山小屋だより17に続く

令和7年12月31日 晦日
このホームページも今年最後。
また、背伸びして、多少、文学青年気取りのところもこれあり、鼻につくが、これがいまの私の帰着点であることは、まちがいないと思う。
まだまだやるべきことはたくさんある。悪いことはさっさと忘れて、前を向いて生きる。
夜嵐にいくつ鳴るやら除夜の鐘

令和7年12月28日
仏が、本当にいるかどうかわからん。
いや、おわすのだろうが、例えば思いもよらぬ不運で命を落とす人間にしてみたら、その刹那はいないのと同じだ。
だが仏像を見ているときだけ、その美しさに打たれるときだけ、人は「御仏はおわす」と確かに思えるのではないだろか。
なぜ阿弥陀如来像が前に倒れているか?
見上げる衆生と目を合わせるためだ。飢えや病のため常にうつむく者たちも、仏像の前では目を上げる。
ままならぬ世を、それでもつながるひと筋の糸を仏像は紡いでいる。
冬の陽が、道に寒椿の長い影をひいている。

令和7年12月21日 小春日和
深くて暗い月。十二月。冬枯れた庭。森は枯葉の海。雪を羽織った高山の峰々。その白いマントの裾が、もう目の前にある。季節はもうその統治権を冬の帝王に手渡したところです。
小春日和。そんな冬の入り口で、宝石のような幾日。風がやんで、乾いて暖かい一日。つかの間の夏の名残。アメリカ人はそれを、インディアンサマーと呼ぶ。
村のお婆さんは、小春日和のことを"お乞食さんのお洗濯"と言う。「着たきりの着物を洗濯するにはいい日だ」という意味。つまり、それは「こんな健やかな冬の日は有効に使え」という山里の教えです。
小春日和。だが、そんな夢のような時間はつかの間。明日は冬が凛としてそこにあるだろう。小春日和は長続きしない。
11月は山小屋に三回雪降り、25日は牡丹雪で庭真っ白。

令和7年12月14日
冬の山小屋は桜も石楠花もまだ咲かず、したたる緑もなく、燃えるような紅葉もないさびしい時期、雪の中にひっそりと静まり返っている。
突然、また雪が降ってきた。あわてて小屋に戻ると、魔法のように雪はやみ、太陽が雲の間から姿を見せる。見る間に地上へ光がふり注ぐ。やがて強い風が吹きはじめた。空の色が刻々と変わっていく。あたりには神秘的な雰囲気が漂う。窓から見える樹々、風がその梢を揺らしている。
12月11日山小屋を閉めました。3月末まで月二回ほど行きます。

令和7年12月7日 永六輔
旅について、いつも思い出す言葉がある。スイスの高原を一人歩きしていて心細くなった時、家族連れのグループに行きあった。僕は彼等の歩いて行く方向について行きながら、
「そっちへ行くとなにかあるんですか?」と質問した。
その時、グループのリーダー(父親)がニッコリしながら、しかも、さとすように僕にいうのだった。
「あなたはなにもないと行かないのですか?」
恥ずかしかった。とても。そして、そうか、旅というのはそういうものなのかと思い知らされた言葉だった。
「なにもないと行かないのですか?」というのは、旅の目的が出かける先にあるのではなくて、出かけることそのものにあることを教えてくれた。
10.11月に山小屋の庭にじこぼう、クリタケとシイタケが

令和7年11月30日 山小屋
山小屋から一時間ほど登ると村が一望できる場所がある。眼下に美しい山村の風景が広がっている。
なぜか子供のころのことをぼんやりと思い出す。風の音、川の水の音、樹々の緑。
こうしていると、自分の汚れきった心が洗われるような気持ちになるのを感じる。
風が「どう」という音で吹き、草が風にそよぐときは「ざわざわ」で、くりの実は「ばらばら」と落ちる。
私は、秋の晴れた日の山の姿を「なんともいえずいいものだ」と思っていた。

かたくなに 木の葉一枚 おちざりき

令和7年11月23日 夜風
夜風が深い森から冬の気配を運んでくる。白樺の木立の枯れかけた葉をかさこそいわせ、森のはずれの丈高い草をかしがせてから、里の方へと風向きを変え、山小屋の灯をゆらゆらと揺らす。あたりの静寂を破るのは、コオロギの鳴き声と、夜気を入れるために開け放された山小屋の窓から繰り返し聞こえてくる、フォークソングの柔らかな調べだけだ。

令和7年11月16日 遊絲
晩秋、そろそろ雪も降ろうかという時期になると、子蜘蛛が上昇気流に乗って空を飛ぶという不思議な現象がある。
NHKの「自然のアルバム」でその生態が紹介されて話題になった。
蜘蛛の糸が長く尾を引いて秋の日射しにきらきらと光さまは、自然の営みの美しさ、面白さを見事に捉えていた。
山本健吉さんの「最新俳句歳時記」秋の部には、この現象が「遊絲」(ゆうし)という季語で載っている。美しい言葉である。

令和7年11月9日 故郷
長い介護を終えると、多くの人が介護鬱に陥ると言われている。
人生にバラ色の場所が用意されていないのは確実。そこをバラ色にするのは自分しかいない。
その覚悟をどう持つか、その力量が試されている、と最近しみじみと思われる。
苦難のない人生はない。その人生の中で、よし帰れずとも帰るところが故郷である。

令和7年11月6日 誕生日
七十八年生きてきたということは、ずいぶん沢山の僥倖が積み重なってきた結果ということだから、自祝いの気分もある。
これが九十、百になったとき嬉しいと思えるかといったら、心もとない。
いずれにしても、年齢相応に老いていくことの困難な時代が到来た。
若さや体力ばかりが尊重され、年にふさわしい生(せい)の形が見失われようとしている。幼年期や思春期や壮年期に、それぞれの季節にだけ稔る果実があるのだとしたら、老年期には老年の、老いに特有な美しい木の実があっても少しもおかしくはない筈だ。そしてかって存在した老いの形とは、その実を収穫するための身構えでもあったのだろう。

喜寿祝い寿司に集まり我れ孤独

令和7年11月2日 栗 続々
「桃栗三年柿八年」のことわざはさらに、「柚の大馬鹿十八年」「梨の馬鹿野郎十八年」などがありますが、これはタネを蒔いて実がなるまでの年月をたとえに使ったものです。( )に実際の年数を記します。(桃栗三年、梅四年、梨・リンゴ五年、柿八年、ミカン九年)。果実は一般にタネを蒔いても親と同じものはできません。そのため、果樹の同じ品種を増やすには、芽や枝を接ぎ木したり、挿し木したりする方法がとられます。

令和7年10月26日 栗 続き
現代では育種の進展によって、祖先から引き継がれたこうしたクリの名品を基に、幾多の高級品種が全国に普及しています。
「岸根」の子供の「筑波」や「石鎚」、「乙宗」の子供の「丹沢」等です。五千年以上にわたってお世話になったクリですが、最近の扱いは粗略に過ぎるようです。皮が剥きにくく食べるのに面倒なのもその一因でしょう。
クリはクリご飯をはじめ、ほとんどが煮たり焼いたりの「生食用」でした。ところが近年は「加工用」が主流を占めています。かくして、日本のクリ育種も加工適性を第一に、できれば生食用にもできる方向で進められています。ところがこの両方を満足させるクリの育成は困難です。生食用には果実がポクポクした粉質がベターですが、加工用にはねっとりとした糊質が向いています。また、収量が多く、実が大きく、かつ粒ぞろいの品種こそ歓迎で、生食に不可欠な甘みなどは、加工ではシロップでどうにもなるので二の次になります。ですから、日本にはそのまま食べても美味しいクリは乏しいのが現状です。続く

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大陸からイネがもたらされるまでの長い間、私たちの祖先はドングリなどの木の実を主食にしていました。とくに、アクぬきをせずに食べられるクリは高級な糧食でした。このため、クリが豊富に採れる落葉広葉樹林の分布した東日本の方が生活しやすく、縄文の遺跡は東日本に偏在しています。古代から日本の食生活を豊かにしてきたクリは、正しくは二ホングリといい、わが国原産の果樹とされています。下って平安時代には、丹波の国 (現在の京都・兵庫の一部) に大粒で美味な「丹波栗」が現れ、長くこの地方の名産になりました。丹波栗はその後各地に広がって行きましたので、いろいろな土地で見られる大粒のクリの先祖はこのクリとみなされています。しかし、各地に広がっていったのは、親木からタネをとって蒔く実生繁殖だったため、親と同じクリはできず、少しずつ違ったクリができあがり、さまざまな名前が付けられました。
大正時代の初め、京都の品評会でローカルな名品が陽の目を見ました。大阪豊能の「銀寄」、兵庫氷川の「長光寺」、丹波の「乙宗」、山口の「岸根」などは注目され今も各地で栽培されています。続く

令和7年10月12日 ブドウ
現在世界でもっとも生産量が大きい果物はブドウです。ブドウの生産が群を抜いて多いのは、果実からワインが作られるためで、生産高の八割がワイン醸造に用いられています。
栽培されているブドウは、六千年を超える栽培歴を誇るヨーロッパブドウと、ここ二百年くらいの間に改良が進んだアメリカブドウに大別されます。
東アジアにブドウの栽培とワインの醸造法が伝わったのは漢の武帝の時代(前159)とされています。ブドウはもともと中国にはなかった果物ですか、それが渡来したころには、すでに中国にはコーリャンやコメで造った酒があり、ワインはそれほど普及しませんでした。
日本にも昔からブドウがあり、食用に供していました。しかし、それは小粒で酸っぱい在来の別の種類で、ヤマブドウ、エビヅル、サンカクヅルなど六種類が確認されています。本家のヨーロッパブドウが日本へ渡来したのは養老二年(718)といわれています。日本での本格的なブドウ栽培は明治時代になってからのことですが、ヨーロッパの品種は雨が多い日本の気候に適応できず、アメリカの品種は栽培できて、全国に普及しました。ただし、日本のブドウは生食用がほとんどです。

令和7年10月5日 曼珠沙華
だしぬけに咲かねばならぬ曼珠沙華 後藤夜半
命あるすべてのものが、運命という決して抗うことのできない約束事を宿してこの世に誕生します。そて定められた法則の中で、それぞれが懸命に命を運んでいるのです。曼珠沙華は炎のような赤色の輪状の花を、唐突に咲かせることでよく知られています。
生来病弱であった夜半は遠方に旅することさえ生涯果たせなかったといいます.命は誕生という定点に始まり、死という定点で終わります。その、二つの定点を結んだ一本の線が、人生であり運命であるのです。ある日突然咲き出でて、いつのまにか忽然と消えている曼珠沙華、"だしぬけ"に咲くことは、曼珠沙華の命そのものです。そこには"だしぬけに咲かねばならぬ"と断定した夜半自身の宿命というものに対する決意と矜持、諦観が見られるかのようです。

工房の庭に曼珠沙華の好きな友人が植えた花が毎年秋の彼岸に咲きます。

令和7年9月28日 高橋治
花には流行があり人気の高い花でも、普及しすぎるとただの花になって、関心が薄らいでしまう。
矢車菊が好例で、改良され矢車草の名で親しまれるようになって、急激に花の価値が下落した。
ある時、私を花にたとえたらどんな花かとさる人に賛辞をせがまれた。矢車菊と答えたところ、見る見る眉を逆立てた。牡丹とか姫百合とかいってほしかったらしい。小生憮然、彼女悄然のお粗末。
矢車菊の澄んだ青はドイツ女性の瞳の色にたとえられる。エジプト王ツタンカーメンの黄金の柩から副葬品として矢車菊が発見されてもいる。まさに王の花である。しかし地中海岸の雑草との説もあるから、彼女は案外博学だったかも知れぬ。
矢車草 病者その妻に触るるなし 石田波郷
病弱だった波郷の愛と悲しみの深さが、読む者に切ない。
秋風に驚いて顧みれば、夏は知らずに過ぎていた。

令和7年9月21日 妻から夫へ 加賀美高代 横浜市 50歳
「お母さん、もう少しやせた方がいいよ。それにブスでみっともないよ」。そんな長男の言葉に、
「何を言っているんだ。お母さんは少しも太っていないし、綺麗じゃないか?」
その後少し私の方を見ながら、それに、私の聞こえるような声を出して、
「神様お許しください。私は今日一つ、いえ二つ嘘をついてしまいました」。
こんな温かさとユーモアと、あなたの優しさに包まれて、もう三十年。
これからの長い人生、益々老いては行きますが、よろしく、お願いしますネ。

令和7年9月14日 すりこぎ
我が家のすりこぎは山椒の木だったが、長い間にすり減り新しいものに変えた。
その新しいすりこぎが山椒の木で出来ているか素人の私にはわからない。
福井県の永平寺には実用品ではないが柱のようなひとかかえもある、長さが五メートルのすりこぎがある。
゛味噌擦り坊主゛という言葉があるように寺とすりこぎとは深い関係がある。
痔という字がある。この病気が(やまいだれ)に寺と書くのは、座禅もそうだが、冷たい板の間の台所仕事からくる坊主の職業病からという話を聞いた。
山小屋には私が購入する以前から自然の山椒の木があった。すりこぎに加工するのは十分な太さである。
いつか切り倒してすりこぎにしてみたい。

令和7年9月7日 住宅
子供が巣立って、空き部屋が増えて、新しい実り豊かな老後?
年金でどの程度の暮らしができるやら。
人はむやみと長生きするようになったが、木造住宅の寿命はいかほどだったろうか。
舐めるように我が家をいつくしんだが、破風が腐りかけ、軒も傾きかけた我が家を見上げる。
つくづくと我が身に残ったものを思案して、「これで全部か・・・」と呟いたきり寝込んでしまう。

老残の残滓温めて酒二合

令和7年8月31日 西条八十
西条八十の法名は「詩泉院釈西条八十」という。千葉市郊外に生前、自分と晴子夫人の墓を建立し、その墓碑には次の文章が刻まれている。
われらたのしくここにねむる。離ればなれに生まれめぐりあい、短き時を愛に生きしふたり。悲しく別れたれど、ここにまた心となりてとこしへに寄りそいねむる

令和7年8月24日 名声
名声と人格は違うものなのだ。名声はゴシップと解釈に基づく他人の意見にすぎず、自分ではどうしようもできない。
でも、人格は死ぬまで努力次第で改善できるものなのだ。

人生の 余白や目刺しにて 独酌

令和7年8月17日 森本毅郎2
山田洋二さんのユーモアを物語るエピソードにこんな話がある。
まだ学生の頃、新宿の百円食堂によく通った。カレーライス百円、天丼百円、うな丼百円・・。なじみの客は大抵カレーライスを注文する。百円に見合った中身だからである。
ある日、中年の女性が、うな丼のチケットを店員に渡した。彼は心の中で「よせばいいのに」と思いながらカレーを食べ続けた。やがて蓋つきの丼が運ばれてくると、その女性は顔をかがやかせた。そして丼の蓋をとった途端、小さな声で「あっ」と叫んだ。
見ると、御飯の上に、小さなうなぎらしき切れはしがちょこんとのっていたのである。婦人は自分の期待していた「うな丼」と現実のそれとの間に大きな落差があったから、つい叫び声をあげてしまったのだ。
山田さんは思わず噴き出した。「だからいわないこっちゃない」そう心の中で呟いた。
婦人は気を取り直し、やがてその「うな丼」を食べ始めた。小さなうなぎの切れはしを口に運んでいるその姿を見ているうち山田さんはふと彼女の境遇を想像した。
「ひょっとして彼女のご主人は戦争で亡くなったのかもしれない。子供をかかえて女手一つで働きに出ていて、今日は給料日。ひと月汗して働いて得た月給で子供にも内緒でささやかな贅沢をと、思い切ってうな丼を頼んだのかもしれない。だとすれば、カレーライスではなく『うな丼』でなければ意味がなかったのだ」
そんな風に考えているうちに、彼はその婦人の様子がおかしいというよりもむしろ哀しくなってきた。
「私の描くユーモアは、こうしたものなんですね」と山田さんはしみじみといった。

令和7年8月15日 森本毅郎1
山田洋二さんは決して難しい理屈は語らなかった。
「寅さんの映画は、とりたてて物珍しい筋立てがあるわけじゃありません。寅が惚れて、ふられるだけの話です」と山田さんはいう。「私はね、喜劇を作ろうなんて思ったことはないんです」
柴又のだんご屋で皆がメロンを食べる。そこへ寅さんがヒョッコリ顔を出す。みんなは寅さんの分がないのに気付く。寅さんは真剣に怒り出し「俺のメロンはどこ、俺のメロン」と絶叫する。
ここで観客は笑いころげるのだか、寅さんにとっては笑うに笑えない状況なのだ。みんながいつも世話になる寅さんの存在を忘れてしまった。あわてて自分のメロンを差し出す親切よりも、はじめから一人自分の為にとっておいてくれたメロンが欲しかったのに、そう思うと寅さんは悲しい、侘しい。
「俺のメロン」という寅さんの叫びは、人間同士の思いやり、心の優しさへの切実な願望なのである。続く

令和7年8月14日 夏井いつき、と妹
夏井 いずれにしても一人目の育児は肉体的にも心理的にもしんどいもんやね。私の俳句友だち、ぽぽんたちゃんの娘も産後&育児ブルーになってたらしく「組長、何か励ましてやってください」って言われて、即興の一句を詠んだのよ。
「食って泣いて放(ひ)って赤子の春である」という句を色紙に書いて。
その句の横には私の似顔絵を描いて、吹き出しを付けて「ファイト!そのうち自分でウンチ拭く!」って。
ははは?
夏井 ぽぽんたちゃんの娘は、せっかく詠んでやった俳句よりも「そのうち自分でウンチ拭く」の吹き出しに励まされたって(笑)
まぁ、いずれ拭くよ。で、またいずれ自分で拭けなくなるけど。
夏井 ははは、そういうこっちゃ。

令和7年8月13日 老妻
すずしさのいづこに坐りても一人 蘭草慶子
還らぬ人への一句です。生前はいつも一緒だった二人。縁側から庭を眺める時も、食事をする時も、なんにもしていない時も・・。いつも傍らにはその人がいた。しかし、かって二人が時を重ねた場所には、ただ涼しい風が吹き抜けるだけ。
「いづこに坐りても一人」という表現には、淋しいとか悲しいなどという言葉を超えた作者の慟哭が読み取れます。

老妻とダジャレの応酬日々楽し

令和7年8月10日 シルバー川柳
年歳(とし)で知ることの多きよ夏野行く
ビールあり世話女房あり夜風あり
角がとれ丸くなるのは背中だけ
蝉が鳴いている。
病に倒れてから、虫でも草でも、生きているものの存在が真っすぐ心に迫る。
「いま」「ここ」に「生きている」。
ただそれだけで、涙ぐんでしまう瞬間がある。
蝉が鳴き続けている。

令和7年8月3日 エゴノキ
うつむいて咲く花には捨てがたい味がある。海棠や紅どうだん、更紗どうだんは花色ゆえにかえって華麗に思えるが、白い花はいたいけない。似た花で山に咲くものとなると "えごの木" だろう。昔の子はこの花を水につけてシャボン玉を作った。谷や沢に咲くせいか、水に縁が濃く、涼やかでしおらしい花である。
えごの花雨の小径を明るくす 笹節子
えごの花森暗ければ匂いけり 泉六秋

今朝の青葉を清々しい気持ちで見ることが出来ました。
夕菅 クレナイ 農業大学のお花畑 山紫陽花の挿し木

令和7年7月27日 霧の森
山を歩いていて、最もこころが穏やかに、じんわり感動するのが、雨の森や、視界の効かない霧がかかるときだ。
晴天の絶景の爽快さとはまた違う、自然の表情。
そんな日に、運よくひとり森の中ですごせるのは至福の時間。
雨の日も雪の日も、四季の中に生きている自然を見ることができる山小屋。

山に住むと健康な心が根付く。

令和7年7月20日 夏井いつき
風生と死の話して涼しさよ 高浜虚子
弟子で友人の富安風生と、籐椅子などに並んで腰かけ、庭を見ながら話をしている。山の家は町の家よりは涼しいが、それでも蝉が鳴いて暑い昼である。辞世の句の話から発展して、誰それが死んだ、あの人ももう長くないらしいという話題になった。それぞれが夢を語るように、いかに死ぬかを話す心地のなんと涼やかなことか。

他の物事とまったく同じように、自分の事も客観的に見て詠むのは俳句の基本。俳句をするって事は、結局いかにさばさばと死ぬかって事を、日々ちょっとずつ練習しているのかもしれない。還暦過ぎた友人が集まると、墓の話、実家が空き家って話ばっかり(笑)、笑いごとやないよね。
病気の最中は、歩いている時地面しか見てなかった。散歩してても下ばかり見ていた。
やっと少し気持ちが落ち着いた時、空ってこんなに高かったのかと思って。
人間は健康だけで結構楽しい。八ヶ岳は自然のままで結構楽しい。
今年はきっと暑い夏になる。燕がいつもより多いようだ。

令和7年7月13日 外山道子 (長野市 主婦 56歳)
夫が五十五歳で急逝して四年目を迎えた。日々の雑事や仕事に追われ、あっという間の時だった。
先月、四年ぶりに松本まで中央線に乗った。車窓から懐かしい六月の花が見えた。
白いアマドコロの花とピンクのウツギの花がたわわに咲いていた。
夫とはいつも、信州の山歩きや四季折々の花の旅をしていた。四年ぶりの花々との出会いに胸がいっぱいになった。
トンネルを抜けると、まばゆいばかりの残雪の北アルプスが目に飛び込んだ。どれも夫と歩いた山々だ。
この四年間、ひたすら二人の息子と共に、夫への感謝と思い出を胸に、悲しみは心の底にしまって生きてきた。
山の花々に出会うこともなく過してきた。そうだ、また山歩きをしてみよう。
梅雨も明けた。夫と最後に見たヤナギランの花を訪ねて、夏の山に行ってみよう。

令和7年7月6日 夕立
夕立のあと夕空の残りけり 今井杏太郎

俄にかき曇ったかと思いきや、大粒の雨が降りはじめました。夕立は雷を伴う激しい雨ですが、早く降り止むのが特徴です。
さて、夕立の去ったあとには洗いざらしの夕空が残されました。夕立の濁った空とは比べものにならないほど美しい空です。雨後には涼しい夕風も訪れたことでしょう。
雨もまた良し、そんなゆとりを持って毎日を送りたいものです。

令和7年6月29日 蓮如
蓮如は浄土真宗のお坊さんである。
この浄土真宗の教えをひらいたのは、有名な親鸞である。辞書などでは親鸞に関して、浄土真宗の開祖などという説明がされているので、本願寺を作った人と誤解されることもあるようだが、そうではない。親鸞は関東を中心にすくなからぬ信奉者をあつめ、帰依する人も多かったが、いわゆる教団を組織しなかった。道場で布教はしても、本山といえるような寺はもたなかった人である。親鸞の死後、近親者の手で簡素な墓がつくられる。それはやがて彼を慕う地方門徒たちの協力で廟として形をととのえていくのが、本願寺の出発点である。
八代目の蓮如までの本願寺はすこぶるみじめなものだったらしい。比叡山延暦寺の裾野のはるか下の方につらなる、天台宗の末寺といってもいい影の薄さだったようである。蓮如はそんな寺に、使用人として働いていた「いやしき女」を母として生まれた。
蓮如にまつわるエピソードは、数えきれないほど多い。なかでも有名なのは、彼の子沢山と、八十過ぎて子供を作ったエネルギーに関する話題である。なにしろ生涯に五回結婚し、二十七人もの子供を産ませたのだから。
「相手が若けりゃ、俺にもできる」と胸を張った作家もいたが、空威張りのような気もしないではなかった。

令和7年6月22日 水垣洋子
ほのかに匂う 沈丁花
あのときと同じ道
あのときと同じ匂い
違うのは わたしだけ

令和7年6月15日 野鳥
この季節、早朝薄暗いうちから野鳥たちがさえずり始める。
心地よい目覚め迄のひと時、ぼんやりと野鳥たちの声を聞き分け、その姿や名前を思い浮かべてみる。
かっての私なら聞き分けられなかったが、最近少しわかるようになってきた。

書を伏せて午睡「唐詩選」の音りんりん
万巻の書読み残しておれガンになっちゃって

令和7年6月8日 馬酔木
別れ来てほつりと白し花あしび
京都嵯峨野にある大河内山荘は、時代劇の名優大河内伝次郎が造った。
無声映画時代からスターの座を保ち丹下左膳を無類の当たり役にしていた。しかし、一時代を築いた人が、なぜこんな作品に出るのかと思うものが晩年多かった。美しく老いて品のよい夫人もその件では眉をひそめる。だが名優の夢がこの山荘だったのである。山ひとつに私財を投入、思うように作った庭を歩く時、至福の表情を浮かべていたという。桜も悪くないがこの庭の主役は無数に植えられた馬酔木。花だけではなく若葉も見事である。
墨を買う馬酔木の花の麓かな 進藤一考
ひと月前まで初々しく若かった緑が日に日に濃さをましてくる。このところ蒸し暑い日が続き、体温の調節がうまくいかない。
丁子ガマズミ 乙女リンゴ ライラック

令和7年6月1日 お経
ナムアミダブツ
ナンマイダー
ナマンダー
六字でさえだんだん短くなるが、これを唱えるだけで、お経を全部唱えるのと同じ功徳があり、大往生できるというのだから呆れるほど凄い。「ナマンダー」は、お経を読んだつもりなのである。これを念仏という形で世にひろめたのが法然、親鸞、蓮如の三人である。「南無阿弥陀仏」ということを「なまんだぶ」といい、「南無」は当て字で、本来はサンスクリット、梵語、「あなたを信用します」ということ、だから仏教用語で「あなたに帰依します」というのが「南無」。つまり南無阿弥陀仏というのは、阿弥陀仏に帰依します、ということになる。南無妙法蓮華経の妙というのは、美しいという意味、その美しい法蓮華経に帰依しますということ。わかりやすく言うと、一番大事なことは、人を救わなければ、あなたも救われないということである。
植えてから長年咲かなかったウワミズザクラが咲きました。
樹の下に立つと、とても良い匂いがします。
淀川躑躅 ウコン桜 シャクナゲ 利休梅

令和7年5月25日 土筆(つくし) 高橋治
近ごろ、庶民の生活からとみに消えたのが、昔話と摘み草だろう。テレビと道路の舗装が元凶とは小生の妄説。テレビを消して野に出ようではないか。
つみ捨てて踏付がたき若な哉 路通
蕉門にあって独自の境を開いた人で、乞食僧にまで身をおとした。春に誘われつい摘み草をしたが、乞食に煮て食う術もない。捨てはしたものの踏んで去る気になれず立ちつくす。万緑中の自省の句だけに、哀切感が身にしみる。路通にならって、愚生も自省の句を一句。
過ぎし日の悔い群れ立てるごと土筆萌え
福田甲子雄にも秀句がある。
われ死なば土葬となせや土筆野に
シラネアオイ 血潮モミジ 黄花カタクリ 楊貴妃桜

令和7年5月18日 野崎禮子 横浜市
(はは)の足腰が弱くなり、散歩の時は、私の腕に両腕ですがって歩くようになった。あまりの重さに、「お姑さん杖を使ったら」
「いやだよ。昔まだ目の見えていた時、杖をつくお年寄りを見たけれど一寸淋しそうだったもの」 「でも杖使うと楽よ」
「あんたさえよければ、こうしてつかまって歩きたいのだけれど」
目も耳も不自由な姑。そのうえ杖をついて歩く自分の姿を思い浮かべたのだろうか。
あんなに何事にも厳しかった姑が、ますます力を入れて、全身を私に預けてくる。
そう思ったら、姑の重さも軽く感じられるのは不思議だった。いいわよ、いつまでもつかまっていて。

令和7年5月11日 西施
西施は中国の代表的美人として、楊貴妃と並び称せられる女性の名前です。ただし並び称せられるといっても、時代はずいぶん違い、楊貴妃が八世紀、唐代の人であるのに対し、西施は紀元前五世紀、孔子とあまり違わない春秋時代の人ですから楊貴妃に比べてはるかに霞のかかった伝説的存在で、古い文献では、名前は出てくるものの、どういう女性であったかは何もしるされておりません。
しかし、後世の伝承としては、楊貴妃が肉づきのよい豊満な美人であったのに対し、西施はほっそりした、日本流にいえば柳腰の美人だったということになっており、胸を病んで眉をひそめる姿が素晴らしかったなどといわれております。
芭蕉が象潟の景色を見て、西施を想い浮かべたのは、太平洋側の松島の明るさに対し、象潟はさびしく悲しく、うらむが如しという印象だったかららしい。
咲きだしたばかりの庭の草が、今朝はもう、それは小さなこんもりとした森を作っている。草の命のなんと旺盛なことか。
ムシカリ 黒文字 御殿場桜 馬酔木

令和7年5月6日 細川護熙
旅にあこがれ、旅に慰めを見出す人は多い。日常の雑事に追われていると、旅への想いがいやますのを経験するのは誰しものことだろう。しかし、旅をこそ日常とした人がいる。松尾芭蕉だ。
「おくの細道」は芭蕉に同行した曾良が 「此のたび松嶋・象潟(きさかた)の眺共にせん」 としたと書いているように、松嶋・象潟を眺めるのが大きな目的だった。
わたしは「奥の細道」最北の地でもある象潟を訪れてみた。
象潟や 雨に西施が ねぶの花
西施(せいし、 中国四大美女のひとり)
今見る象潟は芭蕉の見た象潟ではない。海の中に島々が浮かんでいたその光景はちょうど二百年前の文化元年の大地震で隆起した地面のために失われ、その後の干拓によって稲田に生まれ変わった。
わたしは、蚶満寺のあたり、刈り取りを終えた九十九島のあぜ道を歩いたあと、海から象潟にたどり着いた芭蕉を慕って浜辺に出て、鈍色の日本海を眺めた。

令和7年5月5日 西脇郁子 三重県
脳出血による左上下肢機能障害、身体障碍者二級という肩書が私についた。四十八歳の春のことでした。
悲しんだり、苦しんだり、元気な人を羨ましがったり、心は千々に乱れる日々を送っていました。
そんなある日ラジオから流れてる永六輔さんの声。
「障害者も五年もすればベテランだ」 という言葉に頭をゴツンとやられた気がしました。ちょうど十年目のことです。
五年でベテランなら、私は超ベテランだ、うかうかしてられないぞ、と自分に言い聞かせ、前向きに生きてゆこうと心に決めました。
その一言が私にはとても大きな生活の指針になりました。そしてまた、八年が過ぎようとしています。

令和7年5月4日 山口千恵子 愛知県一宮市
寝たきりだった姑が逝って、もう百ヶ日が過ぎました。介護の大変だったことは日がたつにつれて忘れかけています。
ベッドの上の姑は赤ちゃんのようなつぶらな瞳で、曽孫にお菓子をもらって嬉しそうに笑っていました。
自分の子供達は忘れてしまっても、嫁の私だけは、最後まで覚えていてくれました。
もうおじいちゃんに会えましたか。弱ってしまった足でころばずに行けましたか。
杖を二本も持って行ったので、多分大丈夫でしょうね。
嫁いだ三人の娘たちに支えられて、最後まで家で看ることが出来ました。娘たちありがとう。
さようならおばあちゃん。おじいちゃんによろしくね。
家族の日常を綴っただけのエッセィにいい歳をした老人が「うっうっ・・・」と声がもれるのを必死にくいとめようとしながら泣くのである。いやはや、これは一体どうしたというのか・・・・。
「要するに、年をとったんですよ」妻はそう言って笑う。たぶん彼女の言う通りなのだろう。
世の中にはある環境や、ある年齢になってみなければわからぬことが多々あるものだ。

令和7年5月3日 高橋治
一時に咲き出した山の花に、ひと息の休止期が訪れると、うつぎの出番が来る。
恐らく日本では一番優しい季節の訪れだといえるだろう。
うつぎは里にも咲くが、どちらかというと山の花である。
うつぎは幹が中空だから空木と呼ばれる。ことほど木は頼りない。
だが、うつぎは"打つ木"だともいわれる通り、木釘はこの木から作られる。
人間も同じことだが、外見ではなかなか秘めた性格はわからないものなのだ。
うらうらと山茱萸の咲く枯木中 中村嵐石
冬の去りきらぬ山を黄に彩るから、牧野富太郎が「春黄金花」と名付けた。源平時代悲恋の民謡ひぇつき節の”庭のさんしゅゆ”は薬味の山椒のこと。実が美しいことを知って読むと次句意味深い。
山茱萸の黄にかがやきて身籠れる 芳沢かつ子
山茱萸はミズキ科の落葉小高木、長さ約1.5センチの実が秋に紅熟するので「アキサンゴ」の名もある。
姫辛夷 クリスマスローズ

令和7年4月27日 子供
父へ 母へ・・
孫は可愛い でも 我が子は 幾つになっても一番
その言葉、私は嬉しかった。
小林朝子 (東京都 31歳)

おとうの骨壺
言いつけ通り、例の滝壺に沈めるよ。
でもさあ、冬は寒いんじゃない。
藤林一正 (東京都 33歳)

父ちゃんのこと嫌ってた私が
一番父ちゃんの墓参りしてるなんて
笑っちゃうよね!
高崎久美 (千葉県 31歳)
辛夷 山茱萸 ふきのとう カタクリ

令和7年4月20日 佐藤貞利 岩手県北上市
冬用のセーターなど整理していたら、妻の物がでてきた。
小二の息子が、「お母さんのだ。おかあさん思い出すな」と言った。
妻が亡くなってもう半年が過ぎた。
つい最近まで、星占いを見てもお母さんの星座が良いとか騒いでいた子供たち。
私の頬に涙がつたわった。
野の仏桜の雨の降りませと

令和7年4月13日
彼女と山にいるとき熊に出会ったら、「おれが、熊と闘う。君は逃げろ」という。
すると、彼女が走って逃げだす。で、熊は走って逃げる彼女を追いかける。熊は、背を向けたものを襲う習性があるから。
で、おれは、彼女が喰われているあいだに、ゆっくりと逃げればよい。

男友達と山にいるとき熊に出会ったら、「一緒に走って逃げよう」
「一緒に走り出せば、足の遅い方が熊に食われる。で、その男が喰われている間に、もう一人が逃げればいい。足の速い方が助かる。恨みっこなし」
お遍路やぼちぼち俺も逝く支度

令和7年4月6日 関川千代乃 群馬県利根郡
私は娘時代は編物教室で講師などをしておりましたが、何の因果か農家に嫁いでしまいました。
大自然との闘いである農業生活には慣れました。
けれど、貴婦人のように着飾った同級生たちが集うクラス会に出席するのは、とても勇気のいることでした。
なぜなら私といえば、金時の火事見舞いのような赤い顔、手は熊手のようにささくれだっていました。
でもやっと今になって農業の素晴らしさがわかってきたのです。作物を育て収穫する喜び、広い庭園、小鳥たちのさえずり、悠久の時を刻む満天の星、西の地平線には沼田市街の夜景が宝石のように輝いています。
二十五年目にやっと知り得た幸せでした。
菜の花は何にもまして春の色

令和7年3月30日 徳富蘆花
徳富蘆花の夫人愛子が、身体の不調を訴えたので、入院することになった。蘆花が見舞いにゆくと、たまたま、若い医師が来ていて、そばにカルテが置いてある。備考の欄に、ドイツ語が書かれている。むろん読めはしない。
「ご心配はありません。すこし過労というだけで、すぐよくなるでしょう」 と医師がいうので、ホッとした蘆花がドイツ語のところを指さして、「悪性の病気とでもいうのかと思って心配しました」というと、若い医師が、ハッとした表情をしたのを、作家の目は見逃さなかった。
「本当でしょうか、このドイツ語が気になる」となお食いさがると、医師は困ったような顔で、
「これはつまりですね。ご夫婦の仲がよすぎるという意味なんです」

令和7年3月23日 浅田次郎
いよいよ花の季節である。梅が咲き山茱萸が咲き、辛夷が咲けばじきに、めくるめく桜の洪水が押し寄せる。
日ごろ花を愛でる心のない人でも、さすがにこの季節ばかりは気もそぞろになる。古来わが国では、花といえば桜の意であった。
生き別れ死に別れ、裏切られ傷つけられ、あるいは大切なものを捨てたり壊したり、ぼろぼろの一年であったけれども、桜はわずか数日の花の命で人の心を満たしてくれる。すなわち物や金や時のあるなしではなく、花の心を感じ取れなくなった人間こそが、本当の不幸である。
その伝でいうなら、このごろ不幸な人間が多くなったのかもしれない。
雨上がりやさしき春の朝日かな

令和7年3月16日 老い
まだまだ (老い) というものに慣れていない。
いつまでも老人初心者だから、どうにも不愉快で、不愉快というのは自分が元気がないという状況に対しての不愉快です。
三食薬漬けという有様で、もう駄目です・・・・「駄目」 と口に出して言うのは、まだどこかで大丈夫だと思っているんでしょうか?
人は最後に大変な初体験が待っているわけだが、人生、成り行き。
別の言い方で、われわれには未来があると言ったときに、常に未来というのは明るいというイメージがありますが、本当はそうじゃないんですね。未来は死だったりするわけです。ですから死というものが自分の未来だと感じられたら、覚悟は出来ますということをホスピスの先生から伺ったことがあります。
小雪舞うたそがれ時、私は諏訪湖畔の桟橋に立って夕日が沈むのを見ていました。
紅万作 2/15 24/11/15

令和7年3月9日 褒 (ほ)める
ちょっとでもいいところを見つけて褒めるって、すごく大事なことです。
私は褒められ慣れていないので、たまに褒められるとへどもどしてしまって居心地が悪く、だからきっと他人もそうなんだろうと思って、誰かを褒めようとすると異様にぎこちなくなってしまう。
でも、誰かにとって希望と支えになるのは、当然ながらけなし言葉ではなく誉め言葉なのだ。
ぎこちなくてもいいから、今後はじゃんじゃん自他を褒めていこうっと。

ネッ、正直でしょ、どうか正直の頭に神宿りますように。

令和7年3月2日
今年は暖冬と思い込んでいたら、今朝、山小屋は薄い雪に覆われて、目が洗われるようであった。
山小屋は、白い小梅の花が咲き満ち、待ちかねていた紅万作の花も、一昨日一気に開いて、庭に灯をともしたようにあたりを明るくしていた。それらの花々の上に、たちまち雪が、花嫁のベールのように薄く広がり、いっそう風情が深まった。
冬山の 透かしぼりなり 冬木立

令和7年2月23日 おむすび
口からものを食べることは大切。食べることは生きることです。
「おにぎり」と言う言い方が一般的かもしれないが、「ごはんは握っちゃいけない。お米を結ぶんだ」という。
「おむすび」 は小さめの方が食べやすい。大きいものは残ったときに悲しくなる。
風のさらさらした音が聞こえる。空には雲が流れる。
梅の花があちらこちらでほわほわと咲いている。
毬のような黄色い花もあった。

令和7年2月16日 柏木博
2017年春にがんが見つかった。初夏に入院して半年、その年の暮れに退院した。気持ちに変化があらわれた。
それまではかなり多くの仕事をしていたのだけれど、もうひたすら仕事をするということもせず、一日にひとつのことをやればよいと思うようになった。掃除でも洗濯でも何でもいい。それが出来れば、一年に365のことが出来たことになる。すべてゆっくりやればいい。
そして、大きく変化したのは読書だ。仕事のために読書するのではなく、読みたいものを読む。役に立たない生産性のない読書である。
「読書人」の本来の意味は「読書をする人」ではなく「読み書きのできる人」である。

令和7年2月9日 永千絵 (永六輔 長女)
目を閉じた父の肌の色は、もう生きている人のそれではなかった。
次男が部屋に入ってきて、父の様子を見るなり、号泣したのにはわたしも驚いた。
声をあげて泣く息子を見たのは、小学校か幼稚園以来か。
泣きながら 「こんなに寂しいとは思わなかった!」 と言った息子の声を忘れない。
ああ、本当だ、本当に 「寂しい」 とそのとき初めて思った。

たまに、ふっと上を向いたときに。
夜の星を見上げたときに。
湯気が天井からぽたりと落ちたときに。
遠くへ行きたいなと思ったときに。
京都大原三千院を訪れたときに。
そんなときに、父のことを思い出していただけれは幸いだ。

令和7年2月2日 佐伯啓思
阪神淡路大震災によって自らも被災しながら、被災者の精神的な痛手を少しでも和らげようと、必死に働き続けた一人の精神科医がいた。神戸大学医学部付属病院の医師だった安克昌さんである。
その安さんをモデルにしたドラマ 「心の傷を癒すということ」 がこのほど放映された。
それから五年後、安さんは癌を発症し、まだ三十九歳の若さで亡くなった。
近づく自らの死を知りつつ、彼は家族といる時間を大切にし、また病院での診察を行った。
ドラマで、その最後の日々のある場面が出てくる。車椅子に乗って母と妻と散歩をしている。
彼は静かにこうつぶやくのである。「こころのケアって何か、わかった」。それは「誰もひとりぼっちにさせへん、てことや」 と。
とてつもない不幸に見舞われたり、想像を絶するような悲惨な経験を強いられたりする人がいる。
その横にたたずむ者には何もできないし、また何もできない自分が腹立たしくも思える。
だが、そこに一緒にたたずんでいればいいのである。「
ひとりぼっちにさせへん」と言えばいいのである。
これは特別に精神科医だから発した言葉ではない。一人の人間が一人の心の痛手を負った人に送った言葉である。

令和7年1月26日
朝目覚めると、久しぶりに窓からやわらかな光が差し込んでいた。
嬉しくなって、庭に出て八ヶ岳の山々を仰ぐと、朝の光の中で頂きの雪がことのほか白く輝いている。
あたりは、圧倒的な雲の波、波。
その切れ目、切れ目から青い空がのぞき、葉を落としたカラマツ林の木々をすかして果てしなく広がっている。
そんな美しさの中にいると、人生の晩年にここに流れついてよかったなあ、という心持になる。

令和7年1月19日
作詞 未詳 作曲 未詳
雪やこんこ 霰やこんこ
降っては 降っては ずんずん 積もる
山も野原も 綿帽子かぶり
枯れ木残らず 花が咲く

雪が降り積もったある日、道端のツツジの木に積もった雪を見て、保育園帰りの結花ちゃんが鼻の頭を真っ赤にしながらいいました。「ママ、木の葉っぱさん寒くてかわいそうね」 結花ちゃんは小さなおててで、枝葉に積もった雪を一生懸命払い落しはじめました。しばらくして、娘の冷たくなった手をママは自分の両手とほっぺで挟み温めてあげました。「ママ、あったかぁーい」
けなげな娘の姿を見ながら、やさしさにふれたような気がしたと、結花ちゃんのママはいいます。

令和7年1月12日 呆け
私は今年78歳になる。さらに2年たてば傘寿ということだ。
この77歳の一年で、体力は衰え、老衰の厳しさが骨身にこたえてきている。
転ばないように気をつけているので、動作がすべて鈍くなった。
しかし、呆けるのはもっと恐ろしい。
政治家たちの国会の応酬を見ていると、あんなに若いけれど、もう呆けがきているのではないかと、人ごとながら怖くなることがある。
昨年年末に諏訪大社秋宮に参拝後、鎌倉街道にある万寿姫の供養塔へ。木曽義仲と頼朝の戦いに翻弄された母の唐糸と祀られいる。
木喰上人の虚空蔵菩薩がある花屋茂七館へ。木喰上人は甲州下部温泉近くで享保三年生まれ、北海道から九州まで一千体の彫像を残し、下諏訪宿には五回来訪、文化七年九十三歳で入寂。
正月に諏訪大社春宮に参拝後、岡本太郎が命名した万治の石仏へ。砥川の流れを妻と長いこと黙って見る。
下諏訪の町を当てもなく歩く。新しい家・廃屋・解体され更地となった家跡。長い間には人も変わるが家も変わる。
祇園精舎の鐘の音 諸行無常の響きあり

令和7年1月5日 ゴンドラの唄
久しぶりに森繁久彌のCDを聴く。
吉井 勇作詩 中山 晋平作曲
♪いのち短し 恋せよ乙女 紅き唇 褪せぬ間に
熱き血潮の 冷えぬ間に 明日の月日は ないものを
いのち短し 恋せよ乙女 黒髪の色 褪せぬ間に
心のほのほ 消えぬ間に 今日はふたたび 来ぬものを
"青春が花ならば"を唄った森繁久彌も逝って久しい。

令和7年1月4日 三枝和子
・・・の涙、と書いて、やはり「泪」の方がいいかな、と思い直した。男のなみだは、あまりだらだら流れないような気がする。
滲んだり、瞼のなかでいっぱいになって溢れ出す一歩手前の状態が多い。それなら「泪」だと考えたのだ。
もっとも、私の子供のときは男は涙など流さないものだと思っていた。
「男の子だから泣いてはいけません」というのは教育上のお題目だったし、それは「女の子は口答えをしてはいけません」というお題目とほぼ見合っていた。
だから、母が死んだとき、父が部屋にこもって号泣しているのを聞いたとき、まったく吃驚してしまった。
男が、それも大人の男が泣くなどとは思っていかったからである。
あのときは実際に父の泣き顔を見たわけではないが、声から推察して流れっぱなしの涙だったに違いない。
私が十四歳だから、父は四十七、八歳だったか。

令和7年1月3日 老師について 浅田次郎
日が落ちると、気温はたちまち氷点下に下がった。
葉の落ちた槐の並木道を、李先生は外套も着ずにはるばると私たちを見送って下さった。
寒いからもうお帰り下さいと言うたびに、行ったん立ち止まって握手を交わすのだか、しばらく歩いて振り返ると、名残惜し気に後をついてこられるのであった。私たちは再見 再見と、かわるがわるに言って手を振った。
ようやく私たちの後を追うことをやめた先生は、冬枯れた槐の並木道に、老いた背を丸めて立ちつくしておられた。
黄砂のとばりが小さな姿を隠してしまった時、私たちはわけもなく、みな歩きながら泣いていた。
先生の不遇な人生について嘆いたわけではない。私たちは、学問というものの正体を見たのだった。
文化というものは、何の欲得も打算もなく、このようにして積み上げられて行くものなのだと、初めて知った。
黄砂の中に消えて行く先生の姿は、誇り高き支那の叡智そのものだった。そして清廉な士大夫の姿そのものだった。
中国の旅は、私にこのことを教えてくれた。

令和7年1月2日 老師について 浅田次郎
北京の胡同(フートン)に李蹄平先生を訪ねた。寒い夕暮れであった。
その家のほの暗い内庭からは、まことにふしぎな、つつましく真摯な、あるいは簡潔で清浄この上ない風が、ふんわり流れ出ていた。
先生は両手で私の手を握り、正確な日本語で「よくおいで下さいました。遠いところ」とおっしゃった。
先生の居室に私は導き入れられた。冷たい石造りの部屋。寝台と古い机、小さな卓と椅子。それだけだった。
私は自分がぼんやりとしてしまった理由に思い当たった。
つまり目の前にいるこの老人は、あたりの空気を染めてしまうほどの偉大な学究なのだと悟った。
昭和十三年、先生は慶應義塾大学で法律を学ばれた。なぜ専門外の法律を学ばれたのかという私の問いに。
「そのころの中国には、法律が必要でしたから。数学よりも」
やがて北京で教鞭をとっていた先生に、文化大革命の嵐が見舞う。先生は三角帽を冠せられ、晒ものにされ、財産は没収され、一家離散の憂き目にあった。歳月を経て北京の胡同に戻ったとき、こう思ったそうだ。ああようやく学問の続きができると。
学びて時にこれを習う、亦(ま)た説(よろこ)ばしからずや。
先生の小さな体を鎧(よろ)っているものはただひとつ、論語の冒頭にあるこの一節だけに違いない。 続く

令和7年1月1日 元旦
毎年、年明けには新しいノートを開くような特別な新鮮さがあります。
子供の頃、「今年は〇〇に挑戦してみよう」なんて抱負をいだいていたものでした。

今やりたいことを今やれ、人生何が起こるかわからない。
雪はしんしんと降る。部屋の障子がほんのり白い。
元日という日も 暮れてゆきにけり