(翻訳者が付加した画像)

タンプル騎士団はパリのグレーヴ広場の近くに在った。ここに1137年、ルイ7世王が彼らに一軒の家を与えたのである。この家はパリの北方で、市壁の外側の湿地帯に在った。

タ ン プ ル 塔  (1)

四つのメイン・フロアは大きな広間から成っていて、その広間は中央に柱が一つあり、肋材をつけた窓四つを固定するための基礎となっている。出入りは側面の小塔の一つを通っておこなわれ、螺旋階段のついた小塔は四つの階とテラスを結んでいる。

 他の三つの小塔は中央のホールに通じる小部屋となっている。一階のフロア・ホールは騎士団総会用であり、裁判を行うときには裁判室となる。他の階のホールは騎士団の宝物と王室の宝物の保護にあてられていた。

13世紀に、タンプルは「トゥール・ド・タンプル」として知られている新しい塔の建設を開始した。この塔は建築様式はシーザー塔と同じだが、ベースは四角であり、四階の高さであった。各コーナーには直径5mで上部テラスに達する高さの頑丈な小塔が配置された。ピラミッド状のタイルで葺いた屋根で覆われた見張り台が一つ、このテラスの上に五階として設置された。

このテラスは防護用通路として使われ、銃眼付きの胸壁で保護された。

ヴィオレ・ル・ドゥクによる再建のときに、この教会は東西方向に一直線にされ、三つの部分から構成されることになった。建物の入口を入ったところのゴチック様式の身廊は一階に採光窓があるのが特徴である。


二階建のこの円形建物は、円形のギャラリー(参会者や聖歌隊などの)によって取り巻かれている。アーチ型丸天井は筒状部分と同じ高さがあり、円形をなす六本の柱に支えられている。


内陣は普通の五つの格間(ごうま)からなっていて、それぞれの側に高い窓がついている。南側の最初の格間には、ドアがあって、鐘楼へ登ることができる入口となっている。

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12世紀末と13世紀の初め、タンプル騎士団共同体は大きくなり、他の通常の建物が建てられた。これらの建物のなかには、管区長の家、第二教会、修道院、病院、寄宿舎、調理場、食堂、納骨堂、僧会堂ならびに牢屋がふくまれていた。いくつかの農場、馬小屋ならびに労働者達の家がこの地所を埋めていた。

 

タンプル騎士団共同体によって所有されていた土地は、6エーカーにも及ぶが、8-10mの高さの銃眼付きの胸壁によって護られていた。この壁は何ダースもの控え壁がついていて、約15個の張り出し小塔が側面に並んでいた。

翻訳者注2buttress(控え壁)とは、

翻訳者注1crenellated wall(銃眼付きの胸壁)とは、

画像:銃眼付きの胸壁

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<翻訳>

パリのタンプルの新しき村

  原典The Villeneuve du Temple of Paris

印象的な方形の塔を建設するための地域開発に先立って、タンプル騎士団はこの湿地の排水を行う必要があった。この仕事が完成してから、のちにシーザー塔(トゥール・ド・セザール)と呼ばれるようになった方形塔と円形の教会が建立された。この塔は幅が10mで三階建であり、銃眼付き胸壁がついた平天井だった。それに角隅は素晴らしい控え壁で強化されていた。1194年からこの塔には王家の宝物が所蔵された。もっとも、これは後に第二塔にうつされたのだが。

画像アル=アクサー・モスク
テンプル騎士団初期の本部、エルサレムの神殿の丘にある。元の神殿の遺構の上にたてられたため、十字軍はその神殿を「ソロモン王のエルサレム神殿」と呼んだ。「テンプル騎士団」の名はこの「神殿(temple)」から取られた。

1128113

フランスのトロアで行われた教会会議において、教皇ホノリウス2はテンプル騎士団を騎士修道会として認可した。

第一回十字軍

エルサレムを1099715に占領したフランスの貴族、ユーグ・ド・パイヤンのもとに9人の騎士たちが集まり、聖地への巡礼者を保護するという目的で活動を開始し、すでに活動していた聖ヨハネ騎士団修道会の例にならって聖アウグスティノ修道会の会則を守って生活するという誓いを立てた。エルサレム王国ボードゥアン2は彼らの宿舎の用地として神殿の丘を与えた。神殿の丘にはもともとソロモン王のつくったエルサレム神殿があったという伝承があった。このことから会の名称「テンプル騎士団」が生まれることになる。

1096 – 1099










  

テンプル騎士団について。

  (
Wikipediaテンプル騎士団から)

画像テンプル騎士団の紋章
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人の騎士は清貧の精神及び騎士にして修道士という二重性を表現している。

「タンプル塔」の北側には一つの小さな建物が付いていた。このたてものには二つの小塔が付いていて、この塔へのメイン・エントランスとなっていた。この構造物の総高は屋根を含めて約55mであった。

聖マリーに奉献されたこの教会はパリで亡くなったタンプル騎士団の高位者の埋葬地として使用された。

この円形の教会は段階的に増築されて素晴らしいゴチック様式の教会になった。この発展は1217年にオノリウス三世が制定した教皇大勅書によって認められたのである。

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画像:黒い矢印の部分に注目。

1147

2回十字軍

フランスのルイ7を助けて奮闘したため、十字軍の終了後、ルイ7世は騎士団にパリ郊外の広大な土地を寄贈した。

画像中世の写本に描かれた第1回十字軍のエルサレム攻撃