史も、そして近い昨日の記憶をも密やかに闇に潜め、神戸の灯は、なにごともなかったかのように、ただまたたいていた。


鴨長明は平安末期、鎌倉初期の歌人、随筆家。方一丈の庵を結ぶ。その著「方丈記」は、人の世の無常を主題としている。
      「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず・・・」

令和4年1月4日 榊莫山
東大寺の海雲に、写経の手本を莫山に書いてほしいと依頼された。
お経は、「唯心偈」とも「如心偈」とも呼ばれる経文であった。
東大寺では、百字心経とも言っている。そのお経の文字は、たったの百字である。
  心如工画師(しんにょこうがし)
とはじまって、人の心をひきつける。〈心ハタクミナル画師ノ如ク〉。
つまり仏さまを拝む心は、画師(えかき)が絵をかくような心でなくてはならぬ、というのだ。
このお経ができたころの画家は、純粋であった。ひたすら絵をかいていた。
が、今は違う。肩書がほしい、名誉がほしい、と齷齪(あくせく)している。
かんたんに画家の心をくらべられない。このようにあたまに、仏を拝む心をおいて、さいごには、
  心造諸如来(しんぞうしょにょらい)
と、むすんでいる。つまり〈心ニ諸ノ如来ヲル〉

人それぞれの心の中に、それぞれの仏を造ればよい、というではないか。
つまり、あなたはあなたの胸中にあなたにふさわしい仏を造ればいいのです、とありがたい。

令和4年1月3日 東と西    島村洋子
東京と大阪の「行事」や「習慣」には、なんでこんなに違うの、と驚くようなことがある。
大阪の幼稚園児の初めての楽しい「おしごと」は、つきたての餅を丸めることである。
スモックを着て、小さな手でくるくると転がして餅を丸くこね、時には真ん中にあんこをいれたりしたことは人生初の行事への参加の記憶だったりするのだ。そのことを東京で話すと、みんな驚いたように、「餅は細長く、のしたやつを先生に切ってもらいます」などと言うではないか。
「え、ではあんこを中心に入れたりしないの?」
「あんこはおもちの外側につけたりします」
「ええ?正月から切った角のあるものを使おうとするの?新年こそは丸く楽しく生きていこうと思わないの?」
などと言いながら、私は、そりゃ巨人ファンと阪神ファンとでは仲良くできるはずないわい、と思う。

令和4年1月2日 岡部伊都子
初明りという美しい言葉がある。
新年、最初に空を明るませる光線だ。
嵯峨の鳴滝に移り住んで迎えた新年、二階の東の窓を開けると、正面に双
(ならび)が丘の三つの峯が見える。
黒く、さだかには見えない夜の丘の稜線が、裏から薄紅の明かりがさしてきて、やがてやさしく浮かび上がってくる。
二の丘と三の丘の間から金色の矢のようにするどく放たれる初日の光も見た。
    初日の出 活き活き老後 願う寅
    背負うもの 少し減らそう 寅の年

令和4年1月1日 元日
明けましておめでとうございます。
皆様、よいお年をお迎えのことと存じます。
今年も
緋色窯をよろしくお願いいたします。

    『我に許せ元日なれば朝寝坊』     夏目漱石

年が明けて、初めてすることは初の字がつく。
頭につくとハツで、尾につくとゾメと読む。
初湯、初夢から、書初め、読み初め。
今年は久しぶりに漱石を読んでみようか。

  『今年はと思うことなきにしもあらず』     子規

今年は何かよいことがあるような。

今年は寅年、身の丈の生き方でいい、自分らしく飄々と生きたいと願っています。

*ホームページを開設して22年、工房は26年、穴窯は15年目です。
202年が皆様にとって、明るい年でありますよう祈念いたします。