3. シャルルマーニュ(カール大帝、742- 814 (在位768 - 814))以降のカロリ
ング朝フランク王国では、パリは一介の地方都市となったが、987年にパリ
伯ユーグ・カペーがフランス王に推挙されたことから、パリはフランス王国
の首都となった。
注:Hugues Ier Capet
「サントノーレ門」注記 (1)
画像:英国王ヘンリー二世列席の下での戴冠式。当時フィリップ二世はまだ14歳。(1179年11月1日)
画像:Wikipediaから、1223年のパリ、一部拡大。
パリの第四番目の地図。43年間の統治ののち、1223年に死んだフィリップ・オーギュストの統治下での拡大、現在の状態、ならびに市中から周辺に伸びる蜘蛛の巣状態の道路。
出版:パリ、1705年
4. フランス・カペー朝第7代の王で尊厳王と呼ばれたフィリップ2世(Philippe II,
1165年8月21日
- 1223年7月14日、在位:1180年 - 1223年)が亡くなったとき
の地図が下図です。シテを中心としてセーヌ河右岸・左岸を取り囲む輪が見えま
すが、これがフィリップ・オーギュストの城壁(尊厳王フィリップの城壁)と言
われるパリ市の城壁です。この城壁の内側に点線でしるした旧城壁が見えます
が、フィリッピ尊厳王の時代にパリは、旧城壁からこれだけ拡大したのです。
注1:パリ
簡単な歴史説明
画像:Google Map 2014
現在残っている遺跡。9 Rue Charlmagne、シャルルマーニュ高等学校が使っている城壁と見張り塔。
画像:Google Map 2014を使用。
注:フィリップ2世
注2:時代によって異なる三つのサントノーレ門
サントノーレ門の存在した時期と場所は:
No.1 : (建造)1190-1200 (破壊)1533 フィリップ・オーギュスト城壁
No.2 : 1380
1636 シャルル五世城壁
No.3 : 1632-1634
1773 ルイ13世の城壁
画像:聖レミによるクローヴィスの洗礼。このとき、サン・アンプルの奇跡が生じた。表紙板、象牙製、ランス、九世紀末。アミアンのピカデリー美術館蔵。この板は疑いもなく、サン・レミの生涯を語る写本を飾るために使われていた。左から右へ、(クローヴィスの妻)クロチルド、聖ヴァース、クローヴィス、サン・レミ並びに三人の(カトリック)聖職者
クローヴィスは、496年ランスのサンレミ修道院でカトリックに改宗。戴冠式は498年ランスで。
注:Holy Ampulla聖なるアンプル(聖油壜)。塗油を行って聖別する。
注7:1550年頃のミュンスター地図
一部拡大図
画像:シャルル5世時代のルーヴル。『ベリー公のいとも豪華なる時祷書』より
注6:シャルル5世(在位1364-1380)時代のルーヴル
注5:現在の地図上の161 rue Saint-Honoréは、下図のA印。
フィリップ・オーギュスト城壁を西方向に抜ける地点に最初のサントノーレ門がありました。上の拡大図に見えるように、城壁外にサントノーレ教会がありました。この教会の名前からサントノーレ門とサントノーレ通りという名前がついたようです。このサントノーレ門もサントノーレ教会も、いまは取り壊されてしまってありません。サントノーレ通りの名前だけが残っているのです。日本では鎌倉時代の初期でした。
注1の1223年パリ地図を部分拡大しましょう。
1180年に即位したカペー王朝のフィリップ2世(尊厳王)は、イギリス軍の侵入からパリを守るために1180年から1210年にかけて堅牢な城壁を作りました。これがパリで初めて造られた「フィリップ・オーギュストの城壁」です。高さ10メートル、幅3メートルの頑丈なもので、見張り塔が60メートルご とに置かれていたと言われています。
注3:148 de la rue Saint-Honoré の場所
画像:Google Map 2014、 一部修正。三つのサントノーレ門の位置。建築年/取り壊し年を併記した。