(翻訳者が付加した画像)

1805年、パリのテンプルは一人の王党派により買取られ、巡礼が継続した。そのうちに、ナポレオンの大臣達がこれを完全に禁止し、要塞の壁の撤去を命令した。この撤去の延長として、ナポレオン自身が1808316日付布告で「タンブル塔」の破壊を命令した。この塔の破壊により、すべての古代の騎士団の残骸が消失したことになる。ただ一つ残っているのは、団長宮殿である。

1805年と1810年の間に、残っていた建物の大部分(教会と塔)が消え去った。

1823年には、団長宮殿は聖晩餐の永続崇敬ベネディクト修道院の座となった。

しかし、19世紀の半ばを通じて、ナポレオン三世がこの宮殿を破壊し、これを過ぎ去った時代の最後の一片とした。「テンプルの新しき村」は建築学上の記憶以上のなにものでもなくなった。

この記憶を感じたいと思う人達にとっては、タンプル広場と第3区の区庁舎がパリのタンプルによって残された場所を埋めるであろう。

画像:テンプル騎士団長ジャック・ド・モレ、他一名の火刑の写本彩飾。フランス或いはサン・ドニ年代記から。BL Royal MS 20 C vii f. 48r

タ ン プ ル 塔  (2)

画像:フィリップ4世。英国との戦争に必要だった膨大な戦費の調達をめぐり、ローマへの教会税の支払を停止(1305年)し、テンプル騎士団を解体(1307年)し、傀儡教皇を立てて「アヴィニョン捕囚」(1309年)を実現し、テンプル騎士団総長モレーをシテ島で火刑(1314年)に処したが、モレーの呪いもあり、同年1314年、教皇クレメンス5世とともに死亡した。

(翻訳者が付加した画像)

画像ジャック・ド・モレ、第23代テンプル騎士団総長

(翻訳者が付加した画像)

(翻訳者が付加した画像)

画像:Google Map 2014 一部修正
タンプル塔は160 Rue du Temple(一番上の赤印)にあったらしい。

(翻訳者が付加した画像)

聖ヨハネ騎士団による改修は継続し、17世紀の間に、古いタンブル騎士団の建物の多くが取り壊された。(詳細はわかっていないのだが)

1650年までに、タンブル騎士団の建物として残っていたのは、聖マリー教会、もう一つの教会、諸塔、大門、病院だけであった。追加だが、1667年に、タンブル騎士団長の家はフランス大修道会宮殿に換わった。沢山あった空地は庭園になった。

翻訳者注:この部分の記述は間違いがある。英国王ヘンリー3がフランス国王ルイ9世と接触をもったのは1242年、(ヘンリー3世が)アキテーヌ公としてフランス王に臣従を誓うことを条件に、アキテーヌ地方南部のガスコーニュの領有を(ルイ9世が)認めるパリ条約を締結した、ときであろうと思われるから、15世紀ではなく、13世紀である。タンブル塔は13世紀に建設が開始されたのであるから、タンブル塔がヘンリー3世のルイ王との会議に使われたどうか、はなはだ疑わしい。

皮肉にも、彼の逮捕の前日、ジャック・ド・モレはシャルル・ド・ヴァロワの妻であり、フィリップ4世の義妹であるカトリーヌ・ド・コートネーの葬式に出席していた。


逮捕ののち、タンプル塔は多くのタンプル騎士団員を投獄するために使われた。そのなかには、ジャック・ド・モレ、ジェフロ・ド・シャルネ、ヒュウ・ド・ペイロ等々の高位者が含まれていた。


13071019日と1124日の間、パリの宗教裁判官ギヨームがパリ・タンプルで138人の囚人達を尋問した。尋問に先立つ数日間、彼らは拘留され、国王の役人によって拷問された。彼らのうち36人がその結果死んだ。

「タンプルの新しき村」におけるフランス騎士団長の住いは、1291年アッコの街の陥落以降は、同時に騎士団長の住いともなった。ここは騎士団長の家と呼ばれた。

1306年、暴徒に脅されて、フィリップ4世がタンプル村に避難してきた。彼は騎士団長であったジャック・ド・モレに華やかさと仰々しさでもって暖かく迎えられた。この歓待にもかかわらず、13071013日金曜日の早朝、フランス王国全土でタンプル騎士団員は逮捕された。ギローム・ド・ノガールが「タンプルの新しき村」での逮捕の任にあたった。

画像1739年のTurgot 地図から拡大したタンプル。

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18世紀にはさらに改修がされて、多くの屋敷が近辺に建ち、貴族、芸術家、文筆家のための会合場所となった。

フランス革命寸前には、二つの塔、教会、礼拝堂ならびに聖ヨハネ騎士団長の宮殿のみがのこっていた。実際的に周囲の塀やその他の建物の類はすべてなくなっていた。それらはパリの都市の発展の一部となってしまっていた。

17906月、フランス革命が始まったとき、マルタ騎士団が最終的に抑圧され、この地域は4,000人の商人達や職人達の集団によって攻撃された。

「タンブル塔」は、その歴史を通じて、しばしば王宮監獄として使われた。実際、1792年、国王夫妻(ルイ16世とマリー・アントワネット)が17931018日の処刑まで収監された。この塔に収監されたのは王太子であり、それは1795年に不可解な失踪まで続いた。1796年、「タンブル塔」は国立牢獄となった。だが、帝王の悲劇との関連から、この塔は「憲法違反」の王党派の巡礼地となった。

教皇大勅書「Vox In Excelso」(1312322日)は正式にタンプル騎士団を取り消した。クレメンス5世が発行した大勅書「Ad Providam」(131252日)は、騎士団の資産と財産が聖ヨハネ騎士団に引き継がれるべきことを命令した。

引き続く二年間にわたり、聖ヨハネ騎士団は「タンプルの新しき村」を若干修正した。彼らは聖マリー教会を拡大し、要塞の周囲の壕を埋め、跳ね橋を通常の石橋に置換えた。




   15世紀の間、聖ヨハネ騎士団は大食堂を取替えた。そこで、英国のヘンリー三世とフランスのルイ9世が主人役を務め、彼らの重要会議の場所とした。

(翻訳者が付加した画像)



現実にはフランスは慢性的な財政難にあえいでいた。フィリップ4世は腹心のギヨーム・ド・ノガレの献策にしたがって、1296に教皇庁への献金を禁止し、通貨改鋳をおこなった。さらに1306にはフランス国内のユダヤ人をいっせいに逮捕、資産を没収した後に追放するという暴挙に出た。こうしてまとまった資産を手にしたフィリップ4世が次に目をつけたのが富裕なテンプル騎士団であった。

上記の説とは別に、当時のフランスはイギリスとの戦争によって多額の債務を抱え、テンプル騎士団が最大の債権者であった。そのため、フィリップ4世は債務の帳消しをはかってテンプル騎士団の壊滅と資産の没収(略奪)を計画したともいわれる。

13071013[1] フィリップ4世はフランス全土においてテンプル騎士団の会員を何の前触れもなく一斉に逮捕。異端的行為など100以上の不当な罪名をかぶせたうえ、罪を 「自白」するまで拷問を行った。異端審問において立ち会った審問官はすべてフランス王の息のかかった高位聖職者たちで、特権を持ったテンプル騎士団に敵意を持つ人ばかりであった。騎士団は異端の汚名を着せられ、資産は聖ヨハネ騎士団へ移すこと、以後の活動を全面的に禁止することが決定された[2]

画像:火刑に処せられるテンプル騎士団員

(翻訳者が付加した画像)

画像:Google Map, 2014. 160 Rue du Temple