翻訳者注4




  こういう言葉でナポレオンとフランスの運命が決定された。レ・プルティエ事件が起きたとき、ボナパルトはオデオン劇場にいた。彼は走り出て、結果を目撃した。彼はたまたま傍聴席にいて、そしてムヌーの行為に関する議論を聞いた。彼はただちに探し出され、この士官の退却につき意見を聞かれた。彼は、なにが起ったか、このような悪事をどうしたら避けることができるかを説明し、その態度が聞き手を満足させた。彼は役目を引受けるよう、状況が許すかぎりの防御策を立てるよう望まれた。というのも、すでに夜おそくル・プルティエ事件で時間を失い、テュイルリーへの決定的な攻撃が翌朝生じることが予測されていたからである。ボナパルトは、ムヌーの行進の失敗は主として「人民代表者」が存在したからであり、命令を引受けるからにはそのような干渉を一切なくすように要求した。彼らは譲歩し、バラは総司令官、ボナパルトは副官となり、実際の指揮をとることとなった。彼の最初の仕事は猟騎兵少佐であったムラを5マイル離れたサブロンに出発させた。そこには、50門の大砲がおかれていたのである。軍団はその後直ちにこれらの大砲を求めて強力な分遣隊を送った。ムラは暗闇のなかで彼らを追い越したのだが、もし彼が(ボナパルトから)命令を受け取っていたのが数分後であったら、事態は後の祭りだったであろう。

  104日(革命暦のなかではヴァンデルミエール13日と呼ばれている)、当然に小競り合いが生じた。ほぼ午後2時、三千人の国民衛兵が、いろいろの通りを通って宮殿を攻撃しようと前進してきた。だが、宮殿の防衛はルイ16世のときのそれとははるかに隔絶していた。

翻訳者注6: 現在のサントノーレ通り、サン・ロック教会、

翻訳者注5:

『ナポレオン自伝』アンドレ・マルロー 小宮正広訳 朝日新聞社 2004 P13/14

 103日 〔葡萄月(ヴァンデミエール)11日〕 今朝以来、パリ中が興奮している。用心しなければならない。私は非常に信用があるというわけでもない。

 104日 私は何人かの議員を認めたが、おびえきっていた。なかにカンバセレスもいた。彼らは翌日には襲撃されるのを予測していたが、どうやって解決していいのかわからなかった。私は助言をもとめられた。私は答えた、この私は――砲を要求して。この提案に彼らは肝をつぶした。何ひとつ決まらないまま一夜が明けた。

 105日 〔葡萄月13日〕 入ってくる報せはひどく悪いものばかりだった。それでみんなは私に問題をいっさいまかせ、ついで、しかし力に対し力で押し返す権利があるかどうかと詮議しはじめた。私は彼らに言った、「あなたがたは、民衆が自分らへの発砲の許可をあなたがたに与えるのを、待つつもりなのですか? 私も巻き込まれてここにいるのです、あなたがたが私を任命したので。私の自由にさせるのがほんとうです」。こう言って、私はこれら弁護士どもをあとにした、彼らは議論に耽っていた、私は部隊を進発させた。

 106日 [午前2時。長兄ジョゼフ宛] とうとう、すべてが終りました。私の最初の作業は、私自身のことをここにお報せすることです。王党派の連中は日に日に大胆になっていました。国民公会はルペルティエの支部(セクション)の武装解除を命じました。支部側は部隊を撃退しました。ムヌーは即刻罷免されました。国民公会は軍の指揮にバラを任命しました。また委員会は私を副司令官に任命しました。われわれは部隊を配備しました。敵は攻撃してきました。われわれは多数を殺しました。われわれは各支部の武装解除を行ないました。幸運が私のものになっています。ウージェニーとジュリーにくれぐれもよろしく。

 1011日 私は国内軍副司令官に任命された。

 1025日 私は国内軍最高司令官に任命された。

(翻訳者による画像の挿入)

(翻訳者による画像の挿入)

Wikipedia 13 Vendémiaireの翻訳)続き

画像
  ボナナパルトが敵小隊に機銃掃射させる。
『革命の歴史』アドルフ・ティエール著 
1866 ヤン・ダルジャン画

余波

王党派の敗北により国民公会への威嚇は消滅した。ボナパルトは、国民的な英雄になり、すぐに国内軍最高司令官へと昇進した。五か月以内に、彼はイタリア軍の指揮官となった。敗北した王党派は共和派の防禦を表現しようとして虐殺という言葉を使った。また、ボナパルトにヴァンダミエール将軍という渾名をつけた。のちのことだが、ボナパルトはその渾名を彼の光栄あるタイトル第1号だと称した。

 ナポレオン・ボナパルトは民衆に向けて非常な近距離で大砲を撃ち込んだことがわかる。


  この有名な軍務は、国民公会派に勝利をもたらした。彼らはいまや、新しい名前を身につけ、古い役割を排除しようとしていた。バラは人名録のトップになり、シエイエス(Emmanuel-Joseph Sieyes)、カルノー(Lazare-Nicolas-Marguerite Carnot)やその他のあまり褒められなかった人達は彼の同輩となった。この第一総裁は彼の昇進に手を貸した人達にお返しをするように心がけた。この段落から5日間以内に、ボナパルトは内務軍の副官に指名され、その直後、バラは総裁としての役割以外には時間が割けないとして、この同じ軍隊の総司令官を辞退し、「チビのコルシカ士官」に譲ったのである。

(翻訳者による画像の挿入)

翻訳者注3:

ヴァンデミエールの反乱、Wikipediaから:

  ナポレオンの指揮する砲兵は首都の市街地で大砲(しかも広範囲に被害が及ぶ散弾)を撃つという大胆な戦法で、抵抗する王党派をあっさり鎮圧した。暴徒は撃退され、翌日抵抗は止み、1025日、国民公会はナポレオンを国内軍の総司令官に任命して、反徒に対しては寛大な処置を取った。流血の場であった「革命広場」は「融和」を意味する「コンコルド広場」と名前を変えた。以後、パリは国内軍司令官の命令に絶対服従することを余儀なくされ、完全に軍の制圧下に置かれた。ナポレオンはこの時の成功から「ヴァンデミエールの将軍」と異名を取った。
翻訳者注2

  「
葡萄弾」とは小口径の銃弾多数を使い、近距離で多数の敵軍を殺傷するのに用いられた武器。大砲から発射される。アメリカの独立戦争でもちいられていたが、フランスでははじめての使用だった。
翻訳者注1

  古地図で見られるように、この近辺で東西を結ぶ道路は一本しかなかった。サントノーレ通りである。カトリック・王党派の暴徒
3万人はこの道路を西に向かって進んできて、宮殿正門に通じるサン・ニケーズ通りが閉鎖されていたので、(カトリック寺院である)サン・ロック教会に入り込んだ、と思われる。暴徒はさらに国民公会議場(旧王室馬術場)との間を抜けてテュイルリー宮殿になだれ込もうとしたが、待ち構えていた防衛軍によって葡萄弾を至近距離から打ち込まれた。

(翻訳者による画像の挿入)

画像18世紀後期の大砲
スイスのレマン湖畔モルジュ城の武器博物館収蔵

一吹きの葡萄弾




  ちょうどその頃、若いナポレオン・ボナパルト将軍が騒動に気付き、国民公会に到着してなにが起りつつあるのか調べた。彼は直ちにバラの軍団に入り、共和国の防衛のために集合することを命じられた。ボナパルトは承諾したが、条件を一つつけた。すなわち、彼に一切の作戦指揮を一任する、という条件だった。ヴァンデミエール13日(105日)午前1時、ボナパルトはバラに取って代わった。バラは彼がやりたいようにやらせることにした。ボナパルトは、第12猟騎兵連隊の下士官ヨアヒム・ムラに命じてサブロン平野(今の凱旋門の西方)まで行って、40門のカノン砲をもって帰ってくるように命じた。ムヌーがそこにあると言ったからである。ムラの騎兵大隊は、王党派が到着する前にカノン砲を回収してきた。そして、ボナパルトは準備を整え、有効な射界におさまるようにカノン砲を要所に配置した。


午前5時、王党派による試行攻撃があったが、撃退された。5時間後、王党派による大きな攻撃が始まった。数の上では61の劣勢であったにもかかわらず、共和派は彼らの境界線を維持し、カノン砲が王党派の集結した軍勢に葡萄弾を打ち込んだ。また、砲兵隊を支援して「愛国大隊」が進撃する王党派の横列に切り込んだ。ボナパルトが二時間の交戦を通じて指揮を執り、無傷で生き残った。とはいえ、彼の乗馬は彼の鞍下で撃たれた。葡萄弾と愛国軍からの一斉射撃の効果は王党派の攻撃を浮き足立たせた。ボナパルトはムラの猟騎兵大隊にたいして反撃を命令した。戦いの終りには、約300名の王党派がパリの街路で死んでいた。「葡萄弾の一吹き、"whiff of grapeshot"」というコメントを作ったのはナポレオンではない。ヴァンデミエール13日の出来事を描写したトーマス・カーライルの造語である。


写真:2014/05/13撮影

画像暴動鎮圧隊を指揮するボナパルト旅団長/作者:Auguste Raffet(ナポレオン従軍画家)

画像Paul Barras。ポール・バラ

The Project Gutenberg EBook of
THE HISTORY OF NAPOLEON BUONAPARTE
BY JOHN GIBSON LOCKHART
LIFE OF NAPOLEON BUONAPARTE
CHAPTER III, Page20/21

画像:葡萄弾

(翻訳者による画像の挿入)

  すべての橋に大砲を据えたボナパルトは、河を万全の支配下におき、河側からのテュイルリーの安全を確保した。彼はまた、国民衛兵がその他の前線に向かって前進すると思われるすべての道路の交差点に大砲を据え付けた。そして、テュイルリー公園とカルーセル広場に彼の大隊を配置し、攻撃を待ち構えた。


  暴徒たちは大砲を持っていなかった。そして、彼らはパリの狭い街路を密集した隊列でやってきた。一団がサン・ロック教会に到達したとき、サントノーレ通りで、彼らはそこに集められたボナパルトの軍隊の、2門の大砲をもつ一隊に出くわした。どちらが先に射撃を開始したのかという点については所説がある。しかし、ある瞬間に、大砲が街路と小路を掃射し、ぶどう弾を国民衛兵にぶち込んだ。これは混乱を引き起こし、彼らは逃げざるをえなくなった。ボナパルトが予め通達していたとおり、最初の一発がすべての砲兵中隊への合図だった。テュイルリーに面するセーヌ河の河岸は宮殿の下と橋に据え付けられていた大砲の支配下にあった。1時間も経たないうちに交戦は終了した。暴徒達はすべての方角に逃げた。道路は死者と負傷者で覆われていた。国民公会の兵隊達は種々の地区へと行進し、震え上がった住民達から武器を取上げ、夕闇が降りる前に全ては沈静化した。

ヴァンデミエールの反乱  (2)

画像:中佐服を着たナポレオン・ボナパルト、
コルシカ大隊、
1792
ベルサイユ博物館