(翻訳者による画像の挿入)

 ボナパルトを更迭しようとしてタレーランとクレマン・ド・リと相談したこの警察総監は、第一執政への忠誠を示そうとやっきになったように見える。フーシェは彼のボスを殺害しようと試みたのは王党派のシュアンであって、ナポレオンが考えたようなエクスクルーシフ共和党員ではなかったことを明らかにしたがった。しかし、第一執政はこの警察総監に耳を貸さず、ジャコバン党員にたいする復讐を誓った。ニヴォーズ19日(19日)、四人の「短刀隠謀家」と称されるジャコバン党員、彫刻家のギゼッペ・チェラッチ、アレーナ、トピーノ・ルブルン、並びにドメルヴィーユが第一執政殺害陰謀のかどで有罪となり、死刑を宣告された。無実と拷問による告白にたいする彼等の死にものぐるいの抗議は無視された。かつては熱烈なジャコバン党員であったナポレオンは、いまや彼の以前の同盟者達に背を向けた。エクスクルーシフ・ジャコバン党員達が彼の殺害を謀ったのだと、彼はまだ主張していた。「王党派の企みが一つでもあれば、彼の融合政策は覆ったであろう。彼が信じることを拒否したのは、《ジャコバンの試みは彼の願い通りだった。なんとなれば、それはその時点で、彼のシステムに合致していたからだ》ということだった。」

 フランス革命暦第9年プリュヴィオーズ1日(1801121日)、ナポレオンは、44歳の科学者ジャン・アントワーヌ・クロード・シャプタル・ド・シャントルーをフランスの内務大臣のポストに任命した。125日、カルボンの仲間でシュアンの隠謀家サン・レジャンがナポレオンの警察によって逮捕された。ある学者が考えるに「サン・レジャンは合衆国に逃げ、そして暗殺者にもっとも起りそうにないことだが、牧師になった」。実際は、サン・レジャンはジェルミナル30日(1801420日)パリのグレーヴ広場で処刑された。グレーヴ広場というのは、「弑逆者」ロベール=フランソワ・ダミアンが1757年残酷に処刑されたところである。そして合衆国に逃げた男はかれの仲間の隠謀家のリメランであった。リメランは、荷車に繋がれていた馬を抑えていたあの少女ペンソルに死について罪の意識を告白した。リメランは1812年に牧師に任命され、1826年に死んだ。

翻訳者注:パリのグレーヴ広場とは現在の市役所前広場。1803年まではグレーヴ広場が正式名称だった。グレーヴ(grève)とは岸辺、砂浜の意。この土地が元々パリの港であったことからついた名前。

サン・ニケーズ通りの陰謀 (3)


              Wikipedia Plot of the Rue Saint-Nicaise

(翻訳者による画像の挿入)

画像1804625日、カドゥーダルの処刑。パリ市役所前広場。

翻訳者注:再度余談だが、サン・ニケーズ事件の前のナポレオンの戦役は、エジプト侵攻(1798-1801)だった。

 フランス革命暦第9年ニヴォース21日(1801111日)、不運な化学者シュヴァリエは、地獄機械を作ったのではなかったが、第一執政ボナパルトの命令で処刑された。ニヴォース28日(118日)、シュアンの爆弾作りカルボンが逮捕された。拷問にかけられて、彼は仲間の隠謀家、リモランとサン・レジャンの名前を白状した。ニヴォース30日(120日)、彼を殺し損なった地獄機械の爆発から4週間後、ボナパルトはエクスクルーシフの誹謗文書家メッジェと彼の友人二人を処刑した。彼等のどの一人として彼にたいする隠謀にかかわった証拠がなかったのであるが。

画像:ジャコバン・クラブの入口はサン・トノーレ通りにあった。

(翻訳者による画像の挿入)

画像Louis Nicolas Dubois、当時の警察総監

翻訳者注:ジョルジュ・カドゥーダルの逮捕

画像:ジョルジュ・カドゥーダルの逮捕

引用
  (ブルターニュ・レジスタンスの首領であったジョルジュ・カドゥーダルは、180012月のピエール・サン・レジャンによる第一執政の暗殺陰謀が失敗したのち、英国に逃げた。)

1803823日夜、船艦Vincejoにより、ジョルジュと他数名のフクロウ党員がビヴィル(翻訳者注:シェルブール西方20km)の崖下に上陸した。この陰謀者達はボナパルトにたいする新しい暗殺計画を実行しようとしていた。警察の形ばかりの見張りのもとで、彼は6ヶ月間追跡を逃れることに成功したが、結局捕まった。

(カドゥーダルは1804年の逮捕の際抵抗し、首席士官であり勤務中のブッフェという名前の警察官を殺した。この事件がきっかけで「ブッフェで弾丸を食らう」という言い回しが使われるようになった。上図参照)

有罪と判定され死刑宣告を受けたが、彼は特赦を求めることを拒否し、彼の仲間11人とともに、パリでギロチンにかけられた。処刑される前に、かれは群衆に向かって叫んだ。「さあ、パリ市民に示すときが来た。キリスト教徒、王党派、ブルターニュ人はこのように死ぬのだ。」

ナポレオンの反応


ナポレオンの生命を奪おうとする試みに反応して、130名のジャコバン党員が国外追放となった。フランス革命暦第9年プリュヴィオーズ10日(1801130日)、四人の「短刀隠謀家」チェラッチ、アレーナ、トピーノ・ルブルン、並びにドメルヴィーユは第一執政の殺害の隠謀で有罪となり、死刑判決を受け、ギロチンにかけられた。ボナパルトは残っていたジャコバン党の敵を排除した。

 しかしながら、彼等の死によってナポレオンにたいする隠謀に終止符が打たれたのではなかった。王党派はまだ彼を追っていた。彼にはいたるところに隠謀家がいた。とくにコルシカ島で。政治評論家のレーデラーは、ナポレオンが彼にこう言ったと断言する。「私が4ないし5年間のうちに死ぬようなことがあったら、時計は巻き上げられ(事態は逆戻りして)、動き出すだろう。それより前に死ぬことがあったら、そのときは、なにが起るか分からんね。」しかし、ある伝記作家の信じるところによれば、非常に多くのフランス人はボナパルトを必要としていて、彼の命がなくなることを恐れた。その恐れがあったからこそ、三年以内に彼は皇帝になり得たのだ。

画像:現在の市役所前広場

17985月、トゥーロンを出発し、マルタ島を陥落させ、7月にアレキサンドリアに上陸、721日オスマン帝国エジプトのマムルークとカイロ近辺で交戦し大勝したが、81日ホレーシオ・ネルソン率いるイギリス海軍にナイル海戦で敗れた。10月にカイロで生じた反乱を鎮圧したあと、さらにオットマン帝国の攻撃をうけた反攻で、1799年初頭シリアへ侵攻し、3月ジャッファを包囲して攻め落とし、4000名の籠城軍を虐殺した。さらにハイファを経て、アッコにいたったが、5月まで包囲戦、激戦を繰り返したがこれを取れず、エジプトに撤退した。結局フランス国内問題もあり、ボナパルトは17998月末にフランスへの帰途につき、1799108日フレジュスに到着した。エジプトに残されたフランス軍はオットマン帝国ならびに英国との和約に基づき1801年末、帰還した。

ナポレオンはフーシェに耳を貸さなかった。彼は、彼に害を与える者すべてを排除したかった。:

 それは過激派の最後の残党を全滅させるためには良い口実であったが、しかし、ロベスピエールが「過激派」をギロチンに送ったとき、国民公会が革命暦第9年プレリヤル1日の共犯者に判決をくだしたとき、5執政官時代(1795-99)の総裁がバブーフを射殺したとき、のような「浄化行動ではなかった」。根本的には、活動的な共和主義者を徐々に抹消させ、秩序へと帰還させることであった。;そしてここでもボナパルトは革新するのではなく、継続した。彼等の少数が消え去ったとき、極端なジャコバン党員からの反抗のおそれはなくなっていた。それ以上の共和派の謀議は起らなかった。

画像Google Old Map of Paris, 1740、一部修正。赤矢印がジャコバン・クラブ。

昔はドミニコ派修道院だった。もともとドミニコ修道院がRue St Jacquesに在ったので、ジャコバン修道院と呼ばれるようになっていた。入口はサントノーレ通りにあり、門の外観は右。

容疑者の捜索と刑罰(続)


フーシェと密接に連絡しながら、警察総監デュボワと彼の配下は、爆発の現場で死んだ雌馬と荷車の残滓を集め、パリの馬商人全てを尋問した。彼等の一人が馬を買った男の特徴を報告した。第9年ニヴォーズ18日(180118日)ナポレオンを殺し損なったサン・ニケーズ通りの爆発の15日後、爆弾を作った男、カルボンがランバルによって特定された。ランバルは彼に荷馬車を売った(あるいは貸した)男である、さらに、荷車に繋いだ雌馬に蹄鉄を打った鍛冶屋も証人になった。(ジャコバン党の)エクスクルーシフ騎士によって作られた爆弾は、サン・ニケーズ通りで爆発した爆弾とはまったく別物であったことの証拠を、フーシェはボナパルトに示した。

民衆の文化と物語のなかのこの事件


サン・ニケーズ通りの襲撃はG. Lenotreが書いている。彼は、主としてフランス革命と恐怖政治について書いた歴史家だ。

 サン・ニケーズ通りの攻撃はキャサリン・デロールによる2010年出版の"FOR THE KING"の背景になっている。

(翻訳終了)

画像ピラミッドの戦い、Louis-François, Baron Lejeune, 1808.

翻訳者注:余談だが、ジャコバン・クラブの場所は、

画像
第一執政ボナパルト 
アントワーヌ
-ジャン・グロ(16/03/1771 – 25/06/1835)画、
1802

205 × 127cm,
レジオン・ドヌール美術館 パリ