令和7年5月6日 細川護熙
旅にあこがれ、旅に慰めを見出す人は多い。日常の雑事に追われていると、旅への想いがいやますのを経験するのは誰しものことだろう。しかし、旅をこそ日常とした人がいる。松尾芭蕉だ。
「おくの細道」は芭蕉に同行した曾良が 「此のたび松嶋・象潟(きさかた)の眺共にせん」 としたと書いているように、松嶋・象潟を眺めるのが大きな目的だった。
わたしは「奥の細道」最北の地でもある象潟を訪れてみた。
象潟や 雨に西施が ねぶの花
西施(せいし、 中国四大美女のひとり)
今見る象潟は芭蕉の見た象潟ではない。海の中に島々が浮かんでいたその光景はちょうど二百年前の文化元年の大地震で隆起した地面のために失われ、その後の干拓によって稲田に生まれ変わった。
わたしは、蚶満寺のあたり、刈り取りを終えた九十九島のあぜ道を歩いたあと、海から象潟にたどり着いた芭蕉を慕って浜辺に出て、鈍色の日本海を眺めた。

令和7年5月5日 西脇郁子 三重県
脳出血による左上下肢機能障害、身体障碍者二級という肩書が私についた。四十八歳の春のことでした。
悲しんだり、苦しんだり、元気な人を羨ましがったり、心は千々に乱れる日々を送っていました。
そんなある日ラジオから流れてる永六輔さんの声。
「障害者も五年もすればベテランだ」 という言葉に頭をゴツンとやられた気がしました。ちょうど十年目のことです。
五年でベテランなら、私は超ベテランだ、うかうかしてられないぞ、と自分に言い聞かせ、前向きに生きてゆこうと心に決めました。
その一言が私にはとても大きな生活の指針になりました。そしてまた、八年が過ぎようとしています。

令和7年5月4日 山口千恵子 愛知県一宮市
寝たきりだった姑が逝って、もう百ヶ日が過ぎました。介護の大変だったことは日がたつにつれて忘れかけています。
ベッドの上の姑は赤ちゃんのようなつぶらな瞳で、曽孫にお菓子をもらって嬉しそうに笑っていました。
自分の子供達は忘れてしまっても、嫁の私だけは、最後まで覚えていてくれました。
もうおじいちゃんに会えましたか。弱ってしまった足でころばずに行けましたか。
杖を二本も持って行ったので、多分大丈夫でしょうね。
嫁いだ三人の娘たちに支えられて、最後まで家で看ることが出来ました。娘たちありがとう。
さようならおばあちゃん。おじいちゃんによろしくね。
家族の日常を綴っただけのエッセィにいい歳をした老人が「うっうっ・・・」と声がもれるのを必死にくいとめようとしながら泣くのである。いやはや、これは一体どうしたというのか・・・・。
「要するに、年をとったんですよ」妻はそう言って笑う。たぶん彼女の言う通りなのだろう。
世の中にはある環境や、ある年齢になってみなければわからぬことが多々あるものだ。

令和7年5月3日 高橋治
一時に咲き出した山の花に、ひと息の休止期が訪れると、うつぎの出番が来る。
恐らく日本では一番優しい季節の訪れだといえるだろう。
うつぎは里にも咲くが、どちらかというと山の花である。
うつぎは幹が中空だから空木と呼ばれる。ことほど木は頼りない。
だが、うつぎは"打つ木"だともいわれる通り、木釘はこの木から作られる。
人間も同じことだが、外見ではなかなか秘めた性格はわからないものなのだ。
うらうらと山茱萸の咲く枯木中 中村嵐石
冬の去りきらぬ山を黄に彩るから、牧野富太郎が「春黄金花」と名付けた。源平時代悲恋の民謡ひぇつき節の”庭のさんしゅゆ”は薬味の山椒のこと。実が美しいことを知って読むと次句意味深い。
山茱萸の黄にかがやきて身籠れる 芳沢かつ子
山茱萸はミズキ科の落葉小高木、長さ約1.5センチの実が秋に紅熟するので「アキサンゴ」の名もある。
姫辛夷 クリスマスローズ

令和7年4月27日 子供
父へ 母へ・・
孫は可愛い でも 我が子は 幾つになっても一番
その言葉、私は嬉しかった。
小林朝子 (東京都 31歳)

おとうの骨壺
言いつけ通り、例の滝壺に沈めるよ。
でもさあ、冬は寒いんじゃない。
藤林一正 (東京都 33歳)

父ちゃんのこと嫌ってた私が
一番父ちゃんの墓参りしてるなんて
笑っちゃうよね!
高崎久美 (千葉県 31歳)
辛夷 山茱萸 ふきのとう カタクリ

令和7年4月20日 佐藤貞利 岩手県北上市
冬用のセーターなど整理していたら、妻の物がでてきた。
小二の息子が、「お母さんのだ。おかあさん思い出すな」と言った。
妻が亡くなってもう半年が過ぎた。
つい最近まで、星占いを見てもお母さんの星座が良いとか騒いでいた子供たち。
私の頬に涙がつたわった。
野の仏桜の雨の降りませと

令和7年4月13日
彼女と山にいるとき熊に出会ったら、「おれが、熊と闘う。君は逃げろ」という。
すると、彼女が走って逃げだす。で、熊は走って逃げる彼女を追いかける。熊は、背を向けたものを襲う習性があるから。
で、おれは、彼女が喰われているあいだに、ゆっくりと逃げればよい。

男友達と山にいるとき熊に出会ったら、「一緒に走って逃げよう」
「一緒に走り出せば、足の遅い方が熊に食われる。で、その男が喰われている間に、もう一人が逃げればいい。足の速い方が助かる。恨みっこなし」
お遍路やぼちぼち俺も逝く支度

令和7年4月6日 関川千代乃 群馬県利根郡
私は娘時代は編物教室で講師などをしておりましたが、何の因果か農家に嫁いでしまいました。
大自然との闘いである農業生活には慣れました。
けれど、貴婦人のように着飾った同級生たちが集うクラス会に出席するのは、とても勇気のいることでした。
なぜなら私といえば、金時の火事見舞いのような赤い顔、手は熊手のようにささくれだっていました。
でもやっと今になって農業の素晴らしさがわかってきたのです。作物を育て収穫する喜び、広い庭園、小鳥たちのさえずり、悠久の時を刻む満天の星、西の地平線には沼田市街の夜景が宝石のように輝いています。
二十五年目にやっと知り得た幸せでした。
菜の花は何にもまして春の色

令和7年3月30日 徳富蘆花
徳富蘆花の夫人愛子が、身体の不調を訴えたので、入院することになった。蘆花が見舞いにゆくと、たまたま、若い医師が来ていて、そばにカルテが置いてある。備考の欄に、ドイツ語が書かれている。むろん読めはしない。
「ご心配はありません。すこし過労というだけで、すぐよくなるでしょう」 と医師がいうので、ホッとした蘆花がドイツ語のところを指さして、「悪性の病気とでもいうのかと思って心配しました」というと、若い医師が、ハッとした表情をしたのを、作家の目は見逃さなかった。
「本当でしょうか、このドイツ語が気になる」となお食いさがると、医師は困ったような顔で、
「これはつまりですね。ご夫婦の仲がよすぎるという意味なんです」

令和7年3月23日 浅田次郎
いよいよ花の季節である。梅が咲き山茱萸が咲き、辛夷が咲けばじきに、めくるめく桜の洪水が押し寄せる。
日ごろ花を愛でる心のない人でも、さすがにこの季節ばかりは気もそぞろになる。古来わが国では、花といえば桜の意であった。
生き別れ死に別れ、裏切られ傷つけられ、あるいは大切なものを捨てたり壊したり、ぼろぼろの一年であったけれども、桜はわずか数日の花の命で人の心を満たしてくれる。すなわち物や金や時のあるなしではなく、花の心を感じ取れなくなった人間こそが、本当の不幸である。
その伝でいうなら、このごろ不幸な人間が多くなったのかもしれない。
雨上がりやさしき春の朝日かな

令和7年3月16日 老い
まだまだ (老い) というものに慣れていない。
いつまでも老人初心者だから、どうにも不愉快で、不愉快というのは自分が元気がないという状況に対しての不愉快です。
三食薬漬けという有様で、もう駄目です・・・・「駄目」 と口に出して言うのは、まだどこかで大丈夫だと思っているんでしょうか?
人は最後に大変な初体験が待っているわけだが、人生、成り行き。
別の言い方で、われわれには未来があると言ったときに、常に未来というのは明るいというイメージがありますが、本当はそうじゃないんですね。未来は死だったりするわけです。ですから死というものが自分の未来だと感じられたら、覚悟は出来ますということをホスピスの先生から伺ったことがあります。
小雪舞うたそがれ時、私は諏訪湖畔の桟橋に立って夕日が沈むのを見ていました。
紅万作 2/15 24/11/15

令和7年3月9日 褒 (ほ)める
ちょっとでもいいところを見つけて褒めるって、すごく大事なことです。
私は褒められ慣れていないので、たまに褒められるとへどもどしてしまって居心地が悪く、だからきっと他人もそうなんだろうと思って、誰かを褒めようとすると異様にぎこちなくなってしまう。
でも、誰かにとって希望と支えになるのは、当然ながらけなし言葉ではなく誉め言葉なのだ。
ぎこちなくてもいいから、今後はじゃんじゃん自他を褒めていこうっと。

ネッ、正直でしょ、どうか正直の頭に神宿りますように。

令和7年3月2日
今年は暖冬と思い込んでいたら、今朝、山小屋は薄い雪に覆われて、目が洗われるようであった。
山小屋は、白い小梅の花が咲き満ち、待ちかねていた紅万作の花も、一昨日一気に開いて、庭に灯をともしたようにあたりを明るくしていた。それらの花々の上に、たちまち雪が、花嫁のベールのように薄く広がり、いっそう風情が深まった。
冬山の 透かしぼりなり 冬木立

令和7年2月23日 おむすび
口からものを食べることは大切。食べることは生きることです。
「おにぎり」と言う言い方が一般的かもしれないが、「ごはんは握っちゃいけない。お米を結ぶんだ」という。
「おむすび」 は小さめの方が食べやすい。大きいものは残ったときに悲しくなる。
風のさらさらした音が聞こえる。空には雲が流れる。
梅の花があちらこちらでほわほわと咲いている。
毬のような黄色い花もあった。

令和7年2月16日 柏木博
2017年春にがんが見つかった。初夏に入院して半年、その年の暮れに退院した。気持ちに変化があらわれた。
それまではかなり多くの仕事をしていたのだけれど、もうひたすら仕事をするということもせず、一日にひとつのことをやればよいと思うようになった。掃除でも洗濯でも何でもいい。それが出来れば、一年に365のことが出来たことになる。すべてゆっくりやればいい。
そして、大きく変化したのは読書だ。仕事のために読書するのではなく、読みたいものを読む。役に立たない生産性のない読書である。
「読書人」の本来の意味は「読書をする人」ではなく「読み書きのできる人」である。

令和7年2月9日 永千絵 (永六輔 長女)
目を閉じた父の肌の色は、もう生きている人のそれではなかった。
次男が部屋に入ってきて、父の様子を見るなり、号泣したのにはわたしも驚いた。
声をあげて泣く息子を見たのは、小学校か幼稚園以来か。
泣きながら 「こんなに寂しいとは思わなかった!」 と言った息子の声を忘れない。
ああ、本当だ、本当に 「寂しい」 とそのとき初めて思った。

たまに、ふっと上を向いたときに。
夜の星を見上げたときに。
湯気が天井からぽたりと落ちたときに。
遠くへ行きたいなと思ったときに。
京都大原三千院を訪れたときに。
そんなときに、父のことを思い出していただけれは幸いだ。

令和7年2月2日 佐伯啓思
阪神淡路大震災によって自らも被災しながら、被災者の精神的な痛手を少しでも和らげようと、必死に働き続けた一人の精神科医がいた。神戸大学医学部付属病院の医師だった安克昌さんである。
その安さんをモデルにしたドラマ 「心の傷を癒すということ」 がこのほど放映された。
それから五年後、安さんは癌を発症し、まだ三十九歳の若さで亡くなった。
近づく自らの死を知りつつ、彼は家族といる時間を大切にし、また病院での診察を行った。
ドラマで、その最後の日々のある場面が出てくる。車椅子に乗って母と妻と散歩をしている。
彼は静かにこうつぶやくのである。「こころのケアって何か、わかった」。それは「誰もひとりぼっちにさせへん、てことや」 と。
とてつもない不幸に見舞われたり、想像を絶するような悲惨な経験を強いられたりする人がいる。
その横にたたずむ者には何もできないし、また何もできない自分が腹立たしくも思える。
だが、そこに一緒にたたずんでいればいいのである。「
ひとりぼっちにさせへん」と言えばいいのである。
これは特別に精神科医だから発した言葉ではない。一人の人間が一人の心の痛手を負った人に送った言葉である。

令和7年1月26日
朝目覚めると、久しぶりに窓からやわらかな光が差し込んでいた。
嬉しくなって、庭に出て八ヶ岳の山々を仰ぐと、朝の光の中で頂きの雪がことのほか白く輝いている。
あたりは、圧倒的な雲の波、波。
その切れ目、切れ目から青い空がのぞき、葉を落としたカラマツ林の木々をすかして果てしなく広がっている。
そんな美しさの中にいると、人生の晩年にここに流れついてよかったなあ、という心持になる。

令和7年1月19日
作詞 未詳 作曲 未詳
雪やこんこ 霰やこんこ
降っては 降っては ずんずん 積もる
山も野原も 綿帽子かぶり
枯れ木残らず 花が咲く

雪が降り積もったある日、道端のツツジの木に積もった雪を見て、保育園帰りの結花ちゃんが鼻の頭を真っ赤にしながらいいました。「ママ、木の葉っぱさん寒くてかわいそうね」 結花ちゃんは小さなおててで、枝葉に積もった雪を一生懸命払い落しはじめました。しばらくして、娘の冷たくなった手をママは自分の両手とほっぺで挟み温めてあげました。「ママ、あったかぁーい」
けなげな娘の姿を見ながら、やさしさにふれたような気がしたと、結花ちゃんのママはいいます。

令和7年1月12日 呆け
私は今年78歳になる。さらに2年たてば傘寿ということだ。
この77歳の一年で、体力は衰え、老衰の厳しさが骨身にこたえてきている。
転ばないように気をつけているので、動作がすべて鈍くなった。
しかし、呆けるのはもっと恐ろしい。
政治家たちの国会の応酬を見ていると、あんなに若いけれど、もう呆けがきているのではないかと、人ごとながら怖くなることがある。
昨年年末に諏訪大社秋宮に参拝後、鎌倉街道にある万寿姫の供養塔へ。木曽義仲と頼朝の戦いに翻弄された母の唐糸と祀られいる。
木喰上人の虚空蔵菩薩がある花屋茂七館へ。木喰上人は甲州下部温泉近くで享保三年生まれ、北海道から九州まで一千体の彫像を残し、下諏訪宿には五回来訪、文化七年九十三歳で入寂。
正月に諏訪大社春宮に参拝後、岡本太郎が命名した万治の石仏へ。砥川の流れを妻と長いこと黙って見る。
下諏訪の町を当てもなく歩く。新しい家・廃屋・解体され更地となった家跡。長い間には人も変わるが家も変わる。
祇園精舎の鐘の音 諸行無常の響きあり

令和7年1月5日 ゴンドラの唄
久しぶりに森繁久彌のCDを聴く。
吉井 勇作詩 中山 晋平作曲
♪いのち短し 恋せよ乙女 紅き唇 褪せぬ間に
熱き血潮の 冷えぬ間に 明日の月日は ないものを
いのち短し 恋せよ乙女 黒髪の色 褪せぬ間に
心のほのほ 消えぬ間に 今日はふたたび 来ぬものを
"青春が花ならば"を唄った森繁久彌も逝って久しい。

令和7年1月4日 三枝和子
・・・の涙、と書いて、やはり「泪」の方がいいかな、と思い直した。男のなみだは、あまりだらだら流れないような気がする。
滲んだり、瞼のなかでいっぱいになって溢れ出す一歩手前の状態が多い。それなら「泪」だと考えたのだ。
もっとも、私の子供のときは男は涙など流さないものだと思っていた。
「男の子だから泣いてはいけません」というのは教育上のお題目だったし、それは「女の子は口答えをしてはいけません」というお題目とほぼ見合っていた。
だから、母が死んだとき、父が部屋にこもって号泣しているのを聞いたとき、まったく吃驚してしまった。
男が、それも大人の男が泣くなどとは思っていかったからである。
あのときは実際に父の泣き顔を見たわけではないが、声から推察して流れっぱなしの涙だったに違いない。
私が十四歳だから、父は四十七、八歳だったか。

令和7年1月3日 老師について 浅田次郎
日が落ちると、気温はたちまち氷点下に下がった。
葉の落ちた槐の並木道を、李先生は外套も着ずにはるばると私たちを見送って下さった。
寒いからもうお帰り下さいと言うたびに、行ったん立ち止まって握手を交わすのだか、しばらく歩いて振り返ると、名残惜し気に後をついてこられるのであった。私たちは再見 再見と、かわるがわるに言って手を振った。
ようやく私たちの後を追うことをやめた先生は、冬枯れた槐の並木道に、老いた背を丸めて立ちつくしておられた。
黄砂のとばりが小さな姿を隠してしまった時、私たちはわけもなく、みな歩きながら泣いていた。
先生の不遇な人生について嘆いたわけではない。私たちは、学問というものの正体を見たのだった。
文化というものは、何の欲得も打算もなく、このようにして積み上げられて行くものなのだと、初めて知った。
黄砂の中に消えて行く先生の姿は、誇り高き支那の叡智そのものだった。そして清廉な士大夫の姿そのものだった。
中国の旅は、私にこのことを教えてくれた。

令和7年1月2日 老師について 浅田次郎
北京の胡同(フートン)に李蹄平先生を訪ねた。寒い夕暮れであった。
その家のほの暗い内庭からは、まことにふしぎな、つつましく真摯な、あるいは簡潔で清浄この上ない風が、ふんわり流れ出ていた。
先生は両手で私の手を握り、正確な日本語で「よくおいで下さいました。遠いところ」とおっしゃった。
先生の居室に私は導き入れられた。冷たい石造りの部屋。寝台と古い机、小さな卓と椅子。それだけだった。
私は自分がぼんやりとしてしまった理由に思い当たった。
つまり目の前にいるこの老人は、あたりの空気を染めてしまうほどの偉大な学究なのだと悟った。
昭和十三年、先生は慶應義塾大学で法律を学ばれた。なぜ専門外の法律を学ばれたのかという私の問いに。
「そのころの中国には、法律が必要でしたから。数学よりも」
やがて北京で教鞭をとっていた先生に、文化大革命の嵐が見舞う。先生は三角帽を冠せられ、晒ものにされ、財産は没収され、一家離散の憂き目にあった。歳月を経て北京の胡同に戻ったとき、こう思ったそうだ。ああようやく学問の続きができると。
学びて時にこれを習う、亦(ま)た説(よろこ)ばしからずや。
先生の小さな体を鎧(よろ)っているものはただひとつ、論語の冒頭にあるこの一節だけに違いない。 続く

令和7年1月1日 元旦
毎年、年明けには新しいノートを開くような特別な新鮮さがあります。
子供の頃、「今年は〇〇に挑戦してみよう」なんて抱負をいだいていたものでした。

今やりたいことを今やれ、人生何が起こるかわからない。
雪はしんしんと降る。部屋の障子がほんのり白い。
元日という日も 暮れてゆきにけり