この奉納あるいは記念のレリーフが示しているのは、一人の女性である。彼女は紡錘を手にもって、スツールの上に坐っている。彼女の後ろには召使いがいて、彼女に団扇で風を送っている。;彼女の前には脚のあるテーブルがあり、食物が置いてある。以前には、もう一人の人物が彼女の前に立っていた。この紡ぎ手の人物は古代オリエントで、個人の家庭環境で描写された女性のイメージとして稀なものの一つである。

 この彫像は、エラム中期時代で偉大なイギハルキド王族の一人として支配したウンタシュ-ナピリシャの妻、ナピラス王妃である。この王朝の下で、隣接するメソポタミアの凋落に乗じて、偉大なエラム帝国が繁栄した。ウンタシュ-ナピリシャは、アル-ウンタシュ-ナピリシャの都市を創設し、その都市を彫像で飾られた記念碑で満たした。これらの彫像はエラムの金属加工技術の標準を示す非凡な証拠である。

スーサとルーヴル美術館 (1)

ルーヴル美術館収蔵品でスーサに関連する品目の内、秀品と思われるものを集めました。

添付してある説明はルーヴル美術館ホームページの説明の翻訳です。

これらの収蔵品の詳細説明は、図版下の「画像」をクリックしてルーヴル美術館英語版説明をお読み下さい。

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浅浮彫断片、通称「紡ぎ手」
瀝青
新エラム期(紀元前8世紀-6世紀中頃)
スーサとスシアーナ
金細工、彫刻ならびに宝石彫刻術
J. de Morganによる発掘
Sb 2834

紀元前12世紀、エラム王シュトルック・ナフントがバビロンでの戦勝の戦利品とともにスーサに持ち帰った。シュトルック・ナフントがこの石碑に追刻した文面によれば、この石碑は彼がシパール(Sippar)という街を略奪したときのもの。

アッカド語で書かれたテキストによれば、この石碑はアッカド王ナラム・シンによるザクロス中央部の山岳民族であるルルビ族の征服を祝ったものである。

 このレリーフの断片はニネヴェのアッシリア王アシュールバニパル(669-627 BC)の宮殿からのものである。新アッシリア期末の首都にあったこの建物の装飾は、アッシリアの巨大芸術の最後の時期とその絶頂を印すものである。この国外追放が生じたエラム戦役の図版が示すのは、この時代の特徴となっている物語風で細密画風のスタイルである。

 このテラコッタの角柱は、きめの粗い土をコアとして粘土の微粒層で覆ってあり、精密な刻銘ができるようにしてある。この物体は内部が取り除いてあって、書記が作業中に軸の回りを回転させ、より簡単に書けるようにしてある。テキストは文語体で書かれている。

7. ウンタシュ-ナピリシャの名前が刻まれた手斧

6. ウンタシュ-ナピリシャの妻、ナピラス王妃の彫像

 この小さな男の頭の彫刻は古代オリエント芸術の最も有名な作品の一つである。この彫刻の例外的な品質ならびに描かれている人物の年をとった年齢から、これはバビロン王、ハンムラビ(1792-1750 BC)の像であると信じる人もいる。しかし、この作品は多分、この支配者の治世よりも先である。実際、細かい点、たとえば髪が額の上で、また、首の回りで整えられている方法から考えると、この彫刻は紀元前2000年頃のものであると考えてよい。

ハンムラビ法典はメソポタミア文明の象徴である。紀元前18世紀にバビロンの王によって建てられた玄武岩製の背の高い碑は、聖書の律法以前に作られた最も完全な古代の歴史的著作と法令集である。紀元前12世紀にイランにあった近隣の国エラムの王によって運び去られた記念碑は、スーサのアクロポリスで他の名高いメソポタミアの代表作に囲まれて陳列されていた。

注記シマシュキ(ŠimaškiLU2.SU.A.KI とも書かれる)は、ウル第3王朝時代後半になってイラン高原で最強となり、その領域は、北はカスピ海ちかくにまで達し、また南はアンシャンに接していた。

シマシュキと他イラン諸国家、ウル王朝との複雑な外交関係は、いわゆる「シマシュキ王名表」やシュメール史料を活用することによって、かなりの程度まで正確に復原することができる。

1. アッカド王ナラム・シンの勝利記念碑

ウンタシュ-ナピリシャの名前が刻まれたこの手斧は、イシュニカラブとキリリシャ女神に奉納された。発見されたのはチョガザンビルで、この王がインシュシナクとナピリシャに奉献した偉大なジグラートの近くのイシュニカラブ寺院においてであった。このタイプの武器は、斧の刃が動物-普通はライオン-の口から出てきており、紀元前2千年紀初期の伝統に則ったものである。金・銀合金で作られた野性の猪が手斧の側面を飾っている。

 ハンムラビ法典にはいろいろの部分的な複製が焼成粘土板で発見される。それらの幾つかは多分ルーブル美術館にあるあの有名な閃緑岩の石碑よりも古い。ハンムラビ法典の序文(石碑上の最初の305個の刻字)がそのような粘土板に印されている。ルーブル美術館にあるのもそうである。(Inv #AO 10237) ハンムラビによって新しく併合された都市に授けられた特権リストを精査するといくつかの相違が見つかるが、これの意味するところは、この粘土板が有名な石碑よりも古いということである。(紀元前18世紀初期と現在では見られている。)

彫刻の素材としての瀝青の使用は、6000年の占拠期間があったスーサ平原の大都市であるスーサおいて固有の創意である。紀元前2千年紀初頭、地所のある大きな別荘と棺墓の中で検出された。華美な副葬調度類が証拠付けるように、都市は非常に繁栄していた。そこに安置されていた瀝青(天然アスファルト)製の鉢は確かに贅沢品であった。

2. 子山羊を象った三足付鉢

3. ハンムラビ法典

12. アッシリア王アシュールバニパルの角柱

注:紀元前2300年頃にヒッタイト族の王サルゴンが地中海からペルシャ湾にいたる古代ペソポタミアを統一した。彼の孫であるナラム・シンNaram sin、在位:紀元前2155紀元前2119頃)はアッカド王朝の大王。

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ディン・シャリの街の奪取ののち、アシュールバニパル王による住民の国外追放
紀元前645年頃
ニネヴェ、アシュールバニパル宮殿、
雪花石膏
高さ: 0.97m、幅: 1.23m
英国政府からの贈与、 1855
エラム戦役の一齣
AO 19907

13. アシュールバニパル王による住民の国外追放

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エラム帝国に対する戦役とスーサの略奪を数え直すアッシリア王アシュールバニパルの角柱
アッシリア帝国、アシュールバニパルの統治時代(668-627 BC)
ニネヴェ、アッシリア(イラク)
焼成煉瓦
高さ: 33cm、厚み: 17cm
購入 1948
AO 19939

11. 浅浮彫断片、通称「紡ぎ手」

 これらの成形煉瓦のパネルはスーサの丘の外側神殿の正面を飾るために使われていた。シュトルキッド(Shutrukid)王朝の下で王族尊崇のために奉納されたこの記念物はこの王朝の国王達によって造られた。造り始めたのは、クチール-ナフンテ(Kutir-Nahunte)で、完成させたのはシルハク-インシュシナク(Shilhak-Inshushinak)であった。このパネルの特徴は、棕櫚の木を保護する牛男とラーマの女神との交互する姿であり、ともに保護神であると考えられる。

画像 成形煉瓦の壁板
紀元前12世紀中頃
アパダーナ土丘
焼成煉瓦
高さ: 1.355m、幅: 0.375m
Roland de Mecquenemによる発掘 1913/21; パネルsb19575¿19577the Philip Morris Jury Prize, 1991により修復された。
Sb 2732, Sb 2733, Sb 2734, Sb 2735, Sb 14390, Sb 14391, Sb 19575, Sb 19576, Sb 19577

10. 成形煉瓦の壁板

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エラム王によって強奪されたバビロニアの石碑
紀元前12世紀
スーサ
玄武岩
J. de Morganによる発掘

9. バビロニアの石碑

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カッシート期、メリシパク王治世下(紀元前1186-1172年)とされる。
スーサ(紀元前12世紀に戦利品として持ち込まれた)
石灰石
J. de Morganによる発掘
Sb 25

8. 未完成のクドゥッル(境界標識)

クドゥッルの頭頂部でとぐろを巻いている蛇の輪の下に、神殿の主神が象徴形状で表現されている。その下に描かれているのは、動物たちの供揃いと楽器を奏でる神々である。壁と銃眼付き塔で囲まれたスペースは空である。これは刻銘用のスペースなのであるが、彫刻されることはなかった。角の付いた蛇は、マルドゥク神の象徴なのだが、底部のまわりでとぐろを巻いている。

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ウンタシュ-ナピリシャの名前が刻まれた手斧、末端に野性猪の小像
紀元前1340-1300年頃
イラン、チョガザンビルのキリリシャ神殿
銀とエレクトラム(金と銀の合金)
高さ:5.9cm、長さ:12.5cm
R. Ghirshmanによる発掘、1951-62
Sb 3973

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Statue of Queen Napirasu, wife of Untash-Napirisha
ウンタシュ-ナピリシャの妻、ナピラス王妃の彫像
西暦前1340-1300年頃
アクロポリス遺丘、スーサ
青銅と銅
J. de Morganによる発掘品、1903
Sb 2731

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王の頭部、通称「ハンムラビの頭」
紀元前2千年紀初期
スーサ
閃緑岩(Diorite
H. 15.20 cm; W. 9.70 cm; D. 11 cm
J. de Morgan による発掘品

5. 王の頭部、通称「ハンムラビの頭」

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バビロン王、ハンムラビの法典
紀元前1792–1750
スーサ、イラン
玄武岩
高さ: 2.25 m; 巾: 0.65 m
ジャック・ド・モルガンによる発掘、1901–1902
Sb 8

4. バビロンの王のハンムラビ法典

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画像子山羊を象った三足付鉢
(ウル第三王朝時代末期の)シマシュキ王朝時代(紀元前20001940年)
イラン、スーサ、アパダーナ遺丘、墓1
瀝青岩(天然アスファルト)、金、ブロンズ、貝殻(小型板と眼の白色)、ラピス・ラズリー(瞳孔)
1921年、ロランド・ド・メクネ
Sb 2737

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アッカド王ナラム・シンの勝利記念碑
アッカド時代 紀元前2250年頃
針状石灰石
高さ2m、 巾1.5 m
J. de Morgan 発掘品, 1898