お読みいただければ、ご諒解いただけるとおもいますが、この地区は、フランスのパワー・スポットなのです。歴史上の超有名人物の運命がこの場所でコロリコロリと転換します。ジャンヌダルクの場合は、「神のツキが彼女から離れた」場所(142998日木曜日、サントノーレ門)だし、ルイ16世にとっては遂に「王位を剥奪された」場所(1792810日、立法国民議会)だし、これらは幸運がなくなった場合ですが、ナポレオンの場合には、幸運が転がり込みました。「大衆に向かって葡萄弾を込めた大砲を発砲し、虐殺し」(1795105、サン・ロック教会)、あっという間に皇帝に登り詰めました。また、皇帝になったナポレオン夫妻が「ワイン樽に仕込まれた巨大爆弾で爆殺され」かかった(悪運を免れた)場所(18001224日、サン・ニケーズ通り)でもあります。だから、幸運か悪運のどちらに転ぶか、訳が分からない不気味なパワー・スポットです。


 なお、素人による拙訳ですから、必要に応じて原典を参照してくださるよう、お願いいたします。

パ リ 断 簡

画像:Google Map, 2014 一部修正

画像Plan de Paris, Turgot, 1739。立法国民議会の場所はテュイルリー宮殿隣接の屋内馬苑でした。現在はこの場所にリヴォリ通りが走っています。サンニケーズ通りはテュイルリー宮殿正門前からサントノーレ通りに抜ける通りですが、現在は完全になくなっています。

 この地図では昔の様子がよくわかりませんから、1739年のパリ地図に置き換えますと。

 ざっと調べたところで、パリにはパワー・スポットがたったひとつ存在することに気がついた。昔、マドリードのティッセン美術館でピサロの絵「サントノーレ通り」を鑑賞したことがあったが、あの絵の場所がまさにパリの最大最強のパワー・スポットを描き写している、と考える。

 ところが昨秋イラン旅行に出たところ、イランの美術品は大概パリのルーヴルに集積されていることがわかり、「そうだ、パリに行こう。パリでルーヴルを見物しよう。」と計画が定まった。スーサとルーヴル美術館参照)飛行機もホテルも予約して、さあ準備が整ったところで、気がついた。

 私はパリについてほとんどなにも知らない、ということである。

 だから、必要に迫られて調べはじめた。

 現在の地図で示すと、

 恥ずかしながらこの歳になって、パリについて勉強をはじめなくてはならなくなった。

 私は大学ではフランス語を学ばなかったし、社会生活ではパリを何度も訪ねることはあったが、歴史のことなど望外の些事くらいにしか思っていなかったから、積極的に知識を取り入れる試みは一切やっていなかった。老後60歳になって、フランス語を学びはじめたが、「パリはホテル代が高すぎる」という理由でパリは敬遠し、エクスで短期留学をした程度で、パリについては疎遠にしていた。

1. サントノーレ通りとサントノーレ門とは
2. ジャンヌダルクのパリ攻撃
3. (補)オルレアンのジャンヌダルク(1),(2),(3),(4)
4. ルイ16世のテュイルリー生活(1),(2)
5. 1792810日(1),(2)
6. (補)タンプル塔(1),(2)
7. ヴァンデミエール13日(1),(2)
8. サン・ニケーズの陰謀(1),(2),(3)、別名地獄機械

 以下、次の順序で解説してみます。これらの解説は、Wikipedia英語版とか、カンパン夫人の回想録とか、その他の種々の文章の翻訳です。インターネット上で信頼するに足る日本語解説書がほかにほとんどないので、まずは翻訳からはじめたのです。

画像:ルーヴル美術館ホームページより

画像:サントノーレ通りの161-3番地

 非常に俗な言い方をすると、右画面の左手に走る道路がサントノーレ通りであり、この通りの手前の角から数えて数軒目に「ひぐま」というラーメン店がある。そこが163 Rue Saint Tonoréで、ここがパワー・スポットの中心点なのです。

画像

画像:写本「シャルル七世王年代記」からパリ攻撃、フランス国立図書館

画像:カミーユ・ピサロ、「サントノーレ通り、午後、雨の効果」、ティッセン=ボルネミッサ美術館(Museo Thyssen-Bornemisza)、マドリード
 ピサロがキャンバスを立てているあたりが、ジャンヌダルクの戦ったサントノーレ門のあった場所。