サントノーレ通りとサントノーレ門
画像:「ジャンヌ=ダルク」 ジュール・バスチアン-ルパージュ画、1879 メトロポリタン美術館 部分修正。
説明:後にジャンヌは異端審問の場で自分は19歳くらいだと発言しており、この言葉の通りであればジャンヌは1412年ごろに生まれたことになる。さらにジャンヌが初めて「神の声」を聴いたのは1424年ごろのことで当時12歳だったと証言している。このとき独りで屋外を歩いていたジャンヌは、大天使ミシェル、聖カトリーヌ、聖マルグリットの姿を幻視し、イングランド軍を駆逐して王太子をランスへと連れて行きフランス王位に就かしめよという「声」を聴いたという。聖人たちの姿はこの上なく美しく、三名が消えた後にジャンヌは泣き崩れたと語っている。
翻訳「サントノーレ門」
原文:Wikipediaフランス語版Porte
saint-Honoré(サントノーレ門)
画像:農民服のジャンヌ・ダルク
武器をもつ農民服姿のジャンヌ・ダルク。「ジャンヌ・ダルクの有罪判決と復権裁判」から抜き出された細密画、サン・ヴィクトール修道院で15世紀末に複製された写本。(パリ、国立図書館)
2. 農民服のジャンヌ・ダルク
(翻訳終了)
サントノーレ門の四番目は存在しない。:フォーブール-サントノーレ通りの出口(実際にはテルヌ広場)にある「フェルミエ-ジェネローの壁」と称される入市税関障壁は、ルール障壁(1786-1788年に建設され、建築家ルドーのプロピュライアで飾られていた)という名前が使われ、チエール城壁(1841年)の門であるにもかかわらず、テルヌ門(注19)の名前が採用された。
4. 18世紀ならびに19世紀
1652年10月21日、ルイ14世が、批判的な王子達(コンデ。オルレアン、マドモワゼル、・・・)に対抗してパリ帰還を行った時はこの門を使った。ピエール・ブルーセルと高等法院の都市反乱。
画像:第3番目の門(17世紀)
画像:1615年のメリアン地図(左が北):14世紀(初期)の二番目の門。フォーブール通りがサントノーレ門と17世紀(後半)の稜堡によって交差されている。
二番目のサントノーレ門は、サントノーレ通り161番地と165番地の間にあった(注5)。(現在のアンドレ・マルロー広場に面して、パレ・ロワイヤルの近く)。シャルル五世王(注6)により1380年第一番目の門より500m西に建築され、1636年に取り壊された。
最も近くのメトロ駅は、パレ・ロワイヤル-ルーブル博物館駅(第1号線、第7号線)である。
この要塞門は城壁の前の張出し小塔の上に乗った、一軒の田舎家によって構成されていた。通路は18mの長さの丸天井の下にあった。フォーブール側の入口は(荷馬車用と歩行者専用との)二重のはね橋によって守られていた。一つの橋で二つの壕を越えさせることが出来た。まず最初に30mの長さの水濠があり、その後、二番目の15m長さの空壕があり、その二つの壕の間に前門があった。(1552年の地図(注7)、1609年のケスネル地図(注8)、1615年のメリアン地図(注9)は、まあまあ正確にこれを示している。)全体で昔は壕の向うの環状道路であった「はしご」通り(昔の名は「お濠」通り)まで80mの長さであった。
詳細項目:シャルル五世の城壁についてはEnceinte de Charles Vを参照せよ。
最初のサントノーレ門はサントノーレ通りの148と150番地のところ(注3)にあった。それは現在のルーヴル修道会のプロテスタント教会の直ぐ前であり、オラトワール通りとの交差点のすぐ後ろであった。この門はフィリップ・オーギュスト王の下で、1190-1200年に建設され(注4)、16世紀に壊された。
もっとも近いメトロ駅は、ルーヴル-リヴォリ(1号線)である。
直径8メートル高さ15メートルの二本の塔は、開口部が交差したアーチ形状をしていた。開口部は、木製の開き戸二枚で閉じられ、一個の落し格子門で守られていた。ルーヴル要塞(32mの高さの主塔が、20mの高さの独自の城壁で囲まれていて、1190-1202年に建設された。)は、ノルマンディー族の侵入のような陸路の攻撃にたいしての防禦策であった。だから、フランス王の敵であったプランタジネット朝の連中は勿論のことである。
この門はこの街(注1)に入るための主要な門であった。街の西方で、サン・ジェルマン・アン・レーの方角にあった。(なお、サン・ドニ門は北方、サン・ドニ方向に、サン・アントワーヌ門は東方、ヴァンセンヌ方向に、サン・ジャック門は南方、オルレアン方角であった。)サントノーレ通りには、通りに沿って時間間隔をあけながら、街の城壁の拡張にしたがい次々と(時代的に)相次ぐ三つの門(注2)があった。それらはパリの必需物資の補給と交通を容易にするために次から次へと(造っては)壊された。
シャルル七世のランスでの聖化ののち、ジャンヌ=ダルクは、その当時イギリスの支配下にあったパリを解放するために、パリに向かった。1429年8月15日、彼女はモンテピヨワで戦い、9月3日シャペル村で泊まった。アレンソン公、ブルボン公、ヴァンドーム伯、ラヴァル伯、ジルドレ元帥、ライール元帥ならびに彼等の軍隊と一緒だった。パリの種々の門(注10、11)につき数時間偵察と小競り合いを行ったのち、ジャンヌ=ダルクは、パリ攻撃を行う前に、聖ジュヌヴィエーヴ教会で祈った。
1429年9月8日木曜日、夜明け、ジャンヌ=ダルク、アレンソン公、ジルドレ元帥、並びにジャン・ド・ブロス・ド・ブーサは、サントノーレ門を攻撃するためにシャペル村を出発した。
この門の前の水堀を越えようと試みている最中、ジャンヌ=ダルクは腿に弩の矢(注12)を受けて傷ついた。(マクシーム・レアル・デル・サルト作の一枚のプラーク(注13)がサントノーレ通り161と163の境界にある。;同一の第二のプラークがド・リシュリュー通り15番地の中庭にある。ジャンヌが負傷した場所である。)ジャンヌはシャペル村(注14)の住いに連れ戻された。彼女がパリ攻撃の再開を望んだにもかかわらず、王はサン・ドニ大修道院への退却を命じた。
1588年5月12日、アンリ3世の国王軍がカトリック同盟に対抗してパリへ入城した。
1591年1月20日午前3時、アンリ4世の兵隊達が、小麦粉をのせた二輪馬車を引いた農民に変装していたにもかかわらず、この門の奪取に失敗した。
1. 「神の声」を聴いたジャンヌ・ダルク
場違いの付け足しになるが、次項のために
ジャンヌ・ダルクの画像
第三番目のサントノーレ門は、サントノーレ通りの422番地と281番地の位置にあった。ロワイヤル通りとの交差点の直ぐ前である。
もっとも近いメトロ駅は、コンコルド駅(1,8,12番線)とマドレーヌ駅(8,12,14番線)である。
この門は、第二の門から1km西よりの地点に1566年に造られた新しい城塞稜堡の西側面から出ている一本の道路というものではなく、特別仕立てだった。この門は1632-1634年の間にルイ13世王の下で建設された。入口の丸天井は、横に二つの張出部が付いた一個の建物の上に載っている。その建物は角が石灰岩で化粧されており、壁は煉瓦造で、屋根はスレート葺きであった。;一本の橋が堀を渡り、一個のはね橋が門を隔てていた。往来をより容易に通すために、1670-1680年に広く拡大されたが、1773年に壊されることとなる。1609年のケスネル地図(注15)、1615年のメリアン地図(注16)、1705年のフェ地図(注17)、1739年のトゥルゴー地図(注18)は、門の発展段階をしめしている。
ルイ13世の城壁については別項を参照せよ。
3. 17世紀の門
画像:サントノーレ門、第三番目、1635年に建設された。アダム・ペルールの銅版画
種々の門
1.
13世紀初めの門