オーギュスティーヌ砦への強襲


翌日55日はキリスト昇天祭であり、ジャンヌはもっとも大きな英国軍堡塁である西方のサン・ローラン砦への攻撃を勧めた。だが、フランス軍の指揮者達はその砦の強靱さならびに彼らの部下が休息を必要としていることを知っていたため、彼女を説き伏せて彼らが祝日を平和に過ごせるようにした。宵越しの会議で決定されたことは、最上の作戦行動は南岸にある英国軍の砦を取り払うことであった。そこは英国軍がもっとも弱い場所だったからである。

作戦は56日早朝に始まった。オルレアンの市民達は、ジャンヌダルクに鼓吹されて彼女のために市民兵を立ち上げ、門のところに現われた。これは職業軍人の指導者には困った事態だった。にもかかわらず、ジャンヌは職業軍人を説得して、市民軍の応援を認めさせた。フランス軍はボートとバージに乗ってオルレアンから河を渡り、サン・テニアン島に上陸し、間に合わせの舟橋経由で南岸へと渡り、橋構造体とサン・ジャン・ルブラン砦の間の平原に上陸した。この計画はサン・ジャン・ルブラン砦を西方と切り離して取得することにあったのだが、英国軍の守備隊指揮官であったウイリアム・グラスデールはフランス軍作戦の意図を感じ取り、すでに急いでサン・ジャン・ルブランの外堡を取り壊し、彼の部隊を中央部のブールバード-トゥーレル-アウグスティーヌ構造体に集中させた。

ジャンヌの初めの仕事は、ブロワで編成されブサックの元帥とジル・ド・レーが指揮する護送隊に加わり、供給品をオルレアンに運ぶことだった。ジャンヌが彼女の有名な手紙を英国人の包囲指揮官達に送りつけたのはブロワからだった。その手紙のなかで、彼女は自分を「乙女」と名乗り、神の名において「立ち去れ! さもないと私は貴方を追い出す」と命令していた。

400-500名の兵士によって先導された救援隊は結局427ないし28日にブロワを出発した。ほとんど宗教行列のような陣立てであった。ジャンヌは北から(ボース地域を通って)オルレアンに接近するよう主張したのだが、そこは英国軍が直ちに救援隊を攻撃する意図をもって集中していた。しかし、指揮官達はジャンヌには知らせずに、旅団に南回りの(ソローニュ地域を通る)迂回路を取らせることを決定した。この道は市の東側約4マイルにある(チェシーの近くの)ルーリーでロワール河の南岸に到達するものであった。オルレアンの指揮官であるデュノワのジョンが河の対岸に出て来て迎えてくれた。ジャンヌは欺かれたことに腹をたて、直ちに南岸のもっとも近い英国軍の砦、サン・ジャン・ルブランを攻撃するよう命じた。しかし、デュノワは元帥達の支持を受け、抗議をし、いろいろ努力して結局は彼女を説き伏せて、なによりも先に、攻撃するよりも先に、この街に補給をさせることとした。糧食旅団がサン・ルー港の波止場に近づいた。この波止場の面する河の北岸に英国軍のサン・ルー砦があった。フランス軍がサン・ルーの英国軍駐屯部隊と小競り合いを起こして封じ込めている間に、船団を作ったボートがオルレアンからこの波止場に来て、糧食、ジャンヌならびに200人の兵士を引き取った。ジャンヌの有名な奇跡の一つがここで起ったと言われる。:すなわち、ボートを上流に連れて来た風向きが突然に逆転して、暗闇にまぎれて彼らを無事にオルレアンへと連れ戻した、というのである。ジャンヌは429日午後8時頃、意気揚々とオルレアンに入城し、大きな歓声を受けた。旅団の残りはブロワに戻った。

(補)
   オルレアンのジャンヌ
=ダルク(3)

包囲の解除


次の数日間、士気を鼓舞するため、ジャンヌはオルレアンの街路を定期的に巡廻し、人々に食料を配り、守備隊にサラリーを支払ってまわった。ジャンヌダルクはまた、英国軍の稜堡にメッセージを送り、彼らの立ち去りを要求した。これを英国軍は野次で返した。彼らの幾人かは伝言者を「魔法使いの使者」とみなして殺すぞと脅迫した。

ジャンヌは、戦術についてジョン・ド・デュノワならびにその他のフランス軍指揮官達との議論に加わった。ペルヌーのなかで引用されている「オルレアン包囲日誌」が報告するところによれば、次の週、ジャンヌとこの街の防衛を指揮する通称「オルレアンのならず者」、ジャン・ド・デュノワとのあいだで戦術につき何回もの激した議論があったようだ。どのような作戦行動をとるにせよ、守備隊の規模が小さいと信じて、51日、デュノワは街をライルとジャンヌの手にゆだねて街を去り、個人でブロワへ行って援兵を整えてきた。この幕間の間、ジャンヌは市壁の外に出て個人的にすべての英国側の砦を偵察し、ある時点で、ウイリアム・グラースデール彼自身とも言葉を交わした。

53日、デュノワの援兵旅団がブロワを出発してオルレアンに向かった。同時に他の軍団もモンタルジとジエンを出発してオルレアンの方向に出発した。デュノワの軍事旅団は河の北岸のボース地区(オルレアンの北)経由で、54日早朝に、到着した。英国軍のサン・ローラン砦が丸見えだった。英国軍は力不足であると考え、旅団の入城に挑まなかった。ジャンヌは騎乗で旅団を出迎えた。

サン・ルーへ急襲

フランス軍が南岸に秩序正しく上陸する前に、ジャンヌダルクはブールバードの(英国側)防衛拠点に無謀な攻撃をかけたと言われる。これはまったく惨事におわるところだった。というのもこの攻撃はアウグスティーヌ砦からの英国軍砲火に腹を曝した格好だったからである。この攻撃は中止になった。というのもさらに西方のサン・プリヴェ砦の英国軍駐屯兵が河を遡って駆けつけ、グラスデールを支援しフランス軍を断ち切ろうとする叫び声が聞こえたからである。周章狼狽がはじまった。フランス攻撃隊はブールバードから上陸地点へと撤退し、うろたえたジャンヌを彼らとともに引きずっていった。魔女が走り、呪文が解けたのを見て、グラスデール守備兵達は飛び出して追跡したが、伝説によれば、ジャンヌはひとりで振り向き対峙し、聖なる軍旗を掲げ、「Ou Nom De(神の名の下に)」と叫んだ。これは、報告されているところによれば、英国軍をハッとさせ、追跡を中断してブールバードに引き返させるに充分であった。逃げていたフランス軍は向き直り、彼女にむかって陣容を整え直した。

(翻訳者による画像の挿入)

(翻訳者による画像の挿入)

同日(142954日)の昼、あそらくは東経由の迂回路を通る通常の兵站旅団の入場をより多く確保するためだろう、デュノワはモンタルジ-ジエン軍とともに東方英国軍のサン・ルー砦に攻撃を仕掛けた。ジャンヌはほとんど機会を失いかけた。この攻撃がはじまったときうたた寝をしていたからであるが、急いで参加した。400名の英国の守備隊はフランス攻撃兵員1,500名に大きく数で劣っていた。フランス軍の向きを転じようとして英国軍の指揮官ジョン・タルボット卿はオルレアンの北端にあるサン・プーレール砦から攻撃を始めたが、フランスの出撃で押しとどめられた。数時間ののち、サン・ルー砦は陥落し、140名の英国軍兵士が殺され、40名が捕虜となった。サン・ルーの英国軍防衛兵士の幾人かは近隣の教会の廃墟で捕まった。ジャンヌの要求により、彼らの命は助かった。サン・ルー砦が陥落したことを聞いて、タルボットは北方での攻撃から退却した。

(翻訳者による画像の挿入)

事態の展開を見ていたジル・ド・レーはジャンヌに、直ちに攻撃を開始するように勧めた。しかし、フランス兵をブールヴァードに向かわせるのではなく、孤立しているアウグスティーヌ砦に向かわせた。その日まる一日続いた激しい戦闘ののち、アウグスティーヌ砦は日没前にとうとう陥落した。アウグスティーヌ砦を手中に収め、グラスデールの守備兵達はブールヴァード-トゥーレル構造体のなかに閉じ込められた。その晩、サン・プリヴェに残っていた英国の守備隊は砦を出て河の北へと行き、サン・ローラン砦の仲間と合流した。グラスデールは孤立した。しかし彼は、強力で落ち着き払った700-800人の英国守備隊を当てにしていた。

(翻訳者による画像の挿入)

(翻訳者による画像の挿入)

オルレアンへのジャンヌの到着


何年もの間、一人の武装した乙女がフランスを救うという漠然とした予言がフランスで流れていた。これらの予言の多くが予告していたことは、その乙女はロレーヌの国境からくるということだったのだが、ジャンヌの生誕地のドン・レミはロレーヌに属していたのである。結果として、ジャンヌが国王に会うために旅に出たという噂が包囲されたオルレアンの市民達に届いたとき、期待と希望が高まった。

ボードリクールに伴われて、142936日、ジャンヌはシノンに到着し、懐疑的なラ・トレモイーユ(侍従長、ジョルジュ・ド・ラ・トレモイーユ)に会った。39日、彼女はとうとう王太子シャルルと会ったが、彼女が王太子と私的な会合をもち、王太子がとうとう彼女の「能力」(あるいは少なくとも彼女の利点)を確信するにいたるまでさらに数日を要した。にもかかわらず、彼は彼女がまずポワチエへ行き、教会権威者達によって験されるべきだと主張した。彼女が無害であり、雇っても安全であるという牧師の判決が出てから、王太子シャルルは彼女の奉仕を受けることにした。これが322日。彼女には、板金鎧1着、一本の旗じるし、一人の使い走り少年、ならびに先触れ人が与えられた。

(翻訳者による画像の挿入)

翻訳者による注釈:
Beauceボースとはシャルトルを中心とする農業地帯。オルレアンの北。
Sologneソローニュとは北をロワール川、南をCher州の南端とする地域。

参考画像Herald 先触れ人

画像:シャイントライユのジャン・ポトンとエチエンヌ・ド・ヴィニョーユ、通称ライル。15世紀の写本「シャルル七世年代記」から。ジャンヌの配下の指揮者二人。エチエンヌとシャイントライユのポトン。

画像:オルレアン包囲の間の英国側外堡(がいほう)

画像:画像一部修正。サン・テニアン島を使って渡河。

画像:トゥーレル-ブールヴァード-アウグスティーヌ構造体断面図

画像:ジャンヌ=ダルクがオルレアン市に入城する。(J.J. Sherer画、1887年)オルレアン市美術館

画像:同上

画像:写本「シャルル七世年代記」。ジャンヌと王。

画像:NHK ルーブル美術館 vo.3, P64 
高階秀爾、日本放送出版協会 1985

画像:写本「シャルル七世年代記」の彩色画。ジャンヌが裁判官の前に引き出される。ジャンヌがシノンに到着する。

(翻訳者による画像の挿入)