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バロン・フランソワ=パスカル=シモン・ジェラール(ローマ、1770年−パリ、1837年)

1792810日》
17941795
ペンと褐色の淡彩、白のハイライト
66.8 cm、横91.7 cm.
共和歴2年(179445月)の素描のコンクール。1837427日から29日まで、パリで画家の歿後の競売(23番)、ルーヴル美術館により取得

1792810

フランス君主制の終焉 
(1)

(翻訳者が付加した画像)

画像:現在のテュイルリー宮殿跡。2014/05/13撮影。
1792年当時テュイルリー宮殿の正面門があった地点に作られた凱旋門。凱旋門を作ったのはナポレオンT。後方にテュイルリー宮殿があった。

(翻訳者注:このイラストは宮殿主閣に外階段が構築されているので、1868年頃の画像であると思われる。1792年当時のテュイルリー宮殿を反映していない。参考画像参照のこと。)

オーストリアに対する宣戦布告は数ヶ月前になされたが、これがフランスにとって軍事的に惨憺たる結果に転じていた。オーストリア軍とその同盟軍であるプロイセン軍は急速にフランス領に突入してきていた。彼らの残虐行為がパリで報告されていた。彼らの進軍の道に沿って、村落は火をつけられ、女性達は大部隊のすべてによって強姦され、市民は虐殺された。死にものぐるいの反攻が必要なときに、この国を護るため、愛国者達が志願した。国王と王妃の立場からすれば、オーストリアとプロイセンは伝統的な君主制を回復するであろうから、彼らが迅速に成功するということは歓迎すべきニュースなのであった。パリ市民の立場からすれば、外国からの侵入者達は敵であり、ルイ16世とマリー・アントワネットとその追従者達は反逆者であった。君主制とパリとの離婚はいまや完成していた。外国軍がパリに近づくにつれて、国王一家にとって危険性は増していった。国王宮殿であるテュイルリーへの攻撃が何日にもわたって公然と準備されていた。


   私の最初の小説「革命の女主人」のなかで、私はヒロインであるガブリエルを810日のテュイルリーに登場させた。私が小説のベースとしたのは、二人の目撃者のメモワールについての回想とリアクションであった。この目撃者達は宮殿の内部からテュイルリー宮殿の襲撃を見たのである。彼女達は、王家の子供達の女家庭教師であったマダム・ド・トゥールゼルと女王付きの客室掛の第一メードであったマダム・カンパンである。ここに書き出すのは、マダム・カンパンの話の抜書きである。なお、私の注釈は括弧のなかに入れてある。

1792810日はフランス革命の重要な日の一つである。なぜパリの大衆は国王と王妃にたいしてそんなに怒ったのであろうか?

1792810日:フランス君主制の終焉

1
なお、カンパン夫人については
ヴェルサイユ宮殿ホームページ

2
カンパン夫人の

MEMOIRS OF THE COURT OF MARIE ANTOINETTE, QUEEN OF FRANCE
Being the Historic Memoirs of Madam Campan,
First Lady in Waiting to the Queen

については、
英訳University of Michigan Library (1900/1/1)
で参照することができる。

引用された箇所は:
CHAPTER VIII., BOOK 6.,
The Memoirs of Marie Antoinette, v6, by Madame Campan

を開け。

参考画像:
Jeanne Louise Henriette Campan

この作品についてのルーヴル美術館の説明

恐怖政治

   1792711日、立法国民議会は、ブルンスヴィックの軍隊と戦うべく、「祖国の危機」を宣言した。愛国者は、国王の裏切りを非難し、国王の信用が失墜したと主張し、ロベスピエールは国王の廃位という考えを打ち出す。89日の夕方に蜂起が起こり、夜にテュイルリー宮殿は包囲された。蜂起者と軍隊との直接対決を避けるため、国王は議会内部の調馬場に逃げ込む。朝に議会は、国王とその一家を受け入れることを承諾した。国王一家は、幕によって調馬場と区切られたロッジア、すなわち議会の外側に隔離される。1791年の憲法によれば、議会は国王の御前では討議できない決まりであったから、こうして憲法は不自然とさえ言えるほどに尊重されたのである。それでも、蜂起者とテュイルリー宮殿のスイス人護衛兵との間に戦闘が勃発した。ついに請願者は、「祖国、自由、平等」と書かれたのぼりを手に議会になだれ込んだ。ジェラールが素描で描いたのはこの局面である。

(翻訳者が付加した画像)

8時に(まだ朝なのだが)検事監督官(レドレールという名前の、パリの選良高等官僚)が国王のキャビネットに入っていき、国王との密談を要求した。国王は彼を寝室に招じ入れた。;王妃が同席した。そこでムッシュー・レドレールが国王に話したことは、国王陛下が直ちに立法国民議会へ行く決心をしなければ、国王、国王の家族全員、それにおつきの者達はすべて死ぬことになる、ということだった。王妃がまず彼の助言に反対したが、検事監督官は、その場合、国王、王妃の子供達ならびにこの宮殿に居るもの全員の死にたいする責任をとってもらうことになる、と彼女に話した。彼女はもはや反対しなかった。国王はそこで立法国民議会に赴くことに同意した。彼が出発したとき、彼は大臣と彼を取り囲んでいた人達に言った、「紳士諸君、ここにはもうこれ以上なにもすることがない。さあ、行こう」

 王妃は彼女が国王の寝室を去るときにこう言った。「私の部屋で待っていなさい。わたしがあなたのところに来ます、あるいはまだどこだかわかっていないけれど、どこかへ行くよう指示を送ります。」彼女が一緒に連れていったのは、プリンセス・ド・ランバル(王妃室長で国王家族の一員)とマダム・ド・トゥルゼール(国王の子供達の女家庭教師)であった。

私たちは国王家族がスイス近衛兵とプチ-ペル大隊とフィーユ・サン・トーマス大隊(国民衛兵の2大隊はまだ君主制に忠実であった)の近衛兵によって造られた二列の中を通るのを見た。彼ら(国王家族)は群衆によってとても押されたので、短い移動の間に王妃が腕時計を奪われた。すべての暴動の先頭で見掛けるような背の高い恐ろしい顔つきの一人の男が、王妃が手を引いていた王太子に近づき、抱き上げた。王妃は恐怖の叫び声を挙げ、失神しかかった。その男は彼女に言った。:「驚かないでください。彼に害を加えません!」そして立法国民議会の入口で彼を彼女に返した。

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国王、王妃、マダム・エリザべート、マダム(ルイ16世とマリー・アントワネットとの間の娘、マダム・ロイヤル)ならびに王太子が国民衛兵の諸分隊の列を通って行く。;いくつかの場所で「陛下万歳」の叫びが聞こえた。

私は庭園側の窓のところに居た。;砲手の何人かが持ち場を離れて国王に駆け寄り、国王の面前で握り拳を振り、もっとも野蛮な言葉で彼を侮辱するのを私は見た。国王は死体のように青くなった。国王一家は内部に帰ってきた。王妃が私にすべてが失われたと話した。;国王には活力が見えない、とも。;また、この類の閲兵をしても良いことは何もない、とも。

私は私の同僚達とビリヤード室にいた。;私たちは背の高い長椅子に座っていた。そのとき私はムッシュー・デルヴィリが手に引き抜いた剣をもって、守衛にたいしフランスの貴族のためにドアを開けるように命令しているのを見た。二百人が国王の家族が居られる部屋の隣室に入ってきた。;その他の人達はその先の部屋の中で二列になって整列していた。そのなかに、宮廷に属している数人の男を私は見つけた。その他多くの人達は私の知らない人達だった。数人は法律的には貴族の権利をもっていなかったが、彼らの献身は直ちに彼らを貴族にした。

彼らはすべてとても貧弱な武装であったが、そんな状況でも不屈なフランス才人は思うままに冗談にふけっていた。国王侍従の一人であるムッシュー・ド・サン-スープルと一人のボーイが肩の上に載せていたのは、マスケット銃ではなくて、国王の控えの間の火ばさみであった。それを彼らは二つに割り、二人で分けていた。もう一人のボーイは手に懐中銃を持っていて、銃口を彼の前に立って入る人の背中に突きつけているものだから、その人は彼にお願いだからどこか他所に向けてくれと懇願していた。全員必ず武装せよと予告されていた人達の武器といえば、一振りの剣と二丁のピストルだけだった。一方、地方から出て来た多数の人の群れが、槍と蛮刀で武装し、カルーセル広場とテュイルリーに隣接する街路を埋めていた。マルセイユからやってきた血に飢えた男達が彼らの戦闘に立っていた。彼らはカノン砲を宮殿に向けていた。この非常事態にあって、国王諮問会は法務大臣ムッシュー・デジョリを国民議会(立法府)に送り、執行権力にたいし、防衛手段として働く代表団を国王に送るよう、要求した。彼の没落は決定的であった。;彼らはその日の成行きにまかせることにした。

翻訳者注1カーネリアン(紅玉髄)

カーネリアン(carnelian)は、鉱物の一種。玉髄の中で赤色や橙色をしており、網目模様がないもの。
紅玉髄とも呼び、網目模様があるものを瑪瑙と呼ぶ。主な産出地はインド、ブラジル等である。

気高い王女はこう付け加えられた。「残念だが、この格言は中っているけれども、私たちの敵には重みが足りない。しかし、その記述は私たちにとって、これ以下の大事さであってはならない。」

王妃は私に彼女の側らに座るように言った。;(彼女とマダム・エリザべートは)眠れなかった;彼らは悲しみに沈んで、状況につき話し合っていた。そのとき、中庭でマスケット銃が発射された。彼らはソファから立ち上がり、言った。:「これが最初の一発ね。残念だけど、これが最後とはならないわ。;国王のところへ行きましょう。」王妃は私についてくるようにと言った。;彼女の付き人の何人かが私に連れ添った。

(朝の)4時、王妃は国王の寝室から出て来て私たちに告げるには、もはやなんの望みもない、と。;ムッシュー・マンダ国民衛兵の首席指揮官)は更なる命令を受け取るために市役所へ行っていたのだが、殺されてしまった、と。また、そのころ、民衆は彼の頭を抱えて街路を歩きまわっている、と。その日がやってきたのだ。

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翻訳者注2:カーチフkerchief

夜中の一時、王妃(右図はテュイルリー宮殿でKucharskが描いた王妃のポートレイト)と(王妹)マダム・エリザべートが、中二階の部屋のソファで横になっていると言われました。中二階の窓はテュイルリー宮殿の中庭が見渡せるのです。

王妃が私に話されたことですが、国王は彼のキルトチョッキ(一種の防弾チョッキ)を着ることを拒否された、ということです。;国王は714日にはそれを着ることに同意された。というのも、そのとき彼は単に暗殺者の刃の危険がある儀式に行くことになっていたからで、彼の一団が革命家達と戦う日にはこのような方法で命を守るのはなにかしら臆病だと国王は考えられたからなのです。

この間、マダム・エリザべートはソファに横になるために幾つかの衣類を取り除いた。:彼女は彼女のカーチフからカーネリアンのピンを外し、それを机の上に置く前に、それを私にみせ、百合の茎の回りに彫られた金言を読むように命じられた。言葉はこうだった:「侮辱は忘れよ。無礼は許せ」

警鐘が夜中に鳴り渡った。(教会の鐘が一斉に鳴って惨事を警告した。)スイス人の警備隊が壁のように整列した。;そして彼らの兵隊のような沈黙のなかにあって、極めて対照的に、国民衛兵が絶え間なくやかましい音をたてていた。国王はヴィオムニーユ元帥によって定められた防衛計画をスタッフ・オフィサーであるムッシュー・ド・Jに告げた。ムッシュー・ド・Jは国王との会話ののち、私に言った。「あなたの宝石類とお金をポケットに入れなさい。;われわれには逃げられない危険が迫っています。;防衛手段はありません。;安全は国王に残っている精力次第なのでしょうが、その精力が彼には失われている。」

本稿は

Versailles and More
By historical novelist
Cathorine Delors
Author of For the King
出典

の翻訳である。

画像:テュイルリー宮殿庭園側正面玄関のあった場所から北方を眺める。立法国民議会の建物はこの写真のちょうど中央辺りにあった室内馬場。
2014/05/13
撮影。