翻訳者による注釈:
王の5重臣とは(five Great Officers of the Crown of France)、
1. connétable de France軍最高指揮官、元帥 (英:Constable of
France)
2. grand maître執事長(財務卿、宮内長官)(英:seneschal )
3.
chambrier ou grand chambellan侍従長(機密の法務大臣)(英:chamberlain)
4.
grand bouteiller執事(宮廷調達支配人)(英:butler)
5. chancellier国事院長(司法長官と法務大臣)(英:chancellor)
英国側はフランスが麻痺状態になっているのを利用して、1428年初め英国で新しく徴募し、新兵2,700人(重騎兵450、大弓射手2,250)をトーマス・モンタキュート(ソールズベリ伯爵)が連れて来た。ノルマンディーとパリで徴税した資金で増強したこの新軍に加えて、ブルゴーニュならびにピカデリーとシャンパーニュの隷属地方からの援軍を併せ、総力は10,000人にも達していた。1428年春の戦争会議で、英国の執政ジョン・ベッドフォード伯がイギリス軍の進むべき方向を西方に決定し、メーン州での暴動を踏み消し、アンジェを包囲することを決定した。オルレアン市はもともとのメニューには載っていなかったのだ。本当に。そこでベッドフォードはデュノワと私的な交渉をした。デュノワ(注:Dunoisはオルレアンのジョン、デュノワ伯爵)の注意は、その当時ベリBerri地方(オルレアンの南、首都はブールジュ、オルレアンの南100km)で燃え上がっていたリシュモン-ラ・トレモイユ抗争(注:元帥Arthur de Richemontと侍従長 Georges de la Trémoilleとの間の確執の意。)に焦点が合っていたからだ。オルレアン公シャルルがその当時英国側のとらわれの身となっていたので、囚人所有の都市を確保することは騎士道戦争の習慣に反していた。ベッドフォードはオルレアンからの退去に同意した。しかし、どういうわけか、1428年7月、ソールズベリ指揮下の英国軍援兵が到着する直前に考えを変えた。何年か後にベッドフォードが書いたメモのなかに、「オルレアンは『どういう理由かしらないけれど、我が手中にあり』」、と書かれていることからすると、きっとこれはソルズベリのアイデアであって、ベッドフォードのアイデアではなかったようだ。
以下、Wikipedia,”Siege of Orléans”の翻訳である。
本文:
序
オルレアンの包囲(1428–1429)が、フランスと英国との間の百年戦争での転換点となった。これはジャンヌ=ダルクの最初の大きな軍事的勝利であり、1415年アジャンクールでの壊滅的な敗北に引き続くフランス側の最初の大きな成功であった。英国勢力にとって、この包囲の発端の時点がこの戦争の頂点となった。この街は、戦いの双方にとって戦術的かつ象徴的な意味で重要性があった。現代人の一致した意見では、もしオルレアンが陥落していたら、英国の摂政であったジョン・プランタジネがヘンリー五世の夢であったフランス全土の征服を達成していたであろう、ということだ。半年間、英国側は勝利しているように見えた。だが、ジャンヌが到着してから9日でこの包囲は失敗した。
背景
百年戦争
オルレアン包囲は百年戦争の間に生じた。この戦争はフランスと英国を支配していた二つの王家がフランスでの主権を巡って争ったものである。この抗争は1337年にはじまったが、それは、英国のエドワード三世がフランスの王座への権利を主張することにしたことに始まる。この主張は、部分的にはウイリアム征服王(William I (Old Norman:
Williame I; c.
1028[1] –
9 September 1087))からの古代の継承権に基づくものであるが、政略結婚によって生じた継承権によって補足されていた。
1415年のアジャンクールでの決定的な勝利に引き続き、英国軍はこの抗争で優位性を入手し、北フランスの多くを占領していた。1420年のトロワ条約によって、英国のヘンリー五世はフランスの摂政となった。この条約により、ヘンリーはその当時のフランス王シャルル六世の娘、カトリーヌと結婚し、シャルルが死ねばフランスの王座に就くこととなっていた。シャルル六世の息子である王太子シャルルとこの条約以前の推定の後継者はしたがって廃嫡されることとなっていた。
地理
オルレアンはフランスの中央北部のロワール河に面している。この包囲の間、オルレアンはフランス王家に忠誠を誓った都市のなかではもっとも北の街であった。英国とその同盟国であるブルゴーニュはパリを含む北フランスの残り全部を掌握していた。大河に位置するオルレアンの場所は、中央フランスへの戦役への最後の障碍となっていた。英国はすでにフランスの南西海岸を掌握していた。
アルマニャック党
オルレアン公国の首都としてこの都市は、15世紀初頭の政治に象徴的な重要性を有していた。オルレアン公爵は、トロワ条約に反対し、フランスの無冠の王であるシャルル七世の権利を支持していたアルマニャックとして知られていた政治党派の党首だった。この党派は二代にわたり活動していた。結果として、オルレアン公はアジャンクールで生き残った数少ない戦闘員の一人であり、彼はこの戦いののち14年間英国の囚人となっていたのだ。騎士道の習慣に従い、侵略軍と戦わずに降伏した都市はその新しい支配者から寛大な処遇を受ける権利があった。抵抗した都市は手厳しい占領を予期できた。このタイプの状況では大量虐殺は知られていなかった。中世末期の論法によれば、オルレアンの都市は争いをエスカレートして、英国にたいし暴力を用いた。だから、征服した君主はその市民達に復讐することとなったであろう。この街のアルマニャック党との関係からして、もし陥落した場合は、逃れられることはありそうもなかった。
事前準備
戦いの状態
1425-26年(ベルギー南部の)エノー地区での短期間の衝突ののち、英国軍とブルゴーニュ軍は1427年の王太子フランス軍に対抗して同盟関係と攻撃態勢を整えた。パリ南西のオルレアン地区は鍵となる重要性があった。ロワール河の支配権ばかりではなく、この地区は西方の英国作戦地域と東方のブルゴーニュ軍の作戦地域とをスムースに連結できる地域であったからである。フランス軍の戦闘は1427年後半のモンタルジ包囲戦までは英国-ブルゴーニュ連合軍の猛攻撃の前に、大概は勝てなかった。モンタルジ包囲戦のときに、エチエンヌ・ド・ヴィニョル(「ラ・イル」)とドゥノワ伯オルレアンのジョン(「オルレアンのならず者」)がたくみにやってのけて包囲を解放させた。長年のフランス軍の戦闘で最初の勝利であったモンタルジの解放は、西のメーン地区における護りの手薄な英国占領地域での間歇的な反乱を勇気づけることとなり、それまでの英国軍の勝利の結果を台無しにするおそれがあった。
しかしながら、フランス軍はモンタルジの戦勝を戦後の攻勢に組入れることができなかった。その理由の大部分は、フランスの宮廷が内部の権力抗争に巻き込まれたことにあった。それは、元帥であるアルトゥール・ド・リシュモンと侍従長ジョルジュ・ド・ラ・トレモイーユとの抗争であった。ジョルジュ・ド・ラ・トレモイーユは王太子シャルルの新しいお気に入りであった。デュノワのジョン、ライール、ポトン・ド・ザントライユはラ・トレモイーユの仲間であり、クレルモン伯シャルル・ド・ブルボン(収監されていたブルボン公の息子)、ジャン・ド・ブロス陸軍元帥(ブーサック氏)とダンリーのジョン・スチュアート(スコットランド傭兵隊の頭目)は元帥側についていた。フランス内部での抗争は仲間同士が1428年半ば野戦で戦うまでになっていた。
注:略歴(出典)
ジャンヌ=ダルク (フランス名: Jeanne d'Arc; 1412頃 –1431年5月30日)、通称"The Maid of Orléans(オルレアンの乙女)" (フランス語: La Pucelle d'Orléans)はフランスのヒロインであり、ローマ・カトリックの聖人である。彼女は北東フランスの農家の家に生まれた。ジャンヌの申し述べるところによれば、彼女は神の幻視を受け、シャルル七世を支援し、百年戦争後期、英国支配からフランスを取り戻せ、と命令された。まだ戴冠していなかったシャルル七世は彼女を救援活動の一助としてオルレアン包囲に送り込んだ。たった9日間で包囲は解かれ、彼女は傑出した名声を得た。さらに追加の迅速な勝利があって、シャルル七世はランスで戴冠式を挙げるにいたった。1430年5月23日彼女は英国の同盟軍であったブルゴーニュ党派によりコンピエーニュで捕虜となり、英国軍に引渡され、種々の罪状で英国に加担するボーヴェの司教ピエール・コーションの裁判にかけられ、異端の罪で火刑に処せられた。19歳であった。
処刑から25年後、ローマ教皇カリストゥス3世の指示で行われた宗教裁判でこの事件が審理され、彼女の無実が宣告され、彼女は殉教者となった。ジャンヌ=ダルクは1909年列福され、1920年列聖された。彼女は、サン・ドニ、トゥールのサン・マルタン、聖ルイ九世ならびにリジューの聖テレサと並んで、フランスの守護聖人の一人である。
ジャンヌ=ダルクは彼女の死後、文化史のなかで人気のある人物となり、多くの著名な作家、映画監督、作曲家が彼女に関する作品を作った。ジャンヌダルクの文化作品は現在にいたるも、映画、劇場、テレビ、ビデオゲーム、音楽、上演で続いている。
なお、百年戦争のなかでのジャンヌ=ダルクの地位についての解説は次が簡潔で詳しい。
ジャルゴーの戦い
画像:手前がアウグスタン砦、真ん中がトゥレルの稜堡、後方が主砦「トゥレル」。
ジャンヌ=ダルク・センターの模型から。
画像:2014/05/17撮影
画像:2014/05/17撮影
画像:モンタルジの戦い。マーシャル・ドーベルニュ画、写本「シャルル七世年代記」から。パリ、フランス、15世紀.
(補)
オルレアンのジャンヌ=ダルク(1)
画像:Google Map 2014
画像:昔のメーン州。首都はル・マン
(翻訳者による画像の挿入)
Nogent-le-Roi, Rambouillet並びにChartresの位置関係
ソルズベリのアプローチ
7月から10月にかけてソルズベリ伯爵はパリ南西の田舎地区を一掃し、ノジャン-ル-ロワ、ランブイユならびにシャルトル周辺地域をとりもどした。それから、さらに南西方向のアンジェに向かうのではなく、ソルズベリは突然に向きを変え、南東のオルレアンに転じた。ロワール河に向かって前進し、ソルズベリは8月にル=ピュイセとジャンヴィル(なにがしかの困難があった)を取得した。そこから下ってオルレアンを北方から直接に攻めるのではなく、ソルズベリはオルレアンを無視してオルレアンの西側の田園地帯を確保した。彼はムン=シュル=ロワールでロワール河に到達し、ムン=シュル=ロワールをすばやく取得した。(彼の一分遣隊は河を渡り、クレリー修道院を掠奪した。)彼はさらにすこし川下に、ブロワの方向に、下り、ボージョンシーの橋と城を取った。ソルズベリはこの地点で河を渡り、向きを変えてオルレアンを南から近づいた。10月7日、ソルズベリはオルレアンの南ちょうど1マイルにあるオリヴェに到着した。一方、ジョン・ラ・ポール指揮下の英国軍分遣隊は川上地域、オルレアンの東方、をおさえるために派遣された。:ジャルゴーは10月5日に落ちた。その直後にシャトーヌフ=シュル=ロワールが。一方、川上ではブルゴーニュ軍がシュリー=シュル=ロワールを取得した。オルレアンは断ち切られ、包囲された。
オルレアンの防衛配備をするにあたって、デュノワのジョンは英国側が包囲網を締め付けつつあるのを見て、この街に包囲に対する準備をするよう取り計らった。デュノワの予想はあたり、英国側は橋に狙いを定めた。この橋はほぼ1/4マイル(400m)の長さであり、ロワールの南岸からオルレアンの街の中心に向かって北河岸へと続いていた。この橋はサン・アントワーヌという名の川中島を通っていたが、この島はソルズベリが英国の大砲を据え付けオルレアンの街の中心を狙うには最適の場所であった。橋の南端にはレ・トゥレルという名前の砲塔のついた門楼があり、河の中に建てられていて、つり上げ橋で南岸と結ばれていた。デュノワは急いで南河岸に大きな土塁-堡塁-を作った。ここに彼の軍隊の一団を詰めさせて、橋の防衛目的の一つの巨大防塞構造物とした。土塁から道を隔ててアウグスティヌス派修道院があった。これは橋に接近する者にたいして攻撃射撃を行う場所として使われるべきであったのだが、デュノワはこれを使用しないと決めたように見えた。彼の命令でオルレアンの南郊外から人を立ち退かせ、すべての構造物は取り壊し、英国軍の遮蔽物とならないようにした。
(以下、翻訳者による画像の挿入)
現在のオルレアン橋。橋の南端から川向こうのオルレアンの街を眺める。
(翻訳者による画像の挿入)
モンタルジの包囲戦
(翻訳者による画像の挿入)
(翻訳者による画像の挿入)
AngersとOrléansの位置関係
(翻訳者による画像の挿入)
モンタルジの位置
(翻訳者による画像の挿入)
Maine、
(翻訳者による画像の挿入)
オルレアン包囲網の詳細
画像:1428-9年、包囲された時期のオルレアン。
画像:ジャルゴーの戦い。マーシャル・ドーベルニュによる写本。1500-1508年頃。BnF
画像:
橋に打ち付けられた「トゥレル城塞波止場」の表示板。
(翻訳者による画像の挿入)
画像:アジャンクールの戦いの後のフランス側戦犯
(翻訳者による画像の挿入)
画像: 1429年、彼女の存命中に描かれたただ一点の肖像画として有名。これは想像画である。画家クレマン・ドゥ・フォークンベルクは一度もオルレアンの処女に出会ったことがなかった。
「ジャンヌ=ダルク」パリ市議会儀典局、1429年。画家はClément de Fauquembergue。フランス国立公文書館
画像:Google Map 2014