マルセイユから来た男達は抵抗せずして降参したスイス人を、何人かその持ち場から追い出した。;攻撃者数人が彼らに向かって発砲した。;スイスの士官達のあるものが彼らの部下が倒れるのを見て、そして多分、国王がまだテュイルリーにいると考えて部隊全体にたいし発砲命令をだした。攻撃者達は逃げ去り、カルーセル広場は一瞬にして空になった。;だが、彼らはすぐに怒りと復讐の念にかられ、戻ってきた。スイスの近衛兵はわずか800人の人員であった。;彼らは宮殿の内部に退却した。いくつかのドアは大砲で打ち壊され、その他のドアも手斧で壊された。;民衆はすべての方角から宮殿のなかに殺到した。;ほとんどすべてのスイス人が虐殺された。;ルーヴルへと通じるギャラリーを通って逃げ出した貴族達は刺されるか撃たれるかされて、かれらの死体が窓から外へ投げ出された。

特別な事情があって、私はよその方々よりも危険な目にあいました。わたしは混乱していましたので、暴徒達が王妃室へ押し入ってくるほんのちょっと先に、私の妹がそこに集められた女性達のなかにいないことを知り、;そこで彼女が逃げ込んだと思われる中二階へと行き、彼女に降りてこさせようと考えたのです。私たちが離ればなれにならないほうが安全だと考えたのです。問題の部屋には彼女はいませんでした。;私がそこで出会ったのはふたりの部屋係と王妃の二人の護衛のうちの一人でした。彼は背画高く、軍人の顔つきでした。彼は顔が真っ青でベッドに座っていました。私は彼に向かって叫びました。「逃げなさい!ボーイ達と私たちはもう安全ですよ」「できません。」と、その男は私に言いました。「わたしは死ぬほど怖い。」彼が話しているとき、何人かの男達が急いで階段を駆け上ってきた。:彼らはあの男に殺到し、彼は私の目の前で殺された。

私は階段のほうへ走った。メード達が続いた。殺し屋達は護衛の次に私のところにやってきた。女たちは彼らの足下に身を投げ、彼らのサーベルを掴んだ。階段が狭かったので、暗殺者達の邪魔になった。:でも、ひとつの忌まわしい手が私の背中を押付け、服を掴んで私を捕まえるのを感じた。そのとき、誰かが階段の下から叫んだ。「そこでなにをやっているんだ。我々は女性は殺さないんだ。」私は跪いていた。;私を掴んでいた処刑人は私を放し、残虐な口調で言った。:「立ち上がれ、このあばずれ。;国家はお前を赦す。」

こういう言葉の野蛮さを聞きつつも、私は突然に、どう説明したらよいか分からないような感情を経験した。命の有難さと私が再度息子に会うことができるという考えがほとんど同時に等しく感じられたのです。ほんの一瞬間前に、私は死ぬことよりもむしろ、私の頭の上で振りかざされた鋼鉄が私に味わわせるであろう痛さを考えていた。死とはそのような近距離では強打の一撃なしには見ることができないのだ。私はまるで死んでしまったかのように、暗殺者が発する言葉の全てを聞いていた。

56人の男達が私と私の同伴者達を捕まえ、窓の前に置いてあったベンチの上に立たせ、こう叫ぶよう命令した。「国家万歳!」。

私は幾つかの死体をまたいだ。私は年老いたド・ブロヴ子爵の死体を見かけた。王妃が昨晩の初め私に申しつけされて、彼ともう一人の年寄りに家に帰れと伝えさせた人だった。この勇敢な人達は私に王妃殿下に次のように伝えるよう頼んだのだ。自分達はあらゆる状況において、国王を守るために自分たちの命を投げ出せ、という国王命令を厳密に遵守するのみであります。;そしてまた、自分たちは今回は命令に従いませんが、王妃殿下のご親切の記憶を大事にするつもりです、と。

橋に続く側の門の近くで、私に付き添っていた男達がどこへ行きたいかと私に尋ねました。私が逆に、彼らが私を私の望むところならば何処でも連れて行って下さるのですか、と尋ねたところ、そのなかの一人でマルセーユから来た男が彼のマスケット銃の台尻で私を一押しし、私がまだ人民の権力を疑っているのか、と尋ねた。私は「ノー」と答え、私の義兄弟の家の番号を教えた。私は妹が国民衛兵のメンバーに取り囲まれて、橋の欄干の段を登ってくるのを見た。彼女は振り返った。「貴方は彼女と一緒になりたいのか?」と私のボディーガードが私に言った。私はイエスと言った。彼らは私の妹を監獄に連れて行く人達に呼びかけた。;彼女は私と一緒になった。

1792810日フランス君主制の終焉 (2)

王室の守衛であったムッシュー・パラとムッシュー・ド・マルシェは会議室のドアを守っていて殺された。;国王の召使いの多くの者は彼らの忠誠心のために犠牲になった。私がこれら二人の人物を特別に言及する理由は、彼らが帽子を眉毛まで深くかぶり、剣を手にして、役にたたなかったけれども勇気を振り絞って防衛している際にこう絶叫したからである。「我々は生き残りはしない。ここが我々の持ち場なのだ。;われわれの義務はこの場で死ぬことだ」。ムッシュー・ディエは王妃の寝室のドアのところでまったく同じやりかたで振舞った。;彼も同じ運命に会った。プランセス・ド・タラントは幸運にも王妃の部屋のドアを開けた。:さもなければ、あの恐ろしい一団が王妃室のなかに何人かの女性が集まっているのを見て、王妃が私たちのなかにいると勘違いして、もし私たちが抵抗していたら、私たちを直ちに虐殺していたでしょう。私たちは実際に死ぬところだった。そのとき、長いあごひげの男が一人現われて、ペティヨン(パリ市長)と名乗り、「女性は殺すな!国家の名誉を汚すな!」と叫んだ。

注:上述文中ちらと引用されているプリンセス・ド・ランバル(王妃室長で国王家族の一員)とマダム・ド・トゥルゼール(国王の子供達の女家庭教師)はその後どうなったのか?

プリンセス・ド・ランバル

マダム・ド・トゥルゼール

出典Wikipedia, Princess Marie Louise of Savoyより

819日、プリンセス・ド・ランバルと国王の子供達の女家庭教師であったマダム・ド・トゥルゼールは国王の家族と引き離され、ラ・フォルス監獄に移された。93日、彼女(プリンセス・ド・ランバル)は急遽設定された法廷へ連れ出され、「自由と平等に宣誓し、国王、王妃ならびに君主制度への憎悪を誓う」よう要求された。彼女は拒絶した。これにより、彼女の裁判は即座に「マダムを連れ出せ」という言葉とともに終了した。彼女は直ちに街路に連れ出され、一群の男たちに投げ与えられ、彼らは彼女を数分のうちに殺した。

 あるレポートによれば、彼女は陵辱され、他の肉体的な切断に加えて乳房が切り落とされた。そして、頭が切り落とされて槍につけられた。別の報告書によれば、その頭は近くのカフェへ持ち込まれ、客の前に置かれ、客たちは彼女の死に祝杯をあげるよう促された。他の報告によれば、その頭は、それがすぐ識別できるよう整髪するために床屋へ持ち込まれた。これにはさすがに異議が申し立てられたのだが。この後、頭は槍に刺して、タンプル塔のマリー・アントワネットの窓の下で見せびらかされた。

国王はどうしてそんなに長く待ったのであろうか? 彼がテュイルリーを離れて立法国民議会へ行く前に、なぜ彼はスイス近衛兵と貴族に降伏するよう命令しなかったのであろうか? 君主制の廃止が先行的な結論に見えたには違いないが、虐殺は避けられたはずだし、未来もまったく異なっていたであろうに。ルイ16世は優しい人であった。そして、彼のもっとも忠実な支持者達を、テュイルリーの家具類を防衛するために不道徳にも死なせたわけではなかった。:私は、マダム・カンパンの記述のなかに手懸りがある、と考える。:マリー・アントワネットと他の目撃者が国王の「体力の無さ」に言及していることに注目しよう。私は遡及的な精神医学診断のファンではない。だが、私の考えるところ、ルイ16世はその時点で病床の意気消沈状態だったのだ、と考える。

ガブリエルからこの悲劇的な日の結論を聞いておこう:


立法国民議会では、国王と王妃は初めは敬意で迎えられたのだが、虐殺の大きさが知られはじめると、彼らは檻にも似た息苦しいスペースの報告者の小部屋のなかに坐ることを命令された。パリ全体で、国王達の彫像が、ノートル・ダム寺院の入口を飾る彫像さえも、ポン・ヌフ橋、新しい橋にある敬愛されるアンリ4世の彫像さえも、引き倒され、壊された。翌日、立法国民議会は君主制を中止した。王家族はパリの中央の収容所であるタンプルに監禁された。この場所はその名前が示すとおり、タンプル騎士団の邸宅であったところである。


パリ伯ユーグ・カぺーによって成立した王朝、世界でもっとも古い統治家系、はフランスを途切れることなく8世紀にわたり支配してきた。それが、17928月のこの数日間に転覆させられた。以前の国王はいまや一介の私人の市民であった。そして革命家達は好んで彼を単に「ルイ・カぺー」と呼んだ。彼の遠い昔の先祖の姓を踏襲したのである。王妃は「カぺー女」となった。

画像:テュイルリー宮殿、カルーセル中庭、1792810日。
油彩・キャンバス
Duplessi-Bertaux, Jean (1747-1819)
124x192 cm
ヴェルサイユ宮殿

(翻訳者が付加した画像)

略奪者達が王妃の第一控えの間のなかで幾つかの容器の水をばらまいた。;血と水のまざったのが私たちの白いガウンに染みをつけた。がみがみ女が街路で叫び声をあげて私たちを追いかけた。私たちがあのオーストリア女の世話をしていた、となじっているのだ。私たちを護っていた保護者達が私たちのためにちょっとした心遣いを示し、出入り口を上がらせ、私たちのガウンを脱ぎ捨てさせてくれた。;だが、私たちのペチコートは短すぎ、あたかも偽装した人物のように見えた。他のがみがみ女が私たちを若いスイス人近衛兵が女装していると喚き始めた。私たちはそのとき、女性人食い人種が街路に出て来たのを見た。彼女は可哀相なマンダ(国民衛兵隊総司令官)の首をかかえていた。私たちの保護者達は急いで私たちを小さな宿屋に入らせ、ワインを頼み、一緒に飲むように仕向けてくれた。彼らは主人に私たちが彼らの妹達で、良き愛国者であると保証した。

画像:凱旋門の彫刻「ラ・マルセイエーズ」フランソワ・ルード作。義勇兵の第一線に立ったのがマルセイユから馳せ参じたマルセイユ人だった。下段中央が典型的マルセイユ人か?

(翻訳者が付加した画像)

画像:Jérôme Pétion de Villeneuve。当時のパリ市長、ペティヨン。

(翻訳者が付加した画像)

画像:ルツェルンにあるスイス人近衛兵追悼碑のライオン

解説:テュイルリー宮殿を警護していたスイス人近衛兵のうち、600人以上が戦闘中に殺されるか、降伏後に虐殺された。推定200名が戦闘中に受けた傷がもとで獄中で死亡、あるいはその後の九月虐殺で殺された。テュイルリー宮殿から逃れた約100名のスイス兵は別として、この連隊での生き残りは300兵員の分遣隊で、彼等は810日の数日前にノルマンディーへ派遣されていた。スイス人の士官は大概が虐殺された。だが、テュイルリーでの指揮官カール・ヨーゼフ・フォン・バッハマン少佐は、正式に裁判にかけられ、9月、赤色の制服コートを着たままギロチンにかけられた。生き延びたスイス人士官二人はナポレオンの下で上位の階級を獲得した。

画像テュイルリー襲撃の際の宮廷内の戦闘

(翻訳者が付加した画像)

写真:現在のテュイルリー宮殿跡。宮殿は、1871523日パリ・コミューンとヴェルサイユ政府軍との抗争の最中に焼失した。宮殿跡に陳列されているのはマイヨールの素晴らしい彫刻「河」1943

記憶すべきことがあまりにも多いその日のすべての詳細については歴史にまかせることにして、国王が宮殿を去ったあと、テュイルリーの内部で起った驚くべき場面の幾つかを自分自身で思い起こすことにしましょう。

攻撃者達は国王とその家族が立法国民議会へ去ったことを知らなかった。;そして、宮殿を防衛した人達はひとしくそれを無視していた。もし彼らがその事実に気付いていたら包囲網は生じなかったと思われる。

テュイルリーから私の妹の家までの道行きは非常に痛ましかった。私たちは何人ものスイス兵が追跡され殺されるのを見た。マスケット銃がすべての方角からお互いに交差して発射された。私たちはルーヴルの壁の下を通り過ぎた;彼らは胸墻から回廊窓のなかに発砲し、「短剣の騎士」を狙い打ちしていた。;大衆は国王を防衛するためにテュイルリーに集合した誠実な男達をこのような言葉で呼んでいたのだ。

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(翻訳者が付加した画像)

画像:プリンセス・ド・ランブイユの死。レオン・マクシム・ファーブル画、1908

さて、810日に戻ろう。午前9時前に国民議会に到着した国王は午後まで待ってからスイス近衛兵にたいし降伏命令をだした。これはこの命令書のコピーである。署名は彼の自筆である。これはあまりにも遅すぎた。死者の数はものすごかった。:数時間に2,000人以上が死んだ。これには防衛軍の大部分(スイス近衛兵、召使い、貴族)と1,200名の暴徒が含まれている。

私はこのマダム・カンパンの記述を信頼する。というのも非の打ち所のないマダム・トゥールゼルによって確認されているからだ。数多くの「マルセイユから来た男達」と(マダム・カンパンの耳にはそう聞こえた)彼らのひどいアクセントという言及に気づかれることだろう。彼らは南方からパリへと徴兵に応じるためにはるばるやって来た志願兵なのだ。ルイ16世国王として採った最後の行為の一つのなかで、彼らが前線に送られる前に彼らを集めるため、パリ近郊で野営地を設定することを厳禁した。だから、彼らが君主制に反対する明らかな敵意が育まれたのである。これらの男達はテュイルリーを攻撃する間、新しい歌を歌っていた。これが彼らの名誉である「ラ・マルセイエーズ」であり、のちにフランスの国歌になった。

画像1792810日、パリでの残虐非道行為
銅版画、彩色
ドイツ派(18世紀)
Musee des Suisses a l'Etranger, Geneva,

画像Jean-François de Rafélis, vicomte de Brovesド・ブロヴ子爵

(翻訳者が付加した画像)

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