ロワール戦役は二週間後、休養と増援ののちに始まった。ジャンダルクの旗の下で奉仕したいという志願者と物資の差し入れでフランス軍はふくれあがった。追放されたアーサー・リシュモン元帥でさえも、やがて認められて戦役に加わった。ジャルゴー(612日)、ミュン(615日)並びにボージャンシー(617日)における一連の短期間の包囲と戦闘ののち、ロワール地方はフランスの手に返った。ジョン・タルボーに率いられた英国軍の増援部隊がパリから駆けつけたが、すぐ後で(618日)パテの戦いで敗れた。これは何年にもわたるフランス軍の野戦勝利のうちで最初の重要な勝利であった。英国軍の指揮者達、サフォーク伯とタルボット卿はこの戦役で捕虜となった。このあとではじめて、フランス軍はランスへと行進すべきだというジャンヌの要求に同意しても安全だと感じた。

なにがしかの準備を整えたあとで、629日ランスへの行進がジアンから始まった。王太子シャルルはジャンヌとフランス軍に従い、危険なブルゴーニュの支配するシャンパーニュ地方を通った。オセールの街(71日)は市門を閉じて入市を許さなかったけれども、サン・フロランタン(73日)は若干抵抗したあとで屈服し、トロワ(711日)、シャロン=シュル=マルヌ(715日)と進んだ。翌日彼らはランスに到着し、王太子シャルルにジャンヌが側らに付添い、1429717日とうとう聖別されて、フランス国王シャルル七世となった。

(補)
   オルレアンのジャンヌ
=ダルク(4)

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画像聖ジャンヌダルク・センター 一部修正

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画像:ジャルゴーの戦い。マーシャル・ドーベルニュ画。写本「シャルル7世年代記」パリ、フランス、15世紀

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パテの戦い

画像:パテの戦闘。マーシャル・ドーベルニュ画。写本「シャルル7世年代記」パリ、フランス、15世紀

(翻訳者による画像の挿入)パテの位置:

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ランスへの道筋と日程

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画像1429 : シャルル7世、ランスでの聖別。
オーヴェルニュのマルシャールによる彩色挿絵。写本「シャルル7世年代記」パリ、フランス、15世紀

フランス軍はその日勝利し、英国軍をブールヴァードから追い出し、トゥーレルの最後の要塞に退かせた。しかし、この二つを繋ぐ吊り橋が落ちて、グラースデールは河の中に落ち、死んだ。フランス軍はトゥーレルそれ自体を両側から(橋はすでに修理されていた)攻撃し続けた。トゥーレルは半分焼け落ちて、夕方には陥落した。

英国側の損失は、甚大であった。その日の他の戦闘をも加えると、(防衛のために駆けつけた援軍の迎撃が著しかったのだが)、英国軍はほぼ1,000人の死者、600名の捕虜を出した。フランス軍の捕虜200名が複合体の中で発見され解放された。

トゥーレルへの強襲

画像:フランス軍がトゥーレル城塞を奪取する。マルシャル・ドーベルニュ画、写本「シャルル七世年代記」から。パリ、フランス、15世紀

画像:パテの戦闘、ジャン・シャルティエ画、年代記写本、ベルギー、15世紀.

(翻訳者による画像の挿入)

その後


英国軍は彼ら自身では敗北したとは考えていなかった。彼らはオルレアンで頓挫し、途轍もない損失を蒙ったが、オルレアンの周辺地域−ボージョンシー、ミュン、ジャンヴィル、ジャルゴー−はまだ彼らの手中にあった。実際、英国軍が自軍を再編成し、このすぐ後でオルレアン包囲を開始することは可能だった。多分今度はもっとたやすく成功するだろう。というのも、橋は現在修繕されているし、攻撃すれば陥落されやすい、と考えていた。58日の日はサフォーク伯は英国軍の残りを救い出すことに優先順位を置いていただけなのだ。

フランス軍の指揮者達はそう考えていたが、ジャンヌはそう考えてはいなかった。オルレアンを去り、513日に彼女は王太子シャルルとトゥールの郊外で会い、彼女の勝利を報告した。彼女は直ちに北東のシャンパーニュ、つまりランスへ向かって行進するよう要求した。しかし、フランス軍指揮者達は、ロワールにおける危険な状況から抜け出すべく、まず英国軍を一掃しなければならないことを知っていた。

包囲の結末

ブールヴァード-トゥレルが陥落したので、英国軍はロワール河の南岸を失った。この包囲を継続することの意味はなくなったので、オルレアンは今や簡単に物資補給を無限に受けることができた。

58日の朝、ウイリアム・ド・ラ・ポール(サフォーク伯)とジョン・タルボー卿の指揮下にあった北岸の英国軍は外堡を取り壊し、サン・ローランの近くの野原で戦闘陣形で集合した。デュノワ指揮下のフランス軍が彼らの前で対峙した。彼らは約一時間不動で面を付き合わせて立っていたが、英国軍はこの野原から撤退し、ミュン(ミュン=シュル=ロワール、ボージョンシーの上流)、ボージョンシーならびにジャルゴーの他の軍団と合流するために行進していった。何人かのフランス指揮官は英国軍をその場で潰滅させるために追撃しようと勇んだが、ジャンヌダルクがこれを禁止した。というのもその日は日曜だったからだ。

(翻訳者による画像の挿入)
 大針矢(bodkin arrow

ジャンヌはオーグスティヌにたいする攻撃の際、足に怪我をし、回復のため一晩オルレアンに連れ戻された。その結果、夕方の戦争会議に参加できなかった。翌朝、57日、彼女はブールヴァード-トゥーレルへの最後の攻撃に仲間入りしないように求められたが、彼女はそれを断り、奮起して南岸のフランス陣地に加わった。それを見てオルレアンの人達は喝采した。市民達は彼女のために召集人員を増やし、複合体に二面から攻撃ができるように、角材で橋の修繕を開始した。サン・アントワーヌ島には大砲が据え付けられた。

その日はあまり成果の挙がらない砲撃と、トンネルを掘ったり、艀を燃やすなどの方法で複合体の土台を崩す試みをして終った。夕方が近づいたので、デュノワのジョンは翌日最終決戦を行う決心をした。この決定を聞き、ジャンヌは馬を取り寄せ、暫時静かな祈祷を行う為に走り去った。そして陣営に帰ってくるや、梯子を掴み、彼女自身でブールヴァードへの正面攻撃を開始した。報告されたところによれば、彼女は軍隊に次のように呼びかけた。「すべてはあなたのものだ。ここに加われ!」。フランス軍の兵士達は彼女を追って殺到し、梯子に群がってブールヴァードに入った。ジャンヌは攻撃の初めに石弓合戦で肩を撃たれ急いで連れ戻された。彼女が死んだという噂が英国軍の守備隊を元気づけ、フランス軍の士気をたじろがせた。だが、報告によれば、彼女は(石弓用の)太矢を自分で引き抜き、怪我をしているにもかかわらず、すぐフランス軍の前線に姿を現わし、さらに攻撃隊を鼓舞した。(ジャンヌの告解を聞く司祭であったジャン・パスケルは彼の復権裁判の証言の際、ジャンヌ自身はこの事件につき、ある種の予告とか事前の予知をもっていた、と述べた。攻撃の前日、「明日、私の胸の上でからだから血が流れる」と言ったのだそうだ。)

画像: 写本「シャルル7世王年代記」。トロワの市民達が王太子とジャンヌに街の鍵を手渡す。

画像:オルレアン包囲で英国の砦に攻撃を仕掛けるジャンヌ。15世紀の絵。
(翻訳者注:原文にはこの画像が使われているが、この画像は本来、「サン・トノーレ門の攻撃」画像である。Wikipediaの引用間違い。)

画像:トゥーレル攻略の際のジャンヌ=ダルク。Paul Lehugeur画、19世紀。

画像:Google Map 2014

画像:中世で使われたbodkin point(上図)を持つ矢。