1211日、人出は多いが静まりかえった街路を通って、退位した国王はタンプル塔から連れてこられ、国民公会の前に立ち、大逆罪と国家反逆罪の告訴状を聞くこととなった。1226日、彼の弁護士であったレイモン・ド・セーズはフランソワ・トロンシュとマレシェルブの助けを借りて、これらの罪状に対するルイの反応を伝えた。



1793115日、721名の代議士からなる国民公会は評決を投票にかけた。ルイが侵略者と共謀したという圧倒的な証拠を与えられて、票決は、結論が先行した。693人の代議士が有罪に投票し、無罪放免はゼロ、23名が棄権した。翌日、点呼投票が行われ、前国王の運命が決定した。結果はそのような劇的な決定にたいして気詰まりに思える接戦だった。288人の代議士が死刑に反対し、なんらかの他の刑罰、主になんらかの投獄あるいは国外追放、を主張した。72人の代議士は死刑に投票したが、多数の延期条件と留保条件をつけた。361人の代議士がルイの即時処刑に投票した。前のオルレアン公でルイ自身の従兄弟であったフィリップ・エガリテはルイの処刑に賛成投票し、後にフランスの王党派の間でたんまり嫌みを言われる原因となった。

ルイが断頭台に上がったとき、彼は威厳ある態度で諦観しているように見えた。彼は短いスピーチをしたが、そのなかで、自分の無罪を再び主張した。(「私は私の不運の原因となった人達を赦す」)。彼は自身が死を欲していることを宣言し、フランスの国民におなじような運命がないように祈った。多くの記述からすると、ルイ16世はなにかもっと話したいような素振りだったが、国民衛兵の将校であったアントワーヌ-ヨゼフ・サンテールが太鼓の連打を命令して、そのスピーチを止めさせた。前国王はその後迅速に首をはねられた。ルイの斬首にかんする説明のいくつかによれば、刃は最初彼の首を完全に切断しなかった、という。また、刃が下りたとき、ルイが血も凍る叫び声を発したとの記述もあるが、刃がルイの脊髄を切断したのちに、こういうことが起きるとは思われない。ルイの血が地面に滴り落ちているときに群衆の多くが駆け寄って彼等のハンカチを血に浸した、というのは肯定されている。2012年に、ルイ16世の斬首からと考えられる血とアンリ4世のミイラ化した頭であると長い間考えられていたものから採った組織サンプルのDNAとをDNA比較にかけたところ、この記述は正しいと証明された。このときに使った血液サンプルはフランス革命の英雄達を記念するために造られた瓢容器から採集されたもので、この瓢箪は、伝説によれば、ルイの血液を容れるために使われたのだという。

画像:革命広場におけるルイ16世の処刑。彼の前の空っぽの台座にはかつて彼の祖父、ルイ14世の像が立っていたのだが、革命中に引き倒されてしまった。

画像屋内馬術練習場で行われた国王裁判(17931月)

ルイの投獄と処刑、1792-1793

ルイは1792813日、正式に逮捕され、パリにある古代の要塞であり、監獄として使用されていたタンプル塔に送られた。921日、立法国民議会はフランスを共和国であると宣言し、君主制を廃止した。ルイはすべての肩書きと叙位を剥奪され、この日から単なる市民ルイ・カぺーとして知られることとなった。

ジロンド党員達は退位した国王を、人質として、また将来にたいする保証としての両面から、捕縛したままにしておくことを好んだ。より過激なメンバー−主としてコミューンとパリの代議士達で後に山岳党と知られるようになる人達だが−はルイを直ちに処刑するよう主張した。代議士の多くが法律的な背景をもっていたので、彼等の多くはなんらかの法律的過程を経ないまま処刑することは受け入れがたかった。そして、投票の結果、退位した君主は、国王親派の代議士を擁した機関だった国民公会で裁判にかけられることになった。多くの方面から見て、前の国王を裁判にかけることは、革命を裁判することと同じだった。裁判がこのように解釈されたので、国王が死ぬということはもう一方の死をも意味した。ミシュレが主張したことは、前の国王の死は、暴力を幸福を得る手段として受け入れることにつながる、という危惧だった。彼はこう言った。「多数の人間の幸福を得るために一人の人間を犠牲にする、という提案を受け入れるのであれば、すぐさま同様に、多数の人間の幸福のために二人あるいは三人、あるいはもっと多くを犠牲にしてもよい、という論理に繋がる。少しずつ少しずつ、我々は多数者の幸福のために多数者を犠牲にするという理屈づけを得ることになる。これは(正義ではなくて)取引だ。」

179211月、アーモワール・ド・フェ(仏語:「鉄戸棚」)事件がテュイルリー宮殿で発生した。これは国王の部屋に隠し場所があって、そこに秘密書類が隠されていたことである、と信じられている。この鉄戸棚の存在が、ジロンド党の内務大臣であったジャン-マリー・ローランによっておおっぴらに暴露された。この結果招じたスキャンダルが国王の信用を失墜させることにつながった。

翻訳は以上。

 翌日、ルイ16世にたいする死刑の執行延期の動議が否決された。:310名の代議士が慈悲を要求したが、380名が死刑の即時執行に投票した。この決定が最終であった。1793121日、ルイは革命広場でギロチンにより首をはねられた。処刑人のシャルル・アンリ・サンソンが証言するところによれば、前国王は勇敢に彼の運命を享受した。

画像L'armoire de ferはパリの国立公文書館に保存されている。

ルイ16世のテュイルリー生活(2)

注:L'armoire de fer (French: 'iron chest')

鉄の戸棚(ラルモワール・ド・フェール)というのは、テュイルリー宮殿のフランス王ルイ16世の居室の隠し場所のことを指す。そこに秘密書類が隠されていた。この鉄の戸棚は木のパネルの後ろにかくされていたのだが、その存在は、179211月(810日テュイルリー宮襲撃ののち)ジロンド党内務大臣ローランドに通報されて公になった。このスキャンダルは王の信用を失墜させた。