緋色窯日記 令和七年に続く

令和6年12月31日 晦日
いま、令和七年という年は終わりに近づき、新しい年は回り来ようとしている。
人生は無限に続く選択の連続だ。
私の年になれば、誰も責めることはない。責めるのは人生と運命だけだ。
その場しのぎに生きてきてまた師走

令和6年12月29日 幸せ と辛い
誰かと寄り添って生きるって辛いことでもあるのですね。
「幸せ」 と 「辛い」は似ているから。

静かな夕刻の中、窓の外の夕焼けが赤黒く変わっていく。

令和6年12月22日 佐藤英一
「私は絵描きですが、麻薬を使って生かされている時に描いた絵は、自分の作品として後世に残されたくありません。しかし、癌で苦しみ、のたうち回って苦悩と共に描いた絵は他に支配されない、まぎれもなく私の描いたものと認めることができる。
S先生、私をありのままの私としてこの世を終わらせてくれませんか。辛くてもありのままに生きることを子供たちに示したい。先生がその苦しみは見るに耐えないといわれるなら、死に物狂いで癌の克服にもっと努力すべきだ。苦しみのないところから新しいものは生まれません。世に生みの苦しみというではありませんか」
E子の父親の死は、私に大きな宿題を残した。
「遺品を整理していたら、謹厳実直と思っていた父親が描いた裸婦の油絵が出てきたの。これで父の新しい一面を見て、ぐっと親しみができたわ。でもこの絵、S先生にあげる」
未だ医者としての未熟さに、いつもその「裸婦」に恥じている。

令和6年12月15日 内館牧子
三十歳になった時、私は蓼派のお師匠さんのところに通い始めた。ところが小唄と三味線の難しさは想像をはるかに超えているものだった。お師匠さんの爪弾く三味線に合わせて、私は唄うのだが、その時に必ず言われる。
「あんた粋じゃないね。そうやってベタベタ三味線にくっつくんじゃないわよ。ほんの少しはずさなきゃ野暮でしょうが」
学校の音楽教育はピアノの伴奏に「合わせる」ことを要求される。
小唄はまったく違った。たとえば「夕立ちの」というフレーズを唄う時、三味線のチンで「夕」と唄い、トンで「立ち」、シャンで「の」と合せると言われる。
「ちょっとねえ、行進曲じゃないのよ。チンとトンの間に『夕』と唄いなさいよ」
ところがこれまた難しい。チンとトンの間にピタッと入れて唄うと言われる。
「何だってそう杓子定規なのよ。味も何もあったもんじゃないわね」
三味線はもっと難しい。楽譜らしきものはあるのだが、それに頼ると言われる。
「アンタねえ、楽譜にくっついてちゃ野暮よ。その通りに弾いちゃ味も何もありゃしない。手なぐさみに爪弾く小唄よ。音の長さや拍子は楽譜通りじゃないっての」
つくづく思う。日本文化の「あいまいさ」は面白いと。

令和6年12月8日 ユーモア
七十を過ぎた頃から、私は穏やかな気持ちで過ごすことにやや成功してきた。それは老化によって感情が鈍くなったためかもしれない。感情が鈍磨して自分を責める力が弱くなったのも天然自然の理に違いない。
私はかねがね、八十歳をすぎてなおかくしゃくとしている男性には、二つの共通点があると考えている。
一つは、女性への関心を失っていないこと。というか、女性への関心が旺盛であること。
もう一つは、どこかいたずらっ気のあるユーモアに富んでいること。
昔、長寿日本一の泉重千代さん (118で天寿を全うした) がテレビのジョークをこめたインタビューで、
「おじいちゃんは、どんな女性がお好きですか」するとおじいちゃんは、目をピカリと光らせ、フフと笑ってポツリ、
「年上の人」

令和6年12月1日 浅田次郎
私は自衛官だった二十数年前、一度だけ災害派遣を経験した。
二十数年前の豪雨の夜、マンションのベランダから「市谷は遅い」と叱咤した施設部隊長の声が耳に甦る。

阪神大震災に際しては、自衛隊の第一陣が神戸市内に到着したのは、災害発生から七時間後であり、本格的な部隊が投入されたのは十二時間後であったという。まさに致命的な遅れである。
災害発生時の最重要事項は、人命の救助である。
この取り返しのつかぬ部隊の遅れは、いったいどうした事であろうか。以下勝手な憶測をしてみる。
第一に、自衛隊の最高指揮権者たる内閣総理大臣にまつわる謎である。「被害状況の把握に全力」の首相談話は地震発生から三時間後、この大災害に出動命令が下せなかったのは、1 首相及びその閣僚がひどく楽観主義者ばかりであるか、2 もしくは「出動命令」そのものに本能的な忌避感を持っていたかのいずれかである。
七時間の空白の間に、老いた父母は絶命し、子供らは泣き叫びながら業火に焼かれた。なすすべもなく父母の名を呼び続け、あるいは生ける我が子の上に押し寄せてくる炎をただ呪うしかなかった親には、憲法も自衛隊法も選挙も政争もありはしない。そこには生と死しかなかった。

二十数年前のあの夜、ほんのささいな鉄砲水に対して自衛隊を動かしたのは、田中角栄内閣であった。
私の最も嫌悪する政治家の実力に思い致せば、戸惑いを禁じ得ない。

令和6年11月24日
枕飾りとして飾られる葉っぱ・樒 (しきみ) 。香の強い植物なので、昔から遺体の匂い消しとして葬儀などで使われていました。
樒の実は強い毒性があり、劇物に指定されています。「悪しき実」でしきみという名になったとも
「ひつぎ」という漢字は、空っぽのものを「棺」。遺体の入ったものは「柩」 と書きます。
四十九日が三か月に渡ってはいけないという風習があります。四十九日が三か月(始終苦に血が身に付く)、という単なる語呂合わせ。それで三十五日の繰り上げ法要があるわけです。

令和6年11月17日 老人ホーム
両親は晩年、老人ホームに入居した。
ホームはそこらじゅう年寄りだらけだ。
老いた人、衰弱した人、頭がボケた人、見捨てられた人。
そこは、あの世に行き着く前にたどりつく最期の停留所。
老人ホームを出る時は病院のベッドにかつぎ込まれるか、松材の箱の中に横たわるかのどちらかだ。
老人ホームで両親の姿を目にするたび、私の心は引き裂かれた。

令和6年11月10日 新聞記事 匿名希望71歳
丈夫な母が卒寿を過ぎ、次第に小さくなり病の床に就いた三日目、容体を見に病院を訪れた。
うわ言を言ったようなので顔をのぞき込んだ。母は一つ息を深く吸い込み静かに吐き出し、彼岸へと旅立った。
私も脳卒中による不自由な身で、日頃より「死」に対する畏怖を抱いていた。
だが、死がこんなにも静謐かつ荘厳で決して恐れるものでなく、何も心配しなくていいよと教えてもらったようで、母のほほ笑む顔が脳裏に浮かんだ。
おふくろありがとう。多少不自由な身であるが産んでくれたおかげで四人の孫の顔を見ることができた。

令和6年11月3日 喜寿
書斎でぼんやり座っていると、(やれやれ、本を背負って生きているんだなぁ・・) と、しんみり思うことがある。
背後の書棚に収まった数千冊の本に、じいっと睨まれている気がするせいだろうか。
二十代当時はお金が乏しかったので、買って読んでない本は少なかった。
買ったからにはちゃんと読もうという意欲もあった。蔵書はすべて把握していた。
五十年後の今はもう未読本が増えすぎて、どれが読んでないのか、それどころか、買った本をすべて読もうという気力がない。
たぶん家にある本は一生かかっても読み尽くせないだろう。

私の精神は至って正常 ?、脳ミソは肝臓より健全に機能している。
お迎えの 日までとぼとぼ 茜雲

令和6年10月27日 青空うれし
♪髪のみだれに手をやれば 赤い蹴出しが風に舞う 憎や恋しや塩屋の岬・・・
美空ひばりの「みだれ髪」の歌詞と直筆のサインを刻んだ碑が塩屋崎灯台(福島県いわき市)近くに建てられている。
1990年5月この歌碑の前に佇む一人の紳士がいた。彼は自分と同じ世代に生き、大きな輝きと過酷な運命の両極端を味わった世紀の大歌手、美空ひばりの足跡を偲び感慨に耽っていた。その男の名は青空うれしと言う。
昭和十二年五月横浜生まれ、九歳で初舞台を踏み十一歳で映画初出演。デビュー曲から1931曲、4000万枚のレコードを売り上げた。戦後の暗い世相の中で明るく力強く歌い続け、昭和の幕が下りるのにまるで合わせるかのように逝ってしまった美空ひばり。貴方は正に不世出の大歌手であり、昭和史そのものでした。
国民栄誉賞、レコード大賞、賞とつくものは数えきれぬ程頂いた貴方です。でもそんなもの一つも無くたっていい。せめてその分、後十年生きて、本物の歌を歌い続けてほしかった。と、歌碑の前に立ち紳士は思い涙しました。墓は横浜港南区の日野公園墓地にあり、連日ファンの方々が訪れて冥福を祈っております。墓石に手を合わせたら、「本当はこれでやっと楽になれたの」とお嬢が言っているような気がしましてね。合掌

令和6年10月20日 寺田寅彦
「天災は忘れたころにやって来る」は寺田寅彦の名言。
本屋の店員が本のことを何も知らぬ。「商人が自分の商品に興味を失う時代は、やがて官吏が職務を忘却し、学者が学問に倦怠し、職人が仕事をごまかす時代でありはしないか」。まさしく現代がそうであろう。
寅彦が夏目漱石と出会ったのは、熊本五高生の時、「小弟の二十歳頃から今日迄の二十年間の生涯から夏目先生を引き去ったと考えると残ったものは木か石のような者になるように思います」と学友に書いている。
「私にとっては先生の文学はそれ程重要なものではなくて唯先生其物が貴重なものでありました」
漱石といると、ふしぎに自分が善い人になった心持になる、とも書いている。寅彦の言葉から、
「自分の持っている定規に合うように人を強いる事を親切と心得ている人がある。こういう人の定規は不思議に曲がっていることが多い」「ある問題に対して、『ドウデモイイ』という解決法のある事に気が付かぬ人がある。何事でもただ一つしか正しい道がないと思っているからである」「物事に対して『ツマラナイ』と云うのは『自分はその物事の中にツマルある物を発見する能力を持たない』と自白するに過ぎない」

令和6年10月13日 鴨居羊子
鴨居の新しい下着が、世間の耳目を集めたのは、命名の奇抜さにもあるだろう。
彼女は美術家志望だった(弟は画家の鴨居玲である)。
戦後、新聞記者となるが、突然、記者をやめた。「私は何でもいい、金づちでも、ナベでもいい。ものをつくる方になりたかった。他人がつくったものを批判するのは、私自身はもうたくさんだ」
なぜ下着を作るようになったのか。「ヒフのすぐ上にヒフのように着る一枚の布地。人間が動物とちがって道具を考え出したときの、もっとも初原始的な衣類。一枚の布地がその人にどんな影響を及ぼすのか、考えるととても面白い」
しかし、小売店からは非難された。黄色は鬼門だし、紫は失恋色、緑は囚人色だと決めつけられた。
これら既成の常識を打破するのが、鴨居の革命だった。

令和6年10月6日 鴨居羊子
昭和三十年十二月八日の毎日新聞大阪版に、こんな広告が載った。「W・アンダーウェアー展」と横組みで、
「ズロース、シュミーズ、ペチコート、それからガーター!、これらは男の耳に魔術的にひびく言葉です。ところが、パンツ、シャツ、ヴェスト、こりゃどうでしょう、情緒中枢にぴくりとも電気が伝わってこないじゃありませんか」
広告主は、「チュニック製作室 鴨居羊子」。
彼女の最初の個展で、日本女性の下着がこの時から一変した、といってよい。下着の革命と同時に女性の意識の革命であった。先の個展の宣伝文に、こうある。「下着は白色にかぎるーーときめこんだり、人目につかぬようにと思ったり、チャームな下着は背徳的だと考えたり、とにかく清教徒的な見方が今までの下着を支配してきました。こうした考え方に抵抗しながら、情緒的で機能的なデザイン、合理的なカッティングなどをテーマに制作してみました」
鴨居の「革命的な下着」とは、次のようなものである。愛称も、彼女の造語である。
スキャンティ(股ぐりが深く、少量の面積で機能を果たす。脚が長く見え、太った人でも股ぐりの斜線のため脚が入りやすい。色はあらゆる色を使い、レースより飾りゴムをつけた)
ペペッティ(スキャンティよりも面積が小さい。バタフライのようなもの)
クロスティ(男のフンドシに似たもの。透明なナイロン製。体を十字にクロスする)
ココッティ(以上の下着をつけた上にはく。保温のためのタイツ式パッチ)
パチコート(パッチ式ペチコート)その他。 続く

令和6年9月29日 藤原正彦
私は小学校四年生頃、デ・アミーチス作の『クオレ』を読んだ。
イタリアの小学校の日常を通して、勇気、友情、惻隠、卑怯、家族愛、祖国愛などを描いた名作である。
中に「母を訪ねて三千里」「難破船」など、感動の物語がいくつか挿入されている。
私はこれを涙を流しながら何度も読み返し、大きく感化された。
この読書で感動とともに胸に吸い込んだものは、五十年近くたった今日に至るも消えず、私の情緒の一部となっている。
少年の頃に読んだ本が半世紀を経てなお息づいているのである。
余談だが、三十代の頃、ある雑誌に「幼少期に読んでもっとも影響された本を再読して感想を書け」という原稿を依頼された。『クオレ』を取り出して読み直してみた。
さほど感動しなかった。私はこの時、「小学生の時に読んでおいてよかった」とつくづく思った。
しばらく前のことだが、少年少女世界文学全集といったシリーズの広告に、「早く読まないと大人になっちゃう」という文句が添えてありほとほと感心したことがある。読むべき本を読むべきときに読む、というのが重要で、この時を逸し大人になってからではもう遅い。
情緒を養ううえで、小中学生の頃までの読書がいかに大切かということである。

令和6年9月22日 一去一来
一去一来、いい言葉です。好きな言葉です。
一つが去って、一つが来る、なんてとても暗示的です。
春がきて春がゆき、夏がきて秋になり、秋がいって冬になり・・これみんな一去一来である。
老人が死んで、赤ん坊が生まれ、星が消えて太陽があがる・・これまた一去一来である。
それを思うと、一去一来は哲学的である。
自然の輪廻も、人生の流転も、一去一来のくりかえし。
一去一来にはなにやら仏教の匂いを感じる。


門を出れば 我も行人 秋のくれ。

令和6年9月15日 乾杯 矢田部厚彦 (前駐仏大使)
ところで普通、スピーチは「乾杯」で締め括られる。
日本式ではスピーチがどんなに長く退屈でも、終わるまで喉の渇きを我慢して待たなければならない。
乾杯という儀式が絶対的な権威を持つ日本・中国などではそうだ。
しかしフランスでは、主人の試飲した酒が注がれた後は、各自思いのままに飲み始めてかまわない。
つまり「乾杯」で「用意ドン」しないと宴が始まらない日本では、スピーチを初めにやるのが便利だし、その必要のないフランスでは、デザートを食べながらゆっくりとスピーチを聞いて、最期に乾杯して席を立つのが自然の流れということになる。
乾杯の本家である中国では、マオタイ酒が出たときは、誰かに「先生乾杯」と誘われるか、こちらから「乾杯」と誰かを誘ってからでなければ、一人勝手にチビリチビリ杯を口に運ぶことは許されない。
「乾杯」と杯を向けられた者は、乾杯に応じて自分の杯を差し出すとき、へり下った気持ちを表すために相手の杯の高さより少し下へ持って行く。すると相手も同じように出された杯より低く下げる。果ては床に届いてしまうことになるので、虚礼廃止のため、二つの杯をテーブルの上に置いてカチンと合わせるのだそうだ。礼の国ならではの話だろう。

令和6年9月8日 スピーチ 矢田部厚彦 (前駐仏大使)
スピーチは初めにするのが日本の習慣、欧米では、スピーチはデザート時に行われるのが通例だと思う。
どちらが良いとか正統とか言うのではない。だが、そこにはスピーチに対するものの考え方の違いがあるような気がする。
つまり肩の凝ることは早く済ませ、あとは寛ごうと考えるか、あるいは楽しみを最後までとっておこうと考えるかという違いだ。世の中には、エスプリ溢れる弁舌によって大いに喝采を博したいと満を持している人士も少なくないのであって、この人たちにとっては、美味しい食事と酒で口腹を満足させた上で、おもむろに取っておきの楽しみに取り掛かるというわけだから、日本式では楽しみも半分になってしまうようである。
晩餐会の演出としてハイライトを初めに置くか、終わりに持ってゆくかの問題ということになろうか。

令和6年9月1日 岡田喜一郎
淀川長治さんの講演にはテレビなどでは味わえない迫力があった。
「今日が四月十日としましょう。十日という日は一年に十二回しかありません。四月十日は一年に一回だけ、今日を逃がしたら一年先にしかやってきません。一九九八年四月十日という日は、一生のうちで今日しかありません。かけがえのない一日です。だからいい加減に無駄に過ごすわけにはいきません」
これは淀川さんの大好きな言葉で、講演の定番メニューになっていた。
一九九八年五月、早大の大隈講堂でご自身の映画人生について語った。
それから半年後、淀川さんは「話芸」という宝物をもって逝ってしまった。
愛用の手帳には細かい字でスケジュールが書き込まれ、一日が無事に終わると赤鉛筆で大きく×印の線を引いて消しながら、ため息まじりの笑顔で言った。
「ああ。これで一日が終わった」
今でもあの手帳がわたしの目に焼きついてはなれない。

令和6年8月24日 白拍子静
ヒーローが真のヒーローとなるには、強いだけでは不十分で、悲劇という荘厳が必要らしい。
戦いの現場では勝者こそ英雄だが、後世の歴史は敗者に同情の涙を注ぎ、その涙が敗者を英雄として育んでいく。
ギリシャの戦士アキレスは弱点である足の腱を射られて敗死する。三国志の豪傑関羽は虜囚となって斬首される。
しかし、その悲劇的な死こそが彼等を時空を超えた英雄たらしめる大きな要因だ。
その点で、義経ほど英雄らしい英雄の条件を備えている日本史上の人物は稀である。
武人として平家追討を果たした赫々たる功業、そして一転して実の兄から追われる身となり、ついに武蔵坊弁慶らと炎のなかで滅び去る。その悲運の物語を彩る母の常盤、愛妾の白拍子静。
静は捉えられ、鎌倉で、頼朝、政子夫妻の前で、鶴岡八幡宮に献じて踊りながら吟じたのが「しづやしづしづのをだまきくりかえし、昔を今になすよしもがな」だ。「しず」は倭文で、模様のある織物、「をだまき」は苧環で、玉状に麻糸を巻いたものである。古歌に自らの名前と運命をかけたこの歌は、政子以下、聞く人々を深く感動させ涙を誘ったという。
義経を想う悲しみの静が舞った鶴岡八幡宮には、本殿に至る階段の手前に舞殿が建てられている。その建物を見るとき、ひとりの武人と彼を愛した女性に対して、長い歴史の中で民衆の心が培ってきたイメージの力に思いをいたさないわけにいけない。

令和6年8月18日 病気
病気がつらいと健康な人が羨ましい。
でも病気を抱えていると、さりげない言葉、そっと差し出してくれる手、そんな優しさが胸に響く。
私は病気を通して、心が敏感になりました。
相変わらず一日一日を精一杯過すだけの毎日ですが、生きられるだけ幸せです。
そして、出逢いや周りの人達の温かさに感謝しています。
『自分ばかり』と妬まず、今の身体を愛おしく思おう。精一杯生きよう。
無駄な命はないから、一筋の光を信じて頑張ろう。
部屋に広がる静寂(しじま)のなかで、待っていたように涙が頬を伝わった。
誰のための涙なのかは、わからなかった。

令和6年8月16日 阿久悠
昔、国が竹槍で戦えといった
今は、国民が竹槍でいいといっている

戦争から六十年、とにもかくにも平和な時代が続いた。心が平和であるかということは別にして、戦争がないという意味では、奇跡的に平和であった。僕らは、戦争から目を逸らすことが平和だと考え、ひたすら経済の復興に励み、それはある程度成功したが、平和を獲得したわけではなかった。平和といっていると平和が存在するような、甘い体験をしてしまった。そして、それが六十年も続いた。
もはや、平和のために何かをするという意識はなくなり、観念として平和を語るだけになった。
その昔、「竹槍を持って戦え」と国が叫んだ言葉が、六十年の平和の後、国民の心の中に移行したように思えてならない。
つまり、普通の人々が戦争から目を逸らし、それが平和だと思えた時点で、「国を守るのは竹槍で充分じゃない?」と考え始めたのではないかということである。
水も安全も有料、平和だけが最後に残された奇跡の支給品と思っていいのだろうか。竹槍でOKなら天国だけど。

令和6年8月15日 吉田武彦 歴史学者
おやじは広島の旧制中学の英語教師でした。堅物で、口答えすると 「空なこというな」と一括されたものです。
私は、粘り強いが融通のきかないおやじを内心で軽蔑していました。
見る目が変わったのは戦後五・六年たってからです。長野県の高校で、教職についた私は、教え方について悩んでいました。そこで「授業を見せてくれないか」とおやじに頼んだのです。
口下手な人ですが、名人芸といってよい、すばらしい授業でした。「職人」という言葉が頭をかすめました。
おやじを軽く見ていた自分を恥じました。
敗戦の年、おやじは旧制広島ニ中の校長でした。広島平和公園にある二中の生徒の死を悼む記念碑には、
「なぐさめの ことばなければ ただ泣かん 汝がおもかげと いさを(功)しのびて」というおやじの歌が刻まれています。なぜ、むなしい死を遂げた生徒たちに「いさを」という言葉を使ったのか、長い間の疑問でした。
数年前に対馬で、元寇で死んだ元側の兵士の墓に手を合わせている老婆を目撃し、この歌をふと思い出しました。
おやじの歌も、老婆の祈りも、歴史の背後にあって、歴史そのものを生み出す母体、名もない「人間の海」に向けられたものではなかったのか。はっきりした答えは出ていません。永遠の宿題になるでしょう。
咲く花は皆咲きみちて夏隣    択捉島にある大正時代の句碑

令和6年8月11日 フランキー堺
フランキー堺が主演した昔のドラマ「私は貝になりたい」。
全く平凡に、つつましく生きていた理髪職人が、戦争で一兵卒として徴される。
彼は戦地で、上官の命令により、敵の捕虜を刺殺させられる。
戦後、この行為を咎められ、戦争犯罪人として、いわゆる戦犯法廷で絞首刑の判決を受ける。
彼の遺書に、今度生まれてくる時は人間でなく、私は海の底の貝になりたい、とあった。
戦争が終わって無事に帰国し、妻子とささやかな床屋を開いていた彼は、ある日突然、逮捕されるのである。
このようなことは昭和二十年から二十三年頃まで全国で見られた。私たちは戦犯というと東条英機以下、表舞台で活躍した要人の顔を思い浮かべるが、数の上から言えばドラマの床屋さんのような庶民が多かったのである。
軍隊では上官の命令は天皇陛下のそれに等しいといわれていた。捕虜を殺せと命じられても、いやとはとても言えぬ。
抗命罪に問われる。
戦争が終わって、むろん、命令を下した上官も逮捕され、裁判にかけられた。しかし中には軍人らしからぬ者もいた。
「かっての上官は証人台に背をまるめ満面紅潮して偽りを述べる」

令和6年8月4日 渡辺隆次
「絵かき屋さんはなんと考えるかしらんけんど、おっかあとキャラブキの鍋の前(めえ)でいろいろ人間についてケントウ(検討)したさ。ムスメはそんなケントウは無意味だって笑うが、ヒトは死んだら何処へ行くのかってね。この年になるまで、おらあ考(かんげ)えたこともねぇ。兵隊のときもそうだった。赤紙が来ちまったから行ったのさ。仲間もうんと死んだ。オレの眼の前(めえ)で木の根っこをしゃぶりしゃぶり死んだもんもいる。死んじまったんだから何処にいようもねえのに、いまっころになってよく考える。野ブキを手でへし折っているとき、おらあ急にわかったことがある。こうして生きているから、足腰の大変(てえへん)なのもかまわず、野ブキを採りに上り下りの土手や畔を歩き回る。笑うかもしらんけんど、この春、おらあ死んだヤツラが、フキノトウや野ブキのなかにいるってことが、ハッキリわかった。なあんだ、こんなところに隠れていやがったのか、ってね。あっちからもこっちからも、やいオレを食っておくりょ、って言う声を、この耳で確かに聞いたんだ・・・」しゃべり終えた柾さんは、一瞬、ひとみが兵隊の眼を光をおび、ぼくを見つめる。そして、一つ大きく息を吐き、来た時と同じように挨拶もそこそこに、カエルの啼き声の轟く闇のなかへとかき消えた。

令和6年7月28日 暑中見舞い 埼玉県 田中愛子
あせらなくてもいいけど
がんばらなくてもいいけど
あきらめないでほしい

私が病気で落ち込んでいたとき、主治医の先生から届いた暑中見舞いに、この言葉が書いてありました。
先生のさりげない、なにげない優しいお便りが、私には大きな救いです。

令和6年7月21日 米原万里
イタリアで活躍する工業デザイナー、ナンシー・マーティン女史の講演より。
こうして、皆さまは私の講演を聴きにいらしてくださっているけれど、耳から入る情報への定着率は、わずか10%です。眼から入る情報の定着率のほうが高く、30%といいますから、これからスライドをお見せいたしましょう・・・。
そして、自ら体験、経験したものの定着率は、最も高く、80%にも達します。ですから、講演を聴いたり、本を読んだりするのもさることながら、ご自身が直接試みることがぜひとも必要です。
というわけで、私の話はこの辺で打ち切り、隣のホールで皆さまお一人お一人が直接参加されるワークショップのほうへ移っていきたいと思います。

令和6年7月14日 米原万里
たちどころに患者の病名を言い当て、適切な治療法を施すのが名医だと思われがちだ。
医師による誤診に次ぐ誤診で、父の死期を早めらられてしまうまで、私もそう思っていた。
しかし、どうやら、優れた医師というのは、決して最終的診断を下すのを急がないらしい。
ひとたび診断を下し、病名を確定してしまうと、それに呪縛されて、患者に生し得る、診断を裏切るようなさまざまな症状を見落としてしまいがちになるからだという。
まあ、よくよく考えてみると、病名に限らず、森羅万象を言葉によって表現すること、いうなれば物事を命名するという営みには、常にそういうリスクがつきまとう。

令和6年7月7日 国語は論理的思考を育てる 藤原正彦
アメリカの大学で教えていた頃、数学の力では日本人学生にはるかに劣るむこうの学生が、論理的思考については実によく訓練されているので驚かされた。大学生でありながら(-1)×(-1)も出来ない学生が、理路整然とものを言うのである。議論になるとその能力が際立つ。相手の論理的飛躍を指摘する技術にかけては小憎らしいほど熟練しているし、自分の考えを筋道立てて表現するのも上手だ。これは学生だけでなく、暗算の出来ない店員でも、話してみると驚くほどしっかりした考えを持っているし、スポーツ選手、政治家などのインタビューを聞いても、実に当を得たことを明快な論旨で語る。
これと対照的に日本人は、数学では優れているのに論理的思考や表現には概して弱い。日本人学生がアメリカ人学生との議論になって、まるで太刀打ちできずにいる光景は、何度も目にしたことだった。語学的ハンデを差し引いても、なお余りある劣勢ぶりであった。
科学技術で世界の一流国を作り上げた優秀な日本人が、論理的にものを考えたり表現する、というごく当たり前の知的作業をうまくなし得ないでいること。それが彼等にとってはとても信じられないことだったのだろう。

令和6年6月30日 控え目
昭和一桁の東京で八年間をすごしたイギリス外交官婦人のキャサリン・サンソムは、著書の中で日本女性の控え目と優雅を絶賛している。とりわけ女湯における女性の身のこなしを完成された芸術とさえ評した。
これを見るのは無上の喜びとまで言った。
そんな彼女にある時、日本紳士が「ご主人は長く日本に住んでいらっしゃるから美術品をたくさん収集されたでしょう」と尋ねた。「残念なことにそのほとんどが大震災で焼けてしまいました。
あれもこれも」と彼女が嘆くのを紳士は深い同情を示しながら聞いていた。
婦人は大いに慰められたが、ふと気になって、「あなたは何か失いませんでしたか」と逆に尋ねた。
紳士は「妻子をなくしました」と言い静かに微笑んでいた。
イギリス人も舌を巻いた日本紳士の「控え目」だった。

令和6年6月23日 渥美清最後の日々 篠原清治
音羽カメラマンが亡くなったのは、1995年10月のことです。
翌日、渥美さんは葬儀に出席して、再び撮影所に戻ってきました。
そして、控室で私と二人だけになると、ポツリポツリと葬儀の様子を話し始めたのです。
「なあ、シノ、オレはいままでいろんな役者と付き合ってきたけど、どんなに親しくなっても、葬式に行ったことはないんだよ。いつも家でお線香を上げて、両手を合わせるだけなんだ」
「そうですってね」
「でもな、今度の葬式に行ってな、見てると、いろんな人がお棺の中を覗くんだよ。そのとき、ふっと思ったね。オレが死んだら、やっぱりみんなに、こうやって見られるのかいってね。いやだねぇ、本当にいやだ。オレはどれだけよく知っている人にでも、そんな顔は見られたくない」この言葉は「家族だけで看取れ」と言い残した渥美さんの「遺言」と重なります。
渥美さんが亡くなった後、最初に連絡を受けたのは山田監督でした。でも、監督が駆けつけたとき、渥美さんはすでにお骨になっていました。渥美さんは、見事に、生前考えていたとおり、自らの死にざまを全うし、死に対する自らの美学を貫いたのです。

令和6年6月16日 夕焼け小焼けの赤とんぼ 愛媛県・萬家幸枝 24歳
父の涙をはじめて見たのは、私の結婚式の日だった。
泣きそうだから、挨拶するのやめようかなと思ったが、やっぱりと思い部屋の戸をそっと開けた。
父は「赤とんぼ」の歌を小さく口ずさんでいた。驚いた。
三歳の時、父はよく私を公園に連れて行ってくれた。
私は大好きな赤のセーターを着て、赤のズボン、赤のつっかけを履いて父と歩くのが大好きだった。
そのとき、いつも二人で歌っていたのが「赤とんぼ」だった。
何もいえなかった。父もあのときのことを思い出していたのだろう。
私に気づいた父は、「赤とんぼの歌、好きじゃったのう」 と、こらえていた涙をいっぱいにためて笑った。
「ああ、愛されていたんだなあ」 とあらためて痛感した。
ありがとうお父さん。

令和6年6月9日 赤とんぼ
作詞 三木露風 作曲 山田耕筰
♪夕焼け小焼けの 赤とんぼ
負われて見たのは いつの日か

三木露風が五歳のとき幼稚園から帰ると待っていたのは、おばあさまでした。父母の離婚による大好きな母との別れ。
小学校のときにつくった俳句、
「赤とんぼ とまっているよ 竿の先」が、のちに北海道のトラピスト修道院で教師として過ごす何年間かの月日の中で、あの童謡「赤とんぼ」の歌詞づくりへと導くのです。
詩の中に「母」という文字は一つも出てきません。「負われて見た」というくだりも、世話をしてくれた姐やの背であるという資料が残っています。しかし、「どうして母さんは、行っちゃったの ? どうすれば母さんは戻ってくれるの」
どうにもならない寂しさを五歳の男の子が小さな胸にしまい込んで、真っ赤な夕日のなか、涙ににじむ赤とんぼをただ独り、膝を抱えて見つめる幼い子。家を出て行ったときの母の歳をすでに上回り、露風は「赤とんぼ」を発表しました。
♪ 夕焼け小焼けの 赤とんぼ
とまっているよ 竿の先
ねぇ母さん
と歌詞の最後に、やさしく語りかける露風の声が聞こえてくるようです。

令和6年6月2日 武士語でござる
武家の頂点である将軍は大名から、「上様」呼ばれ。庶民は「公方様」、幕臣は「寄らば大樹の陰」で「大樹公」と呼んだ。
大名は「殿様」と呼ばれ、御家人は「旦那様」と呼ばれた。旦那の語源はサンスクリット語で布施を意味する「ダーナ」で、寺に布施を与える人も指すようになり、「檀那」と表記されるようになった。
将軍の正室は天下の台所を支配するという意味から「御台所」といい、略して「御台様」と呼ばれた。
御三家の正室は、簾の中の貴婦人という意味で「御簾中」大名の妻は「奥方様」、御家人の妻は「御新造様」、庶民の妻は「お内儀」や「おかみさん」である。

令和6年5月26日 武士語でござる
好色
「色」という字や言葉はもともと、色彩、顔色などの外見の美しい様を指し、女性の容色の美しいことをいうようになった。
美しい女性に引きつけられる心情を「色情」といい、色情の相手となる異性を「いろ」という。
恋愛とか情事を色事といい、それが好きな人を「好色」という。
艶(なま)めかしい
もともとは、未成熟で初々しく、まだ「生(なま)」である部分が残っていることを「艶めかしい」といった。
これには優雅である様子も含まれていたが、やがて、女性のあでやかで美しいこと、色っぽさを示す言葉になった。

令和6年5月19日 武士語でござる

会話の相手になることを「伽をする」といい、その時に語った話が「お伽話」である。
豊臣秀吉は足利十五代将軍義昭などを「お伽衆」として侍らせたが、これは政策相談役である。
時代劇では権力を持つ者が、若い娘に「伽をせよ」というが、これは同衾する意の「夜伽」の略である。
ぬれぎぬ
身に覚えのない罪を「ぬれぎぬ」という。これは、義理の娘の美しさをねたんだ義母が、夫に、娘には若い漁民の恋人がいると告げ口し、娘の部屋に水に浸けた漁民の着物を置いた。父がその着物を見つけ、話も聞かずに娘を殺してしまったという故事からこの言葉が生まれた。

令和6年5月12日 母の日
♪母の声かと ふりむけば 忘れ花 遠藤若狭男
亡き母の声をふと聞いたような気がした作者です。
はっとして振り向くとそこにはひっそりと時ならぬ花が咲いていました。
なつかしさと寂しさの象徴のように忘れ花が冬の日溜まりにあります。
忘れ花は、"返り花" "帰り花"などの別称がありますが、この句の場合は忘れ花がよく合っています。
「私はいつもあなたの近くにいて見守っていますよ」・・そんな母の思いを託されて咲き出でた忘れ花です。

令和6年5月5日 久世光彦
終戦直後、釜山から対馬海峡を渡って帰る、すし詰めの引き上げ船の中で、食物のことで男たちの間で喧嘩が起こった。いまにも血を見るというとき、両眼を汚れた布で覆ったお婆ちゃんが、つぶやくように歌いだした。「朧月夜」だった。周りの何人かがそれに合わせ、やがて歌声は船内の隅々まで広がっていった。争っていた男たちが、最初に泣き出した。みんな泣いていた。二番が終わってまた一番に戻り、「朧月夜」はエンドレスに続いた。

  菜の花畠に 入日薄れ  見わたす山の端 霞ふかし
  春風そよふく 空を見れば  夕月かかりて におい淡し
  
里わの火影も 森の色も 田中の小路を たどる人も
  蛙のなくねも かねの音も さながら霞めむ 朧月夜

見えない目の裏に、お婆ちゃんが思い描いた日本の原風景。間もなくその土を踏む故国は秋である。
けれどお婆ちゃんは、春の菜の花畠を思った。太陽ではなく月を見たかった。

「朧月夜」は詞・高野辰之、曲・岡野貞一によって作られ、このコンビによる唱歌はほかに「故郷」「春が来た」「春の小川」「紅葉」などがあるが、文部省唱歌の名のもとに、二人の作家の名前は長い間世の中に知られなかった。

令和6年5月4日 尚半 北林谷栄
だいぶ昔、うちに居た犬は可笑(おか)しなやつで、何か失敗をすると股の間に顔を突っこんでしまい、ほとぼりがさめるまでその恰好をやめない。駄犬の羞恥というのは不憫なものだった。彼奴(そやつ)の気持ちもわからないではないという気分を味わったのは、ごく最近のことだ。
今年の初夏、映画のロケーション撮影で吉野山の奥に長期滞在したときである。
緒形拳さんと部屋がむかいあいになり、お茶などを共にする機会があり、その際緒方さんから何か好きな言葉を書いて、と軽く言われて軽くその気になったのが右の駄犬シュウ太郎と同じ姿態に私を追い込む破目になろうとは。
好きな言葉は考えるまでもなく、すぐに出てきた。ーー「以紅専深」。
1960年、初回に新中国にお招きを受けたとき、賓館の壁に見た清雅な書の一句だ。
撮影も終わり、緒方さんは数日後に中国のほうに出発されると聞いて、私も何か書いていただきたいと願った。
場所柄吉野の手すきの紙を探し求めた。
緒方さんは良い字を書く方で、中国製の古陶らしい美しい小さな陶硯と本式の筆を座右に用意しておいでなのを私は見とどけていたから。
その後ニ、三ヵ月たった、つい先日緒方さんから"れい"の吉野の手すき紙がヒラリと一枚送られてきた。
前後無言、ただ紙の中心に淡い墨色で「尚半」と、それだけである。
尚なかばなり。何という上質な風韻のことばだろう。
私は自分の書いた例の「以紅専深」を閃光のように思い出した。真ごころを以て道を深めたい。
深めたいとは何だ。私のような者が猪口才にも大まじめで、そんな口真似をしたことの恥ずかしさよ。
緒方さんの「尚半」の前に、私は後肢の間に顔を突っこまねばならなくなった。
シュウ太郎の真似をして、私もほとぼりのさめるのをしばらく待って、これからは尚半、尚半とつつしんでこれにしたがうよりみちはないだろう。
自分の言葉を見つけるまでは。

令和6年5月3日 ネパールのビール 元NHK特別主幹
昭和六十年の夏、私は撮影のためにヒマラヤの麓、ネパールのドカラという村に十日あまり滞在していた。
大汗をかいて一日の撮影が終わったとき、目の前に清冽な小川が流れているので思わず言った。
「ああ、これでビール冷やして飲んだら、うまいだろうなあ」と。
私が口にしたその禁句を聞きとがめたのは、村の少年チェトリ君であった。
「いま、この人は何と言ったのか」と通訳に聞き、意味がわかると目を輝かせて言った。
「ビールが欲しいなら、僕が買ってきてあげる」「・・・どこへ行って?」「チャリコット」
チャリコットは、私たちが車を捨ててポーターを雇った峠の拠点である。
チャリコットまでは大人の足でも一時間半はかかる。「遠いじゃないか」「大丈夫、真っ暗にならないうちに帰ってくる」ものすごい勢いで請け合うので、サブザックとお金を渡して頼んだ。
張り切ってとびだして行ったチェトリ君は夜八時ころ五本のビールを背負って帰ってきた。私たちの拍手に迎えられて。
次の日の昼すぎ、チェトリ君が、「今日はビールは要らないのか」と聞く。嬉しくなって、きのうより大きなザックとお金を渡した。チェトリ君は、きのう以上に張り切ってとび出して行った。ところが夜になっても帰って来ない。夜中になっても音沙汰ない。事故ではないだろうか。村人は「そんな大金を預けたなら、逃げたのだ」と口をそろえて言うのである。
あくる日も帰って来ない。その翌日の月曜日にもなっても帰って来ない。
歯ぎしりするほど後悔した。日本の感覚で子供に大金を渡してしまった。あんないい子の一生を狂わした。
三日目の深夜、宿舎の戸を烈しくノックされた。戸を開けるとそこにチェトリ君が立っていた。
泥まみれでヨレヨレの格好であった。
チャリコットにビールが三本しかなかったので、山を四つも越した別の峠まで行ったという。
十本買ったが、ころんで三本割ってしまったとべそをかきながらその破片を全部見せ、そして釣銭を出した。
彼の肩を抱いて私は泣いた。近頃あんなに泣いたことはない。
そしてあんなに深く、いろいろ反省したこともない。

令和6年4月28日 老子 細川護熙
年を重ねるにしたがって、私は孔子よりも老子に惹かれるようになりました。あえていえば、『論語』 が日々の生き方を目に見える形で教えてくれるのに対して、『老子』 には、目に見えるものの背後、目に見えないところを照らしてくれるような趣がある、と思うようになったのです。
「老子」 の 『道徳経』 (通称 『老子』) は、わずか五千字ほどの短いものですが、一字一句の中に詩的な美しさがあり、一つの生命から宇宙までをも包み込むような大きさと深さを感じます。読む者の解釈によって、それぞれの生き方に引き寄せて読むことを許す奥行と幅があり、自然体で自由な感覚を秘めているようにも思います。
「大巧は拙(つたな)きがごとく、大弁は訥(とつ)なるが如し」
本当に巧みな技を持っている者は未熟者のように見えるものだとし、人の心をつかむ弁舌というものは決して流暢ではない。むしろ口ごもりつつ話すものだ。
「知るものは言わず、言うものは知らず」
物事を深く知っている人はむやみにそれを口にしない。あたかもよく知っているかのように話す人は、むしろ本当のことが分かっていない。
「善行は轍迹(てっせき)無し」
道にかなった優れた行動をする人は、ことさら痕跡を残したりしない。
周の国勢が弱まり徳が衰えるのに絶望して、老子は函谷関を越えて西方に去りました。
函谷関から西安に向かう途中にある華山は、老子を祖とする道教の聖地として名高い山です。
私が訪れた日は雲霧に包まれていました。
霧の中で大きな山容が見え隠れし、全容はうかがい知ることはできませんでしたが、私にはそれこそが、二千年以上にわたって中国人の魂を和らげる役割を果たしてきた老子を想うに、ふさわしい光景のように思われたのでした。

令和6年4月21日 石川節子
石川啄木の妻、節子はいつも待つ女だった。盛岡で小樽で函館で、彼女はただ待ち続ける。
「子を背負いて 雪の吹き入る停車場にわれ見送りし妻の眉かな 」と啄木が詠んだ彼女は、彼と同じ年で故郷も同じだった。二人は十四歳で盛岡で知り合う。神童と美少女だった。
バイオリンを弾き英語を話した節子は、親の反対を押し切って十九歳で啄木の妻となる。しかし、赤貧と待つだけの日々だった。七年の生活で、共に暮らしたのは五年に満たない。姑との確執に苦しみ、秋風の中、娘の手を引いて盛岡の実家に帰った日もある。だが啄木の才能を信じた彼女は、姑から移された肺病の体を引きずって夫を支えた。ただ待ち続け、二人の愛を守った節子は、啄木の死後一年目に倒れ、札幌の病院で息を引きとった。享年二十八歳。
病室の窓から見える景色を詠んだ歌が悲しい。
  区役所の屋根と 春木(薪)と大鋸屑(おがくづ)は わが見る外の すべてにてあり

令和6年4月14日 北条の方
  黒髪の みだれたる世ぞはてしなき
    思いに消ゆる 露の玉の緒
北条氏政の妹だった彼女は、十四歳で小田原から武田勝頼の元に嫁いできた。
やがて、有為転変は世の習い、武田は織田・徳川軍に破れ、最期に勝頼に従うものはわずか四十三人だった。
天目山を目指す雪の中、高熱のため歩けない公子は勝頼の先妻の嫡男、信勝に背負われていた。信勝十六歳。
最期に勝頼は、公子に兄の元へ返れと諭すが、彼女はその悲しみを歌に詠み、夫と共に自害して果てた。
天正十年三月十一日 自害。享年十九。
戦いすんで六年目、徳川家康によって菩提を弔うため建立された恵徳院。
昔のままの苔むした山門が、老いた武将のように一族の墓を見守っている。

令和6年4月7日
山小屋には十種類の桜が、四月から次々に咲く。白・薄紅色・赤・緑の花がこぼれんばかりに咲く。
「花守」という言葉に惹かれるものがあり、これからは花守人になって暮らそうと思ったりする。

令和6年3月31日 愛知県 平山美智子 47歳
それは、食道と胃を全摘という過酷な診断でした。
どのように自分を見つめ、どう病気と向き合えばよいのか分からなくなり、涙がとめどもなく零れ落ち、胸が押し潰され、厳しい現実を突きつけられ、眠れない毎日。
そんなある日、主人は一本の高級ワインを大事そうに抱えて帰ってきました。
結婚記念日にも、誕生日にさえも花の一本、ケーキの一個も買ってこなかった人なのに、このときばかりは真剣な顔をしていました。そして、「君に買ってきたんじゃない。君のその胃に感謝するためだよ」 って。
私の胃は、美味しいお酒も、旨いアルコールの味も知りません。それを知ってか、主人は心底心配し、どう接すればいいのか、心の整理がつかなかったのだと思います。
主人の精一杯の思いは、蟠りだらけの心の扉を開かせてくれました。
健康であるという当たり前のこと。食事ができるという当たり前のこと。
当たり前のことが当たり前でなくなったとき、改めて気づくありがたさなのかもしれません。
ありがとう、あなた。世界一幸せ者です。

令和6年3月24日 おんぶひも 千葉県 山本まり 32歳
秋晴れの午後、首がすわったばかりの息子をベビーカーに乗せて散歩した。
外の空気は久しぶりだなと、リフレッシュしかけたところで息子がぐずり泣き始めた。
ベンチに寝かせ、おんぶひもでおんぶしようとしたが、慣れないため苦戦。すると、
「手伝いましょうか?」と五十代くらいの女性から声をかけられた。
「いえ、大丈夫ですから」と、余計なお世話といった顔で突っぱねてしまった私。
室内で母子だけの日々、友達もできず心が閉じていた。
しばらくして別の女性が今度は無言で助けてくれた。が、私は素直に礼を言えず、そそくさと立ち去ってしまった。
帰宅後、息子を寝かせて、お茶を飲んだら涙があふれた。
どうせここは殺風景な都会だし、と他人の親切などあてにしていなかったのだ。都会とか田舎とか関係ないようだ。
うまくおんぶできるようになった今も、実家の母にどこか似たあの二人の女性のことを思い出す。

令和6年3月17日 豊原ミツ子
私たち家族のきずなを築いてくれたのは、主人の母との長い葛藤だと思います。義母は四十二歳で初めての息子を生む。養子だった夫と離婚して、以後、大切に大切に息子を育て、生きがいは息子だったのです。
結婚しても、不倶戴天の敵は並ではありませんでした。トラブルが起きると、私に「ここは私の家、あなた、出ていきなさい」。しまいには主人が義母とどなり合う。そして「出ていってやらあ!」の繰り返しだった。私たち夫婦は家を出たり入ったり。十年で、そう十回は引っ越ししました。夫はいつも私を守り続けてくれた。それが義母には、また耐えられない。これが分かるのは、ずっと後のことですが・・・。
その恐かった「ばあちゃん」が、寝たきりのボケ老人になってしまいます。家の階段から自分で落ちたのがきっかけで。ところが、近所の人に「嫁が後ろから突き落とした」と話しているのを聞いたのです。痴呆症とは何かを知らなかった私には、気丈な義母としか思えない。それは悔しかったです。
家族が協力し合って自宅で三年、病院で四年介護を続け、十年前に八十七歳で見送りました。
孫のためのおくるみを私は子供に贈りました。それは義母が私の子供のために編んでくれたもの。
義母はそれはモダンでセンスのある人で、色遣いがユニーク、とても私はかなわなかった。
「裏表が使えるようにダブルで編んであるのよ、凄いでしょ」知らないうちに義母の自慢をしている自分にハッとしました。
歳月って不思議です。

令和6年3月10日 榊莫山
わたしのいる伊賀上野は、どこを掘っても粘土が出てくる。粘土の底から湧いてくる水はうまい。
じつは墨をすって書や水墨画をかこうとすれば、水にこだわらねばならぬ。こんな話がある。
徳川家康のまえで、本阿弥光悦が墨絵をかくことになり、衆目注視の中で墨をすりだした。
が、墨の色がよくない。
「江戸の水では絵にならん」と光悦。家康は「ならばこれまで」とその日は御開きになった。
家康は京へ早馬を飛ばした。早馬は京一番の水をもって江戸に帰った。
「光悦を呼べ」彼は再び江戸城へ呼ばれた。
そして墨をすりだして「なぜか、今日の水はよい」と光悦。家康はにんまり笑ったという。
ところで、中国は昔、きれいな水を永持ちさせるため、水器にこだわった。
「盤」「鑑」「盂」など青銅の器を作り、水の清浄を保たせた。
時代がさがると、水指しや水滴は、陶器にその座をゆずってゆく。
しかし、硯に水を注ぐとき、気分がもっとも詩的に冴えるのは、水盂の水を銀のサジで、すくいあげて墨をするときである。それは理屈ではない。情緒の問題であると思う。
墨をすりながら、しだいに気分を集中させてゆくには、情緒にたよらねばならんのである。

令和6年3月3日 池部良
高峰秀子さんを桜の花のようなひとだと思っている。
桜は日本を表徴する花。淡泊で賢明そうな色、豪華に咲いて、ぱっと散る心意気。華やかでも一抹の寂寥が漂う。香がどこかで香っている寂しさ。
十六年に「希望の青空」という正月映画がつくられた。僕は封切られた十七年、戦地行ってしまった。
撮影中、当方はずぶの素人とあって、おろおろな芝居をしていたら、「あたいね、カメラの前で芝居するときは素人も玄人もない五分と五分だと思ってんだ。元気出してやんなよ」と言われ、思わず涙を溜めたら、
「良ちゃん、お弁当持ってきてないんだろ。あたい、沢山作ってきたんだ。一緒に食べようよ」と言った。
昭和三十三年頃、僕は志賀直哉先生の「暗夜行路」の主人公、時任謙作を演っている。
あるパーティで彼女と久方ぶりに出会った。挨拶しようと口を開けたら「良ちゃん、あんなに、うまいとは思わなかったよ」と彼女は言い片目を瞑った。心からのお賞めの言葉と理解し、嬉しかった。
秀子さんに贈る賞賛の言葉はいくらでもあるが、僕は錦上、花を添えるつもりで「懐かしくて、可愛い恩人」と言うのを贈りたいと思う。迷惑かな。

令和6年2月25日 池部良
石坂洋次郎先生の「青い山脈」が映画化され、高校生の六助の役にお鉢が回って来ようとは思ってもいなかった。
なにしろ実年齢三十四歳。撮影に入る前、先生にお会いしたら、
「池部君が下手だという事はよく解っています。ですが、下手は問題になりません。上手というのは花魁の簪のようなもので、無用なものでも沢山くっつけるから見る人は驚かされるにすぎない。なにしろ日本人には主体性というものがありませんから、他人がそうだと言うと、そうだと自分の意見にする癖がある。私はそれを弁えていますから、池部君が下手だと言ったのは私自身の意見です。池部君も、上手にやろうとだけはしないでください。十八歳の少年そのものになった気で自由奔放に演じて下さい。池部君のすばらしい知的水準を落として、十八歳の若さだけしかない低劣な頭になって演ってください」
石坂先生は優しいお顔に似ず、痛烈な作品をお書きになる。だが寡黙な方で返事さえもなさらない方だ、とあちこちから聞いていたのと大違い、東北弁だからトツトツではあるが三十分に亘るご注意には驚いた。
ひとというものは顔つき、噂だけでそうだと思い込んではいけない、と思ったのはこの時からである。

令和6年2月18日 老後
どんな元気な人でも、いつかは老いて動けなくなる。手八丁で口達者な方も、老人特有の病いにかかり、気力が萎える。
体が丈夫であっても、頭が衰える。
丹羽文雄は1904年生まれ。突然発病した。81歳。本田桂子さんの「父・丹羽文雄介護の日々」より。

ある日、突然、自分の女房が何者かわからなくなる。「あれは誰だ」と言い始める。家に泥棒がいると戸に鍵をかける。
母は父以上に手のかかる人で、娘が丹羽家の財産を横取りしたと錯覚し、弁護士に訴える。
聡明で、夫や子供たち思いの優しい母が…。
現在の丹羽は、「感謝教の教祖様」と皆であだ名を奉るくらい、何に対しても「ありがとう」と感謝する。
理想的な被介護者であろう。やはり手助けする者にとっては、何より感謝の念を示されることが、一番の贈り物なのである。
「私たちが老後に、仏になるも修羅となるのも、『ふだん』の暮らし方、心の在り方次第だと思うのです、それまで生きてきた心の軌跡や生きる姿勢というものがいかに大切かを、二人の対照的なボケ老人は私たちに教えてくれました。
ボケると、その人の本性が現れる。『ほんとうの自分』が素直でやさしく温かい人柄ならよいのですが、ねたみ、そねみ、ひがみだらけだったりしたら、それが包み隠さず出てしまうのですから大変です」
みっともない老人になりたくなかったら、若いうちから心美しく暮らすべし。

令和6年2月11日 都々逸坊扇歌
  都々逸も 謡いつくして三味線枕 楽にわたしは 寝るわいな (死のう)
「人は必ず死ぬのだから、やりたいことをやり、食べたい物を食べて死ぬに限る」とばかり生きたのが、都々逸の祖、扇歌だった。人情と色恋の機微を、七七七五文字で唄う都々逸が肌に合っていたのだろう。この世界の第一人者に駆け上がった。
「あとがつくほどつねってみたが、色が黒くてわかりゃせぬ」「親の意見とナスビの花は 千に一つも無駄がない」「枕出せとはつれない言葉 そばにある膝しりながら」など、にくい句が多い。最期は、辞世の句のように飄々として世を去って往った。

令和6年2月4日 無情
我が家では一時期、四世代が暮らしていました。私の両親、私たち夫婦、子供と孫。
お産を終えて子供と孫が去り、両親が逝って私たち夫婦が残った。
自然の摂理とは何と無情なものなのだろうか。「サヨナラだけが人生だ」という名言がある。
この感覚は年齢とともに鋭くなる。

未来とは 硯を洗う 幼い手

令和6年1月28日 死ぬ時は一人
あなたは今まで、自分が死ぬと考えたことがありますか、恐らく十人に一人でもいるかどうか。
それが現代の日本では普通のことです。司馬遼太郎はそのあたりについて、
「人間とはまことに不思議な動物としかいいようがない、他人は死ぬが、自分が死ぬとは思ってもいない」
といっても、それでいいと言っているのではありません。
道元の「正法眼蔵」に
「無情たちまちに至る時は、国王大臣親昵従僕妻子珍宝たすくる無し、ただひとり黄泉に赴くのみなり」
いくら身分が高かろうが、お金持ちだろうが、死ぬ時は一人。
助ける者なく、一人で死んでいく淋しさに、あなたは耐えられるか。そう問いかけているのです。
死とは現在の生の終末点なのです。とすれば、充実した生き方なくして、安らかな死があり得るはずがない。
そのことを考えなさい、死を見つめることは充実した生き方なのだよと、お経は教えているのです。

令和6年1月21日
では、戒とは何ぞや、戒は文字どおり 「いましめ」 です。仏教を信じる人すべてが守らなければならない戒めで、具体的に次の五つです。

生き物を殺すな
ウソをつくな
盗むな
女性と不適切な関係を持つな
酒を飲むな

令和6年1月14日 戒名
あの世はあると思いますか?年配の方は総じて「あの世はある」と確信していますね。
戒名とは本来、仏教の戒を受け、仏さまとご縁を結んだしるしとして与えられるものです。
私たちのこの世での名前を仏教では「俗名」と呼び、俗名は死と共に消え去ります。
俗名がいつまでも有名な人もいますが、戒名は仏の世界での新しい名前です。
戒名はもともと生前に授けられるもので、現在では、「家族から贈られる人生の勲章」というようなものになっています。
お布施さえはずめば、誰でも、院殿は無理ですが、ナントカ院ナントカ清大姉号、それも普通の四字ではなく九字くらいの、ご先祖様が知ったら腰をぬかすような格別な戒名を頂くこともできます。
ちょっと嫌味で言うと、戒名で経済社会の勝ち組を誇示できるわけです。
戒名でもめた友人がご住職に言われたそうです。
「学校を出たばかりの若い者に百万、二百万の車を買ってやるクセに、末代まで残る戒名になんでゼニを惜しむんだ」
その結果、戒名は家計にかなりの負担をかけることになりますが、結論から言えば見栄を張るのは無駄というものでしょう。
毎日新聞の「万能川柳」にこんな句がのっていました。
「戒名を 誰も覚えていなかった」

令和6年1月7日 憲法
憲法前文
「平和を愛する
諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」
日本国とその国民の生存は他国に委ねられてしまったのだ。
日本国憲法を信じ、「平和を愛する諸国民」の中国・ロシア・北朝鮮・韓国・米国の「公正と信義に信頼」していると、
尖閣諸島はおろか沖縄、竹島、北方領土・北海道、果ては本土までゆすり取られてしまうだろう。
現在、日本は戦後最大の危機を迎えている。
多くの同胞を拉致し、核ミサイルの照準を我が国に合わせている北朝鮮、「尖閣諸島を奪う」と明言し、領海侵犯を日常化し、軍事的恫喝を行う中国。また我が国の領土を奪い、それを既成事実化している韓国とロシア。ロシアはまた、北海道はロシア領土だという。これほど多くの敵対国に囲まれた国は、世界のどこにもありません。
命がけで守るべき国家という意識が消滅し、必然的に国も個人も自衛意識と危機意識を失った。
平和を希求していれば戦争に巻き込まれないし、いざとなればアメリカが助けてくれる、と何もかも他人まかせとなった。
日米安保条約が発動されるのは、まず日本が真っ先に闘うことが条件なのです。
また、それどころか、「国家意識を持つと軍国主義につながる」という洗脳から国民は未だ解かれていない。
「徳を行っていればいつか世界は分かってくれる」は誤りだ。世界のほとんどを占める徳なき人々には通じない。

令和6年1月5日 「うん」は親不孝 池辺良
中国北部、ニューギニアでそれぞれ二年半ずつ過ごした。
その間、死に損ないを六回経験したが、ともかく生命を拾って復員した。
復員船の着いた和歌山県の田辺港でおやじの疎開先を見た。東北本線の古河の在。
大きな農家の屋根付きの門を潜り、書院を囲っている生垣の枝折り戸を押したら左に短い廊下、右に梅と蘇芳の樹が目に入った。お婆さんが一人背を向けて水を打っていた。
お婆さんは僕の足音に振り向いた。三十秒後、僕はおふくろだと気がついた。
「良・ちゃん・じゃ・ないの・そうだわね」とかすれた声をあげた。
廊下に、少ない白い髪の毛を煙のように立たせたお爺さんが現れた。おやじだった。
「生きていたな」と大きな声で言う。僕は「うん」と肯いただけだった。
二人はすでに他界しているが、二度にわたるあのとき、どうしてちゃんとした日本語で返事も挨拶もできなかったのかと悔やんでいる。

令和6年1月4日 乗り換え 田辺聖子
人生の電車は、乗り換えの多い旅かもしれない。
健康に任せ、仕事なり遊びなりに打ち込んでいると、あるとき、身体の不調を感じ、(こんなハズではなかったのに) と思ってしまう。そのまま、従来の生活パターンを押し通そうとする。
そのとき、人生の駅員 (それは神であるか仏であるか、私は知らない) が、それとなく、連呼して自覚を促してくれる。
「乗り換え、乗り換えーー体力下降、気力減退線にお乗り換え願います」
そうやって、乗り換え乗り換えして、終点までやっていくのが、人間の一生かもしれない。
若さ・美貌・才気などというものも、わりと早く乗り換えの駅がくる。
財産がある、地位・名声がある、といっても、それらもいつかは乗り換え駅で乗り換えなくてはならない。
なるべく乗り換えずに終点まで行きたいと、人は思うけれども、時うつり事かわり、運命の転変、ということから人は避けられない。それらを失うときもある。
昔の夢にいつまでも浸っていちゃいけない。そういうとき、闇のホームで、人の気も知らず軽やかに、
「乗り換え」の声がひびく。

令和6年1月3日 黛まどか
  白鳥の胸濡らさず争えり  吉田鴻司
躓いたとき、ギブアップしそうになったとき。いつも口ずさむ一句があります。
声に出していると、しだいに勇気が湧いてきます。
さっきまで悩んでいたことや、落ち込んでいたことが、些細な事だったように思えてきます。
争っているときでさえ、決して胸を汚さない白鳥。純白の胸は白鳥が白鳥たる所以です。
その気高さと矜持。どんなときにも決して誇りを失ってはいけないと一句は教えてくれます。
句中の白鳥のように、仮に争いの中にあったとしても、"胸を濡らさず" の覚悟さえあれは何一つ失うものはないのです。
いつも幸せでいたいと思うけれど、生きていく上ではさまざまな困難があるものです。
そんなとき、私はいつもこれらの私にとって大切な一句に励まされるのです。

令和6年1月2日 中村久子
中村久子さんという方は、四歳のときに両手両足を失い、胴体と首だけで何でもやり遂げました。
結婚もし、子供も育て、自分の着物は自分の口で縫いました。
七十二歳で亡くなられまで、人のやること一切、人の出来ないことまで、何でもやりぬいた方でした。
その中村久子さんに、たったひとつ、出来ないことがあったのです。「手をあわす」ということでした。
  過ぎし日の いかなる罪の報いぞ 合わす掌のなき我ぞ悲しき  中村久子
両手があっても手を合わすことを知らない人たち、どうかこの一首を暗唱してほしい。

令和6年1月1日 元日
明けましておめでとうございます。
皆様、よいお年をお迎えのことと存じます。
今年も
緋色窯をよろしくお願いいたします。

明治十年代の開化都々逸
「右と左にべっぴん置いて 後ろに柱 前に酒 それでお金がありあまる」
これが庶民の幸せ

 「上見ればキリがないぞえ桐の花 下見て暮らせ藤の花」
人をうらやんでも仕方ないですね。

  元日や 父母ありし日は遠き 小泉タエ

今年は龍年、野菊の如く凛として、そして自分らしく春風駘蕩で生きたいと願っています。

*ホームページを開設して24年、工房は28年、穴窯は17年目です。
2024年が皆様にとって、明るい年でありますよう祈念いたします。