背景


フランス革命という社会改革はフランスの大衆の大部分によってうまく受け止められていたが、この改革が強い反カトリックの態度をとっていたことから、多くのローマカトリック信者達に反共和制ムードが生まれていった。17933月に、西フランスのカトリック信仰の強いヴァンデー地方でこの感情が沸騰して武装反乱が生じた。フランソワ・ドゥ・シャレット・ドゥ・ラ・コントリ(François de Charette de la Contrie)やルイ・デルベ(Louis d'Elbée)のようなリーダーの下にカトリック・王党軍と銘打った反乱軍がパリの革命政府の側には悩みの種となった。この反逆者達は「シュアン(Chouans)」として知られていたが、このタイトルは初期の王党派のリーダーであったジャン・コットロー(Jean Cottereau)の渾名であったジャン・シュアンからきたものだ。彼はフクロウの鳴き声を完璧に真似することで知られていたが、この鳴き声はヴァンデ地区の反乱者を結集する呼び声となった。

注:
National Constituent Assembly       憲法制定国民議会
Legislative Assembly                       立法国民議会
National Convention                        国民公会
Coup d’état du 9 thermidor             テルミドールのクーデター
                              (ロベスピエールの失脚)

Directory                                          総裁政府時代
Écu(エキュ)はフランス革命当時使われていた銀硬貨(参照

テルミドール9日(1794727日、ロベスピエール他の恐怖政治派を糺弾して処刑へと導いた)にひきつづき、武器を放棄することに同意したシュアン団には改革後の国民公会によって特赦が与えられることになった。だが、シュアン団は1795129日、共和派の町ゲムネを攻撃してこれに応えた。国民公会は直ちにオッシュ将軍に命令して、ヴァンデ県に行き、シュアン団をして敵意の中止に同意させることとした。オッシュは素早くシュアン軍を敗北させ、217日、フランソワ・シャレット・ド・ラ・コントリは非常に寛容な和約に署名した。

画像
フランソワ・シャレット・ド・ラ・コントリ
ジャン・パプティスト・ポラン・ゲラン(1783-1855)
(Salon de 1819)
ショレ美術歴史博物館

画像:Google Mapから。
赤矢印がペンティエーヴル要塞

(翻訳者による画像の挿入)
   Vendée 地区 

ヴァンデミエールの反乱 (1)

プルティエ区は、これを国民公会の脆弱さの徴候であると見なし、パリの他の地区の蜂起を求めた。ムヌーは自分の犯した失敗を自覚し、フォーブール・モンマルトル通りを騎馬隊攻撃し、一時的にこの地域から王党派を追い出した。国民公会はムヌーを職務から外し、ポール・バラに国民公会の防衛を行うように命令した。

(翻訳者による画像の挿入)

ゲムネとはゲメネ=シュル=スコルフのことらしい。

カトリック・王党軍は素早く英国の支持を取付け、将来有望なスタートを切り、いくつかの革命軍隊を手厳しく敗北させた。革命軍の公衆安全委員会はジャン・バプティスト・カリエ将軍に命じてこの地域を平定するように命じた。そして、数ヶ月にわたり、カリエは情け容赦なくヴァンデ県の民衆を殺した。この地方の住民はカリエの軍隊に「地獄隊」という渾名をつけた。17931222日、サヴネの戦いで大きく敗北して、シュアン暴動は鎮まった。

(翻訳者による画像の挿入)

画像Jean-Baptiste Carrier, Jean-Pierre Duvaleix

画像

(翻訳者による画像の挿入)

Wikipedia 13 Vendémiaireの翻訳)

(翻訳者による画像の挿入)
  
:ジャン・バプティスト・カリエ

ヴァンデミエールの反乱


国民公会が直ぐに悟ったことは、事態が重大な危機にあるということだった。フランス国内に敵軍が存在するということばかりではなく、パリでの蜂起の意味するところは首都そのもののなかに敵軍がいるということだった。国民公会はこの危機が解決するまでは彼らの(訳注:テュイルリー宮殿の)会議室に留まる決意を表明した。そして、テルミドール9日のクーデターののち放逐されたジャコバン党の軍事スタッフから愛国者三大隊を結成することを要求した。ムヌー男爵将軍が首都の防衛の任務に任命されたが、彼の手元の軍隊はわずか5千名で、王党軍の3万名に抵抗するにはまったく足りなかった。

ヴァンデミエール12日(104日)、国家防衛隊がペルティエ区に到着し、騒擾を鎮圧しようとした。リシェ・ド・セヴィニー指揮下の首都圏軍事委員会は、国民公会の布告はもはや承認されないことを告知した。ダニカン将軍がプルティエ区(訳注:プルティエ地区とはテュイルリー宮殿とモンマルトルとの中間地点、現在の地下鉄駅Le Peletierのあたりの国家防衛隊の指揮を執った。国民公会はムヌーに、プルティエ区へ入り全地区を非武装化し、ダニカンの本部を閉鎖するよう命令した。デスピエールとヴェルディエール将軍がムヌー将軍を補佐するように送り込まれた。ムヌーはかれの軍隊を三軍に分け、ヴァンデミエール12日夕方、プルティエ地区に前進する計画を立てた。前進が開始されたとき、デスピエールは身体が不調で前進できないと報告した。ヴェルディールは前進を拒んだ。ムヌーはおずおずと王党派軍にむかって前進し、反乱軍にたいして離散条件を議論しようと持ちかけた。彼は暴徒が武器放棄を行う約束を取付けてから退却した。

(翻訳者による画像の挿入)
   注:Le Peletierの場所

画像:ジャン・バプティスト・ルシュール画「フランス革命における自由の木の植樹」(1790)

画像:アルトワ伯爵(シャルル10世、Comte d'Artois)(訳注:ルイ16世と18世の弟、後に1824-30年フランス王となった。ブルボン家最後の王)

説明:フランス革命の間、ヴァンデ戦争のとき、フランソワ・シャレット・ド・ラ・コントリによって指揮された反徒は、イル=ディウに基地を設定した英国の救援を待ったが空しかった。1795年末、アルトワ伯爵(のちのシャルル10世)が英国と同盟を結んだ王党派を代表して、シャレットを助けるためフランスに上陸しようと望んだが、六千名の英国兵はイル=ディウに宿営し続け、ないしは上陸したが、のちに引き返した。共和主義者達がシュアンに圧勝した。

注:L’ile d’Yeu

画像The french tricolor cockade

  亡命軍の敗北にもかかわらず、シャレット・ド・ラ・コントレは引き続き抵抗を続けた。9月初めには、民衆暴動がドルー(パリ西方60km)で発生したが、ノナンクール(ドルー西方15km)の戦いで敗北した。シャレット・ド・ラ・コントレ自身は925日、サン=シル(サン=シル=レコール、ヴェルサイユ西郊か?)で大敗を喫した。これにもかかわらず、アルトワ伯爵(シャルル10世、Comte d'Artois)が1,000人の亡命者と2,000名の英国軍を引き連れ、ナント沖のイル=ディウ(L’ile d’Yeu、ユー島)に上陸した。この勢力によって元気付けられて、王党派軍が179510月初め、パリ市中を行進し始めた。アルトワ伯爵の到着は首都のプルティエ区(現在の第二区のプルティエ通りの名前を借りた)の若年特権階級の王党派支持者達を興奮させ、三色の花形徽章を踏みにじり、「自由の木」を倒したりしてデモを行った。もっと悩ましかったのは多分、パリの国民公会全体が倒れそうだ、との噂が流布されはじめたことだった。

説明1747年、堡塁の建設が承認された。岩石でできた岬の上に建設された巨大な稜堡の形をしており、この半島への唯一の通路をブロックしていた。この地点で潟の砂洲は数十メートルの幅しかなかった。

革命の間、ペンティエーヴル要塞は猛烈な対決の戦場となった。:英国艦隊から上陸した6,500名の王党派が1795627日の攻撃でこれを手中に収めた。720日にオッシュ将軍の軍隊がこれを奪還した。

その後どちらかと言えば見捨てられていたのだが、1800年以降、ボナパルトの命令に基づき、マルスコット技師長によって刺激され、現代的に強化された。

(翻訳者による画像の挿入)

この大軍は亡命将軍ピュイセイユとエルミリーの指揮下に置かれた。これを聞いて、シャレット・ド・ラ・コントリは和約を破棄し、戦争行為を再開した。626日、亡命者軍はカルナックに上陸した。エルミリーは交戦前に素早くオーレーへ前進し、ヴァンヌでオッシュに破れた。7月初旬までにエルミリーはオーレーから追い出され、ペンティエーヴル要塞に包囲された。これの意味するところは、全反乱軍がキブロン半島に閉じ込められたということであった。715日、ソンブルイユ将軍指揮下の追加亡命者軍団が防禦支援のために到着したが、716日、エルミリーが交戦中に殺された。20日までにこの要塞は陥落し、オッシュは迅速にこの半島を下り、絶望的に閉じ込められていた亡命者軍を敗北させた。ピュイセイユ将軍と小隊だけが英国艦隊で逃れることができた。:残りは交戦中に殺されたか、捕虜にされたか、処刑されたかである。

(翻訳者による画像の挿入)

1793年から1794年の間、国民公会派遣議員ジャン=バティスト・カリエは、革命遂行のためナントへ赴き、略式裁判で大勢の捕虜を即決処刑させた(裁判はフランソワ・ビニョンが取り仕切った)。 179312月末から17942月末までに、カリエは2600人もの捕虜を殺害させた[11]。またカリエは、ボートに乗せた捕虜たちをロワール川へ投げ込んで溺死させた、ナントの溺死フランス語版も指揮した。死刑囚たちは即決後裸にされ、男女1組に縄で縛られ、残酷に溺死させられた。カリエは、この処刑の様子を直立の国外追放と命名した。この処刑方法は「共和国の結婚フランス語版」の名称で、著名になった。革命思想の急激な拡大をみたこの時代は、後に重い追悼を捧げられるものとなった[12]

画像:ナポレオン・ボナパルトがヴァンダミエール13日にサン・トノーレ通りのサン・ロック教会前で王党派の暴動を鎮圧する。

1792年発行のアッシニア紙幣

画像1800年のパリ古地図の一部を拡大し修正した。

画像:現在のペンティエーヴル要塞

(以下、翻訳者による画像の挿入)

画像:アッシニア紙幣の価値。実際に価値は暴落した。

ストフレ将軍指揮下の王党派小分遣隊と狂信的なアッベ・ベルニエは和約の受諾をよしとせず、引き続きオッシュ軍に抵抗し続けた。彼らは英国によって支持されていて、4000人の亡命者、8万丁のマスケット銃、80基のキャノン砲、並びに食料、衣服に加えて、大量の偽造したアッシニア紙幣さえも与えられていた。(このアッシニア紙幣だが、シュアン団への資金提供にとどまらず、フランス経済の混乱の狙いもあった。)