欧州の他の君主達はフランスにおける展開に懸念の気持ちをもって眺め、彼等が干渉すべきかどうかを考えた。ルイを支持するのか、あるいはフランスでの混沌状態を利用するのか。鍵となる人物は、マリー・アントワネットの兄である神聖ローマ帝国皇帝レオポルド二世だった。当初、彼はこの革命を平静に眺めていた。しかし、革命がだんだんと過激になっていくと、ますます心がかき乱されていった。しかし、にもかかわらず、彼はまだ戦争を避けたいと願っていた。

827日、レオポルドとプロイセンのフリードリヒ・ウィルヘルム2世はフランス貴族の亡命者達と相談し、ピルニッツ宣言を発布した。この宣言は、欧州君主達の関心はルイとその家族の幸せにあるとし、若し彼等になにかが降りかかることになれば、漠然とはしていたが、手厳しい結果を招くことになろうと、脅迫した。レオポルドはピルニッツ宣言を、災難がふりかからぬよう、兵隊とか融資の決断を行わぬまま、フランス情勢への関心を示す簡単な方法だと考えていたのだが、パリの革命指導者達はそれを怖々、フランスの主権を覆す危険な外国の企てだと考えた。

 フランスと欧州の君主国勢力との間にはイデオロギーの差があったことにくわえて、アルザスにおけるオーストリア人の財産に関する継続的な論議があり、また、海外、特にオーストリア領ネーデルランドとドイツの小国における亡命者貴族の扇動につき、憲法制定国民議会メンバーが憂慮していたことがあった。

 結果として、立法議会は、ルイ王の賛意を受け、まず神聖ローマ帝国にたいし宣戦した。投票は1792420日に行われたが、その前に外務大臣シャルル・フランソワ・デュモリエは、長たらしく苦情を述べ立てた。デュモリエはオーストリア領ネーデルランドを直ちに侵略するよう準備した。彼は、ここでの地方住民がオーストリア支配に反対して立ち上がることを期待したのだ。しかし、革命によって軍隊の組織が完全に崩れてしまっていて、立ち上げられた軍勢では侵略には不十分だった。兵士達は戦闘開始の合図があるやいなや逃げ出し、集団逃亡し、自分等の将軍を殺害したケースもあった。

 1789105日、パリの女性労働者の怒った一群が革命論者に先導されて、国王の家族が住んでいたヴェルサイユ宮殿に行進した。彼等は夜の間に宮殿に忍び込み、王妃を殺害しようとした。彼女は、大いに嫌われていたアンシャン・レジームの象徴である軽薄な生活様式を行っていた。この状況の緊張感が取り除かれたのち、国王と家族は群衆によってパリのテュイルリー宮殿へと連行された。ヴェルサイユから強制的に出発させられた理由は、もし国王が彼らと一緒にパリに住んでおれば、国王は人民に対しもっと話がしやすいだろう、ということだった。

 革命の原理である人民の主権は、後の時代の民主主義原理の中心をなすものではあるが、伝統的なフランス政府の心情であった絶対君主主義と決定的な裂け目を印すものであった。だから、革命は多くのフランスの田舎者によって、またフランスの隣国の多くの政府によって反対された。革命が過激さの度合を増し、大衆がみずからの抑制が効かなくなると、革命の初期形成過程で幾人かの指導的な人物が革命のメリットにつき疑い始めた。オノレ・ミラボーは秘密裏に国王と計り、新しい立憲的な形式をとって国王の権力を回復させようとした。

 1791年の初め、外務大臣モンモランは革命勢力にたいしひそかな抵抗を組織し始めた。こうして、国民議会によって毎年議決される年間王室費の資金が部分的に君主制を保存するための秘密費用に割り当てられた。アルノー・ラポルテは年間王室費の担当であったが、彼はモンモランとミラボーの両名に協力した。ミラボーが突然死んだあと、著名な金融業者であるマクシミリアン・ラディ・ド・サント-フォアが彼の跡を継いだ。実際に、彼は国王の秘密助言評議会の長であり、君主制を温存しようとしていた。;これらの企ては成功せず、のちにアーモワール・ド・フェール(鉄の箪笥)事件として暴露された。

ルイ16世のテュイルリー生活

画像1791625日、国王一家のパリへの帰還。ジャン-ルイ・プリュールのスケッチによる彩色銅版画

翻訳者注:モンメディ

画像:Google Map, 2014

ヴァレンヌへの逃走(1791)

ミラボーの死とルイの優柔不断によって、国王と穏健な政治家との間の交渉は破綻した。一方では、ルイは彼の兄弟であるプロヴァンス伯とアルトワ伯のような保守反動でもなく、繰り返して彼等にメッセージを送り、反クーデターを打ち出そうとする彼等の試みに待ったをかけた。これはしばしば彼が秘密裏に任命した摂政であるロメニー・ド・ブリエンヌ枢機卿を通じて行った。その一方で、ルイは新しい民主政府と仲違いした。君主の伝統的な役割にたいして否定的な反応をしたとか、彼と彼の家族の扱いにつき文句を言ったりしたとかで。彼がとくにうんざりしたのは、テュイルリーのなかで一人の囚人としての本質的な扱いを受けたことであり、彼の妻が彼女の寝室で眠っているところを革命兵士達によって屈辱的に強制監視されたとか、新しい政府が彼に自分の告解司祭.や司祭を選択させることを許さず、ローマ・カトリック教会ではなくて、国家に誓約した立憲上の牧師をあてがったことであった。

画像:ルイ16世の彩色銅版画、1792年。表題はテニスコートの誓いの日付を参照して、次のように結論付けている。「このルイ16世は勇敢にも、仲間の市民達が自分たちの炉端に帰り、秘密戦争を計画し、彼に復讐する迄待つつもりだ。」

Wikipedia Louis XVI (英語版)
を日本語に翻訳して部分抜粋した。

革命政府が死にものぐるいで新しい軍団を徴募し、既存の軍隊を再編成している間に、ブルンズヴィック公カール・ヴィルヘルム・フェルディナンド指揮下の、大部分がプロイセン兵からなる同盟軍がライン河のコブレンツで集合した。71日、侵略が開始され、ブルンズヴィック軍はロンウィとヴェルダンの要塞を簡単に奪取した。公はそれから725日にブルンズヴィック声明と呼ばれる宣言を行った。この声明は、ルイの亡命した従兄弟のコンデ王子によって書かれたもので、国王に全権を回復させ、彼等に反抗する人間あるいは街を戒厳令によって死刑を宣告する、というオーストリアとプロイセンの意図を宣言しているものであった。

写真:ドレスデン郊外のピルニッツ城。2008/06/17撮影

(翻訳者による画像の挿入)

画像:中央黒服の男、左が神聖ローマ帝国皇帝レオポルド2世、右がプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世。1791825日、ピルニッツ

顕微鏡的な水準からすれば、この逃亡が失敗した原因は、一連の不運、遅延、誤解並びに下手くそな判断であった。より広い視野で見れば、この失敗の原因は国王の優柔不断さに帰せられる。すなわち、彼は何度もスケジュールを延期し、小さな問題を針小棒大に扱ってしまったのである。さらに、彼は政治情勢をまったく理解していなかった。彼はパリにいる少数の過激派が革命を推進しているのであって、人民は全体として革命を拒否しているのだと考えていた。彼は、彼が農民達や一般民衆から愛されていると間違って考えていた。国王の逃亡は、短期的には、フランスにとって精神的外傷であり、懸念からパニック的な暴力におよぶ感情の波を掻きたてた。誰もが認めるように戦争が差し迫っていた。国王が革命を実際上拒否したことをより深く認識することは、それまで神の意志の表明として支配してきた善良な国王として彼を見てきた人達にはより大きなショックであった。彼等は、裏切られた、と感じた。共和主義が喫茶店から飛び出してきて、急速に過激化しつつあったフランス革命の支配的な哲学となった。

(翻訳者による画像の挿入)
注:ヴァレンヌの位置

1791621日、ルイは彼の家族とともに、パリからフランスの北東の国境の王党派の砦街モンメディへこっそりと逃げようとした。この街で亡命者達と合流し、オーストリアに保護してもらうつもりだった。国民議会が憲法制定業務に骨折っている最中に、ルイとマリー-アントワネットは彼等自身の計画に係わった。ルイはド・ブレトイユ男爵を全権大使に任命し、反革命がもたらされるようにするため、諸外国首脳と取引できるようにした。ルイ自身は、外国の支援に依存することを躊躇していた。オーストリア人は油断できない人達だし、プロイセン人は過度に野心的である、とルイは、彼の両親と同じように、考えていた。パリでの緊張が高まり、ルイが彼の意志に反して国民議会で決められたもろもろの方策を受諾するように強いられたとき、国王と王妃はフランスから秘密裏に逃げようと企んだ。逃亡したうえで、彼等はすでに逃げていた亡命者の助けを借り、また同時に他の諸外国からの援助を受けて「武装議会」を立て、それでもってフランスに帰る、つまりはそうしてフランスを取り戻そうと願った。この計画がルイの政治的決断を暴露することになった。;不運にも、この決断された陰謀により、彼は反逆罪を宣告されることになったのである。しかし、彼の優柔不断とフランスを誤解したことにより、この逃亡は失敗することとなった。国王一家は、ジャン-バプティスト・ドルーが紙幣にプリントされていた彼の横顔から国王を認識し、警報したので、すぐにヴァレンヌ-アン-アルゴンヌで捕まった。ルイ16世と彼の家族はパリへ連れ戻され、625日に到着した。反逆者として疑いの目で見られ、テュイルリーへ帰館したうえは厳重な自宅監禁となった。

外国勢力による干渉

画像テュイルリー宮殿の襲撃

 革命家達に対して反対し、国王の地位を強化せんと意図した目的に反して、ブルンズヴィック声明はパリでのルイの、すでにとても薄弱になっていた地位を大きく切り崩す逆効果となった。沢山の人達がこれをルイと外国権力の共謀であって、彼自身の国に対する隠謀の最後の証拠であると受け取った。人民の怒りは沸騰し、810日、パリの新しい市政府にバックアップされて、一群のパリ市民がテュイルリー宮殿を襲った。これはのちに、「反乱的な」パリ・コミューンとして知られるようになる。国王と国王の家族は立法議会に避難した。

以下、ルイ16世のテュイルリー生活(2)に続く。

参考画像:左がサン・キュロット。右側の人物が履くのがキュロット。

革命的な憲法統治-1789–1792

画像16世紀に神聖ローマ帝国皇帝カール5世が築造した要塞。1657年ルイ14世が攻略して取得。フランス領となる。革命の際は君主制擁護派が圧倒的に優勢であった。

画像ブルジョワ的立場から初期の革命を主導し、(イギリス型)立憲君主制を主張したオノーレ・ミラボー

翻訳者注:sans-culotte、サン・キュロット
上図でルイ16世がはいているのが丈の短い「キュロット」。
対照的に平等の精神を服装で表現するために、平民戦闘員はサン・キュロット姿であった。
例えば、