緋色窯日記 例和6年に続く

令和5年12月31日 除夜
北宋の大文人 蘇東坡の五言古詩 「別歳」の一節
去去勿回顧
         去れ去れ回顧する勿(な)かれ

君老与衰       君に老いと衰えを還(かえ)さん
「旧年よ、行くがいい。振り返らないで、おまえに私の老いと衰えを返すから」
お正月がくると、また年をとるなどと悲観的にならず、去りゆく年に思い切りよく老いと衰えを預け、
来るべき新しい年とともに自らをリフレッシュしようというのである。
冬至が過ぎれば一陽来復、除夜が過ぎればまっさらな新しい年がやって来る。
私もまた、そんなふうに、何事も大らかにかつ楽天的に受けとめたいものです。
病まで はらいすまして大晦日 いざ重箱のまめで明さん

令和5年12月30日 光陰矢の如し
  一盞 (いっさん) の冷酒に命あつきかな   角川源義
一日の終わりに、ひとり手酌で冷酒を呑んでいます。
今日一日を或いは来し方を振り返りながら、誰とも何も語らず・・・向き合っているのは自分自身。
いろいろなことがあった。人には言えないような苦しいこと悲しいこともあった。
しかし、それらを乗り越えてこそ、今があるのだという静かな喜びと命のあり処を、一盞の酒に確かめる作者です。

光陰矢の如し、今年もあと数日を残すのみとなりました。

令和5年12月24日 年賀状
正月は、めでたいだろうか。
こんなことを考えるのも、私が年を取ったせいなのだろう。子供の頃は、文句なくめでたいものだった。
今、歳をとるにつれ、めでたく思えなくなった。たとえば年賀状。
去年は、喪中ハガキや、これが最後の年賀状ですというのが沢山来ました。
後期高齢者になりましたとか、古希になりましたとか、病気もありました、妻が亡くなりましたもあった
しかし、物事はすべからく前向きに、明るくとらえなくてはいけない。正月はめでたいのです。
不幸は一年たてば消える。新しい年になれば新しい友達ができる。人は幸せになり、楽しい毎日を送ることができるのである。
私は今、妻と毎日楽しい話をして大笑いしている。

令和5年12月17日 老酒
朝帰り 昔夜遊び いま徘徊
物忘れ 増えて夫婦の 会話増え
夫やさしく つくつくぼうし 鳴く頃は
大切なもの 皆抱へ冬に入る
何にしても "老" という言葉にきれいな印象はない。
老化、老眼、老衰、老獪、老巧、老残、老醜・・・老がついて良い言葉は老酒だけか。

令和5年12月10日
年をとると感情が鈍くなり、あまり腹が立たなくなる。
腹を立てると、心臓の鼓動は高まり、脈は早くなり、血圧は高くなる。
若いうちなら命にかかわる事態になることはまずないが、年寄りになるととんでもないことになる。
腹を立てると、動脈硬化のために狭くなっている冠動脈が縮んでさらに狭くなる。
冠動脈を流れる血液は一層減少し、心臓の筋肉は酸欠状態になってしまう。
そうなれば、狭心症の発作が起きるが、多くの場合無症状である。しかし、心臓の筋肉は確実に障害を残している。
また、腹を立てると交感神経が緊張し血管内で血液が固まりやすくなる。
固まった血液が頭に飛んで脳梗塞、心臓に飛べば心筋梗塞、そして腎臓に飛んで腎梗塞が引き起こされる。
こう考えてくると 「憤死」 という言葉が単なる誇張表現ではなく、実際に起こり得ることだと納得がいく。
やはり、腹は立てずに横にしておいたほうが得策のようである。

令和5年12月3日 佐々木久子
「わたしの放浪記 」 佐々木久子
働き者で熱心な浄土真宗の門徒だった母は、八十歳を過ぎて、テレビにうつるタレントに挨拶するようになった。昼と夜をとり違える。
夜中に冷蔵庫の物をすべて出し、切り刻んで大ナベにぶち込んで煮る。
ガスをひねることを忘れ、紙を丸めてガス台にのせ、マッチで燃やしている。
やむを得ず母と自分の手足を縛って寝る。しかし、目覚めると、いつのまにか縄をほどいて、家の中をうろつき回っている。
この手で母を殺して自分も死のう。出刃包丁を手に母の背後に回る。母は両手を合わせて念仏を唱えている。娘の殺意を感じたのだ。
娘は母に抱きついて許しを乞う。母は泣きながら言う。「久子、わしを殺してくれ、どうして、わしはこんなになったのかのォ・・・」

老いは、老いによるボケは如何ともしがたい。ボケたからといって、親子の縁は切ることができない。

令和5年11月26日 土岐善麿
土岐善麿は石川啄木の親友で、啄木の死をみとり、遺稿集『悲しき玩具』を世に出した歌人である。
啄木の恩人といってよい。善麿は昭和五十五年、九十四歳で亡くなった。
「会葬御礼」の小色紙に、こんな歌が記されていた。
「わがために一基の碑も建つるなかれ、歌は集中にあり、人は地上にあり」
石碑は数百年も朽ちないけれど、碑の文字は十年ももたずに知る者が無くなる。政治家名など五年前でも覚えていない。
それは全国各地に乱立する、もろもろの碑を見れば、よくわかる。
ところが本というものは、たとえば、せいぜい百部作られた饅頭本 (昔、葬式饅頭のかわりに、故人の文章を本にまとめて配ったもの) でも、昔の本を読むのである。
人は書物でしか生きないことがよくわかる。書物によって人は何百年も生き続けるのである。
現在に生きる者が書物に生きる人を読むのである。人は地上にあり、をこうも言える、人は書物にありと。
つまり、「歌は歌集に収録されていれば十分であり、人は生きているときこそすべてである」

令和5年11月19日 金子みすゞ
「みすゞ」は、信濃の国の枕詞である。篠竹のこと。この美しい響きが好きで筆名につけた。
大正十二年 (私の父母が生まれた年です) 詩人みすゞは誕生しました。

しかし、みすゞは二十六歳で自殺し、その作品は埋もれた。
離婚がきまり、夫は一人娘を引き取るという。みすゞは渡したくなかった。
写真館で写真を撮り、娘にたくさんの童謡を歌って聞かせた。
夫と母と弟正祐に遺書を認めたあと服毒した。
みすゞを発掘したのは、童謡作家の矢崎節夫氏である。
昭和四十一年、大学生の矢崎氏は、岩波文庫 『日本童謡集』 を読んで、みすゞの「大漁」に衝撃を受ける。
  大漁
朝やけ小やけだ  大漁だ
大ばいわしの  大漁だ
はまは祭りの  ようだけど
海のなかでは  何万の
いわしのとむらい  するだろう

矢崎氏はみすゞのことが知りたいと訪ねまわる。十六年後みすゞの弟・上山正祐が見つかる。
彼は姉のノート三冊を大切に保管していた。みすゞが死んで、実に五十数年ぶりに、陽の目を見たのである。

令和5年11月12日 細川護熙
聖徳太子の「憲法十七条」の条々を読むと、政治に携わるものが、上下を問わず倫理を基にして日々を務めなければならないという、太子その人の肉声を聞く思いがする。
「和(やわら)ぐを以て貴しと為す」にしろ、太子の仏教感を伝える「世間虚仮(せけんこけ)、唯仏是真(ゆいぶつぜしん) にしろ、歴史の垢を洗い流して、当時の瑞々しい感覚で味わい直すべきではなかろうか。
朝夕のあいさつすら廃りつつある現今、「礼を以て本と為よ」という、あまりにも当たり前な一条すら、あらためて現在に生かして考えてみたくなる。
晩秋が急激に冬に向かいつつある朝、久々に斑鳩を訪れたわたしは、枯れた稲の切り株が残る田の畦道をたどりながら、法起寺や法輪寺を経て浄念寺の岡に至り、色づいた柿の実越しに法隆寺の堂塔の甍を遠望した。
折から掃除に出てこられた老師と、界隈の懐旧譚にふけったが、千四百年のときは消えゆく朝霞のかなたにぼんやりとしているように思われた。

令和5年11月6日 誕生日
健康とは、医師に診察された「体の状態」と「心の状態」だけでなく、「社会とのつながり」「暮らしの質」「いきがい」などが重要だといいます。それを基とすると「身体の不調はあるが、社会との関わりや生きがいがあるある自分は健康な一面もある」と考えられます。健康は本来、多面的で、自分なりの基準を持ちうるものなんですね。
人を幸せにするにはまず自分が健康にならなくてはいけません。
好きなことの為にはいくらでも頑張れるではなく「美味しいものを食べて、ぐっすり眠る」これで心に余裕が出て、いいサイクルになのではないでしょうか。
自分に優しく出来るようになったら、人に優しくなれます。
七十六歳になりました。

令和5年10月29日 出久根達郎
政治家の本は 「狸先生に一毛あり」 と称して、古書業界では、定価の一毛がいいところ。一割一分一厘一毛の一毛である。
二万円の自叙伝の価値は、二円でしかないのである。
昔、弔問客に施主が葬式饅頭を配った。心ある人たちが饅頭のかわりに、故人の文章を本にまとめて配ったのが、饅頭本。
「狂歌連銭草」の奧付けには、昭和十年三月 非売品とある。故人は銭廼屋(ぜにのや)真路志。
銭廼屋さんが亡くなると、仲間が追悼の狂歌を詠んで本にした。

「銭の屋は 蝶とも身を化して飛去りぬらん 弥陀の浄土へ」
「其むかし 浅瀬とよびし君は今 三途の川を 渉るかなしさ」
「南無阿弥陀仏と珍談も 逸話となりし昔なつかし」
「手向には頭陀袋より歌袋 水より酒を享け給ふらん」
「屁を古希の 間近まで来た銭の屋は 六文持ちてふつと消えたり」

仲間の追福狂歌の数々を見ると、故人は大層面白い愛酒家であったようである。

令和5年10月22日 山田洋次
二十年来、仕事場にしている宿が赤坂にある関係で、夜の赤坂を歩くことが多い。
近頃は若者の街としてもにぎわっているが、一歩裏に入れば料亭の黒板塀が連なっていて、道路には政財界のオエラ方のものであろう、黒塗りの高級車がズラズラと並んでいる。やたらにベンツが多い。
あの料亭で芸者を呼んで食事をしたりすると、一人前いくらくらいになるのだろうか。全く見当のつけようもない。
なぜ、相談するのに高級料亭を使わねばならないのだろう。日本の政治は、なぜそんな道具立てに無駄な金を使うのだろ。
サッチャーが組閣をした時、ある大臣が首相官邸に自転車で駆け付けたという新聞記事を読んだことがある。
日本大使館の人に聞いたが、オスロに駐在する各国の大使をパーティーに招いた時、ノルウェーの外務大臣は自転車でやって来たそうである。また、ストックホルムの日本料理店で、スウェーデンの首相たちがご飯を食べ、さて勘定という時になると、俺はこれだ、これはおまえが食ったと、言いながら、もちろん首相も自分の財布から金を出して支払うのが常だという。
大臣が気軽に自転車を乗りまわしたり、総理大臣がワリカンしたりする国は、なんとなく先進国だなア、という感じがする。

令和5年10月15日 山田洋次
北欧を旅して、ノルウェーの有本大使にお逢いした。大使は古びた紙切れを出し、「これ、なんだと思いますか」 と私に差し出した。
紙の上の方に美青年の写真が張り付けてある。「ドイツの運転免許証ですよ、三十年前に取ったものです」
そんな古いものをどうして大切に、と尋ねたら、大使は微笑しながら答えた。「今でも有効なんです」
大使の説明では、ドイツにあっては、公道を運転することは自由であるべきものだが、生来運転には不向きな精神的、肉体的障害を持っている人がいるので、それをチェックするため運転免許制度を作ったが、一度試験にパスした人を再度チェックするような失礼なことはしない、という考え方であり、免許証に期限はないそうである。
もちろん、これはドイツのことであって、他の国ではそれぞれ異なった制度としているのは当然のことである。
たとえばノルウェーでは免許証に期限がある。
ただしそれは、取得後八十年だそうである。二十歳で免許を取った人は、百歳になったら更新せねばならないことになる。
なんだか、粋な国だなア ! と思う。

令和5年10月8日 小林恭二
   にせものと きまりし壺の 夜長かな
木下夕爾の作品中では、比較的俳味を強く感じさせる句です。
主題の壺は、お父さんは本物だといい、おかあさんと娘は偽物だという。骨董商に見せると、これは偽物ですと断言する。
結局壺は元通り床の間に飾られる。詩人はこの後の景を描くことで、上質な詩に昇華させました。
本物であろうが偽物であろうが、同じようにこの秋の夜長を過さなければならない。
これはこのまま男の生き様に跳ね返ってきます。男という生物は生涯「自分はにせものなのではないか」という疑念から逃れることはできません。だから励み、あがき、怒り、嘘をつきます。
生涯バレることなく生き抜く男もいるでしょうが、九十九パーセントの男はどこかで「にせもの」のレッテルを貼られます。
それでも生き続けなければならない。
「にせもの」と決めつけられた壺と同じように。

令和5年10月1日 聴き歌   阿久悠
東映の岡田茂社長に 「映画の題名を考えてくれないか」 と言われた。
原作を書けとか、シナリオに協力しろならわかるが、題名だけというのはユニークだ。
「北の螢」が選ばれイメージは 「情婦マノン」 だと答えた。つまり、地の果てまで男を追って行く。
これだけで、高田宏冶脚本、五社英雄監督で制作に入ることになった。
ぼくは作詞をしなければならない。五社監督からは撮影初日からスタジオでガンガン歌を流し、気分を高めたいと手紙が来た。
亰の名妓と北海道の監獄長の話になっていることは知っていたので、
♪山が泣く 風が泣く 少し遅れて雪が泣く・・・
で始まって、
♪もしも 私が死んだなら

 胸の乳房をつき破り 赤い螢が飛ぶでしょう・・・
とちょっと怖い詞を書いた。この詞を手渡した時、作曲の三木たかしは体を震わせて興奮してくれた。
そして、その興奮が森進一に伝わり、紅白歌合戦の鬼気迫る熱唱に集約したのである。
今は故人になった五社英雄監督からは、撮影中も、歌の凄味に負けない映画を作るという手紙を貰った。
このような圧倒的な聴き歌が世に流れなくなって淋しい。
すべてが歌い歌になっている。

令和5年9月24日 阿久悠
この二週間、愛犬トトが死を迎える様子をずっと見ていた。二時間前まで歩いていたのに何かのはずみで腰が立たなくなった。
どう力を貸してやっても、後ろ足の踏ん張りがきかない。すると、もう立つことは諦めて伏せってしまった。
見つめていて悲しく、同時に感動するのは、実に静かに運命を受け入れようとしている姿であった。
何も食べなくなった。それから二週間、トトはほとんど眠っていた。
食べないので痩せた。痩せることは衰えることではなく、幼児に戻っている気がする。
顔の表情が無邪気になっていた。そして死んだ。ソメイヨシノが満開になった日であった。
翌日、大勢の手を借りて庭の木の下に埋めた。
ぼくは、自分がずいぶん老人になったのだと、愛犬の死で気がついた。
動物の生命が尽きるのは仕方がないことだと思っていたが、今回は仕方がないでは済まないものを重く感じた。
あげくは、果たして自分はあのように淡々と無邪気に、運命を受け入れられるだろうかと考えたりしたのである。

令和5年9月17日 読書
ただただ、ページをめくるのが楽しい。これが読書の楽しみであり、その喜びに耽溺してしまうのが本読みだと私は思う。
読書は道楽。何かの役に立つとかだと、せっかくの面白い本も面白くなくなる。
本を読むことに意味を求めない。純粋に面白ければそれでいい。それが私の読書です。
本を読んだところで賢くなるわけではない。では、なぜ読むのか。
本を読むと、自分が普段生きるために使っている知識というものは、人間の知の巨大な営みにくらべれば、
氷山の一角にも満たないことが感じられる。
いったいなぜ、本読みは、これほどまでに無意味で壮大な知識を求めてやまないのか。
かって、立花隆は人間には食欲と性欲にならんで知識欲があると喝破しました。
しかし、一見無駄な、知識を得ることで、自分が世界のどこに位置しているかは分かるようになる。
それはつまり、人間の壮大な知の営みの中に、自分を位置づけられるということです。
自分という小さな個は、知の歴史という巨人の肩に乗っているだけの存在なのだ。
その 「巨人」 と対話をすること。それが私の読書であると思う。

令和5年9月10日 国家 続き
毛沢東の大躍進政策は、中国を石器時代に還元する 「大後退」 を招いた。
毛沢東は少なくとも自国民の7.5%を殺したが、スターリンは1933年だけで隣国ウクライナ国民700万人以上を殺している。
スターリンがしたことは恐ろしく単純だ。ソビエトは当時、小麦を輸出することで外貨を獲得しており、小麦生産は国の一大産業だった。
そこでスターリンは、「ヨーロッパの穀倉地帯」 として知られるウクライナに目をつけ、文字どおり収穫物を全量徴発したのだ。
全量だから当然のことながらウクライナでは多数の餓死者が出、実に国民の20%が死滅した。
恐ろしいのは、スターリンは、そうなることを承知の上で全量徴発したということだ。
全滅したらベラルーシからロシア人を連れてくればいいと持っていたフシがある。
大躍進時代の中国では4500万人の農民が餓死したが、当時の人口が6億人であったことを考えれば、その比率は7.5%である。
ウクライナ国民の20%の餓死者が、どれだけ凄まじいかがわかる。

令和5年9月3日 国家
人類史上最悪の愚策として知られる中国の 「大躍進政策」。
1957年、毛沢東はソ連と張り合うため、15年以内にイギリスを追い抜くと宣言した。
しかし、愚か極まりない思いつきと狂気じみた統治組織で、大量の労働力と資本を消費してしまう。
たとえば、農産物の生産量を増やそうと、無謀な肥料づくりをはじめる。
糞尿だけでなく女性の髪や、建物や牛舎が壊され、人民は路頭に迷うことになったのだ。
また、鉄を増産しようと 「土法高炉」 なる手製溶鉱炉を50万基建設。
だが、クズ鉄しかできず、農機具は出来ず、農民は素手で耕作するはめになった。
これらの愚策で大量の餓死者が出ているにもかかわらず、地方政府は水増しした生産量を報告。
その多くは地方の役人が出世しようと行った愚行である。
毛沢東は大豊作だと思い込み、農作物を輸出してしまった。
結果として、四千五百万人が死亡したということは、数倍以上が死の淵をさまよったことになる。
庶民は、いつの世でも政治家に食い物にされる。今現在も同じ、歴史は繰り返す。

令和5年8月27日 遺書 友人の娘Z子様   土屋賢二
遺言状があなた宛てになっていることに驚いているかもしれません。この時点で、あなたのお父さんが存命中でない可能性もありますので確実を期しました。
1、今のところ私は元気です。もし私が妻より先に死ぬようなことがあったら、どんなに自然に死んだようにみえても、必ず検死解剖をするとともに、妻のアリバイを警察に調べてもらってください。
2、遺産は次のように処分してください。
何でも持っているように見えたかもしれませんが、私が持っているのは、豊かな才能と本くらいです。
蔵書の中には、発売直後に入手不可能になった貴重な本もあります (私が書いた本です)。
蔵書は私の受け持ちの学生たちに定価で買い取ってもらってください。
その金は 『土屋賢二遺稿集全二十巻』 の出版にあてて下さい。
遺稿はまだ二ページほどしか書いてありませんが、何とか水増ししてください。
3、渋谷に時価三億円はする高級マンションがありますが、幸か不幸か、私の所有物ではありませんので、絶対に処分しないでください。
4、葬儀は簡素にしてください。武道館で十分です。墓も要りません。目立つところに銅像でも建てて下さい。
5、私の本を買ってくれた読者の方々に、感謝の気持ちを伝えて下さい。できればNHK夜七時のニュースのトップで伝えて下さい。
6、健康に気を付け、体重を二十キロ減らしてください。小学生で九十キロは太り過ぎです。
腕立て伏せを毎日十五回やり、飲尿健康法を実践し、人類のために一生を捧げて下さい (私がどうしてもできなかったことばかりです)
もしそういう努力を怠るようなら化けて出るつもりです。
神の御加護がありますように。南無阿弥陀仏。

令和5年8月20日 米原真理 ロシア語通訳
日本から輸出する養魚施設に関する商談の通訳で、魚が成長する過程で、「仔魚から稚魚になり、幼魚になり、成魚になり、そして子を産む親魚になる」 ということを日露両語で血眼になって覚え、次の日は 裏千家の家元に同行して 「モスクワ大茶会」 で、「わび」、 「さび」、「一期一会」 などという自分でもよく分かっていない概念をロシア人に伝えるのに四苦八苦し、帰国すると、「防衛問題」 に関するシンポジウムが控えているので、日露間の防衛問題の要点と兵器の名称を時差ぼけの頭にたたき込む。
「ああ、これを折角覚えても、我が残りの人生のうちで二度と使うことはあるまい」 と思いつつも懸命に頭に詰め込む。
それが無事終了して 「恐竜はなぜ絶滅したのか」 というソ連邦科学アカデミーのその道の権威の講演通訳の準備に取かかり、この原因については所説紛々あるのに驚き、なにせ人類の登場する遥か以前のことだから、どうせ証人は皆無なのだし、「図体がデカすぎてノアの方舟に乗りきれなかったから」 なんて説でもいいのではないかと思っていたら、くだんの学者、当日冒頭。
「実は最近ソ連でも恐竜が絶滅した謎の本当のところがほぼ分かりかけてきました」
と厳かにおっしゃるものだから、会場はシーンと水を打ったように静まり返った。通訳する私だって緊張する。
「雄の恐竜がウフンと首を縦に振って誘ったのに、雌の恐竜がウッフンと首を横に振ったからです」
三十秒間の静寂に続いて、会場がどよめくような爆笑の嵐に包まれたのは言うまでもない。

令和5年8月16日 光悦寺   細川護熙
本阿弥光悦といえば、日本を代表する芸術家のひとりで、書をよくし、また茶人でもあって、彼の手掛けた楽茶盌は心の赴くままに造形したようなのびやかさがあり、かねてよりわたしの憧憬するところだ。
『本阿弥行状記』をみると、その実像、特に晩年のそれは、粗末な小さな家に住み、八十歳で亡くなるまで、極めて質素に生きた人だったことが知られる。光悦がそのように生きたのは、母親の妙秀の感化によるところが大きかったようだ。
『本阿弥行状記』 には妙秀の説いたことばとして 「身の貧なる事には苦しからず、富貴なる人は慳貪にて有徳に成つるやらんと心もとなし」 「金銀を宝と好むべからず」 と記されている。事実、年老いてから孫たちが贈ってくれる時服なども手許には置かず、大勢の人たちに分け与えるのが常だった。妙秀が九十歳で亡くなったとき、「浴衣、手ぬぐい、木綿の布団、布の枕ばかり」 でほかには何もなかったという。
光悦は家康から洛北鷹ヶ峯に土地を拝領し、芸術村ともいうべき集落をつくった。
その跡を留める光悦寺を訪ねたとき、垣のきわにはいかにもそこにふさわしく夏萩が花をつけ、妙秀の墓は光悦の墓石の傍らにひっそりと添っていた。
その小さな石塔の前に佇むと、彼女に引き比べ、生きるうえになんと多くの無駄なものに囲まれているかと、自らの身の回りに改めて思いを致さないわけにはいかなかった。

令和5年8月15日 加美山あい子 宮城県 大正11年生
あれは、たしか昭和十九年末の日曜日だった。夕食の後、不意に夫から 「オイ散歩に行かないか」 と言われ、一瞬、私はとまどった。
「外は寒いから寒くないようにしろよ」 という夫の言葉に、当時のこととて防空頭巾にモンペ姿で夫の後を追った。
やがて着いた羅南神社から十キロばかり離れた北朝鮮・清津の港町に赤々と燃える火が見えた。
「あの火は何かしら」 それが溶鉱炉の火だということ、そして、その火は永久に消えないことを答えてくれた。
五十年も前のことである。あの火はどうなっているだろうか。
その時の雰囲気は何か厳粛なものがあって二人とも黙っていたように思う。突然、夫が低い声で歌いだした。
「いとしの妻よ泣くじゃない。たとい別れて住めばとて・・・」 それは「人妻椿」 の主題歌であった。
夫は二番まで歌い終わると又静かに黙ったまま暗い遠くの火を見つめていた。
やがて、「帰ろう、寒いだろう」 と、言って、自分のジャンバーを私の肩にかけた。
それとなく妻としての覚悟をさせたものと思われる。
夫が征ったのは昭和十九年十一月三十日の深更であった。
初雪が二十センチもの積雪の中、それは再び戻ることのない永遠の別れであった。
それにしても覚悟とはどういうものだろうか。あれから幾星霜、七十七歳の私にもまだわからない。
書くまい、言うまいと思う。だが私達戦争未亡人も年々減っていく。
私たちが口を閉じたら、あの悲しみ、あの辛さを一体誰が伝えるのだろうか。

令和5年8月14日 出久根達郎
定年、という言葉の響きは、もの悲しい。
定年の日に何か特別の行事をしましたか。「別に」とAさんは答えた。
「ご苦労様、とカミさんがねぎらってくれたね。そうそう、空の弁当箱を受け取って、カミさんが泣き出したっけ」
Aさんは糖尿病で、会社には弁当を持っていく。
結婚したばかりの頃、Aさんは奥さんに咎められた。
「どうしてあなたは、毎日ご飯をひと口だけ、残してくるんですか。みっともないじゃありませんか」 Aさんの癖なのである。
子供の頃、Aさんの家は貧しかった。父親が戦死し、戦後の食糧難の時代を、母親が必死に働いて育ててくれた。
小学校には給食がない。弁当をもって登校した。弁当のない子もいたが、母上が弁当だけは持たせてくれたという。
しかし、おかずは毎日紫蘇の塩漬け。
さすがに嫌になり、ある日母に苦情を言うつもりで学校から帰ると、その日は雨で、母が珍しく家にいた。
何かを食べていたが、Aさんを見ると慌てて隠した。Aさんは母をなじった。自分だけおいしいものを食べていると思ったのである。
「遅いお昼をとっていたのよ」そう弁解する母が見せた物は、サツマイモのつるであった。つるを茹でて、塩をふりかけたものである。
昼食がわりに、母はそれを食べていたのだった。
我が子には麦飯を食べさせながら、自分は牛の飼料にも劣るものを、ごはん代わりにしていたのである。
以来、Aさんは母のために、弁当を半分残して帰宅するようになった。ところが母はそんなAさんを諫めた。
しかし、Aさんはどうしても自分一人で平らげることができない。毎日一口ほどの量を残して帰った。
Aさんの、せめてもの母への感謝でり、思いやりなのであった。
奥さんはAさんの話を聞いて、何も言わなくなった。
定年当日、Aさんの弁当箱は、洗ったように、きれいだった。挨拶まわりで忙しく、腹が減って、つい平らげてしまった。
いつものように、一口が、ない。
空の弁当箱を見た瞬間、奥さんは、ああ、お父さんは明日から会社へ行く必要はないんだ、と定年を実感したという。
万感胸に迫って、それで泣いてしまったのである。

令和5年8月13日 石川恭三
私は日本各地に出かける機会が多いが、そんな時、いつとはなしに神社や寺に足が向いてしまう。
この間、家内から、この頃だんだんと拝んでいる時間が長くなってきたと言われたが、手を合わせていると、いろんな人たちや、色々な出来事が頭に浮かんでくる。
「朝、目覚めたら病気が嘘のように治っていた、なんてことが奇跡的に起こるかも知れないと思って眠ることがあるんです」
と言った白血病の患者さんがいたが、私にはその気持ちがよくわかる。
私にしても、もはや手の施しようがない末期的症状の患者さんを診るときには、絶対的な力を持つ何かにすがりたいような気持ちになってしまうのである。人はどんなに強がりを言っても、所詮は弱い生きものなのだと思う。
その弱い人間がその弱さを最も赤裸々に露呈しているところが病院なのである。
そして、病院とはその弱さの周りを生と死が乱舞している、ひとつの舞台のようなものだと思う。
深夜の病棟の静寂の中には、忍び寄る死の影が潜んでいる気配を感じる。
病院が、あるとき、不意に恐ろしくなって一刻も早くそこから逃げ出したくなる事がある。
医者の私ですらそう思うときがあるのだから、ましてや患者さんやその家族の人達はなおさらそう思うに相違ない。
病院の中で繰りひろげられてきた多くの人達の人間ドラマは、それぞれが人生の縮図のようなものである。

令和5年8月6日 山崎ナオコーラ
「金子光晴さんの墓参りをしたいんですが・・・」
事務所前で売っていたピンクの薔薇が入った花束を買い、
「ここに自分たちのお墓を買うのもいいかもね。どう、金子光晴と同じ墓所」 そんなことを言いながら墓を探す。
墓所は山の斜面に作られていて、日が当たってとても明るい。背景には山々の稜線が見える。
「金子さん」 私はお墓を見つけて叫んだ。
「あ、森三千代さんも」 夫が言う。夫婦で眠っているらしい。
お墓の隅にホトケノザが咲いている。
花を活け、手を合わせる。
「見て、月」 と夫が上を指す。
真っ青な空に白いアイスクリームのような月。

令和5年7月30日 阿久悠
今でも 「五番街のマリーへ」 が大好きで、カラオケのレパートリーに入ってますと、挨拶代わりに言う人がいる。
自分で言うのも妙だが、きっと愛されやすい歌なのであろう。
特にある世代の人達には、自分の若い日の、貧しく、実りのない、傷だらけの愛と重なるところがあって、ふと、この歌の一節のような思いになるのだと思う。
♪ マリーという娘と 遠い昔に暮らし
 悲しい思いをさせた それだけが気がかり・・・
という悔恨の部分である。ただし、それはかなり甘い、感傷としての悔いである。
かっての男たちは、そんなふうに少々ムシのいい善意で昔を思い出し、罪滅ぼしをしようとしたのである。
ただ、この詞にもある通り、今が不幸なら何か埋め合わせをしなければならないが、幸福そうな様子が感じ取れたら、声もかけずに帰るという「男女道」 を弁(わきま)えていたのである。
さて、「五番街のマリーへ」は、ぼくが企画した日本一周女性だけの洋上大学、「ろまんの船」の中で作った。
スケジュールがタイトになって、そういうことになった。
ちょうどぼくも都倉俊一も講師で乗り込んでおり、それじゃ船上で創作をということになったのである。
月の照る日本海を走るロマンの船「さくら丸」
で、出来上がったばかりの曲を作曲者のピアノ伴奏で、乗客の女性たちと一緒に歌った感激は今も忘れられない。

令和5年7月23日 百島裕貴
色覚検査は、カラフルな斑点の集まりを見つめると数字が浮かび上がってくる。
この検査表は石原表と呼ばれ、日本人の石原忍がつくり全世界で使用されました。
この遺伝子異常がある人は、日本人男性の5%、女性の0.2%とされています。
5%とは20人に1人でここまで多いと異常とは言えません。
遺伝学ではこれを「遺伝的多型」といい、その個体の特徴の一つとも言えます。
終戦後、石原は公職追放となり、これを機会に残りの生涯を医者本来の姿に立ち戻って、伊豆の田舎で医道を極めようと決意します。貧しい人には治療費を請求せず、まさに 「医は仁術」 を実践する石原の診療はたちまちにして、「伊豆河津に仁医あり」、と評判を呼びました。
1963年正月、石原は病に倒れました。昏睡状態でも、うわ言の中に 「その色はもう少しだな・・・」 と色覚検査表が頭を離れませんでした。同年1月26日、83歳の生涯を閉じた石原の河津町葬には、別れを告げる人々の列が延々と続きました。

令和5年7月16日 漢字
日本語知らない、礼儀知らない、歴史知らない人が増えている。
法被 (はっぴ)、団扇 (うちわ)、海苔 (のり)、黒子 (ほくろ)、陽炎 (かげろう)、土筆 (つくし)、羊歯 (しだ)、百舌 (もず)。
ある本に紹介されていたが、デパートの足袋 (たび) 売り場で 、足袋をください、というと店員はありませんという。
ここにあるじゃないかと指すと、(それはアシブクロです) といったという話。
日本人は日本文化を育ててくれた漢字に、親愛感も美意識もイメージもなくしてしまった。

令和5年7月9日
私はいままで人のために割いた時間が、どれほどあったんだろう。
いや、自分のためにしか生きてこなかったように思う。
子供は親に何を言ってもいいのだろうか。最近、親に酷いことを言ったことばかり思い出す。
長生きをした両親は、私に人が老いること、老いにかかわらずいかに生きるべく努力するか、という歩みを如実に示してくれたと思う。

令和5年7月2日 山崎ナオコーラ
五月の曇りの日、西武線の特急ちちぶに乗った。秩父聖地公園に深沢七郎の墓がある。遠方なので 『楢山節考』 を読みながら向かった。
改めて、「大傑作だ。よくこんな文章を書けたなあ」 と打ち震えた。
この一文一文のつながりの凄まじさ、たゆみのない科白(せりふ)、無駄のない句読点・・・。
小説を構成するすべての文がハイセンスで、ページをめくる度にため息が出る。
しかし、そのあとに深沢のインタビュー記事を読んで、ハッとした。
" 『楢山節考』 が残酷・・・・、びっくりしましたよ。あれは、おばあさんの美しい、自分の思うとおりな一生だと思って、私は美しいと思っていたのに、残酷と言われて、びっくり "(夢と漂泊)
確かに、大部分が主人公の老人、おりんの視点で進む。それなのに、なぜか、息子の視点から私は読んでいた。
老人は弱いのだから、守ってあげるべき存在で、美学や個性を読み取ってあげる必要などないと思い込んでいた。でも、違う。
そうだ、おりんはかっこいい。息子のために死んだのではない。美学のために死んだのだ。

"私は滅亡教という無宗教なので死んでも戒名はいらない。人は死んだら名前が変わるということもシャレた味がするけれども、金で丁寧につけられたりするのは悪いことだと思う。ことに、金や功労とかで権威のあるような名をつけることなどは悪魔の仕事だと思う" (夢屋往来)

深沢は、こういう考えなので、戒名や香典はなしにしたみたいだ。
今回、墓参をして、死生観に思いを馳せたところ、むしろ、ばりばりにかっこ良く感じられてきて、このかっこ良い人がよくもまあ、あんなふざけて可愛らしいエッセイをかけたな、としみじみした。

令和5年6月25日 枕草子
春はあけぼの。やうやう白くなりゆく。山ぎはすこしあかりて。紫だちたる雲の細くたなびきたる。
「春はあけぼの」は知っていますが、では、夏は何なのか、秋は、冬は。
夏は夜。月のころはさらなり。闇もなほ、蛍のおほく飛びちがひたる。
秋は夕ぐれ。夕日のさして山のはいと近うなりたるに、烏(からす)の寝どころへ行くとて、三つ四つ、二つ三つなど飛びいそぐさえあはれなり。
冬はつとめて。雪の降りたるはいふべきにもあらず。霜のいと白きも、またさらでもいと寒きに、火など急ぎおこして、炭もてわたるもいとつきづきし。
四季それぞれの一日のうちのもっとも好ましい時分を、かくも短い文章で言い終えたことに、ただただ感服させられます。

令和5年6月18日 父の日 遥洋子
父は牧場を経営していました。自由業だから遊びまわっていたし、家じゃ酒飲んで大暴れ、でも私は五十過ぎてやっと生まれた女の子だったんで、ベタ可愛がりにされて育ちました。
芸能界に入る時には、包丁持って暴れました。男に食い物にされると思ったんでしょうね。
自分が遊んでいたから、世の中の男はみんなそうやと思ってたんでしょう。
その父が、ぼけ老人になって、寝たきりになって、四年前に亡くなりました。
お風呂にも居間にもウンコがあって、家を出たら帰ってこない。でもショックっていうのはなかったです。
歩けなくなる、体の半分が動かなくなる。その時は本人も周囲も大変なんだけど、いつしか納得していくんです。
年を重ねるってこういうことなんやな。だんだん動けなくなるんだよ、ボケてくるんだよ、こうやって死んでいくんだよって。
全部教えてくれるんですよ。
お葬式は、明るかった。家族を泣かした父でしたれど、あんた好き勝手に生きたな、楽しかったやろって、ほんま見送るのは楽だった。
考えてみれば私も、好きに生きてます。
母には、あんたが一番父親似やと言われます。
だんだん似てくる癖の父はもういない 山頭火

令和5年6月11日 老い
婦人生活社の社長・原田常治氏がつねづね言われるのに、男を落ちさせるには五つあるそうだ。
いわく、抱かせる、飲ませる、食わせる、握らせる、威張らせるで、氏これを「五せる」という。
長い人生、色ごとは束の間の夢です。
悟ったことを言うが、これは近年衰えたる兆しであろうか。

令和5年6月4日 森繁久彌
「そんなに、いじめないで頂戴」
「今夜はひとつ、いじめてやるかーー」
「いじめちゃイヤ」
なべて昔はいじめるとは、色っぽいことに使われた習わしがあったやに覚える。

もちろん、教室、学校の帰り道、修学旅行といたるところで、いじめはあった。
ふとんむしもあったし、待ち伏せでなぐられたり、遊びに入れてくれなかったり、それでも私たちは我慢した。
仕返しこそ考えたが、自殺などは思いもよらぬこと。
どうしたことか近頃の小中学生は難に耐えることは一層の苦手らしい。

令和5年5月28日 介護
老人介護でまいってしまうのは、結局、下の世話だろう。
私は晩年の父母で経験したが、下のにおいを毎日かいでいると、気持ちが索漠としてくる。いつまでたっても慣れることはない。
老人介護のむなしさは、努力がむくわれない、ということである。
どんなに手を尽くしても、目に見えて元気になるどころか、逆で、徐々に弱っていく。そして見送ることになる。
他人を世話したわけではないから、誰にも、ほめてもらえない。親の面倒を見るのは当たり前のこと、と世間は考えている。
大変でしたね、と慰めてはくれるが、見上げた美談、とは思ってくれない。
むくわれない、という不満は、介護者の大抵の胸底にくすぶっているはずだ。

令和5年5月21日 有島武郎
日本リアリズム文学の代表作と言われる 『或る女』 は、近代文学の記念碑的な作品として高い評価を受けている。
自我に目覚め、封建的な社会の常識に反抗し、悲劇的な最期を迎える女の一生を描いた物語の主人公・早月葉子は、国木田独歩の妻・左左城信子がモデルだという。
武郎の妻安子は三人の子供をもうけながら、肺結核のため二十八歳で亡くなった。
若くして妻を失い、独身を貫く武郎の人気は高まったが、『婦人公論』 の編集者で人妻の波多野秋子と知り合い恋愛に発展。
不倫関係が知れ秋子の夫・波多野春房から金銭を要求されるが、「命がけで愛している女を、金に換算することはできない」 と拒絶。
大正十二年六月九日、軽井沢の別荘で縊死。赤いしごきでつながれた二人の遺骸が発見されたのは一か月後のことだった。
あとには 「・・愛の前に死がかくまで無力なものだとは、この瞬間まで思わなかった」 という遺書が残されていた。享年四十五歳。

令和5年5月14日 母の日
   かあさんを泣かせた頃の花菜風 島谷全紀
若い頃は誰しも少なからず親の思いとは違う行動をとるものです。
今になればわかるその時の母の思いと深い愛情。そして悔恨の念。
"母" ではなく、あえて "かあさん" と当時の呼び方で母を詠み込み、読者である私たちをも遠き日に誘います。
きっと菜の花を吹き渡る風のように、優しく明るく朗らかな "かあさん" だったことでしょう。
親が子を、子が親を思う気持ちはいつの世も決して変わることはありません。

令和5年5月7日 石川恭三 (黄昏は妻と共に)
石井さんは心筋梗塞で入院した患者さんで、退院できる嬉しさを押し包むようにソファに座っていた。
彼の場合、過酷なストレスが心筋梗塞発症の引き金になったことはあきらかで、遠回しに懸念を伝えると、
「先生、私、出向を勧められた会社に行き、気張らず、のんびりやっていこうと思います。こんな気持ちになれましたのも、今度の病気のおかげだと思います」 といって、石井さんはこんな話をした。
石井さんはCCUから個室に移り、奥さんが付き添うことになった。
或る晩、尿意をもよおして目を覚ました。午前二時を少しまわっていた。
廊下から洩れる微かな明かりで、部屋のトイレに行こうとベッドを降りたとき、奥さんは窓際の小さなソファに不自由な格好で、毛布にくるまって眠っていた。
「そのときほど、家内をいとおしく思ったことはありませんでした。
家内の寝顔を見ているうちに、涙がやたらと出てきて、今にも声を出して泣きそうになりました。
部屋のトイレを使えば家内が目を覚ますと思い、外のトイレに行きました。
ベッドに戻ってから、家内の寝息を聞きながら、今までのことや、これからのことを、朝までいろいろと考えました。
そして、そこで得た結論は、これからは、家内の為だけに生きようということでした。
そう思ったら、なんだか頭の中が急にすっきりとしたんです」
石井さんの目から大粒の涙がこぼれ落ちた。
目から鱗がおちるようにして、一つの考えが不動のものとして、鮮明に浮かび上がってくることがある。
なぜ今までこのことに気がつかなかったのか、と己の愚かさに嘲笑を浴びせたくさえなる。
生と死に真っ向から対峙しているときに、人生のあり方についての価値観に、大きな変革が生じることがある。
「これからは、家内の為だけに生きようと思います」
と言った石井さんの言葉の中に、これからの石井さんの人生のありようが組み込まれているように思われる。
妙に家が恋しくなり、仕事を早々に切り上げて病院を出た。
吹き付ける冷たい北風の中に、春の訪れの先触れを思わせる生暖かさが混ざっているようだった。

令和5年5月5日
「稼ぐが勝ち」 はある意味で名言だ。「勝ち組」 「上流」 も、今の日本の行動原理を端的に表現している。
このあまりにもわかりやすい言葉に対抗できるだけの言葉を持っている人はいない。
せいぜい 「命あっての物種」 とか、「丈夫が何より 」 といった言葉くらいで、何しろ 「人品骨柄」 なんて、死語同然の世の中なのだもの。

令和5年5月4日 中野翠
久世光彦さんの訃報を知ったのは三月二日の午後のことだったが、どうしても本当のこととは思えなかった。
ラジオで久世光彦さんを追悼してというコメントつきで 『街の灯り』 (詞・ 阿久悠 / 曲・浜圭介 / 歌・堺正章 ) が流れた。

 ♪そばに誰かいないと 沈みそうなこの胸
  まるで潮がひいたあとの 暗い海のように・・・
  息で曇る窓に書いた 君の名前指でたどり
  あとの言葉迷いながら そっといった・・・
好きな歌とは思っていたけれど 『街の灯り』 ってこんないい歌だったんだ。
やっぱり本当だったんだ。久世さんはもういないんだ・・・と胸に迫るものがあった。
私も一つの歌を捧げたい。 『森の小径』 (詞・佐伯孝夫 / 曲・灰田有紀彦/ 歌・灰田勝彦 )
小林亜星さんから聞いた 『 森の小径 』 『鈴懸の径 』 『 青い小径 』 を称して灰田の三大小径というそうだ。
私にはこの歌全体が過ぎ去った時間そのものの感触のように思えるのだ。
末期の刻には自分の人生をこんなふうに感じるんじゃないかという気がしてならない。

 ♪ほろほろこぼれる 白い花を
 うけて泣いていた 愛らしい あなたよ
 おぼえているかい 森の小径
 僕も悲しくて 青い空 仰いだ
 なんにも
言わずに いつか寄せた
 ちいさな肩だった 白い花 夢かよ

令和5年5月3日 澤地久枝
高木俊朗とはペンネームで、御本名は「竹中俊朗」であると、竹中誠子さんからお知らせをいただき知りました。
(何事も面倒なことは「あしたでよろしい」と、のばしのばしで八十九歳十一か月と七日、高木敏郎は1998年6月25日、ついに「あした」のこない日を迎えました。九十年余り働き続けた心臓は、おだやかでユックリユックリ呼吸がス~ッと止まって五分後、その勤めを終えました。本当にすばらしい感動的な旅立ちとなりました。かねてよりの当人の希望で、全くどなたにもお知らせせず、清々しく荼毘に付しました。・・・)
わたしの父と三歳違いということは、つまり父の世代でいらっした。しかし、いつどこでお目にかかっても、「老い」の気配ひとつ感じたことはありません。しゃんと正しい姿勢、といっても、くつろいだ包容力のある雰囲気。「男性の色気」をずっと保っていらしたと思います。
誠子さんの第2信に
(沖縄に行きたい、沖縄で暮らしたいといつも申しておりました。どんどん行動なさる澤地さんがうらやましかったことでしょう。・・・どうぞ、「いい男」だった頃のことのみ思い出して下さいませ) とあります。
人生を退場したあと、伴侶であった人から「いい男」と言ってもらえる男性は稀です。彼女はまた、

(もしお心あらば、ご自宅にてお茶の折、お酒の折、高木のために乾杯し、祝いの言葉をかけていただければと思います。それほどすばらしい最後でございました。ありがとうございました)
と書いています。
書家でもある好伴侶にみとられての大往生。ご自身のことはほとんどなにも書き残さなかった高木さん。
下戸でありながら洋酒の小コレクターであるわたしは、持っている最上のウイスキーの封を切り、杯をあげて「乾杯」と声を出しました。胸の内側をぬくくてひたひたするものが伝わってゆくようでした。

令和5年4月30日 都々逸 続き
鳴かず飛ばずの人生だけど 俺は真っ直ぐ来たつもり
歯に衣着せずに生きてるけれど 人生やっぱり損してる
学んだことより遊んだことが 役に立ってる定年後
百まで生きてもあと何年か 引き算ばかりの歳となる
楷書行書の時代を抜けて 草書をゆるりと生きている
粋と云う字は米寿に卒寿 粋に生きてりゃ吉がくる

令和5年4月23日 都々逸 続き
も一度聞きたい優しい祖父の 歌う「故郷」「赤とんぼ」
見つからないよに見つかるように 孫と爺じのかくれんぼ
今は幸福?もし訊かれたら ちょっと迷ってハイという
嬶(かかあ)天下と威張っちゃいるが たかが家来は俺一人
頼りないけど優しい人と 桜吹雪の中にいる

令和5年4月16日 都々逸
民謡から生まれた都々逸は他の民謡と同様「三味線の伴奏に乗せて唄う」という特徴を持っている。
よく知られるように、短歌や狂歌は「五七五七七」で一首、二首。俳句や川柳は「五七五」で一句、二句。
都々逸は「七七七五」で一章、二章と数えます。

大きな背中を見せてた父の 逝けば小さい喉仏
見せるつもりで書いたと思う 母の日記に泣かされる
夫元気で留守がいい 亡くして気づいた宝物
裾からちょっぴり下着が見えて 妻もちょっぴり歳をとる
妻のいうこと分からぬけれど ね!と言われりゃうんと言う
どちらも欠けずに出て来た艶の 夫婦茶碗の有る重み

令和5年4月9日 添田唖蝉坊
♪ああわからないわからない 賢い人がなんぼでも ある世の中に馬鹿者が 議員になるのがわからない
議員というのは名ばかりで まぬけでふぬけで腰抜けで いつもぼんやり椅子の番 唖かつんぼかわからない♪
この歌は明治四十年代の演歌の歌詞である。添田唖蝉坊は仙人を志した。
肥満は堕落の象徴と称し、米飯生活を廃して松葉を食べた。金持ち階級への風刺を身をもって行ったのである。
ただし歌を捨てた演歌師は、民衆の代弁者でも人生の達人でもなく、単なる奇人に過ぎなかった。 

令和5年4月2日 高倉健
桜を見ると、
「南極物語」でご一緒した蔵原監督が、桜をご覧になって、
「あと現役の監督として、何回この桜を見られるんでしょうね」
とつぶやかれたのを思い出します。
あの時の言葉は、とっても心に沁みました。

毎日をしっかり生きなくてはと、そういうふうに思いました。

令和5年3月26日 黛まどか
父はとにかく自然が好きな人。父にとっては俳句を詠むことも自然保護を訴えることも、根っこは同じなんでしょうね。
父は祖父が反面教師になっていて、実直で家庭を大事にする人です。
祖父と違って女性に興味がない、自分の興味がないものは、目には入っていても脳神経がキャッチしていない感じなんです(笑)。
だから、もし父がモテたとしても、本人は気付かないでしょうね。
そんな父ですから、今では私にとってひとつのモノサシになっています。
迷ったとき、決断しなければならないとき、「父ならどうするか、どう言うか」 と考えます。
曲がったことは絶対にしない、人を裏切らない。
草笛や 父に勝れる人知らず
この句は、父の日のプレゼントとして詠んだものです。
実直で真面目に積み上げてきた父を、素直に尊敬しています。

令和5年3月19日 野田敦子
四年間の闘病を経て夫が亡くなりました。悲しみに浸る間もなくバタバタと迎えた告別式前日のことです。
鏡の中に 「白髪の目立つ、老けてやつれた、みすぼらしい自分」 を見つけてびっくり仰天。あまりにひどすぎる。
きちんと身なりを整えて参列者を迎えるのが喪主の務め。なんとかせねば。
リビングで一人前髪にカラー剤を塗りつけながら、この夜の自分を一生忘れないだろうと思いました。
いつか見たドラマの 「泣きながらご飯を食べたことがある人は、生きていけます」 というせりふを思い出し、「泣きながら髪を染めたことがある人も、生きていける」 とつぶやきました。
何もかもどうでもよくなったときに自分の身なりを整える行為は、「明日も生きる」 という無言の決意表明だと知ったのです。
人生には、思いがけない出来事が待っています。これからも楽しいことばかりではないでしょう。
自身の病気や大切な人との別れに向き合うことがあるはずです。
それでも、いや、そうだからこそ身なりを整え、オシャレをして 「明日も生きる」 意欲を失わずにいたいと思います。

令和5年3月12日 千葉敦子
人間は死にゆくものだという事実を実感した時に、はじめて真に生き始めるのかもしれない。
死が近いと知れば、それだけ人間は残りの生を充実させたいと考えるものなのだろう。
いってみれば、ガンは人間の生き方に浄化作用をもたらす。
偽りの友情、偽りの愛、偽りの忠誠心、偽りの義務感などは居場所を失ってしまう。
患者にとって人生はこの上なく美しい貴重なものとなる。
たとえば花々の美しさは、今までちゃんと見たことがなかったのではないか、と思われるぐらい新鮮な驚くべき美しさとなって患者の眼にうつる。
   うさぎの子 尾に見つけたり春の風

令和5年3月5日 森繁久彌
岩波書店を創られた岩波茂雄さんは、「朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」 という言葉がお好きだったそうだ。
昔、家内が南極へ行くことになったところ、出発までニューヨークで毎朝三時間の南極の講座があったそうだ。
なにしろ平均七十歳と高齢者が多く、中には八十何歳かのおじいさん、おばあさんも熱心にノートを取っているのにまずまずビックリし頭が下がったという。旅の途中で死んだ人もあったと聞くが、まこと、この言葉通りだ。
よくよく考えてみると、日本人ほど、年のとり方の下手クソな人種はないと見てよかろう。
兼好法師の言葉の中に、
されば
道人は、遠く日月を惜しむべからず
ただ今の一念、むなしく過ぐるを惜しむべし

というのがある。
さて、さて、年をとることの難しさよ。

令和5年2月26日 山村暮鳥

ほのかな
深い宵闇である
どこかに
どこかに
梅の木がある
どうだい
星がこぼれるようだ
白梅だろう
どこに
咲いているんだろう

令和5年2月19日 永六輔
  冬の夜 思い出せないこと みっつ
小学校の時、学校で忘れものばかりしていました。
大人になってパーキンソン病です。

令和5年2月12日 黛まどか
   春隣 病めるときにも 爪染めて   黛まどか
まだまだ寒いと思っていても、暦の上ではもうすぐ立春。もうそこまで春が来ています。
この句は十数年前に半年間の闘病をした折の句です。
病床にあっても病に負けず、できるかぎり明るく美しく過ごしたい…そんな思いで、いつも枕元に手鏡を置いて闘病しました。
一度は医師から不治と宣告された病も奇跡的に治り、今こうしてあることのありがたさを日々噛み締めています。
寒い冬のあとには、必ず春がやって来るのですね。

令和5年2月5日 黛まどか
   さうしなければ 凍蝶に なりさうで   黛まどか
凍りついたように動かない真冬の蝶を "凍蝶"と呼びます。この句は、かって入院した折、病床で詠んだ句です。
長く発行し続けていた俳句誌も休刊し、まさに八方ふさがりの状態でした。
それでもなんとか一筋の光を見出そうと、病床で必死にもがく私でした・・・。
そうしなければそのまま凍蝶になってしまいそうだから。
やがて手を差し伸べてくれる仲間が集まり、私は再スタートすることができたのです。

令和5年1月29日 田辺聖子
昔の少年雑誌には時に、堅苦しい漢文風の箴言があった。私はこの、お堅い漢文調の文章が、大人っぽくみえて好きだった。
たとえば 「天は自ら助くるものを助く」 こんな文句は、女の子の雑誌には出てこない。
天は、自分で自分を励まして、志す道に進もうとする、独立独行の意思を持った人間こそ、助けてくれるのだ…・
幼い私は一人で納得して、その凛冽たる気魄に共感した。
自分では、もちろんそんな力などないが、そのきっぱりした男らしい思想に、酩酊していたのである。
そしてこの成句は、少女時代の私の信条ともなった。
長じて小説を書き続けるあいだ、信条として持っていたような気がする。
長編小説を書き続ける、という事業は、荒天のもと、丸木舟でひとり海へのりだすようなものだから。・・・・・
しかも、いまなお、私の漂流は続いている。
そして、いまにして、つくづく思うのは、 「天は自ら助くるものを助く」という示唆への深い懐疑である。ーー
自らを助けんとして必死に戦い抜いても、浮かび上がることは容易でない。
計画、人生的つまづき、 「自ら助くる」 にも限界がある。
かくて私は、人生の終わりに及んで、やっと会得したのだ。そっか!あの格言はマチガイだっ。
「天は自ら助くるものを叩く」

令和5年1月22日 久坂部羊
一般に小児科医は子供が好きな医師がなると思われているかもしれないが、実際はそんな生易しいものではない。
目の前でいたいけな子供が悪性疾患や難病で死んでいくのだ。
私は小児科の経験はないが、麻酔科の時に五歳の子供の眼球摘出の手術を担当したことがある。
手術前日、術前回診で説明に行くと、かわいらしい男の子がベッドの上で無邪気に遊んでいた。
まだ幼過ぎて、翌日何が行われるか理解していないのだ。その横では両親と祖母が泣いていた。
網膜芽細胞腫という悪性疾患で、眼球を摘出する以外に助かる道はない。
しかし、なんと酷いと、思わず動揺したのを覚えている。
自分には子供の患者は診られないと思った。

令和5年1月15日 抗生物質
アレクサンダー・フレミングは細菌を培養する実験をしている時にクシャミをしてしまい、鼻汁がシャーレの中の培地に飛散してしまいました。翌日になると、鼻汁の周囲だけ細菌が増殖していないことに気づいたのです。そしてこれが、鼻汁のみならず涙、唾液などにも広く存在する酵素の働きであることを突き止めました。1922年、酵素をリゾチームと命名しました。
1928年、フレミングは細菌培養に使ったシャーレを流しに放置したまま夏休みに出かけました。休暇から戻ってみると、シャーレのいくつかにカビが生えてしまっていました。しかし、よく見ると、カビの周囲だけブドウ球菌が増殖していないことに気づいたのです。このカビは「ペニシリウム属」という、ごくありふれた青カビの一種であることをつきとめ、カビが作る未知の物質を「ペニシリン」と名付けました。
このようにある種の細菌が別の細菌の繁殖を抑制する現象を「抗生現象」といいます。
抗生物質の歴史は「耐性菌」との戦いの歴史でもあります。微生物は自らを攻撃する薬剤から身を守るために様々な方法で防戦してきます。そして防戦に成功した菌には薬が効かなくなります。これが「薬剤耐性」です。

令和5年1月8日 涙の理由  長野県 藤岳陽子
三年前、娘が、九時間にもおよぶ大手術を二度も乗り越えてきてから、悲しい事があっても、ほとんど涙が出なくなりました。
けれど、悲しい事や、つらい事に負けまいと、一生懸命生きている人を見ると、涙が止まらなくなるのです。

令和5年1月6日 鎌倉ハイキング   横浜市 佐藤ヒサ子(68歳)
秋も穏やかな日に主人と二人、ハイキングに出掛けた。
女子高生にまじって北鎌倉駅下車。
源氏山から銭洗辨天と、尾根づたいに大佛、極楽寺、そして稲村ケ崎。
海の香りをいっぱいに吸いながら、砂に腰を下ろして昼ごはん。
一合の酒を二人で乾杯し、鶏のから揚げとおにぎりの美味しいこと。
波の音を聞いているうちに、子守歌のようで、主人は居眠りを始めた。
私は寄せては返す波の砂にラブレターを書いた。
おとうさん、いつまでも元気でいて、私を連れて歩んでね」 と。
江の島の西に沈む真っ赤な太陽を背に受けて、鎌倉駅方面へと足早に。

令和5年1月5日 寅ちゃんのテキ屋の口上
ものの始まりが一なら、国の始まりは大和の國。泥棒の始まりが石川五右衛門なら、人殺しの始まりは熊坂の長範。スケベーの始まりは、隣のおじさんってぐらいなもの。
続いた数字がふたあーッ ‼ 兄さん、寄ってらっしゃいよは吉原のカブ。憎まれ小僧世にはばかる。日光、ケッコウ、東照宮。
産(三)で死んだか三島のお千、お千ばかりが女子(おなご)じゃないよ。
四谷、赤坂、麹町、チャラチャラ流れるお茶の水、イキな姉ちゃん立ちションベン。白く咲いたかユリの花。四角四面は豆腐屋の娘、色は白いが水臭い。一度変われば二度変わる。淀の川瀬の水車。だれを待つやら、くるくると。
ゴ (五)ホン、ゴホンと浪さんが、磯の浜辺で、ネエあなた、私あなたの妻じゃもの、妻は妻でも阪妻よ。
昔武士の位で禄 (六) という。後藤又兵衛が槍一本で六万石。ロクでもない子が出来ちゃあいけないってんで教育資料の一端として買っていただきましょう、この英語の本。英語はABCから・・、メンソレータムからDDT、NHKにマッカーサー、古いところは全部出てるよ。
続いた数字が七つ、七つ長野の善光寺。
八つ谷中の奧寺で竹の柱にカヤの屋根、手鍋さげてもいとやせぬ。信州信濃のソバよりもわたしゃあなたのそばがよい。
あなた百まで、わしゃ九十九まで、ともにしらみのたかるまで、これで買手がなかったら、右に行って御徒町、左に行って上野!右と左に泣き別れ、さあ、どうだ ‼ ただでくれてやらァ・・・

令和5年1月4日 黛まどか
   熱燗の 夫(つま)にも捨てし 夢あらむ   西村和子
晩酌をしながらくつろいでいる夫の横顔を見ていると、ふいにさまざまな思いが胸をよぎりました。
" この人にも、実はもっと他に夢があったのではないだろうか "。
白髪も目立ちはじめ、良き父、良き夫でいてくれる彼だが、もしかすると家族のために、秘めたまま捨てた夢があったのではないだろうか。
横顔の中の少年に、ふとそんなことを思ったのでしょう。
"ありがとう" という夫への感謝の思いが、句の余白に響きますね。

令和5年1月3日 涙と未来   﨑 南海子
くりかえし涙がおちた人は
やさしさの種をたくさん持つ人
胸の大地はかぎりなく豊かで
かぎりなく広い
種からつやつやの芽が出て
つぼみのひらく未来がまちどおしい

令和5年1月2日 初日の出   愛知県 間島世子
主人が転職したのをきっかけに、主人と二人、"初日の出" を拝むのが恒例となって六年たちました。
千葉の房総半島、駿河湾船上、渥美半島恋路が浜など、主人と腕を組み日の出を待つ長い時間が何とも言えず心良い気持ちで一杯でした。
しかし、主人が急逝し一周忌の法要。その席上、涙が枯れない私に代わり長男があいさつをしました。
"母は父を忘れることが出来ませんが、少しでも淋しさを忘れるように僕たちが努力したい" と言ってくれた。
暮れに長男から電話。"一月一日、長崎のハウステンボス、予約したよ "誰が行くの " "僕とおっかあ二人だけ"
いつのまに、主人のやさしさを覚えたのか、涙が止まらない。
"おっかあ、初日の出だよ、見てごらん " 二千年元日羽田空港、午前七時十九分でした。
  初便り 幼き孫の ひたむきさ

令和5年1月1日 元日
明けましておめでとうございます。
皆様、よいお年をお迎えのことと存じます。
今年も
緋色窯をよろしくお願いいたします。

唐に孫思莫という仙人がいた。
彼は年末が来ると、西域の薬草を井戸の中に放り込んだ。
そして元日の朝、薬味ただようその井戸水を酌んできて、
「さあさ、飲め飲め、一人飲んだら一家年中病なし。一家飲んだら一里病なし」
「ならば」 「ならば」 と、村人たちはその仙人水にあやかりつづけた。
いつとはなくその水は、屠蘇・屠蘇と呼ばれだした。
それもそのはず仙人の住み処は 「屠蘇庵」 であった。
風流か、風雅か。いや、自虐なのか。
屠は殺すこと、 蘇は、よみがえること。

   「雪の中 山の小屋にも 注連飾り

今年は卯年、淡々と路傍の野菊の如く、凛として自由に、そして自分らしく飄々と生きたいと願っています。

*ホームページを開設して23年、工房は27年、穴窯は16年目です。
203年が皆様にとって、明るい年でありますよう祈念いたします。