令和7年5月6日 在原業平 (ありわらのなりひら)
ついに行く 道とはかねて聞きしかど
昨日今日とは 思わざりしを
(いずれ死ぬとはわかっていたが、昨日や今日のようにすぐとは思ってもいなかった・・。)
美男子で数多くの女性と恋を重ねた業平は、五十六歳で世を去った。だが、物狂しい日々を過ごした彼も人の子で、この世に未練があり、覚悟が出来ていなかった。
「人は太陽と自分の死を直視できない」という言葉があるが、誰しも死ぬ。
その時のために、本人も周囲も心の準備をしておかなければならない。業平のことは
遠い昔話ではないのだ。
彼は京の山里大原野の「なりひら寺」十輪寺に眠っている。

令和7年5月5日 関容子
祇園の小花さんから入れぼくろの話を聞いたのは、南座に近い吉つ屋というお茶屋の奥座敷だった。顔見世を見に来た先代幸四郎(白鸚)夫人、藤間正子さんのお誘いで、高麗屋とは長いなじみという女将をまじえ、女四人でお昼ご飯を食べた。
四人の女はにぎやかに笑い、それから色街のいろんな風習の話になった。入れぼくろの話もその一つで、これは好きな男(情人)と握手の要領で手を握り合い、相手の親指びの先が突いたところを針で刺して墨を入れるものだそうで、つまり女の心中立て。
正子さんはここで声を落とすと、こう言った。
「うちの母(先代吉右衛門夫人)にもありました。もちろん相手は父ですよ」
この三月の歌舞伎座の楽屋を訪れると、中村屋には数少なくなった目上の客、兄嫁に当たる先々代時蔵夫人が来ていて、ちょうど入れぼくろの件の話をしていた。
「入れぼくろ、ってあんた知ってる?」突然中村屋が尋ねたので、はい、こうやって・・と自分の両手を握り合わせると、昔は赤坂から出ていた人だという先々代時蔵夫人が、「まあ、よくそんなこと御存じねえ」と初めてこちらに向き直った。
「まったく、誰が教えるのか」中村屋は笑い顔で呆れてみせる。

令和7年5月4日 田中澄江 続き
そのあくる日の午前中、わが家の玄関のベルが鳴って、わたしは幸田さんの突然の来訪を受けた。
ゆっくりと後手に戸をめて、幸田さんはいきなり玄関の式台のところにしゃがんで、式台の上に両手をついて挨拶された。
ー昨日は不調法なことを申し上げましたので、失礼をお詫びに上がりました。
私はびっくりし、戸惑い、自分も廊下の床の上にすわって両手をついた。
ー不調法は私の方でございます。まあ、そんなになさっていて下さっては困ります。どうぞお立ちになって下さいまし。
それから室内に入っていただいて一服の御抹茶をさしあげたのだったが、私は幸田さんの上に、自分の母を重ねて、幸田さんはあやまりになどいらっしたのではない。やっぱりあの脚本に一抹の不安を感じて、それは何かをおっしゃりたいのにちがいないと思ったが、それが聞けない。始めの姿勢に圧倒されて委縮しきってしまっていた。
出来上がってから大変よかったというお手紙はいただいたが、私を訪ねて来られた気持ちを、一度うかがいたかったと思いつつ、日を重ねて訃報を知り、もう一度こちらからおうかがいすべきだったと悔いた。

令和7年5月3日 田中澄江
幸田文さんの「流れる」が成瀬巳喜男さんの監督で製作されることになり、その脚本を依頼された時は、先ず、監督としての成瀬さんを尊敬していたので、いつになくよろこんで引き受け、原作を読んで、うまいなあと感心し、一か月ぐらいで書き上げた。
その完成の祝いの酒宴の席で、はじめて幸田さんにもおあいして、自分の姉と同い年のせいもあり、これがあのすぐれた作品の書き手かと讃迎と、何となく慕わしささえ感じたのである。
そのとき、幸田さんの隣に座っていた秘書の男の人が、脚本に少し問題があるのではないかと言い出した。
ーひとの出入りが激しくて観客にわかりますかね。
成瀬さんがおだやかに言われた。ーこれが動き出すと一眼でわかります。
幸田さんははじめから温容でつつましい。しかし私はその秘書役のひとの言葉が気に入らなかった。
ー私は成瀬さんの指導の下にこれを書きました。あなたは成瀬さんの、監督としての御力を御存じの上で、そのようなことを言われるのですか。
一瞬にして座は白け、仲居さんがビールをついでまわり、成瀬さんは微笑をくずさずに、
ーま、とにかくやって見ます。
続く

令和7年4月27日 家族への手紙
夫へ・・
この間、口内炎ができたのを見てもらった時、顔が近づいてドキッとしたわ。久々に。
稲本仁江 (滋賀県 28歳)

お母さん、
お父さんの口にミニトマトを入れるのを見ちゃったよ。
まだ新婚さん?
原囿淳嗣 (鹿児島県 12歳)

令和7年4月20日 ゆっくり泊れば― 伊籐幸子 豊島区
息子が生まれて・・五月人形を持って いそいそと孫に会いに来てくれた
お父さん ゆっくり泊ればいいのに 母になった娘を気遣って一晩しか泊らず帰ってしまって・・。
そして間もなく遠くへ旅立ってしまって・・。
その息子もきょう三十歳 あのときもっと泊ってもらえばよかった。

令和7年4月13日 家族への手紙
急須にご飯を詰めたお婆ちゃんを叱ったら
"いつもすまないね" と言った。ごめん。
下村英昭 (東京都 36歳)

癌で亡くなった夫へ・・
辛い転移より、残す私を案じてくれた。
貴方ありがとう、風呂で泣きました。
木村幸子 (愛知県 60歳)

令和7年4月6日 たき火
垣根の 垣根のまがりかど
たき火だ たき火だ おちばたき
あたろうか あたろうよ
北風 ぴいぷう 吹いている

昭和17年「たき火」の歌は、NHKラジオ「幼児の時間」で放送されましたが、軍当局から「落ち葉も貴重な資源、風呂ぐらいはたける」とか「敵機の攻撃目標になる」とクレームがつき三日間の放送予定が二日間に変更されました。さらに昭和24年「うたのおばさん」で再放送されたときも、消防庁から「街角のたき火は危険」とクレームがつきました。
この歌で味わうべきは、たき火やさざんかの赤い色の暖かさや、子供たちの可愛らしさと感じているのは私だけなのでしょうか。
春の日に そっとしてみる 死んだふり

令和7年3月30日 黛執
同じ夢みて 帰る鳥 残る鳥
秋に日本に渡ってきた鳥は、春になると北方へ帰っていきます。しかし中には残る鳥もいます。
揚句は永作火童氏の辞世の句「立つも夢遊ぶも夢や雪の鷺」に応えた一句です。
二人は一つの夢に向かって十数年前俳句誌「春野」を創刊しました。しかし創刊から間もなく火童氏は亡くなります。
確固たる男の友情が、帰る鳥と残る鳥の間に存在し、二句のあわいに声にならない絶唱があります。

令和7年3月23日 柄井川柳 (からいせんりゅう)
木枯らしや 跡で芽をふけ 川柳(かわやなぎ)
(自分は木枯らしのように世を去るが、のちの世で、自分の仕事が芽を吹いてくれ)
江戸庶民の反骨とユーモアの表現、川柳は、柄井川柳が現在の隆盛のもとを作った。
気軽さが受け、現在はサラリーマン川柳として人気が高い。「一戸建て 手が出る土地は熊もでる」「プロポーズ あの日に返って ことわりたい」など、楽しくて泣ける句が多い。そして、この世界に衝撃を与えたのが川柳作家の時実新子。人妻だった彼女は三十四歳で始め、歌集『有夫恋』で世に躍り出た。
「妻をころして ゆらりゆらりと訪ね来よ」など、普通の主婦たちの奥底にある深い叫びを表現し続けたのには、柄井川柳も目を見張っていることだろう。


朝起きて この世かあの世か 確かめる シルバー川柳

令和7年3月16日 内田百
黒澤明監督の最後の作品「まあだだよ」は、内田百閧モデルにした映画だ。
松村達雄演じる百閧ヘ大学を去って文筆業に専念するが、その後も教え子たちから慕われ続ける。
還暦を祝う会を教え子たちがシャレで摩阿陀会と名付け (まだ死なないのか、という意味) 、それに百閧ェ、まあだだよ(まだ死んでない)、と答える。結局、百閧ヘなかなか死なず、摩阿陀会は喜寿まで続く。
百閧フ墓は、東京都上高田の金剛寺の高台にあり、墓石には本名の内田榮三と彫られている。
墓の手前に「木蓮や塀の外吹く俄風」という句碑が建っている。墓は摩阿陀会(まだだかい)が三回忌に建てたものらしい。

令和7年3月9日 三遊亭円朝
近代落語の祖といわれる三遊亭円朝は明治十二年、京都・天竜寺の滴水和尚から 「無舌居士」 という号を授けられたとき、次のような悟道の唄を詠んでいる。
閻王に舌を抜かれて是からは
心のままに偽(うそ)も云はるる
紅うすくひと刷けさして春の山

令和7年3月2日 金子みすゞ

誰にもいわずにおきましょう。
朝のお庭のすみっこで、
花がほろりと泣いたこと。
もしも噂がひろがって
蜂のお耳へはいったら、
わるいことでもしたように、
蜜をかえしに行くでしょう。
音もなくおりて止みたる別れ雪

令和7年2月23日 野沢節子
晩鐘や町に雪来ることたしか
教会のある函館のような町が彷彿させます。夕暮れを告げる鐘の音が町全体にゆき渡り響いています。
野沢節子は、大正九年、横浜に生まれました。昭和七年、横浜のフェリス女学院に入学します。日本で最初の女子教育を先駆したミッション系スクールの、自由で明るい校風を謳歌していた節子でしたが、ある日突然病魔に襲われます。病名は脊椎カリエスでした。晩年の節子は、たびたび女学校時代の思い出をなつかしんで口にしたと聞きますが、自由闊達な少女は、やむなく学校を中退、病の床に拘束されることを余儀なくされます。
われ病めり今宵一匹の蜘蛛も許さず
春灯にひとりの奈落ありて坐す
節子の句には、病の闇の中から、必死で何かを掴み取ろうとする厳しい眼ざしと孤独があります。夜の闇、病の闇、己の内なる闇と対峙し、一匹の蜘蛛に、春灯に、答えを追求しようとする矢のような病臥の眼があるのです。

令和7年2月16日 佐々木愛
「十六日祭」とは、あの世のお正月。
沖縄では、この世のお正月よりもあの世のお正月を重んじて、親族が寄り集まってお祝いをする。
では何故、二月十六日かというと・・・。むかし、旧暦の正月十五日(二月十五日)は、ヤマトで言うやぶ入りで、故郷に帰省した若者たちが、酒や肴を持ちより、戸外で楽しそうに遊んでいたところ、それを見たある未亡人が、自分の夫の墓に語りかけた。
"お父さんや、若い人達がおいしい物を食べ、楽しそうにしているからといって、決して邪魔などしてはいけませんよ。明日、私がたくさんご馳走を持ってきて、貴方と一緒に遊んであげますからね・・" と。
だから十六日祭は、やぶ入りの翌日となり、一族が墓の前に集まって、ご馳走を食べ、三線を弾いて歌をうたい、先祖と一緒に楽しく遊ぶ一日になった・・というわけなのだ。
そういえば、沖縄の人達はよく死者に語りかける、よく歌う。
じっとしていれば 過ぎ行く 二月かな

令和7年2月9日 小池真理子
三十七年前に出会い、恋に落ち、お互いに小説家になることを夢見て共に暮らしはじめた。
彼の肺に3.5pの腫瘍が見つかった。以後、亡くなるまでの一年と十カ月。彼は「闘病」ではなく「逃病」と称して、一切の仕事に背を向けた。昨年の秋、恐れていた再発が出現した。年が明けてからの変化は凄まじかった。
日毎夜毎、衰弱していくのがわかった。治療のたびに検査を受け、そのつど結果に怯えていた。
劇薬の副作用にも苦しみ続けた。
無情にも死を受け入れざるを得なくなった彼の絶望と苦悩、死にゆくものの祈りの声は、そのまま私に伝わってきた。
死者は天空に昇り、無数の星屑に姿を変えて、遥か彼方の星雲と一つになっていくものだと私は信じてきた。
彼は今、静寂に満ちた宇宙を漂いながら、すべての苦痛から解放され、永遠の安息に身を委ねているのだと思う。
それにしても、さびしい。ただ、ただ、さびしくて、言葉が見つからない。
春眠のまま 永眠を 願いとす

令和7年2月2日 浅田次郎 4
私は小冊をもう一度読み返した。
分厚い眼鏡をかけ、聴診器を耳に挟んで患者を診察する笑わぬ写真を見たとき、私の胸は熱くなった。
その人は受賞の言葉の冒頭にこう書く。「思いがけない大きな賞を頂くことを光栄に思い乍らも只自分で選んだ道を歩んで来たに過ぎない私はとまどいも感じております。・・」おざなりの言葉ではない。その人はたぶん、本心からそう言った。
授賞式のとき、その人が壇上でとつとつと語った言葉は忘れがたい。
受賞が望外だったこと、ただ自らが選んだ道にすぎないこと、家族に我儘を言ったこと。そして最後に、たしかこう結んだ。
「明日、帰ります。患者さんたちが、私を待っていますから」
心の色は赤十字、という古い軍歌が、私の胸に甦った。
人間の偉さが、決して富や名誉で計れるものではないということを、二人の医師は私に教えてくれた。

令和7年1月26日 浅田次郎 3
昔、輸入血液製剤とHIV感染をめぐる疑惑で、役人と学者は子供のように責任をなすり合った。
学会の泰斗と呼ばれ、位人臣を極めた老学究は、テレビカメラにも臆さず、まるで人の不幸や世の不幸が彼の幸福であるかのように、終始笑い続けていた。答弁を終えて国会を去る大学者の背に、傍聴席から「ひとごろし」という罵声が浴びせかけられた。金と名誉にまみれた、学者たちのシミひとつない白衣など、見るだにおぞましい。
矛盾だらけの答弁を繰り返した日本赤十字は、かって僻地の「日赤病院分院」に送り込んだひとりの医師が、四十二年もそこにとどまっていることをはたして知っているのであろうか。
さいはての診療所のテレビに映った我儘な笑顔を、その人はいったいどんな気持ちで見たのだろう。
また、その人を慕い、その人を頼む八千人の村人たちは、あの老獪で愚かしい大学者の笑顔に、何を感じただろう。
続く

令和7年1月19日 浅田次郎 2
略歴に続く短文に、その人はこう書いていた。
「家内や子供達の夢をくだいて四十二年。札幌ははるか遠いところになってしまった。ただどんな小さな集落でも人が居れば医療があると考え生きて来た。今回の受賞は全く望外であり、私の我儘を許してくれた家内や子供達への素晴らしい贈物を吉川英治先生がしてくれたのかも知れない、ありがとうございました。」
私は小冊を閉じた。分野こそことなれ、大変な賞をいただいてしまったと思った。
その人は私の隣で、相変わらず膝の上に置かれた賞牌と花束を、じっと見つめていた。その人にとっては本当に望外な受賞であったのかも知れない。受賞の言葉を述べるために壇上に登った私は、すっかり上がってしまい、用意した文句をすべて忘れてしまった。さいはての村からやってきたその老医師だけが、私の言葉に耳を傾けているような気がしてならなかった。
もうひとつ、印象深いことがある。
その人は笑わなかった。授賞式に続くパーティ会場で挨拶をかわしたときも、むっつりと笑わぬお顔が印象的であった。
さきに頭を下げられた私は、ただいっそう身を低めて、「光栄です」と言った。
あまりに不愛想な挨拶であるが、他に言葉が見つからなかった。
続く

令和7年1月12日 浅田次郎 1
その人と私とは、奇しくも同時に吉川英治文化賞と同文学新人賞を受賞したのであった。
経歴はこう記す。住所は北海道厚岸郡大字・・僻地であった。
昭和二十八年三月、当時北海道大学医学部内科医局に籍を置いていたその人は、前年の十勝沖地震の津波被害を受けた地域に、新妻を伴って赴任した。期間は一年という約束であった。
しかし、荒廃した「釧路日赤病院分院」に到着したその人の見たものは、津波の惨状と夥しい結核患者と、救いがたい貧困であった。昼も夜もなかった、その人は十六集落の八千人の住民を、たった一人で守らねばならなかった。
一年の半ばを雪と氷にとざされる曠野のただなかで、あらゆるものを相手に戦った。
そして寸暇を惜しんで釧路の病院に通い、専門外の外科や産婦人科や眼科の医術を学んだ。七年の歳月が過ぎた。
昭和三十五年、二度目の大津波が村を襲った。多くの人命を奪ったチリ沖地震津波である。壊滅的な被害であった。
三十代の半ばにさしかかっていたその人は、ひとりの医師の力ではどうすることもできない惨状の中で決意した。
もう札幌には帰らない、と。そして、妻と子らに詫びた。私のわがままを許してほしいと。
それからその人は、さいはての大地に根を下ろした。着任から四十二年を、八千人の命と共に生きた。
続く

令和7年1月5日 加藤シゲアキ 3
その後も父は帰省する度よく祖父の写真を送ってくれた。写真で見る祖父は日に日に衰えていき、祖父は静かに鬼籍に入った。
法事を終えた後、父から祖父について色々教えてもらった。
戦時中、十六歳で予科練に志願した祖父は終戦が一年遅ければ特攻隊として出撃することになっていた。
しかし、戦後日本が他国を傷付けたことに胸を痛め、硫黄島、沖縄、オーストラリアなどに直接足を運び、現地の人に話を聞いて慰霊に回っていたという。
囲碁や将棋もできるがしない人だった。「優劣が人を不平等にする」という信念の元だったという。
自分が思っていた祖父とはあまりにかけ離れてい、少しも本質を見抜けていなかった自分にがっかりする。
祖父の話をする父も、どことなく誇らしげだった。
「じいちゃん亡くなったら親父、泣くかな」と僕が母に尋ねると、
母は「泣くに決まっているじゃない。あぁ見えても泣き虫なんだから」と応えた。
タクシーの車内で訃報を受けたとき、父のことを一番に心配した。
僕は父に、「父さん、気持ち大丈夫」と返した。普段親父と呼んでいたはずがなぜかそう呼べなかった。
父からは「大丈夫ですよ」と返事があった。なぜか敬語だった。

令和7年1月4日 加藤シゲアキ 2
祖父は「ねむとーなった」と言って横になった。まだ十五分ほどしか経っていなかった。
横たわる祖父は目をしばしばさせながら「みんな集まってくれて、こんな日は二度と来んじゃろうな」と呟いた。
すると祖父がふと、祖母のほうに布団から手を出した。祖母はそれに応え、そっと手を重ねた。
「おばあちゃんの手は変わらずあったかいのぉ」
「おじいちゃんは昔から冷え性じゃったからなぁ」窓から差し込むやわらかい西日が二人を包んでいた。
その姿を見る父の瞳は心なしか潤んでいた。そういう僕も気付かれないよう目元を拭った。
祖父はそれから本当に眠った。祖母は「ほいじゃけ、帰るけぇの」と祖父に話しかけた。
寝ぼけ眼の祖父に僕も改めて「じゃあね、おじいちゃん」と声をかけると、祖父は僕を見て再び、「どちらさまですか」と言った。まるで落語のサゲのような返しに思わず笑ってしまった僕は「また来るね」と言って明るい気分で施設を後にした。
そして祖父が呟いた通り、「こんな日は二度とこなかった」続く

令和7年1月3日 加藤シゲアキ 1
父方の祖父が亡くなった。享年九十一歳だった。僕の親類は長寿の人が多く、身内の死を経験したのはこのときが初めてだった。
昨年両親と待ち合わせて五年ぶりに総社市を訪れることにした。先ず祖母を迎えに行った。
祖母は僕の顔を見るとにっこりと笑みを浮かべ嬉しそうに「よう来てくれたなぁ」と言ってくれた。
祖母を連れ祖父の施設へ向かった。エントランスを潜るとテーブルでゆっくりとご飯を食べる一人の老人がいた。
白い粥を掬うその腕は細く、背中は曲がり、視点は定まっていなかった。
父が「別人みたいやろ」とぼそっと言った。かって漲っていた覇気はどこにもなかった。
祖父の姿に衝撃を受けた僕はどう声をかけていいのかわからず、父はそれに気付いたのか祖父の元へ近づき、耳元に口を寄せ「親父、シゲ来たで」と大きな声で言った。
祖父が僕を見上げた。そしてじっと見つめ、静かな声でこう言った。
「どちらさまですか」続く

令和7年1月2日 安全保障
羊たちが暮らしている。一見平和そうだが、羊には羊なりの苦悩がある。山の向こうに狼がいてときどき羊を襲って食べてしまうのだ。そのせいで、年に二十頭ほどが犠牲になる。羊たちは羊飼いを雇うことにする。屈強な羊飼いは、狼を追い払ってくれる。羊たちは大喜びだ。これでもう誰も食われなくて済むぞ。が、物事はそう単純ではない。
羊飼いの要求は、お前たちを守ってやるかわり年に十頭俺に食わせろ、その十頭はお前たちが選べ。
この喩え話の教訓は、安全はけっして無料ではない、ということだ。

令和7年1月1日 お正月
明けましておめでとうございます。
皆様、よいお年をお迎えのことと存じます。
今年も緋色窯をよろしくお願いいたします。


♪もういくつねると お正月
お正月には 凧あげて
こまをまわして 遊びましょう
はやく来い来い お正月

明治三十四年(1901)、「幼稚園唱歌」でこの歌は発表されました。
いまとは違い当時の子供たちにとっては、お正月が一年のうちでこのうえもなく贅沢で楽しい行事だったと思います。
作詞の東くめ先生の、「鳩ぽっぽ」や「水でっぽう」など、子どもの素直な気持ちであふれた歌は今も愛唱されています。

去年よりは今年、今年よりは来年。
歌のように、毎年新しい年明けを迎えることが楽しみに思える、そんな三百六十五日を送りたいものです。
今年は巳年、野菊の如く凛として、そして自分らしく春風駘蕩で生きたいと願っています。

*ホームページを開設して25年、工房は29年、穴窯は18年目です。
2025年が皆様にとって、明るい年でありますよう祈念いたします。