ジャンヌ・ダルクのパリ攻撃

訳者付記:

 このサントノーレ門での負傷と撤退がジャンヌ・ダルクにとって運命の転換点となった。第三者的に冷静に観察すると、サントノーレ門の戦いで、神の加護はジャンヌ・ダルクから離れ去ったように見える。サントノーレ門の戦いまでは勝ち続けたジャンヌ・ダルクであったが、このあと彼女にとって喜ばしいことはなに一つ起らなかった。オルレアンの際の熱烈なバックアップとは対照的に、神は彼女を見捨てたように見える。華々しかったオルレアン戦の模様については次項を参照乞う。

 この後、1430523日、コンピエーニュ包囲戦で、ジャンヌ・ダルクはブルゴーニュ公国軍に捕えられ、ルーアンでの火刑へと続く。詳しくは、Wikipediaジャンヌ・ダルク(日本語版)を参照せよ。

2couleuvrines15世紀フランスで発明されたカルバリン砲

包囲網

9月初め、シャルル七世はサン・ロックの丘の近くに野営地を設置した。

93日、ジャンヌ・ダルクが、アレンソンとブルボン公爵達、ヴァンドーム並びにラヴァル伯爵達、ジル・ド・ライス並びにラヒール元帥達と彼らの軍隊に伴われて、シャペル村に泊った。パリの種々の門で何日間かの偵察と前哨戦を行ったのち、ジャンヌ・ダルクはサン・ジュヌヴィエーヴ教会で祈った。

Le siège de Paris de 1429
Wikipedia仏語版から翻訳

   142998日木曜日の早朝、ジャンヌ・ダルク、アレンソン公爵、ジル・ド・ライス元帥ならびに(中部フランスの)ブサックから来たジャン・ド・ブロスはサントノーレ門を攻撃するためにシャペル村を出発した。ジャンヌ・ダルクは、攻撃を支援するために、サン・ロックの丘にクールヴリーヌ砲を設置した。

注意:

 どういう経緯があったのかわからないが、日本で出版されているジャンヌ・ダルク伝記は、ジャンヌ・ダルクのパリ攻略地点をサントノーレ門ではなく、サン・ドニ門としているが、これは上記翻訳でも読み取れるように「間違い」である。岩波書店などの猛省を促したい。

画像:コンピエーニュの包囲。マーシャル・ドーヴェルニュの写本「シャルル7世年代記」パリ、フランス。15世紀

総括

この街は、わずか2,000名の英国人によって防衛されたのではなかった。防衛したのはパリ奉行シモン・モルイエとジャン・ド・ヴィリエ司令官によって指揮されたパリ住民だった。彼らがフランス王に撤退を強いた。

武力で挫折させられたシャルル7世は、違う方法でこの街を奪おうと試みた。1430年、彼は一つの陰謀を謀った。それは英国勢によって見破られて失敗し、6人のパリ市民が処刑台で非業の死を遂げた。



(翻訳は上記で完結)

訳者注3:シャペル村
  Basilica of Sainte-Jeanne-d'Arc(第一次大戦のときに建てられた新しい聖堂)の隣にシャペルのサン・ドニ教会がある。このあたりをシャペル村といったのだろう。ジャンヌはこのサン・ドニ教会で1429年お祈りした。

画像:Google Map 2014から。18 Rue de la Chapelle。左がジャンヌ=ダルク聖堂、右隣が古くからあるサン・ドニ教会

画像1530年頃の古地図を一部修正拡大。
  第二市壁の外側に水壕と空壕があることがわかる。

チュイルリー宮殿は1559年に建設開始、1564年に完成したので、この地図には載っていない。だから、この地図に描かれるサントノーレ門とジャンヌ=ダルクのパリ攻撃当時のサントノーレ門とであまり様子は変わらないだろう。

サン・ロック教会は1653年に建設が開始されたのでこの地図には載っていない。地図左下がサン・ロックの丘である。

画像:Google Map 2014

訳者注11530年頃のパリ

画像:国王とジャンヌ一行は1429815日、此処モンテピヨワ城に滞在した。ジャンヌとアレンソン伯は馬で英国軍の偵察に向かった。実際の戦闘はサンリス(Senlis)東方で戦われた。

1420年、英国のヘンリー五世によるパリの奪取の後、英国の行政はパリのブルジョワに好意的に振舞い、彼らの古くからの特権を確認し、もう一度彼らに与えたのである。

パリ市民は、なによりもシャルル7世への憎しみから、英国を受け入れた。彼らはシャルル7世を「ブールジュの王」、かつ、アルマニャック党の王と呼んだ。なぜなら、彼は、この街が幾世紀にもわたって獲得してきた多くの自由を脅迫したからだ。

1429826日のモンテピヨワの戦いののち、ジャンヌダルクとジャン・ダレンソン二世公はパリ北方に位置するサン・ドニを奪った。

シャルル7世は828日、コンピエーニュ停戦に署名した。それはすでに獲得していたサン・ドニ並びにサン・クルー、ヴァンセンヌ、シャラントン、パリを除外するものであった。

画像1485年頃。画家の解釈による肖像画。というのも、直接描かれた肖像画として知られるただ一点は今に残っていない。(国立公文書館歴史センター、パリ、 AE II 2490

画像:シャルル7世年代記、パリの攻撃

1429年パリの包囲
前置き

画像:ジャンヌダルクの逮捕(コンピエーニュでのジャンヌの拘束)、マーシャル・ドーヴェルニュの写本「シャルル7世年代記」パリ、フランス。15世紀。

画像 14世紀の石鏃

パリの人達は、アルマニャック党(注:百年戦争中の政治団体)がこの街を徹底的に破壊しようと望んでいると信じ、強烈な守備を行った。門の前の水堀を渡ろうと試みて、ジャン・ダルクは弩(いしゆみ)の石鏃で腿を傷つけられた。彼女が再びパリの攻撃を行いたいと望んだにもかかわらず、王はサン・ドニ修道院(注:パリ北方のサン・ドニにある)への退却を命令した。4時間の攻撃の後、王は撤退の合図をだした。

訳者注:Carreau d'arbalète

画像:フランスのカルバリン砲。

日本においては江戸時代初期、大坂の陣に備え徳川家康がイギリスから4門購入した。

訳者注:Château de Montépilloy