(補)
   オルレアンのジャンヌダルク
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(翻訳者による画像の挿入)
 装甲馬車(wagon fort

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オルレアンの包囲は正式には14281012日に開始され、そして、1017日に大砲砲撃が始まった。英国軍は1021日にブールバールと称される堡塁を強襲したが、フランス軍の飛び道具、火炎、ロープ網、火傷油、加熱した石炭と生石灰により攻撃者は撃退された。英国軍は新しい正面攻撃を行うことを止め、土塁に坑道を掘り始めた。1023日、フランス軍は敵の坑道を自分の坑道で破壊し、坑道支柱に火をつけ、トゥレルに退却した。しかし、次の日、1024日、トゥレル自体が急襲により占拠された。フランス軍は退却の際、直接の追撃を避けるため、橋のアーチのいくつかを爆破した。

参考画像:宗教改革者ジョン・フスの支持者が馬車城で戦う。15世紀前半

鰊の戦い

 (この項については、The Battle of the Herrings翻訳です。)

画像:Google Map 2014 一部修正

画像:オルレアン包囲の間の英国側外堡(がいほう)

画像:オルレアンの包囲、1428。トゥーレルへの攻撃。

(翻訳者による画像の挿入)
men-at-arms 重騎兵

ニシンの戦いというのはオルレアン包囲の間、1429212日に生じた、フランスのルヴレという町(オルレアンの直ぐ北)の近くで生じた戦闘行為である。戦闘の直接的な原因はブルボン家のシャルル、クレルモント伯爵に率いられたフランス軍が英国軍に差し向けられた英国兵站旅団を遮って転回させようとしたことにある。英国軍は先年の10月以来オルレアンの街を包囲していた。フランス軍を支援していたのは、スコットランド軍隊同心であるダーンレー出身のサー・ジョン・スチュワートが率いるスコットランド軍であった。当該の地域にはルーブレーと呼ばれる場所が二箇所ある。サー・ジョン・ファストルフの自叙伝のなかで、ステファン・クーパーが、戦闘がルーブレー・サン・ドニではなくてルーブレー・サン・クロワで生じた理由を挙げている。

兵站護送隊はサー・ジョン・ファストルフによって率いられ、パリで支度され、暫く前に出発していた。レジーヌ・ペルノーによれば、この護送隊の編成は「三百有余の荷車と荷馬車からなり、石弓の矢、キャノン砲とキャノン砲弾をのせていたが、そのほかにニシン樽も運んでいた」。ニシンの樽なのだが、これは肉無しの質実な日々が近づいてきていたのが理由だった。この魚を積んでいたことが、この戦闘に常ならざる名前を与えることになった。


戦闘

戦いの場はほとんどとるにたらない平原であった。3,000ないし4,000名のフランス軍は比較にもならぬ少数の英国軍に正面攻撃をかけた。英国軍は、兵站馬車を引き寄せて間に合わせの砦となし、防禦態勢をとった。すべての防禦隊形のうえに、さらにフランス軍の騎馬隊の攻撃を防御するために、周り一面に研ぎ上げたスパイクを置いて防禦をかためた。この戦術はアジャンクールの戦いで採用されて非常な成功をおさめたものであった。フランス軍の攻撃は火薬大砲を用いた射撃で開始されたが、これは当時の比較的新しい武器であり、その正しい使用法はまだ充分に理解されていなかった。

 400名のスコットランド歩兵隊は、クレルモン伯爵の命令に逆らって(「クレルモンはいかなる攻撃をも禁止する旨の伝言を何度も送った」と、ペルノーは述べる。)英国軍戦闘隊形に向かって前進を開始した。ドブリエ(de Vries)によれば、このスコットランド歩兵隊の前進が、大砲射撃を時期尚早に中断させることにつながった、という。自軍撃ちを恐れたからの中止だった。スコットランド兵は甲冑による防護が不完全であり、英国軍の射手と石弓射手が装甲馬車の陰から攻撃したので、甚大な被害を受けた。

 この時点で英国軍は、残りのフランス軍部隊がスコットランド軍の攻撃に加わるのを躊躇しているのを見て、(「オルレアン包囲日誌」のなかでペルノーは次のようにいう、残りのフランス軍は「臆病なスタイルでやってきて、騎乗戦闘員とその他の歩兵達に加わることをしなかった。」)反撃することに決定した。彼らはフランス・スコットランド軍隊の編成の乱れを後部と側面から撃って、敗走させた。

 ペルノーが記しているところによれば、フランス・スコットランド軍隊は約400名を失い、そのなかには、スコットランド軍の指揮者であったステュワートも含まれていた。負傷者のなかにはジャン・ド・ドュノワが含まれていた。彼は、「オルレアンのならず者」という渾名で知られていたのだが、命からがら逃げ出した。彼はのちに、オルレアン包囲の解除とそれに続くフランス軍によるノワール河戦役で、ジャンヌ=ダルクとともに決定的な役割を務めた。

余波と重要性

現在一般的に感じられるニシンの戦いの敗因は、大砲砲撃を完全に継続することができなかったことにあろうが、その当時はそう考えられていなかった。少なくとも、包囲されたオルレアンではそう考えられていなかった。市壁のなかでは、包囲日誌のくだりから読み取れるように、クレルモン伯がこの惨事の一般的な責めを負い、臆病者だと見なされ、軽蔑された。だから、その後直ぐ、クレルモンは負傷したデュノワ伯とともに、2,000名の兵隊とともにオルレアンを去った。この街とその指揮者達の士気は低く、だから、この街を降伏させるという案も考慮されるに至った。

「ニシンの戦い」は、142810月に始まり、翌年5月のジャンヌ=ダルクの出現にいたるまでのオルレアン包囲の間ではもっとも重大な軍事行動であった。とはいえ、どう見てもそれはどちらかといえば小さな交戦であり、そこに生じた前後関係がなかったならば、軍事歴史のなかでの些細な補足説明に格下げされていたにちがいないし、あるいはまったく忘れ去られていたことにもなろう。

 しかし、これが歴史上もっとも有名な包囲作戦の一つの一部であったことに加えて、この物語が大いに流布された理由は、これが、ヴォクラールのロベール・ド・ボードリクールをして、シノン(政権)を支持して安全に指導しようというジャンヌ=ダルクの要求に同意を与えることにつき確信をあたえるための重要な役割をはたしたことにある。というのも、ジャンヌがボードリクールと最後に会ったのが、この戦いのまさしく当日(1429212日)であったからだ。種々の場所(たとえば、Sackville-West)で詳しく話されたストーリーによれば、ジャンヌは「王太子による戦闘がこの日行われ、オルレアンの近くで大敗北した」との情報を伝えた。数日後、ルヴレの近くでの軍事的頓挫のニュースがヴォクラールに実際に届いたとき、ボードリクールは、ジャンヌを不憫に思うようになり、シノンで王太子と面会するためのジャンヌの旅行費用の支出に同意したのだ、と言われる。ジャンヌは1429223日、ヴォクラールからシノンに向けてとうとう出発した。

(以上、「ニシンの戦い」)

包囲の初期段階

トゥレルに対する攻撃

外堡(がいほう)の建設には難しさが無くはなかった。フランスの守備隊が繰り返し出撃して、建設作業員を悩ませ、組織的に郊外にある他の建造物を破壊した(とりわけすべての教会を)。これは冬の数ヶ月間、これらの建造物が英国軍の避難小屋として使われるのを防止するためだった。1429年の春までに、英国軍の外堡はこの街の南と西をカバーしていたが、北東部分は基本的に開け放たれていた。(にもかかわらず、英国軍のパトロールが群れをなしていたのだが)。フランス軍の重騎兵の大群の分遣隊を使い、このパトロールを押し分ければ、街に入ったり出たりできたが、軽く警護されていただけの食料や糧食輸送隊の入市は、ここでも遠く離れた場所でも堅く閉ざされていた。

(翻訳者による画像の挿入)
注:石弓

オルレアンの置かれていた立場は暗澹たるものだった。フランス軍はまだ孤立した城塞、北東方向にモンタルジならびに上流にジアン、をもっていたのだけれども、救援は南西にあるブロワからであるべきだった。が、まさしくそこは英国軍が軍隊を結集させている場所だった。糧食の護送隊は危険な回り道を辿り、北東方向からこの街に到着に辿り着く以外なかった。それをやってのけた護送隊の数は少なかった。そして、この街は危機を感じ始めていた。オルレアンが陥落したとしたら、フランスの北半分を取り戻すなんてことは事実上ほとんど不可能になるにちがいなかったし、王太子シャルルが王位に就くという努力も致命的な結果に終ることとなったであろう。14289月、フランスの諸階級(聖職者、貴族、平民)がシノンに参集した際、彼らは王太子にむかってブルゴーニュのフィリップ三世と「どんな犠牲を払っても」和約すべきだと迫ったのであった。

(翻訳者による画像の挿入)
モンタルジの位置

南岸では、英国軍の中心は橋複合体(トゥレル-堡塁といまや要塞化されたアウグスタン修道院からなる)であった。この橋への東方からの接近を防護するのはサン・ジャン・ルブラン砦であり、橋複合体の西方にはシャン・ド・サン・プリヴェ砦であった。プリヴェはまた、シャルルマーニュ島への橋(この島ももうひとつの砦だった)を護っていた。ロワール河の北岸で、シャルルマーニュ橋の反対側にはサン・ローラン砦があった。この砦は、もっとも大きな英国軍の堡塁であり、英国の軍事作戦の頭脳センターであった。その砦の上方に一連のより小さな外堡があった。順番でいうと:「木の十字架」砦、「十二の(宝)石」砦(渾名は「ロンドン」)、「Aps圧搾機」砦(渾名は「ルーアン」)、そしてオルレアンの街の北にサン・プーエール砦(渾名は「パリ」)である。これら全てが幹線道路上に設けられていた。その次に来るのが大きな北東空隙(ギャップ)である。もっともその背後は大概オルレアンの森の深い森林でおおわれていたのだが。最後に、この街の2km東の北岸に孤立したサン・ルー砦があった。