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| 令和7年12月31日 | 晦日 |
| このホームページも今年最後。 また、背伸びして、多少、文学青年気取りのところもこれあり、鼻につくが、これがいまの私の帰着点であることは、まちがいないと思う。 まだまだやるべきことはたくさんある。悪いことはさっさと忘れて、前を向いて生きる。 夜嵐にいくつ鳴るやら除夜の鐘 |
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| 令和7年12月28日 | 仏 |
| 仏が、本当にいるかどうかわからん。 いや、おわすのだろうが、例えば思いもよらぬ不運で命を落とす人間にしてみたら、その刹那はいないのと同じだ。 だが仏像を見ているときだけ、その美しさに打たれるときだけ、人は「御仏はおわす」と確かに思えるのではないだろか。 なぜ阿弥陀如来像が前に倒れているか? 見上げる衆生と目を合わせるためだ。飢えや病のため常にうつむく者たちも、仏像の前では目を上げる。 ままならぬ世を、それでもつながるひと筋の糸を仏像は紡いでいる。 冬の陽が、道に寒椿の長い影をひいている。 |
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| 令和7年12月21日 | 小春日和 |
| 深くて暗い月。十二月。冬枯れた庭。森は枯葉の海。雪を羽織った高山の峰々。その白いマントの裾が、もう目の前にある。季節はもうその統治権を冬の帝王に手渡したところです。 小春日和。そんな冬の入り口で、宝石のような幾日。風がやんで、乾いて暖かい一日。つかの間の夏の名残。アメリカ人はそれを、インディアンサマーと呼ぶ。 村のお婆さんは、小春日和のことを"お乞食さんのお洗濯"と言う。「着たきりの着物を洗濯するにはいい日だ」という意味。つまり、それは「こんな健やかな冬の日は有効に使え」という山里の教えです。 小春日和。だが、そんな夢のような時間はつかの間。明日は冬が凛としてそこにあるだろう。小春日和は長続きしない。 |
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| 11月は山小屋に三回雪降り、25日は牡丹雪で庭真っ白。 | |
| 令和7年12月14日 | 雪 |
| 冬の山小屋は桜も石楠花もまだ咲かず、したたる緑もなく、燃えるような紅葉もないさびしい時期、雪の中にひっそりと静まり返っている。 突然、また雪が降ってきた。あわてて小屋に戻ると、魔法のように雪はやみ、太陽が雲の間から姿を見せる。見る間に地上へ光がふり注ぐ。やがて強い風が吹きはじめた。空の色が刻々と変わっていく。あたりには神秘的な雰囲気が漂う。窓から見える樹々、風がその梢を揺らしている。 |
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| 12月11日山小屋を閉めました。3月末まで月二回ほど行きます。 | |
| 令和7年12月7日 | 永六輔 |
| 旅について、いつも思い出す言葉がある。スイスの高原を一人歩きしていて心細くなった時、家族連れのグループに行きあった。僕は彼等の歩いて行く方向について行きながら、 「そっちへ行くとなにかあるんですか?」と質問した。 その時、グループのリーダー(父親)がニッコリしながら、しかも、さとすように僕にいうのだった。 「あなたはなにもないと行かないのですか?」 恥ずかしかった。とても。そして、そうか、旅というのはそういうものなのかと思い知らされた言葉だった。 「なにもないと行かないのですか?」というのは、旅の目的が出かける先にあるのではなくて、出かけることそのものにあることを教えてくれた。 |
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| 10.11月に山小屋の庭にじこぼう、クリタケとシイタケが | |
| 令和7年11月30日 | 山小屋 |
| 山小屋から一時間ほど登ると村が一望できる場所がある。眼下に美しい山村の風景が広がっている。 なぜか子供のころのことをぼんやりと思い出す。風の音、川の水の音、樹々の緑。 こうしていると、自分の汚れきった心が洗われるような気持ちになるのを感じる。 風が「どう」という音で吹き、草が風にそよぐときは「ざわざわ」で、くりの実は「ばらばら」と落ちる。 私は、秋の晴れた日の山の姿を「なんともいえずいいものだ」と思っていた。 かたくなに 木の葉一枚 おちざりき |
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| 令和7年11月23日 | 夜風 |
| 夜風が深い森から冬の気配を運んでくる。白樺の木立の枯れかけた葉をかさこそいわせ、森のはずれの丈高い草をかしがせてから、里の方へと風向きを変え、山小屋の灯をゆらゆらと揺らす。あたりの静寂を破るのは、コオロギの鳴き声と、夜気を入れるために開け放された山小屋の窓から繰り返し聞こえてくる、フォークソングの柔らかな調べだけだ。 | |
| 令和7年11月16日 | 遊絲 |
| 晩秋、そろそろ雪も降ろうかという時期になると、子蜘蛛が上昇気流に乗って空を飛ぶという不思議な現象がある。 NHKの「自然のアルバム」でその生態が紹介されて話題になった。 蜘蛛の糸が長く尾を引いて秋の日射しにきらきらと光さまは、自然の営みの美しさ、面白さを見事に捉えていた。 山本健吉さんの「最新俳句歳時記」秋の部には、この現象が「遊絲」(ゆうし)という季語で載っている。美しい言葉である。 |
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| 令和7年11月9日 | 故郷 |
| 長い介護を終えると、多くの人が介護鬱に陥ると言われている。 人生にバラ色の場所が用意されていないのは確実。そこをバラ色にするのは自分しかいない。 その覚悟をどう持つか、その力量が試されている、と最近しみじみと思われる。 苦難のない人生はない。その人生の中で、よし帰れずとも帰るところが故郷である。 |
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| 令和7年11月6日 | 誕生日 |
| 七十八年生きてきたということは、ずいぶん沢山の僥倖が積み重なってきた結果ということだから、自祝いの気分もある。 これが九十、百になったとき嬉しいと思えるかといったら、心もとない。 いずれにしても、年齢相応に老いていくことの困難な時代が到来た。 若さや体力ばかりが尊重され、年にふさわしい生(せい)の形が見失われようとしている。幼年期や思春期や壮年期に、それぞれの季節にだけ稔る果実があるのだとしたら、老年期には老年の、老いに特有な美しい木の実があっても少しもおかしくはない筈だ。そしてかって存在した老いの形とは、その実を収穫するための身構えでもあったのだろう。 喜寿祝い寿司に集まり我れ孤独 |
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| 令和7年11月2日 | 栗 続々 |
| 「桃栗三年柿八年」のことわざはさらに、「柚の大馬鹿十八年」「梨の馬鹿野郎十八年」などがありますが、これはタネを蒔いて実がなるまでの年月をたとえに使ったものです。( )に実際の年数を記します。(桃栗三年、梅四年、梨・リンゴ五年、柿八年、ミカン九年)。果実は一般にタネを蒔いても親と同じものはできません。そのため、果樹の同じ品種を増やすには、芽や枝を接ぎ木したり、挿し木したりする方法がとられます。 | |
| 令和7年10月26日 | 栗 続き |
| 現代では育種の進展によって、祖先から引き継がれたこうしたクリの名品を基に、幾多の高級品種が全国に普及しています。 「岸根」の子供の「筑波」や「石鎚」、「乙宗」の子供の「丹沢」等です。五千年以上にわたってお世話になったクリですが、最近の扱いは粗略に過ぎるようです。皮が剥きにくく食べるのに面倒なのもその一因でしょう。 クリはクリご飯をはじめ、ほとんどが煮たり焼いたりの「生食用」でした。ところが近年は「加工用」が主流を占めています。かくして、日本のクリ育種も加工適性を第一に、できれば生食用にもできる方向で進められています。ところがこの両方を満足させるクリの育成は困難です。生食用には果実がポクポクした粉質がベターですが、加工用にはねっとりとした糊質が向いています。また、収量が多く、実が大きく、かつ粒ぞろいの品種こそ歓迎で、生食に不可欠な甘みなどは、加工ではシロップでどうにもなるので二の次になります。ですから、日本にはそのまま食べても美味しいクリは乏しいのが現状です。続く |
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| 栗1 | |
| 大陸からイネがもたらされるまでの長い間、私たちの祖先はドングリなどの木の実を主食にしていました。とくに、アクぬきをせずに食べられるクリは高級な糧食でした。このため、クリが豊富に採れる落葉広葉樹林の分布した東日本の方が生活しやすく、縄文の遺跡は東日本に偏在しています。古代から日本の食生活を豊かにしてきたクリは、正しくは二ホングリといい、わが国原産の果樹とされています。下って平安時代には、丹波の国
(現在の京都・兵庫の一部) に大粒で美味な「丹波栗」が現れ、長くこの地方の名産になりました。丹波栗はその後各地に広がって行きましたので、いろいろな土地で見られる大粒のクリの先祖はこのクリとみなされています。しかし、各地に広がっていったのは、親木からタネをとって蒔く実生繁殖だったため、親と同じクリはできず、少しずつ違ったクリができあがり、さまざまな名前が付けられました。 大正時代の初め、京都の品評会でローカルな名品が陽の目を見ました。大阪豊能の「銀寄」、兵庫氷川の「長光寺」、丹波の「乙宗」、山口の「岸根」などは注目され今も各地で栽培されています。続く |
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| 令和7年10月12日 | ブドウ |
| 現在世界でもっとも生産量が大きい果物はブドウです。ブドウの生産が群を抜いて多いのは、果実からワインが作られるためで、生産高の八割がワイン醸造に用いられています。 栽培されているブドウは、六千年を超える栽培歴を誇るヨーロッパブドウと、ここ二百年くらいの間に改良が進んだアメリカブドウに大別されます。 東アジアにブドウの栽培とワインの醸造法が伝わったのは漢の武帝の時代(前159)とされています。ブドウはもともと中国にはなかった果物ですか、それが渡来したころには、すでに中国にはコーリャンやコメで造った酒があり、ワインはそれほど普及しませんでした。 日本にも昔からブドウがあり、食用に供していました。しかし、それは小粒で酸っぱい在来の別の種類で、ヤマブドウ、エビヅル、サンカクヅルなど六種類が確認されています。本家のヨーロッパブドウが日本へ渡来したのは養老二年(718)といわれています。日本での本格的なブドウ栽培は明治時代になってからのことですが、ヨーロッパの品種は雨が多い日本の気候に適応できず、アメリカの品種は栽培できて、全国に普及しました。ただし、日本のブドウは生食用がほとんどです。 |
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| 令和7年10月5日 | 曼珠沙華 |
| だしぬけに咲かねばならぬ曼珠沙華 後藤夜半 命あるすべてのものが、運命という決して抗うことのできない約束事を宿してこの世に誕生します。そて定められた法則の中で、それぞれが懸命に命を運んでいるのです。曼珠沙華は炎のような赤色の輪状の花を、唐突に咲かせることでよく知られています。 生来病弱であった夜半は遠方に旅することさえ生涯果たせなかったといいます.命は誕生という定点に始まり、死という定点で終わります。その、二つの定点を結んだ一本の線が、人生であり運命であるのです。ある日突然咲き出でて、いつのまにか忽然と消えている曼珠沙華、"だしぬけ"に咲くことは、曼珠沙華の命そのものです。そこには"だしぬけに咲かねばならぬ"と断定した夜半自身の宿命というものに対する決意と矜持、諦観が見られるかのようです。 工房の庭に曼珠沙華の好きな友人が植えた花が毎年秋の彼岸に咲きます。 |
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| 令和7年9月28日 | 高橋治 |
| 花には流行があり人気の高い花でも、普及しすぎるとただの花になって、関心が薄らいでしまう。 矢車菊が好例で、改良され矢車草の名で親しまれるようになって、急激に花の価値が下落した。 ある時、私を花にたとえたらどんな花かとさる人に賛辞をせがまれた。矢車菊と答えたところ、見る見る眉を逆立てた。牡丹とか姫百合とかいってほしかったらしい。小生憮然、彼女悄然のお粗末。 矢車菊の澄んだ青はドイツ女性の瞳の色にたとえられる。エジプト王ツタンカーメンの黄金の柩から副葬品として矢車菊が発見されてもいる。まさに王の花である。しかし地中海岸の雑草との説もあるから、彼女は案外博学だったかも知れぬ。 矢車草 病者その妻に触るるなし 石田波郷 病弱だった波郷の愛と悲しみの深さが、読む者に切ない。 |
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| 秋風に驚いて顧みれば、夏は知らずに過ぎていた。 | |
| 令和7年9月21日 | 妻から夫へ 加賀美高代 横浜市 50歳 |
| 「お母さん、もう少しやせた方がいいよ。それにブスでみっともないよ」。そんな長男の言葉に、 「何を言っているんだ。お母さんは少しも太っていないし、綺麗じゃないか?」 その後少し私の方を見ながら、それに、私の聞こえるような声を出して、 「神様お許しください。私は今日一つ、いえ二つ嘘をついてしまいました」。 こんな温かさとユーモアと、あなたの優しさに包まれて、もう三十年。 これからの長い人生、益々老いては行きますが、よろしく、お願いしますネ。 |
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| 令和7年9月14日 | すりこぎ |
| 我が家のすりこぎは山椒の木だったが、長い間にすり減り新しいものに変えた。 その新しいすりこぎが山椒の木で出来ているか素人の私にはわからない。 福井県の永平寺には実用品ではないが柱のようなひとかかえもある、長さが五メートルのすりこぎがある。 ゛味噌擦り坊主゛という言葉があるように寺とすりこぎとは深い関係がある。 痔という字がある。この病気が(やまいだれ)に寺と書くのは、座禅もそうだが、冷たい板の間の台所仕事からくる坊主の職業病からという話を聞いた。 山小屋には私が購入する以前から自然の山椒の木があった。すりこぎに加工するのは十分な太さである。 いつか切り倒してすりこぎにしてみたい。 |
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| 令和7年9月7日 | 住宅 |
| 子供が巣立って、空き部屋が増えて、新しい実り豊かな老後? 年金でどの程度の暮らしができるやら。 人はむやみと長生きするようになったが、木造住宅の寿命はいかほどだったろうか。 舐めるように我が家をいつくしんだが、破風が腐りかけ、軒も傾きかけた我が家を見上げる。 つくづくと我が身に残ったものを思案して、「これで全部か・・・」と呟いたきり寝込んでしまう。 老残の残滓温めて酒二合 |
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| 令和7年8月31日 | 西条八十 |
| 西条八十の法名は「詩泉院釈西条八十」という。千葉市郊外に生前、自分と晴子夫人の墓を建立し、その墓碑には次の文章が刻まれている。 われらたのしくここにねむる。離ればなれに生まれめぐりあい、短き時を愛に生きしふたり。悲しく別れたれど、ここにまた心となりてとこしへに寄りそいねむる |
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| 令和7年8月24日 | 名声 |
| 名声と人格は違うものなのだ。名声はゴシップと解釈に基づく他人の意見にすぎず、自分ではどうしようもできない。 でも、人格は死ぬまで努力次第で改善できるものなのだ。 | |