男の隠れ家 山小屋便り 13に続く

令和3年12月31日 大晦日
十二月になれば私達の周りからは、どんどん色が消えていきます。
日々寒くなり、乾いた風が吹きつけます。
そうすると、裸になった木の枝がヒューと細い声を出す。
森の小屋を建ててから十四年の歳月が通り過ぎて行った。
遠い過去の、夢のように思える。
長い道であった。
春風秋雨十四年の旅路は楽しく、また淋しく遠い過去と消えていきました。
冬の庭は、木の葉がなくなり赤い実の木々が目に付くようになりました。
    翌は元日が来る仏と私   尾崎放哉

令和3年12月30日 蘇東坡    細川護煕
      赤壁懐古
  人生如夢     (人生を目の如し)
  人樽還酹江月 (人樽還た江月に酹)
官途の栄達から一転して罪を得た身には、まさに「人生夢の如し」であったに違いない。
あれほどはなばなしく活躍した三国の英雄 (赤壁は三国志で有名) たちも、今や時のかなたに没し去っているではないか。
しかし、彼は黄州で貧困に苦しみながらも「閑」のある生活を楽しんだ。
「人生夢の如し」であるからこそ
一樽の酒を月に捧げて自らも酔おうという、そんな東坡の心情はなんとも慕わしい。   

令和3年12月26日
山小屋の庭は春夏秋冬のうち、いつが一番美しいのだろう。
ダンコウバイ・サンシュウの庭。
桜の庭。
青葉のむせかえるような庭。
レンゲツツジの庭
石楠花の庭。
紅葉の庭。
冬枯れの庭。
みなそれぞれに美しいが、強いて私の好みをいえば、真っ白な雪の庭が第一です。
ただ残念なことに最近雪が少ない、そして雪が降ったとき山小屋を訪れる人はいない。

令和3年12月19日 河井須也子
父(河井寛次郎)は樹木を愛し、和花が好きで、ことに一日花を好みました。芙蓉、むくげ、山茶花、くちなし、藤・・・など。
仕事も室内でするより藤棚の下ですることが多く、特に夏は大好きでした。
父が亡くなってから、父の愛した花も咲かなくなり、庭も華やぎが失せました。
が、日がたつにつれ、初めてほんとうに、空ゆく雲の美しさ、枯草の哀しさの見えてくるようになった私です。
   身辺に いろどり絶えてひさしきを 夜目にしろじろ花うかびきぬ
   
はなやぎて 庭をみせたし日の花を わが父と今生にふたたび見ず

令和3年12月12日 茜雲
高山寺の明恵上人の座右の銘「阿留辺幾夜宇和」(あるべきようわ)。
つまり、建物も何もかも、間に合えばそれでよいという事、これこそものの本来あるべき姿である。
茜雲を背にたそがれている山小屋は、すぐに茜雲が黒い紫色になっていった。
12月8日10㎝の積雪です。

令和3年12月5日 加門七海
もともと、仏教は性欲を否定しているので、実際、恋愛にご利益のある仏様は、あまりいない。
でも愛欲を悟りに導く仏が、縁結びに転化されるなら、私は烏枢沙摩明王を個人的にはおススメします。
髪を逆立てた明王様だが、なんたって、この方は「性欲が強すぎて悩んでいた時に、性欲には何の実態もないことを悟った」という御仏だ。
うーむ。何と、コメントしたらいいのか・・・・・。
が、この方は不浄の物質を喰らい尽くすと記されたため、今はトイレの神サマ、そして下の護り神になっている。
実際、静岡県の可睡斎というお寺のトイレには、日本一立派な烏枢沙摩明王の立像があるし、高野山にはトイレの中に、この方の真言が貼ってあり、うひゃあ、と思った記憶がある。護っているからには、見ているんでしょうね。
♪だぁれもいないと思っていても、どこかで誰かがウスサマが・・・・・というわけだ。ちょっと嫌かも知れないね。
以前、烏枢沙摩明王を本尊としている某寺に行ったら、売店がお寺のマークの入ったパンツやサルマタで埋まっていて、びっくり仰天したことがある。老後、他人に下の世話をかけないようにしたいというのが、訪れる方々の願いだそうだ。
気持ちはわかります。けれど、御祈祷済のパンツって、気になる。
「洗っても、ご利益は、そのままなのかな」

令和3年11月28日 加門七海
「お医者様でも草津の湯でも、恋の病は治りゃせぬ」 なんて歌があるけど、そういう病にこそ、神頼みが一番、力を発揮する。
恋愛を成就させてくれるの仏様で有名なのは、何と言っても愛染明王。この方が一番人気でしょ。
名前がいいよね。愛染・・・・・うっとり。
そのネーミングに頼ったご利益が、縁結び、恋愛成就、夫婦和合だ。
でも、この方、本来の性格は「愛欲の執着の中から、悟りを開くことをすすめる明王」なのよね。縁結びとは、まるっきり逆。
だから、この方にお願いをして、恋愛成就しなくても文句を言ってはいけません。 続く

令和3年11月24日 初雪
11月24日初雪です。
八ヶ岳はすでに真っ白でしたが、いよいよ山小屋まで雪が下りてきました。

令和3年11月21日 小鳥       高橋貴香 20歳
私は小学校一年生のころ、可愛がっていた小鳥がいた。「パラ」と名付けたその鳥は、何にもまさる私の宝物だった。
或る日、水を取り替えようと鳥かごを開けた時、パラは空高く飛び去ってしまった。
私は暗くなるまで電信柱のかげで泣き続けた。もうすっかり暗くなったころ、私の手を握り、
「ほら、パラが戻ってきたよ、捕まえたんだ」
と鳥かごを差し出してくれたのが祖父だった。
私は安心し、張りつめていた気持ちが急に緩み、ただただ泣いた。
私は今年、成人式を迎えた。誰よりも私の成人を喜んでくれた祖父は、成人式からわずか十五日後の二月一日この世を去った。
祖父が亡くなってから、あの時渡された小鳥は、私の悲しむ姿を見かねた祖父が、店で買い求めたものであることを知った。
あの日、私は祖父から、一人では抱えきれないほどのやさしさと幸せをもらった。
遠く離れた金沢で祖父の死を知ったとき、成人式に祖父と一緒に撮った、たった一枚の写真を見つめながら、あの幼い日、私の手を握り締めてくれた祖父の手のぬくもりを思い出し、胸が熱くなった。

令和3年11月14日 野菊の如き君なりき    木下恵介監督
私が八歳の時の映画である。
何回見ても泣いてしまう。
私が竜胆を好きなのはこの映画を見てから。
    まつひとも、待たるる人も、かぎりなき、思ひ忍ばむ、北の秋風に
「政夫さんはりんどうの様な人だ」
「どうして」
「さアどうしてということはないけど,政夫さんは何がなし竜胆の様な風だからさ」

「民子はな、お前の名前を一言も言わなんだ。諦めきってることと思って一目も会わさんで・・・。許しておくれ。
だけどな、息を引き取った後で、枕を直そうと思ったら、左の手に布に包んだ物をしっかりと握って、その手を胸に乗せていた。
可愛そうな気もするけど、見ずにおくのも気にかかるので、皆で相談してそれを開いてみたら、
民子は嫁に行ってお前に会わす顔がないので、それでお前の名前は一言も言わなんだんじゃ。
布切れに包んであったのは、お前の手紙と竜胆の花じゃった」

渡し船を降りた老人は民子が好きだった野菊の花を摘んで、そっと墓前に供えるのだった。
今は老いた主人公が静かに墓前に野菊を手向ける。
それは少女の霊を慰めるとともに自らの純愛への鎮魂と過ぎ去った美しい時間への深い愛着を捧げたものでもあるだろう。
その余りにも美しくも悲しい一途な愛を知ったとき、やはり胸に迫るものがある。
平成14年「野菊の墓」の文学碑左側に、カントウヨメナ(関東嫁菜)・ノコンギク(野紺菊)・ユウガギク(柚香菊)が植えられ,右側にはリンドウ(竜胆)の苗が植裁された、とある。      
「野菊」は果たしてどれなのか。名前のイメージからは柚香菊ではないのか・・・。

令和3年11月6日 誕生日
私は七十四歳になった。
いつ崩れてもおかしくない年齢である。
「年には勝てぬ」を、まさに身を以て感じている。
人間は老境に達して歳をとったら、歳をとったように考えたい。が青年のように考える者は多い。
歳をとらなければわからないことを考えなきゃならない。
歳をとって青年らしいのでは歳をとったかいがないと思う。
若い頃は誰でも元気がいい。
その頃が、私にとっていちばん幸せなときだったに違いないと、いまにして思う。
人生は働くだけでなく心を豊かにするために、また人と喜びを共有するためにあるのだ、と思い始めている。
  
たのしみは そぞろ読みゆく書の中に 我とひとしき人を見し時
古本市で珍しい本を購入しました。 あとがきに
用紙、印刷等の大變な困難を乗り越えて此の書を出版された事を同社出版局の諸氏に厚く御禮申し上げる。
昭和二十二年十一月 初冬の風 竹藪を吹く。
大和國安堵村舊居にて 富本憲吉

とあります。
は昭和二十二年十一月生まれ、その当時に出版された本でした。
表紙は手書きのようで、中身の紙は障子紙のようで、定価は二百圓です。
昭和二十二年の二百圓は今の金額にするといくら位になるのでしょうか?

令和3年10月31日 晩秋
晩秋が急激に冬に向かいつつある朝、久々に裏山の小川の溜まりを訪れた。
もう晩秋の気配。空気がひんやりとしてきて、日中は爽やか、そして夕暮れには、人恋しいような肌寒さがやってくる。
風の匂いにも、季節が歌人に歌を「読ませた」と言った方が、あるいは適切なのかもしれない・・・・

折からの夕茜。木々の梢が黒いシルエットとなり、遠く見える山々は美しく夕焼けている。
鉄紅とでもいいたいような深錆の紅茜が、見守るうちに色を移ろわせる。
もったいない天地の夕明かりに、わたしはひとり立っていた。

令和3年10月24日 紅葉
いちょうや櫟(くぬぎ)の黄葉は、ぱあっと空間を明るませ、楓林の紅葉明かりは、その下を歩む者を紅の余光に包む。
晩秋の十日ばかり、一本の楓から散り敷いた紅葉が足もとの贅になる。
晴天が続くと早く乾いて汚くなるので、水を撒いて収縮をふせぐ。
キラキラと水が光って、紅の色がいっそう鮮やかになる。
露そのものに虹がひそむ。

令和3年10月17日 遺言川柳
亡き父の 思いをくみたい 家族愛
モノよりも 思い出だけを 遺したい
しがらみを 放棄で掃いて 身の整理
遺書の隅 「苦労かけた」を さがす妻
待ってるよ 単身赴任の 墓の中

令和3年10月10日
秋とは名ばかりで、厳しい残暑が続いていた。しかし、さすがに十月ともなると、急に冷え込む日が増えた。
   今日ひょいと山が恋しくて
    山に来ぬ

   
去年腰掛けし石をさがすかな     石川啄木
山小屋の水は、原生林の下から滾々と湧き出してくる、が少し塩素消毒して配水されてくる。
「一口飲めば、寿命が一年延びる。二口飲めば、二年延びる。三口飲めば、死ぬまで生きる」と言われている。
私は毎日しっかり三口飲んでいる。これで、ぬまで生きられる・・・。

人の一生で自然に最も近い時期は、幼児期と老年期ではないだろうか。
皆さんに
八ヶ岳のさわやかな風の匂いを贈ります。

令和3年10月3日 キノコ
「きのこ」と「キノコ」の違いはなんでしょう。
まず、「きのこ」は、私達が見たり食べたりする部分で、これを植物の身体にたとえれば、花または果実にあたり、その本体、植物の根・茎・葉にあたる部分は、細長い胞子がたてにつながった、糸のような形をした菌糸である。
そして、「きのこ」と菌糸で、「キノコ」の身体は成り立っている。
本体である菌糸は、地中や他の生物の体内に伸長して養分を集め、ほとんどの生命活動を行う。
そして、「きのこ」は、繁殖のための胞子を作る時だけ、私達の目に見える大きさでその姿を現す。
したがって、「キノコ」が「きのこ」を作らなかったら、私達は、その存在さえ気付かないだろう。
「キノコ」は、光のない世界の生き物なのである。

令和3年9月26日 兼好法師    細川護熙
比叡の奥の横川に通ったことがある。
眼下の杉木立越しに琵琶湖が見え隠れする細い山道を上り下りしながら、朝早く古井戸から水を汲み上げて天秤で運び、日中は座禅に取り組んだ。そのころ、わたしも人並みに青春の惑いの中にいた。
鎌倉時代の終わりごろ、兼好法師もまた道を求めて修行に励んだのがこの横川である。
そんな地縁もあって、兼好はもともと懐かしい人だが、近年その想いはますます深い。
生涯の友ともいうべき書をあげるとすると「徒然草」はその最たるものだ。
   日暮れて途遠し。吾が生既に磋?たり。
   諸縁を放下すべき時なり

人が世に交わって生きていくのに、諸々の儀式や儀礼は避けて通れない。
しかし、それらを必ず果たそうとすれば、身も心も休まる暇がないまま雑事に追われることとなる。
だから諸縁を放下すべきだと兼好は言う。
横川を経て、兼好籠居を偲び訪れた秋の修学院道の紅葉はちょうど見頃だったが、楓葉を散らす無常の風をまだ苦悩の中にいた兼好も感じただろうかと、そんなよしなし事を思いつつ、踏むには惜しい落葉の上をそっと歩いた。

令和3年9月19日 お彼岸
霊園は普段ならあまり人がいないのだが、今日は彼岸を前にした日曜日。
花や供え物を手にしたりして思い思いに道を行く人の姿は、そのほとんどが老人や年配の男女で、若い世代は目にとまらない。
長年受け継がれてきた行事も、新世代の風潮は単に習慣として気ににとめることもなくなっているのだろうか。
『千の風になって』という歌で墓参りする人が少なくなったのだろうか。

令和3年9月12日 榊莫山
明日香への坂道をのぼった。左の土手には、マンジュシャゲが咲いていた。
真っ赤なマンジュシャゲのなかに、白いマンジュシャゲが咲いていた。
マンジュシャゲの、ほんとうの名は、ヒガンバナ。
赤いほうのヒガンバナは、地上に咲く曼殊沙華。
白いほうのシロバナヒガンバナは、なんと天上に咲く曼殊沙華といわれているのだが、明日香には、天上の曼殊沙華が、ひっそりと咲いていた。

令和3年9月5日 清里    小泉誠志
誰に言うでもなく「また、来るネエ・・」といって手を振って別れた景色が、ずいぶんあった。
「また、来るネエ・・」は「もういっぺん来られる」ということであり、自分はいつまでも元気だと思い込んでいる時だ。
しかし、「また、来ようネエ・・」という言葉を口の中で飲み込んでしまった、切ない思い出がある。
家内の病院生活も永くなり、気分転換に治療の合間を縫って、八ヶ岳の清里高原に出かけた。
彼女は大好きな冷たく甘いソフトクリームを無邪気にペロペロとおいしそうに舐め、とても満足しさあ帰ろうとエンジンを吹かしたその時であった。夕方近くにもなり、外の空気が少しひんやりとしてきた。
「また、来ようネエ・・」
私は、助手席の家内に語りかけようとして、その横顔を見た。
いままで子供のようにはしゃいでいた彼女が、遠くの一点を凝視している。
携帯の酸素を吸っていたが、口をキリリと結んで、少し険しい顔をしている。
彼女はもう二度と清里高原に来られないんだろうと思っているようだ。
彼女は、「また、来るネエ・・」と言えないでお別れをしているようだ。
私が「また、来ようネ」と言ったら、どんな残酷なことばになるのかと思うと、飲み込んでしまった。
私は家内の気持ちを乱さないように、静かにアクセルを踏んだ。

令和3年8月29日
流れゆく雲を、飽かず眺める。
見ていると、雲には千切れて消えてなくなる雲がある。そうかと思うと、また時に太る雲がある。
それはまるで生きているようで雲は面白い。
また、雲を見ていると、風の流れがよく分かった。
咲き残りの花もひっそり夏がゆく---と風に揺れていた。
8月26日ジコボウ、早 山百合

令和3年8月22日
山小屋は四季折々いろいろな変化があり、豊かな自然と肌を触れることができる。
春は山々が一斉に新緑になり、まぶしい若芽が芽吹く。
夏は林が暑い日差しを守り、秋には赤とんぼが夕焼け空に飛ぶ。
冬は陽の落ちるのが早く、粉雪の舞う日はあわただしく時間が流れる。
はやくも七十三歳を超えているのに心奧は子供になって、感傷と感動にひたりながら、いっときの別れを惜しむ。
標高1500メートルを越えると、咲く花は限定される。
十年ほど前に植えた木槿がいつの間にか二メートル余りに育って純白の花をつけている。
夕方窓を閉めようとすると、薄明の中に咲きだしている木槿の花の周りだけがすでにほの明るく、何とも言えない気品が漂っている。
夏の日盛りに、淡紫、薄紅、純白と色とりどりに咲き誇る木槿は一見あでやかだが、どこかはかなさがあって、すぐそこまで秋が近寄ってきていることを示しているように思われたりする。

令和3年8月15日 輪廻
庭木は春になると芽吹き、茂って、つぼみを付けて、一年に一回きれいな花を咲かせる。
その間じゅう、見る人を楽しませ、なんと、惜しげもなく散っていく。それで、ちゃんと、次の年の芽を蓄えている。
こんな自然の摂理を見ていると「輪廻」という言葉が浮かんでくる。
そして私も、その輪の中に入って、動き続けているひとり、だと思えてきます。
身の回りの余分なものを削り落とし、もろもろの執着を手放し、身ぎれいに暮らしていこうと思うが難しい。
  すがすがと洗われている鍋のごと
      油気の無き我となりたし

令和3年8月14日 夏目漱石       細川護熙
漱石が東京の胃腸病院での治療をひとまず終え、修善寺に静養に来たのは明治四十三年八月六日のことだ。
伊豆は連日の雨の中にあったが、旅館の部屋では渓流の音が聞こえ、雨戸を繰ると前後に山が見えた。
しかし、漱石の胃腸病はその間にも悪化していたらしく、死線をさまよい、修善寺滞在は二ヶ月の余にわたる。
再び東京の病院に帰ってきた漱石を迎えたのは、秋の空と人の死の知らせだった。
漱石は生きてある自分の幸福を感じ、危うい「命の綱を踏み外した人」の身に思いを馳せる。
   逝く人に 留まる人に 来る雁
大患によって鋭い「生死二面の対照」を深く感じた漱石は、自他を改めて省察し、宇宙の中における人間の小ささに思い至る。
そんな彼の前に現れた赤トンボを見て日記に綴った。
  人よりも空 語よりも黙
  ・・・・肩に来て 人懐かしや 赤蜻蛉
修善寺は今や、漱石が病を養ていた当時とは大いに趣を異にしているに違いないが、早朝の湯の町は、伊豆の山々に囲まれて静かで、漱石が日夜聞いた桂川の水音が辺りを領していた。

令和3年8月8日 老齢       富士正晴
ひと頃、老人期に入った知人が次々死亡したころ、げっそりしながら、死亡広告を熱心に読んだころがある。
そういう連続死亡が一応終わった後も、割合熱心に死亡広告に目を通す習慣がついてしまった。
私の父は八十をこえるかこえぬころから、家族はだれもわしより先に死んではならんと、力を込めていったものであったが、寂しがり屋の彼にとって、彼より年下の家族が自分をおいて死ぬのが、想像しても悲しくてたまらなかったのだろう。
世に 「父死、子死、孫死」 とかいうことを、めでたいこととするのは、こういう心情が基礎になっているわけだ。
彼は願望通り、一番先に死ぬことが出来て、悲しい寂しい思いをせずに済んだ。

令和3年8月1日 夕焼け
万緑や 吾にまつはる 風うまし       戸田明子
西の山に夕日が沈む。
同じ赤い落日なのに、地上が真っ赤になる時とそうならない日があるのに気が付いた。
そのわけをまだ知らない。

令和3年7月25日
夏の間山野に咲く桔梗のように、端然と日常起居出来たらどんなにいいだろうと思う。
  雨なれば  それもいい日
  晴なれば  それもいい日
春のセミほどではありませんが、夏セミが騒がしい。ノリウツギとセンノウ。

令和3年7月18日 上杉謙信
林を通して洩れるほのかな光のなか、静かな庭の道を歩くと、わたしはいつもほっとした気分に包まれる。
山は陽の暮れるのが早い。
まだ夏の六時前だというのに人影もおぼろめいて見えるような暗さがあたりを包み始めていた。
  四十九年 一睡の夢
  一期の栄華 一盃の酒    上杉謙信の辞世

令和3年7月11日 天気
天気は全天を10に区切って、雲がその10等分のうち 0 から 1 しかなかったら快晴です。
2 から 8 の間だったら晴れです。9 以上だったら曇りです。
「晴れ一時曇り」「晴れ時々曇り」はどちらが曇るでしょう。
気象庁では 12 時間の予報時間のうちで、”一時”とはそのうちの四分の一未満 (つまり三時間以内) 曇りの現象をいいます。
一方”時々”とは四分の一以上 二分の一未満です。つまり、曇りが三時間以上六時間未満の現象です。
それは断続的であっても、連続でもいいんです。
夏椿

令和3年7月4日 森の子供たち      尾崎喜八
山たちならぶ信濃の国     我は愛すこの国を
春風吹けば鬼つつじ咲く       八ヶ岳の裾野
ここに生まれて、ここに育ち    遠き他国は知らねども
愛す、うるわし我が里
6月29日突然の豪雨。大粒の雹も降りました。
大山レンゲ 花筏 姫かんぞう

令和3年6月27日
初夏の夜空に星が見え始め、流れ星が大きく弧を描いて走っていった。
あの星は、地上に降って蛍になるんだ。
蛍たちは流れ星だったに違いない。
都忘れ ヤマボウシ 赤ヤマボウシ ハクウンボク

令和3年6月20日 小津安二郎     高橋治
小津安二郎の墓は鎌倉の円覚寺にあって、道中の紫陽花が美しい。
碑はただ一字”無”。
小津には妻も子もなかった。だが、墓に香華の絶えたことがない。
それだけ死後も多くの人をひきつけて離さないということだろう。
   誰もゐぬ 紫陽花浄土 雨けぶる         古賀まりこ

令和3年6月13日 夕べに散る     出久根達郎
二年前の六月十五日、私は一人で鎌倉の明月院にアジサイを見に出かけた。
私の目の前を、相当の老女が一人で歩いていく。
毎年、この季節に、ここに来るが、年々少しずつ足が弱っていくのがわかる、と大息をついた。
彼女は数年前、自分の臓器を医療機関に寄付した、と語った。何か世の中の役に立ちたくて、けれども自分は無能無芸の人間である。どうせ老い先短い、それで決心をした。自分は今年八十三になる、と笑った。
見上げるような高木があった。足もとに、淡黄色の小さな椿の花がこぼれていた。
「沙羅双樹ですよ。日本では夏椿とよんでいます。朝咲いて夕べには散るはかない花です。私はこれが見たくて毎年ここに来るんです。 
     沙羅双樹しろき花ちる夕風に人の子おもふ凡下のこころ     与謝野晶子の歌です。
私は早く人のお役に立ちたいと願っているのに、なかなか散れなくて、この花は私の理想なの」
はにかんだように笑った。
足もとの花のように可憐な笑顔だった。
黄レンゲツツジ 九輪草 レンゲツツジ

令和3年6月6日 山田風太郎
相当以上に豊かな人はさておいて、死を前にした人間を悩ませるものに、甚だ俗世間的だが、入院費の問題があると思われる。
私はかって、
「人は老衰しても、生きるには金がかかる。---人間の喜劇。
人は老衰しても、死ぬには苦しみがある。---人間の悲劇
というアフォリズムを考え出したが、人は多く 「死ぬにも金がかかる」 悲喜劇を味わわねばならない。

それから、死の近づいた人間を以外にも苦しめるのが排泄物の始末だ。
多くの人が、這いずっても自分の力でトイレにゆこうとする。
佐藤紅緑などは、便器をさし入れようとすると、「無礼者!」と、叫んだ。
人間が精神的動物でもあることの何よりの証である。
その死力が尽きて看護者のなすがままになったときがすなわち彼の死ぬときである。
今年は蕨の当たり年、庭で採れるのは私たちが頂き、裏山で採れた蕨は親せきに届けます。

令和3年5月30日 禿げる
若いころ、馬のようにご飯を食っていた私は、いま禿げ始めている。
額の両側から禿げると、昔観たTVドラマ 「逃亡者」 のデビット・ジャンセンみたいである。
それは決して戻らない年月を振り返って、ひりつくほどの切なさである。
森の小屋に来ると、身体が不意に軽くなる。
空気の成分が変わりでもするのか。

  「楽しみは 春の桜に秋の月 夫婦なかよく三度食う飯」
TVドラマ 「逃亡者」のナレーションは睦五郎だったと思う ?
「リチャードキンブル職業医師。正しかるべき正義も時として目しいることがある。彼は身に覚えのない妻殺しの罪で死刑を宣告され・・・・・」
デビット・ジャンセンはかっこいい男でした。
タラの芽 野生のアスパラ 山ウド 松ぽっくりを炭化

令和3年5月23日 山の道
山道を行くと、桜はとうに散り敷いたが、晩春というにはまだ春の気配があまりに濃厚で、道端にタンポポ、水仙。
森の小屋は、私の気持ちを浮き立たせる何かを持っている。
爽やかな緑、やまぶき、つつじ。
生きていてよかったと思わせる明るい雰囲気、この時期、花に合わせて私の心もわき立つのである。
霧がどこからか湧き出して、ついいましがたまで、目の中に写っていた風景が、消え失せている。
私はベランダに立ちつくし、時の過行くままに任せた。
麓よりひと月遅れで桜が咲きました。
十月桜 御殿場桜 三つ葉ツツジ 白三つ葉ツツジ
血潮もみじ ドウダン 山シャクヤク アズマシャクナゲ

令和3年5月16日 明かり
梅や、あせび、白萩など、白い花は夕暮れのうす紫に白く浮きたつ。
赤い花は黒ずみ、しずむ。
満開の夕桜のさびしくも艶な花明かりは幻想的である。
香りらしい匂いのない桜なのに、いい匂いがしてきそうだ。
冨士桜 エンレイソウ レンギョウ あせび

令和3年5月9日 母の日    出久根達郎
今年の母の日、亡き母が達者だったら九十二歳なんだな、と思った。
生きていたころ、毎年この日に、「何か贈るよ。何がいい?」と聞くと、「金がいい」と答えていた。
「花は役に立たない。金が一番」と言った。
息子はあまりにも夢のない返事に鼻白んだものだが、母親には長い人生で得た確実な教訓だったのだろう、と今になると理解できる。
雉とリスが庭にいました。小鳥は山鳩・シジュウカラとメジロ?が窓の外の紅葉の木に毎日来ます。
それに啄木鳥の穴を開ける音、とウグイスが鳴いています。
1日と3日4日は夏日なのに、2日は雪が降りました。標高1300m付近までは雨だったようです。
雪の八ヶ岳では遭難がありました。収穫忘れのシイタケがお化けになりました。

令和3年5月5日 先祖と子孫     三浦朱門
子供が年老いた親を疎んずる気持ちはある意味では自然である。
人の死は突然にやってくるのではない。肉体と精神の両面から人は徐々に死んでいく。
肉体の老化という形の緩慢な死は誰の目にも見えるが、精神の部分はなかなか見えにくい。
しかしある時、子は自分の親が、かってのような人格ではないのを知る。しかし時には、子が知っている親の精神の片鱗を示す言動を見せるのが悲しい。そして、彼らはかっては自分の親であった人であるにすぎないのだ。
関西に住む息子たちは、生活に忙しくてなかなか海の見える墓に来る時間がない。
私たち夫婦が死んで十年もたつと、訪れる人もなくなり、孫が生きている間はまだしも、やがては完全に忘れ去られ、遺族のない墓として処理されるのだ。
人の生よりも死のほうが遥かにはかないのではないだろうか。

令和3年5月4日 山桜
  山桜 今日をかぎりと散り敷て 春雨けむる山小屋の庭
  七十路越え することもなく 花に凝る

しばらくすると、星が出てきた。大きく瞬く星を見ていると、空がぐっと近く感じられる。

令和3年5月3日 森の小人たち
フィンランド人は、自分たちのことを「今し方森から出て来たばかりの民族」と言う。
国のおよそ七割が森林地帯というフィンランドでは、人々は森の存在をどのように考えているんだろう。
フィンランド人は森の人だ。森の静けさ、小鳥のさえずりが彼らの心を安らかにする。
レーナが言っていた。
「日本の男の人をうちの夏の家に招待したんだけど、全然私たちと一緒に楽しもうとしないのよ。
湖のそばで日光浴しようって誘っても、森を散歩しようってさそっても、ちっとも部屋から出てこないの。
彼は『日本人は自然を愛してる』って何度も言うんだけど、日本人が自然を愛してるってどういうことなの?」
返事に困る。たしかに日本人は自然を愛しているのだが・・・・・どうやって愛しているのかと言われても、なかなか答えにくい。
「日本人は自然を愛していた」と言った方がふさわしいのだろうか。

令和3年5月2日
木は一本の木を意味することは間違いない。木が集まると林になり、森になる。しかし、林と森はどう違うかとなると、返答に困る。
林よりもっとたくさん木が集まったものが森だろうか。
また、平地の森林が林で、山地の森林が森ともいう。
一般的には、林は明るく、森はうっそうとしている。
ジャングルは漢字でどう書くか、木を四つ書く、木偏に森と書く。
ジャングルは密林というイメージがそんな字を作らせる。

令和3年4月25日 一生の歌       本川達雄
1. ゾウさんも
 ネコさんも ネズミも 心臓は
 ドッキン ドッキン ドッキンと
 二十億回 打って止まる
2. ウグイスも
  カラス トンビに ツル ダチョウ
  スゥハァ スゥハァ スゥハァ と
  息を 三億回 吸って終わる
3. けものなら
  みんな変わらず 一生に
  一キログラムの 体重あたり
  十五億ジュール 消費する

令和3年4月18日 森の小屋
あなたの一番大切なものはなに。
家族など大切な人ならすぐ答えられるが、モノと言われると悩む。
冗談にもお金という人は一人もいないだろう。
世の中にたくさんいる、淋しいお金持ちなんかになりたくない。
人との出会いが、人々のそれからの人生を左右すること様な事もある。
森の小屋では、時計の針がゆっくり進む。
雨の後は霧が出ます。

令和3年4月11日
 一重づつ 一重づつ散れ 八重桜         正岡子規
 風に落つ 楊貴妃桜 房のまま           杉田久女

耳を澄ましてみると、風の音が昨日までと違う、さわさわざーっと吹き上げてくる感じなのである。
もう春、春、春、春爛漫。

令和3年4月4日 桜を守った短歌
1984年福岡市の道路拡幅工事で桜の木が伐採されることになります。住民の一人は和歌を枝につるしました。
  花あわれ せめてあと二旬 ついの開花をゆるし給え・・    花の咲くまであと20日伐採を待ってください
市長は返歌を木の枝につるします。
  花おしむ 大和心はうるしや とわに匂わん 花のこころは・・    桜を思う大和心は美しい、この花は永遠に残したいものです
このことは多くの人の心を動かします。そして、工事は変更され、桜の木を切らず、小さな公園となります。
この桜は桧原桜と呼ばれ、今でも春には美しい花を咲かせます。
住民に感謝をするように。

令和3年3月28日 春一番
庭の木に鳴る風の音が、ひときわ高い。突風のような風が吹いている。
寒い冬を越して春一番が吹くと、この風の音も、久方ぶりの木と木の会話のように聞こえる。
遅い春の木の芽の勢いは、音をたてているほどだ。

かぎりあれば
吹かねど花は散るものを
心みじかき春の山風
      蒲生氏郷の辞世
フキノトウ

令和3年3月21日 山吹の里伝説
 七重八重花はさけども山吹の
   実のひとつだになきぞ悲しき
八重咲きの山吹は、実がならない。私の家は貧しくて、お貸しできるようなミノ一つさえありません。と娘は山吹の枝に思いをこめた。
それをさとらなかった太田道灌はおのれの不風流を恥じ、和歌の道に志したというのが、山吹の里伝説。
この話は江戸時代ひろく知られたとみえ、歌のバリエーションがたくさんある。
「山吹の はな紙ばかり金入れに みの一つだに無きぞ悲しき」 昔、小判は山吹色をしていた。
「ななへやへ へをこきいでの山吹の 実のひとつだに出ぬぞ清けれ」 こちらの山吹は少々臭い。
「世の中は いつも月夜に米の飯 さてまた申し金のほしさよ」  南畝
一見枯れたように見える落葉樹の枝々にも、もう春の兆しをはっきり感じさせる芽ざしが小さく強く芽吹いているのに胸がときめく。

令和3年3月14日 お水取りの椿      白洲正子
東大寺二月堂のお水取りでは、本尊の前に椿の造り花を供える。
これは別火坊に籠った坊さん達が、精進潔斎をして造るが、タラの木のガクに、紅白の花びらをあしらった造型は実に単純明快で美しい。
毎年、お水取りの頃になると、良弁堂の傍らに、この椿と同じ花が咲く。
一般には、「東大寺椿」とか、「良弁椿」などと呼ばれているが、品種は「糊こぼし」で、深紅の花弁に白い斑点が、糊で伏せたように現れるのが見事である。
そんな椿が天平時代にあったかどうか知る由もないが、春に先駆けて咲く花として、いつ頃かお水取りには欠かせぬものとなったのであろう。
この椿は、東大寺・開山堂の庭に咲く、赤い花に白い斑点が入る「糊こぼし」と呼ばれるものを模しています。開山の良弁僧正を祀るため、別名「良弁椿」とも呼ばれ、白亳寺・五色椿、伝香寺・散り椿とともに「奈良三銘椿」の一つに数えられています。

令和3年3月11日 津波
先日TVで、東北の津波の犠牲者にオーストラリアの人々が祈りを捧げている放送を見ました。
外国の首脳として最初に福島に来たのがオーストラリアの首相だったとか。
過去に戦火を交えた国なのに素晴らしい国民です。
また、東北の人々に募金を贈ってくれた金額の最多(金額の多寡ではないがそれでも)は台湾だった。過去に占領していた国なのにです。
それに対して、ある国は、北海道を占拠しようと軍隊を待機させたり、またある国は沖縄を占領しようと検討した国もあります。
一番隣の国では天罰だ、良かったといっていました。
そもそも七十年以上も前になることを持ち出して来て、その非をなじるとか、金銭的補償を要求するとかいうことは、もしこれが個人の行為だったらまともな人間のすることではない。
七十年以上も前になることを謝れというのもおかしなことだが、金銭的補償をせよというのは、これはもう金目当ての行為というほかない。

3.11が来ると思い出します。

令和3年3月7日
長い冬が終わると春が来る。雪の下から福寿草の黄色い花が頭を太陽にのぞかせ、春の訪れを知らせる。
春はその固い蕾を解き、真っ赤な、また真っ白な花を咲かせる。
一口に花といっても二種類ある。つまり草に咲く花と、木に咲く花である。
草に咲く花は女性的だ。絢爛と咲く花に対し、茎は花をかろうじて支えているだけで立っている。
木の花は、花よりも幹のほうが主体をなしている。幹をすっくとのばし、枝を配して、それに花を咲かせている。
木があってその枝ののびる方向に絢爛とした花が咲く、幹と花とが合一して一つのものとして花が咲くのである。
紅万作

令和3年2月28日 気予報
森の小屋に住んで、いちばん熱心に見ているテレビ番組は天気予報。
年齢のせいか環境の変化か、天気予報は元気予報と思っている。
山のあいさつは「今日は晴れて庭仕事ができる」「雨で庭に出られませんね」など。
人間、欲のあるうちが花だというが、事実無欲の塊は淋しすぎる。
    時おりは怒ったように春の風     土茶

令和3年2月21日 フキノトウ
フキノトウは、なんといっても春一番の山菜だ。
極寒の最中でも、めぐみのような穏やかな日差しが続くと、凍てついた地表を割り、フキノトウが頭をのぞかせる。
我が家では正月に少し採れる。晩酌の肴に三杯酢にする。鼻を抜ける土の香りと、舌に広がる苦味はかなりのもの。
フキノトウは子供のころ見向きもしなかった食べ物だが、身体の底に沈殿した冬の間の悪い夢の欠片を、この苦味が溶解してくれる。

令和3年2月14日 椿
椿落ちて きのふの雨をこぼしけり      蕪村
寂として 椿の花の落る音           杜國
今年も雪は少ない。
道路に雪はありません。庭の雪は十センチです。

令和3年2月7日 立春
立春とはいえ2月3日の森の小屋はまだ厳戒期です。暦のうえの季節は実際に私たちが身体で感じるよりおよそ一か月早いようです。
まだ冬木立のままの庭は気温が低く、風も冷たく、雪は相変わらず根気よく降っている。
風が吹き出すと、三日四日と続くことは稀ではない。
動植物の多くが仮死の冬眠についているこの庭は今、太い骨になって眠っている。


冬季の休眠芽はよく目立ち、これは冬芽(とうが、ふゆめ)と呼びます。
芽はその中にどんなものを含むかによって花芽と葉芽と混芽に分けられます。
花芽は「かが」とも「はなめ」とも読みますが、葉芽は「ようが」であって「はめ」とは読みません。

令和3年1月31日 風     高橋治
  (あし)原の日に日に折れて流れけり     蘭更

・・・・・流れ去るのは、理想なのか矜持なのか。そして荒涼たる蘆原だけが水辺に残り、痛恨と諦観の風が渡る。
思えば、自分自身が青々と繁り、河原を埋めていた頃の蘆に比すべき身では、日々、折れ、枯れ、朽ちるものが、吾と吾が身に切実極まる現実として起きることなど、夢想も出来なかった。漠然と、切れかかる人生の時間を前にすれば、そのような心境もあり得るのかなという程度の理解があっただけである。
挫折が重なる。目標が遠ざかる。自分自身の持つ能力の限界が見えてくる。頼みだったチャンスも先方から自分だけは避けて通る。そうしたことが次々にわが身を訪れて来る時、蘆の原には、既に秋色が忍び寄っているのだ。
自然界の蘆の原なら、その頃はもう凍りついた土の下で芽吹きの序奏が始まっている。
だが、一期の人生では、春の再生が訪れることはない。

令和3年1月24日 鷹女
   遠景に枯木華やぐ急ぐなよ    三橋鷹女
現実の年齢に敗けず、心の若さを保ち続けた鷹女。

令和3年1月17日 粋    森繁久彌
フィリピンの大将がテキサスで講演した。この大将は何とも小柄な人で、大男のテキサス人の中では子供みたいだったそうだ。
壇上に上がると場内がざわめいた。その時、この大将は、やおらポケットからコインを二つ出した。
「大きいのは五セントです。小さいのは十セント。大きい五セントはニッケルで小さな十セントは何と、銀である」
これがスピーチの始まりであった。
相撲がメキシコを訪れたとき、大統領は「日本が塩を沢山買って下さるのが、相撲を見て分かりました」とシャレて、大喝采を受けた。
日本人の多くは、「この度、貴国を訪れて大きな歓迎をうけ、身に余る幸せです・・・・・。」
これが長い、聞く人がいつ素晴らしいユーモアが出るかと待ち構えているのに一言もない。これでは落第である。
しかも、その原稿を一心不乱に読んで、一度も聴衆を見なかったなど、彼らにとってはあきれるより、ナンセンスだろう。

令和3年1月10日 玉川学園の歌     岡田陽作詩
ちいさいはな はこべの花
お母さんの 花
きよらに そっとさいて
いつも やさしく 笑(え)まう花
ちいさいはな はこべの花
お母さんの 花

令和3年1月5日 川の流れのように    秋元康
知らず知らず 歩いてきた 細く長い この道
振り返れば 遥か遠く 故郷(ふるさと)が見える
でこぼこ道や 曲がりくねった道 地図さえない それもまた人生
ああ 川の流れのように ゆるやかに いくつも 時代は過ぎて
ああ 川の流れのように とめどなく 空が黄昏(たそがれ)に 染まるだけ

生きることは 旅すること 終わりのない この道
愛する人 そばに連れて 夢 探しながら
雨に降られて ぬかるんだ道でも いつかは また 晴れる日が来るから
ああ 川の流れのように おだやかに この身を まかせていたい
ああ 川の流れのように 移り行く 季節 雪どけを待ちながら

令和3年1月4日 本日はお日柄もよく  原田マハ
北原正子さん。「リスニングボランティア」の草分け的存在で、お年寄りの話を聞いてあげる活動を、もう十年もしている。
「黙って聞く、という行為は、その人のことを決して否定せずに受け止める、ということなの。
お年寄りになると話がくどくなったり、同じことを繰り返してしまったりするでしょ。
話したくても、うとまれてしまうのね。何も求めているわけじゃない、ただ話したいだけなのにね」
「北原さんからは、ひと言も、何もおっしゃらないんですか」 久美さんが訊くと、
「いいえ、何もかも聞いて、最後にひと言だけ、言わせていただくの。悲しい話なら『大変でしたね』、明るい話なら『すてきですね』って。
私ね、大学で臨床心理学の教鞭をとっているの。
四十代くらいまでは、仕事が面白くて、とんとん拍子に出世して、大学教授っていう自分の立場にふんぞり返って・・・・・たったひとりで私を育ててくれた母が寝たきりになっても、施設に預けたきり、忙しいのを理由に、ちっとも会いにいかなかったし、話も聞いてやらなかった」
北原さんのお母さんはそれでも娘を思いやって、自分から「会いたい」と連絡することもなかったそうだ。
そんな母の思いやりに、北原さんは甘えてしまったという。
自分がいなくても、母は大丈夫にきまっている。なぜだか、そんなふうに都合よく思い込んで、
ところが、母娘のあいだに会話らしい会話もないまま、ある日突然、お母さんは逝ってしまった。
遺品の中に、古ぼけた手帳があった。娘が通った名門女子高の学生手帳。
表紙をめくると現れる十八歳の娘の写真は、涙でごわごわになっていた。
手帳の一ページに、遺書があった。
  生まれ変わってもまたあなたのお母さんになりたい
  今度はいっぱいお話をしましょうね

令和3年1月3日 本日はお日柄もよく  原田マハ
司会者の声が響いた。
「新郎の知人で、新郎が大変尊敬される『言葉のプロフェッショナル』久遠久美様です。久遠様、よろしくお願いいたします」
「新郎のご両親は、残念ながら、一昨年、昨年と、この日を待たずに他界されました。私は縁あって、新郎のお父上、衆議院義員、今川篤朗先生と懇意にさせていただいておりました」そう聞いて、私は急に納得した。この人は今川のおじさんの関係者だったんだ。
「奥様を亡くされた先生に、生前一度だけ、失礼を承知でうかがったことがあります」
『ご結婚されて、一番良かったことは何でしたか?』
先生は、あの独特のシブい声で、それでもたまらなくお優しい口調でおっしゃいました。
『深いうまみのある人生を、あいつと一緒に味わえたことかな』 そして、こうもおっしゃいました。
「一度、厚志にも言ってやらなくちゃな、ときにしょっぱくても苦くても、人生最後のほうで、一番甘いのが、結婚なんだ。お前もさっさと体験してみろ、いいもんだぞ、って」会場が、しんとなった。厚志君は、じっと前を見据えている。その目が、ほんのりとうるんでいるのがわかる。
「はたしてお父様が、厚志君にその言葉を伝えたかどうか、私にはわかりません。けれどこうして、いっぱいの愛情と豊かな人生を分かち合うために、厚志君は恵里さんとともに、ここに座っている。お父様に代わって申し上げたいのです。
『どうだ厚志、結婚ってなかなかいいもんだろう?』 あたたかな笑い声が起こる。
「お父様も愛されたフランスの作家、ジョルジュ・サンドが言いました。あのショパンを生涯、苦しみながらも愛し続けた彼女の言葉です」
『愛せよ。人生において、よきものはそれだけである』。
「本日はお日柄もよく、心温かな人々に見守られ、いまからふたりで歩んで行ってください、たった一つの、よきもののために」
おめでとう。
最後の言葉が彼女の口から離れた瞬間、あたたかな、実にあたたかな拍手が、会場を埋め尽くした。

令和3年1月2日 加門七海
正月の神仏詣での一つに、七福神があります。何を隠そう、我が家も毎年、七福神詣でをしている。
ゆえに私は正月は旅行や遠出が出来ないのである。私の行く七福神のコースでは、ご神体(七福神サマ人形だ)を宝船に乗っけてくれる。
この宝船だが、絵にしたものも売っていて、昔は初夢を見る晩に、この絵を枕の下に敷いて寝たという。いい夢を見るための呪いだ。
が、実はこれ、ただ枕の下に敷いたんじゃダメ。夢見のための呪文があるのだ。
やり方は簡単。枕の下に宝船の絵を敷いて、以下の呪文を唱えるのである。
「長き夜の遠の眠りの皆目覚め、波乗り船の音の良きかな」 そして枕を三回、ポンポンと叩いて、パッと寝る。
この呪文、濁音を静音に直して読むと、上から読んでも下から読んでも同じになるというもので、いわゆる回文である。
これは一種、終わりのない文章とみなされて、魔の侵入を防ぐ機能を持つという。
熊棚

令和3年1月1日 元旦
   好きなもの 古いお酒と古い寺
      薪窯焚きと雪の信州八ヶ岳

森の家で迎える雪の朝。
「財産も何も残すもののない我々が、生きた証として子供に残しておくものはこの庭だよね」
妻と共に築いてきた人生の一区切りを、水墨画のような庭を見ながら満足感にじっくりと浸った。

月並みだが人生は短く儚い。
森の家は、これからの人生を生きるための勇気と知恵を授けてくれる場所です。
   そばリンゴそれに空気がおいしいな  永六輔

また一つ年を重ねました。
 新年おめでとう。