翻訳者注1
フランス革命は、

1789617日:
      国民議会の成立宣言。
アベ・シェイエスのもとで国民議会
      の成立が宣言された。ただし、第三身分のみ。

178979日:
      憲法制定国民議会が成立した。国王の勧告に従って、残り
      の勢力も国民議会に加わった。

1789714日:
      サン・キュロット(第三身分)によるバスティーユ襲撃。

1789826日:
      人間及び市民の権利の宣言。基本的人権を有し、自由かつ
      権利において平等な市民によって構成される市民社会の諸
      原則が確認された。

の順序で、(アメリカ合衆国理念にそった)民主主義理念が策定されたのだが、この理念によって創立されたジャコバン党(Jacobin)は、幾多の曲折があったが、ここに至って弑逆された。ボナパルトが「人間と市民の権利宣言」を潰滅させた、と言い切ることができる。

容疑者の捜索と刑罰


警察の情報屋は、ある極左のジャコバン党員で「レゼクスクルーシフ(過激派)」として知られている人達がナポレオンを地獄爆弾で殺そうと謀った、と信じた。フランス革命第9年ブリュメール16日と17日(1800117-8日)、パリ警察はエクスクルーシフの陰謀者達を逮捕した。そのなかには、メッジェという名前の扇動家とシュヴァリエという名前の化学者が含まれていた。

(翻訳者注:ブリュメールのクーデター

メッジェは「トルコとフランス軍」という題名のパンフレットを出版していた。これは、ナポレオンとマルクス・ブルータスによって殺されたローマの専横の支配者ジュリアス・シーザーとを比較して、専制君主ボナパルトを刺殺する何千人ものブルータスの生誕を要求していた。シュヴァリエは一軒の納屋で爆発物の実験をし、ナポレオンを殺すための爆弾を作ったとされていた。しかし、一ヶ月前にサン・ニケーズ通りで爆発した地獄機械はシュヴァリエの爆弾ではなかった。

サン・ニケーズ通りの陰謀 (2)


             Wikipedia: plot of the rue Saint-Nicaise

(翻訳者による画像の挿入)

(翻訳者による画像の挿入)

翻訳者注:
Arcole
Veronaの東20km
Tagliamento Riverは翌年1797年の戦い。

130人の被疑者達は地獄機械の身代金だった。彼らのほとんど全員は釈放されることはなかった。フーシェが真犯人であるサン・レジャンとカルボンを捕まえたとき、すなわち、ニヴォース(革命暦のニヴォース月)の企てがシュアンの仕事だとわかったときにはもう遅かった。危険視されたジャコバン党員達には恩赦はなかった。というのも、彼らの追放が実際に望まれたからである。ちょっとした用心があれば、彼らがサン・ニケーズ事件への関与を宣告されることはなかったであろう。だが、彼らは公衆安全対策の名目で処理されたのである。ナポレオンは何事をも自分に好都合になるようにした:大衆の怒り、タカ派的な革命家の絶滅、並びに彼が王党派達の間に和解できない敵をもっていたことの徴候。それが全てではなかった。彼の眼前にある特別の環境に合致するような法律をつくり、それを支配者にとって比較するもののない便利な楽器にしたてあげるのは難しかった。通称ロベスピエールの残党と呼ばれていた人達の国外追放が反対される場合、反対するのは、立法に責任ある二つの機関だった。裁判所には(ナポレオンに対する)敵意があり、立法院は(ナポレオンに対して)仲良くなかった。

画像

タレーランは小さい、従順な、扱いやすい、保守的な団体である元老院へ訴えることを提案した。元老院での審議は公開されないという利点があったからである。憲法を保護するという理由で、元老院は憲法を修正することが求められた。シェイエスのシステムは完全であり、それ自身をも痕跡も残らぬよう消してしまうほどであった。

フランス革命暦第9年ニヴォース14日(180114日)、第一執政ボナパルトと彼の二名の同輩であるカンブラセーレとルブランは130名のジャコバン党員を国外追放に処した。執政官布告は次であった。:

ここに名前を記す130名のジャコバン党員は、ニヴォース3日のテロ行為、地獄機械の爆発、に部分的に責任のある容疑者であり、共和国のヨーロッパ以外の地域で特別監視下に置かれる。

ニヴォース15日(15日)、従順な元老院は、執政達の行動が憲法に合致していることを証明したうえで、元老院決議を発行して、この布告を裁可した。130名の不運な容疑者達は裁判なしで、また上訴の権利もなきまま、フランスから国外追放された。ナポレオンは次第に、あたかも彼が思うことをなんでもやれる権力があるかのように行動し始めた。二日後、ニヴォース17日、彼はのちにメリト伯となるアンドレ-フランソワ・ミオをコルシカのゴロとリアモーネの両県の県令にした。この地域では、反ボナパルト感情が強く、ボナパルトは憲法による支配を中止していたのだ。この日は、キリスト教の日付で17日であり、ヨーゼフ・ボナパルトの33歳の誕生日だった。

翻訳者注:
1799
年のブリュメールのクーデターの結果、次の国家機関が180011日に創設された。

le Tribunat                                裁判所

le Conseil d'État                         国事院

le Corps législatif                       立法院

le Sénat conservateur                  元老院

ナポレオンはあきらかに、彼の命を狙った試みは極左のジャコバン党エクスクルシーフによっておこされたものと確信していた。フーシェ(当時の警察庁長官)はシュアンを首謀者だとしたが、ボナパルトは、それを聞き入れなかった。彼は「ひどくショックを受け、非常に怒っていた」。彼は自分がフランス国に奇跡を起こしたのだから、自分を暗殺する者は恩知らずだと信じていた。彼は国務院に話した。「このような残虐な犯罪にたいして我々は稲妻のような復讐をすべきだ;血が流されなければならない;犠牲者の数と等しい数の犯罪者を射殺しなければならない」。ナポレオンは母国フランスから「ジャコバン党員である敵」を一掃したかった。実際の犯人達がフーシェの警察によって逮捕されたあとになっても、ナポレオンは無辜の人達を特赦することを拒否した。彼らはフランスから国外追放にされるべきだと主張したのである。

  ジュベール将軍はまだプリモラーノ(Primolano)近辺にいたのだが、ナポレオンは32,000名の兵員とともにタリアメント川へと行進した。防護していたのはマッセナ将軍配下の11,000名の防衛軍であった。(1797316日)ヴァルヴァソーネ(Valvasone)の近くでナポレオンとマッセナ軍は重火器の援護の下でタリアメント川へ殺到し、オーストリア軍隊をウディーネへと退却させた。これが(オーストリアの)レオーベンへと続く行進の開始であり、カンポ・フォルミオ条約(対仏第一次同盟の潰滅、ベルギーのフランス帰属、等々ナポレオン戦争第一段階の終了)へと結実した。

(翻訳者による画像の挿入)

翻訳者注:タリアメント川

 1797313日、ナポレオンの主力軍はピア-ヴェ川を渡り、ヴァルヴァソーネでタリアメント川に向かって前進した。316日、ベルナドットとグヨーの両師団は川を押し渡った(タリアメントの戦い)。この戦いはこの戦役中ではあまり注目されなかった一齣であった。

オーストリア軍は500名の兵員を失い、東方へ退却した。

画像:Google Map 2014、図中A印がValvasone
ヴァルヴァソーネの東に流れる川がタリアメント。

ジグムンド・フロイドは、ナポレオンは「とても健全な睡眠者」であったと信じ、この夢につき次のように書いた。フロイドの考えでは、ナポレオンはタリアメント川を夢想していたのだ。この夢想はその爆発で引き起こされたのだ。この押しつけられた物理的な刺激を処理するために、寝ていたナポレオンは、目が覚める前に、爆発の音を彼の夢のなかに「編み込」んだ。まだ夢のなかにいて彼はオーストリア軍に砲撃されていると思い込み、ナポレオンは目覚めて叫んだ。「我々は地雷で爆破された!」。フロイドが考えるに、ナポレオンは遂に喚きだした。「我々は計られた!」。第一執政は爆発する爆弾の音をまだ夢から覚める前に戦闘の夢のなかに織り込んだ、のだ。フロイドが信じるところによれば、ナポレオンの夢は目覚まし時計の夢であり、夢を見る人の眠りを維持し、外的な騒音によって乱されることのないようにと、外部の刺激を夢の構造のなかに織り込んだのである。「彼をかき乱そうとしていたのは、アルコーレでの単なる大砲の轟音の夢の記憶にすぎない、という確信をもってナポレオンは眠り続けた。」

爆発の犠牲者

ナポレオンはひどく動揺したが、肉体的には無傷で地獄機械を逃れた。彼はオペラ座に到着したとき、聴衆からスタンディング・オヴェーションを受けた。しかし、この爆発により居合わせた幾人かの無辜の人達が殺された。何人かははっきりしない。ある学者が信じるには、この爆発で「1ダースの人達が殺され、28人が負傷した」。別の人の意見では、「無辜の9人が死に、26人が負傷した」。三番目の学者はこう書いている。この爆弾は二人の人間を殺し、6人に重傷を負わせた(そのほか軽傷者)。この爆弾は、サン・レジャンから金を貰い、爆弾を積んだ荷車に繋がれた雌馬を抑えていた14歳の少女ペンソールと、勿論のことだが、その雌馬を殺した。「ナポレオンに喝采を送るべく店先に立っていた一人の女性は胸をもぎ取られた。;もう一人は盲目になった。」また、その他の医学的な影響もあった。ナポレオンの妻、ジョセフィーヌ、は失神した。彼女の娘ホーテンスの手は切り裂かれた。ナポレオンの妹カロリーヌ・ムラーは妊娠9ヶ月目であり、感情的な健康度はしっかりとしてはいなかったが、ひどい精神的外傷を受けた。彼女は懸念し、抑圧状態となった。彼女が18011月に産んだ息子、アキーユ・ムラーはてんかんになったと報告されている。後にカロリーヌはさらに三人の子供を産んだ。

画像:タリアメント川の戦い
C. Vernetによる原画に基づく銅版画。銅版画作者はMr. George Cruikshank
発行:Sept.11, 1823 by John Fairburn, Broadway, Ludgate Hill.
水彩加色
210 x 285mm. 8¼ x 11¼"

(翻訳者による画像の挿入)

画像ジョゼフ・フーシェ

事実、ナポレオンは179611月のアルコーレでの戦闘よりはむしろ、17973月のタリアメント川の戦いを夢見ていたのだ。この川は無意識のうちに、彼の感情、騎兵隊、彼の野心を象徴したのである。ナポレオンは爆発のあと眠らなかった。:「ボナパルトは、敵がこの機会に乗じて彼を殺そうとしているので、1分をも失うこともなく、直ちに前進する決断をした。」フロイドが認めていることだが、彼はこの夢につき二つの異なる情報源、ガルニエともう一つ、をもっていた。これらは「食い違っていた」のだが、彼はもう一つの情報源の名前を挙げず、言及しなかった。

(続き)

ナポレオンの夢の解釈

画像17991213日、第一執政ボナパルトによって設立された元老院。(現在のルクサンブール宮)

画像ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネ。ナポレオンの最初の妻。

翻訳者注2

179028日に結成されたジャコバン党の当初の設立目的については、英語版WikipediaJacoban」を参照せよ。

画像1789826日付人間と市民の権利宣言(The Declaration of the Rights of Man and of the Citizen of 26 August 1789