(翻訳者による画像の挿入)

ニヴォーズ1日(1222日)、サン-レジャンが地獄機械を据え付けようとカルーセル広場へ行った。彼はテュイルリー宮殿の北のサン・ニケーズ通りでフォーブール・サントノレ通りの近く場所を選んだ。そこは1795年にナポレオンが王党派暴徒を虐殺した場所だった。くわしく言えば「現在のテアトロ・フランセーズ広場に並行しており、オペラ座に通じるロワ通り(現在はリシュリュー通りと名前は変わっているが)はほぼこの通りの延長線上にある。」サン-レジャンはこの場所が完璧な場所だと判断した。「彼らは樽を積んだ荷車をサン・ニケーズ通りのサントノーレ通りの近くでカルーセル広場から20mばかりのところに置いた。一味の一人は広場の端っこのオテル・ド・ロングヴィルの前で見張り番に立った。彼は、馬車がテュイルリー宮殿を出るのを見て、長い導火線を使い爆弾に点火する男に合図を送るように取り仕切った。

陰謀


フランス革命第9年フリメール26日(18001217日)、シュアン党員カルボン、リモラン、サン・ジャンの三名はランバルという名前のパリの穀物商から荷車一台と一頭の馬を買付けた。カルボンが申し立てたのは、自分は行商人であり、一荷の粗糖を買付けており、これをブルターニュのラヴァルへ運び、布地と交換する積りであり、そのためにランバラの持っている荷車と老いぼれの雌馬を買いたい、と言ったのだ。ランバルは彼に荷馬車と雌馬を二百フランで売った。カルボンと彼の友達はこれを駆ってサン・ラザール教会の近くのパラディ通り19番地へ行った。そこに彼らは一軒の小屋を借りていたのだ。其処で彼らは五日間を過ごし、大きいワイン樽を十本の強力な鉄の輪で荷車に括り付けた。着想はこの樽に火薬を詰め、地獄機械を作り、ナポレオンがオペラ座のような公共の場所へ出かけるとき、彼の近くで爆発させるというのであった。

サン・ニケーズ通りの陰謀 (1)

(翻訳者による画像の挿入)

眠っていたあいだに、ナポレオンは、三年前にタリアメント川での敗北を追体験するという悪夢にうなされていた、といわれる。彼が夢を見ていた間に、セサールという名前の酔っぱらいが駆っていたナポレオンの馬車は、サン・ニケーズ通りを過ぎてフォーブール・サントノレ通りに入った。カルーセル広場で立っていたリモランはパニックとなり、サン・ニケーズ通りにいたサン・レジャンに合図するのに失敗した。こうして貴重な1分ないし2分が失われた。ナポレオンの警護団の先頭に立つ擲弾兵達が通り過ぎたとき、サン・レジャンは導火線に点火して逃げた。

地獄爆弾は爆発し、あの十代の少女ペンソルを殺し、その他多数の罪もない傍観者達を殺した。

画像Google, Old Map of Paris1800年、一部修正

画像:ヨーゼフ-ピエール・ピコ・ド・リモラン・ド・クロリヴィエール(1768-1826)

説明:兵士、冒険家、建築士、会計士、芸術家かつ牧師であったヨーゼフ-ピエール・ピコ・ド・リモラン・ド・クロリヴィエール(1768-1826)は、フランスのナントでブルターニュ貴族の家に生まれた。ピコは兵士として身を立てることとし、王立軍事アカデミーを卒業し、ルイ16世軍のなかで士官の任務を与えられた。ナポレオンの暗殺計画に携わったことにより、有罪となり、死刑判決を受けたピコは、彼の妹夫婦とともにジョージア州サヴァンナに逃げた。ピコの義兄弟はアメリカに広大な地所を所有していたので、ピコに財産管理の仕事を与えた。

(翻訳者による画像の挿入)

ピエール・ピコ・ド・リメラン(1768–1826):ギロチンにかけられた王党派貴族の息子で侍従。

ジャン・バプティスト・コスター(1771–1804):俗称サン・ヴィクターとして知られるカドゥーダルのもっとも有能な補佐。

陰謀家達


ナポレオンの命を狙う地獄機械の計画は七人の王党派ブルトン・シュアン(ブルターニュ地方のふくろう党)が立てた。

Wikipedia plot of the rue Saint-Nicaiseの翻訳です。

画像Saint-Régent

(翻訳者による画像の挿入)

画像:ニケーズ通りのテロの際のボナパルト。Collection de l'IHRF

(翻訳者による画像の挿入)

画像
パリ、サン・ニケーズ通りの地獄機械。ボンヌフォイの版画。
ナポレオン・ボナパルトに対するテロ行為(24.12.1800)、19世紀初頭。
ソルボンヌ大学フランス革命歴史研究所蔵 Collection de l'IHRF

画像:第三回目のシュアン(梟党)運動。

画像L’attentat de la rue Nicaise, 24 décembre 1800. Collection de l'IHRF

ナポレオンの家族が乗った馬車が後続していて、爆発に遭遇した。

それから彼らは荷馬車を宮殿の北のサン・ニケーズ通りへ走らせた。リモランはカルーセル広場を横切り、そこで導火線の火付け役の二人の仲間に合図した。サン・レジャンはペンソルという名前の十代の女の子を見つけた。彼女のお母さんは近くのバック通りで新しく焼き上げた巻きパンと野菜を売っていた。彼は彼女に12スーを払い、数分間雌馬を抑えておくように頼んだ。午後8時、ナポレオンは、彼に反対する陰謀家達を警官が捕まえたと考え、リラックスしているけれども疲れた状態で、気が向かぬままオペラ座へ向い、ヨーゼフ・ハイドンの堂々とした聖譚曲(オラトリオ)「創造」の上演に出席することとしていた。これはフランスでの初演であった。ボナパルトの馬車は執政近衛兵による護衛騎兵隊によって先導されていた。戦争大臣ベルティエ、ランヌ元帥、ならびにボナパルトの副官であるローリストン大佐が第一執政と共に乗っていた。19世紀のフランスの心理学者、ガルニエが彼らの回想録から推察するところでは、オペラ座へ向かっていたとき、ナポレオンは疲れ切っていて、眠り込んでいたという。

画像:パリのサン・ニケーズ通り。陰謀の間のナポレオンの馬車の経路。(18001224日)

翻訳者注:カルーセル広場を出て左に曲がってからの直線(赤色実線)がニケーズ通り。

翻訳者注:パラディ通り19番地

参考画像

画像:サン・ニケーズ通りの隠謀、銅版画

爆発

フランス革命第9年ニヴォース3日の午後遅く(18001224日、クリスマス・イヴ)この地獄機械を作った陰謀家カルボンは大きなワイン樽を載せた荷車に雌馬を馬具で繋ぎ、リモランがパリ北方郊外のサン・ドニ門へと走らせた。人気のない建物の中で彼らは樽に火薬を詰めた。

ジョルジュ・カドゥーダル(1771–1804):偉大なシュアン運動のリーダー

画像

(翻訳者による画像の挿入)

(翻訳者による画像の挿入)

ピエール・ロバノー・ド・サン-レジャン(1768–1801):ルイ18世の支持者であり、前年西フランスで反乱を起こそうとし、ヴァンデー県にたいするナポレオンの大赦の申出を公然と破った。

翻訳者注:この段落の記述は史実とは異なる。

正しくは: 158544,5日、Federigo Giambelli。アントワープ港外、スヘルデ(Schelde)川のカロ(Kallo)。アントワープ包囲を行っていたスペイン軍堡塁爆破のためにイタリア人技師フェデリゴ・ジャンベリが作った二隻の「地獄船」Hellburners)が史実。殺害されたスペイン兵の数は800名。

(翻訳者による画像の挿入)

サン・ニケーズの陰謀、別名地獄機械(英語:Infernal machine)陰謀は、18001224日に、フランスの第一統領、ナポレオン・ボナパルトの命を狙った暗殺の企てであり、王党派とカトリックによる多くの陰謀の一つである。

画像:コメディー・フランセーズ、18世紀後半の水彩画。

翻訳者注:コメディー・フランセーズはサントノーレ通りとリシュリュー通りの角にある。

カドゥーダルはナポレオンの暗殺の仕事にリメランとサン-レジャンを任命した。彼らは今度はフランソワ-ヨーゼフ・カルボン(1756–1801)という名前の年寄りのシュアン党員を徴募した。カルボンは「頑丈な体格の男で、ふさふさしたあごひげを有し、額に傷がある」男で、ヴァンデー県での戦争では、反乱軍のリーダーであったガイスヌ・ド・ブルモン伯爵ルイ・オーガスト・ヴィクターの下で戦った経験があった。

他の三人の陰謀者は貴族であり、ジョー・ダッサ、ジェローム・ペティオン・ド・ヴィルヌーヴ、並びにラ・ヘイ-サン-ヒレールであった。

画像と説明

「地獄機械」またの名「地獄爆弾」は、16世紀のフランダース地方におけるスパイン支配に対する反逆中のエピソードと関連している。1585年、スペイン人によるアントワープ包囲の間、スペイン側のイタリア人技師が鉄輪で締め付けた樽のなかに火薬、可燃物質並びに弾丸を詰めた爆発装置を作り、遠方から紐を引っ張って引き金をひくことにより銃身を縮めた散弾銃で爆発させた。このイタリア人技師はこれをマッキーナ・インフェルナーレと呼んだ。